2008年07月05日

1089 C調の持つ偉大さ〜岡井隆の魅力〜

 最近、短歌総合誌の連載が面白い。角川「短歌」の「語る短歌誌」も面白いが、「歌壇」の三枝昂之「あたらしい啄木」がめちゃくちゃいい。僕は、総合誌の熱心の読者とは言えないが、本阿弥書店はぜひこれを単行本化してほしい。少々高くても買う。あ、そうだ、同誌、河野裕子の「私の出会ったひとびと」も面白い。これもぜひ本にしちただきたい。作品論もいいが、歌人一人一人の私的個性が浮かび上がってくるような評伝がもっともっとたくさん著されるべきだと思うのである。なんのかんのと言っても、短歌の魅力を支えるのは、作者の私性なのである。テキスト主義なんぞクソ喰らえ。と僕が言うまでもなく、近頃そんなもの有り難がっているのはほんのひと握りの往生際の悪い連中であり、おおかたは、結局短歌という詩形の詩的悲劇性に回帰したいのは明らかである。
「語る短歌史」なんてもう、岡井隆のC調ぶり(純然たるホメ言葉である)が最高である。歌壇の植木等、と言って過言ではないだろう。植木はあれで、僧侶の息子でくそ真面目な人物で、キャラクターと自分との葛藤に悩んだらしいが、岡井は天然のC調(しつこく言うがホメ言葉である)であり、それが才能の才能たるゆえんだろう。天才、という言葉をあえて使わないのは、彼が、本人の感じ方はどうあれ、幸せ者だと思うからである。天才というのは宿命的に幸福ではありえない。だってよー、医者で、ゲバルトでたたきのめされもせず、前衛短歌の旗手で、おまけに(本人は災いだと思ってるかもしれんがふざけんな)女にモテモテで、逃避行した先でも、個人医院を開くか病院に勤めるかと苦悩し(その能天気さに俺は大爆笑した)、さらに、中央歌壇から戻ってこい戻ってこいと呼ばれ続け………どどどどど、どこが苦労じゃ(爆)。しかも、左巻き歌人で売ったくせにしれっとして宮中歌会の選者に就任する。諸君、これをC調を言わずになんと表現するのだ。三度めになるがこれはホメ言葉である。宮中歌会に関しては批判した歌人も多かったそうだが、俺は、「面白い人だなあ」と思った。数年前のフランス内閣には、アナーキストで知られた文学者がいて、しれっとして大臣をやっていた。しかも自分の主張は変えずにである。そういう偉大なるC調さこそが、創作者の図太さというものだろう。岡井という人は、精神が根本的に強いのだ。妹さんの自殺を題材に多く詠まれているが、その作品からは、ただ傷ついた肉親の感傷ではなく、それをネタとして消化し昇華してしまう歌人のふてぶてしさを感じた。
 短歌マラソンで舞台上の岡井氏を見たとき、僕は「ああこの人は100%役者だ」と思った。この人は、芝居の道に進んでも成功したと思う。いい男であり、声がめちゃくちゃいい。新劇俳優の高橋昌也を連想した。ちなみに高橋氏は、性に悶える若尾文子の夫役として「悶え」(映画です)に出演した人であり、奇遇なことに、医大中退である。今の軟弱な若手歌人は、岡井隆のふてぶてしさを見習うべきである。首尾一貫にこだわるような奴はすぐに、風の中のコーモリ傘みたいに折れてしまうのである。偉大なるC調歌人、それが岡井隆の本質である。
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:21| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記

2008年07月04日

1088 タスポ殺人事件、ってか?

 昨日の日記について補足。僕は、決して風俗嬢を見下しているわけではない。ただ、女優を目指す人間が、自分の肉体性をそんな所で消費してはいけないということである。歌舞伎町火事の被害者女性は、女優という職業をなめていたか、もしくは、本気で本当の女優(スターとは限らない)を目指していたとは思えないのである。僕は、死者を鞭打つべきでないとは思わない。

 今日、煙草を買おうとしたら、俺の前に買おうしたおっさんが、自販機の言う「タスポでタッチしてください」という台詞に対して、一生懸命手でタッチしているのである。「なんだよお」とつぶやきながら。見かねて俺が、「これは、カードがないと買えないんですよ」と教えてやったら、「ふざけんじゃねえよこの野郎!」と怒ってどっかへ行ってしまった。現在、喫煙者のタスポ普及率はわずか、四人の一人だそうだ。浸透しとらんなあ。近くのコンビニがたばこ販売許可をとってないので、俺は泣く泣く、厚生省に激怒しながらも他スポを申請し、先日手に入れた。
 これからコンビニが、なだれを売ってタバコ販売許可を得ようとするだろうな。実際、コンビニにおける売り上げが、タバコによる収入によって上がっていると経済ニュースで言っていた。ということは、おかしなことになる。政府は、未成年者に買わせないという建前と、タバコのみは絶対カードを入手せざるをえまいという皮算用でタスポなどという制度を導入したが、これでかえって自販機によるタバコ販売ががた落ちになるということではないか。となれば、このカードになんの意味があるのだ。そして、僕が怖いと思うのは、コンビニにおけるタバコの売り切れ、という自体も杞憂ではないということだ。夜中にタバコが吸いたくなったときの人間の渇望について僕はよく知っている。それは麻薬患者のそれと変わりない。例えば、作家の原田宗典は、夜中、タバコはあるがライターもマッチもないという事態に陥り、隣町の友達のとこまで歩いて火を借りに行ったそうである。
俺にもまったく同じ経験がある。タスポを貸す貸さないで殺人事件が起きてもおかしくないと俺は思う。なぜなら、それは麻薬であるからだ。「麻薬だからやめろと言うのだ」と、嫌煙家は言うかもしれないが、それは依存症の激しさも人間の精神構造も何も知らん者の言い草である。煙草の禁断症状たるものすさまじく、俺はかつて夜中にあばれて妻を泣かせたことがあるらしいがおぼえておらん。結局遠くのコンビニまで買いに行かせたらしいが。
 しかし、ふざけた制度を作ったものだ。青少年を煙草の害悪から守るだと?ふざけんな!それだったら、小売店でもタスポがなければ買えないようにするのが理屈ではないか。要するに、カード会社と政府の癒着であるに過ぎない。それも、一時的な儲けであり、長期的にはマイナスになるだろう。日本という国は、目先の利益ばかり追求し、全く合理性というものを持っていない。だから、税金の無駄遣いである、独立行政法人を潰せない。こいつらのやることなすこと、国民にとってのマイナスばかりである。日本は、偽善国家である。
 「オマエの言ってるのは麻薬患者の言い訳だ」というような意見並びにコメントは禁止いたします。
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2008年07月02日

1087 6月月間ランキング〜夢の押し売り〜

 ブログ開設1251日目。総アクセス数、939636、総訪問者数、167777人。

      6月月間ランキングベスト10

 1位  1日「絶好調『語る短歌史』〜無冠の帝王〜」2998
 2位  6日「『人妻集団暴行致死事件』」1811
 3位 26日「高瀬賞発表〜砺波湊さんについて〜」1694
 4位  3日「リタリンとタリバン」1415
 5位 19日「啄木と英雄〜俺はオレだ!〜」1401
 6位 29日「ライスシャワーとロックドウカンブ〜結社誌を読むということ。〜」1297
 7位 25日「老人の迷走」1296
 8位 23日「『塔』6月号『陽の当たらない名歌選』2〜カンオケのサイズ〜」1148
 9位  8日「1万円負ければ一首」1103
10位 21日「雨だザレマだ馬力勝負だ〜マーメイドS(GV)荒れるぞ〜」1193

 6月のアクセス数は、25482、訪問者数は、4112人でした。

 今、日本国内の文化財への落書きが多発しているらしい。文化財の橋や建物に「山田参上」とか書いたり、ヒドイ場合には掘り込んだりするのだそうだ。こういうことする連中は、このことに達成感を感じているらしい。こいつらには、たとえばヒッピーが国旗を焼くとか、そういう権威への反抗とかそういう志さえない。単なるバカである。殺してよろしい。
 某SM○Pの大ヒット曲、「世界に一つだけのなんとか」。反吐が出るような曲であり、コンビニでかかるたびに耳をおさえて逃げたものである。およそ、ヒット曲なるもの、イージーで無内容で無根拠な人生応援歌が多すぎる。バカどもが「そうか私(俺)は世界でひとつだけの花なんどうわ」とお星目になって、自分探しとか、ありもしない才能探しにはまりこむ原因の一端ではないのか。よいか。なべてものごとの90%はクズであるという法則があるが、残りの10%のうち、さらに10分の1の1%にしか、才能というものはない。なのに、メディアもマスコミも、夢を持て、明日を信じろ、オマエは唯一無二の存在だ、などとうるせえったらありゃしねえ。名もなく貧しく地味に生きること、それこそが今や稀有な、有意義な生き方なのである。そう思っていれば少なくとも、「誰も相手にしてくれんのなら誰でもいいからコロス」などという殺人事件は起きないであろう。誰も相手にしてくれないなら、誰にも相手にされない人生を粛々と生きるがよろしい。
 ところで、話はがらっと変わるようで変わらないが、うちの近所の歌舞伎町のビル、ありていに言って風俗ビルで数年前火事があり、客と風俗嬢が多数焼け死んだという事件があった。被害者のことは、気の毒だと思う。んがなー、賠償を求めてビル所有者の責任を問うていた被害者遺族が、その風俗嬢の娘さんのことをだな、「女優を目指してバイトしながら前向きに頑張っていた子だったのに」とコメントしているが、違うだろう!!!!!!オマエなー、女優を目指すはいいが、なんでそのためにちち丸出しでパンツ脱いで男の膝に乗っからなくてはならんのだ。女優をバカにしとるのか?コンビニでも、銀座のホステスでもいいではないか。たいていの女優志願者は実入りの悪いバイトでがんばっている。なんでこの娘さんは、そんな安直で払いのいいバイトをしてたのか。俺は、その時点で彼女の女優根性を信じない。二百歩譲って、プロデューサーやディレクターに枕営業をしてる女優、これはまだ許せる。こういうのはすでに女を捨ててるのである。んが、歌舞伎町で花びら大回転しながら研究所通い?俺はそんなのは、「がんばってる」の内に入るとは思わない。遺族も遺族だ。ビル所有者の責任は明らかだが、それにしたって俺だったら恥ずかしくて訴訟なんか起こせないだろう。ましてや、「がんばり屋さんでした」なんぞとコメントするとは、恥の感覚がどうにかなっとるのではないだろうか。すまん、俺は、死者だからといってすべて尊厳があるとは認めない。嫌いな奴が死んだら嫌いな奴が死んだと思うだけだし、売春婦が死んだら売春婦が死んだと思うだけである。女優を目指すやつが風俗なんぞに足を踏み入れてはダメである。なぜなら、役者というのは魂の芸術家であり、女優の魂というのはたやすく汚れやすいものだからだ。バイトで身を売るような女にまともな演技や歌や踊りができるとはとても思えない。
 とにかく、「夢を持て」という押し売りが多すぎる。名もなく、貧しく生きることが今は大事なのだ。人間の99%は凡人。そのことをよーく噛みしめて人は生きるべし。特別な人間は確かにいる。だが、それは本当に本当のひと握りでしかないのである。
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2008年07月01日

1086 冬のスピッツ

      冬のスピッツ 黒田英雄

剥きだしの敵意の視線浴びた日はちびた石鹸(シャボン)でかほを弄る

敵持てる幸を感じて食む鮭の辛さほどよくしやうゆはいらぬ

鈍色の軍艦マンションに見つめられ青信号待ちわれは立つてる

一ドルではなんにも購へぬTOKYOの百円ショップはけふも賑はふ

一ドルは一年なりと覚えたる時代のありき 三百六十五円!

ライスカレー水がとつても旨かつた銀のスプウンカップに立てて

『サンセット77(セブンセブン)』をみをはりて鬱は深しも明日は月曜

東京に聖火灯りしあの日からどの年もただ四桁の数字

わが町で最初に受話器持つ祖母の写れる地方紙母は誇りつ

鄙にては美(は)しきひとやも参観日和服着こなしひとり目立ちぬ

数人のをのこ記憶にあらはれてわが頭(かうべ)撫で葬列に消ゆ

山奥に佇つ一軒家に幸せの原風景あり 生家にあらず

紙芝居読んでくれたる美智子姉(ねえ)の声はやさしもかの日の雷雨(あめ)に

拐ふがに没陽は紅し泣き泣きての甃(いしみち)の頂跨ぎゆくとき

タケダタケダタケダタケダタケダタケダタケダターケーダーの昏き夕餉

いつとだに知れぬ幼日陰画(ネガ)として小倉の城は愴然と佇つ

逆上がりショートパンツ運動場(グランド)の本間千代子の白がふうはり

女学生涼しき襟元直(す)ぐな喉影だに落ちぬその歩みかな

原稿用紙におほきく本間千代子と書く泣きたくなるよなながあい夜に

愛し合うには早過ぎてと口遊む死んでしまふには遅すぎる俺

六十歳(ろくじふ)の本間千代子に信濃路で出遇へる気がした冬のスピッツ

杳き日の五輪の聖火の梯(かけはし)と顕ちたる女優(ひと)のあつき黒髪

奈良漬をぶぶ漬けで流し夕餉終ふ真闇の消えて久しきものかは
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2008年06月29日

1085 ライスシャワーとロックドウカンブ〜結社誌を読むということ。〜

 宝塚記念は、雨の中の激戦だった。軸馬、ロックドウカンブがまた負けた。彼には、三回賭けて三度負けたが、なんの恨みもない。故障発生したみたいだ。必死に走った馬に俺は賭けた、それで十分。結果は問わん。ロックは重傷みたいだな。宝塚ではかつて、名馬ライスシャワーも故障を発生した。僕は今でもあのビデオの映像が忘れられない。びっこを引きながら、落馬した的場のそばに寄り添い、騎手を気遣っていた。涙なくしては見られない光景だった。ライスは予後不良となった。的場は、その遺体を前に号泣したと新聞の一面に載った。騎手も馬も、命がけでやっているのだ。騎手にとって、馬は戦友である。だから、競馬は単なるギャンブルではないのだ。ただ、馬の故障は見たくない。とても暗い気分になる。名馬サイレンススズカの故障もリアルタイムで見ていたので辛かった。名猫、茶トラのみんくが死んだのはその数日後である。悲しい秋ではあった。

 久々に、「塔」のバックナンバーを開く。多くの人が、結社を去って行ったんだなあとつくづく思った。僕の持っているのは2003年からだが、それからずっと休まず出詠し続けている人を僕は偉いと思う。一首選とかで取り上げられたりしない限り、作歌というのは暗闇に向かってボールを投げ続けるような営為である。なんの反応も返ってこないのに出詠し続けられるというのが、それが歌人としての精神力の証だと僕は思う。また、この歌人にこんな歴史があったのかと、気づかされたことも多かった。結社誌を読むということの楽しさは、歌人の歴史の重みに触れることでもあるのだ。たとえば、2003年6月号で僕が大赤丸をつけたのにこの歌がある。

コネ入社してきた小西と机とか動かしながら掃除機をかける 片山楓子

 とてもユーモラスな歌で、思わず爆笑してしまった。ただ、この作者も、今は住職のもとに嫁いで、それなりのシビアな結婚生活の歌を作っている。結社誌を読むというのはこういうことだろう。詠草に表わされた作者の時の流れを、読み返すという作業によって追って行く、その感慨に醍醐味がある。しかしそれにしても、結社というのは人々が、どこからか来てはいずこともなく去っていく場所である。一定の厚みを維持しているので気がつかないかもしれないが、たとえ山ほど入会しても歌を続けるのはほんの一握り、おおかたは一度も出詠せずに終わり、いい歌を輩出していた人ですら、いつの間にか霧の彼方に消えていたりする。僕は、読み手という存在が、短歌にとって今ほど大事な時代はないと、バックナンバーを見ていてつくづく思った。熱心な読み手のいない結社誌なんて、何の意味もないと痛感したのだ。選者がホメる歌ばかり読むのはやめよう。自分自身の目で見つける、隠れた歌人の存在こそ大切なのだ。宝塚記念を見て、ライスシャワーや、ロックドウカンブ(おそらく予後不良)に思いをいたしつつ、結社的歌壇的な注目を浴びずとも優れた歌人を自ら選び、記憶に残したいと思った次第である。
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:37| Comment(3) | TrackBack(0) | 日記

1084 宝塚に、ロックよ響け!〜宝塚記念、中途半端な雨〜

 先週のマーメイドS、軸馬ザレマの惨敗は、彼女が雨が嫌いだったということらしい。重馬場ならいいが、雨に濡れるのは嫌いらしく、返し馬から不機嫌だったと騎手が証言している。先に言ってよ(泣)。そういう情報こそ先に欲しいのに。馬語がわかったらなあ。
 宝塚記念。いいメンバーだ。ただ、明日も予報は雨。しかも、降水確率40から50という中途半端な雨。振るなら、100%土砂降りとか言ってくれたほうがまだ予想がしやすい。中途半端やなあ〜〜〜。
 人気馬を見よう。一番人気のメイショウサムソン。2ゲートは不利。今、阪神の内ラチは延びない。武はどう乗るか。僕は、メイショウは、差し馬だが、早め追走5、6番手につけない限り危ないと思う。もしも後方待機なら、届かず3着は十分ありえる。11番アサクサキングス。軸はこの馬と考えていたのだが、雨予報でちょっと落とす。多分、4角あたりからロングスパートを決めてくるだろうが、いかにも飛びの大きいこの馬は、 良馬場が絶対条件。ただ、やや重あたりでは、来る可能性は十分である。展開有利。四番、アルナスライン。距離が短すぎる。よって、紐。
 軸は、8番ロックドウカンブ。彼は、1800から2400がベターであり、2200はベストだろう。ローテもいい。雨も大丈夫。と言うより、ロックちゃん、俺はあんたにはずいぶんつぎ込んだぜ(泣)。セントライト記―念の強さでこの馬にほれ込み、次の菊花賞有馬記念と、大金を投入しては負けた(号泣)。休み明けの目黒記念も、ダービーの後だったので賭けなかったが、もしも賭けてたら負けてただろう。3着だった。ここは三度めの正直、俺の直感だが、宝塚はロックが勝つような気がするなあ。8ゲートも絶好の枠。ここなら、外にうまく持ち出せるだろう。言いたかないけど、ロックよ、金返せ!なお、天皇賞春の一着馬が出走しない宝塚記念は、別路線の馬が活躍するという、僕の記憶がある。その意味でもロックには期待する。
 前日予想結論。本線馬連、8−11(2430円)。以下、やや厚めに、2−8、4−8。フラットに、7−8、8−9。穴、1−8。なおこれは、雨の馬場という前提だ。アサクサキングスが馬体減で出てきたら、相当調子がいいと見るべきだ。軸を変えるかもしれない。また、馬場がそんなに悪くないとすれば、14番エアシェイディが浮上してくるし、悪くなれば、5番サクラメガワンダーも浮上してくる。要するに、雨次第だ。競馬をやり始めてから、天気予報ばっかり聞くようになった。いずれにせよ、岩田よ、ぐわんばれ。
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2008年06月26日

1083 高瀬賞発表〜砺波湊さんについて〜

 「短歌人」7月号が届く。高瀬賞受賞の発表があり、受賞作は砺波湊さんの「雑踏の中」である。全く異議はない。毎月秀歌選のために赤丸チェックをつけているうちに、いつも印のつく、彼女の名前は自然とおぼえてしまった。この人は、言葉のセンスがすごくいい。歌がヴィヴィッドである。笹公人氏の短歌サイトの常連だが、笹氏の「念力短歌」の世界に彼女が親和性を持ったということは納得がいく。

飽きられたヒットソングに科せられるオルゴール調アレンジの刑 砺波湊

 これは、「日常の陳腐」というものを見事に語っていて秀逸であり、一連の中で僕が最も好きな歌である。なんの因果かデパートのオルゴール売場なんぞに間違って入ってしまうと(某小田急は三省堂の真下がそうだから困る)、誰かが蓋を開けるのか、「世界でひとつだけのブタの鼻」だの、「へど戦記のテーマ」(タイトルは微妙に変えてあります)なんぞが世にもなさけないアレンジで聞こえてきて思わずその場に崩れ落ちそうなくらい気持ちが悪くなる。これは、音楽にとってまさしくひとつの刑である。ヒットソングにとって大事なのはある程度の陳腐さだが、それがオルゴールという小宇宙に半永久的に閉じこめられることによって目もあてられないことになる。また、同じくデパートでエレクトーンのデモンストレーションなどしとる人、あるいは楽器売場で勝手に鳴ってる電子ピアノ、みなこのようなぶざまをさらしている。妻の持っているカシオトーンなどうっかりボタンを押すと松田聖子のインストが電飾つきで流れ始め、僕はこれ以上に無残で索漠たる音楽というものをほかに思いつかない。とにかく、この作者の歌は生き生きとしていて実感がこもっている。そして、批判力が鋭い。高瀬賞受賞を機に、もっともっと伸びてほしい歌人である。注目している。
 話は変わるが今号、私の歌が、作品月評で長谷川富市氏に、三角点欄で松木秀氏に取り上げていただけた。嬉しいのは、この二氏が選んだのが同じ歌だったということである。かつて私の別な歌が、「塔」の百葉集欄で、河野裕子選で第一席に採られたことがある。その歌と、今回二氏の選んだ歌に共通するのは、疲れ切って、ああもう生きるのはうんざりだと思ったときにできた、即詠であるということだ。「塔」6月号で、古賀公子氏に採っていただいた歌も、温泉に入っているときにできた即詠である。選者及び、会員諸氏が採ってくれる歌は、僕に関して言えば即詠ばかりだ。歌っていうのは、考えて作るより即詠のほうがいいのかな、と思う次第である。ところで、松木氏はもう一首採ってくれているが、それはこのような歌である。

せめて優し死地なからむか凍鶴のさま首垂れて眠る男に 黒田英雄

 松木氏は、この「優し」は「優しき」が文法的に正しいだろうと述べておられる。それはその通りだ。ただ僕は、この動詞に「き」をつけるのが、どうしても嫌だったのだ。「恋はやさし野辺の花よ」という歌があるではないか。これも、文法にこだわるなら「恋はやさしき野辺の花よ」であるべきだろう。が、それでは歌の流れが遮断されてしまう。歌のスピリットのために、文法が犠牲にされることも、ままあっていいのではないだろうか。かの塚本邦雄だってやっている。詳しく言うとボロが出るので言わんが、一例を上げるなら高名な「馬のたましひ」がそうである。どうしても僕は、この歌に「き」を入れたくなかったのである。
 長谷川氏、松木氏が採ってくださった歌を最後にアップして締めとしたい。なお、この歌は、ブログに発表したとき、初句の最後に「!」を入れたが、「短歌人」に投稿する際に添削したものであり、これを決定稿としたい。

眠りたしただひたすらに眠りたし愛知る者は輪廻を乞はぬ 黒田英雄
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:16| Comment(5) | TrackBack(0) | 日記

2008年06月25日

1082 老人の迷走

 77歳の祖父が、一家を惨殺するという事件が起こった。被害者は気の毒だが、僕は、「ああ、起こるべくして起きた事件だな」と思った。動機がわからんというが、動機なんぞシンプルきわまりない。要は、この老人のたまりにたまった憎悪であろう。家族から浴びせられる日常のなにげない言葉、プチ虐待に、この男は何十年と傷ついていたのだ。たとえば、離れに住むこのじいさんのところへ、嫁は自分の子供に対して近寄るなと命じていたという。これだけでもどういう状態だったか想像がつくではないか。以前この日記でも書いたが、バイト先の女の子が、「うちにゾンビみたいなババアがいて、全員でシカトしてやってるんだー」と自慢げに話していた。これが80年代の話である。はっきり言おう。現代において、三世代同居なんつーのはもう無理の皮である。昔の日本で、嫁姑の確執は永遠の課題などと言われつつもこの手の事件がクローズアップされなかったのは、「家」意識が根強く、子供や孫は自己の存続の手段として認識されていたからだろう。「墓を守る」なんぞという、僕にとっては意味不明の言葉が有効であった時代のことである。子や孫も、連綿たる(なんだかよくわからん)ものの末端としての自己認識をきっぱり切り捨てることができず、そういうのが中上健次とか寺山修司とか、土俗的なとこに吸収されていってしまう人間の恐怖や恍惚につながっていたのだろうが諸君、驚くなかれ、「どれだけ振り捨てようとしてもつきまとう地縁血縁」というものが、実はいつの間にかきれいさっぱり消滅していたのである。寺山も地獄(恐山か?)で苦笑していることだろう。要は、自己の存続のためにこらえていられた怒りや憎しみが、もはや、こらえる根拠をなくしてしまったということだ。人が家族を殺さずにすんでいるのは、それが自己愛を継承してくれる相手だと思える間だけである。それが崩壊すれば子供が親を殺しじじいが一家を皆殺しにするのは理の当然である。だからといって、僕は現代を悪い時代だとは全然思わない。戦前の家族制度なんぞ、おぞましいの一言である。こういう事件が起きるのは、家族幻想が中途半端に残っていて、老人を孫子と同居させるなどという虐待が公然と行われていることに原因がある。
 老人たるもの、独居老人が当たり前である。アメリカみたいにな。なぜなら、DNAを共有してるだけで世代がまったく違う同士が同居していたら、憎悪と排斥といじめが生じるのは水に水素が含まれるがごとく常識である。家族であること、親子であること、古い共同体に属していること、それから完全に自立しない限り、このような家庭内殺人というのは起こり続けるであろう。とは言うものの、人間は自己愛の動物であり、自己の存続を願うものである。それがかつては家名であり血筋であった。人はその中に価値観を埋没させ、エンドレステープみたいに延々と鳴り続けることを確信して生き、家族を殺したりもしないでぬけぬけと生きて畳の上で死んだ。断っておきたいが僕はそんな時代を良いとも懐かしいとも復活させるべきだとも思わない。ただおぞましく、気持ちが悪いだけである。
 人間は自己愛の存続を望むものだし、僕だとて例外ではない。だが、なぜそれが「家族」や「血縁」や「DNA」でなくてはならんのだ? ぶっちゃけた話、誰かとつながりたいなら短歌でも俳句でもその他の同人誌でもなんでもいい、趣味でつながるほうがよっぽど確かだし長持ちするではないか。少なくとも「自分」を認識してくれる人が百人から手に入るし、こちらは作品を発表する以外なんの努力もしないでいいのである。確証はないが、凶刃を振るうようなタイプのまず90%は自己表現の能力に乏しい人であろう。思いを綴ることができないから、子や孫が自己を保証してくれないと気づいたときにすべてを破壊にかかるのである。
 自己表現の手段を持たないまま生きてきた人が老いると悲劇である。もう、老人だからといって尊敬はされない。そして、人は生きてきた通りに終わるしかないのであり、くだらない大人はくだらない中年になり、くだらない老人になるしかないのである。青年時代や壮年時代に、本や文学や映画を、なんの役にも立たないものと軽蔑して過ごしたやつは多くの場合しっぺ返しをくう。
 みなさんは、日本軍のヒサンな玉砕などを扱った映画や文学を御存知であろうが、あのような局面で、たとえば学徒動員されたり、内地では学者だったりした人は真先にへばるとお思いであろう。ところが、実際は違うんである。食いもんも何もなくなり、洞窟の中で仲間の肉を食うしかなく明日はバンザイ突撃、なんて場面になって、最後まで生きる希望と正気を失わなかったのが、むしろこの手のインテリで、一見タフそうに見える肉体自慢の(インテリを殴ってたような)連中は、状況が悪化するにつれて次々と発狂したり伝染病に負けたりしていったそうだ。それを分析してある人が言っているが、本当に困難に直面したとき、「観念」というのはものすごい力を持つのである。教養のない人間が絶望したらただ絶望するだけだが、教養は、それを詩にすることができる。詩、というものが、辛いとき苦しいとき、どれだけ自己を相対化し澄明にしてくれるか、この日記をお読みのかたがたなら御存知のはずである。しょせん頭でこねくりまわしたことではないかケッ、と言うかもしれないが、食い物がなくて言葉しかなければ、頭でこねくりまわす内容がどれだけ豊かであるかで人間の運命は決まる。
 自己表現手段を持たない老人、あるいは若僧の悲劇は、これからも続くであろう。家族以外によりどころのないような無教養な人間がもたれあいのためだけに家族を持つならば、「殺るか殺られるか」という緊張の日々を覚悟すべきである。そして、そういう時代を、俺は悪いとは思わない。
 つづく。
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2008年06月23日

1081 「塔」6月号「陽の当たらない名歌選」2〜カンオケのサイズ〜

 名歌選1を激戦と言ったが、名歌選2は大激戦だった。
 今月の赤丸歌。栗木欄、143首。花山欄、210首。池本欄作品1、145首。吉川欄作品1、125首。計623首。「塔」6月号赤丸歌総数、1064首。

      「塔」6月号、「陽の当たらない名歌選」その2

乱れ髪うなじに束(つか)ね明けがたに母(かあ)はいつでも竈吹いてた 能登 鳶

野焼きの煙に墨絵のごとき遠き村夕刊配りにわが急ぐ村 石川 啓

身長をシャクトリムシに計られた僕はもうすぐ死ぬのでしょうか 山上秋恵

傍にいて大き溜息つく人の溜息をうつかり吸つてしまひぬ 浜崎純江

叱られるのが下手な子どもを叱るのが下手な教師が叱りていたり 杜野 泉

真向かへば追ひつめてしまふ母われに 電話を切りしのちの底冷え 澄田広枝

使われぬモノ悪からずアパートの給湯器より雀出てくる 荒津憲夫

「出る釘はもつとのばさむ」と新しき部長の朝の訓示心地よし 大木恵理子

同じ歌同じところを間違えて毎日歌う夫の退屈 数又みはる

杖をつきバスによじ乗り銀行へ安きドル買いに老父は行くも 斎藤賢悦

ノックする前の右手は考える扉の硬さ、音の大きさ 永田 愛

誰が読んでいた歌集なのか図書館の本を開けば煙草の匂いす 石井久美子

幼子に茹でしニンジン握らせるふたたび来たる母性怪しみ 尾崎知子

七十年前に苛めを受けしこと今日会ひし友ぼそぼそと言ふ 加藤好男

骨太のおじさんのいる花屋なりぎりぎりの無愛想も心地いい 潮見克子

入浴の介護を受けて母は言ふ「里芋のように洗ってもらった」 南條暁美

港町の喫茶シーガル カフェオレは砂にまみれし鴎の色よ 山上秋恵

子育ての六月の風おもいだす畳のうえの素足のかんじ 古池泰子

風邪の子が学校休みひっそりと布団のなかで読む怪談の本 山西直子

廊下とは冬日あまねく射すところ父は切りたる爪を片せり 黒沢弘子

昭和二十六年院内短歌誌会費十五円寄付芳名欄に五円が並ぶ 小川康男

雪まじりの風に全身あふられて電線にゐる鴉の握力 尾崎加代子

自分からはけっして笑うことのない事務長はシベリア帰りだった 谷口純子

〈駆られる〉とう題詠のあり早口の徹子の前髪上げたき衝動 福生ますみ

映像の「認知症とたたかう人」画面の一人と視線の合いぬ 山内貞子

水を打つ老い人の手にぶらさがる馬穴の日暮れ心細かり なみの亜子

我らふたり猫を枕として会話を続けていたこと今更に気づく 池田幸子

酔い潰れままにならない夫の足みぎよ、ひだりよ手と声にひく 中島扶美恵

にぎり飯作りゆく時掌と飯の響(な)り合う音の囁きのよう 山下昭榮

おもつてもみない力で吹きし風髪にかなしき跡が残りぬ 澤村斉美

     一首評

身長をシャクトリムシに計られた僕はもうすぐ死ぬのでしょうか 山上秋恵

 なんとも、不思議な感覚の歌だが。シャクトリムシなど図鑑や映像でしか見たことがない、あるいは全く存在すら知らない、虫のことなど考えたくもない、という人もいるだろうが、僕は田舎者なのでたびたび見た。要するに細身の緑色のいもむしであり、普通の感覚だったら、体にくっつかれたりしたが、悪いがぎゃあと叫んではたき落としたくなるような外見をしている。それが、自らの身長を計り終えるまで作中主体はじっとしていたというのである。古来、虫を死の国のお使いとして見る神話は多いが、これはまるでいもむしが「ちょっと計らせてください」と言って、作者のカンオケのサイズを計りに来たことのようで、死というフレーズがありながらユーモラスな歌である。およそ関係のないもの同士を結びつけてしまうのは一般に「電波系」などと呼ばれてしまうが、これはその電波がいいように作用した例であろう。面白い作者だ。
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2008年06月22日

無題〜トホホ〜

 私が穴と踏んでいたトウホウシャインが、一着で突っ込んできた。しかし私がこの馬を軸にして勝負していたとしても、結果は負けだったろう。二着、ピースオブラブを切っていたからだ。たった二頭しか切らなかったそのうちの一頭なんです(泣)。それにしても、ザレマちゃんいったいどうしたの!?何があったの!?彼女にとって最高の舞台だと思ったが、まったく見せ場なし。原因がさっぱりわからん。多分、今朝から不機嫌だったんだろう。ああそれにしても、競馬は本当〜〜〜〜に難しい。今日の敗戦は、一番こたえた。自信まんまんだったから。よって、日記を書く気もないので、ここでやめます。もう寝る。
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記