2006年12月31日

665 リビドオ

      リビドオ  黒田英雄

混血のジェリー藤尾が唱ふからギンギンギラッと夕陽は沈む

手榴弾その遠擲のすぐれたる新兵の名は沢村栄治

白球(ボール)捨て米兵に擲つ手榴弾あの草薙の空は還らず

山宣の治安維持法改悪の反対演説瀑布に聞こゆ

すめらぎをついに灼かざりそが魂の有処海へと御滋羅は還る

濁世なる塵尽きるまで寝ねがたく躰を火照らす総懺悔の夜

日野てる子に似てゐし母の口癖はあんたの貌は父親そつくり

ドライブとふレジャーあれども母と吾と腰低かりき男がひとり

立ち寄りしレストランにて観たTVは丹波哲郎『弁慶』なりしか

よく笑ふ男が焼肉啖らひつつ自社株自慢を母に語りつ

こひびとの皮革(ひかく)の香たつ車内なる男のポマアド母の香水

お通役の入江若葉に理由(わけ)もなきリビドオ覚えハンバーグ噛む

黒柳徹子の「魔法のじゅうたん」を欲しと希ひきひとりゆふべに

日曜の夕餉どきには消えてつたザ・ピーナッツはせつなき埴輪

盗み酒関門海峡陽は落ちてビールは麒麟とさだめけるかも


 「塔」掲載歌より、8首目、14首目、15首目は推敲して載せた。十二月号「塔」に出詠した歌は、選者の取捨によってまるで郷愁に満ちた連作のような構成になってしまった。よって、落とされた四首を補って作者の意図を伝えたいと思う。読者には、わかるはずだ。
 僕は今日、栗木京子「けむり水晶」を読みながら年を越すと思う。来年は、よい事があれ、とは思わない。ただ、悪い事がないようにと願うのみだ。みなさん、歌を一首でも多く作りましょう。読者の皆様、よいお年を。
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

664 黒髪と賀来千香子と魔物とハクビシン

 冨樫さんへのコメント返しにも書いたが、ブログをやっている結社歌人はどんどん、結社誌の名歌選をやってアップし、いい歌を紹介してほしいものだ。コメント欄に、その旨書いてアドレスを貼ってくれれば必ず読みます。僕は、一度に三十首以内と限定しているので、取り上げられない歌も多くある。「塔」「短歌人」で、ブログやHPをお持ちのかた、ご一考を。

 くらべこしわが黒髪のはかなさを君ならずして誰か教えむ 土橋磨由未

 なにか原典があるのではないかと、無知な私が「くらべこし」で検索してみたら、「伊勢物語」の「くらべこし振り分け髪も肩すぎぬ君ならずして誰かあぐべき」であった。元歌もこの歌もいい歌だ。作者は若い。まだ30代だ。「黒髪のはかなさ」を、「白髪がふえてきた」ととるわけにはいかないだろう。思うに、黒髪というのは、女性のエロスのシンボルである。なよなよとしてたよりなく、濡れ濡れとしてうつろいやすい。にもかかわらず、「はかなさ」という言葉から死のイメージを連想するとき、しかばねとなってもなお残るとイメージされるのもまた黒髪だ。この歌には、遠い昔の女流歌人が「恋ゆえに泣きぬれて死ぬ」とまで訴えた女性性と、男にしてみればそれじゃとても勝てないと思わされる捨て身の強さを感じる。僕は、古典に関してまったく無知の馬鹿者である。こういう本歌取りの元歌がわかると勉強になって嬉しい。古語短歌って綺麗だなあ。

 賀来千香子のごときひと声を残し青鷺にわかに飛び立ちにけり 山本照子

 賀来千香子。なぜ彼女がタレントとして成り立っているのか、僕にはさっぱりわからない。あの、ニワトリが絞殺されつつあるような、聞くに堪えない悪声。驚いた顔と悲しい顔の二つしか演じられない表情筋の乏しさと、もちろん演技力のひどさ。正直、見るに耐えないタレントであり、タレントの本義である「才能」のかけらも感じない。こういう人がヒロインを演じられるのだから、日本の芸能界もなめられたものである。いや、どの世界もそうで、なんでこんな奴が商売成り立ってんだというのが山ほどいるだろう。元来、日本で歌の題になってきた鳥にカナリアだのいい声のはおらず、詫び寂びを感じさせる水際の鳥がおおかただったろう。つまり、「ギーッ」とか「ギャーッ」とか鳴く鳥である。それのたとえに賀来千香子を出してきたのが秀逸である。この歌の手柄は、情趣をめざさず、青鷺の声に思わず的確な比喩をあてはめた、その無遠慮さにある。短歌には、そういう、誰も思っていたけど思いつかなかった取合せを見つけさせる力があるのだ。掛け軸の絵柄によさそうな青鷺と、三流タレントとの結びつきが、最高に面白い。

 多魔川と書きちがえればたちまちに午(ひる)の睡魔はわが身より消ゆ 荒井孝子

 一読して、日影丈吉「吉備津の釜」を思い出した。例の「川の魔物」というやつである。一字間違えただけで、確かに眠りを覚ますだけの効力はあるだろう。川というのは、その長い歴史のなかで、間違いなくたくさんの人を飲み込んでいるのだ。単純な発想だが、短歌は読むものであり、「多魔川」という表記に僕はぞっとした。これも作者の発見がすぐれた歌と言えよう。

 寝たきりの母と妹住む家の天井裏にハクビシン棲む 志田節子

 こここここここ、怖いよお〜〜〜〜!このシチュエーションはいったいなんなんだ。寝たきりの母、それの世話係であろう妹、ひょっとすると行かず後家か未亡人か、一連には、「四百歳の家」という記述もあり、ふるい血筋の血族二人がふるい家で、ハクビシンという、調べてみたらジャコウネコ科だというがアフリカの呪術面みたいな顔の、原始的サルじみたのが(ペット化されたのが逃げ出したとニュースで聞いたことがあるが)天井裏に棲みついた状態で、陰鬱に日々を送っている。これは、ホラー小説の文脈でしか読み解けない恐ろしさだ。一読して背筋がぞっとした。諸星大二郎のホラー漫画の絵柄が彷彿と浮かんできた。そうだなあ、考えてみたらホラー短歌ってあっていいよなあ。笹公人がSF短歌を作っているのだから、ホラーだっていちジャンルを築けるはずだ。これは本当に怖い歌だ。夢に出てきそうな怖さだ。また、作者の名前が、ホラー小説をよくする作家篠田節子と似ているのも相乗効果で怖い。それにしても、なぜ作者は「ハクビシン」という動物を出してきたのか。お聞きしたいが、聞くのが怖い気もする。頭にこびりつく短歌だ。

      年忘れ 今日のMYビデオ

「昭和侠客外伝〜無頼平野」(1995年、ワイズ出版=MMI、石井輝男、原作・つげ忠男)加瀬大周、岡田奈々、吉田輝雄、佐野史郎、金山一彦、南原宏治、水木薫、杉作J太郎、横山あきお、砂塚秀夫、由利徹、大槻ケンヂあがた森魚、田村翔子、長谷川待子

「黄線地帯〜イエローライン〜」(昭和35年、新東宝、石井輝男、音楽・渡辺宙明)吉田輝男、三原葉子、天知茂、大友純、三条魔子

「地平線がぎらぎらっ」(昭和36年、新東宝、土井通芳、音楽・松村禎三)ジェリー藤尾、星輝美、多々良純、天知茂、大辻三郎、沖竜二

 見事なラインナップ!われながら、通だと思う。
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:43| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

2006年12月29日

663 「短歌人」1月号、会員欄秀歌選その19と、びっくり!!

 秀歌選は、毎月二日ごろ発表するのだが、今月は年越しもあり、事情もあって早めます。谷村はるか氏をはじめとして、当欄で紹介させてきていただいた会員の何人かが、「同人2」欄に昇欄された。歌を紹介できないのは残念だが、同人となってもますます頑張っていただきたい。よい歌というのは、たとえ数多く羅列される中にあっても、理屈ぬきで目に入って来る物だ。その多くは、その他大勢とされた歌の中にこそある。しっかり拾っていきたいと思う。
 今月の赤丸歌、会員1欄パート1、136首。同パート2、104首。会員2欄パート1、107首。同パート2、67首。計414首。

      「短歌人」1月号会員欄秀歌選その19

 くらべこしわが黒髪のはかなさを君ならずして誰か教えむ 土橋磨由未
 多魔川と書きちがえればたちまちに午(ひる)の睡魔はわが身より消ゆ 荒井孝子
 賀来千香子のごときひと声を残し青鷺にわかに飛び立ちにけり 山本照子

 どうでもいい事と思えど嘘を言う友の口よりにんにく臭う 永田きよ子
 ころびつつ飛び乗りたるは特急ぞ「絶望といふ名の電車」は速し 田上起一郎
 働かねば生活は苦しいが計画的にやっていけば障害者年金のみでも何とか… 村松加奈子
 野菊という菊はなけれど「民子」菊「政夫」竜胆左千夫の碑 藤倉和明
 谷村はるか肩で風切りため口でものいふさまの若さ眩しき 楠藤さち子
 いま一度「修辞」の意味を辞書で引く甘すぎる紅茶を飲みながら 魚住めぐむ
 「日本ハム日本一」に沸く夕べ 嗚呼また誰かいじめられてる 柊 明日香
 月光に火の匂ひせり左胸突かれしガラシャの恍惚おもふ 洞口千恵
 「死んだ気になれば何でも出来たのに」何でも、だから自殺したのだ 生野 檀
 女男(めお)にこそ賞味期限のあることを知りつつ啜る蓴菜もづく 近藤かすみ
 わが顔を鏡に写し嗤いたり数多の皺が笑いに伸びた 渋谷和夫
 コーヒーの黒き沈黙飲みながらおはようの声喉(のど)にしまひぬ 中島敦子
 優越感覚えしほどの幼児期 手の掛からざりし子の縁うすく 竹安啓子
 あの頃も今も嫌ひなイカリング見てはならないわつかのやうで 大越 泉
 消しゴムで消された街があんなにもやさしいひとで満ち溢れている 花森こま
 (ありし日の島田修二)
 ボンタンアメ、都こんぶを買ひし人秋空のもと小田急線に 岡 正
 三十一文字(タイムカプセル)封切を待つわが夜半とアイドルが脱ぐ決意の朝(あした) 萩島 篤
 寝たきりの母と妹住む家の天井裏にハクビシン棲む 志田節子
 蝙蝠(かわほり)はさかしまに死す微かなる足の力を失へる日に 内藤健治
 名を呼べど呼べど届かぬ夢に覚め夜をなきとおす風の音を聴く 有馬美佐子
 最後にはそうじの仕事ならあると思ったけれどそれも雇われず 青柳令子
 学校のいぢめ語るに「昔は…」と口に出かかりぐつと呑み込む 荘司竹彦
 あいさつの出来ない子供朗々と九々を唱えて英語も話す 大関 恵
 明け方のエンマコオロギ腹式の呼吸をしつつ「ひとり鳴き」する 高木律子

 以上、厳選27首。今号もいい歌が揃った。短歌とは、こうでなければいけない。
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2006年12月27日

662 栗木京子と堀越貴乃とリアリズムの現在(いま)

 ぽかぽかした暖かい日だった。久々に、世田谷文学館へ行く。京王線の各停に揺られて、芦花公園駅で下車。ちょうどいい散歩コースだ。途中、いつも通りそば屋「芦花庵」にて昼食。夏はもりソバ、冬は親子丼か玉子丼。玉丼を頼む。ちょっと味が落ちたかな?と思うがやはりうまい。てくてく歩いて文学館へ。ライブラリーで、いつも通り、キネ旬のバックナンバー数冊を読む。ここには、「心の花」の結社誌も置いてある。この結社にはいい歌人が多い。印象的な歌があった。メモしてないので何人も言えないが、思い出せる歌があるので、ちょっと書いてみたい。間違いがあるかもしれないが、ご容赦。

 旅に来て旅より戻りし人に会い旅の話を聞きいる夕べ 堀越貴乃
 後ろ姿点となるまで見送りしのち今日までを長く歩いた 同

 この作者について、何も存じ上げないが、独特なドラマタッチを持った人だと思う。掲出歌一首め、ありそうでなかなかない歌で、余韻がある。二首めも、別れのドラマに、後日談の深みを加えた二重構造になっている。この作者は、ドラマチズムというものを頭ではなく、肌で理解しているようだ。この独特な身体感覚というものは、特筆すべきものだろう。各結社には、こういう優れた歌人がたくさんいるんだろうなあ。名前を、しっかり記憶させていただいた。帰途、これも楽しみだが、パン屋さんに寄る。ここのトーストコーヒーがうまいのだ。何度行っても店名がおぼえられない。カタカナだからだ。ここで、買ったばかりの栗木京子「けむり水晶」を読む。適当に切り上げて帰ろうと思ったが、この歌集の出来がすこぶる良い。引き込まれてしまい、全部読んでしまった。ぼぼぼぼ、凡歌がない!!!!帰るころ外は真っ暗、こんなに集中して読める歌集は最近では珍しい。たいてい、途中で疲れて「今日はこのぐらい」で終わっちゃうのだが。おかげで帰宅時間が遅れた。この歌集については、二読したときにここで紹介したいと思います。
 妻が角川「短歌」1月号を買ってきた。冒頭エッセイが栗木さんである。読んでみて、意外だなあと思った。栗木さんは、自分のプライバシーをあまり歌わないし、語らない人だと思っていた。なので、このエッセイで語られているような、ひとり旅が好きだという側面は考えてもみなかった。一人でディズニーランドに行くのだ。驚いちゃうよ。このエッセイを読んで、また「けむり水晶」を再読したら、味わい深いものになるかもしれない。魅力的な歌人だ。
 同じく角川「短歌」の、「新春討論 今、短歌について思うこと」をざっと読む。ちょっと気になることがあった。笹公人の、塚本邦雄の有名な言葉「幻を見る以外に短歌になんの使命があろうか」をひいての作歌方針に、奥田亡羊氏が疑義を呈している。端的に言えば、報道の現場に身を置いている奥田氏にしてみれば、オウムや9・11などの現実は妄想を超えているというのだ。
 僕はこの人の、短歌研究新人賞受賞作を高く評価するが、この創作と現実との関わりへの発言は、言わせてもらえば甘い。さらに言わせてもらえば噴飯ものである。オウムも9・11も、被害の規模とまさかそんな野暮で直截なこと本気でする奴がいるなんてということへの驚きと悲嘆はあるが、妄想やフィクションの敗北じゃねえだろう。フィクションの見地でいえば、どっちもものすごく使いふるされた、すでに小説家が飽き飽きして見向きもしなくなったテーマ、根っからの妄想家だったら「まだそんなことやってんのか」とあきれるほど陳腐な思想であり行動である。詩人が、いくら実行に移すやつが実在したからってそこで妄想の負けを宣言するこたあないだろう。「へっ、もっともっと壮大で美的なものをいくらでも俺は作り出せるぜ」とうそぶくべきなのだ。テロリストよりももっとあまたの死体と瓦礫を詩人は乗り越えてゆける。それでは何も解決しないではないかと言うかもしれないが、解決するのは詩人の仕事ではない。現実の事件なんぞ、フィクションの陳腐で劣化したコピーにすぎない。これは、日本国の劣化、個人の劣化、老人の劣化、職業人たちの劣化、の劣化の連鎖反応が引き起こした、想像力の欠如の結果なのだ。フィクションの側が、これしきのことで負けたなんて言っちゃあいけないだろう。僕は、私性というものを重視した短歌を作る。が、それはあくまで虚実の皮膜のなかで編み出されるものだ。演出された自己こそが本当の自己なのだ。嘘っぱちという意味ではない。このへんの綱わたりが面白いところで、だからこそ、読者のドラマチズムと作者のそれが共鳴しあい、鑑賞を豊かにするのだ。言っておくが、寺山修司の受け売りではない。僕は僕の戦略と抒情で歌を作っている。ちょっと、奥田さんの発言には、フィクションの奥深さに慣れていない人の脆弱さを感じた。短歌というのは、もっともっと複雑怪奇な深遠さを孕んだ、スリリングなジャンルであると僕は思う。
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:35| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

661 アンフェア

 ロフトプラスワンのことを考えていたら、冗談ではなく、マジな企画が浮かんできた。ダメもとで一発やってみようかな。ぜひ呼びたいかたがいる。ぜひトークをしたいかたがいる。俺は昔、無名ながらも劇団を立ち上げ、その公演を、演劇界の権威とも言える「テアトロ」の編集長が観に来てくださったことがある。これもダメもとと思ってご招待したのだが、まさか本当に来てくれるとは思ってもいなかった。だって、公演なんて星の数ほどあるのだから。しかも、そのかたは芝居に感動し、「『テアトロ』に載せるので舞台写真を送ってくれ」とまで言ってくれた。載った。あの感激は今でも忘れられない。あの頃の、企画を立ててそれに沿って動くという情熱がまた蘇ってきた。あの当時、俺がもっと大人だったら、今ごろいっぱしの劇団主催者だったかもしれない。どうせアカンだろうなと思いつつも、動いてみようと思う。僕にとっては憧れの人なのだ。念のため言っておくが、僕のもう一つの趣味であり、短歌よりはるかに造詣が深いと言える邦画関係のスターである。

 話は変わるが、かつて僕は「ものすごい一首」というタイトルでこのような日記を書いた。
http://hideo.269g.net/article/2930560.html
 僕は、その傑作を記述通りNHK全国短歌大会に送った。過去2回出詠している。最初は秀作、2回めは佳作に採られた。だから、この大会の佳作のレベルというのは大体推察できる。今年送った3首は、前2回と比較しても劣らぬ、いや、それ以上の作品だったと自負している。とくに、上記の日記でふれたあの一首はそうだ。ところがである。
 全部落ちた――――――――!!!!!
 これは完全な陰謀である!と僕はここに断言する。下読みする連中に対して、投稿者の名前は伏せられていないそうである。間違いなく、このブログにより黒田英雄に反感ないし、政治的排斥の観を持つ野郎だか女郎(めろう)だかが下読み段階の歌人たちの中にいて、作品でなく名前で落としたに決まっているのだ。あの作品が通過していれば、名前を伏せたままで見る選者たちが、誰かひとりは秀作には選ぶはずだ。それだけの、いい問題歌だと僕は自負している。少なくとも、佳作に残らないなんてバカな話はない。
 アンフェアである。僕だったら、どんなにいけ好かない野郎だと思っても、一首単位で見る場合は、いいと思ったら採るね。僕は、そういう意味ではフェアな男だ。まあいい。この歌のデビューは、ほかの場所に求めよう。それにしても、歌人という人種は、ケツの穴の小さい連中が多いものだ。俺がまともだとはとても言えないが、こいつらも、俺と違った意味で、全然まともじゃねえな。俺は、アンフェアな人間が大嫌いだ。同大会は入選歌をまとめた本が出るので、手に入れて下読み連中の顔ぶれを確かめ、どこのどいつが落としやがったか見当をつけてやる。おぼえてろこの野郎(か女郎)。
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2006年12月25日

660 CD短歌と「足摺岬」

 機械の都合だかなんだか、昨日の日記のコメントへのコメント返しが書き込めないのでここに貼りつけておきます。読むかたは各人昨日の日記へのコメントを参照されますよう。
>森様
 ジョークです、ジョーク。ご一同ならびにロフトの平野さん本気にしないように(するわけねえ)。
>とがし様
 確かに、1と4は僕も興味深いテーマです。これは会場にマイクを10本くらい回して討論させ、僕は田原総一郎化します。田原はいいですね。相手を挑発しながら意見を引き出すのがうまい。実現のあかつきにはとがし様是非参加してくださいね。
>辰巳様
 昨日はお疲れ様でした。楽しいトークと朗読でした。朗読はほんとによかったです。僕も自分の歌で「辰巳泰子、黒田英雄を読む」というタイトルでCDをを出したく一瞬マジに思いました。辰巳さんと討論?いやいやとんでもない。辰巳さんの優美な関西弁の迫力に、私ごときふっ飛ばされて跡形もなくなるでしょう。
>村田様
 僕は、実は普段はあまり喋らない人間です。人前で話すとなったら梅酒のオンザロックを二、三杯ひっかけて臨まないとなにもできません。ロフトプラスワンはいいとこですね、出演者が酒飲めるから。昨日も、なんか言いたくなったのは酒が入っていい気分になってたからです。いや、いずれにせよ辰巳さんはすごい迫力ですよ。でも、ちょっと挑発してもっと危ない発言を引き出したいという気もしますね。あっ辰巳さん冗談ですから〜〜〜。

 辰巳さんの朗読を聞いて思ったが、目で読むだけでなく、耳で聴く歌集というのがあってもいいんじゃないだろうか。言うなればCD歌集だ。一瞬夢想した。僕の歌は、絶対に女性の朗読でなくては生きない。CD歌集、出したいと真剣に思った。たとえば辰巳さんにお願いしてそれなりのギャラをお支払いして、という手もある。BGMは、伊福部昭の「足摺岬のテーマ」だ。暗い?とんでもない。この曲は素晴らしく美しい戦慄を奏でている。映画「足摺岬」に関しては、下記の日記に記述があるので参照していただきたい。当時はこの日記の読者も少なかったので、未読のかたが多いと思う。この映画は、今はなかなか観る機会がないと思うが、ぜひ観ていただきたいと思うのである。ビデオ上映会の企画があれば持っていきますから。

http://hideo.269g.net/article/806697.html
http://hideo.269g.net/article/810957.html


 僕は、ある歌を作るのに四苦八苦していた。しかし、この「足摺岬」のワンシーンを見て、あっという間にできた。もちろんシチュエーションは違うが、同じような体験をしたのだ。これが、歌人あまたあるといえども、近藤芳美氏だけが採ってくれたのだ。なんせ、30人以上の選者に落とされて落とされてまた落とされて、誰にも一顧だにされなかった歌だったのだから、感激はひとしおだった。あの一首を採ってくれたそのことだけで、僕は近藤氏を尊敬している。以前は伏せていたが、今日はその歌を公開しよう。以前、月末短歌にもアップしたことがあるが、その辺の事情を付加したうえでの発表は初めてである。

 ただ一度唇(くち)より唇へ含(ふふ)ませし夜の水のこと君知らぬまま 黒田英雄

 その意味でも、ぜひ読者にこの映画を見ていただきたいと思うのである。また、僕は、長谷川和彦監督の「青春の殺人者」のワンシーンからも触発されて歌を作っている。もちろん、僕の実生活と関連しているからだ。

 束の間の家族の微笑(ゑみ)や夕波(なみ)湛ふアイスキャンディー溶けてこぼれき

 これは、ビデオでもDVDでも出ているのでぜひ観ていただきたい。一発で、僕がどのシーンを歌ったか判るだろう。邦画は、実生活と重なる部分がかなりある。歌人は邦画をもっと見るべきだろう。
 話は戻るが、短歌の聴覚メディアへの進出というはもっとあっていいと思う。もちろん、活字の歌集があってこその話であり、明治の歌人ならもうあるかもしれないが、現代歌人のものもあってしかるべきだろう。あるかもしれないしあってしかるべきかもしれないが、「サラダ記念日」のごときは問題外とする。僕の歌こそ、CD短歌にふさわしいのだ、とマジに思うのである。

      今日のMYビデオ
 「恋人たちは濡れた」(1973年、日活、神代辰巳)大江徹、中川理絵、堀宏一、絵沢萌子、高橋明

 近藤氏に選ばれた僕の歌は以前、中川佳南さんのネイキッドロフトにおけるライブで朗読していただいた。そのとき、僕の体は震えた。まったく、他の人間の作品のように思えたからだ。僕の歌は、女性が朗読して初め息づくのだ。
 なお昨日のライブ後、会場前でご挨拶した小島ゆかりさんに、挨拶もそこそこ「なおさんは結社に入らないんですか!?」と不躾な質問をしてしまったが、これを逃せば二度と聞く機会がないとあせったがゆえのことでありました。平にご容赦ください。間近に見た小島ゆかり氏はとてもチャーミングで、さすがスター歌人だと思った次第である。
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:44| Comment(6) | TrackBack(0) | 日記

2006年12月24日

659 ロフトプラスワンは良心的〜私の企画

 帰宅し、有馬記念のビデオを見る。案の定負けたはははははははははは。十二連敗。連敗記録更新。今年の競馬は、二十三戦、四勝十九敗。回収率72・1%。え、この勝率で72パーセントもあるの?と驚かれる方もいるかも知れないが、日本ダービー、宝塚記念マーメイドS、フェブラリーS、この四勝は札束ががばっと入ったのです。今年は、ジャパンCをやらなかったことと、菊花賞穴馬ソングオブウインドを抜擢したにも関わらず、三連複本線が1着2着4着に敗れたこと、この二レースの失敗が痛かった。これさえ勝っていれば、年間プラスである。負けても負けてもやるのが競馬。来年の私のキーワードは、「謙虚」。たとえ100円でもいいから、欲をかかずに、的中率だけを上げるという、そういう意味である。毎年こう言ってんだよなあ。まあいい。気分を改めて、来年も京都金杯からファイトするのだ。

 辰巳泰子さんのライブが新宿であったので行って来た。トークがあらかた終わったとき、ゲストの笹公人さんが、「会場には黒田英雄さんも来てますが」と振られたので、「よし、突っ込みを入れたろう」とマイクが来るのを待ってたら、「時間がない」とぽしゃってしまった。まあ、それで正解だったかもしれない。なぜなら、たぶん俺はマイクを離さず、後半の辰巳さんの朗読の時間がなくなったであろう。ちょっと、いや、かなり言いたいことがあり、また、挑発して会場を紛糾させてやろうとも思っていたのだが、まあ、カットされて正解だったでしょう。いいライブだったけれど、もっと結社の裏話とか、結社歌人と投稿歌人の違いとか、予告から期待したようなトークがなかったことに対しては恨みがのこる。もっと面白い爆弾秘話が聞けるかと思っていたのだ。だから、そのことに関して質問しようと思っていたので、笹氏の振りがいいタイミングできたな、と思ったのに、時間切れで止められてしまった。もうちょっと丁々発止のやりとりが欲しかったなあ。会場には枡野浩一氏も来ていたと言うし。俺、紛糾させるの好きだから、いろんなことを一瞬考えたんだが、まあ、これでよかったのかもしれない。朗読時間をパーにして辰巳さんに恨まれるところだった。辰巳さんの朗読はすごく良かった。彼女の朗読はうまい。関西弁のイントネーションが生きていて、歌に独特の生活感が漂ってくる。ご自分の歌はもちろん、投稿されてきた歌の朗読には驚いた。目で読むよむより、すごくいい歌のように聞こえるのだ。これは、朗読者のマジックだな。
 ところで、会場ロフトプラスワンは、売り上げからいくばくかの使用料ぶんを引いた残りがギャラというシステムだそうだ。新宿ど真ん中の一等地で、これは良心的と言えるシステムだろう。それで僕も、自分なりに企画を考えてみた。これくらいの予算なら、僕でもやれそうである。

1・「黒田英雄VS枡野浩一/正しい夫婦生活のあり方を語る」〜これは、根掘り葉掘り枡野氏の離婚体験を聞き出し、私がぼろくそに言って枡野氏をいからせる中で、観客に正しい夫婦生活の何たるかを知らしめる2時間。
2・「黒田英雄VS俵万智/子育ての楽しさについて」〜これは、俵氏に子育ての喜びを語らせながらも、その欺瞞と商売性を私がさんざんつついて最後には怒らせるという企画。観客には、子育てがいかに大変であるかということを逆に知らしめるのである。
3・「黒田英雄VS加藤治郎/釜飯の鶏に責任はあるか」〜これは簡単。加藤氏のあの一首「ゑゑゑゑゑ」を作った背景について延々と2時間語るのだ。私は、鶏の釜飯が大好きである。よって、これを戦争における死体として歌いあげた加藤氏に対して非常に怒りを持っている。ただその一点のみで「なんであんたはこんなことを歌うんだ!!!!!」と追求する2時間である。なお、観客のうち抽選で二名のかたに、釜飯をステージで食べてもらい、この歌を朗読していただく。もちろん、釜飯代は私の自腹である。
4・「黒田英雄VS短歌研究編集部」〜これも簡単。「なんでお前ら選考過程を変えないのだ」と延々と責める2時間。この企画は、新人賞選考というものが持つ暗部を抉り出し、歌壇全体の生ぬるさというものを糾弾する、問題トークとなるであろう。
 どの企画も、実現したら会場超満員で私の懐もほくほくで、馬券代が稼ぎ出せるというものだ。ただ、相手が承知する可能性は1000%ない。
 ロフトワンの、この料金システムはいいなあ。なんか面白い企画あればやってみようかな、とつい思ってしまう。しかし、かえすがえすも、一緒になんかやってくれようという歌人は皆無であろう(泣)。私は、自分のことを、歌壇における狂犬だと思っていたが、それは違うな。私は狂犬ではなく、珍獣だったのだ。
ニックネーム 茶トラのみんく at 21:46| Comment(5) | TrackBack(0) | 日記

658 有馬記念前日予想と、警告

 有馬記念、予想の確固たる根拠はある。だが、詳しい理由は書かない。なぜなら私は十連敗中であり、どうせ当たらないぜというやけっぱちになっているからだ。ただ、このレースのポイントは、瞬発力勝負にはならないということだ。かなり厳しい流れが予想され、最後のひとハロンが勝負だ。
 ディープインパクトの頭はもうしょうがない。負ければあきらめるしかない。となれば、相手は当然ながら絞りこみが必要。僕は、二頭を候補にあげる。9番トウショウナイト、3番ドリームパスポート。これにも僕なりの根拠があるが、それも書かない。どうせ外れるからだ。オッズから、こう結論づけよう。ダブル本線、馬単4−9。三連複、3−4−9。これ以上は、オッズの関係で買えない。明日はパドックを見たいのだが、予定があってそれができないのが残念。諸君、私の予想は、今や井崎脩五郎化している。この買い目をはずして買い、いい正月を迎えてください。たぶん、僕の考えた馬単は1着3着、三連複は1着2着4着(菊花賞といっしょ)ということになるでしょう。ただ、僕の考えた理屈の上ではこの三頭だと思うんだけどなあ〜。

 中村春光なるおかたから、しごくありふれたご批判をこの日記に対していただいた。批判に対して謙虚なることこの上ない私であるが、ワンパターンな決まり文句を並べただけの批判もどきにはうんざりである。僕の選歌が気に入らないのであれば一首でもいいから取り上げ、ちゃんとした言葉で短評してみてください。僕も反論しますから。それから、あなたは短歌の当事者でいらっしゃいますか。聞いたことがありませんが、もしも実作者だとすればよほどの自信がおありなのでしょう。ぜひ一首ご謹呈ください。僕が真摯な目で批評して差し上げます。コメント欄のレベルを下げたくないので、自分の短歌観も明らかにせずに、決まり文句だけを並べたようなコメントは読む価値なしと判断して、今後は削除し、書き込み禁止の措置を取らせていただきます。それがいやなら、自分の考えるいい短歌とはこれこれのようなものであると、ちゃんと言いなさい。大いに論争いたしましょう。
 有馬記念だが、馬単は4−3かもしれない。要するに僕は、三連複が当たってほしいのだ。黒田理論によれば、どうしてもディープにトウショウナイト、ドリームパスポート三頭の勝負と考えざるを得ないのだ。ああ、しかし俺の勝利はまだまだ先だろうなあ。まったく自信なし。
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:37| Comment(3) | TrackBack(0) | 日記

2006年12月21日

657 塔「陽の当たらない名歌選」下半期ベスト23

 「塔」名歌選の、下半期ベストを発表する。チョイスの理由は、簡単である。何かにつけ脳裏に浮かび、ふと口ずさむ、僕の愛唱歌となった歌である。過剰な修辞で意味のないことをさも意味ありげに歌う歌、体裁だけは一丁前で、いかにも頭で作りましたという歌、俺はそういう歌は大嫌いだ。そんな歌はひと目でわかる。結社誌の評価?関係ないね。俺の目は誤魔化せない。歌は、視線こそ大事である。その中にドラマが生まれ、オリジナリティが生まれるのだ。歌は頭で作るものではない。身体で作るものだと僕は思う。

      「塔」陽の当たらない名歌選下半期ベスト23

 ザルカウィの母はゆふべに何を食ふ息子の死体あらぬこの夜 助野貴美子

 むらさきは花冷えの色地震の色ニュースキャスターのネクタイの色 柴 夏子

 エデンには東があった 列島は孤独なままで突っ立っている 関口健一郎

 全力でわれを支へてくれし人いま全力で老いとたたかふ 横山美子

 困るとは木を囲うこと川水に腰まで浸り夏を見ている 永田 淳

 「売国奴」軽くコトバが使はれてワイドショーはCMに入る 工藤博子

 休みごとタバコを吸いたる坊主ども咳込みながら法要を終ゆ 河野悠悟

 「おぼろ月夜」ともに歌ひし若き母疎開の村の月の良き夜 伊藤てる子

 昼寝せよ昼寝はよいと工場のつめたい床にわれら寝転ぶ 深尾和彦

 算盤の工場の窓に母を見て珠けづる音に登校したり 藤原勇次

 つぎつぎと車がイタチを轢いてゆくイタチは生まれかわるだろうか 邑岡多満恵

 過疎かそと嘆くを止めよ海を見よ「黒潮町」は鯨来る町 吉門やすし

 ひとり背の高くなりたる少年が演技しており雑技団のなかに 松村正直

 衿元が少しずれゐる出征のあはただしさよ私がわるい 三輪すみれ

 「あとひとり」コールの中にテレビ切る遠くないだろう独りゆく日は 村上次郎

 春の夜蛙の声の伴奏で田村高廣『泥の河』を観る 家無木流美

 辣韭のような雨振る屋久島は代代墓に屋根がしてあり 林田幸子

 反感は真っ赤な服の背で受ける発言支持する拍手ありても 山下れいこ

 興安領へ逃げ終せたるや邦人の母子の足取り憶ふ野の夕 藤本北夫

 参拝を終えた総理の足元にくつべらスーッと差し出す手のあり 鈴木明子

 草刈りてゐる間もオクラの実は伸びる同窓会はもう止めませう 川田伸子

 原爆の投下必要論じいてはからず夫を打ちしことあり ハーヴェイ陽子

 降りやまぬ春の雪見る窓の辺にあす退職のひとの混じれる 溝川清久


 何首か、こちらで一方的に脚色させていただいた。毎年、「塔」十二月号には、会員各氏ば選別した「今年の3首」というのが載る。毎年、「何やねんこれは」と思いつつ読んでいる。おそらく、「塔」会員のかたたちと僕の、歌を評価するポイントが全然違うのだろう。だからこそ、「陽の当たらない名歌選」を始めたという意味もあるのだが。「塔」の主流と言える詠風は、貴重だとは思うが、正直僕は好きではない。
ニックネーム 茶トラのみんく at 21:36| Comment(3) | TrackBack(0) | 日記

2006年12月20日

656 詩的緊張

 僕は、結社誌を読むとき、いつもシナリオを読む気持ちでいる。韻律のシナリオだ。だから、すべての歌を読むことが苦痛ではない。脚本を、1ページ1ページめくるようにすべり読みし、いい言葉をピックアップしチェックしているのだ。「塔」「短歌人」とも、赤丸チェックに費やす時間はめちゃくちゃ早い。もう、すべて直感である。ただ、赤丸歌をもう一度読み返す場合は、さすがに少しは時間をかける。少しは、である。選歌欄はたくさんあったほうがいい。ピックアップする歌なんて、人によって全然異なるからだ。柴田悟郎氏からコメントをいただいたが、だからといって、コメントを続けるのではない。ぜひ取り上げておきたい歌があったからだ。短評を書くというのは疲れる作業だ。すらすら書いているように思われるかもしれないが、相当考えて書いたり消したりしているのである。短歌を読んで受けた感動を伝えるのは難しい。映画評のほうがはるかに簡単である。

 二日目のコメント欄では問題歌を取り上げさせていただく。

他に意味はあらぬごとくに「お迎え」といえばすなわち保育園へゆく 秋場葉子

 一読、意味深な歌である。いろんな取りかたがあるだろう。たとえば、頻発する幼児がらみの残酷な事件をイメージしての「お迎え」。または、母親が子供を見るときに抱くなんともあやうい気持ち。
 元来子供とはぽんぽん死ぬものであった。知人の父親は8人兄弟だが実は11人兄弟であって3人は生まれてすぐ死んだのだそうだ。そうは簡単に死ななくなってもなお、子供というのにはまだこの世界になじみきっていないというか、なんか異界のものに手を引かれてどっか行ってしまいそうな感じがある。そして子供本人にも、その異界への親和性がある。誤解をおそれずに言えば、ミ×ザキくんのようなやさしげな殺人鬼に、しばしば子供がその手を取らせてしまうのは、死の側から迎えにくるものにそれと知らず憧れを残しているからではないのか。もはや病気がその役目をになえなくなった今日、「大きなおともだち」たち、大人になれない青年たちが、かつての死神の役をまとってやってくる。それは絵的にうつくしくさえある。短歌というのはすごい文学だと思う。こんな短い器の中に、この歌のように、現代の抱える犯罪の病理と、民話的な郷愁を同居させてしまうのだから。だって民話や童話って、ベースは子供がとられてしまう話だものなあ。僕がその点最も怖かったのが「安寿と寿子王」だった。東映動画で見たときとても怖くて悲しかった。この歌には、どこかそのときのイメージを喚起させるものがある。今月号の問題歌と言っていいだろう。また別な読みをすれば、作者の身近に、あまりさきの長くない老人がおり、その近い死を「お迎え」と呼びならわし、それが、わが子を迎えに行くための「お迎え」という言葉と重なって詩的緊張をかもし出しているのかもしれない。
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

655 日常詠こそシュールである。

 短歌には、愛唱性というものがあってほしい。それが、現代短歌に欠けているものだろう。もっとストレートに歌は詠まれるべきだ。でなければ、愛唱性など生まれてくるはずがないではないか。

過疎かそと嘆くを止めて沖を見よ「黒潮町」は鯨来る町 吉門やすし

 地方の村や町の過疎化を嘆く歌をやたらと目にする。ところで。「どうして過疎はよくないのですか?」。冗談で言っているのではない。皮肉や韜晦で言っているのではない。町名や村名が地図から消え、人間が誰も住んでいない場所が茫漠と広がり、家も建物も朽ちて苔むしていく…………ぐー。(はっ!)しまった、あまりにめでたいイメージなのでつい気持ちよくなって寝てしまった。がんらい、家名を守るとか墓を守るとかいう言葉の意味すらわからん男である。自分や自分に先立つ人々の痕跡が跡形もなく消えることになんの痛痒もおぼえぬばかりか美しいと思ってしまう男である。当面住んでる人は税収がなくて暮らし向きが悪くなるのは困るだろうが、それ以外の、自分なき後も町や村が存続していてほしいと思う気持ちはまったく理解不能である。人がいなくなれば自然が復活してけっこうなことではないか。人は少なくなったが、この「黒潮町」という場所には鯨がやってくるという。素晴らしいではないか。町名と「鯨」が呼応しあって、結句がよい。作者は、そんなおのが郷土を誇りにしているのであろう。過疎化を嘆く往生際の悪い歌が多いなかで、滅びを誇りをもって抱きしめるような観点に僕は感動した。ただ、脚色したいの思いをこらえきれず、改作をこころみる。一文字変えるだけだ。

 過疎かそと嘆くを止めよ沖を見よ「黒潮町」は鯨来る町

 「止めよ」「見よ」と命令形を二つ重ねたほうがこの歌に勢いがつくと思う。牧水の「山を見よ山に日は照る」な歌を思い出す。ストレート短歌の傑作である。

朝五時の下宿に聞きし「荒城の月」紡績寮の起床の合図 金治幸子

 作者はかつて毎朝、「荒城の月」に起こされたという。しかもそれは、紡績寮の起床の合図だという。なんで、朝っぱらから「荒城の月」やねん。気が滅入るにもほどがある。毎朝毎朝、こんなメロディーで起こされて、仕事する気になんかなるんだろうか。女工さんたちにとっても、この歌はトラウマになってるだろうな。こんな名曲を、「とっとと起きて働け」という合図にするとは、名曲に対する冒涜である。しかしこの歌は、ある意味シュールである。なんか、唐十郎の芝居やつげ義春の漫画のような、抒情とギャグの絶妙な配合を感じる。歌はね、修辞まみれにしなくたって、こんな事実をぽんと歌っただけでも、シュールになるのだよ。わかるかね、加藤くん。

つぎつぎと車がイタチを轢いていくイタチは生まれかわるだろうか 邑岡多満恵

 痛々しい歌だ。イタチの死体の上を、通り過ぎる車がつぎつぎと轢いてゆく。作者は、結句で「生まれかわるだろうか」と問いかけているが、僕には、「もう生まれかわらなくていいよ」という作者のまなざしを感じる。自然の少なくなった中で、イタチも生きてゆくのは大変だろう。その死は無残だが、ふたたびイタチになるにせよあるいは人間になるにせよ、どう生きても無残なこの地上に二度と戻ってくるなという作者の祈りを僕は感じた。いやこれは、作者の意図とは違うかもしれないが、轢かれ続ける死体という光景に、生まれかわってくるだけの価値のない世界のさまが浮き彫りになっている。

夜である証拠みたいに藍色のパジャマに着替え祖母と語れり 柴 夏子

 一読、不気味さを感じた。その不気味さは、もっぱら初句と二句がになっている。「夜である証拠みたいに」。この表現は不思議だ。精神病と同一視しては失礼かもしれないが、心病んだ人たちのなかには、とにかく比喩がしつこくなるタイプの人がいる。「あれそれがまるでなにかのあれみたいなこれみたいなようにさもそうしたげにそれこれするんです」という感じの喋りかたなのである。この歌も、「証拠」というすでに論理の含まれた言葉と「みたいに」という直喩を重ねることによって、作者の不安定な心理状態をはからずも(はかってるのかもしれないが)表現している。結句の「祖母」もなにか不穏である。どう読んでも、この歌にはタナトスが満ち満ちている。この連のほかの作品にも、いつものこの作者らしからぬ澱みを感じる。この人の歌はいつも弾んで、弾けていたのだが。

算盤の工場の窓に母を見て珠けづる音に登校しけり 藤原勇次

 この歌に対して、余計なコメントは必要ないだろう。そのまま、味わっていればよい秀歌で、ある。大いなる郷愁の中で、母を歌い上げることのできる作者を羨ましく思う。僕にできるコメントはそれだけだ。
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:49| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

2006年12月18日

654 「塔」十二月号「陽の当たらない名歌選」

 気になる歌があったが、赤丸チェックしなかった。翌日、秀歌だったように思えてきて、確認しようとしたらどこにあったかさっぱりわからない。僕の赤丸チェックは、マッハの速度のスーパーソニックである。だから、どの辺りにあったかすらおぼえていない。くやしい。皆さん、ちょっとでも気を引いた歌があれば、ちゃんとチェックしておいたほうがよいです。あとで探そうと思っても見つかりません。海に落としダイヤモンドみたいなもの。まあ、そのうちまた、偶然に見つかるかもしれないが、今回は紹介できない。残念だ。
 今月の赤丸歌。花山欄作品1、166首。栗木欄、100首。真中欄、102首。吉川欄、130首。澤辺欄、122首。池本欄若葉集、71首。計691首。

      「塔」十二月号「陽の当たらない名歌選」

 過疎かそと嘆くを止めて沖を見よ「黒潮町」は鯨来る町 吉門やすし
 昼寝せよ昼寝はよいと工場のつめたい床にわれら寝転ぶ 深尾和彦
 算盤の工場の窓に母を見て珠けづる音に登校しけり 藤原勇次

 かき氷の赤に染まりし舌のまま歯科医に行きぬ夏の日の午後 福島美智子
 秋風に煙草をやめた訳をきく父はしずかに小犬を撫でる 原 ゆきこ
 授業開始十分がすべて集中力の続かぬ少女と向き合へるとき 伊藤理恵子
 似顔絵を舞台で画かれし老人は遺影にしますと礼をして降りぬ 清水千登世
 みんなどこへ行つたんだらう校庭はもつと広いと思つていたが 青山幸重子
 出棺の時刻と思い手を合わす海の向こうの逝きたる甥に 里田美恵子
 「黙祷終わり」告げたる人は一分間秒針見つつ祈りていしや 本間温子
 褒められてさびしきわれは煮魚の身をはがしたり箸の先にて 松村正直
 他に意味はあらぬごとくに「お迎え」といえばすなわち保育園へゆく 秋場葉子
 さうめんを束より抜きてかじるとき口の寂しさのみには済まぬ 朝井さとる
 二度三度お金のことで失敗し打たれ傷つき僧となるらし 河野悠吾
 運の良き人と結婚すべきであったと家計でいさかふ時に妻言ふ 総田正巳
 わたしより死に近いやうなことを言ふ娘はキッチンで水音をたて 柴 純子
 弟にはだまつてゐろと父は言へり病室のドアをうしろ手にしめて 渡辺のぞみ
 夜である証拠みたいに藍色のパジャマに着替え祖母と語れり 柴 夏子
 雷がひかりとおとをわけてゆく言語化のできぬ八月終わる 柴 夏子
 逃げ出しし豚を捜すと人々の騒ぐを後にし夕刊配る 石川 啓
 十四歳(じゅうよん)の耳にのこれる放送のドラマ『狩衣』割(さ)かれゆく恋 児島良一
 孫の顔桜金造に似しという嫁は言いても我は信ぜず 小山竹治
 「冷蔵庫ケーキ一杯入れといて」細く細く痩せし子が言う 渡辺美穂子
 朝五時の下宿に聞きし「荒城の月」紡績寮の起床の合図 金治幸子
 わが孤独いつも猫に見つめられ猫の日常よりはみ出ることなし 長谷部和子
 夏風邪に呪文のように葱きざむつくづきひとりになりたき夕べ 上條節子
 つぎつぎと車がイタチを轢いていくイタチは生まれかわるだろうか 邑岡多満恵
 震へつつ打ちあがりゐる花火かな卵子を探す精子のやうに 横山美子
 萎えし花をつぎつぎ摘めるステテコの夫よ第二の職に馴れしや 石田和子
 終い湯にひたりつつ聞くとなり家の老犬おほいなる鼾 川田伸子

 以上、一読して強烈に印象に残った歌三十首。
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

653 松木秀さんに応える

 今日も、日記の内容を差し替える(こればっかりや)。松木秀さんのMIXI日記を読ませていただいた。無断ではりつけるわけにいかないので、以下の文章から内容を類推してほしい。誤解があるようなので、僕の考えを丁寧に言います。松木さんは、結社間に争いがあるごとき書きかたを僕がしているとおっしゃるが、そんな結構な事態は現在、ない。ないからこそ、僕は争いをかきたてるべく日々努力しているのだ。歌壇のこの、もたれあいの現状にうんざりしているからだ。歌集評という問題にしても、僕は前から行っているが、たとえば、巷間注目を集めている歌集を一冊テーマに選び、賛否双方の評を同時に見開きで載せるという企画ぐらい、総合誌結社誌は立ててみたらどうだ、と言っているのだ。その論争のなかで、現代の歌壇の問題が浮き彫りにされるのではないかと真剣に思っているのだ。今の歌集評って、ただの褒め合いでしょ?それは、文学として絶対おかしい。加藤治郎の「環状線のモンスター」、これは賛否があって当然だと僕は思う。加藤の歌には、好むと好まざるとに関わらず、個性があることは認める。ならば、激しく好きな人と嫌いな人がいて当然である。でなければ個性とは言わない。「塔」の歌人のなかには、これを激しく批判したい人がいるはずだ。立場上批判しづらいのであれば、僕のような下っぱに書かせてくださいと言っているのだ。そんな内部事情はないというのなら、そのように言ってほしい。そんなアンチ加藤な潮流は「塔」にはないよ、と言われても僕にはちょっと信じがたい。もちろん、罵倒せよと言っているのではない。批判である。映画専門誌の評でも、以前は「問題作」というものを取り上げ、賛否双方の評を載せていた。それが映画評の力となり、読者をも惹きつけてきたのだ。今はそうした企画は皆無。だから、映画評自体すでに死んでいるのだ。短歌評も、同じ轍を踏みたいのか。今は、評というよりも完全に「解説」である。読んでいて、参考にはなるが、ただそれだけのことで、いらいらしてくる。
 加藤批判をすることによって、「未来」が「塔」に反感を持つとすれば、それはそれだけの関係であり、堂々と決裂すればいいと言っているだけの話だ。加藤を批判することは「未来」の批判とはなるまい。加藤を好きな「塔」会員、結社同士波風立たせずにやっていきたいという人々の気持ちを考えろ、という意見は、「加藤の批判をしてほしい」と思っている「未来」会員、波風立ったほうが歌壇のためにいい、という人々のまえで相対化される。配慮というものは、なにも「それを好きな人」「争いを避けたい人」のためにばかりあるべきではあるまい。僕が「塔」にそれを求めるのは、「塔」が、全国一の柔軟性を持った結社だと信じているからだ。反論があればお聞きしたい。それぐらいのことをしなければ、この褒め合い、もたれ合い、贈与の応酬等々、この腐れきった、サロン化した、虫歯だらけの歌壇を変化させることはできないではないか。僕は、自分がごく当たり前のことを行っていると思いますが、違いますか。
 競馬、十連敗を食らった。当たり前の話だが、十レースに連続して負けたということだ。信じられん。今年残すは有馬記念。一点勝負しかないだろう。私の予想は、井崎脩五郎化している。諸君、私の買い目を外して馬券を買いなさい。トホホホホ。
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2006年12月15日

652 愛知杯前日予想と、歌人の無知と怠慢

 現在、9連敗中。タイ記録である。ここは、連敗を止める。愛知杯、相性がいい。勝たせてもらえるはずだ。
 アドマイヤキッスの追っかけをやると以前日記に書いたが、男心と秋の空。危険だなあ。まず、前2走の敗戦が腑に落ちない。下降気味かもしれない。今回、斤量56キロ。しかも、時計のかかり始めた中京競馬場だ。一番人気といえども、ちょっと臭い。軸は、6番ニシノフジムスメから行く。斤量53キロはベスト。しかも、調教時計が素晴らしい。調子がよほどいいんだろう。対抗は、一番メジロトンキニーズ、15番ソリッドプラチナム。穴は、13番ピアチェヴォ―レ、12番ロフティーエイム、7番スプリングドリュ―だろう。
 前日予想結論。馬連1−6、4−6、5−6、6−7、6−10、6−12、6−13、6−14、6−15。タテ目が難しい。これはパドックで決めようと思う。一案・1−7、1−12、1−13、二案・7−15、12−15、13−15。馬体重等で予想は変わるかもしれないが、まずこういう線で間違いないだろう。勝つ予感がする。私が十連敗なんてそんなこと、過去一度もなかったんだもん。みなさん、大いに参考にしてください。

 「塔」十二月号が届く。ぱらぱらとめくって、西之原一貴「短歌時評」が目にとまった。青磁社のホームページにおける論争を紹介している。

 おそらくは電子メールでくるだろう二〇一〇年春の赤紙 加藤治郎

 この歌がその論争上でひかれていたそうだが、僕は途中から読み始めたせいか不覚にも気がつかなかった。この歌に対して、小高賢は、「危機感がゼロ」と批判している。僕は、この歌がダメであることには同意するが、僕の理由は、危機感のあるなしとは関係がない。

http://hideo.269g.net/article/3380005.html

 ここを読んでいただけばわかるが、この歌における、ネットやパソコンというアイテムの扱いが陳腐で雑だからダメだと僕は考えるのである。現実的にこのような事態があり得るかどうかは関係ない。大いにあり得るとしても、文明批判としてまことに薄っぺらである。五十年以上も前、アメリカのSF作家が出しつくしたネタをもっとも陳腐なかたちで引用している。僕が問題にしているのは、加藤が、そのこと(SFや科学をめぐる事情)を知らないはずがないと思えるからだ。古臭い表現だとわかっていながら、「どうせこいつらそのへんの文学思想の歴史知るわけねえし」と煙に巻いているのである。加藤治郎の存在および短歌は、そういった意味でも、もっと真摯な批判にさらされるべきである。が、セックスにせよ、近未来的ガジェットにせよ、表層的にすくってことさら軽軽しい詠みかたをする加藤にころりと騙されるということは、要するに歌壇の上層部がものを知らずサブカルチャーに対しては白痴同然だということを意味している。もうちょっと優しい表現をすれば、サブカルチャーに対して、無知。だから、加藤もどきの、薄っぺらい、言葉遊びのうまいだけの歌人を、現代のみずみずしい感性のなんだかんだといって持ち上げるという無残なことになっているのだ。たとえば、笹公人「念力家族」をまともに鑑賞できる歌人が、歌壇にだれかいるのか。はなはだ疑問である。多分私一人であろう。加藤の欺瞞と、笹の抒情との間には100億光年のへだたりがある。加藤を本道に、笹をお笑いに分類してしまう歌壇の読解力のなさにおれは日々血の涙を流している。
 何度も言うが、俺に「環状線のモンスター」の歌集評をやらせろと言っているのだ。「そんな文句があるならそれこそブログで書け」と言う人もいるだろうが、それはやらない。なぜなら、バカバカしいからである。私のこの、あえて世間になんの貢献もしないくだらないブログに載せてやるにはあまりにももったいないからである。「塔」も私にこれを書かせないようでは、口ばっかりのヘタレ結社であると言ってよい。「塔」の歌風と、今をときめく加藤のそれは相容れないはずである。当面、「塔」は加藤を評価不評価、どちらの記事も載せず、あたかも同じ時空に存在していないかのようなポジションをとっているように見えるが、これは消極的な逃げであると言わざるを得ない。「塔」が「塔」たる文学性を固持するためには、むしろ積極的に加藤と、その象徴する短歌作法を批判攻撃に転じるべきであろう。それでは「未来」との仲がまずくなるのなら、もともとたいした仲ではなかったのである。堂々と決裂しなさい。そもそも、結社間対立を避ける体質をこそ打破しなくては駄目なのだ。「塔」はいろいろとオピニオンを掲げているが、加藤ひとりを批判できずになんのオピニオンだ。もしも、永田和宏主催や吉川宏志が「俺は加藤の歌好きだよ」とか言ったら、僕は堂々を批判を浴びせるつもりだ。加藤を認めることは、「塔」歌人たるアイデンティティを否定するにひとしい。であるからして、私に「環状線のモンスター」ッ評を書かせろと言っているのだ。だいたい、歌集評というのはどこもかしこもホメ言葉ばっかりである。おまえら、褒め屋か。恥ずかしくないか。たまには酷評罵倒するような歌集評を書いてみろ。それが、ジャンルの活性化につながるというのに、なぜわからないのだ。まあ私も、いろんな歌集評を読んで、ホメ言葉というものを学びたいと思います。
 ゴマを〜すりま〜しょ〜陽気にゴマをね〜あすりすり!(植木等)
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:51| Comment(8) | TrackBack(0) | 日記

651 ワタクシを陶酔させたお言葉

 最近、酒を飲まない。というか、あまり飲めない。たぶん体が衰弱しているのだろう。最近はアルコールの勢いにまかせて日記を書くということがない。そのせいだろうか、ここ数日の異常なアクセス数増加は。正直、感情のたかぶったままで日記を書きなぐっても、アクセス数は伸びないのだ。どこかやっぱり醒めた視線が必要なのだなと再認識した次第である。コメントをたくさんいただいて嬉しいかぎり。「無価値なブログ」というのには笑った。そうなのだ。インターネットなんてのはしょせん仇花だと僕は思う。ブログでまともな評論やったってしょうがないしな。だから、もっともっと好き放題なことをみなさん書いてちょうだいと言っているのだ。小泉前首相は「インターネットは便所の落書」とおおせになったそうだが、便所の落書には便所の落書ならではの強烈なインパクトがあるのだ。便所の落書も、数が増えれば徐徐にボディブローとなっていくのだ。雑誌に載ってるおじゃうひんな歌壇時評より、この日記に書いていることのほうが的を射ていると僕は思うんですがね。
そんななかで、最高の褒め言葉をいただいた。冨樫さんの、「あんなバカを相手にするな」「もう黒田さんのブログを読むのもコメントをするのもやめなさい」と、何人かからメールで忠告をいただいた、というものだ。僕はもう陶酔のあまり失神しそうになってしまった。僕はこういうお言葉をこそ待っていたのだ。表現者として最高に栄誉な言われようではないか。アニメ「ルパン三世」は、識者たちからワーストアニメに選ばれたとき声優スタッフ一同で大喜びの祝賀会を開いたそうな。心ある人々の眉をしかめさせ、良識派を憤激させ、PTAから悪のかたまりと決めつけられる。ああ陶酔。「未来」の「彗星集」の歌人がこのブログを読むと除名になるという噂さえ流れている。ちなみに「彗星」とは、ハレー彗星とかああいうのの意味だろうが、実体は氷とゴミのかたまりで、ぐるぐる意味もなく回っていずれは消えていく存在だそうである。いや別に嫌味じゃないですよこれは(笑)。また、冨樫さんへの忠告、ということは、「短歌人」内にも私への批判憤慨が高まっているということで、私はもう遠足にいく子供のように興奮しちゃって眠れそうにないわうふふ♪僕の性格だろうか、「目の敵にされる」ということが大好きだ。「目の敵」って、ブラックホールみたいな存在感があるではないか。俺は黒田。まさにブラック。どんどんくだらない奴は飲み込んで事象の地平で消滅させてやるぞ。2ちゃんねらーども、何をやっとる!辰巳泰子のことばっか書きやがって、しかも読んでもさっぱり意味がわからん。もっとちゃんと俺の悪口を書かんかい!最近出てないぞ、俺が!
歌集の読者数2万という加藤説等等の話題で、肝腎の穂村、加藤、俵対談について述べることがさっぱりできない。来週こそやりたいが、ひと月遅れになってしまったではないか。どうしてくれる。
 最後に、このブログの騒々しさとは対極にある、静けさに満ちた四首を挙げてをはりとしたい。

      今日の四首

 ガラス窓に眼鏡かちりと当たれるに目をさましたり秋の夜のバス 吉川宏志
 灯りたる窓石鹸のにおいせり路地には夜のかたまりがある    同
 顔のうらがわをなみだのながれると言いし人あり夜が静かだ   同
てのひらは雨に濡れてもいいところ窓から出せば雷(らい)がかがやく   同
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:35| Comment(5) | TrackBack(0) | 日記

2006年12月14日

650 「与党内野党」

 けったいなコメントをいただいた。僕が、上のものを批判しない偽善者だという。彼の言う「上のもの」とは、藤原龍一郎、小池光、吉川宏志、栗木京子、河野裕子あたりのことを言うのだろうか。なんで俺が、別に批判するネタもないのに彼らを批判せにゃならんのだ。また俺は、この人たちが好きだから「塔」「短歌人」に所属しているのだ。自明のことだろう。なんの文句がある。また、「上の者」というのを定義するのであれば、加藤治郎批判がそれに当たるだろう。なぜなら、加藤氏は「未来」の選者でもあり、どっかの新聞の選者でもあるんでしょ?歌壇的にずえんずえん、僕など後塵を拝することもでけないくらいご立派なかたではないか。僕は、歌壇はもちろん、結社内でものし上がっていこうなどという気はない。本気である。この日記を読めばわかるだろう。ただ、「塔」「短歌人」の体制に批判すべき点があるときは、今までも言ってきたし、これからも指摘し続けるつもりである。「塔」に関しては今のところなんの批判点も見出せない。つまり僕は、歌壇外にいるのではなく、結社に所属して、あくまで歌壇内にいることによってその立場を鮮明にする、いわゆる「与党内野党」でありたいと思っているのだ。歌壇の外から歌壇の批判をぎゃあぎゃあわめいても意味がないからだ。だから、両結社にとって、僕はさぞかし煙たい縁の下のたんこぶだろう。また、アクセス数を公開しているのは、読者へのサービスである。増えているのは事実だから増えていると言ったまでである。ただ、この数の増えかたにはさすがにプレッシャーを感じている。正直今、アクセス数が連日1000を突破している。が、このプレッシャーに負けずに好きなことを書いていく所存だ。そろそろ、アクセスを落とすために映画のことでも書こうかな。
 歌壇時評がつまらないと言われてひさしい。当たり前だ。「時評を依頼されること」がすなわち、ステイタスを意味してしまうからだ。そういうかたたちには「歌壇の柵(しがらみ)」というものがさぞかしたくさんあられるだろう。そういう人たちが、まともな批判精神でものを書くわけがないではないか。だから、「歌壇時評」というもの、およそ出世の目のないようなのにやらせるべきである。「Iさん(仮名)、歌壇時評の担当になったんですって。可哀想にねえ。これであの人もおしまいだわ」といわれるくらいでなくてはいけない。そうなればIさん(仮名)は怒りまくって、なんでも好きなことを書きまくるだろう。僕なんか、最適だよね?考えてみれば、このブログも正直な歌壇時評だろう。だから読者数も増え続けているのだろう。ただ批判罵倒する短歌ブログならほかにもあるが、どこも独りよがりで読むにたえない。僕は、批判や罵倒をするときは、ことさらに読みやすさと論理性に気をつかっている。それと、面白い表現となるように。それが娯楽性というものだろう。だからたいていの読者は、この日記を腹を立てながらも娯楽で読んでいると思う。もはや習慣としてこのブログを訪れてくるのである。ふふふふふキミタチ、私の術中にはまっているね。「面白い」という感覚は恐怖よりも強く、だれも逆らえないのだ。
 競馬は現在、9連敗中。これは、過去タイ記録である。十連敗はない。つぎは愛知杯GV、ここは、儲けるより的中をひたすら考えたい。

      今日のMYビデオ
「大学の若旦那」(昭和8年、松竹蒲田、清水宏)藤井貢、水久保澄子、逢瀬夢子、光川京子、三井秀男、徳大寺伸
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:22| Comment(9) | TrackBack(0) | 日記

2006年12月12日

649 へたれの塊

 十二月に入って、アクセス数、読者数がモーレツな勢いで伸びている。特に読者数は驚異だ。ひと月5000人の壁は突破できまいと思っていたが、このペースでいったら越えそうな勢いだ。なぜこのブログの読者数が伸びるのか。答えは簡単だ。僕が、歌人や歌に対する好き嫌いを鮮明に打ち出しているからだ。あたりまえのことのようだが、実はこれが大事なのだ。今の歌壇を見よ。エッセイにせよ評論にせよ、どこに書き手の個性と主張があるというのか。曖昧模糊とした表現で垂れ流した提灯記事ばかりが溢れているではないか。ご本人は、雑誌に載ったことでひとかど歌人のつもりでいるだろうが、あんたらの文章なんぞだれもまともに読んじゃいねえよ、とはっきり言っておく。文学者たる者、旗幟を鮮明にすること、好き嫌いをはっきりさせること、それを独自の面白い表現で人に読ませること、を心がけなくてはいけない。昨今の歌人の文章には、読ませる努力というものがまったくうかがえない。まあ多分、50人程度の仲間を想定して書いてるんでしょうな。歌壇だの結社だのにおける立場ばっかり気にしやがって、へタレどもばかりである。また、「黒田のブログなんか読むもんか!」と思いつつも、麻薬患者のようにこのサイトをつい開いてしまう人も多いだろう。あたりまえだ。僕は僕なりの緻密な戦略でこの日記を書いている。読者数の多い書き手は、そういう計算をしているはずだ。歌人どもには、政治性はあっても戦略性が皆無である。日本の軍人と同じで、だから負けるのだ。
 一流の創作者とはなんだろう。僕に言わせれば簡単だ。それは、一流の批判者を持った者を言う。映画で言えば、あまたの小津、成瀬ファンがいるのと同時に、アンチ小津、成瀬もまた大量に存在するのである。黒沢明の「天国と地獄」に対して、若き日の映画評論家佐藤忠男は、黒沢のマチョズモを批判する痛烈な評を書いた。いまの歌壇は、絶賛とお追従ばかりで、「これこれはしかじかの理由でダメだ!なぜなら―――」と発言するような批判者など皆無であろう。だから、ひるがえって言えば、一流歌人もまた存在しないのだ。たとえば、近藤芳美や岡井隆はその若手時代、相当批判されボコボコにされたはずだ。また、藤原龍一郎もそうだろう。加藤治郎は、僕に感謝すべきである。強烈な批判を加えることによって、加藤を一流歌人に押し上げているようなものだ。ろくに表現力もない取り巻きどもにちやほやされるより、これは宣伝効果としてはるかに高いのである。加藤批判は、「塔」の西之原一貴、吉川宏志がチクリとやってはいるが、甘い甘いぜんぜん甘い。「塔」の歌人たるもの、加藤の歌を認めがたいものと感じて当然だろう。なぜなら、「塔」の王道たる人間性ある歌と、加藤の表現しているものは、真っ向から対立するからだ。だから、「塔」の連中が、加藤様をお招きして京都の散策をするなどとんでもない話である。加藤が入洛したら新幹線から降りさせず車内に蹴り戻すくらいでなければ「塔」の存在証明はならない。だから、俺に、「環状線のモンスター」の批評をやらせろというのだ。クールに粉砕してやる。
 歌壇よ、いい加減に馴れ合い文章を書くのをやめないか。もっと真剣に、読者人口を増やすことを考えるべきだろう。読者人口を増やすためにすべきことは、活発な論争である。それを通じて、読者は歌人それぞれの立ち位置を知り、好きな歌人を見出す契機となるであろう。ただ歌うだけでなく、旗幟を鮮明にし、評論し、論争し、ネットで発言していかなくては、歌人というものの存在性は薄まるばかりである。短歌ブロガーの皆様、何やってんだ。そうやってねえ、淡色系の壁紙貼って褒め言葉にかくれて癒し系の言辞をたれ流してるだけじゃ、似たもの同士のへたれが心にもないホメ言葉をくれるだけで、まともな読者だったらだ〜〜〜〜〜れも読まないよ。
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:54| Comment(5) | TrackBack(0) | 日記

2006年12月11日

648 加藤治郎〜いつまで甘やかしてるの?

 椎名夕声さんに「メールで赤紙」の歌というのを教えてくれと頼んでおいたら、コメント欄にアップしていただいた。

おそらくは電子メールで届くだろう2010年春の赤紙

 作者名を検索してみたら、加藤治郎だった(失笑)。椎名氏は、わざわざ作者名を記すまでもないとおっしゃっており、有名な歌らしいが、こんな代物を歌壇が認めておるのか?歌壇て、そんなに歌を読む力がない場所なの?椎名氏は「どこがどうつまらないかの議論が待たれる」という意味のことを言っていると僕は思ったので、わざわざ考えたのである。この、あまりにも自明につまらん「歌」のどこがどうつまらんかを。至難の業である。どこもかしこも黒いカラスのどこがどう黒いか説明するの愚にも似て。しかし、ない頭を絞っているうちに思いついた。モノの扱いが雑なのである。電子メール、とりもなおさずネット社会というものを題材にしていながら、それが旧態依然の「オヤジ視点」から一歩も出ていない。相も変らぬ、「現代=便利=無味乾燥」という図式であり、「無味乾燥」の部分は例によってポップだキッチュだと粉飾して読んでくれる読者がおるのだろうが、なんのことはない、実はモノが変化することによって生まれる抒情というものにとことん鈍感なだけである。これは、新しものズキなくせに世界観は果てしなく古い連中にありがちな感性で、僕はSFにはそれほど詳しくないが、端的に言ってこの歌を作った加藤の感性のなかには、モノの持つエロスへの触覚がまるでない。皆さん、アトムは色っぽくなかったですか?HAL9000の運命に涙しませんでしたか?それは理屈でなく肌で感じるものであり、それができないものはいつまでたっても近未来小説を「文明批判」という五十年前に終ったような視点でしか読めないのだ。科学を礼賛しろと言っているのではない。科学には科学の、染み入るような抒情が見出せるはずだ(例・笹公人)と言っているのである。さきごろ話題となった、西王燦氏の考えるポップアートと、僕が忌避するポップアートの違いもこれだろう。ウオ―ホルがダメなのは、とっくに叙述のジャンルで血のかよったものになっているアイテムを、新しがってコラージュ仕立てにして大量のバカをだましたからだ。本当は人間の作り出すもので、意味を剥奪できるものなど何もありはしない。機械はむしろ、大いなる抒情の器ではないかと、機械音痴の僕だって思うのだ。
 「塔」短歌会に、マジにお願いしたいことがある。私に、加藤の「環状線のモンスター」なる歌集の批評をまかせてはいただけないか。2ページはいただきたい。もちろん、この日記でのような感情的な罵声、罵倒はいっさいしない。僕なりにクールな評を書いてみたい。「塔」の存在理由を証明するためには、加藤批判をやらなくてはいけないと、僕はマジで思う。また、加藤自身にも、一度冷水をぶっかけたほうがいいだろう。それが本人のためともなるはずだ。この歌集の絶賛の評と併載するのがよいかもしれない。僕はこの歌集を通読してはいないが、雑誌結社誌に載る評者なるものが秀歌として引く歌どもを見て呆れかえっている。歌集全体のレベルがうかがえるというものだ。また、これを褒めっぱなしでは、歌壇の恥ともなるでありましょう。しかし情けないなあ。歌を読むレベルがこの程度とは。「塔」短歌会には熟考していただきたい。僕は、冗談を言っているのではないのである。
 アンチ加藤が実は多いことも、ブログを初めて知ることができた。短歌を始めてから出たもので、批判する歌集評というものを今までのところ目にしたことがない。僕が、かつては存在したかもしれない熾烈な批判評の端緒を開いてみせようではありませんか。歌壇の病理というのは、実は僕が思っているより、もっと深いのではないかと恐怖さえ最近感じている。政治家、土建屋もかくや。
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:14| Comment(4) | TrackBack(0) | 日記

647 論争と演歌歌手

 短歌のブログやホームページが隆盛だなどとあちこちでのたまわれているが、正直言って、内容が濃くて世間に媚びない、かつ単なる暴言ではない、読んで面白いところは非常に少ない。公開する意味がどこにあるのかと、僕などは疑問に思うことがしばしばだ。そんな中で、青磁社のそれはすこぶる面白い。大辻隆弘と吉川宏志が交互に書いている短歌エッセイ、そしてそこに寄稿された小高賢の文章が三つ巴の論争を繰り広げており、わくわくしながら読んでいる。いい論争というのは、読み手をどちらかに加担させるものではなく、読むことによって双方の意見それぞれに刺激を受けるようなもののことだと思う。結論を出すことが絶対ではないのだ。問題の提議と、それをめぐる論争こそが大事なのだ。
 以前僕が、吉川さんのことを「歌壇界の佐藤忠男」と評したのは、彼の文章が実に読みやすいからだ。内容は非常に高度なのだが、表現が平易で、私みたいなバカにもよーく読めるし、最後まで読ませる力を持っている。こういう書き手は、歌壇においてまれであると言っていい。それと、温厚そうな見かけと裏腹な、鼻っ柱の強さも魅力的だ。いずれ彼は、大組織となっていくであろう「塔」の中心人物の一人となるであろうが、こういう論争力は大いに武器となることであろう。かつて藤原龍一郎氏との間に激しい論争があったと聞く。残念ながら僕はそれを読んでいない。読みたいな。誰かコピーして送ってちょうだい。
 僕は、「文学者というものが何故弱いか」ということをここ数日の日記で何回か真面目に説明した。決して自己韜晦や煙に巻くつもりでなく、あれは本気で書いたことだ。それに対してまともな返答をせず、揶揄するような口調でしかコメントできない人のことを僕は残念に思う。富樫さん、あなたのことですよ。そういうのをこそ、野次と言い、遠吠えというのではないですか。なぜ、僕の考えるような選歌のありかたがよくないのか、ちゃんと説明したことが一度でもありますか。説明はしたとおっしゃるかもしれませんが、僕に言わせればあれは説明になっていません。弱さはそれ自体では罪悪ではありませんが、自分の弱さを盾にとって皮肉や野次に逃げ込むのは、罪悪の名にも値しない行為でしょう。「どうせ私にはついていけないから」で逃げようとするのは、自分の世界を確かに持とうとする覚悟の欠落ではありませんか?ただ居心地よく過ごしたいというのなら、まともな人間ならどうぞご勝手にと言うでしょうが僕はまともでないので、それはたいへんよくないと申し上げます。とにかく、論争はいいことだ。どんどん論争し、どんどん紛糾させていただきたいものである。僕は阿呆であるので、論争を通してしか歌壇の現状というのは見えてこないのだ。大辻、吉川がんばれ。ついでに小高もがんばれ。

      今日の一首
 三十年間演歌歌手をしてゐるといふさびしい男とおふろで一緒 小池光
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2006年12月10日

646 推敲の余地

 自信満々で送った歌が、結社誌に掲載されてみると、「あれ?」と思うことがよくある。なんかしっくりこないのである。「塔」11月号に採られた拙歌のひとつを紹介してみたい。

 無機質なビル群車窓(まど)に見ゆるとき安堵する我となりにけるかも 黒田英雄

 実はこの歌は、選者の花山多佳子氏が、もとの歌の文法ミス一箇所の訂正と、助詞の差し替えという推敲をしてくれたうえで載ったものだ。僕が違和感をおぼえたのはそのことではなく、作ったときの感動が、いざ載ってみると、なんか気持ちが悪いのだ。まず、四句めの字余りと、結句の安易さがなんとも我ながら胃にもたれ、もやもやするのである。だから、この日記の月末短歌特集「号泣」にこの歌を入れるときは、このようにさらに推敲したものにした。

 無機質なビル群車窓に見ゆるとき心安らぐ我となりたり

 このほうが、なんかすっきりするのである。自分の思いをストレートに言いおおせた気がする。
 昨日まで僕がやかましく言っていたのは、「すでに掲載された歌をさらに選評する欄において選歌は厳しくあるべきだ」ということだが、その前の、そもそもの出詠歌のなかから掲載歌を選ぶ最初の段階では、故島田修二氏いうところの「ストライクゾーンぎりぎりならストライクと見なす」、多少の瑕があろうともの寛選であるべきだ、と思う。花山氏にしても、秀歌だからではなく、送った10首の中ではまだましな方だということで採ってくれたのだろう。だからこそ、僕もさらなる推敲ができたのだ。これだけ短い韻律なのに、頭のなかでひねっているとき、紙に書いたとき、あるいはネットに書き込んだとき、そして結社誌に載ったとき、こうも歌の印象というのは変わるものか。つくづく思った次第である。それにしても、田舎の温泉から帰ってくるとき、東京のこの薄汚い光景に景色が戻っていくのを見てほっとする俺というのは幸せなのか不幸なのか、いったいどちらなのだろう。

      今日のMYビデオ

「丹下左膳餘話/百萬両の壷」(両は旧漢字)(昭和十年、日活京都、山中貞雄、脚本・三村伸太郎)大河内傳次郎、喜代美、沢村國太郎、花井蘭子、深水藤子、高勢実乗

 この映画は、戦後公開される際、GHQによってクライマックスの大立ち回りが封建的という理由でカットされ、その部分のフィルムは現存していない。残念きわまりない。日本映画は、戦前は、軍部の圧力でさんざん検閲でカットされ、戦後は占領軍の圧力でこまぎれにされている。だから俺は軍人は大っ嫌いだというのだ。あいつら、芸術のゲの字もわからねえ芋にいちゃんの集団である。日本映画は、戦前戦後を通じて検閲の暴力にさらされ、貴重なフィルムが多数焼失している。ボロボロにされている芸術である。それにしても、若いころの大河内傳次郎って、アナーキーだったんだな。彼の殺陣は、まさに瞬発力のそれであり、様式美を尊ぶ戦後のそれとはえらい違いである。この辺誤解されているようだが、戦前の殺陣のほうがアナーキーで暴力的である。中村錦之助や片岡千恵蔵の戦後東映映画と違って、とにかくスピード感にあふれているのだ。木枯し紋次郎のリアルな殺陣を斬新だと思ったのはとんだ認識不足であった。戦前の映画は、本当に新しい。
ニックネーム 茶トラのみんく at 01:09| Comment(5) | TrackBack(0) | 日記

2006年12月09日

645 高安国世の言葉

 選歌をめぐる問題についての日記が続いたが、たいへんな反響である。8日現在、アクセス数が過去最高記録を更新している。読者諸氏に感謝したい。
 僕は以前、「塔」会員のかたから一通の手紙をいただいたことがある。僕の歌が好きで、「毎月楽しみに拝読しております」という主旨の内容だった。このかたはインターネットをやっていない。僕のブログから、僕に興味を持ってくれたのでないことはわかる。相当最初のころから読んでくれているからだ。僕は、感激すると同時に、自分の思いは正しかったと思った。毎月欠詠せずにこつこつ詠み続けている者に、読者は必ずいる、ということである。村田馨さんがおっしゃるところの、「短歌を楽しみでやっている人」に僕はなんの文句もない。ただ、選者が取り上げてくれないからといって落胆し、歌を中断してしまっては、これは絶対にもったいない。そういうことではない、歌は、選者に採られるために作るのではなく、ただひたすら自分のために詠み続けるものなのだ。そして、そういう営為は、必ず誰かの目に止まるのである。「塔」や「短歌人」に、自分の歌が載ることを名誉と考え、黙々と歌を発表し続けることこそが大事なことだと僕は思う。だから、選者たちも妙な気配りをせず、いいと思った歌を取り上げるべきだ。でなければ逆に、会員に対して失礼である。そしてまた、結社誌は、選歌欄を現在の平均よりももっとたくさん設けるべきだ。名歌選や秀歌選を十人がやれば、十人十色の選のはずである。それが、短歌のおもしろいところだろう。よいしょするわけではないが、せめて「塔」程度の選歌欄数を各結社とも持つべきだと思う。そしてまた、結社は、会員に対して積極的に選歌を担当させるべきだ。今問題になっている、「歌を読むということ」を、強制でもいいからやらせるべきである。その期間中は大変だろうが、必ずや本人のためにもなる。「読み手」がこんなに不足し、「読み手人口」がかくも少ないことに、僕は非常な危機感をおぼえている。詠み手過多、読み手過少の状況を当たり前とうそぶく人たちの神経を僕はうたがう。この問題に対して、様々なコメントをくださったみなさんにはたいへん感謝しております。ありがとうございました。言いたいことは言いつくしたので、この問題はとりあえずここで句読点を打とうと思います。
 最後に、高安国世氏が「塔」編集後記に記した言葉を引用して結びとしたい。僕のたいへん好きな言葉である。

▲作品の配列はもともとあまり意味をもたせていない。良い作品はどこにあっても良い作品なのだから、見る人が見ればわかるはずなのだ。(63年7月)
▲盛大にやっている雑誌でも、選歌が実になまぬるく、ズサンな作品をたくさんならべているのに今更ながらおどろいた。その点、「塔」はちがうと自負している。各個人の個性を自由に伸ばすということと、選をきびしくするということは矛盾しないと思うが、十分心してやっていきたい。(65年4月)
▲私たちの中心はやはり作品にあるのだから、これはやはりよいことだ。一人一人選者になったつもりで、注意して人の作品を読んで下さい。(64年6月)
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:37| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

2006年12月07日

644 弱いからこそ

 昨日の日記に対して、いくつかコメントをいただいた。正直言ってうんざりした。もう一回言いましょう。めんどうだが。富樫さん、僕は、「弱い人間は短歌をやってはいけない」などと一言も言っていません。この場合の「弱い」という言葉は、「繊細」という言葉に置き換えられるでしょう。短歌に限らず、演劇、文学、絵画、芸術にたずさわる人間の大半は繊細で傷つきやすいものたちです。それと同時に、あらゆる創作ジャンルにおいて、批判というのはつきものなのです。繊細な人間だからこそ、批判に対してビビッドに反応し、自己を防衛するために戦い、また、慰撫するがごとき文学的不純性には拒絶感を抱くのではないでしょうか。富樫さんの言っておられる「弱者」とは、僕に言わせれば、自分だけ繊細だと思っている、実はルーズで鈍感な人間のことではないですか。だってそうでしょう。簡単に言ってしまえばこういうことでしょう。「僕の歌、だーれも取り上げてくれない。ぼくちゃん悲しい。だったらやーめた」。違いますか?弱いのは当たり前です。しかし、その文学をやっていこうとするならば、傷ついたくらいでやめるもんですか。創作者が弱く傷つきやすいのは、かりそめの幸福感より真実を尊重してしまうがゆえに、その感性の刃が自分にも向いてしまうからです。貴方の言っている「弱い人間」とそれとは違うでしょう。貴方の論理は、まさに昨日の日記のタイトルで揶揄した通り、結社誌の学級文集化と一緒ではないですか。学級文集だったら、先生は誰でも取り上げ、ホメてくれますもんね。本心はどうあれ。
 たぶん富樫さんの意見が、歌壇の多数意見なのだろう。だからなれあいの、ホメあいのと内外からバカにされるのだ。おおよそ「僕の歌をホメて、取り上げて、じゃないとやめちゃうよ」という連中が多い世界など文学集団とは言えない。そんなにホメてもらいたいか!いや、ホメてもらいたい。しかし、そのために、選者はもっと目配りをしてほしいとか、そこまでふぬけたことは思わない。目を向けざるを得ない歌を作ってやろうと思うまでだ。それが、創作者の態度というものだろう。違いますか。いいですか、僕は真っ当なことを言っているのです。もう一度言います。選歌欄というのは、選者が投稿歌の中から、優れていると思える歌を取り上げる欄である。この意見のどこがおかしいですか。ちゃんとまともに答えていただきたい。ここまで言っても僕の主旨がわかりませんか。
 このブログを始め、コメントを読んでいて、僕の、「短歌は好きだが、歌人という人種は嫌い」という思いがますます深まってきた。絶望的なまでにである。彼らの大半の態度は文学者のそれではない、甘ったれた歌人もどきのそれである。こんなことを言えばまた、富樫さんはこう言うのでしょうね。「大半の人は黒田さんほど強くない」。強くないからこそ、やっと見出した自分の居場所をよりよくしていこうと、売らんでもいい喧嘩を売って立場をまずくしつつしがみついているのだ。「強い」人間は決してこんなことはしないのだ。富樫さん、わかりますか。
 今日も、日記の予定を差し替えた。そろそろ、別な話題に移りたいのだがいたしかたない。これに関して言いたいことは出つくした。これで判ってもらえないのであれば、絶望感はつのるのみである。
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:01| Comment(7) | TrackBack(0) | 日記

2006年12月06日

643 結社誌は小学生の文集ではない

 日記に、富樫由美子さんよりコメントをいただいた。困惑している。僕は、加藤治郎の歌が「売れている」ということを批判したことは一度もない。加藤の歌それ自体を批判しているのである。歌集が売れるのは結構なことだ。僕は僕なりに、真摯に加藤の歌を批判している。最近の記事ではこれを参照されたい。