2007年01月30日

692 横山美子氏へのコメント返し

 bU84の日記に昨日書いたコメント返しに、横山美子さんからさらにコメントをいただいた。以下、引用し、返信をもって本日の日記としたい。

>黒田さん、47歳で短歌を始めたから、短歌に対しての学習ができないなどと悲しいことを言わないでくださいませ。私は50歳で始めました。でも、まだまだ学習できると思っています。いや、これからはこの短歌に対する学習を私の生き甲斐にしようと思っているくらいです。大体、今の歌壇は若い人を重用しすぎると思います。確かに若い人には瑞々しい感性があり、相聞歌などを詠える有利があることは認めます。しかし人間生きている限り日々新たです。熟年になることも、その人にとっては新しい体験であり、新しい発見の可能性に繋がるのです。私達遅く始めた人間の不利をいかに克服するか、それが今後の課題だと私は思っています。黒田さん、皆さん、生意気なことを書き込みまして失礼いたしました。(最敬礼) 横山美子

>横山様
 おっしゃるとおりです。横山さんは大変頑張ってらっしゃると僕は思います。ただ、短歌をめぐる教養についてオーソリティーになるのは、僕に限って言えば到底無理だと諦めています。オーソリティーというのは、別な言い方をすればオタクですね。知識の蓄積は、やはり脳の柔軟な若いうちから始めないととうていその膨大さに追いつけません。横山さんの意見は正しいと思います。僕自身のことです。ただ、諦めたり絶望したりしているのではなく、行けるとこまで行こうと開き直りの気持ちを持っています。あれやこれや、歌集を読むのではなく、やっぱり絞り込んで読んでいきたいですね。昨日も書いたけど、短歌史的な価値よりは、その第一歌集にリアルタイムで触れることのできた歌人たちをやはり重視してしまいます。歴史上の人物にかまけている時間は、はっきり言って僕にはないのです。有名ではなくとも、有望な現代歌人がたくさんいるのですから。どうしても若手のほうに目が行きますね。と言っても、僕は「塔」と「短歌人」の若手しか知りませんが。いずれにせよ、お互い遅く短歌に目覚めた者同士、この短詩形を愛して死ぬまで詠んでいきましょう。
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2007年01月29日

691 インターネット短歌の終焉

 「短歌人」2月号を読む。谷村はるか氏の時評「透明な制度、澱のたまる人生」が載っている。歌葉新人賞が、第5回をもって終了するという。ある種複雑な感慨を覚える。僕はこの賞の熱心なフォロワーではない。斉藤斎藤氏の受賞をおぼろげに知るばかりである。にもかかわらずあえて論評させていただくと、インターネット短歌の限界としてのマンネリ化の表れなのでは、と思う。僕は、インターネット歌人などという存在などないと最初から思っていた。荻原裕幸氏は、「オンデマンド出版ブランドを世に知ってもらうための企画」だったと正直に述べているそうだ。僕も、この出版方式はいいと思う。惜しむらくは、なぜインターネット歌人のみがその対象であったかということだ。ネットで応募するという要件さえ満たせばいいとはいうものの、結社に所属し昔ながらの出詠方法でやってきている歌人が参加するとは思えない。やはり大部分は、「ネット上でのみ読み結社にも結社誌にも所属しない」応募者たちであったはずだ。しかるに、この賞の最終候補者たちの顔ぶれが常連化し、ついに廃止の結果を見たのだそうだ。なんとかテコ入れができなかったのか。この賞の、審査過程の透明性と、受賞者に歌集出版を約束するという報償性はすばらしい。これは、権威を嵩に着るばかりで受賞者をまるでフォローしない大手の短歌新人賞に爪の垢でも煎じて飲ませてやりたい。これらの利点にもかかわらずこの賞が終息してしまったことの裏には、インターネット短歌、インターネット歌人というものに、やはり限界があったということではなかろうか。誰にでも気軽に発表の場が作れ、気軽に書きちらし、安易に同感してくれる相手に慰撫されている状態では切磋琢磨というものがなく、無限の自己肯定に陥らざるを得ないだろう。自己、というものは実は、それ単独では深みも内面もない。関係性を断ってしまえば、あるのは単なる日常の気分のみで、似たかよったかになるのは目に見えている。「周りに汚されないワタシ」に酔っているのだろうがなんのことはない、水溜まりが他の水溜まりと同じなごとく同じである。僕の持論は何度も言うが、インターネットというのは作品を発表するのではなく、あくまで感想や意見を述べる場所である。短歌は縦書きで活字となって初めて生命を得るのである。とは言えやはり、歌葉新人賞の終焉には複雑な思いがする。これでいいのかという憤りに近いものすら感じる。主催の「短歌ヴァーサス」ですらが、生き残りのために新たな戦略を迫られているのではないか。はっきり言うが、加藤、穂村、荻原の3氏では、戦略性として役者不足である。古臭さとはまた別な意味で柔軟性に欠け、お人柄から察するに対立激論分裂つかみ合いなどを避け、独断専横などもっての他という顔ぶれであるが、パワフルな牽引車というものが文芸の集まりには必ず必要なのである。仲良し倶楽部では駄目である。このへんは、「塔」主宰永田和宏のエネルギッシュさを見習ったほうがいいだろう。彼は、戦略性に富んだ優秀な主催者である。「短歌ヴァーサス」がこのまま穏健方針で行くならば未来は暗い。歌葉新人賞の終焉というのは、インターネット短歌の終焉をも暗示していると、反論は多々あろうが、あえてここで断言したい。時評子がマンネリ化していたと述べているのがその証拠であろう。打ち切りという事実は重いのである。当安輝素日記みたいに、あまりにも面白すぎバカバカし過ぎると打ち切りになる、ということもあるかもしれないが、この場合は違うだろう。もっと深刻で根深い問題だ。短歌は、いまターニングポイントに来ている。なにも、昔に還れと言っているのではない。現在は現在で、インターネットに代わる新しい勢力が出てくるべきではないのか。それが何かは僕にはわからないが、そういう時代に来ているのだと思う。インターネットの隆盛が衰えることはないだろうが、インターネット短歌は衰えるだろうと僕はここにはっきり断言する。これだけ、この賞の存在と消滅の意義は、インターネット歌人たちにとって大きかったと思うのだ。

      今日の4首

忙しさは心を亡くすことなどとしたり顔なりこのばかやろうは 永田和宏

走り去る車窓に最敬礼せし男怒りを顔に見せて振り向く 小林信也
一本締めの団結ポンとできあがりおまへの嘘を俺は知ってる 同
大阪でがんばっている父さんへ」さうか俺はがんばつてゐるか 同
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2007年01月27日

690 楽に勝てる競馬なんぞない!

 東京新聞杯、400円、本線的中!大本命で、楽な競馬だったろうケッ、だって?とんでもない。こんなしんどいレースはなかった。まず、当日のオッズシートを見て吃驚。エアシェイディとスズカフェニックスの馬連が430円(競馬新聞のオッズ予想では870円)。そして、エアとブラックバースピンのオッズが970円(同1610円)。これは参ったよ。この差には参った。これでは、エアから8点買いなんてできやしない。まず、出走回避のメテオバーストを皮切りに、牝馬のキッストウへブン、体を減らさないキングストレイル、パドック入れ込みすぎのキネティクスを切りまくる。結局、エアから二頭本線に、イースターとホッコウソレソレーの馬連4点勝負となった。結果は、二着・一着・三着・四着・着外。ほぼ完全的中である。それで、たったの400円。しかもだ、レースはひやひやものだった。インに突っ込んだエアシェイディの進路がふさがれ、思わず「あああ、あかん」と叫んだが、わずかの隙間からやっと伸び、二着に来てくれた。オッズほど楽な競馬じゃなかった。混戦な今年のマイル路線、エアとスズカフェニックスは最有力だ。特に武は、この馬でGT勝っていないマイルCSを制覇したいだろうな。馬券マイラーの僕も、この二頭には注目する。
  ローテーション競馬にしてから、緊張感がすごい。毎週やるのではなく、年間23レース前後と決めて、ワンレースのみを一週間検討し、賭けるのだ。もちろん、賭け金も半端ではない。体に悪いね。今日なんか、残り少ない胃袋と肝臓が飛び出そうになった。第三戦は、次週、小倉大賞典GVだ。芝の1800は本来なら勝負しないが、注目馬が出走してくるからやるのだ。東京新聞杯を使うかなと思ってもいたが、やはり平坦の小倉を使ってきたな。誰のことかは言わない。それは来週のお楽しみ。二戦二勝、回収率466・5%という好スタートを切ったが、366%の勝ち分なんてすぐに消える。僕は、競馬の怖さを知っている。100円でもいいから勝つ、という守銭奴となって、暮れの有馬記念まで年間プラスを達成したいと思うのだ。ぐわんばるぞ!
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追記

 エアシェイディ連体自信率95%。
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2007年01月26日

689 必勝!東京新聞杯前日予想

 オールカマーでこの馬に賭けて大損をこいたが、その時、僕は、この馬は実はマイルに向いているのだと直観した。僕が直観するくらいだから、陣営はなおさらそう思ったのだろう。その誤、マイル二戦を好走している。ここを使うだろうと思っていた。待ってましたよ、はい、軸馬は4番エアシェイディ。開幕週のパンパンの良馬場、平均ペースだが淀みのない流れ。タイムは、1分33秒前半から、32秒台中盤までくるかもしれない。末脚33秒台を持つこの馬には、絶好の舞台である。もし、ここを惨敗するようであればこの馬の将来はない。彼もそのことを十分承知であろう。陣営も彼本人(馬)も、必勝態勢で臨むはずだ。ここは、ぶざまな競馬はできないぞ。僕は密かに、彼は今年のマイラー路線の主軸を行くと思っている。ここは、連軸鉄板と考える。一番人気ながら、単勝が360円というのは、今が買いどきかもしれない。僕がオッズをつけるなら、180円が妥当なのだ。
 対抗は2頭。10番ブラックバースピン。開幕週の府中は意外と前残りが多い。早目のスパートをかければ、十分この馬にも勝機がある。鞍上は、府中GVにやたらと強い田中勝だもんな。12番スズカフェニックス、この馬も確実に追い込んでくるだろう。ただ、彼にはちょっと運がないな。その辺が不安だが対抗に推す。穴として怖いのは、大外16番キネティクス、内枠2番イースター。一発あるぜ。人気の一角、8番キングストレイルは、どこまで体を絞れるかだ。府中というのも、ちょっとピンとこない。だから連から落とす。でも怖い。
 前日予想結論。本線馬連4−10、4−12。準本線、2−4、3−4、4−16。以下、ガミにならないように、4−6、4−7、4−8と賭ける。オッズ次第では三連複4−10−12も面白いかもしれない。いずれにせよ、エアシェイディにとっては試金石となるレースである。ここは勝っておかなければ、彼の将来はない。僕は、この馬はマイルGT路線で今年活躍すると見ている。頑張って欲しい。グレイゾーンは、14番グレートジャーニー。なんか気になる馬だなあ。買おうか買うまいか迷っている。いずれにせよパドックで切れる馬は切り、いいなと思った馬は買いたいと思う。こういう、「臭い馬」の判断って難しいんだよなあ。後で泣くこともあるし。まあ、パドックパドック、とにかくパドックだ。今現在雨が降っているが大丈夫だろうか。止んでくれるでしょうね!?雨だったら予想を立て直さなくてはならない。あ、もう止んだ。多分明日は降らないだろう。
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

686 背中も鉄板、競馬も鉄板

 背中の筋肉疲労は相変わらず取れない。医者の言った通り、やはりこれは腰痛というより、筋肉疲労が腰に来ているだけの話なのだろう。背中が鉄板みたいでまいった。鉄板で思い出した。明日は中二週を置いての、ひさびさの競馬予想である。京都金杯大賞、そういうときはどんどん賭けたいものだがここはぐっと二週間我慢した。ローテーションを守らなきゃね。もちろん、しっかり競馬番組は見ている。
 東京新聞杯、すでに意中の馬は決まっている。たぶんここを使うだろうと思っていたのだ。今週から、予定では競馬4連闘になる。一月二月の重賞戦って、案外好きなのだ。明日の予想を乞御期待。
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2007年01月24日

685 詩人とは白いインク

 半年ぶりに、腰痛に襲われた。医者に行ったら、筋肉疲労だという。腰は悪くないが、年に一回は訪れる痛みなのだそうだ。やっかいなこっちゃ。よって、昨日の日記は休んだ。予定通り、今日はできるだけ多くの歌にコメントしたい。

どつこいわれは生きてゆくのさ夕やみは男の青きほほに似てゐる 千名民時

 山本薩夫監督に、「どっこい生きている」という映画があったが、この初句のつかみが非常にすがすがしく、思わず目に止まった。上句のスローガン的で冗談めかしたな威勢のよさが下句の詩情と釣り合いをとっている。夕暮れ、うっすらと髭を浮かび上がらせて青めく男の頬には濃厚な男性性とむさくるしさと情けなさ、として諦念とロマンがごった煮となって浮かんでいる。希望と絶望、そのどちらも究極の回答ではない。なれど死なず、されど生きるのである。一発で僕の愛唱歌となった。

履歴書の趣味・特技欄いっぱいに白いインクで「詩人」と記す 相原かろ

 これも気持ちのよい歌だ。「白いインク」は、もちろん人の目には見えない。読むことはできない。考えてみれば、詩人とは、世間ではそういう存在なのではなかろうか。石井輝男の映画によく描かれているが、冷たい雨に打たれ、街のかたすみで詩集を売っているのだ。だが詩人とあからさまに名乗るには世間はあまりにもがさつで鈍感だ。詩人は坑道のカナリアであるので、死なないためには詩人でないふりをしなくてはならない。だがそれだけに、名のられなかった詩人の覚悟は深く自分の中に刻まれ、世界に対するナイフとして研ぎすまされていくだろう。その見えない矜持のすがしさが下句にはみなぎっている。白いインクという表現が秀逸である。

名画座の在りしは確かこの辺りいかに在すか笹森礼子は 西尾憲治

 吉永小百合でもない。浅丘ルリ子でもない。北原三枝でもない。松原智恵子でもない。芦川いづみでもない(しつこい)。笹森礼子を出したところにこの歌の成功はある。笹森礼子。可愛いかったがそんなに可愛くもない。美人ぽかったがそんなに美人でもない。色が白かったかといえば、白くもない。要するに、強烈な個性のない女優であったが、日活ムードアクション系のヒロインにほとんど興味のなかった僕にして、彼女だけは別格だった。彼女には、誠実な潔癖性というものが漂っていた。足も太かったが、全然気にならなかった。とにかく誠実なイメージのヒロインだったのだ。トニーこと赤木圭一郎との共演がもっともしっくりきていた。最高だったのが、「紅の拳銃」(昭和36年、牛原陽一)。これはトニーの遺作ともなったが、トニーが消えるとともに笹森も消えてしまった。赤木圭一郎の持つ陰も、誠実な青年の懊悩を感じ、僕は好感を持っていた。彼は白髪だらけだったという。それを染めていたのだ。赤木+笹森コンビのムードアクションは、とにかく切なかった。消えてしまった名画座というものを象徴するのに、笹森礼子はもっともふさわしいヒロインだろう。笹森はのちに、平凡なサラリーマンの妻として平凡に生きていると、以前フォーカス誌の隠し撮り記事で読んだことがある。この女優の名を出す作者も、通の映画ファンなのだろう。こういう歌が増えてほしい。

真夜中にふたりで分けたラーメンの匂い夜風に漂えば秋 西之原正明

 一読、一気に三十年前にワープしてしまった。ラーメンとはもちろん即席ラーメン、私が想像するに、銘柄はチャルメラ。恋人同士かあるいは友達同士か、飲み明かし語り明かした晩にお腹がすき、ひと袋しかないラーメンを半分こした、というイメージが湧く。もちろん、季節は秋がいちばん似合っている。歌とは、なにもこざかしいことを表現する必要はない。こんな単純なことを韻律にすることで普遍性を持つのだ。これはまさに青春歌であり、おぢさんである私の想像力を掻き立ててくれるのだ。

吊るされた帽子が揺れて路地裏にしばし漂う道化の時間 金田光世

 サングラスがスパイを、ハイヒールが悪女を、パイプが作家や演出家を象徴するように、帽子は道化を、漫画家などよりもより強く象徴する。帽子ぬきの道化やピエロなどというものが想像できるだろうか。リア王の道化の第一声は「このとんがり帽をくれてやろう」だし、わが国においても幇もちはしばしば変にたれさがった帽子をかぶって現れる。そして、道化ぬきでそれのみとなった帽子がへんぽんと干されているさまはなんともノスタルジックで、フェリーニのアマルコルドを思わず連想した。あそこに漂うノスタルジーは華やかさというよりは、死すべきものたちの行進の饗宴であり、通りすぎたあとの哀しみをあらかじめはらんでいる。数年前見た「リア王」では道化の帽子が手から手へと渡り、最後にはぽつんと舞台に残された。まるで道化こそが人間の悲劇を統べる存在であるかのようだった。また、寺山修司的なものも感じさせる。
 以下、取り上げたい歌はたくさんあったが、疲れたからもうやめた。笹森礼子で時間を取られすぎた。今号の「塔」は、秀歌が目白押しであった。会員諸氏の選歌欄に期待する。
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2007年01月22日

684 「塔」1月号・陽の当たらない名歌選

 名歌を三十首まで絞りこむのは大変な作業だが、何度もやっているうちに感覚が鋭くなってきたのか、あっという間にできるようになった。人の歌を選んでいく過程において、自分の短歌観もまた、たゆみなく構築されていくのであろう。歌は、絶対に、人から教えてもらって作るものではない。自らが編み出すものだ。私が選ぶ歌、それこそが名歌なのだ。今号も、注目作が目白押しだった。躊躇なく選んだ歌を紹介する。
 今月の赤丸歌、栗木欄作品1・147首。真中欄・125首。吉川欄・119首。澤辺欄・196首。池本欄・152首。花山欄若葉集・98首。計837首。

      「塔」1月号・陽の当たらない名歌選

どつこいわれは生きてゆくのさ夕やみは男の青きほほに似てゐる 千名民時
ウドン屋にうどんすすりいて語るなきやさしき老いの二人みており 坂根美和子
あなたとは一度も喧嘩をしなかった死に近き母がぽつりと言えり 徳永香織

八十過ぎてなほ帰りたきは川沿ひの養家(やうか)ならむか父の言ふ家 長谷部和子
ガスの火のぐるりと青き王冠をつけてひとりの夕餉をつくる 常盤義昌
「責めるのは簡単」したり顔が言ふその簡単なことさへせずに 千名民時
ランドセルむきだしのまま捨てられて朝からの雨しづかにつづく 青木朋子
あの人はとっくの昔に死んでいた柿実るとき十年分泣く 金森靖子
朝日歌壇に一首載りしを咎められ再開したるは離婚後なりき 高橋万里子
「また会おう」その言い方の軽さゆえ笑顔で頷く会わぬと決めて 乙部真実
喧嘩するにカ行というは力強し鴉二羽いて空のみなぎる 池田幸子
亡くなりし夫が居ないと町内を逍遥する人又歩みおり 石田貞子
きついねえあんたはと言ふその口で刺身を喰ぶるひと居ぬごとく 毛利さち子
どう思うと軽い調子で聞いてくる五人の部下はどいつもくらげ 深尾和彦
名画座の在りしは確かこの辺りいかに在すか笹森礼子は 西尾憲治
さやさやと石の耳朶冷えおれば任すというはたやすからざり 永田 淳
部品嵌むるひとと部品を外すひとと喫煙所にて目礼をせり 梶原さい子
杖をもち階段上り来き義父が金をくれむとす 九十五歳 岩野伸子
箸持ちてサウメンを追ふ人らゐて村の広場にゆくりと秋来ぬ 河村壽仁
舶来のスーツにぼろの靴をはく男の生業つひにわからず 遠田有里子
さまざまな武器を持ちたる右の手に今は静かに杖を突きゐる 藤本北夫
狼に見えなくもない影曳いて犬の小丸(こまる)が前を歩めり 柴 純子
完璧な社交辞令と分かるまで季節はひとつ必要でした 水口典子
吊るされた帽子が揺れて路地裏にしばし漂う道化の時間 金田光世
ああ僕は今を確かに生きている通過電車の風圧受けて 川端和夫
色彩のくらいビデオを灯り消しみているときのきみの体温 柴 夏子
真夜中にふたりで分けたラーメンの匂い夜風に漂えば秋 西之原正明
台風は家族を居間に集わせて思い思いの話をさせる 金丸繁利
履歴書の趣味・特技欄いっぱいに白いインクで「詩人」と記す 相原かろ
はじめてのくちづけののち欠伸せし人をにくみて愛し始めぬ 澤田広枝

 以上、三十首。新年早々、名歌目白押しである。これだから、「塔」を読むのはやめられないのだ。読者には、わかっていただけると思う。僕がなにを短歌に求めているか、短歌とはどうあるべきかということだ。

 小林信也氏から日記にコメントをいただいた。そのコメント返しに、日守新一の代表作を書くのを忘れた。彼は、戦前の松竹を代表するバイプレイヤーである。代表作は、唯一の主演映画、「一人息子」だろう。このビデオは、まだ廃盤になっていないかもしれない。松竹から発売されている。歌集を読むのも有意義だが、この映画をじっくり鑑賞することも、決して無駄な時間にはならないと思うのである。もしまだ入手できるようなら、購入しても損はないと思う。
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2007年01月20日

683 花と短歌と日本映画

 私が「花」に興味を持ったのは、「塔」誌にやたらと花の歌が多いこともあるが、この映画の影響もある。
 「次郎長三国志/海道一の暴れん坊」(昭和29年、東宝、マキノ雅弘)。
 これは、昭和28年から29年までに制作された、「次郎長三国志シリーズ」の第8作である。ここで監督のマキノは、驚くべきことに、原作者村上元三の許可を得て、彼独自の森の石松像を作り上げた。石松の金毘羅道中を、なななななななんと、遊女夕顔と石松の悲恋物語に書き換えたのだ。これがまた、ポエジイと言っていいほど、情感豊かに描かれていて、何度見ても飽きないのだ。藤の花と夕顔の花が、白黒の映像の中で見事に際立っている。邦画はずいぶん見た、こんなにも花が綺麗に息づいていると思った映画はない。
 作中にはうたも出てくる。遊女夕顔が石松に贈る相聞歌である。

 わがなさけ知るもわれなり知るほどにきみを恋ふるもわがこころから 夕顔

 こんな相聞のラブレター、欲しいよなあ。この歌いったい、誰が作ったんだろう。脚本家か?監督か?なかなかいい歌だ。石松は、遊女朝霧のために生きようと思うが、闇討ちに遭い惨殺される。「俺ぁ死なないよぉ〜、死ねないんだよぉ〜」とつぶやきながら斬り殺されるのだ。その時の演出が凄い。石松の隻眼、そのつぶれているほうの目が突如開眼するのだ。無鉄砲な生き方という無明の闇にいた男が、死なんとしたときに初めて生への肯定を獲得する刹那を象徴させた、見事な昇華のシーンといえよう。この作品は、「スシ食いねえ」の世界を期待する人には失望を与えるだろう。シリーズ7作までは大ヒットを続けたがこれはめでたく大ゴケ。結局、次の九作目で突如打ち切られることとなった。ただ、通の邦画ファンの間では語り継がれている伝説的映画である。ビデオはとおに絶版。俺、買っててよかった。石松は森繁久弥、彼はこの映画で一挙にスターとなった。
 次郎長シリーズは、東映で鶴田浩二や中村錦之介主演で撮られたり、大映でも市川雷蔵で作っている。しかし、この東宝のシリーズが抜群である。なんせ次郎長が小堀明男という、パッとしない二枚目俳優。だからこそ、全体のアンサンブルが跳躍し、フットワークのよい作品となっている。要するにノー・スターなのだ。いや、これから伸びようとする若手俳優を集めてのシリーズだったのだ。たとえば「大脱走」や、三谷幸喜脚本の大河ドラマ新撰組」もそのテイストである。余談だが、次郎長役小堀明男はその後落ちぶれた。個性のなさと、彼の傲慢さもあったろう。テレビ時代劇「天馬天兵」なんかに出てたもんな。ちなみに、天兵役の富士八郎は、なんとかいう宇多田ヒカルもどきの歌手の、そのまたバカ親父である。娘にたかろうとして醜態を繰り広げたこと、憶えている人もいるだろう(今思い出した倉田麻衣だ)。天馬天兵は、「変幻三日月丸」とともに、僕の子供時代の忘れられないテレビ番組だ。閑話休題。
 てな訳で、私は花に目覚めたのである。こんなやくざ映画が、そんな花の印象の強い作品だとは、やくざ丸出しのタイトルからは誰も思わないだろうな。
 日本映画と短歌といえば、有名なのはやはりハンセン氏病を描いた「小島の春」(昭和十五年豊田四郎)。この映画にも、コラボレーション風に、短歌が画面にインポーズされる。わがビデオライブラリーから、久々に引っ張り出して見直してみたいと思う。ああそうだ、ライ病歌人明石海人の歌集も読んでみたいなあ。映画のことを語ればアクセス数ががくんと減る。だから、気分のいいときに、「小島の春」のことは書きたいと思う。偉そうに言うわけではないが、歌人は日本映画を見なきゃ駄目だと、僕はつくづく思う。もちろん旧作を、である。短歌って、日本固有の文学でしょ。日本人を詠ってるんでしょ。なのに歌人たちは、映画といえば洋画のことばっかり詠うの?笑止千万である。俺、短歌やる前は、歌人とは邦画に詳しい人の集まりだとマジに思っていた。だって、短歌なんだもん。現代歌壇がつまらなく感じられるのは、この辺もあるかもしれない。かつての前衛短歌なんて外国かぶれもいいとこで、だから俺はいまいち興味がなく、影響もされないのだ。よろしいか、1930年代から70年代までの邦画のレベルの高さは世界級のものである。その斬新さは、いまだに古びていないのだ。
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682 黒岩剛仁「トリアージ」(ながらみ書房)

 「塔」一月号に載った僕の歌集評、「歌集探訪〜黒岩剛仁『トリアージ』」をそのままアップいたします。掲出歌と文章が関連しない場合がありますが、これは、字数の制限で取り上げるべき歌をすべて取り上げることができなかったからです。作者の作歌意図とは異なるかもしれませんが、まあ僕は僕の感じたことを書くしかないので、ご容赦願いたく思います。ところで、文章中面白い誤植があった。引用歌2首目、誤「短歌とは男子一升の仕事かと幸綱つぶやく霧島を呷り」正「短歌とは男子一生の仕事かと幸綱つぶやく霧島を呷り」。これは、誤植ではあるがすごく面白い。そう思いませんか。いや待てよ。そもそも俺が書くときに間違ったのか?でも、この「誤」のほうも捨てがたいよなあ。以下本文。

      歌集探訪/黒岩剛仁「トリアージ」

 タクシーの運転手殿に放屁され窓を開ければ夏来ていたり
 およそ人間の体験のなかで、他人のへをかぐというのほど情けないことはないのではないか。短気な人間だったら「客のいるとこでなにさらす」と衝動殺人事件に発展してもおかしくないような状況である。だが、運転手にわざわざ「殿」をつけた作者は黙って窓を開け、車内にこもるへの匂いと負けず劣らずうとうしい夏の到来を実感しているのである。窓は開けたものの、むっとくる臭気になんの違いもなかったのではないか。唱歌の「夏は来ぬ」とは対極をなす、都会の夏が屁との並列で婉曲に表現されている。
 たとえば、小林信也「千里丘陵」は、職場詠ながら、家族愛を基調としているため、松竹系の日守新一や、斎藤達雄を作中主体として思いうかべるが、独身中間管理職であるところの、この歌集の主人公は、東宝系の藤木悠を彷彿とさせる。同じ職場詠でも、都会という汚濁の巷による湿潤の感覚がこめられている。
 短歌とは男子一生の仕事かと幸綱つぶやく霧島を呷り
 柿色に葉を染めいたる桜樹は忘れられたる老優のごと
 不惑越え人生定まらぬわたくしは車寅次郎と夏を旅せり
 歌の題材は、町なかにごろごろころがっているものばかりである。それを作者は、掬い上げるというより、観察したくもないのに侵入してくるものと感じ、詠うことによってなんとかバランスを取っているのではないか。トリアージとは医者が患者の症状によって優先順位を決めること。人はこの説明ですべてわかったような気になりそうだが、僕は思う。実際の医療現場でだって、トリアージが効率よく厳密に守られてるはずはないのだ。腎移植さわぎを見よ。僕は、この作者によって「優先順位」という観念そのものが、疲労のなかで摩滅していくものと捉えられているような、そんな気がするのである。
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2007年01月18日

681 都忘れは好き、でもコスモスは嫌。

 いろんな方から、有意義なコメントをいただいた。松木秀「5メートルほどの果てしなさ」の現代歌人協会賞受賞には、僕はいまだに驚いている。僕が驚いているくらいだから、作者本人がいまだに驚いている気持ちもよくわかる。選考委員の顔ぶれを見て、松木氏を推したのは島田修三氏や佐々木幸綱氏であろうとは想像できたが、栗木京子氏も強く推したということを聞いてまた驚いている。私が一流歌人と認めたかたはさすがに選ぶ目も確かだと思った次第である。一流歌人というのは、歌だけよくてもそうは呼ばれる資格はない。選ぶ目というのが備わってこそである。新人賞や団体賞の選考において誰を推すかも、その歌人の価値を左右するメルクマールと言っていい。選を受ける側もただぽかんと、相手の顔の見えない選に甘んじていてはいけない。どんな歌人が自分の歌を採ってくれたのか常に意識し、、あるいは選者がどういう判断基準を持っているかを厳しく審議し続けなくてはいけない。選者もまた、選の対象なのである。そこに、良質な緊張感が生まれてくるのである。
 「塔」一月号が送られてきた。興味深い評論がたくさん載っている。じっくり読ませていただきたい。正直言って、短歌総合誌よりも、「塔」結社誌のほうが面白い。結社誌が総合誌を越えるということは大いにあっていい。いやむしろ、当然のことかもしれない。なぜなら、ある程度話の通じる相手を対象としたサークル誌というものは、遠慮会釈なく「濃い」ネタを持ち出せるからだ。また、好悪の念やある程度の偏見も一般誌よりは出しやすい。偏見は、この場合個性と言いかえてもいい。根拠ある断言や偏執なくして、面白い評論などありえないからだ。勢い、という点では、あまたある結社中、「塔」が抜きん出ていると僕は断言する。「塔」は恐るべき結社だ。

 ついに買ったぞ!写真満載、「野の花・町の花〜身近な花の名がわかる1089点」!短歌をやってなければ、こんな本一生手に取ろうとは思わなかっただろう。自分の歌に草花の歌があまりにもないのに突如気がつき、ちょっと芸がないかなと思ったせいだ。また、人の歌を鑑賞するとき、花が出てくるとさっぱりわからん。「ミヤコワスレ」はこういう花だったのか、初めて知った。太田裕美の歌に、この花の出てくる名曲がある。作詞は松本隆だ。その響きの美しさだけで聞き流していたが、写真を見て、詞の世界に一歩踏み込んで鑑賞できたような気がした。「ヌスビトハギ」なんて名前の花もあるんだ。知らなかった。でもやっぱり、僕は紫の花の写真に目が止まるなあ。キキョウ、リンドウ、フジ。桔梗は明智家の家紋。竜胆は木枯し紋次郎から。藤の花は、映画「次郎長三国志〜街道一の暴れん坊」(マキノ雅弘)の中で、石松と小政が喧嘩するシーンに印象的に撮られていた。このシーンを詠った短歌を「短歌人」に送ったが多分落ちたと思う。僕は、どうしても映像からの影響が、短歌を作る基調となってしまう。もちろんこの場合の映像とは日本映画のことである。僕は、凝り性である。それまで一顧だにしなかったものに興味をおぼえた途端、マニアックになる傾向がある。競馬もそうだった。今から、意識的に花の歌を作ってみたいと思う。びっくりするような名歌を作ってやるぞ。みとれよ。
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2007年01月17日

680 「コスモス」よ、威張るなよ!

 短歌賞数あれど、僕の中で権威ある賞といえば、角川短歌賞と現代歌人協会賞である。短歌研究新人賞は、どんどん地へと墜ちている。選考過程を大幅に変えない限り、歌壇賞に追い越されるだろう。歌壇賞といえば、僕は読んでいないのだが、応募者が380人を越えたと聞く。例年250人前後だったと記憶するが、これは大幅なアップである。短歌研究に応募するのをやめてこっちに流れた人が多いのかもしれない。僕の予想した通りだ。何か変えない限り、短歌研究新人賞のことはしつこいくらい当日記で追及していきたいと思う。
 松木秀の受賞により、現代歌人協会賞というものにすごく興味を持ち始めた。驚いたことに、この賞は各結社が、一冊ずつ自結社歌人の歌集を選考委員に推薦するのだそうだ。知らなんだ。でも考えてみれば、出版された歌集を選考委員が全部読むわけはないのである。と、すれば、推薦作を選ぶのは、各結社とも大変な作業であろうと思う。僕の勝手な意見だが、「塔」で言うなら、今年の推薦歌集は松村正直「やさしい鮫」か、花山多佳子「木香薔薇」(評判がいい。近日購入の予定)あたりではないか。どちらか一つだけ、となると、結社のだれが、どういう思惑で取捨するのだろうか。「短歌人」は民主主義的だから多数決ではないかと推察するが、「塔」の場合はどうであろうか。「塔」の歌人で現代歌人協会賞を受賞したという人を、寡聞にして僕は知らない。来年あたり一発当ててほしいものである。どちらかというと「塔」には角川短歌賞受賞者が多い。これも伝統か。
 「短歌新聞」に、例年通り「歌誌現勢表ベスト20」が載っている。このランキング自体には僕はあまり興味がないが、「塔」が「未来」を、出詠者数ふたりという僅差で抜いている。結構なことである。今後、この差はどんどん広がっていくと思う。出詠者の激減を短歌新聞は嘆いているが、どうってことはない。結社誌を面白くしようとしない、企業努力の足りない結社はどんどん潰れるがいいのだ。自業自得である。そして、結社がなくなった人はどんどん他の有力結社に入ればよろしい。だいたいが結社の数が多すぎる。それと、出詠者数すなわち結社の勢いとは言えない。自分がどこに載ってるかもわからんほどの人数を一冊に詰め込めば、自らの重みに澱むばかりだろう。「コスモス」なんて2298人も出詠者がいるという。これでは、減るほうがむしろ健全である。まともな創作集団だったら、ここまできたら普通は平和的に分裂するもんである。だって、昔「コスモス」を読んだとき、大松達知氏の新作を読もうとしてどこだか見つけられなかったことがあったくらいだ。また、どういう基準で並べていがるかも、部外者にはとんとわからん。地域別にはなっているようだが、それにまた1とか2とかついていて、結局わからない。また、僕はこの結社に悪い印象を持っている。どこの結社に入ろうかと悩んでいたとき、選歌システムについて電話で問い合わせたことがある。そしたら、エラソーなオヤジが出やがってよ、「選者指定かどうか?そんなこと読めばわかりますよ」とつっけんどんにぬかしやがった。俺は激怒した。どんなお偉い結社様か知らんが、入会の問い合わせをした相手にこんな態度では、今後の趨勢は衰えていくであろう。どんどん脱会するがいいのだ。よって、この結社にはすごい悪印象を持っている。偉そうにしやがって。「コスモス」関係者の皆様、弁明があれば言ってもらおう。とにかく、会員の多すぎるようなとこはどんどん減ってくに任せるといい。それが自然である。真面目な結社が伸びればいいのだ。「塔」「まひる野」「心の花」あたりが有望株だ。「短歌人」が伸び悩んでいるのは、絶対的リーダーという存在を欠くからかな。そこが瑕である。人間は、とくに日本人は、偉そうなやつにでかいつらをさせ、あんたはこうこうですと断言してもらってなんとなく安心するという面があり、たいていの人間は自分の文学的立ち位置を自分では決められやしないのだ。もしも「短歌人」編集部が、突如として結社未入会の短歌愛好家にかたっぱしから声をかけて、「ケナしてホメる」ムチとアメ方式でがんがん勧誘にかかったとしたらどうか。その場合、ホストの客引きじゃないが相手の歌に恋しているかのごとき物言いは不可欠である。人間誰しも、誰もわかってくれない自分の美点をわかってくれる相手にご奉仕したいと願っているのだ。人をバカにしているみたいだが、これは他人を惹き付けるときの必須条件である。先生と慕われる歌人なら必ずやっていることである。相手のめざすべき歌境をこうこうですと断言することも含めて。そうすれば一挙に会員は増えるだろうが、結社の個性としてはどうか。
「短歌人」にはかつて高瀬一志という勧誘の天才がいた。高瀬氏を欠いた「短歌人」はある意味、勧誘に不器用な集団かもしれないが、そこがいいという会員も多くいることと思う。一定数は維持できるだろう。本当は結社というのはそれでよく、むやみと人が増えればいいというものではない。
小島なお氏は、現在結社に所属していないという。結構なことだ。少なくとも、「コスモス」だけはやめていただきたい。俺は、本当にあの電話には頭にきているのだ。俺はしつこい。「コスモス」よ、会員が多いと思ってエバるなよ。
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:56| Comment(9) | TrackBack(0) | 日記

679 卑怯者だらけの国

 石川不二夫、なるくだらんペンネームの人物からコメントをいただいたが、下手な演出である。昨日も書いたが、「塔人」なる人物の正体は僕にはだいたいわかっている。匿名記事というものは、ほとんどまともに対応していないので放っといたが、当ブログの熱心な読者には不快感じを与えるかもしれない。よって、今後は、くだらないコメントをみえみえの偽名で書き込む輩には削除及び書き込み禁止の処置を取らせていただきます。しかし、石川さまのコメントには笑ってしまった。何を意図しているかは見え見えである。面白いので、もう少し泳がせておこう。
 なんに限らず、匿名の記事などにはまったく力がない。事情があって名を秘すか、重大な内部告発以外は無力と言っていいだろう。日本は、いま匿名の渦である。いちばん笑ったのが、イラクで人質になったボランティアの青年たちを、自己責任の名のもとにバッシングした連中が、肝腎の誹謗の書き込みを匿名でやっていたことである。なにが自己責任だ。今、わが国で死語となりつつあるものに、「卑怯もの」というのがあるだろう。なぜなら、日本にはもう卑怯ものしかいないと言っていいからだ。最大の侮蔑を表していた「卑怯もの」という言葉を投げつけられても、意味がわからずぽかんとする連中ばかりだろう。考えても詮無いことだが、インターネットに匿名の誹謗中傷を書き込む者たちの心のささくれ、荒廃はいかばかりであろうか。気の毒なことである。「塔人」さま、「石川不二夫」さまの内的廃墟はいかばかりであろうか。惻隠の情にたえぬ。いや、僕の心だって十分に荒廃している。その荒廃を、実名をさらしてネット世界で露出することが僕の戦いなのだ。匿名という武器をふりかざしながら、なんの爆弾発言も内部告発もできない人たちに憐れみを覚える。「塔人」氏などその最たるものだろう。この人も駄目だなあ。誰だか見当がつくだけにおかしい。
 僕は、社会の悪の木鐸とまで称される2ちゃんねるを、いつもへらへら笑って読んでいる。なぜなら、匿名の文章なんぞ木鐸にもどんたくにも何にもならんからだ。とてもまともに相手にする気にならん。とくに短歌関係の文章なんて、読みでのあるものをネットで探そうとしたらひと苦労である。だからせめて、実名で書くべきなのである。内容がバカで名前がニセモノときては、ほんまあなたは屁のような。
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2007年01月15日

678 「by塔人」氏へのコメント返し〜この阿呆タレが!

 昨日、「by塔人」なるかたからコメントを頂いた。こうおっしゃる。僕は、女に殺されるくらいの人間的欠陥があるから注意しなさいと。うわあああああああ、最高の褒め言葉である。僕は、女に殺されるという想像に快感をおぼえる。もちろん、林×須美みたいな化け物に保険金かけられて殺されるようなのではない。それは美しくない。私の好きな言葉は「痴情の縺れ」である。よく新聞に、痴情のもつれで殺されたという男の記事が載るが、いつもうらやましく眺めている。成瀬的でどろどろしていてよいではないか。人生捨てる覚悟で女に殺されるなんて男冥利に尽きるではないか。あくまで痴情のもつれであり、例の夫婦のごとき情愛の欠落した憎悪の果てのそれではない。もっと愛憎どろどろという世界である。僕なんかエリートじゃないから、そういうことあるかな?おお怖。おお、憧れる。ただ、俺は、ルーズに徹して生きていけない部分があるので、願望に終わるかもしれない。そういう意味では、女に殺されるために必要な人格的欠落が欠落しており、残念だ。それから、コメント子に、私に子供を作れとご忠告くださった。まあ、この人は、子供でも作れば人並みに苦労して一丁前の人間になるだろうなどと、くだらんことを思っているのだろう。この発言が、文学に縁もゆかりもない一般人のものならばスルーしよう。ただ、もしこれが歌人だとすれば最低の男である(まず女ということはないだろう)。断言してもいい。この人には、そこそこの歌しか作れまい。あくまで、どこまでいっても、そこそこの凡歌である。お前はばかか。子供がいようがいまいが、個々人は、それなりの苦悩を抱えて生きているのだ。それぐらいの想像力もないのか。それとも、俺に子供を持たせて、家庭内殺人の期待でもしとるのか。その予備軍はいくらでもいる。むしろ、現状においてその発生率の「低さ」に驚いているくらいだ。コメント子も、人ごとと思わず、殺されないよう注意するがよろしい。こんなことしか考えられないような親なら、子供から殺される素養には事欠かぬだろう。それから、「塔人」などというペンネームをお使いであるが、お前の正体はばれている。私の直感というものを甘く見ないほうがいい。私は勘が鋭い。あなたには言いたいことが山ほどあるが武士の情けでこらえてさしあげる。しかし、もう一回きっかけを与えてくだされば、奈落の底に突き落としてさしあげよう。私はなんせ、批判が大得意なのだ。人を批判したくてうずうずしているのだ。その時は生贄にしてやろう。
 バラバラといえば、セレブ以前に渋谷の歯科医である。僕がいちばん同情したのは被害者でも加害者でもない。勝手に殺し合ってろという感じである。かわいそうなのは、その歯科医の患者である。やっと型ができて来週入れ歯ができてくるという人、とりあえず歯を削ってガムをつめただけの人。どうしろとゆうのだ。歯医者というのは早くとも一、二週間はかかる、個人病院としては破格に付き合いの濃厚なジャンルである。だから、患者はかわいそうなのだ。殺し殺されたふたりのことはどうでもいいが、犯人に言いたい。「妹ぶん殴るまえに、オヤジの患者のことを考えろ馬鹿。それだから歯科大に落ちるんじゃボケ」。
 長谷川和彦監督「青春の殺人者」に面白い台詞があった。オヤジをぶっ殺した息子、水谷豊が自首すると言ったときの、母親市原悦子の台詞である。「これはウチの問題なんだから人様に入っていただきたくない」という内容のものであった。すごくリアルで、だからこそ館内は爆笑につつまれた。これは1977年の映画である。家族環境は今や深刻だ。このコメント氏みたいなノーテンキなことがよく言えると思う。明日はわが身なのだ。よくそのことを知るべし。また、何度も言うが、人間は子育てだけがすべてではない。子を持っていてもくだらん大人などいくらでもいる。いまは正直な時代だから、心のままに殺し合いをやっているのだ。子を持とうが持つまいが、人間は苦悩して生きている。コメント子のような馬鹿にはそのことがわからないのだろう。よい子にこそ気をつけろよ。彼らは親や大人や社会に気を遣って生きている。いつか爆発するだろう。そういう子供時代の懊悩をあっさり忘れられるからこそ、恥知らずにも親になり、このコメント氏みたいな阿呆をぬかすのだと言えるのかもしれない。コメント子よ、いい子だからって気を許すなよ。ちなみに、私は子供時代とってもいい子と言われていました。でも、常に殺意はあった。
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:46| Comment(10) | TrackBack(0) | 日記

2007年01月13日

677 女性べた

 今日、ひさびさに職場でいい気分になった。同僚女性から、「黒田さんてジョン・レノンに似てるね」と言われた。嬉しかったなあ。外見なんぞ気にするのは、25歳くらいまでである。正直、今はどうだっていいと思っている。ただ、ジョンに似ていると言われたのは二十年ぶりなだけに嬉しかった。高校時代ハチャメチャバンド「ムーンドッグス」を結成したころ、しょっちゅうレノンに似ていると言われていい気分になっていた。ジョン・レノンというよりジョン・ノレンだったな。音楽的才能も文学的才能も雲泥というか天と地というか神とミジンコというか、えらい違いだったが、やっぱり好きな人に似ていると言われると嬉しい。ただ、外形って、この年になるとほんとどうでもいいと思っている。
 またぞろ、バラバラ事件である。セレブのなんたるかはよくわからんが、まあそういうことにしておこう、セレブ女性の起こした事件だる。彼女を批判するのは簡単だがここではやめておく。問題は男のほうだ。思うに、最近の若い男性というのは、がいして「女性下手」なのではなかろうか。べつに、「女性上手」とはジゴロとかホストとか加藤鷹とか、そういう人々のことを言ってるのではなく、日常生活においての女性に接する態度や言葉使いを学習していないのが多いのではないか。女性にどんなことを言えば喜び、怒るか、最低限のことすらわかっていない。彼らは成瀬巳喜男の映画を見て勉強すべきだろう。「めし」、「驟雨」、「浮雲」、「妻」etc。時代は違えど、男女の根本的な問題提起ということではいいテキストになると思う。ただ怖いのは、彼らにこれらの映画を見せても、意味がわからないかもしれないということだ。とくに、むしろ登場する男性たちの心理がわからないかもしれない。男だって頑張らなくてもいい、卑屈でうじうじ悩んでもいいというメッセージが、この被害者夫にはわからなかっただろう。今どきの男性というのは精神がマグロと化していて、自分たちは女性を喜ばせる側の性だということが根本的にわかっとらんのではないか。アッシーとかミツグくんとかそういうことではないのだ。ものを貰えばとりあえずは嬉しいかもしれないが、それが女性の本当の望みではない。女性というのは経済の安定を求める動物だが、だからといって食わしてやっているなどという態度に出ていいわけがない。この殺された夫も、当てずっぽうだがそういうタイプだったのではないか。結婚制度というものは、長らく、女下手の朴念仁どもが、なんの精神的メンテナンスもせずに最低一人は性と食を満たしてくれる相手を確保するために機能してきた。女性が男につけこんで養ってもらってきたわけではない。その証拠に、養ってもらわなくてもいい女性たちはどんどん結婚離れを起こしているではないか。
 僕は思う。実は、女性が男性に求める第一義は経済力ではない。実は、働くのが向いているのは女性のほうである。女性は勤勉で、雑事をいとわず、企業人であれレジ打ちであれ変わらぬ態度で働く。男性ができる最大のことは、女性が働きやすいよう、愛する男性(自分)との生活を楽しく送れるよう、精神的にバックアップすることなのではないか。簡単な話である。彼女の価値観を大事にすればいいのだ。価値観の合わないもの同士が結婚するからこういう悲劇が起こるのだ。だいたい、顔や家柄、学歴などの箔づけで相手を選ぶなど時代錯誤もいいとこである。何度も言うが、無理に結婚するくらいだったら一人でいたほうが絶対いいですよ。それから、夫婦円満の秘訣のひとつとして、こういうことが言える。価値観の一致も大事だが、それよりも、嫌いなものが一致する、こっちのほうが絆を強める。敵に対して、人というのは強固に団結するからだ。うちの場合で言えば、とにかく映画文学短歌、好きなものが何ひとつとして一致しない。いつもお互いの好みを罵倒しまくっている。妻は啄木も成瀬も理解できない。ただ不思議なことに、私の嫌いなものと妻の嫌いなものが一致しているのである。あえて例をあげないが、こういうのは強いですよ。
 しかし、寝ているところをワインボトル(なんというセレブな凶器だ)で夫の頭を叩き潰した妻の憎悪というのは、凄かったんだろうな。この、セレブにまみれた女性は今後どうするのだろう。たぶん懲役十年の実刑7、8年で出てくるだろう。田舎に帰るわけにもいかず、働いたこともなく、プライドも高いだけに生きづらいだろうなあ。こういう女性は多いだろう。女性も、もっと考えなきゃね。シンデレラ願望なんぞ、21世紀にはもう朽ち果てた思想である。だって、そんな度量の広い王子さまなんて、どこにもいないんだから。おりません。絶対にいない。たぶん彼女は、監獄の中で頭を冷やすだろう。短歌をやってほしいなあ。結社に入るなら「短歌人」が向いていると思う。こういう人こそ歌人にならなくてはいけないのだ。彼女の心の闇というものを、ぜひ歌で知りたいし、読みたい。これはセクハラ発言になるかもしれないが、美人であるだけに痛々しい。男よりも、彼女に僕は同情する。正直、女性よりも男のほうが馬鹿だと思っている。男はうぬぼれ屋でこらえ性がなく度量が狭い。いつもいつも、女性から許してもらってばかりである。男は男と話すより、女性と話すときほど気を使わなくてはいけないのだ。このへんは勘違いされているであろう。もうオヤジどもなんて絶望的である。妻に殺されても文句が言えないようなおっさん、何人も知っている。言葉の暴力、ということがわかってないなこいつら。本来的に日本の男というのは真の意味での「女好き」ではない。好きなのはその肉体ばっかりで、女性と会話を楽しむということがわかっていない。女性は女性でもホステスや風俗みたいな、絶対批判してこない相手としか話せなくてどうすんだ。女性とは、口論するのではなく、話を聞いてやるのが男にできる最良のことである。
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:47| Comment(6) | TrackBack(0) | 日記

676 花はどこへ行った

 僕の、結社誌や総合誌で活字化された歌は、現在のところ473首である。今日あらためてノートに書き出したそれらの歌を読んで、呆然となった。「おれの歌、植物がぜんぜん出てこねえ!」。あったあった、一首だけ。

 朗らかに夫恋ふるひと職場にてりんだうの花抱きて帰りぬ 黒田英雄

 これとても、見たままを歌っただけで、リンドウじゃなくてひまわりだろうがへくそかずらだろうがなんだっていいのである。僕はだいたい、植物の知識がまったくない。結社誌を読んでいたら、「百日紅」とあったので、妻に「ひゃくにちこうってなんだ。新しい線香かなんかか」と訊いたら思いっきり馬鹿にされた。「さるすべり」と読むのだそうだ。と教えてもらったところでどんな花なのかとんとわからぬ。よく短歌に、上句で心情を詠い、下句にその心情を植物に託すというパターンのものがある。「塔」に多い。いつも、「またかよ、ケッ」と思って読んでいるのだが、最近それも芸のうちかなと思うようになってきた。ちょっと植物図鑑を買ってこようと思っている。僕がイメージできる花といえば、マンジュシャゲ、りんどう、ききょう、バラ、チューリップ、たんぽぽ、藤。旅先で、「あれ、しょっちゅう見るけどなんて花?」と妻に訊いたら「コスモスじゃん!」とまたしても馬鹿にされた。よし、コスモスはもうおぼえたぞ。芸として、花の歌も作らないかんかなあ、と最近思う。ただ、私は無知だが、たとえば世間にマンジュシャゲを詠った歌は山ほどあるが、あまり成功しているなと思う歌はない。名歌といわれる歌にもあまり花の歌はないんじゃないか。琴線に触れるものは少ない。しかし、

 白藤のせつなきまでに重き房かかる力に人恋へといふ 米川千嘉子

 これはいい歌だと思った。花の持つイメージと、心のありさまがちゃんと照応していてごまかしがない。花に無知な僕が言うのもおかしいが、結句が内容と関係となくただ花の名前、などというイージーな歌を垂れ流してほしくない。それとなー、花の名前にルビをうてルビを。ほとんど読めねえよ。だから、「ひゃくにちこう」なんて読んで妻に馬鹿にされるのではないか。作った当人は気取ってそうしたのだろうが、読めなくてはしょうがない。ルビを打て!「短歌人」に、意識的に作った花の歌を一首入れて送ったがたぶん落とされるであろう。採られたら、嬉々として紹介したいと思う。なんせ私の歌で花が出てくるのは上記のものとこれのふたつのみなのである。
 僕はどうも、人間にしか興味がない。道端に草花が生い茂っていても、そこに意識がいかないのだ。ただ、吉川宏志の「海雨」など読んでいると、こういうふうに花の歌を作る素養も少しは必要だなと思うのである。ただ、桔梗と竜胆と藤は、好きな花だと言うことができる。あれ?みんな紫だな。感情移入できる。桔梗は明智光秀の家紋であり、竜胆は、木枯し紋次郎の「竜胆は夕映えに降った」のタイトル、藤はあの垂れ下がっているなんともいえぬ女性的な感じがよろしい。僕は、紫の花に、いや、紫という色に強烈に惹かれるのかもしれない。このブログのバックも紫だな。
 花の歌を作るみなさま。頼むからルビを振ってください。大半の人は読めんと思いますよ。短歌はあくまで人に読まれてなんぼの文学です。気取って難読植物ばかり出すんじゃねえ!だから、俺が「ひゃくにちこう」などと読んで歌の意味がさっぱりわからなかったりするのだ。なんでここに線香が出てくるのだ!と混乱してしまったではないか。おおそうじゃそうじゃ、菅原道真の名歌があったな。なんだったけ。わざわざ取り上げることもないほど有名な歌だ。花の知識があるんなら、これくらいわかりやすく感動的な歌を作ってみやがれ!と負け惜しみを言ってみる。俺も花の歌で名歌を作ってやる。みとれよ。
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:46| Comment(3) | TrackBack(0) | 日記

2007年01月12日

675 吉川宏志≒佐藤忠男と西高東底

 青磁社のホームページの、「週刊時評」を読む。吉川宏志が、「短歌の読みは読者の位相によって変わる」と書いている。相変わらず、シャープかつわかりやすい文章である。一読を乞う。
 吉川の文章を読んでいつも思うのだが、半端な書き手ならむやみと難解にしてしまう複雑な分析を、実にさらっと読みやすく、一見なんの苦労もしてないがごとき展開で理解させてしまうその技術には舌を巻く。わかりやすさの秘訣は比較、つまりある考えを際立たせるために別な状況を用意して読者をそこに導く、ということだが、なるほどこれはわかりやすい。子供にだってわかるだろう。しかしそのためには、とっさに反対例が持ち出せるだけの豊富な知識と、対立項がずれないように気をくばる論理性が不可欠だ。僕なんぞこの項を合わせるというところでいつもこんがらがっている。わかりやすいのですらすら書いたみたいに見えるが、すらすら読める文章を作るのは大変である。これこそが、書き手の頭のよさであろう。筒井康隆からの孫引きだが、「難解な文章というのはおおむね無内容であり書き手の頭の悪さを表している」。ひところの映画評論なんぞやたらゲシュタルトだのアプリオリだのどこの乞食か貴族かみたいなカタカナを羅列して、馬鹿まるだしであった。毎度言うが、吉川の文章を読んでいると、映画評論は映画評論でも佐藤忠男のことを思い出す。彼も、難しいことを実に平易な文章で表現していた。やはり知識が豊富なのだ。ジャンルはちがえど、その論理のありかたに、双生児を見るような思いさえする。いずれにせよ、吉川は歌壇にとって貴重な論者であろう。およそ、歌人の書く評論というのはリーダビリティに欠けることはなはだしい。藤原龍一郎、小池光、島田修三、永田和宏、三枝昂之、このあたりが読ませる評論の書き手と言えるだろうか。
 およそ人に人に読ませる文章というのは、独善的であってはいけない。そして、学者の論文のようであってもいけない。私が、「独善的であってはいけない」と言うとへそで茶をわかす人がいるだろう。なぜなら、私の書く内容はこのうえなく独善的だからだ。しかし、私は、独善的な文章を、読ませるために練った文体で書いているのだ。これでもそうとう、頭を使っているのだよ、しょくん。内容への賛否はともかく、最後まで読ませる力はあると自負している。このへんが、いかにもインターネット的な、誰も読まない自分垂れ流しだけの文章とは一線を画していると自負する所以だ。それはアクセス数にはっきり示されている。読者数にもね。
 ところで、おもしろそうな短歌の講演とかシンポジウムとか、なんで関西方面ばっかりなんだ。今度、例の週刊時評から火のついたネタでシンポジウムをするそうだが、見に行きたいのにこれも関西ではないかばかやろう。関東でやる短歌イベントなんぞ行きたいのが全くない。この西高東底をなんとかせい。人を呼べる歌人は関西に集中してるのかなあ。第一、わが憧れの歌人、栗木京子氏の出演される短歌イベントはいつも西日本である(涙)。おれを避けてるのか!?ほんっと、東京でやる短歌イベント、つまんねええええええええええ!!!!!
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:28| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

2007年01月10日

674 脚色と黒田ちゃんねる

 去年の十二月から、当ブログのアクセス数、読者数が異常に伸びている。いったい何があったのだ。記事の内容は、従来とさほど変わっていないはずだが誰か分析してみてくれ。嬉しいが、不気味である。ただ、正直言って、僕は月間アクセス数にはあまり執着していない。なぜなら、自分で自分のサイトをクリックしても1票入るからだ。ここのプロバイダ269gで、上位に入っている日記を開いてみたら、なんと、半年近く書き込みがなかった。俺は直感したね、「こいつ自分でアクセスしてるな」と。重視したいのは、読者数である。十二月は、5796人だった。5000人は無理かと思っていたらあっという間に突破した。6000人を越えるのは時間の問題だろう。できれば10000人ほしいものだ。読者の内訳は、はっきりはしないが7割歌人、3割がそれ以外だと思う。あくまで直感である。誰が読んでいるか、本当にわからない。中村敦夫氏が読んでいるとメールをくれたのでひっくり返った。
 ひさびさに2ちゃんねるを見る。ううううう、うでしいいいいいいい〜〜〜〜〜!!!!!私の名前でうずまっている!最近、某有名歌人のことばかりで騒ぎくさってなんやおまえら、と思っていた矢先である。2ちゃんねるはね、黒田ちゃんねるであるべきであるのである。ほかの歌人はいい。ワタクシだけを取り上げ、ワタクシのワルクチ、罵詈雑言人格攻撃をばんばん垂れ流していただきたい。もうこっちは嬉しくて嬉しくてへらへら笑って拝読させていただいている。わたくしは、自分では添削、というおこがましい言葉をあまり使わない。あえて言うなら脚色、である。私が、歌を掲載した際、自分のこのほうがいいと思ったように人さまの歌を脚色したことが件の巨大掲示板でわーわー騒ぎになっているが、私の脚色例をひとつ挙げよう。

 ぶっ殺すと便所で叫ぶ月曜日そんな己はきよらかである

 脚色。
 ↓
 ぶっ殺す!便所で叫ぶ月曜日そんな己はきよらかである

 この歌の強烈さは初句にある。そして、二句、三句の、「トイレ」ではなく「便所で」叫ぶ月曜日というのがなんともいじましくてよくわかる。そして、下句への冷静さへと移る。原作だと、初句の最後に「と」を入れると、ただの記述になってしまう。だから、ここは思い切ってエクスクラメーションをつけて初句切れにすべきなのだ。そのほうがこの歌のインパクトが強まる。この歌は、僕のいまの愛唱歌であり、しょっちゅう口ずさんでいる。作者矢那遊子氏の代表作だと思っている。また、2ちゃんねらーのおひとりが、私の歌をななななんと添削してくださるとおっしゃっている。ありがたいことである。もし2チャンネルにアップしてくだされば、添削されたものと原作をここに載せ、大いに自己PRしたいと思います。歌というのは、どんな形であれ取り上げられるにこしたことはない。批判されたとしても、それを逆手に取って宣伝材料にすればいいのだ。読んだことのある歌を歌集のなかに見つけることにはまた違う余韻と感慨がある。2ちゃんねるタンカ侍スレは、黒田ちゃんねるとすべし。書いても喜んでくれないような人のことをあげつらったってしょうがないではありませんか。2ちゃんねるにも、中には鋭い意見がある。その意見は、チョイスしてこの日記で取り上げ、またネタとさせていただきたいと思う。2ちゃんねるよ、今のキミタチは、安輝素日記に負けているぞ!もっと爆弾記事を書かんかい!他の人をネタにするんならね。キミタチ、匿名だろ?匿名なら、匿名爆弾を投げんかい。たとえば、結社のおそるべき裏話とか、さ。個人的に教えてもらってもいいが、ガセネタばかりになるのは目に見えている。俺は騙されない。

      今日のMYビデオ

「こころ」(昭和30年、日活、市川崑、原作夏目漱石)森雅之、新珠三千代、三橋達也、安井昌二、田村秋子
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:41| Comment(3) | TrackBack(0) | 日記

2007年01月09日

673 松村正直「やさしい鮫」〜ただよふ父性

 野に遊ぶ子らのひとりが駆けてきて大人のわれに時間を訊けり 松村正直

 松村正直歌集「やさしい鮫」(ながらみ書房)を読む。いや実は、数か月前にすでに初読していたのだが、あまりに切なかったため、二読目は時間を置いていたのだ。じっくりと読む。やはり、切ない。「定住しない、就職しない、結婚しない」を人生の指針とし、フリーターとして旅をさすらっていた青年が、そのいずれをも手にしてしまい、京都という町にはからずも住んでいる。結婚、子育ての日々、心ならずも正社員となってしまった日常の数々を、作者独自の、乾いて澄んだタッチで描いている。掲出歌にみなぎる哀惜は、みずから選んだ現在の生活と折り合いをつけ、その瑣末さを愛しつつも、いまだ荒野や路傍に置き去りのまま色あせてくれない青春の憧れへのたまらない切なさだろう。ふとしたことで、どうしようもなく昔の自分がよみがえってくるのだ。ブルーススプリングスティーンの歌う、「呪いのように思い出がおれを苛む」というやつである。

 感情をあらわに見せて自動車が軽自動車を追い越してゆく 同
 子とふたりならんで用を足すときの何だろうこのかなしみのごときは 同
 子はわれの手を握りつつ眠りたり手を握られることのさびしき 同
 思想なき肉体よりもかなしきは肉体のなき思想なるべし 同
 あなたにも一緒に泣いてほしいと言われたり涙ひとつも流さぬわれは 同
 番線はあまたあれども遠く行く電車にばかり子は乗りたがる 同

 父性の復権、などということを謳う連中がいるが、そもそも復権するような父性などあったためしがあるだろうか。父性とは個人個人の情緒よりも社会的にということを優先するメンタリティであり、家庭の外にある人間関係によって支えられていてとことん公的なものである。その背後には処女と妻と娼婦を峻別する唾棄すべき鈍感さが横たわっており、感じやすい心がどうあっても引き受けられないものである。かてて加えて、この国では元来「大和魂」とは「たおやめぶり」の意であり、伝統演劇におけるスターはアクション俳優ではなく泣いて女と心中するつっころばしである。硫黄島がなんとかかんとかいう映画など、ひとつも日本人論たりえていない。では、漂泊者が定住したとき、家族とは彼にとって何だろう。重荷、と言っては家族に悪いし、足かせというともっと悪い。支え、と言ったら大嘘だし、義務と言っては身も蓋もない。昔読んだ遠藤周作のエッセイで、どんなに愛している妻でも、その存在に対して感じる圧迫を「胃もたれ」と表現していた。そう、どうなるかは重々承知していながら食べた結果として負った愁訴、一生つきあっていかなくてはならない、自分でありながら自分でない一部。それが、男にとっての家族というものなのだ。誤解をおそれずに言えば、家族を、家庭を、不全感なく愛したとき、その男の男たる何かは死ぬのではなかろうか。それは女性にとって永遠に不可解な、なぜそんなささやかなことのために家族を愛せないのかと思える男の要素だろう。なんせ女性にとって「愛」というのは、「そのためになんでもできるはずのこと」であり、愛や幸福では埋められない空虚、空虚のままにしておきたい永遠への通路のことなんぞ知りもせんのだ。いや知ってはいるのだろう。返事をしてと執拗に食い下がるときの女性はおそらくそのことに気付いている。女性の言語体系では絶対に把握できない虚無がそこにあるゆえに恐ろしいのだ。そのくせ、男は女よりはるかに孤独その他の精神的試練に弱い生き物でもある。だからこそ容易に家庭という罠にからめとられ、夫であり父親であるということを、突然マイクを握らされた芸なしのように感じながら不器用に勤めるしかないのだ。「何ものでもない」、その輝きは永遠に失われ、しかしつかのま、残酷によみがえってくる。放浪する歌人、松村正直第一歌集「駅へ」を読んだうえで、この「やさしい鮫」の世界に触れれば、僕が冒頭に述べた「切なさ」ということの意味がわかっていただけるだろう。もちろん、この歌集だけでもそれは十分味わえる。いずれ、作者は、また放浪の旅に出て行く、そんな気がしてならない。
 「田舎暮らし」という章があり、いちばん印象に残った。離婚した母が、都会を離れ、田舎暮らしをしている。作者一家がそこを訪ねていったときのことを歌っている。章の最後の歌がとくに琴線に触れた。

 万が一の時にわが身のたどりゆくこの四時間の道のりを思う 同上

 これは、作者の複雑なアンビバレンツを表現していて哀しい。壊れた家族への胎児的回帰願望さえ潜ませているような気がする。男性はもちろん、女性にも一読をおすすめする歌集である。なお、タイトルの「やさしい鮫」とは、息子がイルカのことをさして言った言葉である。暗示的なタイトルだ。
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2007年01月07日

672 文学はデンジャラス

>どなたが私のことを日記に書いていらっしゃるのでしょうか?憶測は憶測としてそっとしておいてくださることを祈ります。
>結社賞やなんらかの賞を受賞して結社をやめた人を何人か知っています。
>また、結社を他の結社に移った方も何人か知っています。
>また、幾つもの結社に入っている方も何人か知っています。
>人それぞれ自由なんです。
>結社内のトラブル!?かどうかは、本人以外は知りません。
>勝手な想像を以後、書かないで下さい。

 昨日、上記のようなコメントを頂いた。あえて名は秘す。はっきり言って呆れ返った。短歌を、苛酷な人生、世間の噂から守ってくれる防波堤とでも思っているのだろうか。件のコメントをしたかたは、僕がその選択にいちゃもんをつけてるとでも思ったようだが、批判や非難の気持ちは全くない。しかし、人の日記を通じてとはいえ、いずれは知れ渡るはずのことを知って驚いたので、素直にその驚きを表明しただけの話であり、また、これは結社内でなにかあったなと憶測するのは当然である。コメント子が今後短歌を続けていくとすれば、「××結社賞受賞」「現在××所属」というプロフィールは一生つきまとうのである。読んだ人は誰もが「あー何かあったな。何があったか知りたいな」と思うであろうし、それがいやなら結社賞を返上すればよろしい。つまり、過去の重さというのは背負い続けるしかないものであり、それを憶測するな、などと言うのは創作者として甘ったれているとしか言い様がない。いち会員のまま細々と終わりたいと言うのなら、結社賞などに応募しないがよろしい。いいですか、新人賞であれ結社賞であれ、受賞するというのは公人となるということである。公人となれば、あれやこれや詮索され好奇の対象となるのは当たり前の話である。それぐらい屁の河童と思えなくてなんの創作か。私なんぞ、もちろんなんの賞も貰ってないのにすでに2ちゃんねるで散々叩かれている。それを嬉しいと思うくらいの図々しさがなきゃね。短歌のサイトを持っている人の多くが、精神的癒しというか、避難所というか、そういうふにゃけた慰めを短歌に求めてるがごとき態度でおるが、だったらそもそもネットなどに入ってこないがよろしい。公開している以上、「そっとしておいて」だの「黙って見守って」などの言い草は通用しないと覚悟すべきである。単なる「氏ね」などの雑言や「祭り」は論外だが、好奇心を持たれ詮索され、叩かれたりボロクソ言われたりするなんぞ、折込済みでなくてはいけない。
 そもそも文学をやる、というのはそうである。車谷長吉氏など親戚一同から絶縁されるまでその来歴をネタにしている。中村うさぎも、「他人や自分の暗部を暴き出す、小説家は人間のクズ」と言っている。小説家を歌人と言い直しても同じだろう。いや、むしろ短歌こそ、私生活をさらしまくるジャンルではないか。新聞の投稿短歌がもとで親族会議の騒ぎになったこともあるという、それくらいデンジャラスな文学である。なにが結社を変わったぐらいのことで「そっとしておいてくれ」だ。笑わせるな。その事実から逃げるのではなく、売り物にするぐらいの覚悟がなければ駄目だろう!とにかく歌人は、甘い。さんざん歌のなかで浮気とかセックスとか自分や他人の恥をさらしまくってるくせに、ちょっとプライバシーを衝かれたらすぐムキになる。歌ってるのはお前だろうが。もちろん、歌は歌として評価すべきで、鑑賞するときに背後関係を考えたりはしない。だが僕は、結社内や結社間のトラブルというものは、どんどん表に出すべきだと思う。(「文学賞殺人事件」の台詞ではないが)短歌も歌人も奇麗事ではすまされない。だから面白いのだ。僕は、面白い話題だと思ったらこの日記でどんどん取り上げる。結社間のトラブルなど、義憤にかられることがあれば実名だって出す。それぐらいしなくてなんのインターネットであるか。コメント子の泣き言は、笑止千万というしかない。

      今日の2首

 空の青へ腕(かいな)さし入れほんとうの秋をほんとうの秋を今こそ 大和克子
 谷はあんなに深く裂れているゆえに紅葉は暗く燃え上がるなり 同
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:16| Comment(7) | TrackBack(0) | 日記

2007年01月06日

671 ざまあみやがれ!!京都金杯本線7020円大的中!

 ついにやった!11連敗という長いトンネルを抜け出し、7020円の本線大的中である。競馬の神様は、ちゃんと知ってらっしゃるのだ。真面目に競馬を勉強し、真面目にレース予想する者には、必ず大きな配当を下さるのだ。だいたいこの俺様が、11レースも連続して敗北を喫するなんぞありえないことなのだ。しかも、大半は惜敗。神様は、私を試してらっしゃった。「黒田よ。これでもなお競馬をやるか」と。今日の勝利で、また、この言葉が浮かんだ。「ざまあみやがれ!」いったい誰に言っているのだろう。だが、勝ったときにはいつもそう叫んでいる。11連敗中の損は全て取り返し、なおかつプラスアルファが出る。もう一度言う。ざまあみやがれ!!
 (こっから強気の発言)エイシンドーバーは人気がなさ過ぎた。3番人気ぐらいかな、と思ったらなんと8番人気だ。みんなアキメクラだね。京都は大した雨ではなかった。芝1200のレースで一分九秒台のタイムが出ていたので、状態はいいと思った。だから、タテ目は全部消して、エイシンから馬連8点勝負。もちろん、マイネルスケルツィの逃げは重視していたので本線とした。エイシンは、9番手くらいを行っていたから「あー、もうあかん」と思っていたが、馬群を抜け出し、よく2着と頑張った。しかも、写真判定のおまけつきである。「蛯名、差せ差せ差せ差せ」の私の連呼、後ろのオヤジ「蛯名このクソバカ差すなバカヤロー」の絶叫のデュエット。首の上げ下げが明暗を分けた。鼻毛の差である。勝負とはこういうものだ。こういう快感があるから、私は競馬をやめられない。写真判定が決まった瞬間、体が震えた。競馬は、外れたときより当たったときの方が体に悪い。しっかり払戻機から出るぶ厚い札束を握りしめ、ウインズを出ると、雨が上がっていた。勝ったけど、疲れた。あの一瞬の絶叫というのは疲れる。だが、それがまた快感である。
 ツインターボ、メジロパーマーのごとく、最高の滑り出しである。このままマイナスから逃げ切って、有馬記念プラスでゴールインしたい。諸君、競馬はやめられませんなあ。去年の4勝19敗は、私の実力からすれば負けすぎ。いま、還付金モードに入っていると思います。私の予想は重視したほうがいいですよ、ふっふっふ。次の勝負レースは中2週おいて、今度は東京のマイル戦、東京新聞杯GVに臨みたいと思う。私は、マイル戦が好きだ。そして、京都競馬場が大好き。京都大好き。

      今日のMYビデオ

「シコふんじゃった。」(1992、大映=キャビン、周防正行、音楽・周防義和)本木雅弘、柄本明、清水美砂、竹中直人、田口浩正、ロバート・ホフマン、六平直政、宝井誠明、片岡五郎

 ざまあみやがれ!
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

当たらん追記

 京都の天気予報の電話を聞いたら、現在、雨らしい。4番ホッコウソレソレーからのタテ目も買おう。馬連1−4、4−9、4−15、4−12。切る馬も出てきそうだな。エイシンドーバー本来は変わらんが。馬連4−7本線というところか。それにしても、JRAの京都の天気予報を聞いたら、小雨で芝良だそうだ。嘘をつけ嘘を!JRAは、重馬場発表をほとんどしない。馬券の売り上げが落ちるからだ。とにかく、金杯は買い目いっぱいあって、もう滅茶苦茶。
ニックネーム 茶トラのみんく at 11:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

670 競馬地獄が始まった 京都金杯、自信なき前日予想

 ああ、また地獄の競馬が始まった。京都金杯、ずーっと狙っていた馬がいた。7番、エイシンドーバー。三連勝で昨年の同レースに臨み、一着とハナ差の四着。ところが斜行で降着にされてしまった。馬体を減らし、放牧。前走プラス20キロで、見事着差以上の強さを示した。狙うならこの馬だと思っていたが、意外や人気がない。7番人気か8番人気くらいだ。普段なら強気だが、なんせ十三連敗もしてるから、自信のないことおびただしい(泣)。しかしこの馬は、右回りは五勝四連体。着外は、上記の降着だけなのである。しかも陣営は、早くから蛯名を確保してやる気まんまん。
 明日は、また雨の予報。どの程度降るのか。雨だったら、キンシャサノキセキとか、スズカフェニックスなんかは厳しいだろう。4番ホッコウソレソレーや、8番コスモシンドラー、それに1番ビッググラスも浮上する可能性がある。とにかく、雨が降ればまた大混線である。
 前日予想結論。ここは、手広く流したい。オッズはつく。馬連厚め、7−9、7−12、準厚め、4−7、7−15。以下、1−7、2−7、5−7、7−8、7−14。これはもう、雨次第だ。エイシンにとっては、雨が降ることは決して不利ではないとは思うが、彼にとっては初体験である。あんまり馬場がひどかったら、ホッコウソレソレーが浮上してくると思うが。とにかく、人気薄のエイシンドーバーから入ってみたいと、今日は思っている。しかし、人気に背いてやるほどの自信はまったくない。私は弱気になっている。いちおう、過去1157レースに賭けて、304レース的中している。ほとんど馬連。的中率0・262。なんか青年将校が競馬場に天誅を加えにいってそのまま銃殺されそうな不吉な数字である。ちょっと変えたら226だ。縁起でもねえ。まあ、誰も私の予想なんか目もくれんだろうがいちおう書いてみた。ああ自信ねえ。

      今日の5首

 生まれさせられし痛みか悲しみか産婦人科に泣き声は満ち 八木博信
 認知症のあなたが息子にスリッパで叩かれ進む入所説明 同
 捨てられし老人たちとカラオケで歌う施設のブルーライトヨコハマ 同
 難病の夫を看れば美しく姉が狂わむ弟の秋 同
 あおむけになれば雲なき空でさえ俺のすべてを責める群青 同

 以上、俺のデスペレートな気分とマッチした5首。
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2007年01月04日

669 「短歌人」会員欄秀歌選、下半期ベスト30

 「短歌人」下半期の印象に残った歌をアップする。これも、自然に僕が憶えてしまった歌だ。選歌というのは、格好つけたって最後は好みがものを言うのだと思う。理屈はあとからついてくるのだ。「塔」と違って「短歌人」の場合は、「強引に記憶に居座ってしまった」という感じ。「短歌人」の歌はアクが強い。

      「短歌人」下半期ベスト30

 ぶっ殺す!便所でさけぶ月曜日そんな己はきよらかである 矢那遊子

 ほのぐらき日影茶屋なり刃物もつ神近市子ひそみゐしごと 小出千歳

 子を持ちしよろこび子をもたぬよろこび どちらにも夏の風吹く 森 典子

 千住橋を母と二人で越えし春はじめて別離を知りし七歳 御厨節子

 知らぬ間に輪の真ん中に踊りをる違ふ違ふと低く叫びて 中山邦子

 包丁を持つ母が居る母になら刺されてむしろ本望である 生野 檀

「君が代」の低く漏れくる学校ゆ母川回帰の鮭の死臭す 伊波虎英

 帰宅後はバスに湯を張る習ひにてしばし目を閉ぢ湯の音を聴く 三島麻亜子

 処女(をとめ)にて盛りを過ぎしこの身ならば心はいらぬと君な思ひそ 二子石のぞみ

 ぼんやりの眠気の顔を水につけふるさと捨てたきりりと捨てた 三浦利晴

 ビル風がなかった頃の中野坂上(さかうえ)を自転車(チャリ)で駈ければそれが風だった 谷村はるか

 気を許すふうにもあらず女らは喪服の帯をなほしあひたり 大越 泉

 傷のない林檎をえらぶ傷のない女にあらぬわれは日暮れに 近藤かすみ

 兄に10万、山田硝子店へ18万、働いても働いてもすぐ出てゆくマネー 村松加奈子

 滅入りゆく気持たたせて電話口〈絶対音感〉を保ち応えぬ 洲淵智子

 セックスをしておきながら喫煙に驚くなんて 何を今さら 根本つぐみ

 背を丸め化石になろうとするように地下街のすみ眠るおじさん 砺波 湊

 あんなに美しかりしわが妻も今や富永一郎「チンコロ姐ちゃん」 中辻博明

 とろとろの鰻食べたしこのところ草臥れてゐむをとこと逢うて 近藤かすみ

 女なれば何故か名をもて呪のやうに呼ばるる容疑者スズカ、スズカ 生野 檀

 山男乳房をめざし海男陰(ほと)をめざせり一生(ひとよ)をかけて 松野欣幸

 同窓の名簿に見ゆる数名の「消息不明」に憧れてをり 三島麻亜子

 雄馬の交尾するがに立ち上がり白骨と化す夏の自転車 森 俊幸

 大湧谷の温泉玉子を夜更け剥く夫亡き後の長き時間よ 新井 禮

 お互いに首絞め合ってともだちと言える夏野のはるかな匂い 花森こま

 陽炎のごとき喪服の親族の一人となりて陽炎に入る 吉川真実

 飛行機の音のみ聞こえる病室に最終便のゆくさき思う 阿部美佳

 あの頃の笑顔にもそっと手を振りぬ新たな別れとしての再会 東海林文子

 人ひとり死にたる朝もマニュアルのごとく二杯のコーヒーを飲む 三島麻亜子

 電器屋の前の幟にぺらぺらと揺れてゐるなり笑顔の家族 近藤かすみ

 以上、厳選30首。尚、一首目矢那作品と、十六首め根本作品は、ちょっとだけ改作してあります。このほうがいいと僕は思うからです。それぞれ、記憶に残すべき秀歌だと僕は断言する。

      今日のMYビデオ

「簪」(昭和16年、松竹大船、清水宏)田中絹代、笠智衆、斎藤達雄、日守新