2007年02月28日

716 苛立ちと高安国世の言葉パート2

 私は各方面からさまざまに私信をいただく。その中には歌壇の裏情報もけっこう含まれている。内容の真偽のほどはさだかではない。中には、「ほんまかいな」と爆笑するような情報もある。当ブログをガセネタや、個人攻撃のために利用されてはたまらないので慎重に考慮しながら読んでいる。しかし時には、信憑性の高い情報もある。それにより、最近のコメント欄へのとある書き込みが大嘘であることが判明した。恥を知れ恥を。あえて名前はさらさないので自分の胸に聞いてみろ。僕はここに宣言する。おちゃらけでコメントを書くやつが多いということがよくわかった。今後、「塔」会員を名乗る匿名者(含むハンドルネーム)からの批判になっていない批判や単なる中傷には削除をもって応じる。それは、会員や事情通を装った単なる荒らし、味方のふりをしながら「塔」の品位を汚そうとする者たちからこのブログをガードするためであり、決して僕が批判に耳を貸さないということではない。今までのところ批判らしい批判といえるものはなく、言いがかりと誹謗中傷ばかりだが。違うというなら、今度は記名でおねがいね、自称「塔」会員子の皆様♪
 今回の盗作問題に関しては、あくまで盗作をしたS・Mに対して批判すべきであり、選者に対する批判や私に対する批判は本末転倒である。この件に関して、選者には責任はない。選者がたとえ自結社の歌人や、よしんば親しい友人の歌人の作品だからといっていちいち全部把握できるわけがない。選者も、その点を批判されても「盗作したやつが悪い」と一蹴するくらいのふてぶてしさを持たなくてはいけない。もしここで選者がおたついたりしたら、それこそ結社を支える大事な柱である選歌体制というものがおびやかされるではないか。僕自身、選歌というものを頼りにしている。いや、大部分の会員がそうだろう。だからこそ、選者をこうした問題で責めるのは筋違いだと思うのである。この件に関して、河野裕子氏がなんらかのコメントを塔あるいは歌壇に発表する義務はない。もし「塔」編集部がそれを求めたりしたら、私は大噴火し、京都の空に溶岩の雨を降らせるであろう。私を黙らせることはだれにもできない。
 たとえば、「短歌人」の掲示板に小池光や藤原龍一郎や故高瀬一志への批判が書き込まれたら、「短歌人」の会員諸氏は黙っているだろうか。黙ってはいないだろう。僕は「短歌人」に対しては、そういう意味での信頼を持っている。しかるに、「塔」の掲示板には、河野麻沙希にではない、河野裕子への批判が書き込まれているのだ。河野裕子に対するふだんの崇拝や渇仰の念はどこへ行った。河野先生河野先生と慕うのであれば、こういう時こそ、ばしっと手袋、そういう会員が一人も、よろしいかただの一人も、いないというのが僕には異常なことに映るし、だからヘタレと言っているのだ。常日ごろ師と仰ぐ人のためにこういうときこそ戦おうとは誰一人思わないのである。覇気がないにもほどがある。「塔」には「塔」のよさがあることは重々承知しているが、一朝ことあらば、な事態のときに黙りこんでのんきにe歌会に没入しておれる神経が俺にはわからない。最後に、高安国世の言葉を添えて結びとしたい。内容は違うが、高安の苛立ちと僕の苛立ちの根幹には繋がる部分があると思う。「塔」諸氏よ、この創設者の言葉をよく噛みしめよ。

「四月号で本誌に対する批評を集めたが、それに対する反応がさっぱりない。(略)もちろん作品活動さえ立派に果して行けば、それでいいわけなのだが、それに対する捨身な態度の片鱗でもいい、決意を示す人があってほしかった。関西人の引込思案か、良識か知らないが、ボロは出したくない、誰かが何とかしてくれるだろう、と言った、至極紳士的な、のんびりした空気が充満していいてやり切れない」(高安国世、「塔」1956年6月号編集後記)。

 P・S・
 なお、二月月間ランキングは二日に発表いたします。おそろしい数字になっている。読者数が全国の歌人の総数を超えているのではないかとつい思ってしまう。はっきり言ってプレッシャーである。なので、当ブログを読むと不愉快だとか傷くというかたがたは、僕も悪いと思うので、読まないでいることがお互いのためだと思います。私は力道山の心境です。「視聴率が高すぎる」。
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:54| Comment(12) | TrackBack(0) | 日記

715 傷ついているのはお前らだけではない

 舟橋剛二氏よりコメントをいただいたのであらためてアップさせていただく。以下引用。

僕は塔の会員ではないですが、
塔の会員を自称する書き込みが
並んでいるのを見て、これが
本当に塔の会員たちなのか、
それとも第三者による与太記事なのか、
判別できません。
匿名でしか書けない理由はなんでしょうか。
匿名で書いている時点で、
彼らは黒田さんに負けていると見なします。
ほんとうに、彼らが塔の会員だとしたら、
これが盗作騒動以上に、対外的に塔という結社の
評判を落とす行為だということが分からないのでしょうか。

 引用終わり。正論である。僕は「塔」「短歌人」の会員である。僕の意見に対して反論があり、さらに同結社の人だと言うのなら堂々と名を名乗るべきだろう。本名をさらしたら僕が曲解や誹謗中傷を浴びせるからいやなのだとか言っているが、これこそ誹謗中傷である。この日記をもうちょっと丁寧に読み返してみるがいい。誹謗中傷などいっさいしていないとわかるはずだ。もちろん、痛烈な批判は何度も浴びせているが、バカアホタコカスではなくその度にいちいち論拠は述べている。今回の盗作問題だって、僕は河野裕子に責任はないとちゃんと述べている。僕の言っていることのなにがおかしいのか言っていただきたい。間違ったことや事実誤認があれば指摘していただきたい。それもせずに、匿名氏のごときは、「根拠がない」とそれこそ根拠のない印象論で私を誹謗中傷しているのだ。確かに舟橋氏の言う通り、こっちのほうがよほど「塔」の名誉を傷つける行為である。何度も言おう。「塔」の要の歌人である河野裕子が批判されて、それに対してなんの発言も反論も「塔」会員が行わないのはおかしい、というのは、意見そのものとして少しもおかしくはないと思うし、反対意見があればおっしゃればよろしい。僕はこれを異常事態と考えそのようにリアクションしたのである。僕が考え、発言することは傷つきやすい読者の繊細なハートに気配りするよりも大事なことである。するとなにか、ガス釜の会社の社員がうちの製品は危ないですと言ったら、黙ってこつこついっしょうけんめい働いている現場の人の心を傷つける行為になるから控えろとでも言うんかい。よく考えてみてほしい。飛躍に聞こえるかもしれないが、実は匿名氏が僕に要求していることはこれと同じなのである。それからな、傷ついているのはキミタチばかりではないよ?あんまり傷ついた傷ついたと錦の御旗みたいに振りかざすんじゃない、ぼけ!あ、失礼。「ものごとを真摯に見るのが不自由なかた」でした。俺だってなあ、このブログをやって十分傷ついている。歌人という人種に対する絶望感に傷ついているのである。まともな意見も言わずただ人格攻撃に走ったメールばかり送ってきやがって。匿名氏よ、貴方にそんな場に立つ覚悟があるか。結局、「傷つくのがいやなの」と言っているだけである。俺は傷つくことを覚悟のうえでこのブログをやっているのである。貴方の泣き言なんぞとははっきり言ってレベルが違う。なお、この問題はこれでストップしようと思ったがもう一回やらざるを得ないようだ。あまり引っ張らせるな。
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:33| Comment(19) | TrackBack(0) | 日記

2007年02月26日

714 人格

 湯ヶ野温泉「福田屋」に泊まる。私の常宿は湯村温泉「旅館明治」、増富温泉「津金楼」、四万温泉「鐘寿館」、そして二度目の宿泊だったがこの福田屋さんも入れることにした。私の旅館を見る目は厳しい。この四館はそれに照らしても合格である。
 日々の疲れと、最近のブログでのつまらん論争に嫌気のさしていた私は、前回は「伊豆の踊子」のことはひと言も触れなかったが、今回は仲居さんについ、ぽろりと言ってしまった。この古めかしい旅館は、たびたびの映画化のロケ地ともなっているのだ。僕はふと、仲居さんにこういう話題をふった。「僕は、『踊子』の中でも内藤洋子のが一番好きなんですよ」。すると、その六十がらみの小柄な仲居さんは、ななななななんと、「お客さん!その映画私出てるんですよお!」だと。これには私もびっくり仰天、一気に話しこんでしまった。仲居さんが言うにはこういうことである。当時二十歳そこそこだった彼女は、この地に嫁いできたばかりの新妻であった。踊子が宿の前で客寄せのために踊るシーンにどうしても、ほかにも若い女性旅芸人の絵が欲しいという恩地日出夫監督の強い要望と助監督の甘言につられて現地エキストラとして堂々出演となったらしい。助監督いわく、「一時間足らずで終わりますから」。ところが、映画がそんな簡単にOKがでるわけがない。実に夜7時から撮影開始され、終わったのがなんと夜中の二時だったらしい。彼女は頭にきて、NGばかりだす内藤洋子に「あんたちゃんとやってよ!」と怒鳴ったらしい。僕はこの話を聞いて感動した。女将からも聞いたのだが、恩地監督の内藤洋子へのしごきは凄かったらしい。罵声の連発で見ているほうがかわいそうになったと証言してくれた。この映画での内藤洋子の演技はすばらしい。たぶん十七、八だったと思うが、僕はなんて演技力のある女優さんなんだろうと思っていた。しかしやはり、監督のしごきあってこそだったのだと再認識させられたのだ。このシーンは、実際の映画の中では二分ほどで終わる。多分、監督は踊りではなく踊子の表情にダメ出しをしたのだろう。想像するに、学生と最初に視線を合わせる彼女のアップのワンカット、そしてラストシーンの、海を見つめて「さようなら」とつぶやくワンカット、これも相当時間をかけたと思う。刹那のシーンだがすばらしい表情をしていた。「さようなら」という台詞がこんなにも諦観に満ちた響きを持つ邦画を僕は見たことがない。かつて内藤はインタビューで、「代表作は?」と問われて躊躇なく「伊豆の踊子」と答えている。「演技をした」という実感があったのだろう。当時内藤は大スター、ちやほやされていたはずだ。それを恩地監督は罵声を浴びせて芝居をさせた。だからあんな傑作ができたのだ。恩地映画のすばらしいのは、ちゃんと踊子・薫にひとりの人間としての人格を与えていることだ。これは兄・栄吉の描写にも表されている。いや、すべての登場人物に人格を与えている。これに比べるとほかの「踊子」映画化作品はとても見られたものではない。
 この話が発端となって、女将が熱心にロケのことを話してくれた。「学生」が二階から栄吉に対して「これで果物でもおあがんなさい」と紙に包んだ金を放るシーンがある。それを女将は「ここから投げてあそこから撮ったんですよ」と熱心に説明してくれた。たぶん、「踊子」映画のことに興味を持つ客が少ないのだろう。女将も嬉しそうだった。私も感動した。この無頓着な学生の行為に対しての栄吉の屈辱感を映像化したのは恩地だけである。恩地は徹底して階級というものを映画の中心に据えている。だから、ラストの内藤洋子のアップは悲しい自立としか言いようがないのだ。川端康成はたぶん、この映画に相当反発したと思う。だってあのじじいの生涯の夢は、お人形みたいな意志のない女をいじくりまわすことだったのだから。ざまあみやがれ。川端は試写会で、憮然とした顔で「これはこれでいい映画なんでしょうねえ」とほざいたらしい。
 僕が通されたのは「思ひ出の間」、前回に続いてである。ここは川端が「伊豆の踊子」を執筆した部屋らしい。吉永小百合も泊まったらしい。いやそんなことはどうでもいい。今回びっくりした新事実は、なななななんと、あの五所平之助監督がそこに泊まったということだ。大感激!五所で感激するのは、いまや俺くらいだろう。大尊敬する大監督である。五所は、田中絹代主演で第一作めの「伊豆の踊子」を撮っている。その縁だ。女将からまた秘話を聞いた。五所が滞在中に、田中絹代の訃報が届いたらしい。そのとき五所は人目をはばからず号泣したという。女将もびっくりしたそうだ。五所と田中の縁も深い。想像のなかの、号泣する五所の姿に、田中絹代に対する尊敬の念がにじみ、胸が熱くなった。
 てなわけで、今回の福田屋宿泊ではいろんな意味で印象的だった。僕は、夜興奮してなかなか寝つけなかった。あの五所がこの部屋にいたんだなあ、と思ったら目が冴えてしょうがなかった。そして内藤洋子の顔も浮かんだのだ。仲居さんが出ていたというシーンを、ビデオでもう一回見てみようと思う。女将も言っていたが、内藤洋子バージョンの映画は目にする機会がないという。この宿は、わざわざ川端や踊子ゆかりの特設ルームにホームシアターまで揃えているのに、内藤洋子バージョンのビデオがそこにはない。女将も入手できずにいるという。この映画のビデオは貴重だとつくづく思った次第である。女将はとても上品な人だった。また、この宿を訪ねようと思う。
 久々に映画のことが書けて、俺は嬉しい。本当は、他人の騒動のことなんぞ書きたくないのだ。

      今日の一首

 冴え返る夜は想ふべしいにしへの死者の多くは骨のみありき 西王 燦
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2007年02月25日

713 戦ふ精神

 「人の悪口を言うな」という奴に限って、その悪口のすさまじさには類例を見ない。私の個人メールにはさんざんこの手のタイプの誹謗中傷が殺到している。今回も、コメント欄に「UK」氏「塔の会員」氏「十四郎」氏なるかたがたから、人格攻撃以外のなにものでもないご意見を頂戴した。私の日記をよーく読んでいただきたい。僕は個人攻撃に類するものはひと言も書いていない。すべて、その人の意見に対する私の反対意見である。そのことに関して彼らは何も語っていない。ただ、私への悪印象を悪印象のままに羅列しているだけで、反対意見に対する反対意見などまったくない。私は、今回の川添氏の河野批判のどこがおかしいかを具体的にちゃんと言っているはずだ。それに対しこの三氏のコメントは、要するに「目障りだから騒ぎ立てるな」という印象論だけである。要するに誹謗中傷であり、個人攻撃である。賢明な読者のかたがたにはわかっているはずだ。僕の書く文章とこいつらのそれとに雲泥の差があることを。それから、三氏に言っておきたいが、まるで君たちは「塔」の代表意見を述べているかのような言い方をする。正直に言おう。私の意見に対する支持者も電話や手紙やメールをくださる。自分たちの意見が「塔」の代表的意見だと思うなよ。だいたい、俺とまともにやり合いたいならちゃんと名を記せ、卑怯者。堂々とこの盗作問題に関して語り合おうじゃないか。お前ら、イラクのボランティア青年たちを自己責任うんぬんの詭弁で誹謗した連中と同レベルだと自覚したほうがいい。言いたいことがあり、実際に「塔」会員であるならば実名で論戦しましょうよ。なんだったら「塔」メーリングリストのほうにもどうぞ。そこなら外部に名前を知られる心配はない。僕が実名でこのブログをやっているのは、匿名の海と言われているインターネットへの反発もある。私は私なりに戦っているのだ。この三氏にそんな根性があるのか。河野裕子が俺を嫌ってる?そんなのは彼女の自由である。俺は体裁など考えず俺の意見を言うまでである。
 「歌会に来い」だ?笑わせるな。俺はあんなモンに興味はない。好きな歌は好き、嫌いな歌は嫌いそれだけだ。嫌いな歌に対してコメントなんかするか馬鹿。たぶん、ボロクソ言って進行を止め、空気を乱し、作者を泣かせ果ては暴力沙汰になるかもしれない。結社誌の歌会報告を読むたびに、「こんな歌が褒められるのか。俺だったぶち壊してやる」と思っているのだから。歌会に行かないのは自分がいやだからでもあるが、君たちの精神の安定と二次会の楽しさをそこなうないという僕の気遣いである。俺をなめるなよ。俺は「風人・雷神」で顔をさらしている。あれは現在の俺の顔である。他の一部会員みたいに10年まえ20年前の写真を送ったわけではない。俺個人に文句があるなら電話でもかけて呼び出すがよろしい。いつでも対決してやる。なあ、三氏諸賢よ。もう一度言う。俺をなめるな。俺は基本的にネット上武闘派である。この三氏のような匿名でのねちねちした個人攻撃などはやらない。名を名乗れ名を!
 なんかこのブログが、一人で勝手に大騒ぎしているような印象を与えているようだが、はっきし言って、全部外からついた火である。それを私が見て見ぬふりをせず、ちゃんと対応しているがゆえの騒ぎである。こっちが言いたい。いいかげんにしてくれ。ここ最近自分の日記が全然書けないではないか。今日も、書きたかったことと内容を差し替えている。
 それから歌人諸氏に言いたいが、何か送りつけられたからいやだとか神経衰弱に陥ったとか、頼むからそんなひ弱いことを言うのはやめてくれ。そんなことでどうして、創作しそれを人に見せるなどという営為ができるのだ。批判悪口はあって当たり前。私なんか毎日悪口の個人メールをいただき、2ちゃんねるで晒され、光栄のいったりきたりである。それくらいの神経がなければ創作はできないよ。そんなことで短歌をやめるというのなら、あなたの短歌に対する愛情がそれだけのものだったのだとしか言いようがない。歌人たちの、この精神のひ弱さにはちょっと辟易している。それでもって、「おまえのせいで短歌をやめたらどうするうじうじぐじぐじ」とこぼすのである。うんざり。短歌がその程度のものでしかないなら最初っからやめちまえ。なにひとつ、私が始めたことではない。私自身も迷惑している。
 もう一度言おう。しつこいほど言おう。創作活動というのは戦いの場である。戦う精神のないやつに創作する資格はない。これは真実である。

 追伸
 なお、「塔」について言いたいことがあるなら「塔」掲示板に書け、というバカな意見があったが、そうしないのは私の見識である、そのための場ではないと認識しているからだ。ネチケットの問題である。そのこともあって、川添氏が掲示板に河野批判を書き込んだことが許せないのである。批判があれば自分のブログがあるのだからそこで堂々とやればよろしい。三氏諸君、この点に関してもなにか反論がありますか。だいたい、「塔」の掲示板より、こっちに書いたほうが多くの読者が読むに決まっておるではないか。その点でも私は私の文章に責任を持っているのである。具体的に反論があるなら私の文章の内容に対して言い、穏当でないなどのくだらないことは言わないでほしい。賢い会員の考えることは違うなあ(笑)。
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:56| Comment(9) | TrackBack(0) | 日記

2007年02月24日

712 騎士道精神の欠如

 日が経つにつれ、盗作歌人S・Mにますます腹が立ってくる。自分が赤丸をつけたこいつの歌

 黒田節槍もつ娘の活きいきと妙に舞い終え拍手の止まず

 も、何か記憶にあるような気がする。俺の名前が入った黒田節という言葉、そしてそれを舞う娘、ということで類似歌が印象に残っているのである。確かなことはいえないし、今原典や証拠を示せと言われてもできないが、角川短歌の佳作か、NHK歌壇の佳作入選か、そのへんの目立たないところで見たような気がしてならない。あくまで僕の想像だが、このS・Mは、あまりスポットライトの当たらないところからいいフレーズを拾ってきて剽窃するのを趣味的に行っていたのではなかろうか。だからこそ、「塔」で選歌されたうちの一首目、本田重一から剽窃した一首にことさらに腹が立つのだ。本田氏はまさに、北の凍て付く大地で命がけで歌を綴っていた歌人である。その人の歌を、なんの敬意も畏怖の念もなく、単純に二首を繋げあわせて出詠しくさるこいつの腐れ根性には反吐が出そうだ。てめえこら、本田重一なんて無名な歌人の歌、切り貼りしたってわからんだろうと思いやがったな。本田氏に対する最低の侮辱である。「塔」編集部には、S・Mへの迅速な処分を期待する。
 「塔」会員なるかたがた数氏からコメントをいただいた。「見守る」という表現があった。笑止千万である。たしかに、S・M氏の処分に対しては、「見守る」でもいいだろう。しかし、河野裕子に対しての誹謗とも言える書き込みが「塔」の掲示板になされてなお、黙っているという会員諸氏に対しては憤りに近いものを感じる。「見守る」?カッコつけんじゃない、あんたら、関わりあいになって俺みたい珍獣呼ばわりされたくないだけだろう。教室で、意見はちゃんとあるのに目立つのがいやで手を上げない生徒みたいなもんだ。違うんかい?僕が「塔」に入会した理由の80%は、河野裕子、栗木京子という超一流歌人がそこにいたからである。彼女らに対する不当な中傷が耳に入れば俺は許さない。書いた本人と戦い必ずや奈落の底に突き落とす覚悟である。俺のことを彼女たちの飼い犬と嘲笑う連中もいるだろうが、意に介さない。これは、尊敬に価するレディを陰ながら守りたい、僕の騎士道である。
 ここ最近、歌壇や歌人に対してどたまに来てばかりである。俺は自分のための日記がてんで書けない。くだらないことでわずらわせやがって。結社に若手が入らないのも当然、腐っているからである。コメントで、「仲間に対してヘタレとか言うのはいかがなものか」というのがあったが、馴れ合ってかばいあってるのが仲間じゃないだろう。ましてや、河野裕子といえば塔の中心的人物である。この人物が誹謗中傷されてるのにおまえら黙ってるのか。それでも「塔」の会員か。小利口な社会性などいらん。そういう時には手袋をばしっと叩きつけて表へ出ろと言うのが筋というものである。何度でも言う。君たちはヘ・タ・レである。
 なお、明日はこの日記はお休みです。
ニックネーム 茶トラのみんく at 01:09| Comment(8) | TrackBack(0) | 日記

2007年02月23日

711 川添英一氏への反論と、「河野裕子に責任はない」。

 今回の盗作騒ぎで、一部の人が、選者である河野裕子氏に落ち度があるかのごとき発言もしているが、それはとんでもない話である。彼らはいい分はこうだ。河野氏が本田重一氏を「塔」に勧誘したのだから、盗作を見抜けないのはおかしい。これもおかしな理屈だ。河野氏が勧誘した「塔」会員は、本田氏だけでではない。数十人、ひょっとして数百人にのぼるかもしれない。それは結社を大きくするための正当な活動であり、勧誘したからといってその相手の歌をことごとく覚えている義理がないのは当たり前である。問題になっている歌は、盗作だと思いさえしなければたしかにいい歌であり、百葉集に選ばれるのになんの不思議もない。また、「塔」ホームページ掲示板に、川添英一氏が河野氏および「塔」に「耕凍」を送ったのになんの反応もなかったと不満を述べているが、これもおかしな話だ。まず、河野氏レベルの歌人ともなると、ひと月に送られてくる歌集歌書のたぐいときたらそれはもう、想像もつかないほどの量に決まっているのである。そのうちの一冊にいちいち反応しなかったからといって送った当人が文句を言うのは筋違いである。また、「塔」誌は本田氏の追悼文を掲載しているし、亡くなった旨、「耕凍」の広告とあわせてちゃんと告知している。これ以上のなにを川添氏は期待しておるのか。まさか、その月の特集として「大増ページ本田重一の世界」でもやれとでも言うのか。それは川添氏の願望であって、残念ながら編集会議にすらかからない題材である。それは本田氏をことさらに軽んじたり意図的に無視しているのではなく、古参会員に対しての礼儀は十分尽されたと僕は思う。そんなことを言ったら会員が一人亡くなるたびに大々的な広告を出さねばならなくなるではないか。
 川添氏はこう言う。盗作者には怒りを持たない、と。あなたそりゃおかしいのとちがいますか。盗作するというのは、作者に対する敬意の欠如、とりもなおさず本田氏への敬意の欠如である。本田氏の畏友をもって任ずるならばまず、そのことをまず怒るべきではありませんか?うがちすぎな見方かもしれないが、これでは本田短歌の盗作をこれ幸いと、「塔」および河野氏の攻撃にかかったととられても仕方がない。はっきり言って男らしくない。「塔」を批判したいのならばこんな機会に乗っかるのではなく、堂々と自分のブログでやればいいではないか。「塔」に文句は言いたい、だが自分にはそれだけの発言力がない、しかし「幸い」、「友人・本田重一」からの盗作作品を採用するという失態を「塔」がやってくれた、ここぞとばかり「ほれ見ろ自分こそは元々の見識者」というPRを始めたと、取られても仕方がないであろう。男らしくないっ!
 「塔」の会員諸氏に言いたい。ホームページ掲示板に川添氏による河野裕子批判がでかでかと載っているのに、なぜ貴方がたはなんの反応も示さず沈黙したままなのか。ここは当然、反論があってしかるべきだろう。なにも「塔」の掲示板でなくてもいい、メーリングリストであれ、各人のブログであれミクシイであれ、自分の意見を述べるべきではないか。だから僕は貴方がたのことをヘタレと言っているのだ。いいですか、今回の問題は別段「塔」の恥ではありません。盗作問題がオープンに語り合えるというのは、ほかの結社にない「塔」の自由性ではないですか。盗作問題は恥ずかしくない。自分たちの問題なのに、まるで電車の中の酔っ払いを無視するがごとき沈黙に埋没すること、それは大いに恥ずかしいことである。
 川添さん、反論があるならお待ちしています。
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:00| Comment(20) | TrackBack(0) | 日記

2007年02月21日

710 愛唱性、ドラマ性

 現代短歌において、愛唱性のある歌は貴重だ。今、そうした歌が本当に少ない。

駅に会ひ駅に別れし武田尾の駅は無人の風くぐる駅 友田勝美

 まずこの歌は、内容うんぬん以前に読んでいて非常に気持ちがいい。「駅」のリフレインを四つ、武田尾という固有名詞が効いている。駅での別れを詠ったものだろうが、そのドラマ以前に、この歌のリズミカルな響きに酔いしれてしまう。別れのあとの結句の「無人の風くぐる駅」のさりげない表現がうまい。もちろん、無人は「駅」にかかるのだが、妙な情緒におぼれず、あっさりとした感慨を残す。何より、本当にこの歌はリズムがいい。また、武田尾というのは、どこのどんな場所か知らないが、何やら古戦場とかお姫様の伝説でもありそうなゆかしい地名ではないか。それが「風くぐる」という言葉と呼応しているのだ。

ブランコの高くなりゆくときが好き みぞおちがふわり未知にふくらむ 井上良子

 これまた一読して気持ちのよい歌。上句はまったくその通り、それを受けての下句がGOOD。確かにブランコを漕いでいるとき、その最高点においてはみぞおちを突き出している。その状態を「未知にふくらむ」と書いたところに作者のセンスを感じる。あの、ブランコを漕いでいるときの気持ちよさ、まさにそれは「未知」という言葉が適しているかもしれない。刹那の未来への希望が、ブランコを漕ぐという行為に象徴されているのかもしれない。この歌も、一発で僕の愛唱歌となった。自宅のすぐまえの公園がブランコがある。それに乗るたびにこの歌を思い出すだろう。わかりやすい歌がいい、とは言わない。ただ、簡単な表現でこんな普遍的な歌が作れるのだ。現代歌人は、もう少しそのことを考えたほうがいい。

怪奇的青空のもと読みかへすニュースをすでに読み物として 澤村斉美

 「怪奇的青空」という表現に、思わず注目した。矛盾した言い回しである。しかし、この歌の注目すべきはまさにこの初句と二句に渡ったこの表現にあると言っていい。怪奇とくれば普通は夜とか闇とか墓場とか棺桶とかが続くものだが作者はにくいことに青空を持ってきた。ホラー映画でも、どピーカンの天気は暗闇よりももっといやな予感をそそるものである。そんな青空のもとを走るキャンピングカーのゆくてには必ず殺人鬼が待っている。作者は、夫婦が兄弟がお互いをころころ解体しあうばらばら殺人の世界をなんとか自分の所属するものへと返すため、あえてホラーの片隅に存在することを意図的に選んでいるのではなかろうか。われわれは全員東スポ(京都方面だったら大スポか)の見出しのなかで暮らしているのだ。逃れるすべはない。現代感覚に溢れた歌だと僕は思う。
浴槽のように窪んだなかほどに言葉を落す。これも日記だ 金田光世

 実に謎めいた歌。私は一瞬、女性のある部位を盃に見立てるという上品ならざる遊びを連想したが、これは却下する。風呂場での一シーンかと思ったのだが、浴槽のようだ、と言っているからには、それは浴槽そのものではない。何かの窪みが浴槽を連想させたのだ。日記帳かとも思ったが、「これも日記だ」と言っているからには日記そのものでもない。ともあれ、伝わってくるのは作者の重い疲労感である。言葉を落すという表現もそうだし、何かはわからないが、疲れを癒す場所である浴槽に見立てている点も、作者の疲れを想像させる。僕は、具体がしっかり描かれてさえいれば、抽象詠をむやみと嫌うものではない。この歌には、言葉遊びではない作者の切実な実感というものを僕は感じる。結句の、「これも日記だ」というある種丸投げしたような徒労感に満ちた言い切りも魅力的だ。実に不思議な、見逃せない歌だと思う。
 最後に、今月の問題歌を一首。

こんなにも孤独が辛いものだとは不覚でしたと告げて友逝く 安川良子

 上句のつぶやき「孤独が辛い」ということの意味は、おそらく友人である作者にもわからないだろう。この友人はそう告げて亡くなったという。普通に読めば、これは独身を貫いて死に瀕しても家族のひとりもいない女性の孤独だと解釈されるだろう。
 しかし僕の考えはこうである。死という闇から生まれた子供は、老いるに従ってまたその闇へと近付いてゆき、家族がいようがいまいがひとしくその闇に飲み込まれていくのである。この友人は、生涯を通じて一人ではあったが孤独ではなかった。だが死を目前にして初めて孤独というものを知り、その苛酷さに呆然となっているのである。だからといって家族を持てとか思い出を残せとかいった易きにつく解釈を僕は採らない。彼女に不覚があったとすれば、一人であることと孤独の本質を見間違えて、自分は用意ができていると思ったことにある。だが、誰もがいつかは通り、闇へと還っていく道なのだ。「死ぬ方法」だのなんだの悟りすましたような本が売れているが、死は本質的に無残であり非美的なものである。家族に見守られていようが野っ原で頓死しようが、その孤独さに変わりはない。誰もがどこかで、「不覚」と呟きながら逝くのだと思う。あのゴータマ・シッダールタでさえも、おそらく。その言葉が強く印象に残る。

 平易な表現で普遍性のある世界を作る。これが短歌の韻律の持つ魅力であると僕は思う。
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:45| Comment(5) | TrackBack(0) | 日記

2007年02月20日

709 「塔」2月号、陽の当たらない名歌選

 とんだ盗作騒ぎである。ただ、このことで本田重一という歌人の歌が再認識されたことは大きいのではないか。S・Mが盗作元とした本田氏の歌は、読めば読むほどすばらしい。S・Mが本田氏の代表歌を決定したようなものだ。確かに、後世に残すべき名歌である。今後とも、結社を問わず臭いと思った歌があったらまた通報をお願いします。
 てなわけで、今号も、僕が名歌だと思う歌を紹介します。もちろん「塔」は「盗」ではなく、盗作者なぞ99・99999パーセントいないのである。
 今月の赤丸歌、真中欄作品1、133首。吉川欄173首。澤辺欄94首。池本欄142首。花山欄112首。栗木欄若葉集61首。計715首。

      「塔」2月号・陽の当たらない名歌選

ブランコの高くなりゆくときが好き みぞおちがふわり未知にふくらむ 井上良子
怪奇的青空のもと読みかへすニュースをすでに読み物として 澤村斉美
こんなにも孤独が辛いものだとは不覚でしたと告げて友逝く 安川良子

一生涯告げぬ思いを孕むたび女の寿命は延びてゆくのだ 沼尻つた子
たちまちに切手二百枚貼り終えて歌にはあらずこの事務の才 秋葉葉子
かの冬をあなたは細き息をして擦りし林檎を三匙食べたる 安井幸子
夜通しかけ北海道へ帰りゆく馬もいるとう祭の果てて 池田幸子
虫けらと思はれてゐた我だつたかまあ良いわれは虫けらが好き 岩野伸子
三度三度飯炊き飯食み歯をみがくたつた一度の死に向かふため 阪上民江
袴付けブランコに立ち乗りする母を撮影したる人物不詳 山内貞子
急に痩せ顔のなかより亡き義母のあらはれきてるやうにて夫は 万造寺ようこ
われは地に打ち込まれたり肩車するまっすぐな背骨となりて 松村正直
いつまでも忘れられない恋があるいつも角にはたばこ屋がある かがみゆみ
街路樹の剪定されて明るめり道の勾配すぐに見えくる 伊藤てる子
病名の増えし身をおく体重計すう字うごきてさだまる数字 立川目陽子
こんにちはコンビニのように迎えられ手術室へと父の入りぬ 西川啓子
一度ずつ鍵をなくせることありきあなたは川にわたしは草地に なみの亜子
言葉からこはれゆく国といふ仮説柿の皮むきながら聴きをり 柴 純子
あの人はネコのような人だった溜め息なんて似合わない人 あかり
浴槽のように窪んだなかほどに言葉を落す。これも日記だ 金田光世
傷ついたなんて事すら語らずに鈍行列車に触れるコスモス 水口 文
その母に疎まれし子は夕暮れの町へと続く橋を怖れき 関口裕之
ワイパーが雨の凄さに追いつかないここで降りてと目を見ずに言う 空色ぴりか
もうずっとええことあらへんサンふじの紅転びゆき隅にとどまる 落合花子
どうやってみんなやりくりしてはるの時間なきまままた「塔」がくる 中山惠子
自分より歳下の首相生まれる日を思わないでもなかったけれど 吉田淳美
駅に会ひ駅に別れし武田尾の駅は無人の風くぐる駅 友田勝美
破りゆく暦の数と同じ数左の出窓に「塔」が乱れず 岡山あずみ
起きぬけのざんばら髪に聴診器垂らしこのまま医者になるのか 加藤ちひろ
××××××××××××××××××××××××××× ××××××


 以上、ぞくぞくするようなドラマ性を感じさせてくれた歌厳選三十首。これらの掲出歌に興をそそられないという人と僕は短歌の話をしたくない。短歌とはそういうものだ。
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

708 盗作歌人、容疑固まる。起訴か?

 昨日のS・M氏(なんという出来すぎなイニシアルだ)の盗作疑惑は99%確定したと言ってもいい。実は、そういう目で見たせいもあるのかもしれないが、僕が赤丸をつけた歌もあらためて読んでみるとなーんか既視感というか、どっかで見たような印象がわいてきたのである。その疑いを決定的にしたのは、コメント子の一人が山埜井喜美枝氏が選歌した歌からの剽窃をも指摘してくれたことである。俺も、「忘れ上手になりて老いゆく」には、ものすごい既視感をおぼえてノーチェックにしたのである。いや、もうずいぶん名歌選をやってきたが、このS・Mの名前にはまるで記憶がない。「塔」の会員あまたあれども、名前だけならたいがいは頭に入っている。なのにこの人物の名が記憶に残らなかったのは、よっぽど歌にオリジナリティやセンスというものが欠けていると瞬間的に判断して脳が消去したからだろう。改めてバックナンバーを調べてみるとこのS・Mは2005年十二月に入会してやがる。入会のあいさつになんのコメントもない。ふざけた野郎だ。こいつの存在自体が短歌に対する侮辱であり、なにより、結社「塔」をなめきってやがる。問答無用である、即除名懲役銃殺と電話したろうかというのを今、なんとか抑えているところである。
 かたや、盗作歌人が連続したことで、「塔」を批判する輩も出てきてやがるが、お前らなあ、どこの結社だってこういうのは常に0・何割かはいるはずだ。たいていの結社は闇から闇に葬って知らん顔しているのだろう。「塔」は、以前のケースでは調査委員会を組織し、調査のうえ除名したということを結社誌で公言している。これはたいへん潔い稀有なケースであったらしい。僕はそれで、かえって「塔」に対する評価を高めた。今回も、インターネットのおかげでこういう糞野郎を見つけることができた。これもネット社会の利点といえるかもしれない。そしてまた、私のブログで晒された以上はもう駄目である。逃げようがない。なぜなら、歌人でインターネットをやっている人の大半はこの日記を読んでいると自負するからである。それは訪問者数が証明している。少なくとも、「塔」においては、盗作をやるやつがいてもすぐバレるのみならず、それは組織内でもみ消されずに満天下に公表されることとなる。「塔」は批判を浴びるよりも、風通しのよい組織として賞賛を浴びるであろう。とにかく、「塔」に入ってきながら盗作やらかす野郎はこのブログある限り枕を高くして眠れはせんぞ。盗作歌人ども、視聴率を馬鹿にするでないぞ。愛と真実と短歌精神のために私は明日も戦うのである。わはははははは。

 正気に戻って。
 横山さんへ。確かに私の歌と島田修三氏の歌はシチュエーションはそっくりでした。ただし、三島由紀夫の自決と、キャンディーズウエストとではまったく視点が違うのです。だから、これは下手な本歌取り(ただし元歌を知らないでやったもの)と見なすのが正しいと思います。僕が、他人の立場でこの二つを読み比べても、盗作とは思わないでしょう。なぜなら、視点がまったく違うからです。
 あまたある結社よ。叩けば埃の一つや二つは百や二百や千は出て来るだろう。それをオープンにしなさい。そうした結社の閉鎖性が若手の結社離れを招くのである。これについては稿を改めて詳しく述べたいと思う。ともあれ、一連の盗作問題は、「塔」にとってのマイナスとはならない。盗作するほうが悪いのである。そういうのはどんどん摘発しどんどん公表するがよろしい。S・Mを除名処分にしないようであれば、フルネームをここに公表するぞ。2月号には、彼の作品を載せないという処置をとるべきである。ひょっとしてS・Mよ、キサマは、他結社から送り込まれた「塔」破壊工作員か?だとしたら逆効果だぜ。あるいは、「いつばれるかな。いひひひひひ」という愉快犯かもしれない。
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:05| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

2007年02月18日

707 グッドタイミング〜情けない。

 嗚呼、雨さえ降らなければ楽勝の競馬だったのに!良だったらブルーコンコルド軸だと、僕は月曜から決めていた。こんな雨降りやがって(怒)。もう、週末は雨が降らないで欲しい。神様お願い。冬競馬は終わり。私も放牧に入り、中4週を置いて日経賞GUから春競馬を始めます。

 競馬敗戦の傷をフロで癒し、まだ途中だった「塔」名歌選のため最後に残しておいた「会員1」欄の三分の一をチェックし終わり、最後の楽しみとしてとってある百葉集をさてさてと開き、一読してなんか妙にひっかかるものを感じた。気のせいかなと思いつつ「塔」を脇に置いてこのブログをチェックしたところ、いきなり本田(これは仮名であろう)氏なる人からのコメントである。あわててM氏の歌のページを開いてみると101ページに5首載っている。僕は4首と5首めに赤丸チェックをし、問題の歌にはノーチェックであった。名歌選をする時の読む速度は猛スピードであるが、やはり何らかの既視感ゆえ落としたのかもしれない。「塔」掲示板、2ちゃんねるも続けて読む。なんという恐ろしいタイミングであろうか。はっきり言って、これはまさしく盗作だと思う。
 「本歌取り」という作歌法もあるが、それは本歌をふまえてまったく違う世界をオマージュをこめて作るということであり、この歌はそれには当たらない。また、無意識に剽窃してしまったというにはあまりにも表現も言い回しも似すぎている。と言うより、まんまである。これは明らかに意図的に写し取ったとしか考えられない。
 M氏の歌はこれ。
生れたる処が即ち死に場所と翔ぶこと知らずひと生耕す
本田氏の歌がつぎの二首。
生まれたる処がすなはち死場所にて冬は雪降り流氷が来る
耕して翔ぶを知らざるひと生なり北へと帰る白鳥仰ぐ

 皆さんはどう考えるであろうか。僕は、これには弁解の余地がないと思うのである。僕は、上記した通りM氏の歌は2首赤丸チェックしている。

 黒田節槍もつ娘の活きいきと妙に舞い終え拍手の止まず
 霜の朝麦を蒔く掌の冷たさに藁火に暖とりし昔を思う

 の2首だが、いい歌だと思う。しかしこうなると、ほかの歌だって盗作ではないかという疑惑が湧いてくるではないか。これは、放置できない問題だろう。パクる、というそのことそのものが悪いのではない。オマージュだったり本歌だったり、インスパイアされたりヒントにしたり、並べてみせてもわからんくらい変えてしまったりしたうえですぐれた歌を作るのであればそれは作者のテクニックであり、独自の視点のあるものと言える。だが、このケースは、農作業を通じての人生への感覚そのものまでも剽窃してしまっており、そのことが一番罪が深い。なんてバカなことをするのだろう。ほかの歌の信用までなくすではないか。これは、「塔」編集部が本人に問いただすべきことだ。歌人としての態度に信用がおけなくなった以上は、除名が相応の処分だと僕は思う。
 なお、こうした問題については必ず選者の責任が問われるが、はっきり言って選者のほうに責任はない。茂吉や啄木のバカでも知っているような有名歌ならともかく、ゴマンとある歌のなかから類似歌をいちいち見つけるのは不可能である。ましてや、河野裕子氏には選しなければならない歌が死ぬほどあるのだ。このことをもって河野氏の責任を追及するのは的はずれである。
 僕も昔、真っ青になったことがあった。自信をもっていつか発表しようと思っていた自分の歌が、島田修三氏の歌とそっくりだったからである。ともにリーバイスのGパンを試着している風景を歌いつつ、島田氏は三島由紀夫の自決を知り、僕のほうは自分のウエストキャンディーズのスーちゃんのスカートのウエストの締まりを比較していた、という内容の違いはあるが。これだけ違えば全然別の歌であり、気にすることないという人もおろうが、シチュエーションが同一であると判断して僕はこれを封印した。今回のケースは発想とかシチュエーション以前に、表現と視点、という創作上もっともオリジナリティが問われる部分がまるっきり一緒である。弁明の余地はないだろう。
 昨日、「悲しき六十才」というMYビデオを観た。その中で、坂本九の往年のヒット曲「素敵なタイミング」が流れている。まさに今日は恐ろしいくらいにグッドタイミングだった。訪問者数のわりにアクセス数が多かったので、「俺の競馬敗戦のことをみんな気にしてくれているのか」と感激したがそうではない。俺がこの盗作問題をどう取り上げるかを期待していたのだ。誰も俺の敗戦のことなんか気にしてくれやしねえ。冷たいものである。少しは同情してくれ。
 皆さん、自分の歌なんぞ誰も気にしない、と思っているだろうがちゃんと読んでいる人は読んでいるのである。盗作だけはやめましょう。信用されなくなり、身を滅ぼします。
 現在のところ、「塔」メーリングリストでこの問題を取り上げた人はいない。ヘタレだなあ。
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:15| Comment(9) | TrackBack(0) | 日記

追記

 かなりの雨が降った。もう、今日はスピード競馬で間違いなし。圧倒的に前有利だ。GT二着続きのシーキングザダイヤにとっては格好の舞台。これがGTを獲るラストチャンスだろう。ただ、武が慎重に乗り過ぎないことだ。マイル戦だが、このレースはスタートがすべて。もうスタートで決まると言って過言ではない。体重を減らしてサンライズバッカスが出てきたら怖いね。メイショウバトラー、ビッググラスは展開有利で一発ありそうだ。よくて中穴、大穴なんぞありえないレース。なお、タテ目をもう一点追加。馬連7−15。僕は、ビッググラスが穴を開ける気がしてならない。4番シーキングザダイヤ連対自信度55%
ニックネーム 茶トラのみんく at 12:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

706 中途半端な雨・フェブラリーS前日予想

 中途半端な雨だ。降るなら降れ!予想が難しくなった。今、府中のダートは速い。明日は多分、1分34秒台後半タイムだろう。ただ、この雨は中途半端だ。以下は、大雨が降るという前提での予想である。人気馬ブルーコンコルド、時計勝負になれば苦しい。パサパサの馬場だったらこの馬だと思ったが、ちょっと疑問。7ゲートもよくないなあ。府中でのたびたびの不利、真ん中というのはまた不利を受けそうだ。シーキングザベスト、スピードはあるが、1600がぎりぎりの距離。全面的信頼はおけない。
 軸は、シーキングザダイヤと見る。スピード展開が合っている。ダート重になった場合、このレースは大半前残りという結果が出ている。大穴はない。穴馬はメイショウバトラー、ビッググラスまでだろう。いずれにせよ、上位人気での決着になるのは必至。アジュディミツオー、うまくハナを切れたとしても、この馬にはスピードがない。僕は切る。明日は時計勝負だ。ただ、雨、やんじゃったよ!大雨の予報じゃなかったのか!
 前日予想結論。馬連本線4−7、4−10、7−10。以下、4−8、4−12、4−14、4−15。雨よ雨、降るならじゃんじゃん降ってくれよお〜。明日の天気次第では、シーキングを軸としたが十分コンコルドの軸も考えられる。フェブラリーS5連勝中だが、今年はどちらを軸にするかで明暗を分けそうだ。とにかく、中途半端な天気が悪い!

      今日のMYビデオ
 「悲しき60歳」(寺島久、昭和36年大映)坂本九、森山加代子、ジェリー藤尾、渡辺トモコ、ダニー飯田とパラダイスキング、弓恵子、三角八郎
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:21| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

2007年02月16日

705 選者指定自由制

 「塔」一月号で、永田和宏氏が、選歌体制の見直しを提唱している。「塔」は現在、選者たちへのアトランダム振り分け制をとっている。この制度で問題なのは、誰しもあるはずの相性の問題である。人間的にどうこうではなく、自分の歌の傾向をかんがみるとき、この人の選だけは受けたくない、と思う相手が必ず一人や二人はいるはずである。それに対するフラストレーションはずっとつきまとうだろう。自分は、この人の選が受けたくて入会したわけではない、という不満である。みなさん私と違って賢いのでそういうことをはっきり言わないが私はバカなのではっきり言う。私はそういう不満を抱くし、他の会員のみなさんだってきっとそういう鬱積を持っているはずである。では、単純に選者指名制にすれば解決するかといえばそうはいかない。僕は、歌人を育てるには選者指定制がベストだと思っている。がしかし、読者としてその結社誌に触れるとき、読み物としてのつまらなさがどうしても生じる。なぜなら、特定の歌人とそれを囲むサークル、つまりの僕のきらいな結社内結社の気配が漂ってくるからだ。歌は、似たような歌風のものが同じページにひしめいているのではなく、雑多に混交していてこそ魅力を放つのである。その点、「短歌人」の、指定制でなおかつ誰が選んだかわからず、いろんな歌が混在しているというのは賢いやり方である。ただしこれも、結社の人数が比較的大人数でないから成立することである。これが千人とか二千人クラスの大結社となると、逆にしまりのない誌面になってしまう。
 そこで、塔に対して提唱したいのが、以前にも書いたが、「選者指定自由制」である。出詠者が選者を指定するというところまでは「短歌人」と一緒だが、こっちの制度は、毎月選者を変えてもいっさい自由であるということを明記するところが違うのである。例えば塔で言えば、競馬の歌を作ったときは真中選にチャレンジしようとか、抽象詠を作った場合には花山選へ行こうとか、その月々に作る歌と見て欲しい選者は異なるのである。会員としては、毎月読んでいるうちに各選者の傾向と対策というものはおのずとわかってくる。その月、自分の出詠する歌を一番よく読んでくれるであろう選者をその都度選べばよい。こちらで選者を選び、見込んで以上、どういう結果が出ようとある程度納得はいくはずである。選ばれる立場のものには、つねに、「この人ではわかってもらえない」という不満がつきまとう。みんな大声では言わないが、否定しても駄目である。私は二、三の人から直接聞いた。また私自身もしばしば、不本意に選者に当たって怒髪天を衝くことがよくある。選者指定制をとっている結社はすでにあるではないかと言うかもしれないが、これまでのそれには、いったん決めた選者から離れにくいという不文律があった。それを冒したばかりにいびり倒された歌人の噂も聞いている。だから、「選者指定自由制」と明文化することには意義があるのである。選者は、ある月においてある歌人が自分を指名したからといって、師弟の関係が生じたと勘違いしないこと。だから「自由制」と宣言することが大事なのだ。それでも人の心は制度では縛れず、ある程度続いたあとで選者を変えられたら選者も傷であろうから、逆に選者を変えることを義務づけるのだ。これで万事丸くおさまる。
 会員は、選者のために存在するのではない。あくまで全員、自分のために歌を作るのである。選者も、「おれからあいつに乗り換えやがった」などというくだらんエゴイズムを持たずに、あくまでいい歌を選ぶことのみを考えていればよろしい。てめえの派閥やサークルを作ったってしょうがないだろう。会員にとっては、そうしたセクト根性は迷惑この上ない。
 僕が、この「選者指定自由制」を唱えるのは、それが「塔」であれば実現しそうな気がするからである。「塔」の選者たちには、派閥を作ってセンセイとおさまり返るようなセコさがないように思える。リベラルということが自然に身についているように見えるのだ。これは、高安国世という理想主義者の良き遺産なのではなかろうか。人間の多くはむしろ派閥にとりこまれセンセイを仰ぐのが好きな羊の群れなのだ、自由など与えられたらかえって困ってしまう、という意見もあろうが、いっぺんやってみても損はないではないか。その実験が可能なのは、現歌壇において「塔」を措いてほかにないと思う。ただ、河野裕子氏の存在は大きい。もしも河野選歌欄を復活させたら、一極集中してしまう恐れがある。僕もせっかく塔にいながらなんで河野氏の選を受けられないのだという不満がずっとくすぶっている。
 以上、いろいろ述べてきたが、「塔」編集部におかれましてはこの提言をよろしく検討し、大いなる実験に踏み出していただきたいものだと愚考する次第なのであった。
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:52| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

2007年02月15日

704 いしかわ ごろざ殿へのコメント返し〜俺が主役だバカ!

 昨日の日記にコメントをいただいた。それはいいのだが以下のような困ったちゃんである。引用始め。

>花山周子のような親の七光りのうえにあるような小便臭い小娘のような青くさい歌論もどきのものを読むのは辟易する。要は彼女は深読みして自己陶酔をしているのだ。とうせんぼ、など的の当らぬセックスをやっているもんだよ。この歌の冒頭にちゃんと海を知らない少女といってるだろ。ほれなら、手を広げて海の広さをいってるんだよ。周子にいわせりゃ糞も味噌にして汁にせよと皆に薦めるだろう。周子はこんなことをいってる時間があったら魂を揺らす一会にふれることだ。なみの亜子も同じ。くだらんことをいう間があったらましな歌をつくることに努めよ。ましな歌の秀歌をつくることがこの二人がさしあたってやるべきことだと自覚する賢明さを持てかし。 いしかわごろざ

引用終わり。
>いしかわ様
 まず、口汚い個人攻撃をなさるなら僕になさればよろしい。七光りだろうとなんだろうと対象にすべきは論の内容です。あなたは肝腎の評論を読んではいないでしょう。花山さんが両方の解釈に目配りをしていることが、読めばわかることです。また、評論と歌作は車の両輪であって片方を持ち上げて片方を貶める必要はありません。そもそも僕の日記をちゃんと読んでいますか?僕自身が「とうせんぼ」派の先鋭として名乗りを上げているのです。なぜ「海の広さを教えているのではない」かも書いてあります。もう一回ちゃんと読んでください。また論旨の混乱したことで荒らそうとしたら削除しますよ。
 親の七光り?こんなうざったいものはない。これは本人にとって大変なプレッシャーであると思う。俺だったら、親がすでに著名な歌人だったら重圧でつぶれてしまい、始める前にやめているだろう。どんなに結社がヨイショしたって作品が駄目なら一発でばれるのである。それだけ注目度は高く、それだけにしんどいのだ。芸能界だって、親の七光りでデビューするやつは多くいるが、たいていは消えていくものだ。真剣にそのジャンルでやっていこうという人にとっては単なる重荷であり、にもかかわらず活躍している人はたいしたものなのだ。短歌だって、家族全員が歌人なんて家は、おトクというよりは業(ごう)である。もし親が歌人で、自分のことをネタにされたら、俺だったら完全にぐれる。歌人なんて家族に一人いれば十分だ。それだって大迷惑なんである。
 花山周子氏は、独自の感性の持ち主であり「塔」のなかで優れた歌人の一人だと俺は思っている。多佳子というビッグな歌人を母に持って大変だと思うが、彼女は彼女の独自な視点で歌を作っていると俺は思う。だいたいな、喧嘩を売るんだったらこのブログの主催者たる俺に売れ。人の日記を利用して、くそつまらんケチくさい便所の落書以下の雑言を書くんじゃない。悪口には悪口の芸というものがあるのだ。芸があれば許す。が、君にはない。今回は、日記によるコメント返しということでネタにもなったので許してやるが、今度やったら削除&出入り禁止処分にいたす。心するように。
 文句があったら俺に言え!俺が主役なのだ!
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:45| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

703 海の広さ?嘘をつけ!

 書こうと思っていてそのまんま忘れてしまっていたが、今日突然思い出したので書く。「塔」1月号の花山周子の評論「無防備な抒情性」は大変面白かった。寺山修司の次の歌を論考している。

海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり 寺山修司

 この歌には従来よりふたつの解釈がこころみられている。ひとつは、「海の広さ」派、もうひとつが「とおせんぼ」派である。僕は最初読んだとき、「なんちゅうキザったらしい歌だ」と思った。もちろん僕の直感は、「とおせんぼ」派である。つまり、海を見たことのない少女に海の広さを教えてあげているのではない。「広い世界なんて出て行かずともいい、このまま標本の蝶ちょみたいに僕のものでいなさいね」、という、女性のシンボリズムに徹底してこだわる劇作家寺山の面目躍如な、ありていにいって変態紳士の歌だとばかり思ったのだ。ところがである。どこのサイトだったかこの歌が話題になったとき、圧倒的に解釈は「海の広さ」派が優性だったことに驚いた。皆さん、そんなに人間の善意というものを信じてますか?というか、監禁飼育変態は文学の基本であり、短歌をひねろうなどという人はみなその感覚を共有していると思っていたのでずいぶんとショックだった。「海の広さ」派には、いまだに文学的陰りというものの欠落を感じるのだが、だからといって僕が変態だということにはならないだろう。いやなるのかそれとも。
 「海の広さ」派が論拠にするのが寺山のつぎのエッセイである。

 『これは私が十五歳のとき作った作品です。実際、まだ海を見たことのない寝たきりの少女に、海がどういうものかを説明する位、むずかしいことはなかったのです。/ 僕は海が、ことばでは言いつくせぬほど広いんだ、と言いました』(寺山修司詩集)

 寺山よ、オマエは「二十四の瞳」の大石先生か。「海の広さ」派の人々はようまあこんな文章に騙されるものである。嘘に決まっておるではないか。フリチンで風呂の覗きをやってたくせしてどの面さげてほざく。この言い方は、寺山をおとしめているのではない。その文学者的めちゃくちゃへの賞賛であり、そのへんを汲みとらない「海の広さ」派への苛立ちでる。無防備な叙情性、どころか計算づくの、ひょっとして没後二十年以上たってもまだ議論を呼ぶことまで予想したうえでの、彼一流の仕掛けであり韜晦である。この短歌を国語のテストに出した先生がいるという。どうせ「海の広さ」派をマルにしたんだろう。馬鹿かおまえは。歌人は嘘つきが多いので、正誤のはっきりしたテスト問題には不向きもいいところである。短歌は発表された時点で正解などありえない。寺山が地獄で哄笑しているであろう。だいたい寺山の歌は僕に言わせればキザの権化である。加藤〇郎がキザというのとは違う。演劇的な稚気と遊びとダンディズムに満ちていて、読んでいて面白い。花山さんの評論も興味深かったがものが寺山だけにもっとくだけた、評者本人の稚気がにじみ出るようなものがもっと読みたいと思う。
 なお、寺山が短歌、俳句を離れて映画、演劇のほうに行ってしまった理由は簡単だと思う。彼は要するに「よりお客の多い方面」へと自然に流れていったのだ。それは軽薄さや山っけではなく(いやそれもいい意味で大いにあるのだが)、おそらく寺山は本質性にこだわらない芸術家だったのではないか。初期において、既成の俳句をベースに秀逸な短歌を多く作ったように、寺山にとってはある芸術的到達というのはどんどん別ジャンルに翻訳していって構わないものであり、「同じことを違うメディアで言ってどうする」というような文学的狭隘さがそこにはない以上、お客がたくさんいるところで落ち着くのは理の当然である。だいたい、俳句をベースにした短歌は是か非かなんて議論はくだらないにもほどがあり、そんなことでがたがた言ってる歌壇なんぞに未練はなかっただろう。結局は歌壇の融通のなさ、ものわかりの悪さ、鑑賞力の貧困さに嫌気がさし、60年代の唐十郎らとの殴り合いと飲んだくれの楽しい世界へと飛翔していったのだ。なお、なみの亜子さんの寺山修司論は不勉強にして読んでいない。機会があれば探してみたいと思う。
歌人て真面目にバカがついて朴念仁までいってるのが多いなあ。皆さん、ウソはやめましょう。僕みたいにホントのことしか詠わない歌人になりませう(ほんまかいな)。
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:32| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記

2007年02月13日

702 結社は滅私奉公の場所ではない、私の場所だ。

 「短歌新聞」紙上において沢口芙美氏は、「結社の功罪の『功』のほうに現在は目が向いている」と書いておられる。短歌6年目の僕には、結社の『罪』というほうの意味がわからない。歌壇にとって結社というのは不可欠であり、これなくしてそもそも歌壇というものがありえないだろう。昔(僕の感覚では二十年くらい前か)の結社のことは知らぬ。たぶん、さぞかし締め付けが強かったのだろう。選者を変えたり、派閥を乱したり、あまつさえ結社を移ったりした歌人には無視黙殺冷や飯食いの刑が待ちかまえていた(と推察する)。この悪習を引きずって〇〇先生の悪口はひと言も許さない、とか、結社内結社というものが大手をふっているような集団には未来はないだろう。結社とは、あくまで参加者ひとりひとり、本人の短歌的進歩のためにあるのであって、集団あるいは集団ない集団へのご奉公が優先するなど、非文学的営為以外のなにものでもない。僕は、そんな結社はどんどん潰れるがいいと思っていい。自然淘汰の法則にしたがって黙って絶滅するのが短歌の質的向上のためにもなるだろう。
 短歌は、人に教えられてやるものでは絶対にない。いまだにだれそれの師系、などということに拘泥している一派もいるが噴飯ものである。短歌は独学をもって本道とする。もちろん、そのためには人の歌を山ほど読まなくては駄目だ。人の歌、というのはすでに評価の固まった大先生の歌、という意味ではない。玉石混交たる結社誌の歌を読めということなのだ。僕は、系統的に短歌を勉強するのは、すでに不可能だと諦めている。知識として吸収するには、脳細胞がすでに崩壊の季節に入ってしまっている。だから、結社誌に掲載された歌を読むことのほうが、自らの方向性を見極めるうえで有益なのである。先人の業績を追いかけていたら、うっかり自分の資質と全然関係ない袋小路に入ってしまっていた、なんてことになりかねないが、結社誌においてその心配はない。かつて力道山は、若手プロレスラーに対して、「自分だけのプロレスのスタイルを作れ」と檄を飛ばしたそうだ。結社は、そのスタイルを示唆してくれる重要な場所である。
 いまだ結社に入っていない若者たちよ。入りなさいいま入りなさい。選歌を受けなさい。選を受けるというのは大事なことだ。他人の目が自分の歌をどう評価するかという里程標となる。もちろん、頭に来たり喜んだり天にも昇ったり怒り狂ったりするだろうが、その葛藤こそが大事なのだ。自分ひとりで垂れ流し、決して批判をくれないネット友達なんぞに慰撫されてたってそれだけのことである。貴方独自の方向性は見つからず、継続性も保てないだろう。結社に入ったからといって、自由が束縛されたり滅私奉公を要求されるとは限らない。僕みたいに、歌を発表し、歌を読むということに徹底し、組織からは距離を置くというスタンスがこの通り可能なのだ。結社に所属するからには批判はあいならん脱会してから言え、運営に尽力してるかたがたに気を遣えなどという意見も最近あったが、本末転倒もいいとこである。感謝を忘れはしないが僕が批判をやめたりご奉公せねばならぬ理由はなにも、いいですか、なにもなく、これを読んでこれから結社に入るあなたもそうなのですよ。何度も言うが、そんなことを会員に要求する結社は衰退していくのみである。もちろん、野心を持って、結社でのしあがるために組織に近付く、というマキャベリ的人物も必要である。要するになんでもありの自由でいいのだ。
 そして結社は、二つ入るべきである。一つではあかん。その結社に染まってしまう。僕は現在、「塔」と「短歌人」に入会しているが、面白くてしょうがない。歌風が違うからだ。たとえば、「短歌人」で選評を受けた作品は、わが意を得たり、だが、「塔」で同じく選評を受けたのものは、一首をのぞいて、数合わせの捨て歌にするつもりだったものばかりだ。これには驚く。また勉強になる。二つの結社のカラーを滋養にしながら、僕は自分なりの歌を作っていきたいと思っているのだ。インターネット歌人よ、今にらんでいるモニターから離れ、結社申し込みのハガキを書きなさい。別にPRするつもりは毛頭ないが、「塔」「短歌人」はあまたある結社の中でもかなり自由な気風を持った集団であると僕は思う。俺がこうして平気で存在できるのがその証拠だと言えばかなり説得力があるだろう。結社「K(1)」や、「K(2)」や「M」では、たぶんとっくに吊るし上げをくいすまきにされて表に放り出されているであろう。もう一度言うが、結社に参加する、ということは、結社に奉仕することではなく、徹底的に自分自身の歌を追及するための手段であるということだ。これを忘れてはならない。
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2007年02月11日

701 魅力ある結社誌とは。

 ダイヤモンドS――カスリもしなかった。当たり前だ。軸馬の定まらないレースで勝てるわけがない。くそったれ。ああ、京都きさらぎ賞をやるべきだった。やるならアサクサキングスだと思った。馬連4点買いで850円はいい配当だ。くやしい。来年は、きさらぎ賞をやろうかな。やっぱり、京都競馬のほうが相性がいい。

 「短歌新聞」2月号を読む。「歌壇時評」で、山田富士郎氏が、「歌誌現勢ベスト20」について取り上げ、高齢化と人口減が嘆かれる結社事情のなかで、「塔」は出詠者をめざましく増やしていることを指摘している。ひとり「塔」が気を吐くのもあたりまえの話だ。ちゃんと理由がある。毎月、まとまった数の入会者があることには驚く。会員の勧誘努力もあろうが、僕みたいに自発的に入ってくる人もかなりいる。結社を選ぶときに、好きな歌人がいる、というもの強い理由だが、僕は最初、「塔」誌を取り寄せて読んだとき、実はその歌風に強い違和感を覚えた。にもかかわらず入会した。魅力ある結社誌とは、ということを述べる意味でも、その理由を書きたいと思う。
@レイアウト、本作りのすばらしさ――とにかく、かっぱえびせんみたいに、「塔」誌というのは読み始めたら止まらないのである。これは、読み易い誌面作りというのに加えて、使っている紙質の良さもあずかっている。そして何より、この結社誌にただよう清潔感が、読み手を引き寄せる力を持っている。
A選歌欄の多さ――およそ出詠する者にとって、一首が取り上げられ評までいただけるなどというのは稀有なことである。あまつさえ、結社誌には少数の選者では掬いきれないほどのたくさんのいい歌が載っている。それを放置して、選者を少ないままにおいている結社誌に魅力はない。「心の花」誌などを読むと、僕にすれば取りこぼしがあまりにも多い。もっと選者そして選歌欄を増やすべきだろう。
B執筆陣にヒエラルキーが存在しない――結社誌によっては、はいって二、三年のぺえぺえに評や原稿など依頼しない、というところがあるだろうが、「塔」は違う。どんどん新人を登用する。だいたいですね、私ごときに原稿依頼が来るんだからこっちがびっくりしましたよ。結社あまたあれどもこんな蛮行、もとい英断を下すのは「塔」くらいだろう。そうした柔軟性も必要なのだ。
C自由――たとえば、西之原一貴が「短歌時評」で、永田和宏主宰への批判を書いていた。これも驚くと同時に、この結社の風通しのよさを感じた。面白いのは、「塔」は自由気ままに言いたいことを言わせつつも、肝腎かなめのところでの秩序は一本しっかり筋が通っているということだ。決して、ばらばらで好き勝手やってる寄り集まりではないのである。不思議な統一感がそこにはある。永田主宰も、柔軟性を示しつつ強烈な睨みをきかせるという二面性をうまく使い分ける戦略性を持った人物であると僕は思う。会員数が多くなっても面白い雑誌を作ろう、と永田主宰は書いている。その両立には多くが困難が伴うだろうが、いち会員として見守っていきたい。
D修羅――劇団でもそうだが、修羅場をくぐり抜けた創作集団というのはひ強い。高安体勢から永田体制に移行するときの修羅には、想像を絶するものがあったと思う。いわゆる「大手術」である。一度死の淵からよみがえったものは強い。そう簡単には壊れない結束力があるのだ。
E家族と異端――「塔」の基調は、もろに「家族愛」である。これを嫌がる人もいるだろうが、それ以上に好む人のほうが多いということだ。僕に言わせれば、「塔」はまさに松竹映画そのものである。ただし、松竹という映画会社は、松竹ヌーベルバーグを始めとして、常にその内部に異端児を抱えていた。だからこそ発展したのだ。異端児が少なくなった松竹は衰退した。「塔」は、その強固な家風を持ちつつ、常に二割か三割、そこに収まりきらない異端者を抱えている。だから面白いのである。この異端分子を排除するようなことがあれば、「塔」といえども衰退はまぬがれないだろう。

 以上、うがった見方かもしれないが、「塔」という結社を取り上げて、魅力ある結社誌とは何かということを語ったつもりだ。「塔」は今後も伸び続けるだろう。僕の直感は当たる。また黒田の野郎「塔」のチョーチン記事書いてやがる、というバカもおるだろうが、無視する。この結社と結社誌がぐんぐん伸びていることを、歌壇全体がもっと重視したほうがいい。私が所属する組織というのは、伸びるのだ。じゃあ何故私が伸びないか。それは、珍獣だからである(泣)。ただ、傲慢かもしれないが経験上、私が離れた組織が衰退するというのも、また事実なのである。
 「塔」ではすでに、永田主宰みずから退陣を宣言している。これも、結社活性化のための重要な布石だろう。ただし、水戸黄門的院政はあると思うけどね。後継者をめぐって春の嵐が吹き荒れるだろうと思うが、そうした試練を乗り越えて伸びていく力のある結社だと僕は思う。
 来週は、冬競馬フェブラリーSである。このレースは現在5連勝中。軸馬もすでに決まっている。絶対に勝つぞ。
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

700 混戦!ダイヤモンドステークスGV前日予想

 難関レースである。各馬のハンデが微妙。ハンデキャッパーはよく考えている。軸は12番チェストウイングか、4番バイロイトか迷っている。チェストは、人気馬トウカイトリックに、アルゼンチン共和国杯で2キロ軽い斤量で先着している。この馬は、東京コースが得意だ。また、前走のAJC杯は、まったく走っていない。今回もトウカイより2キロの軽い斤量で臨んでくる。トウカイは、府中より中山より脚質が合うだろう。バイロイト、斤量56・5キロ、微妙だ〜〜〜!ハンデキャッパーは、本当に予想を難しくするよ。絶妙の斤量である。この馬は、ステイヤーとしてのスケールは大きいだろう。鞍上もカッチ―で魅力的だ。穴馬は決まっている。49キロは裸同然の9番ターキー。それに、斤量51キロの1番セレスステーラー。こういうタイプの馬が穴をあけるのを俺は何回も見た。要するに、軸馬を決めるのが超難しいのだ。2頭しかいないではないかと言うかもしれないが、それが難しいのである。今回は、コース適性からチェストウイングを軸にする。もちろん、軸馬鉄板とはいかない。タテ目もしっかりおさえるべきだろう。チェストウイング。直訳すれば「胸の羽」。なにやらハイブリッドな感じがして強そうではないか。
 前日予想結論。ここは、オッズがつくのでたくさん買いたい。本線馬連、4−12。以下、1−12、2−12、6−12、7−12、9−12、12−16。タテ目、1−4、4−9、1−2、2−9、そして夢馬券1−9。計12点。買い目は多いが、どれが来てもプラスになる組み合わせである。もちろん、パドックで消せる馬は消したいと思う。ターキーとセレスはほんと怖いなあ。ターキーは馬体増で出てきたら本当に怖い。いずれにせよ、3400メートルのマラソンレース。3分31秒台の緊張である。楽しみたい。
 チェストウイング連対自信度、35%。僕は、むしろタテ目に期待している。
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2007年02月10日

699 ストレート短歌の中にこそドラマは生まれる。

 最近、時間がない。自分の時間がないのである。しかし不思議と、短歌はできる。暇な時よりもだ。面白いことだ。
 歌は、視点だ。視点こそ全て。普通だったらなんとも思わない情景でも、歌人の独特な感性のフィルターを通すと、韻律のドラマとなる。できるだけ、ストレートに歌うことだ。妙な修辞回しは不必要だと僕は思う。

分け目(カリマ)いれ髪結い上げて簪(ピニョ)を挿す弓射るような祖母の身支度 金 二順

 祖母の身支度を詠った歌だが、迫力がある。カリマ、ピニョ、と、おそらく朝鮮語と思われるが、それをルビに用いたところに民族性を負ったたたずまいの持つ緊張感が顕ち現れてくる。四句めの「弓射るような」という直喩が秀逸。この言葉には深い意味があるだろう。おそらくこの祖母の娘時代は日帝による大陸侵略の真っ最中であり、その被差別と抑圧も頂点を極めていたであろう。その中で固持してきたであろう民族意識に、強い矜持と抵抗を感じる。普段は日本に順応して生きているかに見えても、ここ一番というときにぴんと背筋をのばしてみずからの出自を際立たせて見せるのだ。これぞ、僕が提唱する、ドラマ性を持ったストレート短歌の傑作だと思う次第である。

窯より骨が運ばれ来たり舅からいびられし母一歩身を引く 生野 檀

 これもストレート短歌の傑作。舅からいびられていた母が、その舅が骨になってもまだ身を引いて避けるという。この結句がすばらしい。相手が死体となってもなお、体にしみついた虐待の痛みが消えることはなく、反射神経として犠牲者をさいなみ続けるのだ。作者の視点は鋭い。よく見ている。これだけの言葉のなかに、僕は大いなるドラマを感じる。ドラマとはこういうことなのだ。

〈クニ様〉が〈ワニ様〉となり病室の名札に笑ひき母逝く前日(まへび) 竹内タカミ

 哀しい歌である。悲劇というのは、ちょっとしたユーモラスなひとコマを持つことによって心に刻みつけられる。クニ様であるべき名札がワニ様となっていて笑ったという。それはその翌日には亡くなる運命だった人の名札だったのである。こんなペーソスが、作者にその日のことを永遠に思い出させるのである。一読して、僕は目頭が熱くなった。

抱き締めあえばさらにあなたを感じおり合わせた腹の弾力にぶく 江國 凛

 男と女が抱き合うとき、呼吸によって振幅する腹の律動がエロスを生み、それにつながる行為への呼び水となる。少なくとも僕はそうだ。この歌も結句がいい。腹の弾力が鈍いということは、たぶん中年同士の性愛なのだろう。肉体的なまじわりよりも、双方の衰えかけた肉体に対する愛おしみがここにはにじみ出ている。だから、上句が生きてくるのだ。作者が強い精神性を求めていることが、その肉体の表現を通してよくわかる歌だ。僕にとって、忘れがたい一首と言える作品である。

 僕は、常づね現代短歌はつまらんと言っている。現在一流歌人と呼ばれるかたがたの七割に僕は興味が持てない。なぜなら、彼らの歌は、どうでもいいことを修辞でまぶして気取りで着色したような代物ばかりだからだ。僕に言わせれば、インテリの言葉遊びに過ぎない。彼らの歌に、僕はドラマ性を感じない。ドラマというのは、飾り気のない、ストレートな表現の中にこそ生まれるのである。そしてそれは、一筋縄ではいかないものなのだ。普遍性というのは、つねにシンプルさのなかから生まれるのである。方法論ばっかり模索する現代歌人どもよ、反省しろ。そんな歌なんぞ、日常生活から乖離した頭でっかち同士がいじくって批評しあって遊べばよろしい。歌には、もっと力が欲しいものである。
 てな訳で、明日は大混線ダイヤモンドステークスの予想である。これは難しいよ。四連勝を目指し頑張りたい。乞御期待。
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:12| Comment(6) | TrackBack(0) | 日記

2007年02月08日

無題

 ちょっと忙しく、日記を書く時間が取れません。まとまったことを書くにはそれなりに時間がいるので、今はちょっと難しい状態です。訪問してくださるかたがたには申し訳ありません。また明日以降のおいでをお待ちしております。
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2007年02月06日

698 「短歌人」2月号会員欄秀歌選その二十

 ここ一週間の日記は最低だった。はっきり言って、釣られた、という気がいまはしている。実にくだらんことで時間を費やしたものだ。そろそろ日記を元に戻す。というか、書きたいこと忘れちまったじゃねーかばかやろー。
 先月二十八日に済ませておいた「短歌人」秀歌選をやる。月間ランキング発表のあとの毎月2日にアップしようと思っているが、いつも遅れてしまう。三十首限定としているため、紹介したい秀歌がだいぶ漏れてしまう。会員諸氏が選ぶセレクション欄で取り上げてくれれば、と切に願う次第である。
 今月の赤丸歌、会員1欄パート1・147首。同パート2・62首。会員2欄パート1・77首。同パート2・114首。計400首。

      「短歌人」2月号会員欄秀歌選その二十

分け目(カリマ)いれ髪結い上げて簪(ピニョ)を挿す弓射るような祖母の身支度 金 二順
窯より骨が運ばれ来たり舅からいびられし母一歩身を引く 生野 檀
〈クニ様〉が〈ワニ様〉となり病室の名札に笑ひき母逝く前日(まへび) 竹内タカミ

抱き締めあえばさらにあなたを感じおり合わせた腹の弾力にぶく 江國 凛
天井がかくも低きとは救急で運ばれながらそれだけを思ひ 牛尾誠三
カツカツと音する靴で歩いてみよう背筋を伸ばして 老いてたまるか 池田順一
たらちねの母の夕べの茜雲 秩父屋台にぼんぼり灯る 田村よしてる
キンピラに一割まじる人参の味をたのしむわが愛国心 みの虫
ひびくもの何もあらざる農道を村より村へバイクの走る 佐々木和彦
通勤の混雑は吾を荒ませてまして職場の女性上司 関 浩子
ゆったりと朝のコーヒー飲み干して定年初日心満ちたり 市川松男
義経に仕えし兄弟にはあらぬ佐藤栄佐久・B作生まれし地 大越 泉
障害者の持ち物イチイチ値踏みする施設の女職員のあり 阿部美佳
貧相な男に恋す生姜酒ひりひり辛く喉元を過ぐ 山野とも子
腰立たぬ隣の老犬立つそぶりかなわぬままにうめきをもらす 渋谷和夫
弱き人元関東軍の司令官今だに逃げたを認められずに 岡 頌子
このところ恋が足りない秋の暮れあかり灯して人待つならひ 近藤かすみ
簡単に叶う夢などないことを教えるために現れる虹 里川憐菜
キャラメルを音立て舐めるな腹が立つ腹が立つ人だから気になる 丸井まき
     畠山綾香さん(享年9歳)
雪どけの水に浮かんで見る夢は大人買いしたポケモングッズ 砺波 湊
染まざりし一本の髪透きとおる美しからざる白といふ色 岩崎文子
冬薔薇は風にひらきつ指先をすべらせゆきし肌の恋しも 有馬美佐子
行きつけの床屋消えたり跡地なる山茶花のはな見て帰り来つ 岡 正
別れ際スカートにはしる静電気さやうなら言ふ夜のホームに 谷垣恵美子
ストーブに沸く湯につかる缶コーヒー売られし古き映画館あり 前田靖子
唐突に会社を辞めていく人が残していった書けないボールペン 森 直幹
酔ふと泣く女でしたよ泣き顔を見たくて毎晩誘ひましたよ 安斎未紀
消息を知らせぬといふ消息の知らせ方などむかし覚えき 西尾睦恵
混みあへるレストランにて相席のひと 目を逸らす同じメニューに 川崎義一
里神楽をへし男ら帯解きて日経株価を語る境内 三島麻亜子

 以上、厳選三十首。
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:25| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

2007年02月05日

697 辰巳泰子氏への反論パート1

  今日は、「短歌人」の秀歌選をやろうと思っていたが急遽変更。僕は、匿名者からの批判中傷はあまりしつこく読まず、スルーしている。しょせん匿名だからだ。しかし、実名で批判されればそうはいかない。喧嘩を売られたものと見なす。僕は売られた喧嘩は買うことにしているのである。徹底的にやるぞ。以下、(たしかコピペ禁止とは書いてなかった)辰巳泰子氏のホームページより。以下引用。


ところで、黒田英雄よ、ウェブ短歌界の狂犬を自認し、アクセス自慢をするなら、炎上は引き受けろ! 被害者になってんじゃないよ。

誰によって、どういう形でか知らないが、わたしの名前も出ていたらしい黒田英雄のブログ運営は、「有名歌人の告発、受け付けます」に落ち着いた。それはそれで一つの選択と思うが、結社に所属しながら、ウェブ短歌界では狂犬でいよう、ってスタンスが、黒田の場合、そもそも間違っている。結社に所属したら、結社のお約束や先輩からのご指導は、守らなきゃですよ。結社組織は、皆、ボランティアでやっている。会員の歌が、もれなく活字になるのは、先輩諸氏のボランティア活動のおかげなのである。

犬は仁義を重んじるという。犬以下ならば知らないが、腐っても狂っても、犬ならば、重んじる仁義があるには違いない。人間ならば、なおさらである。

なので、黒田英雄は、結社を辞めて自分の思い通りのブログ運営をするのがスジだ。そして、結社サイドがその振る舞いを許せないなら、結社が黒田を除名にしたってよいのである。それだって、「自由」。結社には、会員を除名にしてはいけない決まりもまた、存在しないのである。除名になるのを恥ずかしいと思う人物が、自身のブログで、「内部告発を受け付けます」なんて、笑わせるので、まさか黒田は、除名はイヤです、なんてことは、ないと思う。あるいは黒田が、どうしても結社にいながら好き勝手を通したいなら、自分の思い通りの結社を作り、そこで、中心人物となればよい。

黒田は、まだ、錯乱している。「悪口でも宣伝だ、ありがたく思え」というのは、黒田が決めることではなく、当事者が決めることだ。「信頼などされなくていい」と放言していた自称「狂犬」が、「ホントのところ、自分は感謝されたっていい」と考えているとしたら、かなりチャーミングではあるが、もちろんわたしにとって、魅力的ではない。
狂犬などではなく、狂犬たちの暇つぶしのための、意味のないオモチャなのである。意味のないオモチャを自認したほうがいい。そのほうが当を得ている。結社という紐で根元を縛られた、群がる狂犬たちのオモチャである。

現行結社というのは、優しい場所だ。はっきり言って、どんな世間より、優しい場所だ。キチガイと才能のない人に。それが分かっているから、みんな、文句を言いながらも結社にいるんだと、わたしは思っているんだけれど。

      引用終わり。

 まず、>結社に所属したら、結社のお約束や先輩からのご指導は、守らなきゃですよ。結社組織は、皆、ボランティアでやっている。会員の歌が、もれなく活字になるのは、先輩諸氏のボランティア活動のおかげなのである。<
 僕はそうは思いません。多くの無償奉仕で結社活動が支えられているということと、結社の成員が成文化もされていない暗黙の規定に従わねばならないか、ということの間に関連性はまったくありません。そんな、不文律を押しつけるような結社はいずれ衰退するでしょう。僕は与党内野党でいたいと思います。つまり、歌壇の中にあって批判をしたいということです。歌壇=結社です。批判したいなら外へ出ろ、という論理がどうして成り立つのかさっぱりわかりません。結社外から結社政治を批判したところでそれこそ犬の遠吠えではないですか。僕は「短歌人」については、月集欄への批判をすでにこの日記で表明しています。それが僕の考える筋の通しかたです。いかなる結社であれ、内部批判をしたから除名するというのなら、好きにすればよろしい。僕はそんなもの恐れてはいません。「塔」に関しては、その編集姿勢や方向性に今のところ批判すべき点がないから言わないだけで、もしあればなんの遠慮会釈もなくここに書くでしょう。どちらにせよ、除名したければすればよろしい。これをもってしても、僕が結社の飼い犬であるがごとき表現は正確さを欠くでしょう。だいたいが、僕の手綱なんぞみんなばかばかしくて誰も取りませんよ。
 某氏のことで、「尊敬する歌人からの提言を要れて日記の削除に応じた」と僕は書きましたが、ひょっとしたらこれをもって、僕を結社の紐つきと解されたのかもしれません。尊敬する人の提言を考慮するのはあたりまえだし、事実、僕自身表現に穏当さを欠いたとみずから納得したからそうしたまでのことです。どんなに尊敬する相手でも、自分が納得しなければその意見に従ったりはしません。今回はたまたまそうでなかったというだけの話です。
>はっきり言って、黒田英雄は、ウェブ短歌界のオモチャなのである。
 これは、最大の褒め言葉である。オモチャ。大いに結構ではないか。歌壇はインターネットがさかんだと言われていたが、読んでいて面白いブログ、HPなど何もなかった。辰巳さん、あなたを含めてですよ。これじゃあいかんと思って、僕がみづから実名をさらして短歌界のオモチャとなり娯楽を提供しているのである。辰巳さんは批判のつもりだろうがまさに我が意を得たりの光栄である。もう、アクセス数が増えて増えてリンダ困っちゃう。今回も、辰巳さんが消えかけた火にガソリンをぶっかけてくれたおかげでまたまた高進されてしまっていささかうんざりである。結果として、ここに名前の出た人は宣伝効果になるのは当たり前の話ではないですか。僕がそれを意図したわけではない。ただ、出た結果をプラスにとらえたほうがいいよと言っているだけです。だって名前をおぼえてもらうだけでも大事ですよ。このカラオケ歌人ども乱立のなかでは。
 では、ここから反撃です。辰巳さんは、結社批判をするのは結社を辞めてからにしろとおっしゃいますが、では貴女は、短歌結社というものに対する批判なり告発なりをなさっていますか?寡聞にして僕は拝見したおぼえがありません。
 貴女は何故「短歌人」を辞めたのですか(除名?)。貴女が円満脱会のようにおっしゃったのを読んだり聞いたりしたおぼえもありますが、納得がいきません。結社にいて結社批判する僕を批判するということは、では貴女は、脱会するにあたって当然あったはずの軋轢や摩擦、批判や応酬など、すでにフリーである以上いくらでも言えるということですよね?違いますか?「何も言いたいことはない」とでも言うつもりですか?「嘘をつけ」。まずそれをカムアウトし、結社をもたない歌人がどれだけ強いか実証してから僕を批判してください。貴女は結社の批判も歌壇の批判も大したことを言ってはいない。少なくとも僕のほうがはるかに問題提起をしていると思います。また、クリスマスのライブで、貴女はあらかじめ、結社に関する爆弾発言があるかのような予告をされていましたね。なんにもなかったじゃないですか!僕は、笹公人氏にマイクを回されそうになったとき、貴女が短歌人を辞めた理由と、結社に対してどんな批判をお持ちなのか聞こうと思っていました。徹底的に突っ込んで。貴女は、そのへんを予感されたのでしょうか、「時間がありません」と僕にマイクが回ることはありませんでした。まあそれで正解だったでしょう。なぜなら間違いなく朗読会がぶち壊しになったからです。だからその日の日記で、それはそれでよかった、朗読会もたいへんよかったと書いています。
 要するに、なんで貴女よりも僕ごときのブログのほうが歌壇に対して戦闘的なのか、それが不満なのです。貴女はなにか歌壇に対してその屋台骨を揺るがすような問題発言をなさってますか。歌壇の外においでだと自負なさるのであれば、もっと過激な発言があってしかるべきでしょう。自立を装いながら、叩いても大丈夫だと見なした相手だけ叩くのであれば、与党内野党の僕を批判する資格は貴女にはありません。
 僕は、自分を狂犬だと思っていましたが、今は歌壇の珍獣だと自覚しています。歌壇がだらしなく、噛みつきがいがないので珍獣の地位にとどまっているのです。ただ、狂犬だと思っている人もいるらしい。狂犬は噛みつくものだ。しかし、最近噛みつかれてばかりである(笑)。狂犬に噛みついたらどういうことになるか、どうかお楽しみに。辰巳さん。徹底的にやりましょうね♪
 あーもう、書きたかったこと忘れちゃったじゃないか(怒)。噛みつかれてばっかりで。「短歌人」秀歌選発表がどんどん遅れてしまう。そしてまたアクセス数訪問者数が気違い沙汰に増えていく。結果的に私のブログに関わった人々は知名度が上がってしまうのである。おめでとうございますとお悔やみを申し上げます。
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:48| Comment(16) | TrackBack(0) | 日記