2007年03月30日

742 さびしき玩具

 映画「文学賞殺人事件〜大いなる助走〜」にこういうやり取りがある。蟹江敬三「君の直本賞、候補になったお祝いの会をするんだけど、ところで君、いくら出せる?」佐藤浩市「祝われるほうが出すんですか?」蟹江「いやまあ、一応そういう習慣になってるから」。大意であって正確ではないが、要するにこういう内容だった。このシーンにはいつも爆笑するが、歌壇ってこれとよく似ているではないか。たとえば、角川とか短歌研究とか現代歌人協会賞とか、俺は驚いたのだが、受賞者に交通費も出さないそうである。宿泊費なんぞもとより出るはずがない。これでは、受賞者が沖縄北海道在住だった場合、交通費はかかるはホテル代はかかるは、しかも歌人協会賞は頼みもせんのに協会に入らなくてはならず、その入会費までふんだくられる。わずかばかりの賞金はこれでパーであり、赤字にさえなるかもしれない。ったく、ひどい話だ。あんたらねえ、受賞者に敬意を持っているなら、せめて交通費と宿泊費くらい負担しろ!これではまるで、賞を名目に新たなカモをくわえこんでるようなものである。そりゃ短歌関係のとこなんてどこも貧乏だろうが、それにしたって誠意がない。誠意とは、アゴアシ代のことである。それが受賞者に対する最低限の、よろしいか、最・低・限の礼儀というものである。栄誉を与えられて良しとせよ、というのは主催者側の言い分だろうがふざけんじゃねえ。僕はマジに思う。歌人って、こんなしうちを受けてまで賞が欲しいのかなと。俺なんか、もちろん賞のあてなんぞもとよりないが欲しいとすら思わない。お前短歌賞応募しとるやないか、と言われるかもしれないが、あれはお祭りに参加しただけのことである。万一受賞したとして、九州あたりに住んでいたとしたら、運賃も宿泊費も出ないと聞いた時点で賞を辞退するだろう。
 俺は、短歌を百パーセント娯楽でやっている。こんな面白い娯楽はない。啄木は、「悲しき玩具」と短歌を言ったが、僕はこう言う。短歌とは、「さびしき玩具」であると。当ブログを読んでいる人のうち、3割くらいは短歌とは縁もゆかりのない人だろうと思う。その3割の諸君、この韻律遊びをやってみない?病み付きになるぜ。喜怒哀楽を三十一文字に凝縮してみな。散文よりぜんぜん面白いよ。たぶん啄木も、おんなじ気持ち、遊びの気持ちで作っていたのだと僕は断言する。だから俺は、歌会というのが嫌いなのだ。机を並べてしかつめらしい顔をして、歌をいちいち論ずるなんぞまっぴらごめんだ。俺は、興味のない歌は「興味ない」のひと言しか言いたくない。いちいちそんなもんに論評などするか。たぶん、フラストレーションが溜まるだけだと思うのでどんなに誘われても絶対行かないのだ。歌は、勉強するものではない。読むのも詠むのも、100%娯楽である。「歌会は勉強になりますよ」なんて言い草、俺は断固信じない。ただ、唯一勉強になったと思ったのは、捨て歌と自分で思っていた歌を選者が採ってくれたときだ。これは確かに勉強になる。ああ、この歌はいい歌だったのだと再認識させられた。また、自分自身の歌を、冷静に判断しなおすきっかけともなった。だから選歌を受けるということは大事なのだ。だから、結社誌の選歌欄は多いほうがいいとかねてから主張しているのだ。
 短歌=悲しき玩具(啄木)。短歌=さびしき玩具(英雄)。
 俺は、啄木直系、藤原龍一郎佐藤佐太郎傍系の、歌壇という荒野をさまようローンウルフなのだ。
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741 野心

 短歌を始めて6年めにして、初めて気骨のある若手歌人がいるのだと知った気がする。松村正直という人物を、僕は高く評価している。彼が「塔」の編集長に就任してから、結社誌は以前にも増して面白くなった。「私の偏愛する『塔』の歌人」など、魅力的な評論の掲載、一首評欄の拡張、あるいは細かいことだが訃報欄の設置、これらの存在によって誌面は活気に溢れている。歌壇内でひとかどの存在でありたいという野心を持つ若手なら多いだろう。しかし、その大半は、僕に言わせれば今だしである。反骨の気概が最初からないか、あっても口に出さずに寄らば大樹の陰を決めこんでいるのがほとんどだ。今回の松村の、佐佐木に対する批判は、彼の歌人としての格を上げ、スケールを大きくするのに役だったと僕は思う。上も叩かずにのし上がっていく奴なんて、所詮小物である。映画の世界で言えば、黒澤も小津も成瀬も大島渚も、それまでの古い体質の映画界に意義をとなえ、生意気なバカとそしられながら自作を確立させていったのだ。短歌で言えば、塚本邦雄だって岡井隆だって、前衛短歌運動でそうとうな疾風怒濤にまみれながら歌壇に地位を確保したはずだ。今の若手にそんな気概のあるやつがいるか。いたら教えてほしいもんだ。松村の短歌時評の論調は冷静だが、実はマグマのごとく怒りが渦巻いていることが感じられる。それを公的な文章にしたことを僕は高く評価する。もちろん、返り血を浴びることは覚悟のうえだろう。その気概こそが、歌人のスケールというものをアップさせるのだ。
 松村は、「塔」内では河野裕子の系列に連なる歌人だと僕は思っている。ただ、本質的には彼は(黒田英雄の次に)啄木直系の歌人である。そして、今日的な意味でアララギ的な歌人とも言える。松村の第一歌集「駅へ」を、彼がまだ新人で第二歌集が出る前というリアルタイムで読めたことは幸運であった。こういう出会いは大切にしたい。若手歌人どもよ、言っておくが、既成の歌人を批判せずに一流歌人になれるなどと思うなよ。野心を持っているなら上を叩け!血まみれ傷だらけになってのし上がれ!こざかしい、小物ばっかりがはびこりくさって。ちなみに、私には野心のたぐいはいっさいございません。
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2007年03月29日

740 論争を仕掛けろ!

 それにしても、佐佐木の原稿の早いのには驚く。コメント欄におけるそれへの指摘には実はある問題が発生したので泣く泣く削除したが、要するに、松村の批判を読んでから怒りくるった佐佐木が反論を書いて、しかるのちに掲載したとすると出版の常識からいって早すぎ、角川の作為さえ疑わせる、ということなのだが、出来レースにしては佐佐木先生、文章がぶさいくに過ぎる。やはりこれは、怒りのあまり書きとばして、角川短歌編集部にねじこみ、ろくに校正もせずにむりやり突っ込んだのであろう。
 うがった見方をすれば、今回の問題は、松村の挑発にまんまと乗ってしまった佐佐木が、ぶさいくな怒りの文章で、男を下げてしまったということかもしれない。単純に言って、佐佐木幸綱という歌人の資質が、花山多佳子の歌を批評するのに向かないだけである。歌人には、それぞれ批評をするにあたって得意不得意というものがあるはずだ。僕は以前、短歌研究新人賞の委員長を佐佐木にすべきだと書いたことがある。なぜなら、佐佐木が不参加の年の受賞者にろくなのがいないからである。佐佐木が参加した年は、まあまともである。そういう面で、僕は佐佐木を評価しているのだ。ただね、人を挑発する文章に対しては、エキサイトしては負けである。逆に冷静に、あくまで論理的に、なおかつ相手を小馬鹿にして逆に挑発するぐらいにいやみったらしい丁寧な文章を心がけるべきである。佐佐木はその点において今回完全に失敗した。意外と、一線級の歌人というのに、ちょっとした悪口ですぐにキレる人がいるようだ。だからといってわめき散らせば、権威を嵩に着ていると読者に思われるだけで、マイナスでしかない。
 ただ僕は、佐佐木のカッとなって殴り書きしたものをそのまま発表するという性格も決して嫌いではない。若手歌人、たとえば「塔」で言えば松村正直や吉川宏志のほうが、ベテラン歌人たちよりずっとしたたかで、鼻っ柱が強いと思う。スマートな鼻っ柱の強さなのだ。それはそれでよいと思う。が、何か物足りない。佐佐木のように逆上してくれる人が、僕は基本的に好きなのかもしれない。いずれにせよ、専門誌での論争は大いにやるべきだ。僕は、松村の再反論を心待ちにしている。論争というのは、重ねていくうちに、さまざまな問題が浮き彫りにされてくるものだろう。だから、編集者はもっともっと意識的に論争をプロデュースしてもいいと思う。いや、するべきだ。当ブログもそれによって、大いに盛り上がるのである。

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「キャバレー日記」(1982年、にっかつ、根岸吉太郎、脚本・荒井晴彦)竹井みどり、伊藤克信、上田耕一、青山恭子、北見敏之、岡本弘美
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2007年03月27日

739 続・松村正直VS佐佐木幸綱

 今日は昨日の続きである。松村・佐佐木論争で取り上げられたのはつぎの二首。

 エレベーターとまちがへわが家の呼びリンを押す人がゐる年に二、三度 花山多佳子
 一車輛に乗り合はせたる運命の扉がひらきわれが降りゆく

 正直、花山作品のなかで、それほど抜きんでた歌というほどのものではない。なんでこの二人が喧喧囂囂やりあうのかよくわからん。だから、昨日は僕の好きな一首を取り上げて佐佐木の読みを批判したのである。上記二首めの「一車輛に乗り合はせたる」がかかるのが「運命」なのか「運命の扉」なのかで言い合っている。まあ、読みとしては松村のように「運命」でひと区切りするのが順当な読みだろう。しかし、歌意について考えたとき、「運命の扉」という上句下句にまたがるフレーズを修飾する、という読みを個人的にはとりたい。「運命の扉」、荘重なフレーズだが花山多佳子の手にかかると、みのもんたがきんきらきんのライトの下で回してみせる、クイズ番組の仕掛けのごとき浮薄さである。だいたいが、隣の人のトンカツが自分のよりでかいのもミニスカートのお姉ちゃんが階段の上のほうを歩いてくれるのも、なんだって運命といえば運命であり、この一首は電車に乗ってまた降りたというだけの報告をすることによって、運命という言葉の大仰さそのものを笑ってみせる。その笑いは、群集のなかの一人でしかない自分にも向けられているだろうし、また作者はその無意味性に諧謔じみた心地よささえ味わっているだろう。松村の読みも佐佐木の読みも、両方とも可能だということだ。いずれにせよ、理屈が勝っていて、僕はあまり評価できない歌である。また一首め、ここでおかしいのは、佐佐木が躍起になって「そんな奴あいねえ」と連呼するかである。しまいにはおかしくて大笑いしてしまった。事実に即して言えば、こういうことはある。いくらでもある。エレベーターなんぞない昔のアパートのドアをよく酔っ払いに叩かれたし、僕も掃除道具入れを自分の部屋と間違えて入りそうになったことがある。佐佐木は、この歌に対して執念ともいえるしつこさで「ありっこないよそんなことはね」とか、「社会的常識ではそんなことはありえない」「特殊な事情は常識の外側にある」とか「事情を勘案してもボタンの形や色だってちがうはずだから(ありえない)」と繰り返し繰り返し繰り返している。おまえは「砂の器」の丹波哲郎か。腹をかかえて笑ってしまった。佐佐木は酒豪だそうで、正体なく酔ったことがなく、だからそう断言するのかもしれないが、世の中にはそういうやつが山ほどおるのだよ。この佐佐木の独断と、それを繰り返し続けるしつこさには呆れかえって。ただ、松村の「批評用語をもって批評せよ」という意見、これはこれで大いに反対である。「嘘」という言葉を使ったことそのものには、批判される点はない。佐佐木の言う、「できあいの批評用語を振り回して得意がる批評もどきを全く信用しない」という意見には賛成できる。批評というのは、用語というツールを使いこなしてみせることではなく、自分の言葉で、歌をひもとくことである。この点においては、僕は佐佐木に賛成である。ただ佐佐木が、「歌よみに与ふる書」くらい読んでおけ、と言うのは余計なお世話である。いずれにせよ、今回は男うたで鳴らした佐佐木幸綱の、まさに男を下げた論争と言えるだろう。だいたいね、男っぽさを標榜するやつに限って小心者が多いのだ。松村の批判に対して、ここまでヒステリックにわめきちらすという佐佐木の正体見たりという感じである。あの三船敏郎だって、実物は神経の細かい小心者だったということは有名である。佐佐木もこの例に漏れないだろう。
 「短歌人」四月号が届く。小池光が編集後記で書いているが、今号は新入会員が一斉に出詠している。喜ぶべきことだ。その中にはいい歌もある。またこの日記で紹介しよう。あと、某女性歌人のネット日記で面白〜いネタを発見したのだが、ことが男女の話なのでここでは触れることができない。週刊「短歌セブン」とか、そういうイエローペーパーがあれば面白いだろうなあ。その女性歌人は、本人もまた恋敵も、僕が最近注目している人だけに驚いた。春だなあ。

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「女教師」(1977年、日活、田中登、脚本・中島丈博)永島暎子、古尾谷雅人、砂塚秀夫、山田吾一、久米明、宮沢えりな、蟹江敬三、樹木希林、絵沢萌子
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2007年03月26日

738 松村正直VS佐佐木幸綱

 花山多佳子の最近の作品で、僕が好きな歌がある。

 手の甲にもう一つの手が貼りつくを剥がさむとして声上げて醒む 花山多佳子

 これは、他者というものの気持ちのわるさを詠ったものだと思う。夢のなかでべつな人体にまとわりつかれてどうにも不愉快だった経験は誰しもあるのではないだろうか。夢のなかでの自由のきかなさが絶望感へとつながる、なんともやりきれない夢だ。夢という私的な場所に現れた得体のしれない不快な肉の感覚。それが端的に詠われており、平易に解釈できる内容だ。ところがこの歌を、「短歌研究」一月号「短歌季評」の対談において、出席者佐佐木幸綱がこう評している。

>佐佐木 こういう歌は普通は恋愛の歌っぽくなるんだけど、この人はあんまり恋愛っぽくならないね。最近の女性は、五十代でも、恋する女性の歌を作るけど、花山さんはしっかりお母さんとか(笑)

 また、この歌における「もう一つの手」のことを、「普通だと男の手かと思う」とも言っている。僕に言わせれば、まったく読めていない発言としか思えない。
 まず、歌人花山多佳子の全体像(佐佐木がそれに不案内ということはまず考えられないが、もしそうだとしたら不勉強である)のどこに、母性や女性性があるというのか。たとえばこれが河野裕子や栗木京子ならわかる。花山多佳子という歌人は、そもそも女性が押しつけられがちなジェンダーの網から奇跡のごとく自由、悪く言えば母性もへったくれもない歌人である。松村正直は、佐佐木の季評に対して、「歌を読む姿勢がなってない」と言っている。これはかなりお行儀のいい言い方であり、俺はお行儀がわるいのではっきり言う。佐佐木幸綱よ。歌人その人の資質をまったく見ることなしに、印象だけで勝手なことをほざくな。男歌の旗手と呼ばれ、雄渾な男性性を輝くばかりの表現力で詠ってきた佐佐木先生は、あいにく、女性というものをどうしても母とか妻とかでなければ処女とか娼婦とかいった役割でしかとらえられず、恋愛や家庭や母性とぜんぜん関係ないとこで存在するものがたまたま女性である、ということに対して、像が結べないのではないか。貴方のこの季評を読めば、口には出さねど、女性というものをワンパターンで旧態依然なとらえかたしかしていないのだな、と思わざるを得ない。た××ま×みたいな、表面的な女性性だだ漏れ(お母さんにもなったしな、ケッ!)な歌人は大好きでも、花山多佳子のようなシニカルさは理解できまい。僕は、「短歌研究」の作品季評という、3人がかりでの対談形式での短歌評というものをまず読まない。「短歌研究新人賞」も、茶飲み話まるだしの生ぬるい決定選考会の対談はかったるいし、ろくに候補作を読んどらんのではないかと目を疑いたくなるような発言もしょっちゅうである。勝手な推察だが、松村はこの対談形式の歌集評というものが持つ、だらけたなあなあな雰囲気にも苛立ちを感じ、それが角川「短歌」三月号「歌壇時評」における佐佐木批判へとつながったのではないか。
 その松村の歌壇時評に対する佐佐木の反論、角川「短歌」最新4月号「批評と礼節」の中には暴論が見られる。佐佐木の知人なる人物がこうおっしゃられたそうだ。
>「この松村という人には、結社派閥的な思い込みがあるのかもしれないね」
 俺は激怒した。こいつは佐佐木に殿ご注進と松村の時評を言いつけたやつでもあるらしいが、どこのどいつだ名を明かせ佐佐木コラ。自結社の歌人が不当に評されていると思ったとき、援護射撃をするのは結社仲間として当たり前であり、それのどこが結社派閥的な思い込みだというのか。そんなことを言えば結社というのはそもそもが派閥であり、自結社の歌人をほめたり擁護したりすれば全部派閥的な思い込みということになってしまうではないか。また佐佐木は、「なにか発言したいのであれば『塔』以外の作品を例に発言すべきだ」と書いていて、もうどこが滅茶苦茶か言う気もうせるくらい滅茶苦茶である。語るに落ちるとはこのことだ。
 当ブログは、普段かなり批判的なことを言っているが、それでも僕は読者というものを意識し、(そうは見えないだろうがそこが技である)冷静に計算してやっているのである。ところが、佐佐木幸綱のような一流歌人ともあろうおかたが、感情をまるだしにしてこれ以外にも暴論をいくつかかましているのだが、いちいち取り上げるのも馬鹿馬鹿しい。一線級歌人の理性というのはこの程度のものなのか。要するに、松村が三まわり近くも下の若手歌人であり、その若造にタメ口で批判を受けたことが我慢ならなかったのだと邪推されても仕方がない。タイトルに「礼節」とあるのが笑わせる。批評における礼節をわきまえていい年齢なのは佐佐木さん、貴方のほうであり、松村ほどの若さにしては、まだ生意気が足りないくらいに僕は思っている。
 佐佐木に対して、松村の再反論を掲載することを角川「短歌」に対し、この場で要求する。いろいろ噂に聞くが、一線級歌人と言われている連中ほど、ちょっと批判されただけでヒステリックにわめき、理性を欠いたことを言いちらかすというのは、どうやら事実らしいと今回のことでつくづく感じた。これに関してはもう少し書いていきたい。佐佐木の反論を読んで思ったが、当「安輝素日記」の罵倒文のほうが冷静かつ理性的であり品がある。諸君もそう思われるであろう(笑)。

      今日のMYビデオ
「地獄」(昭和35年新東宝、中川信夫、美術・黒沢治安)天知茂、三ツ矢歌子、沼田曜一、中村虎彦、大友純、宮田文子、嵐寛寿郎
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2007年03月25日

無題

 「塔」3月号に、ちょっと問題を感じた歌があったのでそれを取り上げようと思っていたが、ネット情報で知ったのだが松村正直と佐々木幸綱がエライことになっている。さっき角川「短歌」今月号を読んだばかりである。松村の時評は先月立ち読みで読んでいて、それをやろうかと思っていた矢先に佐々木の激怒文である。ちょっと混乱している。書きたいことが二つも重なって、どっちを先に書いたものか困っており、考えがまとまらないので明日以降に延ばす。それにしても、話題に事欠かないぜ。
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2007年03月24日

737 啄木に勝る現代歌人など…。

 山崎様からコメントをいただいた。コメント返しにも書いたが、何人もの一流歌人といわれるかたがたがいるが、僕に言わせれば誰も石川啄木に勝っていない。落ち込んだときはとくに、僕は短歌にすがる。僕を救ってくれる歌人は、啄木以外誰もいない。「一握の砂」は何度読んでも新しい。全く飽きない。それは、一首一首が簡潔に表現されたドラマであり、まさに読みやすいシナリオだからだ。ある人は、啄木短歌を「誰でも経験することを詠っているから受けるのだ」と馬鹿にしたように言う。それは違う。そう言うおまえが馬鹿だ。啄木の短歌は私性にまみれている。それが万人に共通する思いだとすればそれが啄木の技であり、啄木は一般的な共感に媚びているわけでもなんでもなく、結果としてそうなっているのである。だから「一握の砂」はいまだに版を重ねているのである。そんな歌人がほかにいるだろうか。テクニックと方法論にばっかり凝りやがって。しかも歌集を編めば、ごちゃごちゃとこざかしく章立てをしやがる。たぶん、雑誌に掲載したものを寄せ集めてそのまま載せているからだろう。能のない連中だ。歌集に収録するなら、もう一回再構成して7章くらいにまとめるべきである。つまらんこせこせした章立てなんぞするな。読みづらい。一章平均90首くらいに章をしぼれ。お前ら言っとくけどな、短歌も読み物だ。お前らの歌集は読み物になってない。

実務には役に立たざるうた人と/我を見る人に/金借りにけり 石川啄木
夜おそく停車場に入り/立ち坐り/やがて出でゆきぬ帽なき男
気がつけば/しっとりと夜霧下りて居り/ながくも街をさまよへるかな
若(も)しあらば煙草恵めと/寄りて来る/あとなし人と深夜に語る

 ほか、簡潔な措辞だが実にドラマチックで、僕は何度読んでもこれらの歌は飽きない。まさに、韻律に凝縮されたドラマである。
 現在、啄木に最も近いのは黒田英雄であるが、その次に近いのが松村正直である。彼の歌集「駅へ」「やさしい鮫」、これも日常感覚の中で、漂う自分を見つめ、その世界を簡略な措辞でドラマ化していると思う。彼の歌集も、啄木と一緒でさっと読める。そして、何度読み返しても飽きない。

ネクタイを直されている束の間の拠りどころなき男のひとみ 松村正直

 この歌など、現代の啄木と言っていい秀歌である。これも多くの人が思うことだろう。ただ、その松村氏にしても章立てが多すぎる!なんでこんなに章があるのかとわからない部分がある。現代歌人は章立てビョーキだね。だれか、この章立てに関して意見を言ってほしいのに誰もいない。
 なお、私の第一歌集「安輝素」を幸運にも出せた暁には、私は章を六章のみとする。私は二十一世紀の啄木なのだ。その巻頭歌は決まっている。第一章「禄で無し」の1ページ目のただ一首だ。ここに予告しておこう。

屠りの日しづか近づく霜月の未勝利馬より眼(まなこ)そらせり 黒田英雄

 みんな、買えよ!
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2007年03月23日

736 上位拮抗、日経賞GU前日予想

 春競馬開幕初戦、ここは欲をかくことなく、まず的中を目指したい。上位拮抗だ。一番人気に予想されるマツリダゴッホ、確かに前走は強い競馬だったが、この馬は折り合いが課題。過去3走はそれぞれ、やや速めの平均ペースからハイペースでの連対。今回はスローペースが予想される。距離はもつだろうが、前半五ハロンが引っかかりそうで怖いなあ。いろいろ考えたが、軸は10番ネヴァブション。三か月の放牧のあと、本格化してきたのではないか。格下だが、前2走、とくに迎春ステークスは強い内容。スローペース中山で好タイムで勝ったのも心強い。折り合いオッケー。とにかくこのレースは、超スローで折り合いがかなり重要視されると思う。ここは、彼から行きたい。フサイチパンドラやアドマイヤタイトルも怖い。が、いずれにせよ上位拮抗、穴馬はまずない。オッズもそれなりにバラけるだろう。ここは、そこそこ手広く行きたいと思う。前日予想結論。準厚めでそれぞれ、馬連3−10、4−10、5−10、7−10、10−11、10−14、そして8−10、計7点。ここはどれがきてもガミはなく、プラスにはなる。まさに無欲の賭けである。順当にここを勝って、春GT戦線に参戦しようと思いまーす。北村くん、頑張ってね。
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2007年03月22日

735 短歌(うた)の運動=余韻

 短歌とは、韻律のシナリオである。描かれる画は、常に動いていなくてはならない。いくら上手い歌でも、静止したカットでしかなければ、僕は即座にごみ箱に叩き込むだろう。ただ上手いだけで余韻がないということだ。短歌の余韻、それは、画が動いていることをもって成立する。それを、僕は歌の運動と命名する。「名歌選」へのコメントをいま少し続けよう。

弁理士の合格通知みせる順わたし、夏子、小丸とそれだけ 柴 純子

 なんとも微笑ましい歌だ。弁理士の免許を取ったのはいったい誰だろうか。ご亭主なのかあるいはこの家には、純子夏子の親子以外に成員がいるのだろうか。カメラはまず「わたし」を映し、娘の夏子を映し、そして可笑しいのは、愛犬の小丸を映すのである。結句で「それだけ」と言っているが、その規模の小ささが家族のつながりの暖かさを強く感じさせる。小丸、という固有名詞がすばらしい。僕の想像のなかに浮かぶ小丸は柴犬である。賢そうな顔をした。まるで、歌を作るために小丸と命名したような気さえしてくる。私の愛猫みみ太といい勝負である。柴作品に、さらなる小丸くんの登場を期待する。

契約がとれたと明かすおとなしい息子のメールを二度三度読む 今岡悦子

 この歌も、一読単純な作品だが、ちゃんと歌が運動している。母親は、息子のことをとてもおとなしい、消極的な人間だと思っているのだろう。そんな息子が、社会人となり、社員としてちゃんと契約を取ってきたと、母親にメールしてきた。その喜びを詠っている。これも結句が素晴らしい。たとえば、何度も読む、とか三回読む、とかではつまらないし、運動につながらない。二度三度という表現が、この歌を進行形にしているのだ。そこに、この母の愛情というものが、静止画ではなく、リアルに浮かんでくる。僕は、こういう歌はいいと思う。

竹の花咲く怪談を読みくれし祖母ながく長く間をとりつつ 山下裕美

 「竹の花咲く怪談」というのがどういうものなのかちょっとわからないが、これも下句が素晴らしい。間をたっぷりとって怪談話をするという表現に、単に過去の思い出ではなく、今でもまざまざと蘇ってくる怖さを郷愁とともに詠っているのだ。読み手にも、その祖母の語り口というものが俄然浮かんでくるではないか。こういう余韻を読者に与えるのが短歌の素晴らしさなのだ。

自信なき人は頷きつつ喋る会議のさなかに気づきたること 井上良子

 短歌は、発見の文学でもあろう。この歌を読んで僕は思わず頷いた。僕の上司は「責任」というものを非常に怖がる人で、僕の意見に対して「あ、それもいいんじゃない」とまさに、うなずきつつ喋るのだ。僕は、それを黙認ととって勝手に行動している。上司にしてみれば、なにか問題が起これば、「自分が認めたわけじゃない」と逃げ道を作っているつもりだろう。上句は真理である。自分のことを考えても、自信のないときは確かに、うなずきつつ喋っている。作者は、緊張感のある会議のさなか、それに気づいたという。そこにこの歌のドラマがあり、運動があるのだ。

夕暮れに似たる気配に歩のゆるむ古墳の影に入りたるらし 千田智子

 「夕暮れに似た」であって「夕暮れ」ではない。しかも、古墳の影に「入りたるらし」である。作者は夕暮れではないどこかの時間(影ができるところを見ると昼間であろうが)、周囲に目をやることもなくひたすらに歩いているのである。そこに、夕暮れに似た気配を感じて思わず歩をゆるめる。だがそれにはまだだいぶ時間がある。自分の落ちかかり夕暮れを思わせるこの影はおそらく古墳のものだ。実際は違うかもしれないが、作者は古墳という古代の墓の影にいっとき飲まれた自分を想像して思いがけず安らかな気持ちを味わっているのだろう。歩がゆるむまでの歩みと、それがある気配に気づいて減速するところまでをリアルに想像させることに成功している。僕は、この歌もまたストレート短歌であると言いたい。

 小高賢氏「現代短歌の鑑賞」を読んで僕はあきれかえったものである。一流歌人の作品なるもののほとんどが、言葉遊びに堕している。修辞はたくみだが、描かれている画は静止したままでなんの余韻もない。少なくとも、一般人はこんなものは読まんだろう。僕は、加藤治郎の修辞重視の歌論を唾棄する。歌に修辞は必要だが、過剰なそれは白けるばかりである。要するに、「作リマシタ」と感じさせるだけですでに失敗なのである。上手い歌は、上手いなあと思うだけで、余韻がない。読者に上手さを悟らせた時点で失敗なのである。感動の95%は技巧だという。これは正解だが、技巧を感じさせないための残り5%がたいていの歌人には欠けている。だから僕は、何度も言うのだ、現代短歌というのは、90%がインテリゲンチャの言葉遊びであると。僕は、あくまで、簡略な措辞によるストレート短歌を目指したいと思う。それが、短歌という文学が、今後生き延びていくうえでの指標となるであろう。
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:14| Comment(4) | TrackBack(0) | 日記

2007年03月21日

734 深遠なさみしさ

 短歌は、刹那の思いを愛する文学だ。歌にした途端、すべてのものは過去になる。だからこそ愛おしい。こんな愛おしい文学は他にないだろう。

黄葉の散りて小暗し帽子ぬぐ兵士のように暮れゆく窓は 山下 泉

 兵士というのは、非常に象徴するものの多彩な存在である。真っ先に浮かぶのは戦争だろうが、実は戦争そのものと兵士のイメージは重なりあわない。近代戦においてはすでに兵士は戦いの真の当事者であることから滑り落ち、いっときは国家的犯罪の犠牲者とされ、しかしそれさえももはや色あせていまは滑稽な非人格性をこそ多く負っているようである。当事者や遺族のかたがたには申し訳ないが某国防軍兵士たちが某国への派遣から戻ってきてその多くが自死をとげたことを聞いても、痛ましさに胸をつかれるよりは消耗品の末路という感慨が浮かぶ。これは僕が特に不人情かつ左巻きだから、というわけではなく近代以降の兵士というものが帰結する共感されにくさのせいだろう。英雄など存在しないことを知ってしまった者にとって、兵士というのは戦いの理由、志願か徴兵かの区別に関係なく、非人格的な流されゆく人である。したがって兵士の象徴するのは戦いではなく、唐突さや一過性、喪失や愕然、不条理、そして果てしのない終わらぬ帰路、などのわびしくたそがれたことどもだ。
 谷や山をくれないに染めあげる紅葉ではなく、都会の街路樹がみせる葉の黄変は、散りきったあとの裸木の点在を空にきわだたせていっそうやるせない。都会の晩秋がみせる暗く沈みきったさみしさはちょっとほかに例が浮かばないほど深い。そんな暮れかけた町――おそらくは郊外の、とりわけさみしい住宅街だろう――をゆっくりと、なにか巨大なものの影がよぎっていく。それは理由を知らされぬまま戦いに馴らされ、帰還をゆるされたもののもはや人間に戻ることもできない、一個の疲れたつめたい意思である。晩秋の、マグリットやキリコを思わせる深遠なさみしさを帽子脱ぐ兵士になぞらえた視点が秀逸である。兵士が帽子を脱ぐというその動作は、平和の訪れを意味するのではなく、一瞬のカット割りのあとには、暴行されて首を絞められた主婦が床に倒れているショットがつながるのではないか。それでも画面は、あくまでも静謐なトーンをつらぬきながら。帰還兵士の蛮行を描く映画の多くが悲しい美しさを通底音として持っていることが思い出されるのである。

     今日のMYビデオ

「怪談蚊喰鳥」(昭和36年大映、森一生)船越英二、中田康子、小林勝彦

 高松英郎、船越英二、次々と映画俳優がこの世を去って行く。二人とも、大映の名バイプレイヤーだった。淋しい限りだ。船越英二の代表作はこの「怪談蚊喰鳥」と「野火」(昭和34年大映、市川崑)と僕は断言する。心からご冥福をお祈りします。
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2007年03月19日

733 「塔」3月号・陽の当たらない名歌選と、危機感

 以前は、赤丸チェックは、数時間で終わったのだが、出詠数が増え、さすがにそうは行かなくなった。六人の選者の選歌欄を二日にわけてチェックし、赤丸をつけた歌のなかから、ここに載せる歌をチョイスするのにもう一日、要するに最低三日はかかるということだ。「塔」は、今後どれだけ会員数を伸ばしていくのだろう。ただ、何人増えようと意地でも全部読むぞ。なぜなら、この名歌選はアクセス数四ケタ代を常に保持している。最低でも1000アクセスはあるのだ。これは、読者による支持の現われだと僕は判断している。アクセスが落ちればやめる。まあ、現在のペースが落ちて900を切るようになったらやめる。数は正直だ。数が落ちるというのは、支持されていないということだと僕は判断する。
 今月の赤丸歌。吉川欄作品1、146首。澤辺欄、101首。池本欄、144首。花山欄、93首。栗木欄、126首。真中欄若葉集、144首。計754首。

      「塔」3月号、陽の当たらない名歌選

黄葉の散りて小暗し帽子ぬぐ兵士のように暮れゆく窓は 山下 泉
弁理士の合格通知みせる順わたし、夏子、小丸とそれだけ 柴 純子
夕暮れに似たる気配に歩のゆるむ古墳の影に入りたるらし 千田智子

『風にそよぐ葦』を朝あさ新聞に読みし日遥か雲流れゆく 大田千枝
人あらざるエレベーターに残る香は若き女ならむと階下るなり 松島良幸
山としてわたしを覆うおとこなれおおお、おおおと夜風立つとき なみの亜子
反りぎみの指がすばやく上下して女言葉は手話にもあるらし 乙部真実
娘(こ)といえど三人(みたり)子の母、妻にして耐えるもあらむ首筋(うなじ)の細き 児島良一
このゆびに止まれと空を指さして私の中になだれくる青 塚本理加
ががんぼは身の不始末を詫びにきたあの夏の痩せた叔父さんのやう 久保茂樹
祖父の名は愛蔵≠ニいへり墓石に刻まれてあることのみに知る 西内絹枝
契約がとれたと明かすおとなしい息子のメールを二度三度読む 今岡悦子
昼さがりの歌会の最中ひそやかに吾が噛み殺すみっつの欠伸 吉村久子
からっぽの牛乳パックを切りひらくなおったよっていったじゃないか 原 ゆきこ
ゴーグルに世界ぴゅんぴゅん映し出すスキーのうまい子どもは嫌い 相原かろ
一つありし共同の湯に人気なく刺青の男が湯加減みており 伊地知順一
回を追う毎にアニメのアン・シャーリー十五の身体らしくふくらむ 太田 愛
百姓の生涯なりき吾が父は蚕紙の端切れに歌を記(しる)せり 大久保 明
自信なき人は頷きつつ喋る会議のさなかに気づきたること 井上良子
脱いである服が魚に見える部屋ここで眠ればすぐ舟が来る 金田光世
眠りつつ川を渡っていると知る武蔵野線の馴染んだ揺れに 沼尾莉生
月かげにススキ手折れば匂い立ち村の母子の惨よみがえる 高橋万里子
竹の花咲く怪談を読みくれし祖母ながく長く間をとりつつ 山下裕美
山に慣れし足にて歩む谷の道妹は唄うたっていたのかも 金森靖子
京都駅のずうっと奥と人の詠む山陰線にわたくしが住む 白根佐知江
ぼそぼそと何か言いつつ遊びいるこの一人子はさわぐことなし 須藤冨美子
鍋の字に人偏ついているような部長は飲むと左翼に戻る 関野裕之
痔瘻とは痔といかほどに異なるか熱弁浴びるほどに聞かさる 八鍬友広
ひとたびは煙草と別れし南壬子さん周子善知鳥と煙に和(なご)む 善知鳥夢宅
さよならはさみしい言葉番組の終りにアナウンサーが言っただけでも 真隈素子

 以上、絞りに絞った厳選三十首。歌にはドラマ性がなくてはいけない。映画のワンカットのような見事な秀歌たちである。

 てっちゃん様なる人物と、その歌を通してちょっとした論争したが、僕はゾーっとした。ろくに三十一音のリズムをととのえることさえできず、人の歌を読むときも句切れの場所が理解できないようなのが、一丁まえに自分はすぐれた歌人であるかのように思い込んでいるということがだ。私も、短歌について大きなことは言えないが、それ以上の馬鹿がぞろぞろいるということだ。何十人何百人何千人のてっちゃん様がいるということだ。僕は思う。短歌が滅びるとしたら、それは詠み手が少なくなるということではない。読み手がいなくなるということだ。これは、初心者のことばかりを言っているのではない。一丁前に歌人づらをしている連中にしても、他人の歌を読むという段になって、どれだけの力があると言えるだろうか。一例をあげれば「短歌研究新人賞」の選評会議を読めばわかるではないか。まるで読めていないような選者が何人もいる。短歌の危機とは、読み手が不足しているというそのことを指すのだと僕は思う。永田和宏主催が、歌は読むことが大事と日頃から発言している気持ちが僕にはよくわかる。再度言おう、詠み手はもういい。よき読み手が台頭してくることこそが焦眉の急として求められているのだ。これについてはまた書こうと思う。
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2007年03月18日

732 てっちゃん様、俺を舐めるなよ

 私の歌を批判してくださった「てっちゃん」様に、貴公の歌をぜひ拝見したいと返したらおお、一首を寄せていただけた。

恩寵のいろこづく湖はろばろと雪ふりにけりきみの肌やわらかき

 (苦笑)。
 初心者がやりがちな失敗が散見される。詰め込みすぎでごてごてしていて自分の語彙に酔っていて読み手の想像力の余地がないくせに何を言ってるかわからなくて余韻がない。まさに初心者の自己陶酔といえるだろう。僕的には、興味ないジャンルの歌だがあえて改作してみよう。といっても盛りだくさんすぎてどこを使えばいいのかわからぬ。似ても似つかぬものになってもご容赦。5分待つこと。
 ………5分経過。

 頬には薔薇すでに見えずも対岸はみづうみはるか雪ふりしきる

恩寵のいろこづく湖はろばろと雪ふりにけりきみの肌やわらかき てっちゃん
 頬には薔薇すでに見えずも対岸はみづうみはるか雪ふりしきる 黒田英雄様

 こんなの改作でも添削でもなんでもねえよ。俺の新作だ。いや、ちょこちょこっと改作する積もりだったのだが、元歌があまりにも詰め込みすぎで、全部解体して組み立て直すしかなかったのである。正直言って、てっちゃん様のレベルのかたに、自分の歌の評など求めたくない。歌を具体的に批評せず、ただこき下ろすだけの連中というのは、案の定、この程度の力しかないのだ。てっちゃん様に言いたいのは、もっといろんなジャンルの歌人の歌をたくさん読め、ということである。そして、歌を勉強しろとは言わないが、もっと歌を楽しんでほしい。そうすれば、御作の初句と結句のアンバランスは解消され、もっとダイエットした作品が作れるはずです。
 僕は、簡略な措辞によって構成されるストレート短歌を標榜している。ただ、そうは言っても、いわゆる耽美派の歌だって読まないわけではない。なんせ、妻に強要されメシを抜かすと脅されて葛原妙子、塚本邦雄を泣く泣く読まされたのだ。この二人の歌人を評せと言われたら僕には難しいが、たいへんすぐれた歌人だということくらいは理解できる。てっちゃん様とは比べるのも失礼なくらいだということも。耽美派、抽象派を名乗る連中の歌の大多数はつまらん。俺だってやろうと思えばできる程度のものばかりだがばかばかしいのでやらないだけだ。俺はあくまでストレート短歌を目指して邁進しているのであって、お耽美やお抽象がわからん、というわけではないのだ。うちに送られてくるので耽美派の結社誌も読んでいるが、どれもこれも偉大な創始者様の貧弱で頭のわるい亜流で、華麗な言葉づかいと表面だけの難解さを模倣した言葉遊びに酔っているだけ、真の耽美や抽象などかけらもない。こんなのただの順列組み合わせであり、誰だって真似できる程度のものである。
 てっちゃん様に言いたい。俺の歌の批評をするなど10年早い。俺の歌や選歌をぼろくそに言う奴らよ、単にこき下ろしを並べるのではなく、そこまで言うならご自分の自身作をぜひ送っていただきたいものである。十首も二十首も送らなくてよろしい、これぞ渾身の一首というのを拝見させていただきたい。それで貴方の実力は僕にはわかる。俺をあんまり舐めるんじゃねえぞてめえら。
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2007年03月16日

731 歌人の総体

 昨日栗木京子氏のことにふれたが、栗木氏は僕にとって、かつての日本映画女優のような存在であり、憧れはすれど、恋するなどという大それたことは思ったこともない。今どきの女優にはそうした憧憬を感じない。意外だったのは、何人かの女流歌人に、そうしたいにしえの女優たちへのそれに似た思いを抱いたことだ。栗木さんはその筆頭である。
 青磁社ホームページ「週刊時評」、大辻隆弘氏の「人生の総体」を興味深く読む。中城ふみ子の評伝についての文章だが、同感することしきりである。僕は、短歌というのは畢竟、「作者」だと思う。作者に人間的な奥行きがなければ、おのずとそれが歌に出るものだ。一首二首ではわからないが、何首か続けて読めば、底の浅い人間はそれと知れる。逆に、いい歌を続けざまに読むと、その作者の人間性にいやおうなく興味がわいてくる。どんな人なのか、男なのか女なのか、どんな顔をしているのか、どこの生まれでどういう人生を歩んできたのか。そうしたこと抜きで短歌とは鑑賞されるべきだという意見もあるが、そういう人は短歌というものの本質を理解していない。短歌とは作者たる人間のなんたるかを、その片鱗でもいいから知ったうえで味わわれるべきものだ。だから歌人というのは映画俳優的であり、短歌とは実に人間臭い、韻律の文学だと言えるのだ。作者本人と関係なく作品だけを鑑賞すべし、という意見がいまだにあるが、そんなテキスト的な「読み」のなにが短歌の歴史に残るだろう。あるいは、みづからのプライバシーと乖離した方法論的な歌を詠む歌人たちの何人が。僕はあやしいものだと思う。人々に今なお読まれ、共感を呼んでいるのは古くは啄木、戦後では中城ではないか。「私性」ぬきの短歌?笑わせるな。そんなもの、言葉のゴミである。「私性」というのは、歌のうえで自分の出自や体験を詠えと言っているのではない。ご本人たちはいやがるかもしれないが、たとえば私性から離れた方法論を持っていると思われがちな笹公人、斉藤斎藤、飯田有子らにも、僕は強い私性を感じる。私の目はごまかせない。
 ところで、かつて「塔」の歌評欄のくだらなさで私を激怒させた河野麻沙希氏は、いったいどうなさっておいでなのでしょうか?「塔」本誌では欠詠続きである。たぶん、ご自分の同人誌で活発にやっておられるのだろう。彼はラッキーである。そのくだらない歌評を書いたときまだ私はこのブログをやっていなかった。もしも時期がもう少し後ろにずれていたら、私は総力をあげてあの欄を叩いていただろう。そのくらいひどかったのである。最近はおとなしいね、どうしているの?ひでお、淋しい。出てきてくださいよお、目につくところに。この日記に登場できますよ。あなたの歌についても、言いたいことは山ほどあるのだ。肝っ玉母さん、素晴らしい創作ですね。私は感動の涙が止まりませんでした。どうか私に貴方への再評価への機会を与えてくださいな。叩く相手がいないと淋しくって涙が出ちゃうだって男の子だもん。
 それからねえ、作者のみなさん、歌集出すときは写真をつけてください。浜田康敬、小笠原和幸の歌集の写真は強烈であり、また武器でもあると思った。作品だけで勝負?笑わせるんじゃない。短歌を鑑賞するうえでは、総合的な作者のイメージが大事なのだ。イメージの文学なのだ。イメージ写真を載せて、歌集を読ませるためのアピールをすべきである。もちろん美醜のことを言っているのではない。作品を読ませたいと思うのなら、まず読者に、「そうかこういう人が詠んでいるのか」と思わせてイメージを形作らせるべきである。それなくして、多くの人に歌を読んでもらいたいなど、甘いと僕は思う。思いあがりもはなはだしいのである。短歌は、イメージこそすべての文学と言って僕ははばからない。

      今日のMYビデオ

「紅の拳銃」(昭和36年、日活、牛原陽一、原作・田村泰次郎)赤木圭一郎、笹森礼子、垂水悟郎、白木万里、小沢昭一、芦田伸介、藤村有弘
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730 訃報欄と、遥かなる恋

 「塔」三月号を読む。小さなスペースだが、訃報欄がもうけてある。これは大事なことだ。時おり、それまできちんとあった出詠がぱったり止まる人がいるが、その度僕は気になっていた。結社誌を読むというのは、一人の歌人の歌を長きにわたって読み続けるということでもあるのだ。究極、上手い下手ではない。欠詠せずに歌を発表し続ける歌人というものに僕は敬意を払っているし、歌の良し悪し以前に、そうした誠実な歌人の作品をずっと追いかけていきたいと思っているのだ。それは、自分自身のはげみともなる。結社誌を読む楽しみとは、そういうものだろう。短歌は、徹頭徹尾一人でやるものだ。だから、歌友というものを欲しいとは思わない。誰か自分以外の歌人と会うことがあるとしても、縁とめぐり合わせに任せたいと思う。そういう読者である僕にとって、結社誌に訃報欄があることは大事である。そうですか、河合貞子さん、お亡くなりになりましたか。このかたは、ほかのどの結社でもないまさに「塔」の歌人であったと僕は思います。安心してその作品を鑑賞できるかたでした。

 又一人逝きしを聞きぬ思い出すことが供養と友は呟く 河合貞子

 ご冥福をお祈りします。

 真中欄、栗木欄、花山欄、池本欄、の赤丸歌チェックをさっとやり終え、「『塔』短歌会五十年の歩み」という特集をぺらぺらめくっていると、ななななんと、くくく栗木京子氏の若き日の写真が載っていて胸が熱くなった。それというのも(本当のことだが)僕が学生時代、熱烈に恋していた相手とそっくりなのである。その彼女も昭和29年生まれ、てんびん座で、学部は理系で応用物理学科という僕にはちんぷんかんぷんのことをやっていた。理系の人とというのは感じが似るのかなあ。栗木さんのこの一枚のショットから時代を感じる。首に巻いたカラフルなスカーフ(ああ、僕のTちゃんもスカーフが好きだった)とか、毛先が丸まった髪型とか。世代というものを意識して生きたことは僕にはなかったが、歌をやり始めてあらためてそれを感じるようになった。栗木さんの写真を見てつくづく、ああ二十代から短歌をやっていればなあ、と悔やむのだ。ああ、相聞歌を作りたい。相聞歌だけは、相手をいなくては作れない。くやしい。妻がおるのだから妻宛ての相聞歌を作れという意見もあるだろうが、妻相手ではどうしても生活感がにじみ出てしまって歌にならないのである。栗木さんともし同じ学校で出会っていたらきっと熱烈な片思いと悲惨な失恋をして、そのまま田舎に帰って玄界灘に身を投げたかもしれない。でもまあそんな心配はない。僕の母校は関西一のアホ大として名をとどろかしており、まかり間違って栗木さんと出会うことなどありえなかっただろう。ひさびさに、はるか昔の恋愛を思い出し、胸がきゅん♪となっているところだ。
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2007年03月14日

729 オリジナリティを守るために

 「塔」の横山氏、まなか氏からコメントをいただいた。たいへん嬉しいことである。よって、もうちょっと盗作問題について言いたい。
 「短歌」という短い韻律の詩の持つ意味とはいったいなんだろうか。それは、オリジナリティだろう。文体もそうだが、独自の視点、独自の思想等をこの短い韻律にこめるからこそ、短歌の魅力はあるのではないか。盗作というのは、そんな短歌の尊厳を汚すもっとも卑劣な行為である。そのような卑劣な行為には必ず復讐があると知らしめるという意味で、およそ結社誌はその規約に、「盗作者は名を晒したうえ除名」という一文を付けるべしと書いたのだ。コメントをくださった両氏とも、それは厳しすぎるとお考えのようだが、僕はそうは思わない。自由は、尊重されるべきだが盗作者が大手をふってのさばる自由は許されない。この規約を明記してなおかつ盗作をなさるかたがたはたいしたものである。それを顕彰する意味でも公表と追放はあってしかるべきである。あまりに厳罰主義でリゴリスティックに思われるかもしれないが、それくらいしないと短歌のオリジナリティというものは守れないものなのである。だいたい競馬でも野球でも、八百長が判明すれば永久追放となるのに、歌壇は甘すぎる。
 断っておくが、「似ている歌」と、「盗作」、これは全然違う。今回のS・M氏の場合は、本田重一氏の歌を二首切り貼りしただけでなんの工夫もなく、盗作でない可能性がまったくない。こういうのを盗作と言うのである。ただ、あえて、S・M氏になんの見るべきところもないのか、と考えるに、僕は、本田重一の歌に世間の耳目を集めたことがそれに当たると思う。今回盗用されたのは「耕して翔ぶを知らざるひと生なり北へと帰る白鳥仰ぐ」「
生まれたる処がすなはち死場所にて冬は雪降り流水が来る」の二首であるが、従来僕が本田重一の短歌でとくにいいと思っていたのは次のような歌であった。

直角と云へど鋭し壁の角夜毎の北風来て哭くところ 本田重一
滅ぶもの美しからずと思ふ日よ零下二十度に貌を晒しぬ

 ただ、今回の盗作問題で、僕が本田氏の代表作と思っていた歌よりも、盗用された二首のほうが確かにそのスケールといい、詩の持つ普遍性といい、これらこそ代表作と、あらためて認識させられたのである。盗作者は、歌を見る目があるのになんで自分で作らずにこんな馬鹿げた見え見えなことをしたのだろう。残念である。創作の才能はなくても審美眼は確かなのだから、彼は今後「盗作評論家」として立つことをおすすめする。「こういう、目立たないけどいい歌は盗作されやすいんですよねえ」とか、「この結社の体質は盗作の温床となりやすいですねえ」とかコメントするのだ。盗作の温床といえば「塔」はとくに気をつけたほうがいい。間口が広く、入会しやすい雰囲気を持っているということは、同時にオリジナリティのなんたるかも知らない、陋劣な連中もまた入ってきやすいということだ。だから、「盗作者は野ざらしのうえ追放だかんね」という一項をあらかじめ明記しておくべしと僕は言うのだ。
 最後に、S・M氏の、盗作の疑いは濃いいものの非常にいい歌を挙げておく。

 黒田節槍もつ娘の活きいきと妙に舞い終え拍手の止まず S・M
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:15| Comment(1) | TrackBack(1) | 日記

728 新たな規約を作るべし

 盗作問題に関しては昨日が最後だと書いたがまだ続く。盗作を繰り返す者たちというのは、たぶんビョーキなのだろう。痴漢や放火魔と同じで、盗作すること自体が快感と結びついてしまっているのだ。いくら対策を講じてもあとからあとから出てくるのは避けられないだろう。僕に言わせれば、この者たちへの対応が甘すぎる。盗作が判明した時点でその者を除名したり、入選を取り消したりする、ここまではどこでもやっているが、それだけでは足りない。なんのなにがしが何月号でこれこれの盗作を行ったとつまびらかに作者名を掲載誌に公表すべきである。
 「塔」も、裏表紙の「略記」に、こう付け加えるとよい。「一、盗作が判明した場合、本誌はその作者名を公表し、除名処分とする」と。よろしく結社誌、短歌総合誌はかかる旨規約を設け、つねに目につくところに明記するべし。盗作は犯罪だという意識すらなく、オリジナリティと創作との関係がわかってない連中はこれで目がさめるだろうし、これでも恐れを持たないバカはどうしようもないのであるから、筆名だけでなく実名をも晒し、各結社雑誌社に回状と人相書を回し永久追放とすべきだ。戸籍を買いでもしない限り二度と結社にも入れず投稿もできないという厳罰である。もちろん、冤罪や、偶然の一致ということはつねにありうる。だろうが、3回続いたらもうそうは言えない。結社のほうも本当に盗作かどうかは十分に調査する、という前提あってのことである。「塔」の調査委員会は信頼がおけるし、今回のS・M氏のそれはどっからどう見ても言い訳のしようがない。ので、この処分を適用しても行きすぎにはあたらない。この男は某映画界の巨匠と同じ苗字を名乗ってるくせに僕にはなかなか覚えられない。ひょっとして、この名前も盗作か?どこか印象に残りにくい名前である。こいつ、またやるかもしれない。盗作というのは一種のビョーキだと僕は思う。
 「塔」は、とくに気をつけたほうえがいい。なぜならこの結社は、数ある結社誌のなかで一番、入会しやすい雰囲気を持っているからだ。そのぶん、モラルのないやつが乱入する危険も高い。「塔」の持つ柔軟性というのは、そのような危険と表裏一体なのだ。だから規約に、「盗作者は作者名明記のうえ除名」の一文を入れるべきだ。自由な結社ほど、バイキンがたまりやすい。除菌対策が大事だと僕は思うのである。
 歌壇は盗作というものに対してもっとシビアであるべきである。その体質は現在のところ、あまりにも無防備で無責任である。こういうことを問題にしなくてはいけないのである。短歌総合誌はなぜその歴史において、盗作というものをもっと掘り下げ、研究し対策を立ててこなかったのか。まさに片手落ちである。これは深刻な問題であり、なあなあで済ませ隠蔽してきた歌壇はあまりにゆるい。そのノンビリズムに、腹が立つのである。
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:17| Comment(6) | TrackBack(0) | 日記

2007年03月12日

727 選者の権威〜俺は「塔」のスポークスマンじゃない!

 盗作問題における選歌と選者の責任についてまたコメントをいただいた。これについて語るのはこれが最後である。そのつもりで読んでいただきたい。
 盗作問題はどこの結社でも短歌総合誌でも存在するものだと思う。人間が一定数寄り集まればそれは必ずある。しかるに、問題が明るみに出たときそれを公表し対策を講じるのが「塔」と角川「短歌」のみで、他の結社や短歌誌がひたすら沈黙を守るのはなぜなのか。それはおそらく、まさしく現在起こっているように、選者の責任問題に発展することを恐れているからだろう。杞憂ではない。現にこのように河野裕子バッシングにちかい言辞が弄されている。これは本末転倒である。このようなとき、もしも選者に責任ありとして厳しく追及することが常態化すれば、選者は選歌に専念するよりも、「ちょっと見たようなおぼえがあるけどひょっとして盗作?」と、盗作でもなんでもない作品までおびえて落す、という事態を招きかねない。僕が選者に求めているのは、直感で「いい、よくない」を判断し、秀歌をピックアップしてほしいということで、その直感が責任への恐れによって鈍ることなど断じてあってはならない。盗作を発見するのは読者の役割だと思う。選者は、自分の選歌した歌があとで盗作と判明したとしても「あらそうだったの」くらいふてぶてしく居直っておればよろしい。それが選者の権威というものだ。だからこそ選歌体制というものが維持されるのである。今回の河野バッシングはいただけない。河野裕子氏が、盗作元となった本田重一の歌に不案内だったとして、どこに責められるべき点があるだろう。彼女に責任を問うている連中は、彼女の盗作判別能力を言っているのではなく、組織の重鎮なのだから組織の落ち度には責任を感じるべきだという、まるで公害企業をつるしあげる市民団体の感覚でものを言っている。われわれは文学者なのである。企業人ではない。僕は本田重一の短歌は好きだが、趣味を同じゅうしないからといって河野氏を批判しようなどとは思わないし、彼女には、組織を代表してなんらかの陳謝を示す義務も義理もまったくない。そういうことを要求するのは文学的態度ではないと僕は思う。各結社は、盗作者が判明すればその旨公表すべきである。選者の責任問題などとこざかしいことを考える必要はない。また、盗作者は判明しだい実名を晒し永久追放に処するという規定を歌壇全体で確立させればいい。それが盗作者を減らし、再犯の抑止につながるのだ。何度も言うが、「塔」の態度は立派だ。河野批判などおかど違いもいいところである。
 僕は、名歌選を頼まれもしないで勝手にやっている。娯楽とはいえ、「塔」の作品1、2欄の全てに目を通すなどすごい労力である。そんなときに、「これって盗作かしら」などと考えてられるかボケ。これは、木っ端会員である僕であろうと、組織のトップたる選者であろうと、選歌している姿勢は同じなはずである。何度も言うが、盗作を告発するのは読者の仕事であり、断じて選者それにかまけて選歌眼を狂わせるべきではない。今回の、河野バッシングとも言うべきいちゃもんには、僕は頭に来ている。
 ところで、当事者とも言える「塔」会員の皆様は、なぜこの問題に対して口をつぐんでいるのだ。「大人だから」?ふざけるんじゃございませんよ。河野裕子がバッシングされているのに、反論のひとつもないのかキミタチは。呆れかえるよ。僕が発言しているのは、別に「塔」を守るためでも、選者を守るためでもない。僕は僕の考えを実直に述べているまでだ。これではまるで俺が「塔」のスポークスマンではないか。「塔」のそうそうたる賢男賢女よ、俺みたいな珍獣にそんな役割をになわせていいと思っておるのか?いかんでしょう、ここで本当に公に向けて発言すべきは貴方たちなのだ!俺は、ここぞとばかり選者いじめをする連中にも腹が立つが、貝のように口を閉ざしたままの「塔」の会員たちにも腹が立っている。無駄に行儀ばかりよくしやがって。貝だけに、泥を吐かせて鍋でゆでてやらないと口を開かないつもりか。どうでもいいが、とにかく歌壇や歌人という存在に俺はいつも腹を立てているのである。
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:28| Comment(4) | TrackBack(0) | 日記

2007年03月11日

726 再び「盗作問題に対しての私見」

 武郎さんからコメントを頂いた。それに触れる前にまず言っておきたいが、「塔」において二度めの盗作問題があった。これは決して、「塔」という結社それ自体の不名誉となる事件ではない。「塔」編集部の取った対応を、僕は評価する。なぜなら、こういう問題は実は他の結社でも相当数起こっているはずだからである。その大半は、というよりほとんどは隠蔽し、当事者をこっそり除名するなどして、表ざたにすることなく問題そのものを闇に葬っていることと思われる。それに対して、「塔」は堂々と問題の存在を認め、結社誌でそのことを明らかにしていく方針を取っている。立派なことだ。短歌総合誌でも、角川の「短歌」の公募館では、盗作が判明した時点で入選取り消しを明記する。ほかの短歌誌の投稿欄にも盗作はあるはずなのに、そうした対応を見たことがない。ちゃんとやっているのは角川くらいである。要するに、「塔」も角川「短歌」も、自らの誌面づくりにプライドを持っているからこそ、できることなのだ。盗作問題をうやむやにしないためにも、こうした英断は必要だと思う。
 武郎さんは、選者編集部に厳しく、盗作作品を採用掲載したことの責任を問うているが、僕はその段階での選者編集部側の落ち度はなにもない、というのが僕の見解である。何度も言うが、どうして選者に、既出のすべての歌の把握ができるというのだ。それは不可能である。もしもそのことで選者を責めるのであれば、結社誌にとっての要ともいえる選歌体制がゆらぐことになる。僕が「選者を信頼して選歌を任せている」と書いたことに対して、「だったらなおさら責任を問うべきではないか」という意味にとれるコメントがあったが、僕が信頼しているのはその歌人の作歌や選歌においての座標軸であって、既出の歌をいちいち覚えてるような記憶力を期待してるわけでもなんでもない。選歌それ自体がふざけた選者がいれば批判するが、「塔」にはいないというだけの話だ。
 盗作が起きないようにするにはどうすればいいか、というのは難しい問いだが、それに対して「選歌するほうが気をつけよ」というのは、上記の理由により無理であり不合理でありないものねだりである。僕はこれは、創作する側の矜持と距離感に訴えるしかないと思うのだ。矜持、はわかるが距離感とはなんだ、とお思いだろうが、要するに、「こんなことしてもすぐバレる」と判断するだけの社会性のことである。ネットが盛んなせいで距離感不全の連中は最近の産物だみたいに思われてるかもしれないが、なに昔から山ほどいる。見え見えのパクリ、引用を元ネタも明かさずに自分のもののように吹聴する連中が。昔だったら活字やその他のメディアに触れる人も少なかったから、本で読んだことを自分の村の中で言いふらしてもそれは本人のアイデアや体験だと思ってもらえたろうが、今どきその程度の社会感覚で生きてる連中があとを絶たないということだ。何百人という読者がいて、そのうちの一人にでも気づかれたらおしまいだということが理解できない連中が。盗作という行為そのものの愚劣さより、バレバレのみえみえの、少しはひねってみせるとか元ネタがわからないようにするとか、その程度の工夫さえしないことの馬鹿さ加減のほうに僕は腹が立つ。馬鹿は卑劣よりどうしようもない。読者の全員のことを、山奥の狭い村の住民でほかに本など知らないがごとく思っているのだ。なめられているのはわれわれ本人である。
 盗作を撲滅する手段というのは、正直言って、ない。こういう輩は今後も数限りなく出てくるだろう。ただ、罰を強化することはできる。「塔」のように、各結社が盗作者の存在を認め、除名処分の顛末を結社誌に堂々と発表することも大事だろう。今後もし「塔」において次なる盗作者が発生した場合は、僕はこの日記でそのものの氏名をイニシャルでなく明記することを宣言する。こう宣言することが、ささやかとはいえ、盗作予防の一助になると思うのである。武郎氏は、その前の柴田氏のコメントを「虎の威を借りた」と表現している。虎とはひょっとして私のことか?私はそんなに偉くない。たぶん、当ブログのアクセス数のことを言っているのだろう。アクセス数は、権威ではなく、数の脅威としたいと常日頃思っている。その脅威は、盗作者にとって己の名が大々的に晒されることへの恐怖となりうるだろう。これは、たとえ「塔」編集部からストップがかかっても僕はやる。また、同じく所属している「短歌人」において同様の問題が発生した場合、「塔」のような堂々たる対応をとっていただきたいと望む次第である。もちろんその場合もイニシャルでなく氏名をここで公開する心積もりである。止めても無駄だ。盗作者には永久追放、というスタンダードが確立されること、それが最大の再発予防につながると僕は思うのである。

      今日の一首

 肉をもたぬ霊のしつこさ言霊の亡霊ひとつ疲れ憑かれて 西橋美保
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:54| Comment(3) | TrackBack(0) | 日記

725 「挌」の消滅

 今、死語となっている言葉に「映画俳優」がある。今の人たちは、この「映画俳優」という言葉の響きの重さを理解できないだろう。僕が子供の頃は、映画俳優がテレビに出るだけでも大ニュースだった。あの伏見扇太郎でさえ、品川隆二主演の「忍びの者」に出たときもニュースになった。今の人にわかりやすい例で言うと、ミクシイというところに映画ファンのコミュニティがあり、そこでアメリカで「MrアンドMrsスミス」という映画がテレビシリーズになることが話題となっていた。が、愕然としたのはそこに書き込んでいる何十人という連中、揃いも揃って(よろしいか、ほぼ全員がですぞ)「なんで映画版の主役がテレビでも主役じゃないんだ?」と文句を言っている。当たり前ではないか。映画とテレビでは予算がちがう撮影時間がちがうギャラがちがう、なによりかにより「役者の挌」がちがう。こいつら、アンジェリーナ・ジョリーとブラッド・ピットがテレビシリーズに出るなどと本気で思ってるのか。映画ファンのくせに映画というものへの尊敬の念がまるでない。映画スターを自分の生活の延長上にいるかのように思っている。だが、これも仕方ないことなのだろう。日本にはもう、「映画界」というものが存在しないからだ。かつて、東映、東宝、松竹、大映、日活、新東宝という六大映画会社がしのぎを削っていた時代があった。その頃の映画スターというのは、まさに華である。それに比べて、テレビに出るということがどれだけステイタスを汚すものだったか、今の若い人たちにはわからないだろう。だから、こんなバカなことを平気で言うのだ。
 テレビの現場と映画の現場、これはまったく違う。テレビは流れ作業であり、シナリオを消化しているだけだ。映画の現場のあの緊迫感というのは、テレビとは比べものにならない。一般の人たちは、よくあんな恥ずかしいことができると思うかもしれない。たとえば全裸になったり、ズボンを半分下げて腰をカクカクさせたり、泥水のなかで泳いだり、etc。映画の現場というのは、正常な人間を異常者に変えてしまう創作のパッションに満ち溢れているのだ。ワンカットにかける時間などテレビの比ではない。ヒロインアルバムを見つめるだけのシーンに何十回というNGが出たことを僕は知っている。本編においてほんの一秒か二秒のシーンである。かつてTBSで、僕は江藤潤と話したことがある。江藤は、映画「祭りの準備」でデビューし、「帰らざる日々」にも出演した俳優である。最後に彼がぽつりと言いましたよ。「ああ、ほんとに本編がやりたいですねえ」。本編、というのが映画のことである。
 日本にも、映画魂を持った俳優がいる。いや、いた。古尾谷雅人である。彼は、日活ロマンポルノの「女教師」で、永島暎子をレイプする中学生役でデビューした。彼はロマンポルノで育った俳優である。テレビの現場のなまぬるさにすごい憤りを感じていたようだ。そして、三流のチンピラタレントどもがちやほやされるのに我慢がならないと言っていたらしい。テレビのオファーはたくさんあったのにことごとく断り、マネージャーに「映画の仕事を取ってこい」と無理ばかり言っていたそうだ。もともと精神に不安定なところがあったのだろう。映画の現場の狂気がそれを癒してくれていたに違いない。現在、テレビのギャラは映画のそれより格段に高い。その現状にも彼は我慢できなかったのだろう。古尾谷は自死してしまったが、生きて孤高に映画俳優の矜持を守っているのが高倉健である。高倉ほどの俳優だったらテレビのオファーだっていくらでもあったろうが、全て断ったのだろう。それはそれで偉いことだと僕は評価する。
 映画俳優という存在が、堂々とステイタスを誇示していた時代が僕は懐かしい。確かに、六社協定という、スターを他社に出さない悪習もあったが、それはそれで、スターがいかに大事にされていたかという証明でもある。昔の映画館には、その映画館の配給元である映画会社のスターの写真がロビーにばーんと並んでいた。たとえば東宝=三船敏郎、内藤洋子、星由里子、大映=若尾文子、川口浩、野添ひとみ等々。夢があった。本当に夢があった。映画俳優に向かって同じ役をテレビシリーズでやれなどと平気な顔で要求する「ファン」の存在は本当に悲しく、なさけないことである。僕は、映画黄金期の末期をリアルタイムで知っている。最後の「映画女優」は内藤洋子だろう。その時代に生きていたことを僕は幸福に思っている。だからこそ、旧作ビデオをコレクションしているのだ。これからもこの日記で映画のことを書いていきたいと思う。アクセス数は確実に落ちるが、短歌のことより日本映画の話のほうが格段に僕は熱くなるのである。
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2007年03月08日

724 田中雅子「令月」(砂子屋書房)

 僕は、歌集にはドラマ性が主題性が必要だと口をすっぱくして言ってきた。僕はこれまで、それなりに多くの歌集を読んできたと自負している。いい歌集はたくさんあったが、とくに印象に残っているのは大口玲子「東北」と、今日取り上げる田中雅子「令月」である。何回この歌集をひもといたことだろうか。読ませる力、がこの歌集にはある。
 恋人との出会いと別れの十年間を詠ったものだが、登場人物はすでにこの世にない父親、双子の、心を病む姉、そして母たちである。きわめて身近で卑近な距離の範囲内のことだけを題材にしているが、的確な心理描写と、独自の肉体感覚に溢れた歌に、僕は強烈なドラマツルギーを感じるのだ。歌集というのはこうあるべきだろう。あっちゃこっちゃに手を広げて「視野広く」歌うなんて愚の骨頂であり、人は熟知していることを焦点を絞って詠うべきなのだ。歌によって、その狭いことを掘り下げることこそが大事なのだ。だからこそ、読者に強い印象を残すことができるのだ。河野裕子による跋文を引用しよう。

 〈田中雅子さんの歌の本質は、寂しさや不安の底にもっと深く沈潜しているかなしみのように思われると、少しまえに書いたが、これらの歌の呪詛の響きは、このかなしみと表裏をなすもののように思われる。
暗く孤独であった二十代とそれからの年月を、他人には決して見せない心の奥で、彼女は、この世の何ものかに向かって呪詛の糸を紡ぎ続けていたのではなかったか。〉

 僕もまったく同意見だ。単なる嘆きや悲しみであるなら、僕は感動しない。彼女の歌から否応なく染み出してくる透徹したかなしみは、ゆくりなく産み落とされてしまった自分と、自分を産み出してしまった世界そのものが、彫刻にとっての鋳型のように持つ不可避で本質的な悲しみである。彼女の存在、細胞の一個一個がまさにピエタ、悲しみの像であり、それは泣き叫ぶというよりも涙すら出ない悲傷のかたまりとしてそこに凝固している。
 この歌集「令月」は、1ページに1首ないしは2首という構成をとっている。僕は、そういうすかすかしたのは本来好きではないのだが、それがこの歌集においては成功している。河野裕子の厳しい選歌があったようだ。相聞歌の半分近くを削らされたそうだ。それでよかったのだと思う。田中と、選者河野の激しいせめぎ合いのなかで生まれた傑作歌集だと僕は断言する。僕の理想とする歌集の形に近い。ぜひ、多くの人に読んでもらいたいものだ。最後に何首か紹介したい。

 疲るる身いたわりくるる声にさえ男の匂い嗅ぎ取っている 田中雅子
 ほんとうはかなしいロシアの民謡(うた)なんだ トロイカを君は教えくれにき
 ソノシート針のまにまにうねりゆく肉に食い込む記憶醒まして
 長き夜にからだ緩(ゆる)めて見ていたり虚空(おおぞら)冬のあがらぬ花火
 きりぎしに砕ける波をいとしめば死より遅れて生きいるわれら
 開(あ)け放ちたる襖の向こう薄ら日に身を折りて父は死にたり
 十九で年とることをやめし身の残生は散華ただ風のただなか
 落ち葉掃く箒の音で目覚めれば蒲団の中のさみしさにいる
 潰したるてんとう虫のしみのあるシーツに巻かれ夏の夜を寝る
 電燈に集まるががんぼを殺したればががんぼの形のままで死にたり
 手で虫を潰していし母がドアの鍵あけてくれるのを長く待ちおり
 新しき輪ゴムのにおい屈まりて米袋の口閉じながら嗅ぐ
 最終バスに乗り込みて座る高き椅子不安もいつか自嘲に似たり
 新聞に深夜映画を探す君の横顔が亡き父に似ている
 きれいな名前持つ女にも男にもからくり芝居のように出会いぬ
 定かならざる顔が寄り合う通夜の夜は唇(くち)の動きに神経尖る
 
 これは、紹介したい歌のごく一部である。歌集からあまりにも膨大な歌を紹介するのも、これから読む人の興をそぐと思うのでこのへんで止めておく。この一冊のように、歌集とは主題をしぼり、狭い視点から詠われ編まれてこそのものである。視野を広くとった歌なんぞ個のあがきが少しも感じられないくだらないものにしかならない。田中雅子は「塔」所属。現在は月集欄に作品を発表している。

     今日のMYビデオ

「丹下左膳〜乾雲坤龍(けんうんこんりゅう)の巻」(昭和37年東映、加藤泰)大友柳太朗、久保菜穂子、桜町弘子、菅貫太郎、花沢徳衛、東千代之介、近衛十四郎、山茶花究、神田隆、明石潮、筑波久子
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:53| Comment(3) | TrackBack(0) | 日記

723 星さんのこと〜もう一度読んで♪

 なんとなく、10チャンネルの「相棒」とかいう水谷豊主演の刑事ドラマを観ていたらおお、星由里子が出てきた。僕にとっては憧れの大スターである。森山周一郎扮する監督が、星演ずるもと大女優に向かって、「のうのうと社長夫人におさまった女なんか俺の知ってる女優じゃねえ」という意味のことをわめくシーンがあった。星さん、台本読んだときどう思ったかな。彼女は、並々ならぬ女優魂があった人だと僕は思っている。ただ、運がなかったなあ。昭和34年に「すずかけの散歩道」でデビュー。僕は、星由里子クラスだったらデビュー当時から恵まれたコースを歩んできたのだとばかり思っていた。ところが、調べてみたら相当苦労している。このデビュー映画にもクレジットされていない。古いキネ旬を読んでいて、たまに東宝作品で、ウエイトレスAとか、女学生Bとか記されていることがある。まともな役がついたのは福田純の「恐るべき火遊び」あたりからだろう。そして、注目を浴びたのは谷口千吉監督の「男対男」の聾唖の少女役だろうと思う。抜群に、彼女はうまかった。ちなみに、この映画でデビューしたのが、後年の「若大将」こと加山雄三。加山は最初からスター扱い。独立愚連隊の二作目「独立愚連隊西へ」ではすでに主役を張っている。星は、このボンボン育ちの俳優をどう思っただろうか。加山の若大将とコンビの澄子さん役で自分もスターになるとは夢にも思わなかっただろう。ちなみに、星さんに関して僕は日記を書いている。「不運の女優星由里子小論」というタイトルである。
http://hideo.269g.net/article/1341316.html
 この日記は僕のブログ史上最低アクセス数の屈辱を喫している。わずか71。とほほ。是非是非みなさま、もう一度読んでいただきたい。ワーストのもう二つは、同じ年の3月七日に書いた「アンドレ・ザ・ジャイアントストロング小林」の82、同8日の「しごきのホッジ」92のプロレスネタである。現在のアクセス数と比べたら話にならん。ただ、このブログをやり始めた2005年の日記のほうが、読んでいて全然面白いな。お時間ございましたら、この頃の日記も、また読み返してくださいませ。この頃はアクセス数が2ケタ代ということもけっこうあったもんな、今から比べたら可愛いもんだ。
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:20| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

2007年03月07日

722 歌集と主題

 某歌人のネット日記で、昨日書いた「歌集と主題」の問題について触れていただいた。そのかたは、内容はともあれ、その作者の持つ短歌の文体も主題となりうるのでは、とおっしゃっている。この意見には一理も十理もあると思う。僕も、「あっこの読みっぷりはあの人だそうに違いない」と思わせるほど独特のスタイルを持った人は、内容に一貫性がなくてもそれだけで主題となりうると思う。その日記を書いた人もそのようなスタイルを持った人だ。ただこの論の惜しいところは、そのようなスタイル力(りょく)は誰でもかれでも持ちうるものではない、ということだ。個性的であるだけでは駄目で、同時代的であることも必要とされる。わかりやすいたとえで言うと、妻はオタクであり年に二回、どこかに出かけていってわけのわからない本をしこたま買って帰ってくるのだが、そこに描かれているのはたいていものすごく絵のうまいマンガである。作者は皆若い人で高校生とかもいるらしいが、どうしてこんな細かくてうまい絵が描けるのかと驚嘆するほどうまい。が、その内容はおおむね幼稚、ワンパターンな勧善懲悪、でなければ胸の悪くなるようなポルノであって、いやポルノは否定しないが、中身が同じばっかりで二、三冊で飽き飽きしてくる。うまいだけでない個性的で鬼畜な絵を描く人もいるが、たいていはそれも、どこかで見たような聞いたような内容の範疇を出ない。これを短歌にあてはめるなら、うまかったり文体が個性的だったりはするが内容は人まねや、独自性はあってもその繰り返しにすぎない歌集、ということになるだろう。短歌やマンガに限らず創作のキーとなるのは結局のところ内容、明確なストーリーとそれを際立たせる真摯な感性にほかならないと僕は思う。
 現在出版されている歌集は、僕の知る限りでは、一首一首たしかに「うまい」と感じることはあるが、総体としては「で、一体なにが言いたかったんじゃい」と訊きたくなるような、明確な印象を残さないものがけっこうある。それは、発表したものを年代順にそのまま羅列し、一章あたり多くて三十首、はなはだしきは三首か四首ですませるという、「歌集を編む」ことに無頓着な制作態度に起因していると思う。発表済みの短歌を歌集に収録するときは、もう一度再構築を試みるべきだ。発表順に並べただけでは読み物になっていないのだ。また、何度も言うが、現代歌集は章立てが多過ぎる。章が変わるたびに、僕は疲れ、白ける。章は、一冊の歌集にだいたい六から八くらいで十分である。一章約90首、というのが理想だろう。いつから歌集というのは、こんなに章立てが多くなったんだろう。知っている人がいたら教えていただきたい。歌集も、読み物なのだ。そのことを忘れてはならない。これは、歌集を長編小説的に読む方法であり、「歌集には画集や写真集のような歌集もあっていい」という意見もあるだろうが、それが多すぎるから僕はげんなりし、長編小説のような歌集よ出でよと願っているのだ。だから、「一握の砂」は何度読んでも僕にとって新鮮なのだ。誤解を怖れずに言えば、現代歌集のほとんどはインテリの言葉遊びにすぎないと僕は実感している。
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2007年03月05日

721 何度も言おう、短歌とは韻律の刻むドラマである。

 短歌とは、韻律の奏でるドラマである。こんな短い詩形の中で、ドラマを奏でることができるのだ。そこに短歌の魅力がある。

折鶴に息を吹き込むくちびるのかたちを神はもちてゐたるか 伊波虎英

 なんの神話であったかは忘れた。ギリシャ神話とか、聖書とかかなりメジャーなものだったと思うし、あるいは神話というのはみなそうした構造を持っているのかもしれないが、神は土くれから作ったまだ命のない泥人形の鼻から息を吹き込んで人間を作り出した。呼吸することが生命の根本だと太古の人も思っていたのである。心臓なんて気の毒なもので、けっこう近代になるまで血液の集積所くらいにしか思われていなかった。しかしここで詠われている神のたたずまいの、なんと無心で童子のように無垢であることか。人間とは泥やいわんや石のような強固なものでなく、一枚の薄い紙から折り出され、魂という名の空気でふくらんだ飛べない存在にすぎないのだ。そんなはかないものを次から次へと無邪気に作り出していく童子の無邪気さが、春の日の縁側を思い起こさせて静かな無残とも言うべき美しさを生んでいる。上句の視点が断然にいい。秀歌である。

マダム石鹸あさく彫られし唐草のもやう消えゆく湯けむりの中 近藤かすみ

 この作者の歌は、いつもなまめかしく、ふてぶてしく、そして哀しい。初句の「マダム石鹸」という固有名詞が断然いい。検索をかけてみたところ、実在した石鹸だが、製造元はすでに廃業しているようだ。大阪の会社であったらしく、作者は京都在住である。その中央に描かれている唐草の模様が消えていくと詠っている。つまり、作者はこの石鹸で体を洗い、その凹凸を肌のうえで均しているのだ。そしてその日々のなかにこの作者の時間が流れているのだ。非常に肉感的であり、「マダム石鹸」「唐草の模様」という具体がいい。熟年の女性の体臭さえ漂ってきそうで、読んでいて僕はエロチシズムを喚起されたくらいだ。作者の迫力を感じる。スリリングな歌人である。(附記。マダム石鹸検索結果は他にもいろいろあり、現存する可能性もあるがあえてここでは追求しない)

波により壊されたから広がっていけるのだなあ月の光は 丸井まき

 詠嘆調で単純な歌だが、とても美しい作品だ。修辞を弄せず、そのままの作者の感情を詠っているからこそ、その美しさが滲み出ている。月の光が、渚のさざ波によって、分散したというそれだけを詠っている。しかし感慨深い。壊す、という負のベクトルを持つ言葉が逆に、月の光に粉々のガラスの輝きを与え、さらにそれが広がっていくことによって夜の海の静けさと間断ない波の繰り返しまでありありと浮んでくる。リアルでありながら、そこには余計なビルや人家や人間などの混ざりこまない、純粋風景とも言うべきものが広がっており、永遠性さえ感じさせる。入会間もない人だと思うが、言葉のセンスの抜群にいい人だと思う。期待する。「短歌人」の有望新人である。

 短歌とはドラマである。ゆえに、一首一首を集めて構成される歌集というものに、全体としてのドラマ性がなければ、歌集として読むに耐えない。このことに関して、いずれ日をあらためて書こうと思っている。僕に言わせれば、現在次から次へと出版されている歌集のほとんどが、気障ったらしい言葉遊びに終止していて、全体を貫く主題というものを度外視しているように見受けられる。よろしいか、歌集もまた読み物である。あっちこっちの雑誌に発表したものを寄せ集めれば歌集になるというものではない。一本筋の通った主題がない限り、読み物としては成立しない。僕はこのことを、繰り返し言っていきたいと思う。
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720 「短歌人」3月号会員欄秀歌選その二十一

 言うまでもないが、ここに取り上げるのは僕の琴線に触れた歌である。秀歌というだけなら、他にも沢山ある。セレクション欄、月評欄でそれらの歌が取り上げられることを期待する。今月の赤丸歌、会員1欄パート1、139首。同欄パート2、77首。会員2欄パート1、159首。同欄パート2、60首。計435首。

      「短歌人」3月号会員欄秀歌選 その二十一

折鶴に息を吹き込むくちびるのかたちを神はもちてゐたるか 伊波虎英
マダム石鹸あさく彫られし唐草のもやう消えゆく湯けむりの中 近藤かすみ
波により壊されたから広がっていけるのだなあ月の光は 丸井まき

真夜中にふらりと手紙出しに行く団地の闇は字の読める闇 洞口千恵
ケータイを見つつ煙草を吸ひながら赤子の乳など授けゐるなり 竹浦道子
干し竿に美しき月つりさげて風すみ渡る冬となりけり 井上春代
東洋と亜細亜はどこが違うのか夫にたずねし箱根駅伝 本田 翠
耳なれしコーヒールンバのリズムにて処女のきみを想ひ出すなり 佐々木和彦
雑踏を抜け辿り着くレイトショーシートに沈む我も残像 吉川真実
逃亡者(ながれもの)おりん」の足が鈍きこと一家で気を揉む師走であった 砺波 湊
夫と吾とネコ六匹の生命なり降り頻る雪息ひそめ見む 中田公子
嫌ひなもの一にともだち二にふるさと三四がなくて五に茹で玉子 西尾睦恵
掌に受くる義歯の温もり助けられ守られて来き幾月のあり 辻田洋美
経を読むシングルマザーの祖母の背の記憶はいつも一心不乱 水田まり
電話嫌ひ人も嫌ひて生き続く八十歳の老夫に疲る 室山郁子
年明けもわれには昨日の続きなり部屋に籠りてうたつくりおり 阿部美佳
「ふしだら。」と嫌われてゐる二人故しめし合はせて会場抜け出す 安斎未紀
天敵を忘れ忘れよ舌の根に熱きシャワーを当てるくやしさ 三浦利晴
文学を捨てざるわれはうらぶれて海辺の墓の風に吹かれよ 渋谷知子
存在感あふれる杭だ立っているだけで流れを変えて止まない 山本照子
ふいに角の電柱動くとおもいしがめっぽうでかい黒人なりき 宮脇はるか
たそがれの山のむこうにみえたのは詩などと呼べるものじゃなかった 土橋磨由未
人避けて人さけている私にも年賀状来るこの世の便り 菊池威郎
墓場まで持つて行かねばならぬことまたひとつ増え受話器を降ろす 三島麻亜子
イエスタディひくくうたひぬ患む友も逝きたる友も青き光よ 田中 愛
母熊の撃たるる音に逃げ惑う子熊の所在いまだに知れず 滝方美智子
大晦日に妻子に去