2007年04月30日

768 岸上大作と語り合いたいこと

      岸上大作と語り合いたいこと 黒田英雄

夜半(よは)の駅ネクタイ失せし酔ひびとが膝つき哭きぬ「たあすけてください!」

わわしげに爺等婆等が飯屋入る残生(ざんせい)なくてなほ群れむとす

カツ丼をむさぼり啖らふジジイ見て後ろ頭を叩(ハタ)きたくなる

ゆきずりの仲と知りつつ飲む酒の覚醒うながすまがひの牡丹

帰路いつも歌集読まむと立寄りし「ルパ」今年からああ禁煙

幾度も観この春も観む『武器なき斗い』公開年に岸上は逝く

『黒い画集』小林桂樹のごと岸上もとぼとぼとぼとぼ都会(まち)歩みけむ

『わが愛』の有馬稲子の無償の愛に無援の愛を汝(なれ)重ねしや

『独立愚連隊』観し岸上に独立の短歌(うた)奏でる日つひに来たらず

『抜き射ちの竜』こと赤木圭一郎(トニー)彼もまた革命(ロマン)夢見し俳優(ひと)でありしも

岸上と出自違へど似た翳り抱へし圭一郎(トニー)は三月(みつき)経て逝く

岸上の地獄は兵庫福崎町帰る日なきを幸とし逝かむ

貧困は社会主義恋ひ金(マネー)乞ひ岸上大作桑田真澄よ

女神?否、死神求め岸上は待ち伏せの恋愛(こひ)にのめりこみ果つ

戦友とも呼ぶべき眼鏡(レンズ)ひび割れてとほき革命(いくさ)の闇に消えにき

 結社誌に掲載されたものだが、推敲したものものある。また、選歌を落ちた歌も載せたが、それも推敲したものである。
 映画題名のための注(上記連作は、岸上大作の遺した映画ノートから想起されたものである)
 『武器なき斗い』〜労農党代議士山本宣治の壮絶な半生を描いた山本薩夫監督の力作。昭和35年公開。この映画をなぜか歌人岸上大作は見ていない。僕は想像する。岸上はこの時点でもはや、日本における社会主義の実現に絶望していたのだろう。だから、その理想に準じた山宣の映画を見る気力がもはやなかったのではないだろうか。ただ僕は、岸上は絶対にこの映画を観るべきだったと思う。
『黒い画集』〜正確には、『黒い画集・あるサラリーマンの証言』。『黒い画集』シリーズは、東宝で『ある遺産』『寒流』と三本作られている。岸上が見たのは昭和35年だから、第一作の『サラリーマンの証言』であるだろう。この映画は、性愛によって地位も名誉も家族もすべて失ってしまう男の物語である。この映画に対する岸上の感想をぜひ聞きたいものだ。おそらく、この映画に関して俺が岸上と論じあったら、夜が明けるだろう。岸上とは、恋愛観について徹底的に語り合いたいと幽明境をへだてて強く思う。そして多分、岸上は黒田英雄のことを忌避するに違いない。いずれにせよ彼は、どういう思いで映画館をあとにしたのだろうか。知りたいと切に願う。
『わが愛』〜昭和35年制作の、五所平之助監督の佳作。数十年にわたって日陰の身から男を支え続けたヒロインの純愛を描いた作品。たぶん岸上はいたく感動したことだろう。岸上の手帖に、同じく五所監督の昭和32年の映画『挽歌』(久我美子主演)を褒めた記述がある。岸上の感性が、五所の抒情を愛したのではなかろうか。ヒロイン有馬稲子のような純愛を女性に求めていたのだろう。それはことごとく砕け散ったのだが。
『独立愚連隊』〜昭和34年制作、岡本喜八監督の屈折した反戦思想が如実に現れた娯楽作品。ただ、八路軍(共産軍)をばったばったとなぎ倒すので、当時の左翼評論家からは好戦映画だとボロクソに言われた。岡本はその落とし前をつけるため、ATGで『肉弾』を監督。あらためて反戦の思いをスクリーンにたたきつけた。
『抜き射ちの竜』〜正確には『拳銃無頼帖 抜き射ちの竜』。赤木圭一郎唯一のシリーズ作として4作作られた。岸上が赤木の映画を観ていることが興味深い。僕は、岸上と赤木に共通した翳りを感じている。共に早世したゆえに永遠の歌人、永遠の俳優となった。でも、どうして岸上がこの映画を観たんだろうか。
僕が岸上と会って語り合いたいのは短歌のことではない。映画のことだ。とくに『黒い画集』は論じあいたいね。ちなみに、岸上のことを詠った歌はたくさんあるが、どれも僕にはぴんと来ない。また、岸上を論じた評もどれも同様である。上っつらだけをなぞっているようで、岸上自身の心のひだというものをとらえ得ていないように思われる。岸上の歌は、家族詠がいちばんいい。彼の革命と夢の挫折を詠ったものに僕はまったく興味がない。

      今日のMYビデオ
「拳銃無頼帖〜明日なき男」(昭和35年、日活、野口博志)赤木圭一郎、宍戸錠、笹森礼子、藤村有弘、水島道太郎、南田洋子
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2007年04月29日

767 歌人は舐められている!&トニーLOVE

 私の思った通りのレース展開だった。1着、3着、4着、5着とみんなしっかり買った。エリモエクスパイア!?あんた誰!?聞いてねえよ!!何回やり直してもこの馬は買えない。俺みたいに的確なレース予想をしても外れるのだ。諸君、競馬なんかに手を出すなよ。間違いなく金をなくす。ただし、俺の失くした1千百八十万に比べたらなんてことのない額だ。まだまだ今年は、馬券収支プラス。次回は中2週でオークス、ダービー、安田記念の地獄の3連闘である。金をぶちこんでやるぜ。

 「現代短歌最前線新響十人」の刊行記念公開シンポジウムが開催されたそうだが、人がぜんぜん来なかったと仄聞する。あたりまえだろうが!!俺に言わせればなあ、この程度の本の刊行を記念するだのシンポジウムを開くだの図々しいにも程がある。なめとるのと違うか。いや、歌人自体が、出版社によってなめられているのだ。証拠はないが、歌壇事情に照らしあわせて、この本もまた掲載者たちに金をせびって作ったものではないかと思われる。また、その額も、人によって違ったのではなかろうかと想像する。もちろん私みたいに1千百八十万(しつこい)払ったやつはいないだろうが(笑)。いいかげんこういうことはやめないか。僕が言いたいのは、歌集を出すのに持ち出しするのは仕方ないとして、権威のない雑誌のためにひどい待遇でただ働きをするとか、コンセプトのあいまいなやっつけ仕事な本にわざわざ載せてもらってしかも金を取られたり何冊買い取れとか言われてそれに甘んじたり、そういうことはもういいかげんやめたらどうか。出版社側のほうは、「こいつら活字にしてやると言いさえすればしっぽを振ってゼニ払うだろう。なに校正?コンセプト?ゲラ?生意気言うんじゃねえよこの文学者気取りのお人よしのバカども」としか思ってねえよ。でなきゃこんなやっつけ仕事をやっておいてしかも出版記念シンポジウムなんて真似できねえよ。ふざけた連中だ。歌人たちよ、お前らもっとプライドを持て。載せてほしけりゃゼニよこせ、なんて打診があったら全部断れ。そんな話に乗るから歌人を食いものにするゴロ出版社がはびこるのだ。いや、そこそこ権威のある短歌賞の主催者だってひどい。だって受賞者に交通費も宿泊費も出さないんだぜ?なにさまのつもりだ。お前ら、そういう無名の歌人たちのおかげで偉そうにしてられるんだろう。もう、歌壇のシステムって滅茶苦茶である。俺、劇団やってたけど、スタッフにはできる限りのギャラは払ったぞ。そこに緊張感と、仕事という感覚が生まれ、いい結果が出るのである。自分の創作はギャラに値する(額は問題ではない、払うという誠意が大事なのだ)という矜持が歌人にはなさすぎないか。この問題については、まとめて来月の1日か2日に書こうと思う。今日は疲れているから話題を変える。

 ああ、トニー様………(はあと)。金の問題で心がささくれ立っているせいか、このところ完全に赤木圭一郎の映画にはまっている。彼は、「日本のジェームズディーン」と呼ばれている。確かにその寂しげな美貌や夭折の運命はそうと言えるが、デビュー当時の彼は、僕に言わせれば「日本のブルース・リー」である。アクションシーンの迫力がすごい。よくまあこんなにこき使われて文句を言わなかったものだ。彼の生い立ちには鬱屈したものがあった。彼の性格から、学生運動という集団的狂熱に身を投じることなどできなかっただろう。基本的に一匹狼なのだ。映画のアクションシーンのなかでその鬱憤を晴らしていたのだろう。何より彼の素敵なところは、その品の良さだ。僕は日本のアクション俳優にまったく興味がない。なぜから、品がないからだ。下品で粗野である。赤木は違う。肉体を酷使しても、常にマイルドでジェントルな雰囲気を漂わせ、それが観るものを飽きさせない。裕次郎、旭なんぞ足元にも及ばない品と、アクションシーンのリアリティである。

      今日のMYビデオ

「大学の暴れん坊」(昭和34年、日活、古川卓巳)赤木圭一郎、葉山良二、芦川いづみ、内田良平、二本柳寛、佐野浅夫、稲垣美穂子、野呂圭介

 これは八十分の映画だが、その半分は驚くなかれアクションシーンである。空手・柔道に優れた大学生・赤木が、地上げ屋暴力団と対決するという話。強え強え、こうなってくるとモンスターである。東宝映画の三船敏郎みたい。ただ、赤木の場合は相手を倒したあとの寂しげな表情がなんとも言えない。陰りがある。また、うれしいことに、赤木映画の悪役は「あの」内田良平なのだ。この役者もいいもんな。ラストの赤木VS内田のアクションシーンは見ごたえ十分。デビュー当時の赤木のアクションは体技を駆使したものだったが、後年それは拳銃を使ったものへと変わっていった。つまり、日活お家芸のムードアクションであり、それはそれで決まっている。しかし、それだけに、体を張って戦うヒーローとしての赤木が見られる映画は貴重である。赤木の映画に関しては、これからも何度も紹介していきたいと思う。この人は、再評価に価する俳優だと僕は断言する。
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:53| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

追記2

 昨日まで気がつかなかったが、五番、アドマイヤタイトルが怖い。穴馬なしの宣言は撤回する。穴を開けるとしたらこいつだろう。馬連5−6も押さえよう。パドックモニターを凝視しなければ。切れる馬は切りたいものだ。
ニックネーム 茶トラのみんく at 12:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

追記

 メイショウサムソンとデルタブルースの人気が逆転した。このままではサムソンが押し出されて一番人気になる可能性がある。いやーな感じだ。サムソンは、馬体をマイナス8以上減らして出てきてほしい。ユメノシルシが逃げ宣言をやっているが、大逃げをこかれたらやばい。ゆっくり逃げてね。いずれにせよ、大激戦だろう。
ニックネーム 茶トラのみんく at 10:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

766 自信アリ、天皇賞(春)渾身の前日予想

 来ましたねー、天皇賞(春)。胸わくわくですよ。混戦と言われている。確かに、僕も最初はそう思った。だが、レース検討を重ねるうちに、軸馬はほぼ決まった。まず、このレースは超スローペースだろう。決して、上がり勝負のレースにはならない。差し馬にはちょっとキツイのである。粘りこみの、持久力のある馬が浮上する。混戦と言われているときは、最後には格のある馬を選べ、ということだ。今回を見て、1995年の同レースを思い出す。この時も混戦と言われていたが、フタを開ければ、勝ったのはG1ホースライスシャワー、2着にはステージチャンプ。それぞれ、4番・6番人気という不当な評価であった。この2頭で馬連4090円もついた。私は馬券を取り儲けたにもかかわらず、下馬評の低さに憤慨したものである。この時ライスは、差し馬のくせに珍しく先行策をとった。上がり36秒0でかろうじてチャンプを振り切っている。今回のレースは、この年と似るような予感がする。京都の馬場事態が、先行馬有利と見るべきである。
 格から言えば、メイショウサムソンと、デルタブルースであると言える。ただデルタは、いまいち信用ができない。時計も遅い。僕はずばり、軸をサムソンにする。菊花賞の惨敗があれこれ言われている。あれは、武のアドマイヤメインのハイペースに完全に足を使わされ、4着に終わったのだ。しかるに、その時計は3分03秒4、これは歴代の菊花賞タイムをはるかに凌ぐもので、これだけの時計を出せれば今回は十分に勝てる可能性がある。デルタが菊花賞を勝ったときのタイムは3分05秒7、まったく話にならない。もちろん、1ハロン増えるのはサムソンにとってマイナスだろうが、この馬は成長していると思う。今回のタイムは、3分16秒台だろう。サムソンなら軽く出せるタイムだ。諸君、長距離だからといってタイムを馬鹿にしてはいけない。長距離だからこそ、時計が大事なのだ。去年の菊花賞からの惨敗は、体調面での問題だろう。今回は、休養明け2戦、上積みは十分。それに、彼は二冠馬だぜ。正直言って、相手はどいつもこいつもG2からG3クラス。こんな連中に負けたら二冠馬の栄誉が泣くだろう。前売りを見たら、当時のライスシャワーみたいに人気がないのびっくりした。当然、ダントツの一番人気かと思ったら三番人気である。しめた。いただくぜ。
 相手筆頭は、ここを目標にしてきたトウショウナイト。上澄みは「?」だが、アイポッパーも無視できない。この二頭が相手本線だろう。ネヴァブションは確かに上がり馬だが、そんな馬が来たことは過去の天皇賞(春)であった試しがない。あくまで準本線。デルタも同じく準本線。面白いのはマツリダゴッホ。折り合いと、輸送の問題さえクリアできれば怖い馬だ。馬体重に注。トウカイトリックも調子がいいが、長距離3戦連続で走り過ぎている。あくまで押さえ。あとはいらん。皐月賞みたいに、展開がぶっ壊れたら大穴はくるだろうが、今回はまずないな。この7頭の勝負。上位拮抗ってやつだ。
 前日予想結論。
 本線馬連、6−10、6−8、やや厚め買い、6−15、6−14、1−6。押さえ、6−12。タテ目、8−10。ただしパドックで当日の買い目は変わるかもしれない。が、メイショウサムソン軸は変わらないと思う。馬券は取ったも同然。明日は、左ウチワでレースを楽しもうと思う。
 メイショウサムソンの連対自信度、60・5%。
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2007年04月28日

765 くたくた〜今日の二首〜

 結社誌「未来」の4月号を読む。開いてみて驚いたのは、以前読んだものよりレイアウトがすばらしく進歩しているということだ。実に読み易い。そして、作者名が大きいのもいい。前は、いかにも選歌欄別に並べてみましたという感じで鼻白むところがあったが、レイアウトのよさでそうした印象はかなり薄らいでいる。読み易さという点では「塔」が一番だと思っていたが、「未来」には一歩譲るかもしれない。こういう企業努力は大事である。
 相変わらず、へとへとである。トラブルの第一波はなんとかやり過ごせそうだが、遠からずまた第二波がくるだろう。それでも、今日送られてきた「短歌人」の会員欄赤丸チェック3分の2を終え、出詠歌も作った。短歌というのは、疲れているときのほうがよくできるし、よく読める。あさっては天皇賞(春)。どんなに困窮しても俺は競馬だけはやめない。だって戦争中もダービーは開催されていたんだもん(昭和二十年のみ除く)。でも諸君、借金をしてまでギャンブルはするでないぞ。あくまで自分の金でやるものである。競馬ができる身分というだけで、俺は幸せ者だと思っている。あーもう疲れた、今日は寝る。明日の予想を楽しみに。俺には、レース展開が目に見えるようだ。

      今日の二首

永遠は一瞬のうちにあるものを橋にゆきちがふまでの数秒 山田富士郎
走りきて不幸の手紙を出す少女 赤いポストに呑みこまれたり 笹公人
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2007年04月26日

764 ♪天国が俺を呼んでいる♪

♪霧の波止場に還って来たが
待っていたのは哀しい噂
波がさらった港の夢を 
むせぶ泣くよな岬のはずれ
霧笛が俺を呼んでいる♪
「霧笛が俺を呼んでいる」歌・赤木圭一郎

 ここ数日、私はもう疲れきっている。人生には、色々な苦しみがあると思うが、金の苦しみほど切実なものはあるまい。書類、書類、また書類。もううんざりだ。疲れきっているのに、頭だけが冴えて眠れない。金のトラブルが一挙に押し寄せてきた。私の責任ではない。52歳というのは、そろそろそういう問題を抱えて生きねばならない年齢なのかもしれない。あー、避け続けてきた故郷にも、錦を汚しに帰らなくてはならないかもしれない。こういう日常のトラブルがあるからこそ、短歌にのめりこんで行くのだろう。今、本当に歌を読んでいてやたらと心に沁みてくる。あの、俵×智の歌でさえも。しかし、資本主義というのは狂っている。1180万をあっという間に失くした俺に、銀行はどういうわけか、アメリカンエクスプレスの会員証を送ってきくさった。「貴方は特別な人」などとのたまわっている。俺にこの上さらに金を使えというのか!?おまえらその金くれるのか!?違うだろ!?利子つけて返せってんだろ!?返さないと安岡力也がやってきて内臓商人を斡旋してくれるんだろ!?誤解してもらっては困るが、いくら金に困ったといっても、かの借金女王中村うさぎのようなケースとは違う。あくまで、俺が巻き込まれたあるアクシデントによるものなのだ。ことの顛末を歌にしたが、発表するのはやめる。生活を詠えとかねてから俺は言っているが、だからといってあまりにも生々しく詠えばいいというものではない。作るはしからゴミ箱に捨てた。
 最近俺は、赤木圭一郎の映画ばかり見ている。赤木の持つ陰りが好きだ。これは決して作ったものではなく、彼が本来抱えていた悲哀からくるものだろう。そして、素直に心に沁みるのは彼の育ちがいいからだ。育ちがいい、ということが本当によくわかる。彼が活躍したのは昭和35年1年間のみ。例の安保闘争がピークのときだ。同じ年に自殺した歌人に岸上大作がいる。ふたりは同世代。どうしても、この早熟で早世なふたりの若者の生き方を思ってしまう。ふたりとも死をもって永遠の青春の象徴である歌人となり、俳優となったのだ。赤木は昭和36年にスタジオ内の事故で死んでいる。彼の若白髪は有名だった。彼もまた、革命を夢見ていた若者の一人だった。好きで俳優になったわけではなく、ほかにやることがなかったから流されるままにヒーロー稼業を演じていたのである。彼のアクションシーンには迫力がある。その持て余したエネルギーを、映画という虚の世界で発散していたのだろう。赤木はひょっとして、またブームになるかもしれない。彼の虚無感は現代的だ。しかし、俺も赤木の映画ばかり見るということも、天国に呼ばれているのかもしれない。俺なんぞ、もちろん伝説になんぞなるわけがないが、せめて第一歌集だけは出してから死にたいものである。いずれにせよ、俺は、好むと好まざるとにかかわらず、東京のど真ん中で生きていくしかないと思う次第である。

      今日の八首

世紀の末雨降り雨に濡れる窓数限りなく嵌め殺されよ 藤原龍一郎
夢に出る機械の鳥はどの夜もキブツチンシと鳴くのだそうだ
堕落するにも才能がいる、通勤の道に桜の白茶けた花
使い捨てカメラに写す現実に酸性雨降りちょっとピンボケ
東京というドラッグに溺れたる或る精神を歌人と呼べば
「月日は流れ、私は残る」そののちの詩歌こそ余生余生こそ呪詛
同時代的悲喜として「食ふべき詩」を「喰ふべきキリンビール」を
物語、モノがカタルを肯えば携帯電話もブンガクの糧(かて)
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2007年04月24日

763 佐藤佐太郎と藤原龍一郎〜一千百八十万が消えた

 アクセス数が多すぎる。とにかく多すぎる。読者数は増やしたいが、アクセス数はもう結構である。僕の日記を読んで気にさわるという人はやめていただきたい。別に誰にも読む義務はないのだ。僕は、なにごとにつけ、批判すべきと思ったことを真摯に批判しているだけである。もしも、僕の意見そのものに反論があるのなら、自分の言葉で筋道たててやるがよろしい。大いに論じあおうではありませんか。僕は、歌壇に対してなんのおもんぱかるところを持たず、短歌を知らず歌壇に関係ない人でも短歌を楽しみ、考えてもらえるよう外に向かって発信しているのである。気をつかうべきには気をつかい、同時に言うべきことははっきり言う。固有名詞を出したからどうだこうだというコメントもあったが、固有名詞なくしてなんの短歌評だろうか。今後とも、どたまに来ることがあれば遠慮会釈なく書きなぐるつもりである。反論するならちゃんと文章で書いていただきたい。

 藤沢周平「白き瓶」のことに昨日の日記で触れた。長塚節は、政治好きの親父の借金のせいで、家業が傾き生涯苦労し、そして自らは、結核という不治の病をわずらいながら異常なほどのバイタリティーで日本中を旅して回っている。伊藤左千夫は、無計画にぼこぼこぼこぼこ八人も九人も子供を作り、同じく借金を重ね、そのあいまに若い娘っ子への相聞歌なんぞ作っている。長塚と伊藤の関係が面白い。伊藤の、傲慢で独裁的な性格に、嫌気がさしながらも長塚は彼から離れることができない。それは、その粗野な伊藤が時おり見せる的確な批評眼を評価するがゆえに離れられないのだ。いろんな意味で、深読みのできる関係である。そういう、シビアな状況の中でも、彼らは一銭にもならないどころか持ち出しで結社誌を出し続けしかも短歌に命を張っているのである。僕は、短歌とは畢竟こうした文学なのだろうと思っている。
 さる事情から、僕の銀行預金から壱千百八拾万という大金が消えた。他人から見れば、「アンタそんな状況でよく短歌なんぞやっていますね」と言われるだろう。事実、僕はそんなシビアな中でも歌を作り、「塔」「短歌人」の秀歌選名歌選をやり、この日記もまめに書いているのだ。逆に言えば、短歌をやっているからこそ、なんとか冷静を保てるのであり、そうでなかったら半狂乱になっているだろう。短歌というのは、人を妙に冷静にさせる力がある。だから、長塚、伊藤の気持ちがなんとなく理解できるのである。どんなひどい目にあっても何かしら歌の題材になるのではないか、といういい意味での逞しさが常に心の底に居座って、結果的に狂うことから防いでくれているのである。短歌とは、そういう力を持っている。
 なぜか今、佐藤佐太郎の歌が心にしみる。アララギ短歌恐るべしである。僕は、藤原龍一郎と佐太郎を足して、僕の視点を加味した歌を作れないかと真剣に思っている。藤原氏と、佐太郎の共通点はちゃんとある。ともに都市を詠んでおり、また、無骨さもこの二人には共通している。アララギなんぞ、歌を始めた頃は無視していたが、やはりその伝統の重みは凄いと思う。アララギを加味しながらも僕は僕の歌を作っていきたいと思う。

      今日の六首

とりかへしつかぬ時間を負ふ一人ミルクのなかの苺をつぶす 佐藤佐太郎
すさまじきものとかつては思ひしが独笑(ひとりわらひ)をみづからゆるす
天井にとまれる夜の蝿いくつ休息のかたちゆゑに憎まず
悲しみをしづめゐるとき蝿のとぶ短き音も身にしみて聞く
舗道にはいたく亀裂があるかなと寒あけごろのゆふべ帰路(かへりぢ)
わたくしの心みだれて生けるもの死にたるもののけぢめさへなし
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2007年04月23日

762 殴り書き短歌

 実にくだらんコメントを頂戴した。どうやらコメント子は、一冊の本を批判する以上は、自分も一冊歌集を出してからにしろと言いたいらしい。なんのこっちゃ。じゃあなにか、一冊歌集出したら天下御免ということか?歌集を出す、そのこと自体にはステイタスはない。昔ならいざ知らず、いったい月に何冊歌集が出とると思っておるのだ。暇と金さえあれば、いや暇がなくても借金してでも出そうと思えば出せるのだ。僕は、はっきり言うが、20代から40前半までの間に歌を始めた人は、最低第一歌集を出すのに10年は必要だと思う(才能のある人は除く)。それぐらい、第一歌集出版というのは吟味し、校正をかさね、慎重のうえにも慎重を期して出すべきだと思う。歌を始めて四、五年、素人芸の域を出ないうちに歌集を出すやつの気が知れない。実際、僕は、もっと時間をかけて練ってからにすればいいのになあ、と思える第一歌集をずいぶん読んだ。歌人というのは、自費出版社を食わせるために存在するのではない。そのことを皆さん、もう一度よく噛みしめていただきたい。たとえば、五百首載せたいと思うのならば、結社誌に千五百首載ってから初めて考えるべきである。歌集を出したかそうでないかと、歌人としてのステイタスはなんの関係もない。今はそういう時代だ。

 藤沢周平「白き瓶」を読了する。実に面白い。「アララギ」初期の頃の長塚節、伊藤左千夫はじめ、短歌黎明期の人間模様が見事に描かれている。僕が感心するのは、長塚にせよ伊藤にせよ、病苦、借金苦等、他人から見れば「よく文学なんぞやっとりますな」と言われるくらい悲愴な境遇のなかで短歌に打ち込んでいるということである。ただ、僕の経験から言えば、これは少しも不思議なことではない。僕も、最近、金銭にまつわる大変なトラブルを抱え、忙しい毎日だ。しかし、不思議なことに、そのような苦悩のなかで短歌はどんどん湧き上がってくるし、また、「塔」「短歌人」の結社誌を読むことで精神の均衡を保っているのである。短歌とは、そういう文学なのではないか。平穏な日々のなかで原稿用紙を睨んでいたって歌はできない。実際、僕が歌ができるのは、激怒したとき、失意のとき、仕事中のトラブルのとき、そういう時に僕は短歌を殴り書いている。僕は、推敲というものを全然しない。推敲するのは、自分の作品が結社誌に載ってからだ。活字になって、どうも居心地が悪い歌だなあと思ったときに初めて推敲する。だから、僕の短歌は、すべて激情の赴くままに殴り書いた短歌だ。それが真の生活詠というものだろう。ただ、旅の歌だけは違う。僕は旅に出たときだけは、アララギ的方法というものを強く意識する。僕は、佐藤佐太郎の大ファンである。旅行に行くと、僕の頭佐太郎モードに切り替わり、時間をかけて作歌する。そのなかから、五首ピックアップさせていただく。

真昼間も暗き安曇野粉雪(ゆき)降りて宿に着く頃ささら風巻けり 黒田英雄
湯治場の茶店に甘酒飲む客の口重くして晦日は暮るる
行く車あらぬ峠の曲線にともしび泛かぶ真暗き山の夜
朝風呂の長方形に陽は射してとどのようにぞ浮びて欠伸す
源泉に翁が三人(みたり)目を閉ぢて修行するがに微動だにせず

 これらの歌は、相当時間をかけて作った。これも、「塔」に入った影響だろう。「アララギ」短歌というのは無視できない。佐太郎をはじめとしていい歌がたくさんある。ただ、旅の歌以外の俺の歌はほとんどなぐり書きである。歌というのは、それでいいと思う。思ったことを直感的に把握し、それを韻律に叩きつける、それが歌というものだ。俺は、自分の歌をストレート短歌といったが今日はもう変えたい。俺の歌は、殴り書き短歌である。

      今日の六首

増してゆく癌細胞は脳侵し苦しみさへも叔父に与へず 南條暁美
前髪を切りし断片が目に入るを取りてやれども痛がりもせず
わが遺産いかにするかと叔父は問ふ全てなくししことを忘れて
渡されし叔父の時計を握りしむ眼みひらき夜半逝き給ふ
この部屋の布団、本、鍋不用にてトラック二台に積みて廃棄す
人に要るものは一体何ならむ空つぽの部屋に我一人ゐる
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:09| Comment(7) | TrackBack(0) | 日記

761 色気と存在感

 ふゆのゆふさんからコメントをいただいた。汐路章を題材にした僕の連作についてだ。実は今日は、もう疲れているので日記を休もうと思ったのだが、せっかくなのでちょっと書いてみる。この連作は、日活撮影所でのアフレコに汐路さんがいらっしゃって、そのときのことを見たまま詠ったものである。汐路章といっても、若い人にはピンとこないであろう。主に東映映画で活躍した脇役俳優であり、とくに加藤泰作品では絶品のバイプレイヤーぶりを見せている。「文学賞殺人事件」における老人ボケの大作家役でも出ており、爆笑ものの演技である。汐路さんをひと目見て、その迫力に驚いた。長く役者をやっている人は、黙っていてもすごい存在感がある。そして彼は、美男では絶対にないが、すごい色気を漂わせていた。立っているだけで「オレが汐路だ文句があるか!」というオーラをびんびんに放っているのだ。とても腰がひくく、それでいて気さくなかただが、やはりその、一種近寄りがたい迫力は凄かった。また、マイクをなめるような言い回しにはびっくりこいた。僕は、汐路さんと一緒のシーンがなく、それが今でも残念である。何か話しかけたかったが、こっちは三下役者、とうてい近寄りがたく、無理であった。
 僕は、歌人にもある種役者的素養が必要だと常々思っている。なぜなら、歌人は韻律でドラマを紡ぎだすパフォーマーだと思うからだ。僕が見た歌人で、強烈な印象を残す人が二人いる。岡井隆と河野裕子だ。短歌マラソンで見た岡井の朗読にもすごい迫力があった。また、河野裕子も、僕ははっきり断言するが、女優をやっても相当な線までいける人だと思う。とにかく、その存在をあれだけ大きく見せる人は、歌人には珍しいのではないか。僕はやはり、歌人はふだん会うときでも、普通のそこらへんの人ではいけないと思う。何らかのオーラやカリスマをその存在に漂わせているべきだといのは、ないものねだりだろうか。ポーズをつけ、自己演出に腐心してもなにも批判される筋合いはない。基本的に役者なんだから。俺の場合は、人前に出て喋らず、寡黙を貫くというのが美学である。そのぶん日記で喋り倒しているのだ。最後に、せっかくだからふゆの様が取り上げた連作をここにアップする。歌集に入れるつもりはないので、皆さん味わって読むように。これが僕が見て感じたままの歌である。

汐路章スタジオ入れば皆みなが最敬礼せり名脇役に 黒田英雄

微笑湛へおだやかなひとされどその腰の低さに凄味を感ず

無口なれど凡優なわれつひにまた汐路章と語らざるまま

頭より肉体(カラダ)と勘を研ぎ澄まし幾度の地獄を見しや汐路よ

耕さず順はぬ民の面影(かげ)やどしあれ役者よと人が呟く

見つめらるるをなりはひとせし俳優(わざをぎ)は美醜を問はず色気醸せり
ニックネーム 茶トラのみんく at 20:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2007年04月21日

760 真摯に向き合え!

 昨日に続き、「現代短歌最前線〜新響十人」を取り上げる。装丁のよい、厚くて読みごたえのありそうな本なので期待して開いたのだ。が、この本の大きな欠陥は、全体を見渡し、確固たる短歌人で人選をしたはずの、いてしかるべきプロデューサーの存在がうかがえないことである。各人の自選の歌と、すでに発表済みの散文を並べたものを十人収めただけという、お手軽で安直でポリシーというものが全く感じられない作りである。おしまいに、申し訳程度にさいかち真と山下雅人の、各歌人についてのコメントがついているが、いかにもやっつけ仕事で大急ぎで書いて挿入しました、という感じの文章である。「新響十人」というタイトルがずうずうしい。新しい響きのあるメンツなどほとんどいない。たとえば、小高賢編集になる、近代歌人現代歌人をそれぞれ取り上げた本には、その短歌人の是非はともかくとして、編者小高のポリシーが全編を統一しており、それが本としての格の違いを生み出している。僕が執拗にこの本を批判するのは、若手歌人というものをちゃんと紹介するような本が出てほしいからだ。それには、編纂するほうに確固たる短歌人、批評眼があり、筋の通った文学感、美意識、批判精神が一書を貫いていることが不可欠である。たとえば、僕が編纂するとすれば、紹介したい若手歌人が20人はぱっと浮かぶ。そこに自分のポリシーを通底させるだけの自信はある(僕の言う若手というのは、三十代までである)。
 しかるに、この本のメンツは誰がどんなポリシーで選んだというのか。奥付を見ると発行人は乗っているが編集担当者や編者の名前はどこにもない、と思ったら、奥付のあとのほうに小さく「編集山下雅人」と載っている。だがしかし、これで納得がいったわけではない。アンソロジーにとって編者というのは著者と同等の重みを持つ。表紙に堂々と著者扱いで名前を載せてしかるべきだし、そうしないのは、やっつけ仕事だというイメージに加担するようなものだ。てな訳で、僕はこのアンソロジーをまったく評価できない。一冊の書物としてぶさいくである。本作りに関わっている人間から当然にじみ出るはずの本への愛というものがまったく感じられない。本は生き物なのだ。いいかげんに育てたらいくら外見(そとみ)がよくても見る人が見れば一目瞭然である。
 ところで、よく、「他人の歌をがたがた言わずに自分の歌に精進しろ」と言うバカが多い。それは違うだろう。短歌という文学に真摯に向き合うなら、当然、他人の歌の良否や、歌壇の風潮というものに敏感にならざるを得ない。そういうものに触発されながら歌というものはできていくのである。アララギの初期の頃など、長塚節や伊藤左千夫は、生活苦や病気にあえぎながら、なおかつ他人の歌や他結社をけなし、議論に明け暮れ毀誉褒貶でぎとぎとの手紙をやり取りし、へとへとになりながらなおかつ精力的に歌を作っていた。いや、歌というのは案外そうした疾風怒濤のなかでこそよくできる、というのが僕の確信である。自分の歌のことだけ考えてじーっと原稿用紙の前で腕組んでるようなやつにろくな歌ができるものか。たとえば、田中榮のような寡黙な歌人もいるが、彼の中には相当どろどろした葛藤があったことと僕は推測する。だからこそ彼はかずかずの秀歌を残すことができたのだ。彼は、他人の歌や結社状況などどうでもいい、とすましかえっているような人ではなかっただろう。今どきの、ものを言わないやつは本当になにも考えてない、というのとは格段の差である。今の連中、自分ひとりのせこい歌と歌壇や結社でいかに顔を売るかしか考えていないように見える。真摯に歌のことを考えるなら、状況について発言するのは当たり前のことである。啄木や中也が生きていたらブログを書きまくり、メールを打ちまくっていただろう。当ブログのような存在は、かつての文壇歌壇には普通に存在したはずである。この日記程度の短歌ブログが、ネット短歌界で抜きん出たアクセス数を集めているということがむしろ僕は悲しい。こうしたブログがもっとたくさん、いくらでも存在してしかるべきなのだ。発言しない歌人、それは二流の存在であると僕は断言する。
 ところで、コメント欄で俺の歌をつまらんという奴がしばしばいるが、ちゃんとどの歌がどう悪いか具体的に批判していただきたい。それなくしては、単なる誹謗中傷であり、傾聴するに値しない。俺は貴様らを喜ばせるために歌を作っているわけではない。俺は自分のために、そして自分だけの表現をめざして歌を作っているのだ。読む人が読めばわかると思う。単なる好みや俺への反感だけでくだらんことを言うな。

      今日の一首
腕時計を腕から外せば腕よりも時計が楽になると思う夜 田中雅子
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:25| Comment(8) | TrackBack(0) | 日記

2007年04月20日

759 強固な「われ」の復権を〜「現代短歌最前線」新響十人のくだらなさ

 「現代短歌最前線・新響十人」なる本を読む。「新響十人」とあるが、北めい社(字が出ない)は、いったいどういう基準でこの十人を選び出したのか。もっと魅力的で実感的な歌を歌う若手歌人がいくらでもいると思うよ、俺は。もとから注目している何人かを除いて、ことごとく前衛短歌のなれの果ての修辞遊びだとしか思えない。生活実感というものがゼロである。こいつら、いったいどんな生活を送っているのか。メシくってへをこいてクソをしてセックスする同じ人間とはとおっても思えないような、絢爛豪華な修辞のかずかずをあやつってくれている。小さなコロニーの中でなければ共有され得ないようなひじょーにつまらない矮小な感情を、さもさあ私繊細で敏感でしょう、とでも言いたげに恥ずかしげもなく提示している。大きな世界との接点は皆無で、そんなもの最初から排除しておると言いたいのだろうが、なに、そううそぶける自己の環境の貧血的貧しさに気がつかないだけである。この情念の細さは、短歌には全く不要である。このような連中を短歌界のホープに選びだした北めい社(字が出ない)というのも大した出版社である。
 歌と一緒に評論が収録されているのだが、黒瀬珂瀾(しかし出にくい字だ)の評論はまったく意味不明である。まあようも言葉をこねくり回して理屈のないとこに理屈をつけるものである。理屈と膏薬はどこにでもつくというが、膏薬がつかないようなとこにまで無理矢理はりつけているとしか見えない。もうちょっと、読み手というものを意識して書けよな。とても真面目にとりくんで読もうとは思えない文章である。つまりこういうことか。ハムレットのように、あるいは唐十郎の戯曲の人物たちのように、世界と乱痴気騒ぎを演じたあげく自分も周りもドラマの渦に巻き込んで散華してしまうような自己のありようなんてもんはとっくのとんまに無効であり鳥肌が立つような自我のわななきなんぞ現代の短歌にはお呼びでないというのか。馬鹿ぬかせ。お呼びでないのは、むしろドラマを排除しようとする、その気取った低血圧な態度である。自己と世界の格闘が無効?そう思うのであればそもそも文学の現場から撤退するがいい。桐一葉落ちるにもストーリーを感じることのない自分を、世界との関係性で変容しているわれとかなんとかだまって自己陶酔しておれ。人に読ませようとするな。世界は「われ」ごときで変容しないし「われ」の方だって同様である。両者の間には果てなき闘争のドラマがあり、それが無化されたかに見えるんだったらいっぺん視力の検査に行きたまえ。これほど自明なものがなぜ見えないというのか。フランスのインチキ野郎の前世紀最大のサギであるポストモダンという妄説に今頃になってしがみついている。黒瀬さん、あなたと師匠の春日井建との違いを申し上げよう。春日井氏の歌はとにかく艶っぽく、その官能に普遍性がある。僕の好みではないがやはり強烈に惹きつけられる。あなたの歌は、官能に踏みこもうとして、官能になにより肝心な、自分と相手への多情多恨がない。痴情の縺れがない。春日井氏にはゆるぎなく代替のきかない強烈な「われ」がある。貴方の歌にはそれがない。自分はそれを離れたところから出発しているのだと言うのならそもそも文学をやる意味がどこにありますか。文学とは私怨の結晶である。これのない短歌など、単なる言葉遊びであると俺ははっきり断言する。
 黒瀬氏は、世界というのは、関係性あるいは関係性の欠如しだいでいくらでも変容していくあやふやな物だと思っているように見える。実に甘ったるい見方である。世界というのは、生半可な夢想家が、いくらおれとの関係性次第だと思いたがってもどっこい、そうはいかない強固さを持っている。本当の夢想家、幻想者というのは、世界のどうにもこうにもゆるぎない強固さを骨身に沁みて知っている。なおかつそれに抗おうとする自我のあがきこそ貴重であり、この戦いは決して終わらず、古くなることもない。黒瀬氏の論はまったくの空論で、目の前で実際に撃ち合いが行われているのにまだ戦争など存在しないと言いたがる学者のおめでたさ。蝶になった夢を見た哲学者は決して哲学者になった夢を見た蝶ではない。夢のなかでトイレに行きたくなればすぐわかるだろう。
 今、歌壇に必要なのは、強固な「われ」の復権である。黒瀬や加藤治郎のごとき、修辞遊びに徹する時代こそすでに終わっている。僕からすれば、雑音であり、これらを持ち上げる歌壇ジャーナリズムというものも消えていただきたい。今、歌壇に求めれらているのは啄木的私性の戦いである。短歌は、啄木に還るべきであると、僕は真剣に思っているのである。いずれにせよ読者諸君、この「新響十人」、わざわざ買って読むほどのことはない(買うやつもおらんと思うけど)。松村正直、笹公人はこの顔ぶれのなかでは例外的に際立っているが、読みたければ彼らの歌集を買ったほうがよほどためになる。あと永田紅、生沼義朗もまあまあ。あとはいらん。
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:34| Comment(13) | TrackBack(0) | 日記

2007年04月19日

758 多様な肉体感覚

 短歌には、作者独自の肉体感覚というものがあってほしい。それは、手がどうの足がこうのではない。その人の生理と結びついた世界の把握の方法だ。この肉体感覚のない歌というのは非常に希薄で魅力が乏しく、読み手を惹き付ける引力に欠けると僕は思う。

この病室に妻逝きすでに九年経しドアの取っ手に手触れて帰る 相沢大也

 これはいい歌だ。妻が死んで九年経った今も、その息を引き取った病室に作者の思いはとどまっているのだ。僕のイメージだが、作者はドアのノブを握りしめているのではなく、歩きながらそっと手を伸ばし触れて通り過ぎて行ったのだろう。そうやって悲しみを昇華させているのではないか。結句がいい。ドアの取っ手を「握りて」とか「掴みて」では全然ダメだ。手でそっと触れて終わらせたところに、かえって深い悲しみが滲み出ている。ドアのノブにそれを凝縮させたところが素晴らしい。このような肉体感覚の表現は、あるようでいてないのではないか。

手を振れど気付かれざるに下がりゆく右手はしばし髪に触れおり 永田 紅

 これも、手の動きというものを鮮やかに表現している。手を振った相手は恋人だと僕は解釈する。つまりこれは、相聞歌として鑑賞した。人ごみの中に見つけた相手に手を振る、なのに気付いてもらえない、これはなかなか行き場のない、さみしい気持ちである。周りに人がいたりするとさらに恥ずかしい。猫はなにか失敗したり、ばつの悪い思いをしたりするとさかんに身づくろいをするが、そうすることで自分を慰撫し傷ついた心を修理しているのだろう。髪、というなめらかでエロチックな装置に手を置くことで、作者は破片となった世界の回復を待っている。作者の、髪を撫でる手の動きが目に浮かんできて、エロスを感じる。短歌は刹那を詠う詩型だと、つくづく思うのだ。

十歳も若き女性への入浴介助チェア―に座しし腰の艶く 村木幸子

 これはある意味、問題歌だと思う。まず、どういうシチュエーションなのか。介助を受けているのは作者より十も若い女性だという。作者の年齢はわからないが、人の介護をしているということはまだまだ足腰頑健な年齢であると見ていいだろう。それより十も若いということは、老人介護でないことは確かだ。なんらかの障害か事故で、体が不自由なかたとの光景だろう。これは、女性が女性の肉体を見て詠っている作品である。そこが強烈な印象を残すのだ。下句の、「チェア―に座しし腰の艶く」というのが色々な思いを喚起させる。最近ようやく少しだけ陽が当たりかけてきたが、障害者の性(性行為、というだけの意味でなくその存在性全体)はこれまでないも同然であった。しかし障害があろうがなかろうが肉体は成熟し、性欲も発現するし肌はつやめいてくるだろう。介護の現場には、車椅子の人をソープランドに連れていってあげたり、または障害者を対象に絞った出張風俗も存在するという。それと逆行するように、障害者に性などないとか、いっそ手術してとってしまえというひどい意見もまだまだ主流であるらしい。この歌は、障害と性というデリケートな、どう表現してもだれかを傷つけそうな題材を、作者当人が感じた女性性の耀きというポエジーでくるむことに成功している。これについては言いたいことがものすごくあるのだが長くなるので泣く泣く割愛するのである。おヒマなかたは、「スカヤグリーグ」というかなり前の小説をアマゾンか古本屋で探してご参照ください。この歌で介護されている女性には、性体験の現実はないように思える。だからこそ、結句の「艶く」に、生きられることのない女性性への同性の悲しみを感じるのだ。こんな視点の歌を読んだのは初めてで、驚いている。問題歌である。このテーマは、ある意味短歌にとって金脈であると僕は思う。
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2007年04月17日

757 「塔」4月号「陽の当たらない名歌選」

「塔」は、いまいちばん若葉集が面白い。よって後ろからいつも読んでいる。なぜ面白いか。それは、「塔」の歌風らしくない欄だからだ。いろんなテーマの歌がある。だから俺はこの欄に入れてくれと言っているのだ。今月は、年の瀬に作った歌が多いせいか、身につまされる作品が多かった。厳しい世相だなあ、とつくづく思わされるのである。
 今月の赤丸歌。澤辺欄作品1、174首。池本欄、151首。花山欄、134首。栗木欄、107首。真中欄、149首。吉川欄若葉集、115首。計830首の中から厳選30首を紹介する。じっくり鑑賞していただきたい。

      「塔」4月号「陽の当たらない名歌選」

この病室に妻逝きすでに九年経しドアの取っ手に手触れて帰る 相沢大也
手を振れど気付かれざるに下がりゆく右手はしばし髪に触れおり 永田 紅
十歳も若き女性への入浴介助チェア―に座しし腰の艶く 村木幸子

営林署杉熊事業所勤務われ指の先まで山男なり 明石森太
鉄橋の硬く冷えゆく夜の川誰に会うべくわが卵子ありや 夏目 空
小便を仲立ちにしていま俺は便器の水とつながつている 相原かろ
無き脚の爪先の辺まで痛み来る脳にはいまだ刷り込まれいて 二貝 芳
今ここに前世の念(おも)い果す人われの無き脚に錐さしに来る 二貝 芳
奔流となりて下水へ呑まれゆく雨さえ使い捨てられる街 美野冬吉
「まっすぐに文字書けぬなど信じられぬ」これも批評の一つかさびし 小川康男
あなたの元気が今日はなんだかしんどいと言われて夜の部屋に黙せる 松村正直
永く永く髪刈りに来しその客はついに来たらずわれ歳重ぬ 松島良幸
バブル期に学生時代を送ったと言われるだろう定年の時も 秋葉陽子
その顛末、我も知らんと杖抱きてひそひそ声の人に寄りゆく 原 久子
さわりてもよきデスマスク幼子のふれては自がほおなでつづけている 上條節子
人に会うためにしゆけり歌会の会とはまさに会うことなれば 岡本 潤
暖冬のハイキングの眼を覚醒す平家落人生き埋めの塚あり 室井 薫
わが遺産いかにするかと叔父は問ふ全てなくししことを忘れて 南條暁美
自転車に注連飾り付け出でてゆくおおつごもりの午後の透析 須磨岡 繁
杖つくは痛くない方痛い方どちらでしょうと母クイズ出す 森 祐子
ひろがる火を沈めるために焼きつくす十二年前の本当のこと 佐近田栄懿子
リタイアの後の夫へ少しずつ命令調になりゆくことば 秋津 霧
をとことはこのやうにして佇つものか会場にぽつり真中朋久 久保茂樹
一族にいまだなじめぬ嫁われがザル投げゲームで勝利を勝ち取る 尾崎知子
見舞いにはこないでと友うすかみの冬の陽差しのさびしさまとう 村瀬美代子
どれも微妙に開(あ)いている家中(いえじゅう)の抽斗(ひきだし)を閉めに立ちたり 花山周子
初めての電話の掛け方ほめられて前の勤めを聞かれていたり 山内頌子
母言うを確かめんと顔寄せるとき難聴吾の眼鏡吹っ飛ぶ 橋本英憲
ほら前をよく見て動くな汝を囲むこれが最後の写真とならむ 大西明未
風呂を焚くにほひの満てる日の日暮れは栃・若の勝負で元気があった 浜崎純江

 今号も、選んだすべての歌にコメントをつけたいほどのドラマ性匂いたつ名歌が揃った。歌はこうでなくてはいけない。

      今日のMYビデオ
「おかあさん」(昭和27年、新東宝=東宝、成瀬巳喜男、脚本・水木洋子)田中絹代、香川京子、加東大介、三島雅夫、岡田英次、澤村貞子、中北千枝子、鳥羽陽之介、中村是好、本間文子

 成瀬映画唯一の、ヒューマニズム溢れる作品。昭和27年当時の庶民の暮らしぶりがよくわかる。とにかく、出る人がみんないい人なのだ。こんな映画は、成瀬にはほかにはない。一度描いてみたかったのだろう、理想の家族というものを。この映画はヒットした。当然、似たような企画がきた。成瀬が断固として断ったのは言うまでもない。彼は創作者として偉いと思う。自分の夢を描いてみせるのは一度で十分。それが創作者の態度というものなのだ。
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:37| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

756 十人十色、だから面白い

 次のようなコメントを頂戴した。以下引用。

>塔の選歌の問題点
歌の良し悪しでなく歌の載せる数を決めて選ぶようだ。前後に歌の良いものを載せていると聞くが中の歌と比較してかわらない。選歌にはひとつの方針があるようだ。歌が良くても方針に合わねばとらないようだ。自分は栗木、河野、永田に選歌して欲しいのだが栗木のみ可能。吉川も望む。塔は若手を重きにおきすぎる。全般に見て本当にいいと思う歌に見当たらない。選者はもっといい歌を作り見本をつくるべし。

 引用終わり。僕は長く、勝手に当日記で名歌選をやっているが、本誌選歌欄の、最初と最後に載っている優秀作とされいる作品と、言葉は悪いがその他大勢とされているそれ以外の作品とを比較してみると、僕の赤丸チェックの数は、やはり断然前と後ろの作品に多い。この点では、僕は選者の選を信頼している。コメント氏のおっしゃる、「比較してかわらない」ということは、僕にとってはありえない。ただ、一首単位で見た場合、中のほうの歌にびっくりするような名歌が屹立していることはよくある。たとえば今月号で言えば、作品1澤辺元一選歌欄、前段優秀作として載っている上田善朗氏の6首や、片山晋氏の5首、これは僕は全部赤丸をつけた。しかしながら、じゃあ僕の名歌選にこれらを選ぶのかと言われると、そうではないのだ。このへんが短歌のむつかしいところだと思う。僕が思うに、選者は総合力で判定して、掲載箇所を差別化しているのではないかと僕は思う。一首単位で見ればどこに載った作品でも確かに差はない。だが、総合力が違うのである。だから、中段に載っている作品で、たとえば5首載ったとして、4首はノーチェックだが一首だけすごいのがある、ということがよくあるのだ。だから、掲載箇所に関係なく、すべての歌を読む楽しみというものがあるのだ。いずれにせよ、選歌には選者の主観というものがかなり反映される。人生観と言ってもいいだろう。十人が名歌選をやればその十人の選歌はまず重ならず、一首あればいいほうだろう。だから僕は、短歌という文学は面白いと思うのだ。
 何度も主張したいが、選者指定移動制は選歌体制のベストである。だって楽しいではないか。自分の作った十首を、今月は誰のとこに送ろうかと考えるだけでも楽しい。そして、自分の選んだ選者だから結果にも文句がないはずだ。「塔」会員の、選者アトランダム制に対するフラストレーションは相当溜まっているのではないか。選者指定制の最大の害悪は、結社内結社が生じることだ。いくら選者は自由に変えていいと建前ではなっていても、実際にはひとりの選者を中心としたサークルができたり、選者を変えると迫害されたりするのが現状である以上、「選者は変えていい。どんどん変えてちょうだい」としっかり明記することが大事なのだ。だから僕は単なる「選者指定制」ではなく、「選者指定移動制」を提唱するのである。これが、結社が会員に対してできる最大のサービスであろう。僕は、「塔」という結社にはこれができると思う。期待する次第である。
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2007年04月15日

755 結社人口を増やすために

 渾身の予想がカスリもせず、がっくりしている日曜の夜である。大荒れの原因?決まっている。フサイチホウオー、すべて彼にある。五番手以内で競馬すると思っていたのに、なんと、12番手から行きやがった。そんなこと聞いてないよ〜。これじゃ差し馬は仕掛けが遅れるのは当たり前で、用はないよ。始まった途端に僕は「終わった」と思った。そうと分かっていれば、当然逃げ馬に注意は行くさ。まんまとヴィクトリー、逃げ勝ち。なんでフサイチが追い込み競馬やって3着やねん。武も面食らっただろうな。完全に脚を余らせた。アンカツは、ダービーを意識してこんな追い込み競馬をやったんかい。金返せ!まあともかく、今回のレースでわかったことは、ダービーはフサイチホウオーがど本命だということだ。とにかく、力が抜けた。中一週おいて天皇賞春、ここで雪辱する。でもこのレースもむつかしそうだ。金か〜え〜せ〜〜〜〜!!!!!

 某結社の掲示板に、そこの結社誌の某選者の選歌がえこひいきである非難する書き込みがあった。はっきり言って、こういうことは絶対に言ってはいけないことである。僕は、結社肯定論者だ。結社を支える基本はなにかといえば、これは選歌だ。そして、結社に入るということは、その選歌に従うということだ。たとえ面従腹背であっても、そうでなくてはいけない。選者の選そのものを攻撃するということは、結社の基盤自体を揺るがすことになる。そういう意味で僕は、選者の権威というものは絶対保たれるべきだと思っている。それ以前に、自分の歌をあまりたくさん採ってくれないからと選者に文句を言ったり、えこひいきだと公共の掲示板に書いたりするのは、なによりかにより、みっともない。こういうのは批判とは言わない。子供のわがままみたいなもんだ。自らの価値をおとしめるものだから、たとえ思っても言わないに越したことはない。
 ただ、選歌システムへの意見は、いくら言ってもいい。選者指定制がよいのか、あるいは、選者アトランダム制がよいのか、これはどれだけ意見を述べあっても尽きないテーマだ。僕の考えは、以前にも書いたが、「選者指定移動制」である。選歌される側が選者を指定し、選者を変えることも自由、というシステムである。たとえば選者指定制だったら、つい似たような歌ばかり出してしまう可能性がある。また、選者アトランダム制だったら、それはそれで問題がある。詠み手と選者の相性がどうしても合わない場合が生じるだろう。今月のこの連作は、あの選者だけには当たってほしくないと思ったときに限って当たるのである。そして案の定、自分が力(リキ)を入れた歌は落とされる。具体的に、僕の場合を言おう。僕は「塔」と「短歌人」に所属している。「短歌人」の場合は、僕にとっては全く問題がない。なぜなら、僕は藤原龍一郎の選が受けたいがために「短歌人」に入ったからだ。
 「塔」の場合は、その誌面づくりが気に入ったのであって、所属歌人の誰か一人の選を受けたい、という意志はなかった。河野裕子を指定できるシステムだったらそれが動機となったろうが現在はそういうシステムではない。出詠するうえでの基本となるのは、今月の歌はこの人に選歌してほしい、という思いではないだろうか。自分が指名した選者の選なら、たとえ一首しか採ってもらえなくても納得するはずだ。また、僕は基本的に、選者を指定するほうが会員の個性を伸ばせると思う。選者アトランダム制にもよさはあると思うが、そういった意味でのフラストレーションを持っている「塔」会員も多いのではないか。それから、選者各氏にはっきり言っておきたいが、選歌というのは、選者のプライドを満たすためにあるものではない。すべて、選ばれる会員の歌人としての成長のためにあるのだ。一家を構えるという気持ちでやってはいけない。でないと、俺からあの選者に乗り換えやがって、などと度量の狭い、勘違いした怒りを持つ選者もいるだろうし、実際そういうケースをいくつも聞いた。会員を束縛してはいけない。そういう意味で、もっと結社は会員にサービスをしなくてはいけない。会員を特定の選者に縛りつけるような体質を持った結社は、会員数を減らしていくだけだろう。僕に言わせれば、結社人口が少なくなったと嘆いている歌壇は自業自得である。だって、たいていの結社は企業努力というものをしていないからだ。ホームページはあってもろくな更新もされてないし、子分の数に一喜一憂するような小粒な選者ばかりでは、若いもんが入ろうという気を起こすはずがない。結社は自由な雰囲気を強調しなくてはいけない。「塔」はその実験モデルになるのではないかと僕はひそかに期待している。選歌体制の見直しがあるそうだが、どういう展開になるか楽しみである。いずれにせよ、常に結社というのは変化していかなくてはいけない。潰れる結社は潰れるがよい。僕に言わせれば、今だって結社の数は多すぎるくらいなのだから。
 ひとこと言いたいが、たとえば「塔」には六人の選者がいる。六人の選者が全員認める会員なんてものがもしいたら、俺に言わせればろくな歌人ではあるまい。3人に絶賛され、あとの3人には毛嫌いされる。それが、一流の歌人というものだろう。
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:12| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記

754 渾身の皐月賞前日予想

 皐月賞、渾身の予想である。
 まず、トライアルレースのことを語ろう。間違いなく、レベルが高かったのは弥生賞だ。こんな厳しいレース展開のトライアルも珍しい。上がりのラップも優秀である。それを頭にいれて皐月賞のレース展開を考えてみたい。今回は、人気馬フサイチホウオーを徹底マークするレースと言えるだろう。多分フサイチは、3番手4番手の位置どり。彼をマークして、4、5、6、7番手あたりの馬が、4角から早めの猛攻を仕掛けてくるであろう。逃げ馬もけっこういる。ラップは、前半5ハロン58秒中盤と見る。要するに、淀みのない厳しいレースだ。先行馬には息を継ぐシーンがないだろう。フサイチより前にくる馬はまずダメで、直線で潰れるであろう。当然、瞬発力のある差し馬有利という、まさに皐月賞ならではの展開となる予感がする。
 人気馬を見る。フサイチホウオー、僕はどうしても、このローテーションが気に入らない。まるで、ダービーの前のひと叩きみたいだ。最ウチの1番ゲートというのもよくないだろう。中山2000という、器用さを要求されるコースだけに、信用できない。皐月賞は、長く足を使う馬より、瞬発力のある馬に勝利の女神はほほえんでいる。今回のレース展開はまさに皐月賞そのものとなる、僕はそんな気がする。かといって、先週の桜花賞、アストンマーチャンみたいにあっさり切るわけにはいかない。そしてビクトリー、このペースの中では潰れると思う。アサクサキングス、フライングアップル、もう2000ではキツイ。
 軸馬はずばり、アドマイヤオーラ。ローテーションもばっちり。いかにも瞬発力を持った皐月賞馬という感じがする。対抗は、まずナムラマース。この馬は怖いぜ。阪神毎日杯、重馬場で、一分四十八秒の好タイムをたたき出している。前二走も、負けた原因ははっきりしている。ペースが合わなかったことと、不利を受けたことだ。しかもこの馬は、けっこう使われているがその度に体重を増やしている。成長しているということだ。そしてもう一頭、ドリームジャーニー。叩き二戦め、上積み十分。前回の弥生賞での3着は、完全に直線で不利を受けた結果である。ココナッツパンチはどうであろうか。大外は不利だなあ。彼は、馬群のなかでしっかり足を溜めて差してくるタイプだから、どうやって内に食いこんでくるだろうか。ちょっと不安だ。今回は、上位拮抗、穴馬はない。たぶん、馬連1000円台か2000円台の配当となることが予想される。
 前日予想結論。大本線、馬連8−15。準本線、6−15、1−15。そして、15−18。そして最後に、馬単8−15。ただ、アドマイヤオーラにも怖い面がある。減り続けている馬体だ。もしも、大幅な馬体減があるとすれば、軸はナムラかドリームのどちらかで考える。いずれにせよ、このレースはフサイチホウオー、ドリームジャーニー、ナムラマース、アドマイヤオーラ、ココナッツパンチ、この五頭の戦いだ。ほかの馬はいらん。皐月賞らしい、小回り中山2000メートルの瞬発力レースとなるだろう。厳しい展開のレースだぜ。大穴はないと断言する。
 アドマイヤオーラ、連対自信度、50%。
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:55| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

2007年04月13日

753 昇欄問題!?

 昇欄に関して、複数のかたからコメントをいただいた。コメントはありがたいが、僕の感想は「なんだかなー」である。そんなに昇欄するかしないか、気になりますですか。僕には正直いって理解できない。たとえば、「塔」を例に引けば、「作品2」欄と「作品1」欄の間にどれほどの差があるというのか。実質的、差なんぞない。いや、逆に言えば、「月集欄」や「作品1」欄は、もろに「塔」カラーがぎとぎとで(もちろんいい歌もあるが)、読んでいてバラエティがなくておもしろくない。ビデオ屋の「名作」の棚は変わりばえがしなくてつまらないが、その他大勢を押し込めた棚は玉石混淆であっと驚くような大怪作があったりしてたのしい。そんな感じだろうか。また、僕から永田主催や「塔」編集部にお願したいが、僕の作品はできることなら「若葉集」に載せてほしいと思う。なぜなら、いま「塔」でいちばん面白いのは、「若葉集」だからである。入会一年以内の人しか載らないので、もし僕が載るとしたら降格、ということになるだろうがいっこうにかまわない。なぜなら黒田英雄の歌は、「若葉集」に載ってこそ映えるからである。「若葉集」に黒田英雄あり、そうあってほしい。今号も、この欄には秀歌が多かった。僕は、もし載せてもらえるならずーっとそのまま載せていてほしいと思う。以前、「塔」のアホ会員が「せめて作品1欄だけは読みたいと思います」などとアホだけにアホなことを書いていた。歌を、その掲載箇所によって序列づけて見るとは、アホなだけであるバカである。大事なのはあくまで自分の目である。たとえ結社がイチ押ししている歌人であろうと、あなたがつまらんと思った歌はあなたにとってつまらんのである。要は、結社からくだされた評価に関係なく、自分の批評軸を持ち、好きな歌人を見つけることが、結社に所属することの最大の魅力だということである。
 結社に入ったからには、必ず毎月出詠する。人の歌を読む。これが最低にして十分条件である。そういう肝心のことを怠ってるくせに、組織に取り入ろう、顔を売ろうという連中がごまんといるのだろう。だから、昇欄するかしないかなんてくっだらねえことが気になったり、自分よりあの人の掲載歌のほうが多い少ないと一喜一憂し、しまいには結社をやめるなどと逆ギレしたりするのだ。実にくだらん。僕は、組織に縛られるのは断固としていやだが、個人個人のつながりをも否定するものではない。実際、僕のところに歌集を送ってくれる人もけっこういる。そのかたたちとのつながりは大事にしたいと思っている。個人あっての組織であり、その逆ではない。自分の詠みの座標、読みの座標、ともに確たるものがあるのなら、それが組織的歌壇的にどうであるかなんぞど――――――でもいいことであり、歌壇的評価がどうであれいいと思った歌集なら買えばいいのだ。僕に歌壇的野心があるとすれば、自分の歌集を買っていただきたい、それだけである。身銭を切って買ってくれる人が三十人いればもう大満足である。基本的に、歌人を標榜していながら、「歌を詠む(読む)楽しさ」がわかっとらん連中が多いのではないか。出世のことばかり考えてるのと違うかお前ら。重ねて言うが、くだらん。「塔」であれ「短歌人」であれ、どの欄に載るかがなんでそんなに気になるのだ。僕に言わせれば実質的な差なんぞない。僕は、どの欄に載ろうと、「塔」「短歌人」の会員である、そのことだけで十分プライドは満たされている。細かいことにがたがた言うな。
 栗木京子「けむり水晶」が、釈迢賞を受賞し、これで3冠だという。この歌集にけちをつけるつもりは毛頭ないが、いくらなんでもこう集中するというのは、授賞する側に、広く多くの歌集からピックアップしよう、なるたけ在野に歌人にチャンスを与えてやろう、という意欲がぜんぜんない、ということの証拠でありはしないか。要するに、ろくな検討もせずに勝ち馬に乗ってるだけとちがうのか、という疑いがぬぐえないのである。いったいだれが、どんな基準で選んでおるのだ。小耳にはさんだが、とある大きな歌人団体の賞では、肝心の選考委員が目にするのはせいぜい十冊かそこら、それまでの推薦の作業は死ぬほどいる茶坊主どもが行っているとのこと。ふざけた連中だ。だって、これだけたくさんの歌集が出ている中、いくら優れた歌集とはいえ一冊に賞が集中するなんて変ではないか。こいつら(誰だか知らんが)、自分とこの結社誌の歌ですら全部には目を通してやしないだろう。無名歌人の中から原石を見つけようなんて気、ハナっかならないのである。それに比べたら俺のほうがはるかにえらい。もっとも、俺は娯楽としてやっているのだが。おまえらも娯楽として短歌を読み直してみろ。とにかく、歌壇というところには腹の立つことが多いのだ。
 明日は皐月賞の予想である。自信あり。乞御期待。

      今日の十首

 部屋で吹くハーモニカこそさびしけれ体力は呼気、気力は吸気 栗木京子
 公園で一番齢(とし)をとりやすきブランコよ秋の夜に漕ぎてみむ
 庭の落葉燃え尽きしのちひつそりと火を離れゆく火の匂ひあり
 凍りたる雪道そろりとあゆむとき敗者復活という語うとまし
 少しだけ凍らせたれば薄切りにしやすくなりぬ肉塊も悲(ひ)も
 聳ゆるもの踏みつぶしつつ哀しきやゴジラも「塔」もわれも五十歳
 月あかり射す窓の辺(へ)に足拭けり井戸から上がりし女のごとく
 夕ぐれの風やはらかし川の魔物と陸(をか)の魔物の出会ふ頃ほひ
 雪の夜は薬局だけが明るくて足首さむきわれの入りゆく
 雑技団のかなしき男いと小さき筒の中へと身を折りて入る

 前日に続き、栗木京子「けむり水晶」(角川書店)より抜粋。
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:05| Comment(5) | TrackBack(0) | 日記

752 永田和宏「新樹滴滴」欄を読んで

 帰宅したら、「塔」4月号が届いていてびっくり仰天。早ええ〜〜〜!松村編集長、燃えておるな。大変けっこうなことだ。それにしても凄いエネルギーの人だよなあ。松村氏に限らないが、会社の仕事とかこなしながらの執筆、編集、選歌、会議、校正、発送等等、凄いエネルギーだと思う。文学に溺れるというのはいいことかもしれない。
 永田和宏主催が、「新樹滴滴」という欄で、同誌で持ち上がった盗作問題について触れている。例の、本田重一作品からの剽窃についてである。読んでたまげた。この、盗作したおっさんは、罪の意識もなく、そのことを電話で問われてむしろ驚いていたのだそうだ。もうこれは、日本人の意識自体が劣化していると言わざるを得ない。僕も昔(中学のときです!)夏休みの読書感想文の宿題を、先生も同級生も誰も読まないようなホラー小説を選んで、そのあとがきをそっくり映して提出したところあっさりばれて先生に大目玉をくらったことがある。僕は子供だったが、誰も読んでなさそうな本を選んだところに、まだ悪いことだという自覚があったことがうかがえる。ところがこのおっさんはいい年こいて、出来合いの歌をつぎはぎして出詠することの、どこが悪いかわかっとらんのである。もう中学生以下である。盗作を罪悪と思っていない、いや、人の歌をつぎはぎすること=盗作、ということが理解できない、文学的白痴がたくさんいるということだろう。だから僕は言うのだ。こういう馬鹿に対しては、はっきりと規約で「盗作したものはその名を公表し除名処分にする」と明記せよと。そこまでしないとこいつらにはわからんのだが、そもそも規約を読んでくれるかどうか怪しいところが情けない。
 また、永田氏の同コラムにはさらに驚くことがあったが、その一つは、「昇欄の決定が誌上に載る。このときに辞めていく会員がある」(自分が昇欄してないので)、これにはあまりにたまげて月面宙返りをしてしまった。おまいら。昇欄するために短歌をやっておるのか。歌は、自分のためにのみやるものである。僕は、たとえ「塔」に二十年いて二十年ずっと今の「作品2」欄のままだってぜんぜん構わない。僕は、歌を載せてもらえるならどこだって構わない。もちろん、昇欄は嬉しいことだが、それは結果であって目的ではない。僕は以前、「塔」会員のかたから「あなたの作品をいつも読んでいます」という手紙をもらったことがある。そのときに感じたうれしさ、それで十分である。要するに、毎月出詠していれば、十人は、毎月追っかけて読んでくれている人がいるのである。これは確信をもって言える。また、「塔」の「作品2」欄のレベルは高い。その中に僕の歌が混じって載っていること、それだけでも僕は満足である。「嘘こけ」と言う人もいるであろうが、嘘ではない。僕の真摯な気持ちである。歌壇的出世、というものに僕はまあったく全然真率に興味がないのである。
 僕がなぜ歌を作っているか。それは簡単である。寂しくて寂しくて寂しくて寂しくてしょうがないからだ。そしてこの寂しさは、怒りへと昇華される。そんな僕の感情を救ってくれるのは、この韻律しかないのだ。まさに、さびしき玩具である。僕は、決して歌がうまくならないだろう。それでも構わない。ひたすら自分のためだけに歌を作っているのだ。昇欄できないからと辞めていく人の気持ちが、僕にはわからない。短歌というのは、名誉や栄光のための文学ではないと僕は確信しているが、そのへん勘違いした人も多いのだろう。最後に、永田主催の文章を少し引用する。

「好きで歌を作る。その限りにおいて、自分の満足のいく歌を作り続けることこそが大切なのである。(中略)歌の掲載数が何首違うとか、数年昇欄の時期がずれたとか、それにどれほどの意味があるだろう。そのことで歌をやめるようでは、始めから歌の魅力に触れ得ていない、ということにほかならない。」 永田和宏「新樹滴滴」より。
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:48| Comment(3) | TrackBack(0) | 日記

2007年04月11日

751 フェアプレイ精神と、短歌新聞4月号

 柴田氏のコメントへの返しにも書いたが、歌を評価するうえで、「この作者は嫌いだ」とか、「こいつはうちの結社の悪口書いたから」とか、私情を入れるやつなど最低である。ブログを始める前に、NHK全国短歌大会へは二回応募した。佳作にさえ一首も入らない「全落ち」なんてことは二回ともなかった。しかるに。このブログを始め、はばかりながら僕の忌憚のない歌壇批判記事が人の口にのぼるようになった途端受けた仕打ちがこの、「下読み段階での門前払い」である。しかも、その中には佳作落ちなどとうていありえないような渾身の一首が入っていた。自分で作ったんでなければ原稿用紙3枚くらい費やして絶賛の評を書きたいほどの名歌である。それほどに自負している。この歌をどこでデビューさせたらよいか、最高の舞台選びに迷っているくらいだ。俺は、自分のことをそれほど優れた歌人だとうぬぼれているわけではない。しかし、この大会の予選が通らないほどレベルの低い歌人だとも思ってないぞ。去年下読みした連中の名前はことごとくおぼえておるぞ。そのうちの誰に当たったか、実はだいたいのとこは絞れているのである。おおかた、K藤J郎の門下筋といったところだろう。こんなケツの穴の狭い連中が下読みとはいえ選者づらして人の歌を振り分けているのだ。恥を知れ。だから歌壇からは革新的であって派閥的でない、集団の呪縛とは無縁なすぐれた新人が出ることがなく、そうした機能を持つ新人賞も設けられないでいるのである。選歌するに当たっては、俺のようにフェアプレーに溢れた精神を持たなくてはいけない。俺は、たとえ自分をぼろくそに言うやつが作者であっても、作品がいいと思えば正当に評価する。少しは俺の爪の垢でも煎じて飲みやがれ。NHK短歌大会には二度と応募しない。

 「短歌新聞」4月号が届いたので読む。第一面に、花山多佳子「木香薔薇」(砂子屋書房)が斎藤茂吉文学賞を受賞したとの記事が載っている。おめでとうございます。この歌集は、とにかく面白い。短歌をやってない人が読んでも十分楽しめる歌集であり、もっともっと売れていいと思う。花山氏はインタビューの中で「茂吉が好きだ」とおっしゃっているが、なるほどなと思う。花山短歌のあのシニカルさは、茂吉の医学的不気味リアリズムに通じるところがある。僕にとって、花山氏とは、まったく不思議な感覚を持った、一種推し量りがたい感性の歌人である。さらに短歌新聞をめくると、今度は栗木京子「けむり水晶」が山本健吉文学賞を受賞したとある。栗木氏はいったい、短歌の賞をいくつもらっているのだ。この歌集はたしかに素晴らしいと思う。しかし、世に歌集というのは山ほど出ているはずだ。いかにすぐれた歌集といえども、同じ対象にばかり賞が集中するというのは、選考委員が藁の山の中から針を探す手間をまったくかけず、すでに評価のかたまったもんしか読んどらんからと違うか。また、結果発表の記事だけで、だれがどう選考したのかがさっぱりわからない。たとえば、いくつか候補にあがったうちのひとつ、というのなら落ちた歌集も列挙してほしい。それが読者サービスというものだ。小説の賞だったら当たり前のことである。歌壇は異常だ。また、雨宮雅子歌集「夏いくたびも」も紹介されている。雨宮氏は、僕が中学のとき恋した相手にそっくりである。雨宮氏の若いときのお顔は存じあげないが、たぶん見たらひと目で恋すると思う。僕は恋ばかりしていた。しかし、相聞歌はまったく作れない。くやしい。

 欲りて欲られず欲られて欲らず若き日の性の拙さ恋しかりけり 黒田英雄

 雨宮氏の写真を見るたびに、悔しい思いがつのる。また、岡井隆歌集「家常茶飯」の紹介も載っているが、吃驚したのは、なななななんと、第26歌集だということである。藤原龍一郎は「短歌極道」と呼ばれているが、じゃあ岡井をなんと呼べばいいのだ。岡井の、歌にかける情熱に、ただただ頭が下がる思いである。また、岡井は一冊ごとになんらかの新しい試みをしている。成功しているとは限らないが、その意欲には敬意を表する。僕は、自分の歌集は二冊で打ち止めようと思っている。第一歌集を三年以内に、第二歌集は六十になる前に、と思っている。歌集は二つで十分だ。岡井の執念は尊敬に値する。

      今日の6首

 煙草喫みゐしころのその人のくちびるを知らず初夏の旅する 栗木京子
 内部こそ神聖ならめ旧石器時代の洞もをみなのからだも
 自殺せし歌人(うたびと)の名を冠する賞ひとつもあらずパーティーにぎはふ
 『浮雲』の森雅之のもうをらぬこの世にIT富豪増えゆく
 横からの力に弱きわれなれば揺さぶつてみよ別れゆくまへ
 じんましん出(い)でたる下肢を純白のシーツに伸ばしわれは流木

 「けむり水晶」、年末年始はこれを読みながら年を越した。傑作歌集である。ただ、何首か凡歌を入れてほしかった。凡歌のないことが、この歌集の唯一の欠点である。
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:31| Comment(3) | TrackBack(0) | 日記

2007年04月09日

750 悔恨〜真の男らしさとは〜

 僕は、男っぽい男、などというものを信用していないが、ただ二人だけ、見た目も男らしいが中身も男らしいと痛感させてくれる男がいる。アメリカの劇作家兼俳優サム・シェパードと、高倉健だ。
 サム・シェパードは気骨のある劇作家である。まず、サム・シェパードというのは筆名だが、これはテレビドラマ「逃亡者」で、無実の殺人罪で逃亡を余儀なくされるリチャード・キンブル医師の実在のモデルで、冤罪のためあえなく死刑台の露と消えたサム・シェパード医師からとられている。彼の戯曲は、アメリカで信仰されている男性原理というものに強烈なメスを入れている。こんな作家は、ほかにはアメリカにいない。彼は、アメリカ社会が、常になにか大切な問題を切り捨てながら発展したことを主題にすえている。ピュ―リッツア賞を受賞した「埋められた子供」はそのテーマ中でも傑作と言えるだろう。芝居の最後に、「埋められた子供」のよれよれになった死体が知恵おくれの次男によって掘り出され、抱えられて登場するが、その子供の死体こそが、アメリカが隠蔽してきた国家の根っ子なのだと強烈に告発している。彼の芝居に出てくる男というのは、成瀬巳喜男じゃないがことごとくがマッチョ気取りで空威張りの口先男で、中身はがらんどうでたいていそこにはヤクか酒か暴力か、ろくなものが詰まっていない。アメリカにおいて絶対的なものとされる強力な父親像というものの正体を暴露することによって、アメリカという国家が実は脆弱で神経症的な存在であることを描いてみせる。
 僕は、かつて自分の劇団で、彼のアナーキーな初期の作品いくつか日本初演の舞台にかけた。そのなかの一つに、「4―Hクラブ」という作品がある。これは、ベトナム帰りの若者3人が、なぜかふきだまっている地下のごみためみたいなアパートで、くそまずいコーヒーを飲んだり、唐突に掃除を始めてよけい散らかしたりの無意味な行動をえんえんと繰り返す男3人だけのドラマである。彼らは、故郷からも社会からもはじき出され、帰属する場所のなにもない若者たちであり、その3人が煮つまったあげくの妄想ドラマであるとも言えるだろう。地下にはびこるネズミを虐殺しようとするシーンがある。僕は、ブルース・スプリングスティーンの「ネブラスカ」から数曲選曲してこの場面に流し、緊迫感を演出した。シェパードに言わせれば、「黒田くん。スプリングスティーンじゃメジャーすぎて逼塞感が出ないぜ」と笑われそうだが、日本ではそんなにメジャーではない。ので、あの選曲は成功だったと僕は自負している。この公演は一部で高い評価を得た。演劇雑誌の権威「テアトロ」の野村喬編集長は大絶賛し、無名の僕たちの舞台写真が大きなスペースででかでかと載り、野村氏の年間水準作の一本にも選ばれた。この作品は、たとえば市川崑「股旅」の出演トリオ萩原健一、尾藤イサオ、小倉一郎という配役でやっても面白いだろう。要するに、男性俳優の個性が出る芝居なのだ。僕はこのとき、天下を取ったと錯覚した。ボリュームアップして再演をした。客席はガラガラである。親友の助言を思い出す。「黒田よ。芝居はいいけどなあ、いまの時代には合わないよ。路線変更しろ」。時代は、俵万智の「サラダ記念日」に象徴されるバブリーな薄らバカ路線へと移行しつつあったのだ。憶えてるよ、このクソ歌集がブームになったときのことをね。またバブルのくだらんやつが出た、とツバを吐きたい気分だった。再演は大赤字、劇団解散の起因となり、私もぼろぼろとなって芝居から遠ざかった。ただ、僕の企画それ自体は決して間違っていなかったと今でも思っている。僕は、自分がトップになって演劇をやりたかった。トップになれないなら、去るだけである。
 サム・シェパード初期の戯曲においては、女性はどいつもこいつもパーのヒッピー女かなーんも考えてない色情狂ばかりで、ろくな女が出てこない。これじゃ女優はやりたがらないよな。俺、頼みこんで出てもらった女優全員からブーイングを受けたもん。ただ、彼はジェシカ・ラングという女優と出会い恋に落ち結婚し、女性の描きかたが一変した。内面のある知的な女性を描けるようになったのだ。「フール・フォア・ラブ」などその典型だろう。
 高倉健もそうである。彼が東京に出てきたのはそもそも、キャバレーの女に惚れて、彼女が上京したのを追っかけてきたという、およそ花田秀次郎とは似ても似つかない動機からであった。僕が言いたいのは、男らしさ、というのは常に女性によって補完され、培養されいくものなのだということだ。女性の強い影響の感じられない男が、男っぽさを謳ったところで、それは嘘である。女性の知性や野生を軽視し、いつまでも男同士で遊んでるようなホモソーシャルな閉鎖的男関係を男らしさと勘違いしてる奴が多いが、僕に言わせれば精神の皮かむりである。女性と向き合い、互いに影響され、多情多恨にのめりこんでこそ初めて「男の子」であることから脱皮できるのだ。いい年して「自分から好きになるのが怖い」なんてのが男にも女にもいるが、アホである。だから僕は、石原慎太郎などクソだと言っているのだ。三島由紀夫もそうかもしれないが、男っぽさを売り物にする小お心ものである。石原など、女性をクソババア呼ばわりして喜んでいるが、小学生が女の先生に言うのと同じ単なる幼児性である。こんなのに騙されて、男らしいと勘違いするのは女性たちではなく男連中であり、日本の男の大半は、精神が半ズボンはいたガキである。また、そう指摘しても、「俺って少年みたいな男?」と褒められていると勘違いするブサイクな中年が山ほどいるのだ。馬鹿め氏ね。
 僕らの舞台のため、サム・シェパードを翻訳してくれた大学教授の女性がいる。彼女は、「黒田さんは日本でいちばんシェパードの芝居が似合う男優さんです」と言ってくれた、言うなれば僕の理解者である。僕は結局、この人とも大喧嘩して袂を分かつことになってしまった。若気の至りである。牡羊座O型というのは、大島渚がその代表だが、うまくいっているときはいいが、一度決裂するとなにもかも駄目になる運命なのかもしれない。悔恨、その一号である。歌を作る人からは総スカンを受けそうだが、僕のなかには、歌を作ることには「命がけ」になれるほどの原動力がない。あくまでも、第二義的な、娯楽の領域のものでしかないのだ。やっぱり、体全体が熱くなるのは、芝居のことを話す時なのである。だから、「一握の砂」に感動したのかもしれない。短歌は、どこまでも、いつまでも、僕にとっては娯楽以上のものにはなれない文学なのだ。短歌の賞を獲ることににまったく興味がないのも、きっとそのせいだろう。
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:59| Comment(3) | TrackBack(0) | 日記

2007年04月08日

749 小心者

 モニターとはいえ、ダイワスカーレットのパドックが良く見えたので、しっかり18−14の裏目も押さえる。千円的中。悪くない配当。考えてみれば、皐月賞で上位人気で来るであろうアドマイヤオーラをダイワは子供扱いした馬なのだ。強いのは当たり前だよな。オークスも、彼女は有力。牝馬戦線で、二強というのは珍しい。ウオッカとダイワの戦いは、オークスでも炸裂するだろう。来週は皐月賞、各トライアルレースをじっくり見させてもらった。もう、ほぼ買う馬は決まっている。予想、乞御期待。ただ、雨は降らないでね。フェブラリーSみたいなことになっちゃうから。

 どうやら、都知事は石原慎太郎で決まりそうである。政治家は、言葉が商売だが、日本ほど、大失言が見過ごされている国もあるまい。慎太郎語録はすごいよ。このパソコンですら気をつかって一発変換してくれない「支那」を連発。「第三国人とかがおって」、オマエは大蔵貢の新東宝か。極めつけは、障害者のことを「あの人たちにも人格ってあるの?」だと。もう、先進国だったらこれだけで即日失脚である。日本人は、言葉の責任というものに無頓着だ。こういう男にまた、都知事をやらせるという。もっとも、対抗もひどかったけどね。石原は、バッシング記事をおそれて、今回自民党議員にぺこぺこ頭を下げまくったという。落選をおそれたのだ。確かに、文学者としてはとっくに過去の男だし、都知事という地位以外、この男にすがるものは何もあるまい。だから、なりふり構わず、この男にも似合わず頭を下げまくったのだろう。要するにこいつも、絵に描いたような小心ものなのだ。僕の経験上、男っぽさを標榜する奴のほぼ100%は小心ものである。なのに、選挙民は無神経と豪快さを完全に履き違えている。石原慎太郎なんかは、男っぽさを売り物にする無神経な小心ものの典型ではないか。真に男っぽいやつというのには、寡黙な人であると経験から言える。
 歌人でも、佐佐木幸綱は、その点において完全に馬脚を現したな。たぶん、センセイセンセイと呼ばれることに慣れきっていて、ちょっと批判されてだけで動転してしまったのだ。あのみっともない反論文を読んでみるがいい。いかに彼が批判に慣れてい