2007年05月31日

793 創(きず)

      創(きず)     黒田英雄

生キテヰルソレダケデ君ハスバラシイ鴉重たく枝を離れる

予定なきクリスマスの午後ういらうを撓めて遊ぶ無色のかうふく

鶯の来啼きて目覚める新宿の二・一一ま青なる空

病者にて汗をし恥ぢつ存問の君の唇受くる刹那に

すれちがふ紙石鹸のかをりのみ思ひ出として八(やつ)つの初恋(こひ)は

縦にあらず横に降りつけ濡らしくる京都の霧雨(あめ)の淫らなるかな

ゆきをんな喘ぎの汗に溶かしつつともに死なましゆめ来ざる冬

濁世なる塵尽きるまで寝ねがたく躰を火照らす総懺悔の夜

俺といふ世界の創(キズ)が膿むやうに射(だ)しても射しても果てぬ体液

をみなの汗腐(くた)りし桃の香のごとき匂ひ放てりつつしみぶかく

ローンレンジャー≠ゥのヒーローもひよつとしてローンを組みて牧場購ひしや

ネットにて啄木中也と大喧嘩なさむとわれの大いなる夢

キズツイタシニマスヤメマスウツタヘマス啄木読まば大欠伸せむ

墜ちてゆく恐怖を思ふ上を向き歩かうと唱ひし坂本九

どんとぽつちいどんとぽつちいとつぶやいて鎬を削る極道(やくざ)もあらむ

娘(こ)は母に息子は父に似るといふ父親(おや)知らずのわれに似るものはなし


 3首めと15首めは、結社誌掲載時に推敲をくわえたものです。3首めは、僕の花鳥風月の知識のなさにより、選者ならびに読者に多大な迷惑をおかけしました。心から恥じ入る気持ちで推敲いたしました。いま一度、読み返していただければ幸甚であります。
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:26| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

2007年05月30日

792 病犬(やまいぬ)

 なんのために生きている、と問われれば即座にこう答える。「風呂に入るためだ」。あの、湯船に身を浸けた瞬間の恍惚感。これにまさる快楽が他のなににあるというのかいやない(反語)。五月は温泉に行こうと思っていたが、くだらんトラブルが続出してかなわなかった。その私の疲れた体を癒してくれるのは、新宿にある十二社温泉だ。コーラのような真っ黒な湯で、嬉しいことに源泉が冷たく、そのままの浴槽がついている。僕は冷泉と沸かし湯と交互に入るのが大好きである。増富温泉がその代表格だが、新宿でこんな至福の湯に満たされるとは予想だにしなかった。ただ、最近スパなんとかとかと違って、風呂場に休憩所がついただけのシンプルきわまりないものなので人がいないがそれがかえって助かる。区は違うが、世田谷文学館と十二社温泉は、僕のヒーリングスポットである。
 その黒い湯に浸かりながら考えた。ああ、俺は石川啄木になりたいと。啄木の歌は、「詠み人知らず」としてもいいくらいの普遍性を持つという人もいる。誰もが思うことを、啄木が歌にしているという意味だろう。だが、僕が考える啄木の普遍性はちょっと違う。啄木の歌を構成しているのは、どこまでも彼の私性から立ち上がってきた言葉たちであり、普遍性を得たのはあくまでも結果である。啄木の歌に有名なのは多いが、僕はなぜか「わが泣くを少女らきかば/病犬の/月に吠ゆるに似たりといふらむ」が群を抜いて好きである。理屈をこねればこねられるが、あえてこねたいとは思わない。
 かつて、三井ゆき氏が僕の歌をこう評してくれたことがある。「素手での生存への賭けかたの意志を買いたい」。たまたま、前月載った僕の歌のうちの一首を取り上げてそう感じられたのであろうが、実は三井氏のこの言葉は、僕が短歌をやっていくうえでの、根源的なテーマを言い当てている。なのでものすごく嬉しかった。僕の歌はまさに私性まみれ、私なくして私の歌なく私の歌なくして私はないというくらい隅から隅まで私性である。黒田英雄作、とつけない限り一首として独立しえない作品たちかもしれない。しかし、その私性にまみれた歌のどこかに普遍性を持たせたいとも思っている。「私(わたくし)」を真摯に詠いあげることが、普遍性を獲得することへとつながってゆくと僕は信じる。啄木は、そのいい見本なのだ。彼の歌は、読者のセンチメンタリズムに訴える部分も確かにあるが、それはやはり結果であり、根底にあるのはまぎれもない彼自身の私性であり真情である。このへんが、普遍性があるように言われている「サラダ記念日」との決定的な違いである。俵万智女史のあの名高い歌集のなかの歌群はどこまでいっても一過性のものであり、「一握の砂」のような愛唱性を獲得することはないだろう。みなさん、「サラダ記念日」のなかの歌を、心かなしき折りにふれ、口の端にのぼらせようとするか?しないだろう。するわけがない。あれはバブルという軽薄な時代が生んだ消費材にすぎない。
 俺は、「一握の砂」という歌集にあくがれ、嫉妬羨望する。こんなにも、何度も何度も読んでも飽きない歌集を、この世に遺せた啄木の存在に切歯扼腕して歯軋りする。見事なシナリオであり、見事な自己劇化である。俺も基本的にこの線を歩むのである。俺の歌も「私性」にまみれているが、必ず普遍性を持つものと信じて作歌し続けていきたい。これは、私の嗜好のひとつを占めているプロレスの理念に通じるかもしれない。演劇もそうだが、演出や劇化を不可欠なものとしつつ、あくまで個人としての生き方が本質的に立ち上がってくる。そんな俗にして純粋きわまりないもの、畢竟それが短歌というものであろう。

      今日の一首
束の間の家族の微笑や夕波(なみ)湛ふアイスキャンディ溶けてこぼれき 黒田英雄
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2007年05月28日

791 ナゾ〜「拳銃0号」〜

 ダービーが終わってしら〜とした気分の中にいる。祭のあと、という感じ。勝ち負けには関係ない。それにしてもフサイチホウオーは、なんで馬場道に入ったところで突然暴れ出したのか。多分控え所で、ほかの馬に、「お前は紅一点のウオッカちゃんと、ダービー馬になってむふふ、とか思ってんだろうがよお、あの女サンデ―産駒じゃねえと見向きもしねえんだぜ」とか、あらぬ悪意の噂を馬語で囁かれたのかもしれない。いや、これはあながちたわごとでもないぜ。だって、ウオッカちゃん可愛いもん。馬萌えというのだなこれを。ひょっとしたら全オス馬がウオッカちゃんの後塵をぜひ拝したいという、中学生まるだしのスケベ根性に陥ったための今回の結果ではなかろうか。いや冗談ぬきでウオッカちゃんは本当に可愛い顔をしている。人がそう思うくらいだから同じ馬であるオス連中がが思ったってぜんぜん不思議じゃない。たとえば、僕に多大なる馬券をくれたアイリッシュダンス。彼女の勝利は純然たる実力だろう。言っては気の毒だが、彼女はいかにもイギリスとかアイルランドとかによくいる、実用一点張りの、ごつい一式の女であった。お世辞にも美人とか可愛いとかいうタイプではない。英国の女優でいえばジュディ・デンチか。お世辞にも、というかありていにいって美人ではないが実力でジュリエットでもクレオパトラでも演じる。ウオッカは強いが、その可愛さも勝利の一因であったと僕は勝手に憶測している。ところで、来週の安田記念でやっと上半期競馬が終わる。正直、馬券地獄から解放されるとほっとしている。じゃあ、それでやめたら?と言われるかもしれないがそうはいかない。登山家が、そこに山があるから登る、と言うように、馬券者も、そこにレースがあれば賭けてしまうのだ。ローテーション競馬に定めてから緊張感が凄い。なぜなら、賭け金が莫大だからだ。ああ、あと1レースで解放される。ああ嬉しい。これぞ自己矛盾。
 「男が夢中になれるのは遊びと危険だけである」。

 ところで、謎といえば、当ブログの後読みアクセス数の謎もある。以前、近藤芳美の歌集の感想を書いた日記の後読みのアクセス数が1000近くいってぞっとしたことがある。マジに、「なんか俺やばいこと書いたか?」と気にしたくらいだ。その理由はいまだに解らない。今月も不思議な後読み現象が起こっている。おととしの9月4日なんていうクソ古い日記bQ07の「『短歌人』9月号秀歌選・会員欄パート2」の後読みが異常に多いのだ。なんでやねん。理由はまったくわからない。読み返してみたが、いつもの普通の秀歌選でなにも特別なことは書いていない。なにかわたしの知らないところで、この日の日記のことが評判にでもなっているのだろうか。なんか知ってるかたがいたら教えていただきたい。気持ちがわるいよ。このブログを始めてそろそろ二年半になるが、数というのは本当に面白いと思う。その傾向によって、読者の好みの基準を知ったりもするが、また、このような不思議な現象も立ちあがってくるのだ。なお、この日記で僕になにかといえば批判されるかたもおられるが、それは名誉だと思っていただきたい。そうした記事はまず間違いなくアクセス数を集めるが、どうでもいい相手が批判対象の場合はがくんと落ちる。僕が批判し、アクセス数が伸びるということは、その人に対する世間の注目度の高さの証明である。よろしく世の歌人は、ぜひ黒田さんに批判していただきたいものと菓子折りの一つも持ってくるべきであろう。実際、このブログにおける俵万智、加藤治郎、穂村弘、斉藤斎藤の宣伝効果たるやあなどれないものがある、と堂々言おう。彼らをネタにするとまあアクセス数の伸びること伸びること。実力派歌人のあかしと言えよう。専門誌よ、俺に加藤治郎「環状線のモンスター」の評を書かせろや。原稿料は5000円で勘弁してやる。そこには、俺とまったく反対の意見が同じスペースででかでかと載ることをも希望する。タダで読もうと思うなよ。

      今日のMYビデオ
「拳銃0号」(昭和34年、日活、山崎徳次郎)宍戸錠、浜村純、安部徹、野呂圭介、待田京介、川地民夫、稲垣美穂子、赤木圭一郎、丘野美子、岡田真澄

 赤木圭一郎のデビュー作。当時のシスター(添えもの)映画の一本。しかしなんとも不思議なテイストを持っている。一丁の拳銃にまつわる人間のエピソードをオムニバス的に描いている。この手のタイプには藤田敏八「リボルバー」という傑作がある。もちろんテイストはまったく違うし、古いぶんこっちの映画ほうが落ちるが、その奇妙な味がくせになる映画である。何本かのエキストラ出演を経てこれが赤木のデビュー作である。それだけでもこの映画は貴重だろう。この映画のあと赤木は、石原裕次郎主演「清水の暴れん坊」に助演し一躍脚光を浴び、鈴木清順監督「素っ裸の年齢」で主演を飾ることになる。「拳銃0号」においては端役だが、やはりいい役者はオーラが違う。目立つのなんのって、出番は少ないのに輝きまくりである。加山雄三も、谷口千吉監督の傑作「男対男」でデビューしたが、有望な新人というのはデビュー作品からして恵まれているものだ。赤木も、初主演が鈴木清順監督というのが、彼に持って生まれたスターの輝きがあったことの証明なのだろう。
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2007年05月27日

790「妖刀物語花の吉原百人斬り」

 ウオッカには脱帽する。貴女がこんなに強かったなんて。私の見識不足でした。それにしても、ウオッカから流した人は地団太踏んでいるだろうな。アサクサキングス、こりゃあ買えないよね。ふざけた名前だ。浅草の場末の演芸場に出てる売れないコミックバンドみたいな名前じゃないか。福永は怖いなあ。3着アドマイヤオーラでくやしがってる人は大勢いると思う。それにしてもだ。フサイチホウオー、控え所から馬場道を抜けて競馬場に行くところがモニターに映った。その時はすでに馬券は購入済みである。しかるに、あの野郎、汗びっちょり垂らしながら首は振るは足は蹴りあげるはの大暴れである。やるんだったらパドックでやってくれ。このとき、ウインズにいたロクデナシ一同が「なんじゃこりゃあ!」松田優作と化し、そしてため息をついた。僕もすでに敗戦を覚悟した。まさに「聞いてないよ〜」状態である。なんか彼、気に入らないことでもあったのかよ。こんなに入れこんじゃ駄目、完全に負けである。ああ、馬は生き物(あたりまえか)だ。なんで突然暴れ始めるのだ!?それは馬だけが知っている。締め切ったあとで暴れるなんて、どうしようもないよ。案の定レースでは完全にひっかかり、惨敗。まだ、今年の馬券収支はプラスである。京都金杯の7020円本線大的中が貯金として残っている。しかしながら、今日の敗戦は痛い。大金が露と消えた。尻に火がついている、そんな状態である。ダービーはつい金を賭けちゃうんだよね。来週は安田記念。もう軸馬は決まっている。この馬が安田に出れば買おうと思っていた馬だ。たぶん7番人気あたりだろう。上半期最後のレース、負けを覚悟でこの馬と心中したいと思っている。

      今日のMYビデオ
「妖刀物語〜花の吉原百人斬り」(昭和35年東映京都、内田吐夢、脚本依田義賢、音楽中本敏生)片岡千恵蔵、水谷良重、三島雅夫、沢村貞子、木村功、片岡栄二郎、花柳小菊、原健策、山東昭子

 歌舞伎の「籠釣瓶花街酔醒」を元にした内田吐夢監督の力作。顔に痣のある田舎の大店の主人が、ひょんなことから吉原の花魁の手管にはまり、廓の主人の策略によって全財産を巻き上げられる。彼は初めて自分にやさしくしてくれた女である花魁に入れあげ、「太夫」とするために財産のすべてを注ぎ込む。しかし金の切れ目が縁の切れ目。商家は傾き、金がもう搾り取れないとわかったとたん、廓の主人夫婦はこう言い放つのだ。「この田舎の化け物が」。この映画はリアルだ。そもそも歌舞伎作品自体に実話のモデルがあるらしい。請求額が五十両から始まりそれが百両、二百両、三百両、五百両、千両千五百両とどんどん増えていくのだ。巻き上げる三島雅夫、沢村貞子コンビの芝居が最高。役者冥利につきる楽しさだったろう。また、女で地獄に落ちていく片岡千恵蔵の演技も絶品。そして、無機的な花魁水谷良重も同じく絶品。ラストは、男から巻き上げた金で太夫となった花魁が道中をやる。そこに、妖刀を持った片岡が怒り狂い乱入、片っ端から斬り殺していく。このシーンは何度見ても鳥肌が立つ。桜が舞い散り、三味線が乱打され、まさに様式美の世界である。片岡は、水谷を刺し殺し、叫び続ける。「遊郭の悪いやつは出て来い」。桜が容赦なくその上に舞い落ちる。凄く綺麗だ。内田吐夢の計算された演出がばっちり決まっている。この映画は、夕刊で読んだが、劇作家三谷幸喜が見たがっているそうだ。なんだかなあと思う。三谷ほどの高名な劇作家が、こうした映画を好きなだけ見られない。という日本の不幸に暗澹たる思いがする。なんで日本人が日本映画を観られないんだ。俺は、日本映画の通を自認しているが、それでも見られない名作が相当ある。ビデオで集めているが、それでも及ばない。この作品も、現代では映画化は無理だと思う。やはり、撮影所システムという力があったからこそなしえた企画だ。だいたい役者がいない。「華麗なる一族」のキムタクには失笑した。映画では仲代達矢のやった役である。雲泥の差である。
 俺は、女によって破滅する男というのがうらやましいと思う。女に貢ぎ、女によって破滅する男、最高ではないか。それだけいい女を見つけ破滅するのは自業自得、まさに男冥利につきる。この映画で、片岡千恵蔵が水谷良重を刺すときの台詞、「これでお前は俺の女房だ」が泣かせるではないか。恨みを、殺すことによって自らの生の昇華としているのだ。俺の、男の死に方の理想はかの阿部定事件で高名な吉田吉蔵である。ぜひ俺も定のような女とめぐりあってお願いしたいものだ。女に殺されるって、なんかカタルシスを感じるなあ。また、この映画のように女で破滅する男、というのにもカタルシスを感じる。俺なんか、大金をなくしたが実に下らん理由だ。ちょっと片岡千恵蔵が羨ましい気がする。まあしかし、俺もいつ妻に殺されるかわかったものではないが。短歌の世界でも、男と女のどろどろした情念を描いた歌を読みたいものだ。そういう意味で、この「妖刀物語〜花の吉原百人斬り」はたいへん貴重な映画である。
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

当たらん追記2

 やっぱり、サンツェッペリン、タスカータソルテを切って、フサイチの相手はアドマイヤオーラ、ナムラマース、ゴールデンダリアの三頭に絞ろうかな。そのほうがいさぎよい。かな。11−14−15の三連複も面白いな。どうしても俺のイメージは、大外から二頭突っ込んでくるような気がするのだ。馬単15−14を大本命にするかどうか、迷うところだ。いずれにせよ、岩田、藤岡両ジョッキーには頑張ってもらいたい。岩田はとんでもない奇策で臨むかもしれない。いわゆる自爆競馬だ。こいつ、先行するんじゃないかなあ。それしか、アドマイヤ、フサイチに勝つ手段はないだろう。胸ドキドキである。
ニックネーム 茶トラのみんく at 12:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

当たらん追記

 サンツェッペリンがやはり怖い。馬単15−12を追加。6枠二頭からは、穴の匂いがぷんぷん。要注意枠。裏目買いは、11−15しか買えないなあ。ナムラマース、一発やるんじゃないかと私は期待している。とにかくパドック。入れ込んでいてほしくはない。買い目は、レース直前まで迷いそうだ。
ニックネーム 茶トラのみんく at 09:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

790 過去9勝5敗・日本ダービー前日大予想

 日本ダービーは、GTレースの王道である。なぜか。それは、強い馬が実力通り勝つからだ。このレースにおける僕の成績がいいのは、理屈通りの競馬が通用するからだ。力のある馬が勝つ。じゃあ予想が簡単かと言えばそんなもんではない。どこに流せばいいかを考うるに、7点も8点も勝ってられないからだ。多くても4点か5点流しでおさえ、そこに大金をぶちこみ、ハラハラしながら見る、これがダービーの醍醐味である。軸はフサイチホウオー。理由を書く必要もないだろう。ここは相手を絞りたい。アンカツは、皐月賞みたいなアホな乗りかたはもうしないはずだ。たぶん、七、八番手追走と予想する。となれば、前半5ハロン60秒くらいのかなり厳しい流れが予想される。今度こそ皐月賞と違って、各馬早仕掛けの厳しいレースとなるだろう。
 まず、青葉賞組を消す。今年の青葉賞はレベルが低かった。前後半のラップを見ても、勝ちタイム2分26秒3、1着馬ヒラボクロイヤルの上がり34秒4というのも平凡。だらしない先行馬を差しただけの話だ。たぶんダービーは2分24秒台の決着と僕は見る。ヴィクトリー、サンツエッペリンの皐月賞1、2着馬も消す。ヴィクトリーをサニーブライアンにたとえる人がいるが、それは違うだろう。サニーが勝ったときの一番人気はメジロブライトだった。追い込み馬である。ゆえに、どうしても、ジョッキーは後ろばかりを気にしてしまう。サニーには実力もあったが、状況が味方したということも言えるはずだ。今回のフサイチホウオーは先行馬。当然、ジョッキーの心理は前へ、前へだ。よって、フサイチより前で競馬をする馬は潰れる、と予想するのが当然だろう。ウオッカ、これはもうはっきり消します。なんで彼女がダービーに来たのか、僕には理解できない。無理だって。たぶん陣営は、オークス使えばよかったなあと悔やんでいるはずだ。ではフサイチの相手はどの馬か。それを私がお教えしよう。
 ずばり3頭+1である。まず、アドマイヤオーラ。昨日も書いた通り武から岩田に乗りかわった。ひょっとしたら岩田は、場合によっては、フサイチよりも前で競馬をするかもしれない。イチかバチかの賭けである。確かに、ダービーより皐月賞のほうに勝機のあった馬ではあるが、いま府中の芝は最高。14ゲートというのもいい。フサイチとアドマイヤの、大外のワンツーフィニッシュという結果であってなんの不思議もない。それだけの実力ある馬だ。次にゴールデンダリア。前走プリンシパルステークスのタイムが素晴らしい。強い相手と戦ってないうんぬん、と言われているが関係ないだろう。フサイチより前で競馬する馬で可能性があるのは彼だ。この馬は、上がり33・5秒台を叩き出す可能性さえある。そしてもう一頭、ナムラマース。皐月賞の結果は度外視していい。この馬こそ府中ぴったしカンカン(←死語)。11番ゲートも理想的。かつて、のちのオークス馬ローブデコルテを子供扱いし、体調絶不調だったNIKKEI杯で不利を受けながらもフサイチホウオーから0.3秒差の3着。かなり実力のある馬だ。だいたい、チーフベアハート系産駒というのは、ムラっ気のあるのが多い。前走の皐月賞は、レースがゴチャついてやる気をなくしたんだろう。調教もいい。広々とした府中で、この馬も大外を気持ちよく走ってくると考えられる。そしてプラス1は、タスカータソルテ。これは心情馬券。武豊に一票入れたいがゆえだ。またこの馬も決して弱くはない。府中で一変、ということも考えられる。
 前日予想結論。馬単本線15−14。準本線、15−11、15−4。押さえ、15−1。裏目押さえ、14−15、11−15、4−15。
 去年は、メイショウサムソン・アドマイヤメインの馬連大本線1120円を的中させた。まさに、大興奮であった。グレタ・ガルボとセクスする以上の大興奮であった。もうあれから一年か。競馬やってると一年というのはあっという間である。明日も、勝利の大興奮を味わいたいものだ。皆さんがんばりませう。
 フサイチホウオー、1着自信度60・5%。
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:20| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

2007年05月25日

789 俺は武豊を支持する〜清水成駿はいいかげんな野郎だ

 来ましたね、今年も日本ダービー。僕は、ダービーと天皇賞秋にはとくに燃える。このふたつのレースが終わると虚脱状態になるくらいだ。この世には、俺にとってお祭と言えるようなイベントがほとんどない。だから、その数すくないお祭である競馬はやめられないのだ。的中させる喜びはどのレースも同じとはいえ、とくにこの二大レースを的中させたときの陶酔感たるや、グレタ・ガルボとセクスするより気持ちがいいのである。この喜びは、わかる人にしかわからんだろうなあ。
 ところで、不快な乗り変わりがあった。皐月賞で私が本命にし、4着に終わったアドマイヤオーラが、なぜ武豊から岩田に乗り変わられねばならんのか。雑誌数誌で取り上げられていたが、厩舎関係者が、武の皐月賞の騎乗に激怒したという。「最強の競馬」でも、清水成駿がぼろくそに言っていた。だが、お前らそれはないだろう。俺は、皐月賞でアドマイヤオーラを本命にして負けた。しかし、武の騎乗それ自体に、責められるべき点はなかったと思っている。このレースを狂わせた責任は、すべてフサイチホウオーに乗ったアンカツにある。当然先行すると読んでいたフサイチは、なんと十二番手に押さえられての追走であった。必然的に、武はフサイチをマークしさらに後方につけざるを得ない。武自身もびっくらこいただろう。まさか目の前を走られるとは思わなかったはずだ。フサイチが仕掛けない限りアドマイヤも行くわけにいかない。あたりまえではないか。同じ33秒9の上がりタイムがこの二頭のフィニッシュである。3着4着に終わったのは結果であって、武はセオリーにのっとった好走をしたのだと僕は言いたい。アンカツが、もっと前に位置取りをしていれば結果は違っていたはずであり、まんまとビクトリーを逃げ勝ちにはさせなかったはずである。たとえば、武がフサイチより前で競馬をやって負けていたとすれば、それはそれでぼろくそに言われるだろう。要するに、清水成駿をはじめとして、皐月賞での武を非難する連中は結果論だけを言っているのだ。清水もいい加減な野郎だ。後からだったらなんだって言えるんだよこの野郎。だから、アドマイヤオーラの乗り変わりが僕は納得できない。あの皐月賞の責任のすべてはアンカツにあるのだ。そのアンカツは依然としてフサイチ騎乗なのに、なんで武が乗り変わらなくちゃいかんのだ。
 オヤジどもにはなぜか人気がないが、僕は武豊というジョッキーが大好きである。彼に賭けて、勝ったこともあるし負けたこともある。しかし、武の騎乗は、負けたとしてもつねに納得のいくものであった。河内と違って(この野郎金返せ)。武に関しては、金返せなんて思ったことは一度もない。彼はレースの読みが的確である。皐月賞でフサイチのあとを追ったのも、ハイペースとふんだからだ。4着に終わったのは不可抗力である。僕が武を好きな理由のひとつは、その鼻っ柱の強さである。パドックの客から「武ー!!金返せー!!」と野次られたとき、「オマエに金借りた覚えはない!」と返したなど、うれしくなるエピソードである。武に関していやな噂を最近目にした。とある週刊誌の記事で、武が今年GT勝利が少ないのは、競馬記者によるイジワルでいい馬に乗れてないせいであるという噂である。確かに武というのは、競馬記者にへこへこするような男ではあるまい。武と逆なのが岡部であった。彼のパブリックイメージはクールで寡黙な勝負師、というものであったがそれは大嘘で、実像は口の軽いぺらぺらしゃべるただのおっさんである。私は知っている。武は違うだろう。とても、無教養でずうずうしい馬ブンヤにお愛想をふりまくような男ではない。プライドが高い。僕はそういう男が大好きである。昔、朝から夕方まで全レース、なんてバカなことをやってたころ、最終レースで、人気薄の武豊騎乗の馬でいくら儲けさせていただいたことか。彼は天才ジョッキーだ。アドマイヤオーラにも、ダービーは武の騎乗でもう一度フサイチと対決してほしかった。何度も言うが、俺は武に賭けて、負けたこともあるが、一度も金返せと言いたくなるような騎乗はなかった。何度も言うが、河内のマイルCSのときのとはえらい違いである。武の騎乗は的確で納得のいくものである。だから今回の乗り変わりには、私はまったく納得できない。清水成駿もC調な野郎だ。結局、目先の小金にしか興味のないバカなオケラ連中に媚びているだけである。カッコつけんじゃねえぞてめえコラ。文句あんなら言ってこい。まさか読んでないとは思うが密告したい人はどんどんやって下さい。俺は清水と大喧嘩する用意がある。
 てなわけで、明日はお待ちかねのダービー予想である。柴田氏からコメント欄で、私の当たらない競馬予想など誰も読まないと指摘を受けた。しかし私は、今年は4勝6敗。競馬の的中率としては相当なハイレベルである。そして、なぜか競馬のこと書いた日のアクセス、多いんですよねへへへへへ。みんながみんな、柴田さんと同じ意見とは限りませんよ。
 では明日、私の渾身のダービー予想をお楽しみに。
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2007年05月24日

788 賞コジキ〜末期的症状〜

 愚妻が昨日、なにやらぎゃあぎゃあわめきながら帰ってきてそのへんのものを壊しているのでなにがあったかと思ったら、「短歌研究新人賞」の応募用紙を入手するべく昨日発売の最新号を紀伊国屋に買いに行ったら用紙が掲載されてない。短歌研究社に電話したら「締め切りは5月1日です」とぬかされたそうだ。ところが、今日改めて確かめたら、5月1日ではなく6月1日で、向こうの言い間違いだったらしい。しかしながら、今月号に用紙が掲載されていないのは事実である。この雑誌、もうやる気ないんじゃないのか。だってそうだろう。およそ文学の賞というのはぎりぎりまで作りこんで送付するという人が多いはずだ。しかるに、その締め切り月の発売号に、肝心の応募用紙が載ってない。まだ締め切りまで一週間以上あるのにだ。これは、要するにやる気がないということの証しではないのか。また、バイトかなんかしらんが締め切りを間違って伝えるなんぞ末期的症状である。それより何よりだ。俺は愚妻に言ってやった。「オマエ、毎年毎年、たいした新人が受賞するわけでもないのに、そんなにあの賞が欲しいのか」。愚妻は身もだえし壁をひきむしって、「欲しいの欲しいの、あたし欲しいんですううううううううううんん♪」とわめく。俺は呆れかえったね。およそ短歌の賞なんぞ欲しいと思ったことは一度もない。お祭りに参加する、くらいの気持ちで短歌研究に三回応募したことがあるのみで、それからは一切やめている。あほらしいからである。去年の野口あや子の受賞作を読めよ。あれで、あの賞をシリアスに考えられる歌人がいるとは到底思えない。もっとも野口は受賞後の第一作でその実力のほどを示したが、賞狙いのカマトトぶった作品が狙いあやまたず受賞するということ自体に、この賞そのものの権威の失墜を見る思いである。死んだふりして受賞してなにが嬉しいんだ。八木博信を見ろやっぱり死んだふりして受賞しくさって鬼畜のくせに。選考委員には、本当に革新的な新人を発掘したいという気持ちがあるのか。ねえんだろうがお前ら。持ち回りで賞の互助会をやっとるだけと違うのか。違うというなら言ってみろ。受賞してしかるべき歌人は応募者の中にたくさんいた。春畑茜などはその代表だろう。しかるに、あの年の受賞作たるや。いまだにうっかり読んでへどが出る。春畑氏は、もう応募自体やめたという。当たり前である。あほらしくてやっとれんのだろう。短歌研究新人賞も、歌葉みたいに、このままいくと常連ばっかりで新鮮さをどんどんなくしていき、潰れてしまうのがオチであろう。この賞には抜本的改革が必要である。締め切り月に応募用紙を載せないというやる気のなさは、もはや無残であり、実質的に賞自体が形骸化しているのであろう。しょくん、今年の短歌研究新人賞は狙い目だよ。思いっきりカマトトぶったヌルーい連作を出せば、審査員に受けて見事栄冠に輝くかもわからん。しかし、本当に情けない賞に成り下ったものである。中井英夫が地下で号泣しておることだろう。まず編集長を変えるべきだ。そして、この雑誌の灰色で面白みのないレイアウトを一新するべきだ。ここの新人賞の、あらかじめ知らされないわりには毎年同じな選考委員よりも、俺のほうがよほどいい新人を発掘する自信がある。これは真面目に言っている。じゃあお前やれと言われたら大喜びで引き受けてやるが下読みはしていただく。O井氏やS木氏にである。ここまで俺が激怒しているのは、この雑誌のやる気のなさに、隠そうという意思すら見られないからだ。われと思わんかたはぜひヌルイ作品で受賞してください。僕がボロクソに言ってさしあげよう。それにしても、お前らなあ、そんなに賞が欲しいか!?うちの愚妻なんぞ賞コジキで角川へも応募する気でいやがる。俺、ほんとに短歌の賞って興味ねえ。ほしいと思ったことは一度もないのである。短歌とは、賞を狙って書くような、そんな文学ではない。
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:24| Comment(4) | TrackBack(0) | 日記

2007年05月22日

787 こなごなの時間〜女流歌人の恐さ〜

 歌は、圧縮されたドラマである。読んで脊椎反射で飛び出してくるような感想は感想ではない。だから僕は、読んですぐコメントすることを強いられる「歌会」なんぞ信用しないのだ。当日記の名歌選コメントは熟考を重ねたすえのものである。速攻のコメント上手がプロの歌人のあかし、というわけではあるまい。

ひとり居のきらいな人とこなごなの時間のなかに鶴を折り合う 山下 泉

 山下さんの作風は、基本的に僕の好みとはいいがたい。が、いつも惹きつけられてしまう。それは抽象詠の影響を色濃く持っているが、そこに具体がしっかり描かれていて魅力的である。そのへんが、二流三流どころの、自己陶酔の抽象歌人とは違うところだ。
 この歌をいったいどう読むべきか。世の中には、捨てられるという恐怖感が強いあまりに知り合う人を片っ端から束縛しようとし、結果さらに孤独になるという人がいるそうである(週刊誌とかで読む限り)。そしてコマーシャルとかでは、「ワガママを許してくれるアナタが好き」だとか「俺にしか言えないワガママを言って」とか、そういう調子の嘘八百の気色のわるい文句が横溢している(ように見える)。そういう人間は、夜中にいきなり恋人や友人に電話をかけて「今すぐ来て来ないと死ぬ」などとわめくそうであり、またカウンセラーとかああいうのが「自分に正直でいなさい」などとアドバイスするからさらに始末に負えない。本当はそういうのが手首を切ろうが首を吊ろうが放っておくべきなのだが、優しい人というのはいるものでいちいち駆けつけたりするそうである。この歌の、「ひとり居のきらいな人」と「こなごなの時間」というフレーズからそれに類した狂気を僕は感じる。そんな自分大事な人間と会ったところで話すことなどありはしないのだ。ただ、相手が首を吊らないように、むなしい時間をいっしょに鶴など折ってつぶすだけ。「ひとり居のきらいな人」というだけで、大人としては壊れてしまっていることを暗示していてホラー的戦慄がある。そして、「鶴を折る」という、平和やお見舞いのイメージのある動作がさらに、狂女(男性かもしれないが)の妄念を際立たせる。山下泉という歌人はかなり醒めた人ではなかろうか。かつて時評で僕を非難した論調はありていに言ってつまらなかったが、その歌を見る限り、複雑でいて醒めきったところのある、怖い歌人である。そういう人に名指しで批判されたのは、たいへん名誉なことだったと今では思っている。

向かい合う食事は苦手 スプーンの窪みに映るやさしき銀河 夏目 空

 この歌人もたいへんな実力者である。それは歌を読めば一発でわかる。また、彼女(まず間違いなく女性だろう)も基本的に僕の好きな作風ではないが、しかし惹きつけられる。向かい合う食事、たしかにしんどい。この歌の秀逸な点は、その気まずい時間の中で、スプーンの窪みという小空間に宇宙を見出すという、そのスケールの大きな逃避であろう。おそらく、作者が食事に気まずさを感じているのは、相手に好意を持つがゆえの自意識のなせるわざだろう。結句が素晴らしい。だいたい、スプーンの窪みの丸っこさに球体のもつ世界性を見出すような人間に、会食というものが苦痛でないわけはない。どんなに惚れた相手であろうとも。むしろ作中主体は、具体的な恋人という実在を離れて、銀色のプラネタリウムの世界でありえない霊的会話をしたいと望んでいるのではないか。こういう女性(しつこく言うがたぶん女性だろう)に惚れたら大変である。男は、彼女が自分を好きなのは確かなのに、いつもどこか遠くにいるような感じを持ち続けることだろう。いつか男は知ってしまう、オレが地球人である限り駄目なのだ、と。あなたが悪いんじゃないと言いつつ彼女はスプーンを覗きこみ続ける。俺はこういう女と苦労ができるだろうか。たぶん駄目だろう。怖い歌人だ。

かすかなる鈴打つ音を二度聞きぬ空耳ならず確かなる音 河合貞子

 河合氏は、過日逝去されたそうである。おそらく、これが氏の遺作であろう。鈴打つ音、を僕は異界の音、もっと言えばずばりあの世から響いてくる音であると取る。しかし、そこに描かれる冥界のイメージのなんとはかなく芒洋としていることか。かすかなる鈴、で思い浮かぶのは深い霧のたちこめる世界である。神社のでかい鈴は神に自分の来訪を知らしめる意味があるというが、あんなやかましいのはむしろ日本人のかそけき心性とは別物だろう。霧のかなたからしゃりしゃり、というかすかな響きをもって現れて、その姿もよく判別できないまままた霧に飲みこまれてゆく。そのときにはすでに、自分もその列の一人となっている。死後の世界は、光に満たされていたり仏様が集団で迎えに来たり、と派手なイメージで描かれることも多いが、案外かなりの人が(日本人だけではないと思う)静かな列のなかに静かに溶けこんでいく、という情景を末期には描くのではなかろうか。かつて疫病患者には鈴がつけられたという。道ゆく人がそれを避けるためだが、逆にそのことが、鈴もつ者の特権性を際立たせはしないだろうか。我々は皆、いつかは彼方からやってくる鈴もつ者の音を確かなものとして聞かなければならないのだ。その気持ちを生前歌に残すことができた河合氏は、この絶唱をもって僕に末永く記憶されるだろう。

 今回は、私の守備範囲にない歌ばかり選んで疲れた。最後に一首、その中でも大好きな歌を取り上げたい。

蟲眼鏡用いて地図の中にいるこいつとこいつこいつを焦がす 相原かろ

 この作者は、「塔」よりもむしろ「短歌人」のほうが合っているかもしれない。しかし、「短歌人」だったら目立たない歌かも。「塔」だから際立つのである。こういう新人は大缶芸。歌は読んで字の通りである。虫眼鏡で、憎い相手の住んでいる地域を焼いててめえこのやろうざま見やがれ、死ね死ね死ねげひひひひひとほくそえんでいるのである。この直截性がすばらしい。僕は、短歌とはもともとこういう物だと思っている。短詩形で、恨みつらみを垂れ流す文学なのだ。この作者の肉体感覚もいい。僕の好みである。先月号の「小便を仲立ちにしていま俺は便器の水とつながっている」。不潔きわまりない歌だが、短歌らしいというのは、こういうのを言うのである。今、短歌は直截性を失って浮遊している。今こそ、見たまま感じたままの便器と小便のごとき直接性を取り戻すときである。女子供に受けたって、しょうがないのである。
とはいえ、山下泉や夏目空みたいな作品にも強烈に惹かれる。ただ、こんな感性の鋭い感じやすい女性とは俺は怖くて付き合えない。なにをネタにされるかわかったもんではない。この二人の女性歌人は要注意である。
ニックネーム 茶トラのみんく at 21:53| Comment(8) | TrackBack(0) | 日記

2007年05月21日

786 「塔」5月号・陽の当たらない名歌選

 結社のイメージ、というのは不思議なものである。たとえば「塔」には優秀な男性歌人も多くいるが、女性歌人の宝庫、という印象が強いと思うのは私だけではあるまい。劇団でいえば文学座か。あそこも女優の劇団という定評がある。もちろん、男優陣もそうそうたるものであるが、どうしても女優を見せる劇団という印象が強い。「塔」もそれとよく似ている。河野裕子の存在の大きさは、杉村春子に匹敵する。河野は、一歩間違えれば女優の道を選んだいたかもしれず、それでも十分に大成したことであろう。だってあの人の存在感とオーラはまさに舞台女優のそれである。逆に、「短歌人」や「未来」のイメージは男性的である。これも不思議だ。結社の持つ伝統というか雰囲気というか社風というか、そういうのは一度確立されると血液型のように代えのきかないものになってゆく。
 てなわけで、今月の名歌選、ほとんど女性の歌ばかりになってしまった。別に意図したわけではなく、結果としてこうなってしまったのである。「塔」=女流歌人の宝庫、という私のイメージは、ますますゆるぎないものとなっていく。
 今月の赤丸歌、池本欄作品1、169首。花山欄、146首。栗木欄、144首。真中欄、191首。吉川欄、120首。澤辺欄若葉集、111首。計881首。

      「塔」五月号 陽の当たらない名歌選。

かすかなる鈴打つ音を二度聞きぬ空耳ならず確かなる音 河合貞子
向かい合う食事は苦手 スプーンの窪みに映るやさしき銀河 夏目 空
ひとり居のきらいな人とこなごなの時間のなかに鶴を折り合う 山下 泉

渡良瀬川渡れば桐生旅びとは昭和色しためがねをかける 干田智子
〈月のしずく〉永らく和菓子と思いいし二人で行くホテルだなんてまあ 小島美智子
わが歌を信じぬ塔の歌人らよ撃ち合う音がそこでしている 滝 友梨香
初句七音を五音のリズムでよめという村木道彦喫煙やめず 村松建彦
マスクして背中丸めて現れしこの男もはや敵にはあらず 深尾和彦
眼鏡から眼鏡へ映りゆくひかり眼鏡の人ら気づかずつむる 澤村斉美
川はつねに私の前であたらしい 過ぎゆく人をふりかへらない 澤村斉美
琴欧州が回しを締めて四股を踏むほかの職業なかつたのだらうか 浜崎純江
出征で別れた女性を「あの方」と呼んで思い出ぽつぽつ語る かがみゆみ
犬はいい、擦れ違ふたびに気に入らぬ奴に吠えてはすぐもとに戻る 工藤博子
わたくしという虫けらが飲み始む くもりの朝のぬるきビールを 白伊沙和子
宿酔いの苦しみくらいで償える私の罪の軽さを嗤う 水島 修
声たてて泣かざりし母の押入の母の羽毛布団に黴は生えたり 村田弘子
フルタイムドローのような毎日を過ごしていますつらい日々です 西之原正明
十年経てば俺の凄さが解ると言う 火にかざす手を忙(せわ)しく擦りつつ 保村たまき
かつて我に椅子振り上げし青年の、いや少年の能面の怒り 小川和恵
簡単に泣ける体力ジャージーの袖を引っ張り引っ張り鼻拭く子ども 芦田美香
眼鏡変えてぐっと上がりし男ぶり山咲荘の二階のひとり者 井上政枝
円居といふ死語に句点を打つ如し電子レンヂのその終止音 久保茂樹
紙芝居読み聞かせゐるわが顔を必ずひとりは下より覗く 安藤純代
蟲眼鏡用いて地図の中にいるこいつとこいつこいつを焦がす 相原かろ
不幸なのがいやなのではなく不幸だと思われるのがいやだと泣いた 飯村みすず
校庭の隅なる欅ひっそりと 知るや彼の日のリレーアンカー 今田龍郎
畑(はた)の辺(へ)より摘み来し野蒜も具のひとつチキンラーメンに春の香の立つ 大地たかこ
凧の糸切れてそのあと追いかける二人と一匹海辺を走る 原 ゆきこ
あの人の機嫌が良くても悪くてもラークの空箱ねじられており 黒沢弘子
しあはせかどうかを聞くなゴミ箱の底へとゴミを押しこみながら 常盤義昌

 以上、厳選30首。ほかの誰でもない、私が選ぶ歌、それこそが名歌なのだ。
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:31| Comment(3) | TrackBack(0) | 日記

2007年05月20日

785 新宿区の心地よさ

 なんぢゃこりは。結局、本命サイドで決まったが、決して簡単な馬券ではない。このオークスはやるべきレースではなかったと、そういうことだ。ザレマは、やはり大外がきつかったなあ。馬群の中で、じっと我慢し足を溜めたかったろう。外枠なだけに、かぶさってくれる馬がおらず、好位置キープするため足を使ったのでずっと引っかかっていた。武豊に賭けて負けることもあるが、彼の騎乗それ自体にはいつも支障がない。これはしょうがない。河内とはえらい違いだ(京都マイルCのあいつの騎乗にはいまだに腹がたつ)。やはり、520キロを超える大女がオークスを制するなんてことはありえなかった。長距離で来るのは、だいたい450キロ前後の馬なんだよね。まあしょうがないさ。俺にはまだ、ダービーがある。まだまだ、今年の馬券収支はプラスじゃけんね。とは言え、ダイワスカーレット、出てきてほしかった〜〜〜。たぶんダイワとベッラレイアで決まりだっただろう。馬連350円くらいついただろう。そこにぶち込みたかった。350円というのは、掛け金が3.5倍になるということだ。考えてみればすごい馬券だ。ちょっと私の競馬の運が、微妙にズレ始めているのかもしれない。今日はとっとと寝よう。

 ある新聞記事で読んだが、都内で住みたい区、の最低ランキングは新宿らしい。つまり、もっとも住みたくない区だということだ。歌舞伎町のイメージが強いからだろう。しかしみなさん、それはとんでもない偏見ですよ。私の今住んでいるところは、歌舞伎町に行こうと思えば歩いて5分で行ける。しかしだね、そういう場所に、ウグイスが鳴くなんて諸君考えられるか。この2月、朝はウグイスの鳴き声でうるさいくらいだった。新宿とはそういう町なのだ。猥雑で、雑多な人種がたむろしている、その反面、ウグイスが鳴く森や林がちゃんと残されているのだ。実際僕は、練馬区中野区と流れ歩いたが、新宿区がいちばん住み心地がよく便利である。よく言う、「下町的ぬくもり」などという例のやつ、僕は大嫌いである。要するに排他的で、自分らに合わせない者を排斥しているだけだ。江戸川区とか台東区とか、住みたくもない。面白いのは、いちばん犯罪率が高いのが、高級住宅地と言われる世田谷区であることだ。その点新宿区なんていいじゃねえか。酔っ払いはケンカしてるしホストは充満してるし日本語がめったに通じないし素晴らしい街である。俺の使ってる大江戸線なんて、夜10時を過ぎたら駅のホームは外国人だらけである。それが心地よい。汚い日本語を、仕事帰りの疲れた耳で聞いたらよけいぐったりするだけである。僕は、新宿に思い出も、なんの思い入れもないが、ただ、この猥雑さが非常に心地よい街だと思う。渋谷の、作りものめいたゲスな雰囲気とはまるで違う、猥雑さそのものに歴史を感じる。実際、うちのそばの神社は永井荷風の小説にも出てくるし、近場に島崎藤村の下宿跡もある。西口には赤線、東口には青線と、文学的要素も揃っている。また、大江戸線がいい。なぜかいうとお客が少なくて空いてるからだ(笑)。競馬で負けた日などはそれが助かる。はずれ馬券を抱きながら丸の内線や山の手線のぎゅう詰めで帰路につくというのはあまりに悲惨である。実際、後楽園のウインズからぞろぞろ引き上げるオケラの大群はJRか丸の内線に吸い込まれてゆき、敗戦の身を満員電車のなかでもまれて帰ってゆくのだ。俺は幸せ者だと思った。すいた大江戸線でじっくり反省できるのだから。みなさん住むなら大江戸線沿線の新宿区にしましょう。だいたい、世田谷に住みたいだ、田園調布に住みたいだ、さもなくば下町情緒にひたりたいだ、そんなのは田舎者の発想である。僕の終(つい)の住みかはおそらく、ここ新宿区であろう。縁もゆかりもない土地で朽ち果てるというのが文学的でよいではないか。郷里でだけは死にたくない。都会のなかの孤独死、これがいちばんである。それが二十一世紀の死にかたなのだ。私も今後、思いつけば新宿の歌を作っていきたいと思う。
ニックネーム 茶トラのみんく at 21:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

追記

 ザレマからの馬連の配当がけっこうつく。こうなったら1−18も押さえるか。6枠5枠からの枠連もつくなあ。迷うところだ。
ニックネーム 茶トラのみんく at 10:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2007年05月19日

784 得をする馬損をする馬・オークス前日予想

 今回のオークスの予想の原点は、ダイワスカーレット回避によって、「得した馬」「損した馬」をまず考えることだろう。「損した馬」はもちろん、差し馬・追い込み馬だ。ダイワが出れば、ペースは平均よりやや上の厳しい展開になったと思う。当然、フローラS組のベッラレイア、ミンティエアーが対抗として考えられ、単純に先行・差しのワンツーフィニッシュというイメージが湧いたのだ。ところがダイワが出ない。これで一番「得をする馬」を考えてみれば、同じ先行馬の大外18番ザレマであろう。彼女にとってはレースはやりやすいはずだ。なにせ、同じく先行する有力馬ダイワがいないのである。この馬は、ハイペースであろうとスローであろうと折り合う。ある意味安定した先行馬だ。そして今、状態は絶好のもよう。大外が不利だが、どっちにせよ超スローペースだから、好位置をすぐにキープできるだろう。ただ、彼女にも不安材料はある。馬体重が前レース、528キロもある大女なのだ。かつてオークスでこんなデカ女が連対したことがあっただろうか。僕の知る限り記憶にない。ただ、ダンスインザダーク産駒だから長距離向きではあると思う。明日は絞って出てきてほしいね。マイナス10以上絞ってほしい。
 これは僕の勘だが、枠で言えば、6枠二頭が非常に怖い。理屈はつくが、ほとんど勘である。同じく枠の穴として2枠二頭。これも穴っぽい。結論としてはザレマから行くが、彼女のパドックがいまいちだったら、枠連で勝負するかもわからない。6枠を軸とした、7枠をのぞいた7点買いである。6枠2枠は怖いよ。追い込み馬ベッラレイア、パドック注。この馬は前走、ぎりぎりの馬体で出走している。今回もし、さらに減っていれば赤信号だと僕は断言する。この馬が本当に強いかどうかは、このオークスで分かるだろう。ただ、展開は向かないな。届かず3着ということもありえる。
 前日予想結論。案その1。馬連12−18、11−18、10−18、8−18、7−18、5−18、4−18、3−18、2−18、プラス枠連2−6。案その2。枠連、1−6、2−6、3−6、4−6、5−6、6−6、プラス馬連11−18、12−18。以上二案である。これは、ザレマのパドック次第。パドックで、この馬はおかしいと思えば僕は枠連で勝負する。ザレマはとにかく、ダイエットしてきて望んでほしい。もちろん、入れ込んでる馬など即切る。とにかく6枠は怖いよ。なんか、どっちか一頭、軸に絡みそうな予感がしてならない。そして穴は2枠二頭だろう。ハロースピード、マイネルーチェ、大化けがあってもおかしくないな。いずれにせよ、超難解なレース。配当もバラついているぶんつかない。回避すれば話は簡単だが、やはり競馬をやりたくてうずうずしているのでそうもできない。武豊、今年冴えないけど、このレースでは勝てるのではないかという予感もするのであるが………。
 ザレマ連対自信度35%。
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:42| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

2007年05月18日

783 オークスを的中る奴はててて天才や

 昨日の続きだが、オークスが大変難しい。これはある意味、東大の入試より難しいかもしれない。いやいやむしろ、宝くじ的難しさである。こんなことなら、最初っから荒れるとふんでいたヴィクトリアマイル、ほんとにやればよかったと悔やんでいる(しつこい)。俺は、確勝を求め、ヴィクトリアを蹴ってオークスへのローテーションを組んだのだ。ダイワスカーレット、出走していれば単勝160円台くらいのダントツの一番人気だったろう。彼女は先行馬だから、当然ペースは厳しい流れが予想できた。だから、相手は簡単に追い込み馬ベツラレイア、差し馬ミンティエアーの馬連二点でほぼオッケーだったと思う。ところが、ダイワが出走を回避したために、ペースはチョウチョが追い抜くほどの蝶もとい超スローペースになるだろう。そうなれば、ベッラレイアにとっては不利である。前走フローラステークスでの一着は、不利があったなかでの勝利で強い馬だという印象があるだろうが、時計的にはたいしたことはない。上がり34秒3というのも速いというほどではない。とすれば、先行馬鞍上武豊のザレマも面白いとは思ったが、なんと、枠順が大外にきてしまった。この大女(520キロ)には、完全な不利である。とにかく、超難度Aクラスのレース、ダイワが回避だなんて聞いてないよ〜〜〜。正直ギブアップ状態だが、やらざるを得ない。
 今日の日記はここまで。私の頭はオークス予想で疲弊しきっている。ここここここ、この問題が解ける奴はててててて、天才や!!!(@「花の応援団」、青田赤道が1/2+2/3という式を見て言った台詞)
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2007年05月17日

782 歌は下手であるべし〜A氏に花束を

 とんでもないニュースが入ってきた。オークス出走予定だったダイワスカーレットが、熱発、回避だという。勘弁してくれよお〜〜〜。おれがビクトリアマイルを蹴ったのは(やってれば大勝利だった!)、某M菱銀行のように堅実なダイワ頭で鉄板勝負にぶちこもうと思っていたからだ。馬連二点でオッケーだったのに。そのダイワが出走回避!?ふざけんな!金かえせ!まだ賭けてないけど。ダイワが出ないことによってとんでもない大混線が予想される。もちろん、レース展開もまったく違ったものとなる。桜花賞2着以下の馬は用無しと思っていたが、これで彼女たちも浮上してくる。レース予想を180度転換しなくてはいけない。超難度Aのレースと化してしまった。しかしそれでもこのレースに賭ける。十九日夜に予想発表。なお、これぞ穴馬というのがいたら、コメント欄で結構ですので教えていただきたい。

 「塔」五月号、作品1、2欄、若葉集、すべてに赤丸チェックを入れ終える。僕がかねてから、ひそやかなファンであったある人がいる。仮にA氏(イニシャルにあらず)としよう。この人の歌を読むのが毎月楽しみであった。どう楽しみかというと、感動するとか感性がすぐれているとかそういうんではない。とにかくヘタなのである。と言うと、「へたの良さというのを知らないのか」みたいなソボク派な意見が出てきそうだが、そういうレベルではない、もうとにかく、根本的になにかが欠落したすばらしいヘタさなのである。僕だって上手ではないが、そういうハカリにかけることすら不可能な、昔の駄菓子のパッケージについてきたパチもんイラストに通ずるヘタさである。A氏のデビュー以来、毎月大笑いして読んでいたのだが、だんだんその、A氏節とも言える独特な世界に惹かれていき、ヘタだけどいいなあ、と思うようになってきた。この調子で作り続け、この作風の歌集を出してくだされば、僕はためらいなく買ったことだろう。しかるになんたることか。このA氏、最近歌がうまくなってきやがった。と同時に、僕の熱意も冷めてきた。この人の場合、歌がうまくなったというのは凡庸なレベルに近付いてきたということで、ウオツチャ―としてはつまらないことこの上ない。もちろんまだ独自の味わいというものはあるが、あのデビュー当時の稚拙ならではの魅力はすでに無毒化されてしまっている。言うなれば、本物の穀物や砂糖などひとつも入っていない駄菓子が妙に洗練されて味わいをなくしてしまった、そんな感じである。
 それで思い出したのが、世に名高い「アルジャーノンに花束を」という小説である。もともとSFだそうだが、SFにあまり詳しくない僕が知っているというだけでいかに名高いかがよくわかる。知らない人のために言うと、バカが利口になってまたバカに戻るという話である。冗談だと思うかもしれないが本当にそういう話である。主人公の青年は山下清よりもっとひどいバカで一芸すらない人物だが、その素朴さと純粋さで皆から愛されている。だが、脳手術によって普通の知能にになった青年はただのつまらない人間に、さらに天才となってただのいやな奴へと変貌していく。問題は、彼を取り巻く人々は、じゃあ彼のバカなるがゆえのバカさを愛していたのか?答えにくい問いではあるが、答えはイエスだ。人間は優劣のはっきり決まった世界で「正常」であることにしばしば疲れはてる。そんな基準を最初から持たない存在をどこかに置くことによって、日常のガス抜きと優越感の満足というふたつながらの快楽を手に入れる。それは差別だって?もちろんそうだ。それを言うなら「アルジャーノンに花束を」という、満都の紅涙をしぼった(実はどこで泣けばいいのかわからないのだが)作品がそもそも、差別による満足という恐ろしいテーマを内包しているのである。ただ単に天才と素朴の比較をしただけの話ではない。
 生来の知的障害と一緒にしてはいけないかもしれないが、A氏の短歌の面白さは、普通の人間が最初から気付いていることがてんでわかってない者の持つ面白さであった。笑われていることを知らないものへの笑いであった。A氏がその段階を過ぎ、普通人への道を歩き出してしまったことを僕は惜しむ。貸本マンガの復権に熱心な唐沢俊一氏は、マンガというものが技術を習得してからつまらなくなったと言っている。これを僕なりに言い換えるなら、無知の喪失はユートピアの喪失でもあるということだろう。ダイワスカーレットの回避は「とんでも」だが、A氏のかつての短歌(?)は「トンデモ」であった。だれが薬を投与したか知らないが、A氏の時計よ戻れ。僕は、かつてのままであれば出たかもしれないあなたの幻の歌集に花束を捧げたい。
 なお、A氏の歌を名歌選に取り上げたことはありません。

      今日の一首
引導を渡す「喝!」にぞ静まれる一瞬の間の空調の音 三井ゆき
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

781 首

 今日やっと、「塔」への出詠を郵送した。「短歌人」のは4日に郵送済みだったが、「塔」のほうは苦戦した。歌ができないのである。こういう時にこそ、溜めてある過去の歌帖から、旅の歌10首を抜書きしたのだがやはりこれはつまらん(笑)。歌というのは、賞味期限が過ぎるとどうも面白くない。歌はナマモノだなあと思う。ともやもやしてるうちに、例の金銭トラブルの歌がさーっと浮んだので、10首ばばばと書いてしまった。問題勃発当時にも作ったのだが、あまりにも生々しく悲惨で、しかも内容が詳細すぎていて、ここまでケツをさらしては以後の人生に差し支えると判断し屑篭にポイしてしまった。今回の10首は20分でできたものだが、僕の印象に刻みつけられた光景を詠ったもので、詳しい事情は省いてある。歌というのは、それでいいのだと思う。普段言ってることと違う?じゃかましいわい、俺はもうちょっとで首を吊るところだったんだぞ。

 首で思い出した。私のささくれ立った心を強烈に照射する事件が起きた。例の福島の母親生首持参出頭事件である。私の持っている新東宝大蔵映画に、「生首情痴殺人事件」という傑作映画があるが、これはとりあえずおいておく。この手の話題に関して、僕と妻はいつも意見が真っ向対立する。妻は鬼畜作家であるせいかあるいはもとから鬼畜なのでそういう意見なのであるのか、「こんなのは昔からあることで少しも異常でも不可解でもない」と言う。ミヤザキが女児を殺しまくったときもサリンが撒かれたときもそう言いやがったがとんでもない女だ。僕は情痴事件、猟奇事件のたぐいが決して嫌いではないが、それはその事件に血の通った、人間としての情念がしっかり見える場合にそう言えるのである。たとえば阿部定事件は猟奇ものの一大エポックだが、根底にあるのは純然たるラブストーリーである。愛欲の果てのことなら首を切ろうがナニを切ろうがまさに、「人たる者のなすこととしていささかも異常なし」と言えるだろう。が、燃え上がる情念の段階を経ず、もとより愛欲の対象ではない母親を寝たまま切り殺し切断し、あまつさえそれに「芸術的」装飾を加えてオブジェとするなど、人間として根本的ななにか、精神のいちばん上と下にあるべき重しみたいなもんが欠落しているとしか思えない。だいたいスプレーをぶっかけて植木鉢に差しといたとはなんであるか。「盗まれた手紙」じゃあるまいし、腕を隠すなら観葉植物の中、とか思ったんじゃないだろうな。
 文化人、知識人はすぐ、若者と社会の軋轢がどうしたこうしたと、犯罪を犯す少年のほうが被害者みたいに言いたがるが、もうちょっと悪いことは悪い、もっと言うなら気違いは気違いで理解不能に分類するという態度も必要ではないのか。工業製品と同じで、何千何億とあるうちには「元からの不良品」が必ずいる。プロファイリングという仕事があるそうだが、その専門家が言うには「ケーキをどう作り直してもステーキにはならない」(気違いをどう矯正しても真人間にはならない)。
 この少年も二、三年で娑婆に出てくることであろう。僕はこうした人物に対しては、知識人には悪名高い「メーガン法」を適用すべきだと思う。もちろん彼は、幼児性愛者とは違うが、殺人に対する垣根が生来的に低いということは言えるのではないか。思春期に人が狂うのは当たり前であるが、それが殺人まで行ってしまうというのは、あきらかに、気質的な段階での、あえて言えば製造ミスであろう。出荷してはならない製品だったのだ。だから、火を吹くテレビやガスを出す給湯器と同じに、「使うな危険」の張り紙を張っておくべきなのである。もちろん、人間としての権利を剥奪しろという意味ではないが、もしも隣に越してくるとなったら、こっちはそのことを知っておく権利くらいあると思う。
 なお、妻は僕の意見に全面的に反対であることをいちおう言い添えておく。
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:20| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記

2007年05月14日

780 社会詠はスローガンではない!

小高賢、大辻隆弘、吉川宏志による、社会詠への見解をめぐる論議が歌壇をさわがせたことは記憶に新しい。シンポジウムが開催され、それについての記事を読んだ。
 社会詠、なるものの定義もひと通りではないだろうが、僕の考えはこうである。海の向こうの戦争であれ、遠い見知らぬ町で起きたテロであれ、犯罪であれ風俗であれ、それを詠う切り口が要するに「自分とは無関係な他人事」であるかぎり、それは歌としての体をなしえないということだ。自分を絶対的な裁定者の立場に置いて、「これはかくかくの視点において間違っておる」というような大上段な詠みかたによる社会詠は、どううまく詠もうがスローガンである。スローガンというのは必ず、(よろしいか、必ず)真実をとりこぼす。なぜなら、生きてる限り誰ひとりとして無罪ではありえず、したがって、自分にもつねに加害者の要素がつねにある(下世話な言い方をすれば、「どのツラさげて」というやつだ)ということを忘れるがゆえに、文学的感興からどんどん遠ざかっていくのである。短歌のふりはしていても、歩道橋に下がっている交通安全の垂れ幕と同じ、無反省な思いあがりに堕してしまう。
 たとえば、小高はつぎの歌を批判している。

NO WARと叫ぶ人々過ぎゆけりそれさえアメリカを模倣して 吉川宏志
熱いお茶に淹れかへようか遠国の戦さがどうやら終りへむかふ 林 和清

 小高によれば、これらの歌には「危機感がゼロ」だそうである。なぜそんなことが言えるのだ。僕はこの二つの歌に感銘を受ける。近頃「セカイ系」なるふにゃけた観点の創作物があふれておるという噂だが、上記二首は、自分の身の丈でできる範囲でこの残酷で悲惨な世界を把握しつつ、その弊に落ちていない。なぜか。日常の、普通は「なんの罪もない庶民の営為」が無罪でもなんでもないことを知っているからだ。純然たる反戦活動だってプラカードだのハンストだのという異文化の産物の影響を受ける。恋人との語らいに没入しようとする瞬間にも敗者を決定するための非情な会議が行われている。論争のひとつの焦点である岡野弘彦の「バグダッド燃ゆ」の一連がこの点において劣るのは、自分の空襲体験を基にして、「咎なき衆生」を設定してしまっているからだ。僕に言わせればそんなものはない。人間は、胎内に宿ったばかりの胎児を含めて全員脛に傷持つ存在である。よって、岡野の「十字軍をわれたたかふと 言い放つ大統領を許すまじとす」などという歌になんの魅力を見出せるだろうか。自分をそうと気付かず無罪と設定して安直に他人を断罪しているだけの話だ。社会詠といえども、いや社会詠だからこそ、自己存在への真摯な省(かえり)みが不可欠なのだ。僕はいつも、「どのように詠うかではない、なにを詠うかが重要なのだ」と言っているが、この問題に関しては論を異にしたい。誰にでも容易に批判者となれるジャンルだからこそ、「いかに詠うか」が重要になってくるのだ。僕のかつて作った歌にこのようなものがある。

イラク攻撃開始の映像見つめゐつ紫煙胃の腑までけぶらせながら 黒田英雄

 これも小高に言わせれば「危機感ゼロ」となるだろうが、いったい僕にほかにどう言えというのだろう。「イラク攻撃開始する大統領を許すまじとす」なんぞと詠ったらバカではないか。大国の暴虐に対して、吉川も大辻も、そして私も怒りをおぼえないわけがない。だが、大国に依存して生きている無力という現実は動かしがたくある。それを、大統領を批判してそれでそれですっきりしてしまっては文学活動ではなく、すでに言ったがただのスローガンである。スローガンで世界が動かせると思っている代々木に本拠を置く某政党のごとき甘さである。社会詠も、いや社会詠だからこそ、自らの心の襞でとらえる肉体感覚が重要である。あまりにも多く引用されていて気がひけるが、社会詠の傑作といえばやはりこれだろう。

紐育空爆之図の壮快よ 我らかく長くながく待ちゐき 大辻隆弘

 これこそ、事実と、自らの心の襞を見事に呼応させた傑作である。「あの事件」のとき、「亜米利加ざまーみろ」と感情のレベルで思ったやつ、「いい気になってるからだこの野郎」と思ったやつは死ぬほどいるはずだ。私もその一人である。黄色いサルだと思って原爆は落とすは人体実験はするはベトナムに枯れ葉剤は撒くは、なおかつ正義の味方づらしやがって年がら年じゅう仮想敵をでっち上げてはぜったい勝つに決まってる国を、軍事民間学校商店街構わず爆撃しくさって。9・11を悼む?アメリカは負けない?あん時1万人死んだ(もっと少なかったらしいが)とか騒いでたが、日本をはじめ世界各国に何万人殺してんだ。正義の完遂のための犠牲だともぬかすつもりか。この大辻の歌は、そんな鬱積した本音を見事に詠いあげている。短歌は、これが大事なのである。社会詠は、自らの心の襞の奥に潜んだ本音を自ら抉り出してさらけだし、同時に、そうすることで自ら負う痛みをも詠うべきなのだ。それこそが社会詠であろう。だから、小高賢の言う、若手に危機感がない、というのは、あまりにも表層的な笑止千万な言い草であり、岡野弘彦のバグダッドの一連にはまったく興味がわかない。戦争体験があるからって、自分がイノセントだと思うなよ。だいたいあの当時の日本人なんて全員戦争協力者だろうが。斎藤茂吉もな。
 もう一度言うが、社会詠というのは、時代遅れのバカ左翼のスローガンであってはならない。常に、自分がイノセント(無実)でないことを知りながら詠われなければならない。小高賢の批判は的はずれであると言わざるを得ない。
 ところで。
 な〜〜〜〜んで面白い短歌のシンポジウムって関西でばっかりやるのだ!この社会詠シンポジウムも京都開催である。関東は短歌イベントに関しては死んでいる。「現代短歌新響十人」のシンポジウムで客を三人集めただけで満足しているようでは駄目だ。なんだったんだこの「シンポジウム」って。誰が行くか馬鹿。もっと面白い短歌イベントを俺んちの近所でやってくれ。関東の短歌イベントは壊滅状態である。それからな、主催者はもっと宣伝と客集めに腐心するように。出演者より客のほうが少なくて客が緊張するなんて、ギャグ漫画の世界である。なんでゼニを払ってそんな思いせにゃならんのだ。
 今日の結論。小高賢は間違っている。をはり。 
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:08| Comment(4) | TrackBack(0) | 日記

779 コイウタと高瀬一誌

 ビクトリアマイルにはまいった。僕は、上位人気3頭をまったく信用していなかった。やるんだったら、展開有利と見てコイウタとふんでいた。レースを見たら、ことごとく私が思い描いた通りの展開で、コイウタ一着になりやがった。また、土曜日の京王杯も、やるんだったらエイシンドーバーだな、と思っていた。彼は、京都金杯で穴馬の軸とて抜擢し、ぶ厚い札束をくわえて持ってきてくれた。また、小倉大賞典でも勝たせてくれた。当然、京王杯も来るだろうな、と思っていた。要は、穴馬軸の攻め競馬である。ではなぜ、私がその攻め競馬に参加できなかったか。それは簡単。いまだに1000万ショックが続いているからである。こういう時は人間弱いもので、ひたすら守りに入ってしまう。来週のオークス、そして来々週のダービー、これは固いだろう。要するに、気の弱いときは銀行馬券にすがるしかないのだ。私は、この日記で人をヘタレヘタレと非難しているが、競馬に関しては、私こそ完全にヘタレ状態である。しょせんはペーパー馬券とはいえ、やればよかったあああああああああああ〜〜〜〜〜!!!!!と悔恨の土日であった。

 「短歌新聞」5月号を読む。「新人立論」の松木秀の「初心のころ」を読んでいたく感動する。歌にのめりこむ、という短歌人生のとば口のころの気持ちがよく言い表されている。これを読んで、高瀬一誌という歌人は凄い人だったのだなあと思う。松木に、投稿した作品の評を毎月、青インクでしたためたものを送ってきたのだそうだ。高瀬が松木に注目した気持ちが僕にはよくわかる。高瀬は「〇〇の歌はよかった」「こういう傾向はよくない」などのアドバイスを松木に送り続けた。もちろん、自結社の会員を増やしたいという考えもあったろうが、しかし、それ以上に高瀬にあったのは短歌を始めたばかりの人間を励まし、時には批判を加えながらも、その芽を大切に育てていきたいという親鳥のような気持ちであったろう。僕は、そうした心のありようはたいへん貴重なものだと思う。評価の定まった歌人を褒めておべんちゃらを並べたってしょうがないのだ。まったく無名の、宝石の原石を大勢のごろた石の中から見つけ、歌壇に向けて紹介していくことが、読む喜びの本来の姿である。高瀬が若死にしたことには慙愧の念をおぼえざる得ない。高瀬のような人間こそが、今の歌壇には必要なのだ。ただ、いい人というのは天国が早く来いと呼ぶんだろうな。中曽根康弘なんて、天国どころか地獄ですら来てほしくなくて、二百歳くらいまで生きるのと違うか。僕も、名歌選や秀歌選をやっているが、高瀬ほどの力はないとしても、できるだけ無名の、いい歌人を紹介していきたいという気持ちでいっぱいである。だから、「塔」「短歌人」の名歌選秀歌選のアクセス数が増えることが、僕にとってはいちばん嬉しいのである。歌というのは、一流歌人が褒めたからいい歌だとか、そんな物ではない。自分がいいと思った歌、それこそが名歌なのだ。そういう意味でも、いいと思った歌人はどんどんこの日記で紹介したいと思う。

      今日の一首
浮遊感なんて言ひつつ齢かさね誤魔化し効かぬ齢迎へをり 牛尾誠三
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2007年05月13日

778 黒田英雄は加藤・穂村の夢を見るか?

 佐藤様からいただいたコメントで、僕と加藤治郎になんらかの共通項がある、というようなことを指摘され、びっくりしたが、それについてちょっと考えてみた。

 話を、いったん短歌と離れて、漫画に移し変えてみよう。僕は漫画に一目置いている。近頃の漫画は絵がうまくストーリーテリングもたくみで、そのぶん個性にとぼしいきらいはあるがその中でも強烈に個性を放っているものも多くあり、絵が壊滅的にヘタクソだがなぜか面白い、というものもたくさんある。そこは、とりあえず金になりそうだからとかクラスでいちばん絵がうまかったからとか絵はヘタだけど表現したいことがとにかくあってデビューがしやすかったからとか、そんな動機による有象無象の吹き溜まりのように見える。ヒット作もあれば原稿料も出なそうなのもあり、ドストエフスキーも裸足で逃げ出すようなテーマ性もあれば鼻から脳味噌が溶けて出そうなくだらないのまで百花繚乱だ。しかし、たったひとつ言えるのは、売らんかなであろうがなかろうかにかかわらず、共通するのは「気取りのなさ」ということである。理論もへったくれもない、売れたいなら売れたい、下品な欲望に奉仕したいなら奉仕したいで、自分のやりたいことを思いきりぶつけ、表現力が足りない場合はそれがそのまま表に出、「実はこれこれが『私性』の喪失で」などという言い訳が入り込む余地がない。商業主義にどっぷりつかった作品は、またそのあまりな陳腐さがいっそすがすがしい。陳腐なお客に奉仕するのだという思い切りのよさがある。これは、過去の日活をはじめとるすプログラムピクチャーが実践していたことだ。ひたすら娯楽を求める観客が喜ばなければどうしようもなく、言い訳のしようがない。が、これらのどの覚悟すら、現代短歌には欠けているような気がする。そこにあるのは、形骸化し、文部化学省のバカ役人がようやく認知したころにはすでに本質を失ったお題目である。一説によるとアニメや漫画を政府が主導して輸出するという案もあるらしいがそうなったらそのジャンルは間違いなく衰退する。短歌は映画や漫画とは違う、というのならば、その意見こそ間違っている。商業的成功を軽蔑してスタイルに寄り添ったが最後、どんなジャンルであれ衝撃力をなくす。売れる、ということをバカにしてはいけない。
 加藤治郎と私の文化的バックグラウンドは、その生年(彼のほうが4歳下)や、アメリカっぽさが入った作風からいってかなり近いだろう。それは否定しない。が、私は彼の作風に、今書いたような漫画的な直截性を感じない。理屈が先行していて、言うなればうまくもなんともない(まずいならまだ救いがある)老舗のレストランで、意味もなく何日も、入ってもいない予約の順番が来るのを待たされている、そんなもったいつけしか見えてこないのだ。「それが芸術だ」と言うならば芸術とは、茶道の作法のごとくくだらない。僕はあんなものになんの美学も感じない。気取りやがってバカが。穂村はといえば、さらに世代は下るが、感情の直截さでは加藤よりも一日の長があるが、これはこれで先日も書いた通り、他の人間(とりわけ男性)はもっとちゃんと世界と和合して生きているのだという思い込みが強すぎる。穂村くん、そんなことはありませんって。二人とも最初から世界に対して「負けました」と言っているが、加藤はちょっと(一見)かっこよくハスにかまえてみせ、穂村はあいまいなにやにや笑いを浮かべている。負けるもなにも、世界はだれに対しても戦いなど挑んではおらん。風車のほうではドンキホーテの存在など知らないのだ、遠慮なくぶつかって傷だらけになればいいではないか。

      今日のMYビデオ
「下郎の首」(昭和三十年、新東宝、伊藤大輔)田崎潤、嵯峨三智子、片山明彦、三井弘次、小沢栄太郎、丹波哲郎
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:31| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

2007年05月11日

777 なるようにならない人間

 今日、帰りの電車の中で奇っ怪な若者を見た。私の正面に座ったその男は、年のころは20代なかば、ディスコ黒服くずれのようなよれよれのスーツを着、顔はといえば弛緩しきったバカまるだし。見るだけで不快になるような男であった。その男は、左手にケータイを持ってなにやらメールだかゲームだかに熱中している。それだけならありふれた光景だが、なんとこのバカは、右手で鼻糞をほじり、そのほじった指を口に持ってってナメておるのだ!それを、乗っている間じゅう何度も繰り返している。しかも、ハナクソだけではなく、その指をさらに耳につっこんでミミクソをほじりそれもナメている。そしてまたハナクソをほじってなめる。それを延々と終点まで繰り返すのだ。不快とか不愉快とか言うより、殺意に近いものを俺は感じた。ひとりの人命は地球より重い、という言葉の嘘がよくわかる。ありていに言って、こんな野郎はその場で撃ち殺されても、俺が裁判官だったら無罪にする。人前でハナクソをほじるだけで相当失礼なのに、それをナメる!頭がおかしいとか単なるバカとかいう前に、精神が弛緩しきっているのだ。しかも、ヘッドホンとかはしていないのに、足が何かのリズムを刻み続けている。降りるときに、突然よそいきの社会性のありげな顔つきになったのがなおさら不気味で不快である。それにしても諸君、人前でハナクソやミミクソを食うやつなんぞ見たことがあるか。
 僕は、町を歩くのでもつねに緊張を忘れない。いつ、どこからキチガイが飛び出してきて殺られるかわかったものじゃないからである。近頃の若者は、などと老人の繰言みたいでいやなのだが、どうしてこうあほ面したのばかりなのだ!人は外見ではない、というが、人は外見ではないとしても外見は人なのだ。バカはバカな顔にしかならない。見るからにどう見てもバカ、という外見のやつを見ると、いったいどういう人生を歩んできたのかぜひ知りたいが、聞いたってそいつが人生を語れる言葉を持っているわけもない。俺は人生「なるようになる」と思っているが、こいつくらいのバカになるとなるようになりようがないのではないか、と他人ごとながら心配になる。生き方という芯を持たないものは、どうにもなりようがない。とにかく、日本人は劣化している。あらゆる面で劣化している。
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2007年05月09日

776 穂村弘のポーズ

 僕は、単純に歌人を「いい人」「わるい人」に分ける。「いい人」=「好きな歌人」、「わるい人」=「嫌いな歌人」。中間はない。僕は単純だから、常に二元論でものを考える。好き嫌いは常にはっきりくっきりしている。いい男、いい女もこの調子ですぐに分ける。だがしかし、時たま「よくわからない奴」「評価しづらい奴」が出てくる。斉藤斎藤などその最たるものだが、今日はひとまずおいておく。今日のテーマは、歌人「穂村弘」である。本当に、評価しづらい、よくわからない歌人である。僕は、彼の評論やエッセイには一目置いている。だが、その歌はよーわからん。このへんが自分自身でもイライラしているのである。
 コメントで、「穂村や加藤の苦悩も分かれバカ」(大意)という意見を頂戴したので、知らないでものを言うのはいかんと思い、妻の本棚から穂村の「世界音痴」というエッセイ集をひっぱり出して午後の時間を費やして読んだ。もっとないかと思ったが妻もこれしか持ってないらしい。不勉強な女だ。
 読みながら何度も爆笑する。寝ながら菓子パンを食ったり会社へと急ぎながらあんパンを食ったりまぐろのパックを手に持って呆然としたり回転寿司屋の板前とテレパシーで会話したり(どうでもいいが食い物の話題が多い)、穂村先生の日常は冒険に満ちており、しかも主人公はつねにおどおどおたおたしている。恋人が凍った雪のうえで転んだときに手を放してしまったエピソードなどは最高だが、僕に言わせればちょっと気にしすぎである。悪い「純愛教」の菌に冒されていて必要以上に自分を責めておるのではないのか。実際は、男の99%は地震や火事が起きたらてめえだけ先に逃げる動物であり、女はそれを許すということを知っているずるい動物でもある。彼女は君が手を放したから愛想をつかしたのではない、君が浮かべた自責の表情の色気のなさに愛想をつかしたのだ。
 それにしても、題名の理由ともなっている、「自然に振る舞うとはどういうことかわからない」という心理はやはり僕にとって遠大なる謎である。僕が、「近代的自我の終焉」という観念が理解できないことと通底しているのだろう。自己とか自我なんてものは、どんなにいやがっても中心をどんと通っているものであり、あいまいにしたくてもできないものだ。好悪の念は精神の中心部から湧き上がり、そのときそのときでしたいように振る舞えば、それは葛藤や喧嘩や流血や壊れた皿や茶碗を生み出すかもしれないが、それだって人生や世界の輝かしい側面である。怒ってる最中になにに怒ってるかわからなくなったり、これははたしてまことの恋だろうかと不安になったり、肉と魚とどっちを先に食ったらいいのかわからなくなったり、僕に言わせれば低血圧なたわごととしか思えないことを実際に生きている人がいるというのは驚異である。
 とはいうものの、これだけ統一性のある面白いエッセイが書けるということは、すべてが穂村の戦略であって実際の彼は違うのでは、という気もするのであるが、だとするといったいどういう意図で「世界の統一的な把握が苦手な人間」などというものをでっち上げるのだろう。とある対談で言っていた、「桜なら桜という言葉から共通のイメージが紡げるということが信じられない」という言い草などそっちのほうが信じられない。それが事実ならそういう人が会社へ行ったり給料を受け取ったり電車に乗れたりするわけがない。考えられるのは、「自分以前に成立したものはとりあえずぶっ壊してみる」という意思だが、それこそが近代的自我の有効性を証明しているようなものだ。
 結論から言えば、やはり彼の自我の不安はポーズの度合いが高い。俺の目はごまかせない。実は君は、非常に自我の安定した、戦略性のある近代人なのだ。桜なら桜の持つ共通イメージに共感できない、のではなく(本当にそうならあれだけすぐれた歌評が書けるわけがない)、共通イメージに頼りきっているふぬけた既存の短歌に我慢がならないからわざと逆の極端をやっているのではないか。その底にあるテンメンたる情緒が俺には見えるし、なればこそ、ガキの遊びはやめて本道で勝負しろと言いたいのである。ピカソがそうだが、正統的な絵が描ける人が変格的な絵を描く、それはいいとして、正統に戻るタイミングを逸すると、ただの自己模倣の枯渇に陥るだけである。穂村弘よ、きみのうじうじした男っぷりはむしろ明治の文豪に連なるものだ(高橋源一郎の小説で行った啄木の代作はよかったぞ)。一刻もはやく、己の実像を取り戻せ。

 歌壇というのはヘタレである。いいか、俺はな、一丁あがりの、既成の歌人の、何冊目かの歌集への評なんぞ読みたくもねえ。俺が取り上げてほしいのは、ぴちぴちの若手歌人の野心的な歌集である。たとえば、斉藤斎藤の「渡辺のわたし」。これについては、物陰でいいとかすごいとかうだうだ言ってるやつは多いが、総合誌であれ結社誌であれ、まともに企画として取り上げ長文で論じたものを見たためしがない。地元のである短歌人」ですらやっていないのだ。俺に頼みゃいくらでも書いてやるが、当然のことながら誰も頼みにこない。また、加藤治郎の「環状線のモンスター」に関しても、賛否両論、喧喧諤諤の評があってもいいはずだ。これもまた、大手の雑誌からは無視されている。批判があるならお前ブログで書けと言われるだろうが、書かない。俺一人が書いても一方的になるだけである。黒田が批判するならようし俺は褒めてやる、という有志がいればいいのだが、あいにくと自分の意見は言わず俺の態度が悪いように言う連中ばかりである。貶しには褒めで対抗するのが筋。違いますか?要は、現在の歌壇は若手歌人の問題作というものをてんで取り上げず、評価の定まったじじいやばばあのヨイショでめしを食っているのだ。バカかてめえら。歌壇を活性化しようなんてハナっから思ってねえんだろ。お前らは歌壇ジャーナリストでもなんでもない。寄生虫である。恥を知れ。俺が編集者なら、「環状線のモンスター」の総力特集をやり、歌壇につかみあいの戦争を引き起こしてくれる。俺の痛烈な批判をへし折るほどの強烈な肯定評を共に載せ、論争の嵐を巻き起こすのだ。タメにする