ムルギーのカレーすすれば新東宝「お玉が池」のゆふひはあかく 仙波龍英
「お玉が池」とは、中川信夫の弟子であった石川義寛監督の、「怪猫お玉が池」のことである。結句の、「ゆふひはあかく」には爆笑した。この映画を歌にしてくれるなんて、嬉しいなあ。さらに熟考のうえ感想をアップしますのでどうぞお待ちください。仙波の歌の全貌を知ったことは、私にとっての事件である。
私は、いわゆる「前衛短歌」(塚本邦雄がその代表とされる)には、まったく心を動かされない。寺山修司に対しても同様である。塚本邦雄は、まぼろしを見ることが短歌の使命だと言ったそうだが、僕は短歌の根本は写実だと思っている。だから、佐藤佐太郎が好きなのだ。だからといって、アララギ風を極めようとも思わない。仙波龍英は春日井建の歌が好きだったという。藤原龍一郎氏もまた、前衛短歌にどっぷりつかった一人である。俺のような、前衛短歌のぜの字も影響を受けず、アララギ派短歌に強烈な親和性を持つものがなぜ、藤原や仙波の歌に惹かれるのだろうか。俺は、俺独自の短歌を作りたいと思う。アララギ系固有名詞派、というやつだ。これは矛盾表現だろう。アララギで言うところの写実と、僕が歌に盛り込みたい俗で世間的な固有名詞とは相容れないもののはずだ。なぜなら、昔の女優の名前や怪獣の名前、テレビのヒーローや一発屋のヒット曲なんてものは普遍性に欠け、あまねく万人が共有する(と彼らが思っている)感動に訴える力はないものと見なされているだろうからだ。そのつまらぬ固定観念をぶち破り、大衆文化のイコンが、日本人にとっての桜の花や海の藻屑に匹敵するほどの普遍性と情緒を持っていることを、短歌を通じて証明したい。つまり、佐藤佐太郎も、仙波龍英も藤原龍一郎も、俺にとっては同じジャンルの歌人であるのだ。重ねて言うが、仙波龍英の全短歌を知ることができたのは、俺の人生における一大事件である。歌を詠むことが難しくなった。俺はここに、俺の短歌の目指すべき地平に、「アララギ系固有名詞短歌」という矛盾に満ちたネーミングをすることを宣言する。
今日の二首
東海地方の天気予報をみるたびに画面右端にふるさとがある 冬道麻子
精一杯生きてゆく事それだけのひと日ひと日に夕暮れがある 辻 善夫








