2007年07月31日

無題

 このブログの元締のデータベースがパンクしたとかで、アクセス数が表示されない。たぶん、万単位のブロガ―がひしめいておるからだろう。よって、日記をつける気がうせてしまった。アクセス数がわからんのでは意気消沈なのである。
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2007年07月30日

843 見栄はやめろ!!金利引き上げは自殺行為

 日銀が、金利引上げを画策しているという。アホかお前ら。消費者物価指数6か月連続マイナスの現状において金利を引き上げたらどういうことになるか、考えなくても分かるだろう。金利引上げで中小企業の経常利益は6パーセントから10パーセントのマイナスになるという。倒産件数が増えるだけである。日本の経済はまだまだ不安定。一般庶民には、あるかないかわからんような景気回復とやらの恩恵なんぞまったくないと言っていいだろう。金利引上げを強硬に主張する経済人をタカ派と呼ぶらしい。これを見てもわかる通り、タカ派というのにろくなのがいたためしはない。要するにこいつらが考えているのは、国際社会に対する見栄なのだ。諸外国との金利のバランスを取るという名目もあるが、今、金利を上げて体裁だの、ご近所とのバランスなど、奇麗事をゆうとる場合ではない。少し前、日本の経済的信用度がボリビア以下だと言われて怒った大臣が、「あんな日本から借金してる国!」とぬかしたそうだが、経済大国のふりをしてありもせん金を貸し付けるのは見栄以外のなにものでもない。貸すだけの余裕のある国のふりしてる場合かぼけ。
 今アメリカで「サブプライム問題」(信用力の低い個人への住宅ローンへの焦げつき)が問題になっている。その貸し倒れたるや、アメリカのGNPの1割にも及ぶらしく、紐育ダウの低下に拍車をかけている。アメリカがくしゃみをすれば日本が肺気腫を起こす理屈で、日経平均もがたがたと落ちている。サブプライム問題はひとごとではない。もちろん、転売目的がメインのアメリカと日本のそれとは事情が違う。だいたい、俺たちみたいなバカ夫婦が、新宿の一等地にマンションを買おうとして銀行の審査が通ること自体おかしいのである。考えてみれば三年前は、買い手市場の最後の年だったと思う。今、俺のこのうちの価値は、当時の倍にはなっている。毎日毎日毎日毎日、「このマンションに限定して売り手を探しています」「一週間以内に売ります」果ては、「六本木の引退した実業家の夫婦が新居を探しています」などと凝りすぎのシチュエーションのチラシが放りこまれるのだ。資産価値が上がるのはいいが、支出が増えてまいっている。僕はマンション購入当時、完全なる経済音痴だった。家を買う、というのがどういうことかさっぱりわからぬままに「マンションとかいいなあ」と言ったら、妻が行きずりの不動産屋に勧められてたいへん気に入ったという今の家に連れて行かれ、不動産屋の言うことをにこにこして聞いていたが内容はさっぱりわかっておらず、妻が「わかった?」と言ったのに「うん」と答えたのが運のつき。契約書の内容をほとんど理解していなかったため、今年になってから、銀行に1180万円をぶん取られた。これを契機として、俺は経済の猛勉強を始めた。競馬でも短歌でもそうだったが、いったん興味を持つと俺は速いのだ。学習してみたら、経済というのはなかなか面白いものであることがわかった。俺は今、うん百万単位のギャンブルをしている。知人から、「競馬の回収率が80%もあるなら経済でも勝てますよ」とそそのかされたこともある。現在のところ、こちらの収支は大幅プラスである。しかし資本主義は怖い。儲かっても自分のためには使えないので、生活程度は貧困である。なんのこっちゃ。マネーゲームに踊らされないように、理性をもってこの資本主義社会と対決しようと思う。日銀よ、今のこの不安定日本経済において、金利引上げなど自殺行為である。政治の不安定さも続くであろう。日本はいま、見栄をはって金利を上げとる場合ではないのだ。
ニックネーム 茶トラのみんく at 21:59| Comment(1) | TrackBack(3) | 日記

2007年07月29日

842 ああ山口県、菅直人を総理に

 今日一日で、二回投票に行った。なんと俺は真面目な日本国民であろうか。ひとつは参議院選挙、もう一つは勝ち馬投票である。二回も投票して疲れたのである。競馬はいつも通り負けた。まあそれはいい。そして参議院選挙、これも納得である。
 自民党は歴史的大惨敗。ざまを見やがれ。
 今回の選挙を左右したのは、理屈よりも国民の怒りだろう。とにかく、閣僚の失言失態には目に余るものがあった。いちばんヒドイのは「原爆投下仕方ない」発言である。政治家としてはもちろん、人間として、人格を根本的に疑わせるような失言だ。とにかく自民党には緊張感がない。しかし安倍総理、という人物に僕はどうも反感を持つことができない。彼は彼で、理想家なのだろうと思う。ただ、ワキが甘い。甘すぎる。情実と人間関係だけに配慮した組閣がすべての敗因だろう。適材適所、ということがまったくできてない。絶対に自分を批判することのない、取り巻きで固めた人事だったのだ。そういうのって結局、甘く見られちゃうんだよね。だから、失言の続出で自滅するのである。とはいえ、安倍さん本人が退陣する必要はない。彼は、江戸幕府にとっての徳川慶喜的な存在となるべきだ。つまり、自民党の臨終を看取る役目を担えということだ。
 民主党は、この結果を受けて、衆議院の解散を求めていくだろう。当然のことだ。参議院と衆議院の党員の比率がこんなにアンバランスでは、政治的に見て不健全というものだ。流れは民主党にある。日本は一度、選挙によっての政権交代を経験したほうがいい。国民が、議員を選ぶこととその結果という責任感を実感すべきなのだ。野党もまた、いつ政権という責任を持たされるかわからないという緊張感と覚悟を持たせるべきなのだ。それは、日本人が戦後初めて、議会制民主主義を自らのものとして守り動かしていく覚悟にもつながる。僕は民主党が政権を獲るべきだと思う。そんなことしても何も変わらない?変わりますとも。それが政権交代というものなのだ。菅直人を総理とすべきだ。
 どこの一人区の県でも自民党がぼろぼろ落ちているのにおお、わが山口県だけは無風である(爆)。それはそれで、ある意味えらいと私は思う。ところで、僕は、東京選挙区では川田龍平に一票を投じた(比例区は民主党)。今現在接戦であるが、なんとか丸山珠代を蹴落として川田氏に当選していただきたい。とにかく、政治を変えなくてはいけない。今回の参議院選挙は、エポックメイキングとなるだろう。菅直人よ、総理になれ!俺は菅のファンである。その馬鹿なところも含めて。あ、あいつも山口出身だ。
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:40| Comment(0) | TrackBack(3) | 日記

841 小倉記念GV前日予想

 真夏の小倉記念予想である。軸馬は、五番スウイフトカレントでしょうがないだろう。メンバー中格上であり、58キロを背負っても、不利とは思えない。ペースに関わりなく、この馬には自分で動ける自在性がある。57キロを背負って平坦芝2000で1分57秒2というタイムもダントツ。多分、明日のレースは1分58秒台だろう。宝塚記念での惨敗は、良馬場希望のこの馬に関しては無視していい。有馬、ジャパンカップの負けも無視していい。距離が長すぎたのだ。この馬のベストは1800か2000。兄弟にアサクサデンエンがいる。遅咲きの馬だ。格上のここでは負けられない。
 そこそこの配当がつく。相手は、アップドラフト、ニホンピロキース、サンレイジャスパー、ニルヴァーナ、ビータローザ。押さえに、ソリッドプラチナム。穴で、アラタマサモンズといったところか。ペースは平均だとは思うが、前に行った馬がかなり苦しそうだ。差し同士のワンツーフィニッシュということも十分考えられる。スウイフトカレント、去年の天皇賞秋において、ダイワメジャーに0.1秒の2着。この実績は無視できない。多分、明日の勝ち時計は1分58秒0ないしは1あたりだろう。ローテーションも、まさにここを狙ったという感じで好感が持てる。スウイフトが惨敗するのであれば、諦めるしかない。惜敗だったら地団太ふんでつけ麺を食う。
 前日予想結論。本線馬連、5−6。準本線、1−5、2−5、3−5、5−10。押さえ、5−12。穴、5−9。
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2007年07月27日

840 最後の舞台(ステージ)と十歳歌人の登場

 佐藤様から、宇南山宏のことについてコメントをいただいた。「柔道一代」という番組に、彼は確かに若き柔道家として出演していた。昭和38、9年ごろだろうか。あの頃のテレビ映画は柔道ものがブームであり、その代表作と言えるのは倉丘伸太朗主演の「姿三四郎」(ヒロインは、佐治田恵子。おお懐かしい)であろう。僕は、そのブームの一環の番組で、さわやかな柔道家を演じた宇南山がロマンポルノに出ているのを見たとき、びっくらこいた。その宇南山は、今改めて思うに、不器用な役者であったと思う。いかにも組み立ててきた演技プランに沿った芝居に終始してしまい、演技以前の個性というものに欠けるのだ。こういう役者にはことさら演出家の駄目出しが飛んできたであろうと想像される。僕は、宇南山の自殺は、真面目なだけに、役や演技というものに追いつめられてのことではないかと思う。
 荻野洋一さんという、映画評論家のかたのブログでたまたま加藤善博の自殺を知り、ショックを受けてコメントしたところ、詳細を教えていただけた。渋谷区の公園のすべり台で首をくくって死んだのだという。痛ましい。「母娘監禁・牝」のビデオを、今日また見直した。テレクラで知り合った少女(前川麻子)に、最初ホテルマンと自己紹介しながら、実は「俺無職なんだ」とつぶやくシーンがある。加藤の表情とそれをのぞきこむ少女のカットが無言のまましばらく続く。そのとき加藤が浮かべている表情のなんともいえなさは、大人にならないことを選び続けてついには果てしのない孤独に落ちこんでしまった永遠の子供のそれだった。加藤善博という俳優、その演技には、常にわがままな子供の要素がああったが、本人も幼児性を多分に残した人ではなかったかという気がする。意志的に成熟を拒否し、自分が一番純真で正しいという王国を築き上げようとする、そして必ず破滅するタイプの人間。そんな人間が、公園の滑り台を自殺の舞台(最後のステージ)に選んだということに、俺は悲痛な象徴性を感じるのだ。ご冥福をお祈りする。

 「短歌人」8月号を読む。「会員欄」の赤丸チェックを終える。驚いたことがあった。ななななななんと、十歳の男の子が会員欄にデビューしていたのだ。この日記の読者某氏の縁者のかたらしい。なかなかセンスのいい五首である。うらやましいと思う。彼は十歳で歌を始めたのだから、これからどんどん、初恋も初体験もくだらない青春のかずかずも、そのたびにヴィヴィッドに詠うことができるのだ。47歳から短歌を始めた僕はそのことを身もだえして嫉妬羨望する。なんせ俺なんぞおっさんだから、相聞歌を作ろうとしても全部性愛歌になってしまうのだ。若い歌は若いときにしか詠めない、という通説を実感している今日このごろである。それでも、大昔を思い出し思い出しして作った相聞歌のいくつかは、歌集に収めたいと思う。ああ、十歳の彼よ。どんどん歌を作りたまえ。そして「短歌人」に載せたまえ。また結社誌を読む楽しみが増えた。贅沢を言えば、今度は十歳の少女が入ってきてくれないかな♪。

      今日の二首

すさまじきものかとかつては思ひしか独笑(ひとりわらひ)をみづからゆるす 佐藤佐太郎
悲しみをしづめゐるとき蝿のとぶ短き音も身にしみて聞く

      今日のMYビデオ
「妻たちの性体験〜夫の目の前で、今」(1980年にっかつ、小沼勝、脚本・小水一男)風祭ゆき、宇南山宏、草薙良一、錆堂連

 この映画のイメージソングに、みなみらんぼうの曲が使われている。しかし無許可だから当然クレジットには出ないのだ。ので私は、曲は知っていてもタイトルはわからないのだ。にっかつロマンポルノには、そんなふうに、画と合っているのに無許可ゆえにタイトルのわからんイメージソングがやたらとある。まるで、小劇団がBGMを使うのと同じノリである。かつて私も、ブルース・スプリングスティーンやジョン・フォガティの名曲の数々を使用させていただいた。ありがとう、ボス。
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

839 自死〜加藤善博、宇南山宏〜

 斉藤水丸監督の、にっかつ末期の傑作「母娘監禁・牝」で検索をかけてみて、あるブログがひっかかったので読んでみたらびっくらこいた。出演者のひとり、加藤善博がつい最近、自死を遂げたという。加藤善博は80年代末期、まさにバブル華やかなりし頃に出てきた役者であり、その得意とする役柄は、まさにバブルの申し子とも言える拝金主義のイヤなヤローであった。テレビでは、部下をいびって自殺に追い込む証券マンやら、尊大で鼻持ちならない作詞家が印象に残っている。映画では、三谷幸喜の「12人の優しい日本人」での演技も高名である。「母娘監禁・牝」でも、ホテルマンと偽ってテレクラで女と知り合うものの、「俺は本当は無職なんだ」とつぶやいて布団をかぶるシーンがなんともやるせなかった。僕は、加藤のプロフィールを全く知らない。たぶん小劇場出身だとは思うのだが。鼻持ちならない気障で驕りたかぶった役を絶妙に演じるその姿を見て、根はひどく真面目そうな人だなと僕は直感したものだ。
 自殺した役者では、もう一人印象的な人がいる。その名を宇南山宏という。彼はJRのとある駅で飛び込み自殺を遂げた。僕はそれを新聞記事で知った。関係者の証言によると、舞台の演技に悩んでいたらしく、それが引き金となって発作的に電車に飛び込んだのではないかとおぼろげに思ったりもする。彼もまた、にっかつロマンポルノの常連だった。役どころは、一見紳士、実は………というものであり、代表作は「夫の目の前で、今…」。宇南山がタイトルロールの夫、妻は風祭ゆき扮演。他の男に抱かれる妻の姿に欲情する夫を演じていた。この映画はラストシーンが凄かった。夫の性癖を知った妻が、何十人もの大学生にあえて犯され、縛りつけられた宇南山はそれを見せつけられながら射精するのだ。このシーンでの宇南山の演技が凄かった。本物の青筋をこめかみに立て、「うーっ」と唸り、白い精液が宙を飛ぶカットがそれに続く。ロマンポルノは、本番や素人が売りのAVと違って、役者が演技をしてやっているのだ。宇南山はこの作品に、きちんとした演技プランを立てて臨んでいただろうことが、彼のワンカットごとに賭ける演技の情熱を見ると、ひししと伝わってくる。役者というのは、「変優」ほど真面目が人が多い。小松方正などはその代表で、借金のかたに少女を手ごめにするような極悪変態な役を持ち役としながら、素顔は石部金吉金兜と言われるほど糞真面目であったらしい。悪役ないし、ひとクセあると言われる俳優ほど、繊細な人が多いのだ。
 俳優の仕事のその多くの部分を担っているのが「傷つくこと」である。それだけ演出のダメ出しはきつく、しかも、面白くならなかったら言い訳がきかないぶん逃げ道がないのである。それは創作者たる者の宿命である。しかるに、歌人という奴ばらはなんであるか。ちょっと批判したら、「傷つきましたやめます死にます恨みます」を連呼し、2ちゃんねるに名前が晒されただけで眠れないの食えないのの大騒ぎ。正直、馬鹿か貴様ら甘ったれるなと俺は思った。何度も繰り返すが、ものを作って発表する以上、批判どころか全否定する奴が出てきて当たり前なのである。多分、歌人が演劇の世界に入ったら三日で裸足で逃げ出すだろう。ボロクソに言われるのが普通なのである。なので、ネット上に黒田英雄のワルクチがどれだけ百家争鳴の花盛りとなろうとも俺は屁でもない。もっと騒げと大喜びしているくらいだ。
 それにしても、加藤善博の自殺を知ったことはショックだった。彼に何があったのだろうか。いい役者だったのになあ。胸がつまる。
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:35| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

2007年07月24日

838 ACTION!

 芝居の演出のダメ出しの常套句に、こういうものがある。「気分で芝居をやるんじゃねえよ馬鹿」。これは確かに言える。気分だけで芝居やってるやつなんて見られたもんじゃない。自己陶酔そのもので、なんの表現にもなっていない。かと言って、理屈っぽくなるのもよくない。その場合は、芝居が説明に陥っていてキャラクターの人間性が出てこない。私は今こういう気持ちでいるんです、という説明になってしまっているのだ。ここが、舞台における演技の難しいところだが、気分でも説明でもなく、的確な具体的表現をもって芝居をしなければ、観客を惹きつけることはできないのだ。常にヴィヴィッドに相手役に反応し、瞬間瞬間を生きていなくてはいけない。つまり、アクションが持続しなくてはいけないのだ。
 これは短歌にも言える。昨日も書いたが、歌は説明であってはいけない。また、気分だけを詠んではいけない。常に具体がなければ駄目だ。これは抽象詠においても言える。映画監督には、そのカットを撮影する前に、「よーい、ハイ!」と言う人が多い。そこでカチンコが鳴り、演技が始まるのだ。アメリカだったらさしずめ「Action!」であろう。数分、あるいは数秒のカットに監督も役者もその全存在を没入させるのだ。歌も同じである。ほんの短い間のアクションだと僕は思う。刹那の感情、あるいは空気を捉え、韻律にする。短歌とはまさに、五七五七七のアクションなのだ。
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2007年07月23日

837 見たままを詠ふとは。

 ふゆの様からコメントで、「事実が真実とは限らない」(大意)という意見をちょうだいしたことは昨日書いたが、これについてもう少し補足したい。
 僕は「見たままをシンプルに詠え」と常々言っている。「見る」とはなにか。それは、詩人の魂(この場合の「詩人」というのは、わかめみたいな髪型をして阿片吸ったり色恋のための色恋にうつつをぬかしてる無産者どものことをいうのではない)が、ありきたりの光景の背後に見出す、ありきたりでない把握のことだ。ありきたりよりももっと深く本質的な、日常にひそむ普遍的な、おそるべき真実とも言うべき戦慄的ななにかだ。およそアララギ派につらなるつもりの歌が凡歌からなるボタ山の様相を呈しているのは、庭の花が咲いたとか孫が可愛いとか、「どうでもええんじゃんなもなあ!」と叫びたくなるような歌が大部分だからで、そういうのを僕は「幼稚園の壁のお絵かき」とか「便所のカレンダー」とか呼んでいる。なんですと?「カレンダーはともかく幼稚園の絵はピカソ的な天才性があっていいではないですか」ですと?あなたねえ、それは「幼児=天才」という幻想に支配されているからそう思うのであって、幼児のらくがきはどこまでいっても幼児のらくがきである。真の写実詠というのは、あえて言えばまともな、自分を大切にするような精神状態では見抜けないものを見抜いたあげくのものを言う。認識せずにいれば幸せだったものを認識してしまう、詩という病が詠み手を侵し、感染させたときに現れる暗く光る真実だ。僕の選んだ写実詠を見てみるがいい。もしも親戚の集まりでこんなこと口にしたらど顰蹙を買うのは間違いない、しかし、事実としか言いようのない情景ばかりではないか。目に映る事実を突き抜けたところにある事実を詠う。僕はそれをもって、素直に詠う、と呼んでいるのである。それが魂のスクリーンに映ってしまうとき、人は初めて、詩人という名の輝かしき不幸せを手に入れる。
 そして、歌とは常にアクション(動き)を内在させていなければ駄目だ。僕はそれをドラマ性と呼んでいる。

 ちる花はかずかぎりなしことごとく光をひきて谷にゆくかも 上田三四二

 名歌の世評の高いこの歌だが、僕には評価できない。もちろん、作者の、世のよしなしごとから遠くへだたったところで詠いたい、という気持ちはわかる。ただ、この歌は、到達点は高いが、アクションがない。これは、絵にたとえれば名画ではあろうがあくまで静止画であって、映像ではない。花がかずかぎりなく落ちていくさまが見えてこないのだ。三四二の罪ではないとはいえ、この境地があまりにも気持ちがよさそうなため、これが短歌の到達点だと勘違いされ、やたらと静止画、静物画を目指したような歌ばかり目につくのである。短歌とはそういうものではない。アクション、動画でなくては、なんの価値があるのだろうか!

 夕明(ゆふあかり)ながき浜よりかへり来る家間(いへあひ)のみちは寒くなりたり 佐藤佐太郎

 この歌は、何百回読み返しても飽きない歌だ。上句と下句の対照がいい。夕焼けが徐々に色を変え、おとろえ闇に溶けていくその行程が、作中主体が浜を歩いて帰ってくる時間にそのまま重なり、光と温度の移り変わりがこのたった三十二音(字余り一つ)に凝縮され、読むものにその光景の寂しさと抒情をたっぷり追体験させてくれる。眼目は、「家間の道」という表現だ。いかにも、海に沿って並ぶ貧しい小さな家の立ち並ぶ村落の寒々しい空気が身に迫ってくるようなリアリズム。単純なフレーズだが、作者は、見たものと感じたものを同時に描写するために相当に言葉を吟味したことだろう。難しい、分からない言葉や、ひねった表現は一つもない。「こんなの俺でも作れる」と思うやつはたちまち撃沈するであろう。そしてこの歌には、作中主体の動き(アクション)が見事に表現されている。名歌中の名歌だと僕は思う。
 作者、佐太郎は、結核の療養中だったらしいが、そのような背景を知らずとも、作者の心の凄愴さというものが伝わってくるであろう。誤解を恐れずに言えば、佐藤佐太郎こそ、僕の理想とするストレート短歌に最も近い歌人である。師匠の茂吉から離れて独自の作風を確立した佐太郎は、まさしくオリジナリティに溢れつつも、無骨で写実な、アララギの本道をいった歌人であろうと思う。スタイルは違うが、僕はここに、実は藤原龍一郎との接点を感じてしまうのである。いい意味で、二人とも無骨さとシティボーイの要素を併せ持ち、その魂は純粋であり、そのことへの照れがある。
 要は、歌は視点である。当たり前のことであるが、くだらねえ視点もまた視点のうちに入る、という甘やかしが歌壇にはびこっておるのではないか。僕は、僕の短歌的視点を主張するためにも、名歌選、秀歌選を続けていきたいと思う。それは、自分の歌をアピールする以上に、自らの短歌的マニフェストを明確にする手段であると思うからである。

    今日のMYビデオ
「母娘監禁 牝(めす)」(1987年にっかつ、斉藤水丸、原作西村望、脚本荒井晴彦イメージソング荒井由美「ひこうき雲」たぶん無許可)前川麻子、加藤善博、河原さぶ、吉川遊士、上田耕一
ニックネーム 茶トラのみんく at 21:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2007年07月22日

836 三時間五十分とペット

 ふゆの様から、前回の日記に「事実が真実とは限らない」という意味(であろう)のコメントを戴いた。まったくその通りである。僕が最近衝撃を受けた一首、

卒寿にて襁褓換えるを拒みいる母は赤線に売らるるを恐れ 中尾純子

 たぶんこの歌は、まずノンフィクションだとは思う。しかし、もしこれがフィクションだとすれば、僕はこの作者の想像力に、最初に読んだとき以上の敬意を表する。要するに、歌の要諦をなし、人に感動を与えるのは、その世界の把握の方法なのだ。僕の言う、「見たままを詠え」という言い方は誤解を招きやすいだろう。これについては、また稿を改めて書きます。

 夏の恒例、増富温泉「津金楼」へ行ってきた。ここでのスケジュールは決まっている。十六時五分旅館に着。十六時二十分から十七時二十分まで入浴。夕食をはさんで、十九時二十分から二十時四十分まで入浴。二十一時就寝。翌朝、七時三十分から七時五十分まで入浴。朝食をはさんで、八時五十五分から、九時三十五分まで入浴。計三時間五十分の入浴時間である。時間が正確に言えるのは、この温泉、浴場の壁にまんまる時計がでんと据えられているからである。要するにこの温泉は、いったん入ったが最後、離れがたくて、そのままお湯にとけてしまって出られないのである。湧かし湯と、冷たい源泉、これに交互に漬かっていればまさにこの世の天国。出られないのである。ので、いつ行っても誰かしら入っているのである。ラジウム量世界一の黄濁の湯であり、とくに腎臓病、肝臓病、胃腸病、神経・筋肉一般、婦人病などに効能あり。僕の経験した中では、この黄色く澱んだ冷たい源泉はもう最高である。酒飲みはいっぺん行ったがいい。二日は連泊したいのだが、そうもいかない。私には淋しがりやで人がいないと死んでしまう愛猫、みみ太がいるからだ。
 先代猫茶とらのみんく(メス)、これはまったく手のかからない猫だった。お泊りやお医者のとき、猫バスケットを見せると、自分からいそいそ入ってくるような、もののわかった賢い猫だった。ところがみみ太は、逃げるは隠れるは、ぎゃあぎゃあわめくは大変である。また、帰ってからペットホテルに引取りに行ったら、「みみ太ちゃんぜんぜんゴハン食べませんでした」といわれてしまった。なんかひと回り痩せた感じもする。しかも、ホテルでは寝られなかったのだろう、今になって俺の足を枕にぐうすか寝ている。こんな人なつこい、寂しがりやの猫は初めてだ。
 僕は、先代みんくが死んだとき、もう猫を飼うのはやめようと思った。あまりにも別れが辛いからだ(人間とのそれ以上かもしれない)。ところが、みみ太が、約二年前、引っ越して間もないマンションの前でぴいぴい泣きわめいていた。思わずその、白黒の子猫を拾ってしまった。オス猫を飼うのは初めてだったが、とにかく、犬みたいに人にじゃれて人について回る。実際、これは困るのだ。二日以上家を空けられないではないか。ペットは可愛いが、必ず先に死んでしまうのであるから、やりきれない。僕はもう、猫を飼うのはこの白黒みみ太で終わりにしようと思う。でも、そうは言っても、どうしても猫とは出会ってしまうのだ。俺が猫を見つけるのではなく、猫が俺を見つけているのだ。先代のみんくも、当然のような顔をして、「にゃあ(こんにちは)」と言って、めしを食っている最中に窓から入ってきた。猫に魅入られたが最後、飼わざるを得ないのだ。しかしみみ太よ、頼むからもうちょっと独立心のある、たくましい猫になってくれ。俺が二日以上温泉に泊まれないではないか。

      今日の十首

わたくしが遠吠えしたくなる月夜 混濁しつつ犬は眠りぬ 佐藤南壬子
おごそかに犬から犬へと輸血する細き管なり 脈うつてゐる
ぼつてりとむくみし顔をわれに向け 見る力さへもう失せてをり
喘ぎつつわれを去らむとする犬の首を抱へてこゑなく泣きぬ
縋りたくてふとふりむけば もう泣いてゐる獣医がゐたり
供血犬となりてアランに血を呉れし獣医の犬に礼(ゐや)して帰る
柔らかきままに冷たし長き耳 呼び起こさむと動かしてみる
アランらんらん何せむと庭に出でしか忘れたり 茫然と立つ
町なかでアランのママと呼ばるるはまばゆき呼称 懐かしく受く
行き違ふ犬に匂ひを嗅がれたり膝の高さに鼻を寄せ来つ

 佐藤南壬子歌集「新月の木」(青磁社)より抜粋。
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:53| Comment(1) | TrackBack(1) | 日記

2007年07月21日

835 見たままを詠う衝撃

卒寿にて襁褓換えるを拒みいる母は赤線に売らるるを恐れ 中尾純子

 衝撃的な歌だ。下句が凄い。呆けた母親を詠った歌はたくさんある。しかし、オムツを換えるときに、この母親は赤線に売られることを恐れて拒絶するという。こんな歌がかつてあっただろうか。卒寿というからには、1917年生まれだろう。この母親の娘時代は、1932年のあたりということになる。日本が大陸に侵略国家満州を作り、分不相応な軍事費を持ったため国民が窮乏し果てた時代である。まさに「暗い谷間の青春」であったろう。226事件を描いた「叛乱」の中で、香川京子のこんな台詞がある。「私の村で身売りしない娘なんていないわ」。実際、村役場に身売りの斡旋係がいたぐらいだ。ひどい時代である。オムツを換えるのを赤線に売られると勘違いして拒絶するのは、おそらく公娼制度のもとでは、うら若い娘が恥辱の検査を受けさせられる、ということがあったのではないか。女性には人権のかけらもなく、売れるものはひとつきり、しかも男社会はそれに向かった「女はいいよな、体を売ることができるから」などと無神経極まりない言葉を浴びせかけるのだ(未だにそういう馬鹿は多くいるが)。この母は、かろうじて売り飛ばされることをまぬかれたのだろう。しかし、友達の中にはそういう人たちが多くいたのだろう。その恐怖がずっと、この女性の心の奥深く巣食っていたのだ。それが、呆けたときになって初めて言葉になって出たのだろう。なんとも痛ましい歌だ。この母は、どんな言葉でオムツを拒んだのか。「赤線に売らんといてー、売らんといてー」と泣きじゃくったのだろうか。短歌というのは、凄い文学だと思う。たった三十一音で、日本の恥部を暴くこともできるのだ。これは物凄い歌である。

悲鳴にも似た音をたて抵当に入りし向つ家こはされゆきぬ 水口秋桜

 今度は、上句が衝撃的な歌である。家というものは、いのちを持っている。人の住まない家が腐っていくのがその証拠だ。そして、家というのは住む者の個性によって、さまざまに面貌を変える。そんな家の一軒が、抵当に入って壊されていくさまをそのまま詠っている。そのまま詠っているからこその名歌である。悲鳴、という言葉に、家と同様に打ち壊された家族の悲痛がにじみ出ている。これも、単純な歌だがそうそう作れるものではない。痛ましい絵の浮んでくる名歌である。

妻を亡くしし人十日経て出でて来ぬ許されし休暇は十日であれば 荒井直子

 これも、見たままの歌であるが感慨深い。妻に死なれるという、天地が崩壊するような出来事に対しても会社というのは規定通りの休暇をしか与えず、人の死もそれがもたらした喪失と悲しみも、生者たちが黙々と回す歯車のなかに巻きとられ、挽きつぶされていく。「それでも人生は続く」と言えば聞こえはいいが、存分に悲しむ時間さえ与えられないこの社会では、人生を真に生きることも許されていない。良く生きるものは歯車にとっては邪魔者でしかないからだ。それにしても、なんという荒涼たる光景であろうか。

その昔こころ病む人住んでをり「天文学者」と皆に好かれし 古賀公子

 これも単純な歌だが、実に味わい深い作品だ。そしてやはり、ある種の痛ましさを感じる。その人は、心を病んでいたという。しかし、周りからは「天文学者」と呼ばれていたという。その人は日常生活の知恵がまるでないくせに、星の名前にだけは詳しい人、あるいはべつな惑星を故郷と認識しているような人であったろう。ごくたまに通行人を刺したりするのがいるせいで、「狂う」ということがつねに凶暴性を伴うように思われているが、実は精神病者のほとんどはおとなしい、悲しくなるほど優しい人々である。「正常な」人間どものほうがよほど始末が悪い。下品な弱肉強食の論理と世間知に従えない者が狂人の烙印を押され、社会から脱落し「星を見る人」となってありえない故郷へ帰る日を待ち続ける。そして、このような人がまだ居場所を与えられ、皆に好かれていたのは「その昔」なのである。無用者が、人間関係の潤滑油となって皆に笑顔と話題を提供していた(同時に、「あの人はクルクルパーだから」と公言するのが許された)時代がかつてあった。彼らが居場所を失ったときにはびこるのは、汚い水だけにわくボウフラみたいな連中ばかりである。無用の人がそれでも穏やかに生きることのできた時代へのノスタルジーと喪失の痛みがこの一首にこめられている。

 現在の短歌は、僕に言わせれば、修辞まみれの言葉遊びだ。どうでもいいことを飾った言葉で体裁つけてるようなのばかりである。だから歌に力がないのだ。見たままを詠う、というのは大変難しい作業だ。作者の視点のセンスというものが問われるからである。僕は、歌というのは畢竟、どのような視点で詠うか、である。数ある短歌入門書を読むより、結社誌を読み込むこと、それが、歌の上達に繋がると僕は確信している。
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:44| Comment(4) | TrackBack(0) | 日記

2007年07月19日

834 「塔」7月号「陽の当たらない名歌選」

 歌人が歌人であるための証明、それは歌を発表をし続けるということだ。あたりまえのことだが、いかに困難なことであるか。とくに、毎月発行される結社誌というのは、一般誌よりもきびしく、その発表する姿勢が問われる場である。つねづね言っているが、歌の出来不出来は問題ではない。歌を欠かさず出詠するという、その姿勢が最も重要なのである。それが歌人のアイデンティティの証明であり、それ以外の証明手段はないのである。月の十首の出詠歌ができない、などと泣き言を言うやつはすでに歌人ではない。時節柄たとえが悪いが、原発の核反応と一緒で、作歌への熱望というものは、一度火がついたらメルトダウンが地球を貫通するとも止むものではないのだ。歌ができない?ええかっこを言うな。できなくても、搾り出して無理矢理にでも作る。これが歌人の核反応というものである。
 今号は、絞りに絞っても、どうしても32首になってしまった。しかし、2首をあえてカットする。どなたかの選歌欄で採られることを信じる。採られなかったら、そのときはじめて僕がここにアップし、批評を書きます。今号も大激戦だった。
 今号の赤丸歌、栗木欄作品1、196首。真中欄147首。吉川欄130首。澤辺欄131首。池本欄121首。花山欄若葉集、136首。計861首。

      「塔」7月号・陽の当たらない名歌選

卒寿にて襁褓換えるを拒みいる母は赤線に売らるるを恐れ 中尾純子

悲鳴にも似た音をたて抵当に入りし向つ家こはされゆきぬ 水口秋桜

妻を亡くしし人十日経て出でて来ぬ許されし休暇は十日であれば 荒井直子

それぞれのうたをもち寄るこのゆふべわかれゆくため何度でも会ふ 佐藤陽介

選らばれし短歌少なき月なれば同じ少なき人の歌読む 鈴木俊春

バイタルチェック触れる老の手戯れに握りてくればそつと返しぬ 村木幸子

自治会費春の真昼を集めゆくいずれも音無き家をめぐりて 天野和子

降りてゆく人のひかがみ嗅いでおりバスの通路の盲導犬は 吉川敬子

宿無しの三毛猫テラスに七年を生きて早春の朝に死にたり 鳥居絹代

この医師の受診はもう止めにしようか貧乏ゆすり初めて気づく 西沢 良

やわらかに揺らぐ火群(ほむら)に手紙焼(く)ぶ火種の古きこの恋の束 歌川 功

中座する客をさかなに手もみする談志は膝に右ひじ移す 村松健彦

カレイシュウが加齢臭のことと気づく際刃物のような冷たさがある 池田幸子

震災前震災後と「事」を思ふなり戦前戦後と意識するやうに 小菅悠紀子

晩年の心構へを一人が言ふ相手の老いが大きくうなづく 後藤悦良

舫ひ杭に夜どほし繋がれてをれば小舟、みづから傷みてゆきぬ 梶原さい子

千年を経ても貧しき海女の村海が痩せゆく磯が痩せゐる 廣 鶴雄

少女期に海もて母を失ひしその子も海女に海憎みしも 廣 鶴雄

耳悪しき故の大声哀れとも海女ら我が家の灯へ帰りゆく 廣 鶴雄

新聞を綺麗にたたむこの人は丁寧ならむ人捨つる日も 秋場葉子

懐かしい人のようにも庇よりずり落ちてゆく雪をおもえば なみの亜子

名を呼ばれ診察室に行く人のふっと大きな息聞こえたり 小橋扶佐子

加齢臭がつきまとうてゐる少女居て家庭の事情を思うてみたり 新谷休呆

あさましき平和の顔がのっそりとひめゆり部隊の壕を覗きぬ 関野裕之

群れてゐる鴉に分け入るゴミ収集車赤とんぼを鳴らして巡る 武山千鶴

隣席より笑みかけて来る幼な児をやさしき媼のふりにあしらふ 廿日富貴子

さんずいに戻すと書けば「涙」にて泣けばわたしが戻ってきたる 井上良子

ふたりしてつひの住処の場所さがす霧の多い町はよしましょう 古堅喜代子

うらぎりは裏切るまでが苦しくてしらしらと夜はあけはじめたり 久保茂樹

その昔こころ病む人住んでをり「天文学者」と皆に好かれし 古賀公子

 以上、厳選三十首。三十という数を守るために、相当数の歌を涙を飲んで押さえた上でのアップである。読者は、読みとばすのではなく、じっくり一首一首鑑賞していただきたい。なお、やむなくアップできなかった名歌は、各選歌欄で取り上げられることを心から願っている。
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:41| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

2007年07月17日

833 歌人の戦略とは

 顔を売る、名を売るというのは、ジャンルによって意味がえらく異なる。たとえば、自らの肉体をもって表現する俳優にとっては、顔を売るというのは大事なことだ。まさに、顔に代表される素材のイメージというものにもとづいて作り手はキャスティングするのだ。歌人にとってはどうなのか。なにかといえば歌会やら批評会やらその他結社&超結社的集まりに出席し、顔を売ろうとするバカ歌人が世間にはいるらしい。全く意味がない。歌人が顔を売ったっていったいなにがどうなるというのだ。歌人はあっちこっちに顔つなぎをするよりも、まず作品の力をもって名前の認知度を高めることが先決だろう。名前を聞いて、「この歌人ならこの歌」とすぐに思い出せる作品のないような歌人があっちこっちで米搗飛蝗(こめつきばった)よろしく顔を売ったところで無意味である。見苦しいだけである。僕は、歌人の価値というのは、なんの賞を貰ったとかいう紙に書いた名誉ではなく、その歌が多くの人に記憶され、ことあるごとにその意識に浮びあがること、そうした本質的な名誉にしかありえないと思う。およそ表現とはみなそうだ、と言われるかもしれないが、ことに歌人の場合は、とりわけ賞というものの意義は低い。こいつはなんとか賞を取ったのか、じゃあこいつの歌を読んでみよう、なんて思わねえもんな。いや、誰のこととは言いませんよ。
 結社に所属する歌人は、とにかく欠詠だけはやめていただきたい。出詠し続ける人を僕はちゃんと認識していて、読み続けているのだ。出来不出来は関係ない。俺に名前を認識されていない歌人というのはそれだけで駄目である。僕が認識したい、というのはその人の歌人としてのイメージであって本人ではない。パーティとか、あるいは日常でも、歌人本人に会って顔を見たいとは思わない。僕が常日頃から「歌集に写真を載せろ」と言っているのは、歌集という総合芸術のための舞台装置としてそうしろと言っているのであって、ナマの歌人本人の毛穴だの鼻の穴だのに肉薄したいとは思っていない。歌集に付されるべき写真は歌人の歌の世界を象徴するようなものであるべきで、そこには演出とキャメラの力が必要とされる。演出なき歌人の写真などに用はない。
 歌人の場合、歌と本人とのイメージの相乗効果というのはかなり大事である。たとえば、浜田康敬、佐佐木幸綱、栗木京子、仙波龍英、島田修三ほかほか、歌のイメージと本人がぴったりマッチングする例もあるが、全然違う、という例もあるだろう。だから、歌人がのこのこ大勢の場に出ていって生の顔をさらしてやくたいもない言辞を並べる、ということには慎重になるべきであると僕は思う。
 この日記を読んで僕のイメージをあれこれ思い描いている人が、いざ実際の僕と会ったらあまりの落差に愕然となるだろう。これは僕だけのことではなく、およそ歌人というのは、歌と本人の実際との乖離が激しい場合がままあるのではないか。歌人はパーティで顔を売るものではなく、作品とイメージ戦略で名を売るものだと思う。俳優と歌人は、そこが決定的に違うところだろう。俳優は肉体で勝負するが、俳優にとっての肉体とは歌人にとっての作品(とそのイメージ)そのものである。歌壇内政治で名を売ったってなんの意味もないのだ。そのへん、わかっとらん連中が多すぎる。短歌にとってなんの益にもならん賞を無理矢理設けてパーティを開き、互いの顔つなぎなだけの挨拶をし合ってはおりませぬか?してないとは言わせないぞこの野郎。僕は、誰であれ歌人本人と会おうとは思わない。ただ、イメージのなかの歌人という存在を楽しみたいのである。歌人とはそういう存在なのである。

      今日のMYビデオ
「東京暮色」(昭和32年、松竹、小津安二郎)原節子、有馬稲子、山田五十鈴、笠智衆、杉村春子、中村伸郎、高橋貞二、山本和子、須賀不二夫

P・S・
 ちったあ反省したかと思って「結社ひとり」んとこに行ってやったがさらにひどくなっておる。俺は、「俺にも考えがある」とこないだ書いたが実行に移したるぞコラ。おまえは歌人として最低である。私怨だけでブログを書くんじゃない。結局のところ、いちばんアクセス数を気にしているのはオマエではないか。俺は、あくまで、誇示ではなく、読者へのお知らせとしてランキングを発表しているのである。実際、アクセス数なんぞ、どうだっていいと俺は思っている。問題は訪問者数のほうだ。6千人の読者数、これは確かに誇りに思っているし、そう思っていいことだ。これは俺や別な誰かが操作しようと思ってもそうはできまい。ちったあ、恨み事でない自分の、短歌に対する意見を言ってみさらせ。
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:22| Comment(5) | TrackBack(0) | 日記

832 本を捨てる!

 無性にイラつく。俺は、本を集める趣味などないが、短歌を始めたばっかりにやたらと本が増えやがった。頭に来ている。俺は決して、短歌をそう「読んで」いる方ではないだろう。それでも短歌の本はどんどんどんどん増殖しやがるのだ。そのことに無性にハラが立つ。だいたい、アララギ系とか心の花系とかちょうくう(字が出ない)系とかetc、これらを今から全体的に把握するのは不可能だ。要するに、短歌の歴史というものを総合的に理解するのは俺などには無理である。たかだか明治以降の130年かそこらの歴史が手に負えないのである。そのことにまた腹が立つ。歌集はあとからあとから出版され、総合誌もどういうわけかいっぱいあり、結社誌が毎月送られてくる。もう、どうしろというのだ。
 この俺ですら本の整理がつかない。短歌の本に、ゼニを出していることにも腹が立ってきた。とにかく、もう捨てることだ。捨てなければ、結社誌ですら保管できない状況になってきた。まず総合誌を捨てよう。総合誌といえば、肝心の小島なおが受賞した角川「短歌」がどこを探しても見当たらない。頭に来る。歌集ももう、捨てられるものは捨てよう。とにかく本の整理をする能力のない自分自身に腹が立っている。それに、私にはビデオコレクションという大事なものがある。短歌の本どもに、私の大事な大事なビデオ棚を侵食されてはたまったものではない。いったいみなさんは、どうやって本を整理しているのだろうか。面白い本の整理法があれば教えていただきたい。結社誌だけは、間違いなく毎月2冊ずつ増えていくのだ。この整理にすら四苦八苦である。みんないったいどうしておるのだ。総合誌は本当に邪魔だ。とにかくこいつらみんな捨てるぞ!
 短歌さえやらなかったらこんなに本が増えることもなかったのに。整理する能力がないから読みたい本がいつも見つからない、これにも腹が立つ。まったく出費が増えやがる。私は、あくまで、短歌の本よりもビデオソフトが第一なのだ。
 身近にたまたま本好きがいるので聞いてみたところ「みんな整理なんかしてないよ」とか「整理なんぞできるうちは蔵書じゃない」とか「ドアが閉まらないや開かないはあたりまえ」とか「床が見えるうちは文句言うな」とかひどい話ばかりである。本の山に埋もれて本が見つからないときはもう一冊買えなんて言うやつまでいる。狂気だ、狂気の世界だ。俺を狂気に巻き込まないでくれ!しかしそれにしても本というやつ、床に置いた本同士でまぐわって勝手に増えているのでは………やはり狂いかけているようである。俺は、本に囲まれてうっとりするような愛書狂ではないし、本なんて読んでは捨て読んでは捨て、がこれまでの人生だった。ただ、資料として残すべきものは必要であるということは、日記を書くうえで実感している。必要最低限のものしか残していないのにこの始末である。有名歌人の人たちは、毎月何十冊(何百冊かもしれない)送られてくる歌集をいったいどうしているのだろうか。これはもう、一種の暴力ではないのか!ぜえぜえ。いいかげんにしろ、というのが本音だろうし、ほとんどは開きもされずに紐でくくって資源ゴミであろう。だから、有名歌人に贈呈などしても無駄だというのだ。ただ、噂では、読まないくせに「あいつは俺んとこに送ってきた送ってこなかった」とチェックだけはまめにする歌人がおるらしい。バカめ。どっか消えろてめえら。おまえらみたいなバカ歌人がいるから、贈呈という悪習がなくならないのだ。つまらんプライドばっかり肥大させやがって。本というのは一種の凶器だ。ロクなものではない。自費出版のブームというのも狂った風潮である。とにかく、本に対して俺はすごく腹が立っているのである。
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:19| Comment(3) | TrackBack(0) | 日記

2007年07月14日

831 私の名歌鑑賞その2〜栗木京子〜

 僕が短歌に無知だったころ、どうして「現代短歌文庫/栗木京子」を買ったのか、その理由はさだかではない。ただこれも入院中だったが、「二十歳の譜」の中の、この一首に僕は目が点になったのだ。

蔑まれ蔑み返す目をもちて昨日の友よりアジビラを受く 栗木京子

 栗木氏と僕は同世代である。これはたぶん、1975年前後のキャンパスを詠った作品だろう。この世代は、思想と革命と夢とノンポリについて複雑な思いのある世代だ。戦争やファシズム、安保への嫌悪と、その嫌悪感の正しさを疑いはしない。だが、革命の季節を生きたと称する連中の、やってることと言ってることが大違い(連中ほど女性蔑視的でいじきたない個人攻撃ばかりやってるヘタレも珍しい)な、口ばっかの寄生虫的左翼ゴロ(いわゆるブサヨのはしり)ぶりを間近で身、到底そいつらの幻想に付き合う気などさらさら持てない。どこかにある答えを希求しながら目の前の「先輩」たちと数少ない追随者たちの純粋なる醜悪が見えてしまっている。と同時に、何もできない自分に苛立っている。反戦思想には共鳴するが、全共闘世代の偽善と内ゲバの醜悪、そして社会主義国家の失敗(当時すでにばれていた)を知ってしまったがゆえの距離感。かと言って、自民党政権が支持できるわけもない。つまり、人生でもっとも思想的な季節にあって、どこにも行けずに悶々とし、結局しらけるしかなかったのだ。フォークソングが、完全にラブソングへと移行したのが73年ごろである。それまでのフォークソングといえばプロテスト、抵抗の歌であるのが当たり前だった。しかし、その欺瞞が見えてしまった以上、僕らにできたことは、恋愛の小さな世界を守り、恋人と仲間の世界で閉塞すること、それしかないではないか。社会情勢より恋人との逢瀬が大事と歌った井上陽水の「傘がない」はその代表歌とも言えるだろう。しかしかといって、僕らが恋愛に脳天気にのめり込んでいたわけではない。僕の大学時代をひと言で言い表すなら、かったるかった。とにかくかったるかった。そして妙に寂しかった。栗木のこの歌に表現されたシチュエーションと同様の経験が、実は僕にもある。ある思想系サークルに勧誘され、行ってみたら、そいつらは真にその思想(人権的なもの)に共鳴しているというよりも、自分らはインテリの人権派なんである、みたいな陶酔とカッコつけが見え見えで、気持ちわるくて虫がすかなくて、ほうほうの体で逃げ出してしまった。真の純粋さのない思想はすぐにわかる。反対意見と客観的批判をてんから撥ねつけてマンセーな世界で褒め合いに没頭するからである。まさに、蔑まれ、蔑み返す目で、昨日の友からアジビラを受けたのである。
 キャンパス詠、というのは実は非常に少ない。60年代安保闘争の中の、岸上大作くらいではないか。その10年後の、70年代のキャンパスという世界を描いた歌は寡聞にしてまったく見当たらない。僕は、70年代がどういう時代であったかを百万言費やして説明するより、この一首を提示すれば事足りると思う、それほどのこれは名歌である。
 
観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日我には一生 栗木京子

 世評の高い相聞歌であるらしいと、歌集を入手したそのときに知った。それが、僕が歌壇をナメてかかる端緒となった。相聞歌としては非常に表現が陳腐であり、こんな内容だったら、詩や歌詞でいくらでも詠ってたよ俺たちは。観覧車?一日(ひとひ)?一生(ひとよ)?イージーである。ただ、この歌の自歌註を、栗木本人が最近雑誌に載せた。それによると、これは学生仲間数人とハイキングに行ったときの光景だという。つまり、この「君」というのは複数形であり、自分にとっては一生の思い出だが、あなた「たち」にとってはたった一日の思い出、という詩内容なのである。それを読んで、僕はあらためてこの歌を再評価した。自分以外は、今日という日を忘れ去るであろう、というその感覚は、実は全員が胸に抱いたものであるのだ。あの時代は、みんなでわいわい騒いでいてもとにかく寂しかった。「思い出づくり」という空疎な作業に若者が没頭するしかない、そんなやるせなさを共有しつつも、時代を共有することができなかった。共有できない、そのことが共通体験だったのである。栗木の第一歌集からそんな淋しさが、僕にはびんびんと伝わってくる。やはり、同世界の歌人なのだなあとつくづく思う。「蔑まれ」の一首が歌壇でとんと話題にならず、その時代の象徴性に着目する歌人もいなかったということが、歌壇というものの本質的な貧しさを示している。一度定まった評価を追随するだけが能である、そんな連中の評論などまるで信用できないのである。俺の、歌を読む目のほうが、有名歌人のそれより優れていると自負する所以である。栗木の第一歌集「水惑星」にはいい歌が多い。ただ、70年代という時代を意識して評論したものを見たことがない。栗木京子という歌人は、70年代の青春から出発した歌人なのである。今のところ、それをきちんと文章化したのは私くらいではないだろうか。でなければ、この「蔑まれ」の歌がここまで無視されてきていいわけはない。最後に、同歌集から、70年代をビビッドに表現した歌を何首か引く。

雑踏にて他人(ひと)と歩みの揃ふとき胸痛きまで我が孤独なる 栗木京子
実験が終ればいつも集ひ来ぬキャラバンといふ寂しき名の店
未来より思ひ出欲しと言ひし頃わづかに君は冷酷となる
力でも知でもあり得ぬ我ら酔ひ細き未来をうべなはむとす
学友よ、と連呼する声構内(キャンパス)の午後の寡黙にひくく響けり
春浅き大堰(おほゐ)の水に漕ぎ出だし三人称にて未来を語る
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:32| Comment(5) | TrackBack(0) | 日記

2007年07月13日

830 「短歌人」会員欄秀歌選、上半期ベスト30

 見えないものを歌にする、という主題を持った歌人がいるという。僕は、そうした歌を、「顕微鏡短歌」と命名し断固拒否する。歌は、見えるものをこそはっきりと韻律に刻むことが大事だ。その中で、見えないものを読者に提示する、これを「イメージを広げる」と言う。自己陶酔型のお耽美派、修辞優先の言葉遊び歌人などもっての他である。短歌は、インテリのおもちゃではない。見たまま、感じたまま詠う。実はこれが、大変難しい作業なのだ。その作業を怠るから、現代短歌から愛誦性が失われてしまったのである。
 「短歌人」上半期ベストをアップする。「塔」のそれとはまた違った趣があることを読者は感ずるはずである。一首一首、じっくり鑑賞していただきたい。判り易い、ということで読み飛ばしてはいけない。そういう歌にこそ、独自のイメージの広がりがある。秀歌とは、ほかの誰でもない、私が選ぶ歌のことをこそさすのである。

       「短歌人」会員欄秀歌選上半期ベスト30(順不同)

この街に老いゆく鴉の鳴くこゑのかなしげな語尾耳にしたしき 森 敏子

手をふって別れたときの表情をおもふのだらう つぎに逢ふまで 近藤かすみ

老犬と老婆の住まふ長屋坂朝な朝なに子守歌聞こゆ 森 通誠

猫に似る石の寝そべる森の中猫石川は音なく流る 安達広子

波というよりも心電図に見える海を眺めて笑う婆さん 丸井まき

真夜中に気になり覗けば老犬に掛けたる毛布ゆっくり上下す 立花マリ子

濡れ髪に櫛きしむおと櫛の歯に魔物はわらひうづくまるもの 安斎未紀

美しい国へと向かうこれ以上汚れることのできない船が 天野 慶

球場が芋畑に化けたことを知り復員兵ははじめて泣いた 砺波 湊

咳き込みてまた咳き込みてされどなほ煙草吸ひつぐ媼うつくし 斎藤 寛

化粧してだれにも会はぬ日が終はる化粧をおとす真夜のぬるま湯 近藤かすみ

旧き家壊さるるとき殉じたる雛人形の追悼をせり 本田鈴雨

浮遊感なんて言ひつつ齢かさね誤魔化し効かぬ齢迎へをり 牛尾誠三

警戒の目は総身に光るらし寝たきりの自己防衛の目は 松岡建造

年ひとつとればひとつできぬ事増えると恐れるひとりの時間 阿部美佳

折鶴に息を吹き込むくちびるのかたちを神はもちてゐたるか 伊波虎英

存在感あふれる杭だ立っているだけで流れを変えて止まない 山本照子

人避けて人さけている私にも年賀状来るこの世の便り 菊地威郎

イエスタディひくくうたひぬ患む友も逝きたる友も青き光よ 田中 愛

母熊の撃たるる音に逃げ惑う子熊の所在いまだに知れず 滝川美智子

波により壊されたから広がっていけるのだなあ月の光は 丸井まき

キンピラに一割まじる人参の味をたのしむわが愛国心 みの虫

窯より骨が運ばれ来たり舅からいびられし母一歩身を引く 生野 檀

分け目(カリマ)いれ髪結い上げて簪(ピニョ)を挿す弓射るような祖母の身支度 金二順

抱き締めあえばさらにあなたを感じおり合わせた腹の弾力にぶく 江國 凛

里神楽をへし男ら帯解きて日経株価を語る境内 三島麻亜子

冬薔薇は風にひらきつ指先をすべらせゆきし肌の恋しも 有馬美佐子

〈クニ様〉が〈ワニ〉様となり病室の名札に笑ひき母逝く前日(まへび) 竹内タカミ

くらべこしわが黒髪のはかなさを君ならずして誰か教えむ 土橋磨由未

寝たきりの母と妹住む家の天井裏にハクビシン棲む 志田節子

 以上、厳選三十首。何度読んでも飽きない歌うただ。なお、僕の推奨する歌に興味がわかないというアナタ、アナタとは一言の会話にもなりはすまい。アナタには、歌を詠む才能がないのだと、はっきり断言してさしあげよう。「塔」「短歌人」両結社様、会員である以上に読者である私を今後とも楽しませてくださいませ。よろしく。

P・S・
 ところで。
 ペンネームにはなるたけ、戦後の当用漢字を使ってください!パソコンだと出にくいじゃないか。これがパソコンの、ひいてはインターネット短歌の限界なのである(僕はペンネームでは黒田の黒に旧漢字を使っています、引用するかたはこだわらなくてかまいません)。
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:00| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記

2007年07月12日

829 結社と劇団

 無記名氏からコメントをちょうだいしたが、「塔」のことをもうちょっと書きたい。僕は、短歌の結社と、僕がかつて存在した演劇の世界における劇団とは、非常によく似ていると思う。俳優は肉体で自己を表現し、歌人はそれと同じことを、言語の力をもってする。そういう人たちが集まる創作集団は、劇団であれ短歌結社であれ、基本的な性格は似てこざるを得ないだろう。「塔」を例にとれば、なぜこれだけ会員諸氏が、熱心に編集作業に加わるか。もちろん、結社や短歌そのものに対する思い入れが根本にあるとは思うが、他結社に抜きん出てその傾向が強いように見えるのには、やはりある要素があずかっていると思う。ずばりその要素とは、河野裕子氏だと僕は思う。正直、彼女が永田主催の妻として「塔」の一翼を担っていなければ、ここまでの「塔」の隆盛と発展はあり得なかったろう。歌風も、アララギ=高安国世ラインの、抑制されたものから、ストレートな情念の世界へと「塔」を染めなおした河野の存在が、間違いなく在野の表現願望者たちを刺激し、ここまで会員を増やし、さらに増やし続けているのだと僕は思う。実際、高安ラインの歌風の結社だったら、僕も入会してはいまい。松村正直、岩野伸子、川本千栄、田中雅子、有友紗也香ほかほか、河野ラインで「塔」に入会したと思える歌人は数えきれないほどいると、僕には見受けられる。また、常々僕の主張に、「塔」は劇団にたとえるなら文学座だというものがる。これを敷衍して言うならば、河野裕子=杉村春子である。とにかく、河野氏にはカリスマ性がある。僕は、お話したことはないが、遠くからひと目みて「すげーや」と思った。その全身を包むえもいわれぬオーラは舞台女優以外のなにものでもない。ブランチだろうがスカーレット・オハラだろうがどんと来い、てな感じである。また、永田和宏主催の手になる文章や、短歌的マニフェストにはすごい説得力がある。押しが強く、あくも強い近江商人のど根性という感じで、読むとつい納得してしまう。おしどり歌人あまたあれど、永田―河野夫妻こそ歌壇に屹立する最強カップルであり、これを超えるものは空前絶後ではなかろうか。与謝野鉄幹、晶子夫妻以上と言っても過言ではない。また「塔」若手には注目すべき歌人が多い。柴夏子、常盤義昌、相原かろ、徳重龍弥などを筆頭に、毎月ユニークな歌人たちが参入している。要は「塔」という結社は、ベテラン、中堅、若手、新人と、うまいぐあいにバランスが取れているのである。この結社のことを僕が恐ろしいと表現するのは、その勢いのとどめがたさにある。これは僕だけにかぎった意見ではあるまい。実際、短歌総合誌を読むよりも「塔」を読んだほうがよほど短歌的こやしになるというものであろう。総合誌が掲げるやくたいもない特集よりも、「塔」の企画のほうがよほど面白いというものだ。
 他にも、劇団にたとえたい結社はいろいろある。たとえば(他意はござらぬただのお見立てですからなふふふふふ)「未来」は、劇団で言えば民藝だ。すなわち、近藤芳美=宇野重吉であり、岡井隆=滝沢修なのである。近藤という巨星亡きあと、「未来」(このネーミングがすでにアナクロである)がどのような展開をとげるか、注目していきたい。ここもまた、若手歌人が活発である。だが、まとまりという点ではどうだろうか。近藤という指標をなくした不安と脆弱さを、つい感じてしまうのである。「短歌人」は、集団合議制を柱としている青年座と重なる。ただ、集団合議というのは、創作集団にとって、総合的に言って強力な発展を阻む要素ともなる。たとえば、大スターである西田敏行が、青年座所属の劇団員でありながら、その幹部となり得ていないことがそれを如実に語っているだろう。大手の新劇劇団がぱっとしないのは、杉村春子に相当するようなカリスマを喪失し、現代的均質性に飲みこまれているからだろう。それと同じことが短歌結社にも言える。「塔」は、河野裕子というカリスマと、栗木京子というスターの両輪によって、奇跡的に組織の隆盛のバランスを保っている結社だ。
 ここまで読んでくれた読者は、「まーた黒田が『塔』のチョーチン記事を」と思うだろうが、俺はただ単に事実を言っているだけである。「塔」はこれからも伸びる。間違いなく。
 ちなみに私は、「塔」と「短歌人」に所属しているが、あくまでも気持ちはフリーである。いかなる組織にも、心情的に飲み込まれないためにこそ、二結社に所属しているのである。両結社のいいところをたっぷり滋養として、私はエゴイスティックに自分の歌の発展のにみに腐心していきたいと思う。だからこそ、この両結社のさらなる活性化を望んでいるのである。それがそのまま、わたしの滋養となるのだから。
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

828 恐ろしい結社〜「塔」またも好企画!〜

 「塔」7月号届く。特集「塔」ができるまで、が抜群に面白い。一冊の結社誌ができるまで、が写真つきでこと細かに解説されていて、小学校時代の社会の教科書の「なになにができるまで」の図解の楽しさを思い出した。河野裕子氏が選歌している机で、でかい顔してごろごろしている猫がかわいくて印象的。けっこう写真がこっている。アングルがなかなかよく、撮影者はただ者ではあるまい。それにしても、松村編集長はすごいなあ。初校をチェックし、まとめ、ひと晩かけて全体的な見直しをする、と簡単に言うが要するに徹夜である。いや、これには頭が下がる。松村編集長のみならず、校正者や選者のかたがたの日々の苦労を思うにつけ、京都方面に足を向けて眠れない、てな感じである。単純に驚いたのは、作品2欄の送り先である黒住夫妻のことである。僕は、単純に、来た封書を、六人の選者の名前の書かれたダンボール箱に順番にほいほい放り込んでるだけかと思ってたが、いちいち開封しているらしい。これは面倒くさい。僕だったら、ハサミで切ろうとして中身まで切っちまうだろう。しかも作品2の会員については、どの選者に割り振ったかいちいち記録するらしい。これにはぶったまげた。これはとてもめんどおくさいことである。まる。俺だったら日給6000円は貰わないとやらないし、それだって1時間で飽きて年金課の役人よろしく帳簿づけなんかいいかげんなことにしてあとで大問題をかもすだろう。
 僕は、この特集を読みながら考えた。いったい、この編集にこれほどの熱意を持って参画の、短歌に対するエネルギーとはいったいどこから来るのか。これは尋常ではない。俺の短歌に対する思い入れなどは足もとにも及ばない、数十倍、数百倍にのぼるほどの情熱があるとしか思えない。だってこんなの、私生活を完全に放棄しないとできないではないか。みんな、九時五時の、生計をたてるための仕事がすんだあとにやっているのである。私生活のほとんどを「塔」に捧げているといっても過言ではない。ただ、俺にも心情的にわからないわけではない。俺だって、最近金銭トラブルで死にそうになったとき、歌を詠んだり読んだりすることで、どれだけ気持ちが安らいだことか。短歌というのは、絶望的な気分のとき、その傷口に染みてくるような、そんな文学であるのだなとつくづく思った。だから、伊藤左千夫や長塚節の、あの絶望的状況のなかで歌に熱中した気分が少しはわかるのである。俗な言い方かもしれないが、現実逃避の手段、として短歌は最適なツールであるという気がする。
 およそ編集という作業は、「塔」などの短歌誌に限らず大変なものであろうとは思う。ただ、その過程を、絵物語のようにして構成した今号は素晴らしい。はっきり言って、「塔」誌の毎号の企画は、総合誌が見習ってしかるべきなほど、作歌するものの需要と好奇心に応えている。今号の企画はことに、かつての「私の偏愛する塔の歌人」に次ぐ大ヒットである。読者諸氏よ。総合誌なんかより、なんとかして「塔」を入手して読みたまえ。そのほうが、どうせ短歌に金を捨てるなら有効な使い道である。いや、この結社は恐ろしいな。どんどん伸びるぞ。
 ちょっと襟を正して出詠したいと思う。欠詠などもってのほかだ(したことないけど)。とにかくこの結社は恐ろしい。
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:26| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記

2007年07月11日

827 「結社ひとり」の醜態

 今日は日記を休もうと思っていたが、今をときめく「結社ひとり」なる人物のおやりになっているブログをついのぞいてしまい、あまりのくだらなさにへそが茶をわかしたのでちょっとだけ書く。松村正直の歌集「やさしい鮫」をぼろくそにけなしているが、これが噴飯ものでおれは思わずビールを噴いてパソコンを汚してしまった。諸君まあ一読してくれたまえ。
http://blog.livedoor.jp/beresit/archives/50933901.html
 こいつは、短歌を単なる日本語文として読むのだと偉そうに宣言しているが、「わたし馬鹿ですが文句がありますか」と言っているのと同じである。確かに吐き気がするほど馬鹿である。馬鹿には文句があるに決まっているではないか。こいつの歌評というのは、本人が馬鹿宣言をしただけのことはあってひどい代物であり、わたしは某所でたしなめたことがあるが、反論できなかったのでそれを恨んで僻んでいるというのがひと目でわかるたわ言である。えー「結社ひとり」君、「結社ひとり」君。キミの文章なるものは無駄に長いうえに私怨と無知と、読解力になさに開きなおった馬鹿の地団太の域を出ないものであり、最初の数行だけでおよそまともに取り組む気も優しく諭してやる気にもならなくなる代物である。要するにお前は俵万智が好きなんだろう?だったら、単なる芸のない雑言を垂れ流さずに、俵のどこがそんなに良くて、俵を批判する連中のどこがどう間違っているのかちゃんと論証しろ。こう言ってやっても、そうしないのは目に見えている。なぜならその能力がないからである。ない袖は振れない。ちなみにこいつは別名義での短歌活動もしておりそれがなんという名であるか俺は知っている。わたしには密偵がたくさんいる。ちょっとキミは歌人としての姿勢がなってなくはないか?だいたい歌を批評するのに、日常言語による散文的表現でないものを「わからないなぜなら知識はないからだ」と開き直って否定するのが批評と呼べるかね?いったいいつから文学が文字通り「サルでもわかる」ものでなければならなくなったのかね?字の読めないサルが自分のレベルに合わせてくれないと木のうえでわめいているのに付き合う義理は誰にもない。彼についてはもっと言いたいことがあるが、このへんでやめといてやる。武士の情けである。今後もう相手にするのはよす。まあ誰も相手にしとらんだろうが。ブログを閉じろと言いたいところだが、このまま生き恥を晒させておくのも面白いので言わないでおく。まあ、言えば言うほどだれもオマエを歌人だなどとは思わないであろうが、また俺の怒りの琴線に触れることがあれば、こっちにも考えがあるからな。
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:17| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

2007年07月09日

826 愛誦性(ヒット性)こそが命〜「塔」上半期陽の当たらない名歌選ベスト三十

 今年も半年が過ぎた。恒例の、上半期ベストを発表したい。
 何度読んでも飽きない歌とはなんだろう。それは、イメージの広がりと、刹那を衝く的確な描写力だと思う。単純な歌でも、その視点の鋭さによって、いくらでも読者のイメージを広げることができる。たとえが妙かもしれないが、ギターで言えば、Cの循環コードに、無限のメロディのバリエーションが生じうるということだ。ポップスの名曲「ダイアナ」なんて、CAmFG7のたった4つの繰り返しであんないい曲たりえている。「上を向いて歩こう」だってGの循環(ちょっと違うとこもあり)だし。ポリスの大ヒット曲「見つめていたい」も一見簡単で単純そうだが、奥深く、歌おうとして挑戦したものの大部分は沈没するであろう。僕は、上手い歌、技巧がかった歌には興味がない。というか、飽きる。短歌は、マイナーコードのこんぐらがったものではなく、CやGの循環コードに基づく普遍的韻律であってほしいものである。すなわち単純な表現(愛誦性、ヒット性)を持ったものであるべきだということなのだ。現代短歌にはそれが決定的に欠けている。小難しいくせに、瑣末すぎてくだらないことばかり歌いくさって。
 では、「塔」の上半期ベストの発表である。ぱんぱかぱん。一首一首、じっくり鑑賞していただければ幸いである。

      「塔」上半期陽の当たらない名歌選ベスト三十(順不同)

捕獲さるる度に誰かが引取りて四丁目にゐた「あか」といふ犬 酒井久美子

麦わらのストローのさきのしゃぼん玉ぼんやり重きこどもの時間 出 奈津子

教室の窓より光る森見えて行けども行けどもその森はなし 乙部真実

つくりたる吾が稲荷ずし幼らは百個食べたきと言ひてくれたり 水口秋桜

遺されし者らに幸を運ぶ死の確かにあるを確めたら泣け 保村たまき

手を振れど気付かれざるに下がりゆく右手はしばし髪に触れおり 永田 紅

母言うを確かめんと顔寄せるとき難聴吾の眼鏡吹っ飛ぶ 橋本英憲

この病室に妻逝きすでに九年経しドアの取っ手に手触れて帰る 相沢大也

かすかなる鈴打つ音を二度聞きぬ空耳ならず確かなる音 河合貞子(故人)

ひとり居のきらいな人とこなごなの時間のなかに鶴を折りあう 山下 泉

不幸なのがいやなのではなく不幸だと思われるのがいやだと泣いた 飯村みすず

さまざまな武器を持ちたる右の手に今は静かに杖を突きゐる 藤本北夫

あなたとは一度も喧嘩をしなかった死に近き母がぽつりと言えり 徳永香織

狼に見えなくもない影曳いて犬の小丸(こまる)が前を歩めり 柴 純子

台風は家族を居間に集わせて思い思いの話をさせる 金丸繁利

むかしむかしヒューズが切れた暗闇にたのもしかった父のあの声 潮見克子

履歴書の趣味・特技欄いっぱいに白いインクで「詩人」と記す 相原かろ

怪奇的青空のもと読みかへすニュースをすでに読み物として 澤村斉美

袴付けブランコに立ち乗りする母を撮影したる人物不詳 山内貞子

あの人はネコのような人だった溜め息なんて似合わないひと あかり

ワイパーが雨の凄さに追いつかないここで降りてと目を見ずに言う 空色ぴりか

こんなにも孤独が辛いものだとは不覚でしたと告げて友逝く 安川良子

駅に会ひ駅に別れし武田尾の駅は無人の風くぐる駅 友田勝美

ブランコの高くなりゆくときが好き みぞおちがふわり未知にふくらむ 井上良子

黄葉の散りて小暗し帽子ぬぐ兵士のように暮れゆく窓は 山下 泉

京都駅のずうっと奥と人の詠む山陰線にわたくしが住む 白根佐知江

ぼそぼそを何か言いつつ遊びいるこの一人子はさわぐことなし 須藤冨美子

ががんぼは身の不始末を詫びにきたあの夏の痩せた叔父さんのやう 久保茂樹

祖父の名は愛蔵≠ニいへり墓石に刻まれてあることのみに知る 西内絹枝

山に慣れし足にて歩む谷の道妹は唄うたっていたのかも 金森靖子

 以上、厳選三十首。

 僕は、技巧とか、修辞とかにまみれた、いかにも「作りました」という歌は大嫌いである。読めばすぐわかるのである。ここに挙げた三十首は、シンプルでありながら、何度読んでも飽きないドラマ性に満ちている。どの作者にとっても、おそらくは変にひねったりせず、心のままに刹那を詠ったものであろうと想像される。短歌とはこうでなければいけない。短歌とは、カーブやフォークや大リーグボール一号ではいけない。あくまでストレート勝負である。でなければ、読者の心に残ることはない。もちろん、啄木のように多少は技巧も必要ではあるが。
 「短歌人」名歌選はまた後日。お楽しみに。
ニックネーム 茶トラのみんく at 21:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2007年07月07日

825 「月刊歌集世界」創刊を待望す

 世に短歌雑誌あまたあれど、僕が真に読みたいと思う短歌雑誌のありかたからはほど遠い。僕が読みたい短歌雑誌とはどんなものかというと、ずばり「月刊歌集世界」とも名付けるべきもので、その月に出たすべての歌集の名前とそれへのコメントが網羅されているというものである。注目すべきと思われる歌集を編集部がピックアップし、それは大きく取り上げ、評者が何首かピックアップし評論する。第一歌集は第一歌集だけで特設コーナーを設けるべきだ。第一歌集というのは、要するにデビュー作なのだ。読者としては、「さて今月はどんな歌人が歌集デビューをしたかな?」という興味がわくというものだ。今の総合誌は、いったいなにを基準にして取り上げる歌集を決めているのであるか。何人かの歌人が何十冊かの歌集を割り振られて評しているように見えるが、基準が見えないのでだらだらした、単なる消化試合的印象しか受けない。短歌総合誌のついでのコーナーみたいなんでなく、前の月に出た歌集を全部紹介する専門誌を月刊で創刊してほしい。総合誌における歌集評の欄なんてもんは、ヘタすると出てから半年もあとに載ったりして、あきらかに、買い手、読み手としての読者を意識したものではまったくない。どこの世界に、出てから評が載るまでに半年かかるメディアがあるか。どう見たって、歌壇政治的な、順繰りで与えられるどうでもいいような賑やかし以外のなにものでもない。要するに、これだけ毎月ひっきりなしに膨大な歌集が出ているのに、情報が追いつかないし、追いつこうとする意志すらない、そのことが問題なのだ。有名無名を問わず、興味を引く歌集の情報を知りたいのに、短歌メディアがその手助けをしてくれない。ぜひ、歌集の出版状況を即座に、総合的に、全体的に伝達してくれる雑誌に登場して欲しいのである。それは歌集の売り上げにも寄与するだろうし、また歌集を出そうという人の励みにもなるはずだ。総合誌のあの、半年も一年もたってから載る、どうでもいいようなつけたりの歌集評、いったいなにを基準にしてやっておるのだ。あんな遅い評をだらだら書くことになんの意味がある。僕の理想とする「月刊歌集評」は、そうしたタイムリーな歌集記事とあわせて、歌壇の動向やビビッドな短歌評も併せて載るものであり、もし実現すれば現在跋扈しているようなぬるい短歌総合誌などお役御免だろう。とにかく、一首であれ歌集であれ、評が出るのが遅い、遅すぎる!なみの亜子や大辻隆弘が、いったいどこをどう解釈して「短歌評の出るのが早すぎて消費されてしまう」などというたわ言をほざくのか、理解不能である。いや、僕はなによりかにより、出た歌集の情報を即座に知りたいのだ。たとえ結社の肝いりでなく、合評会の対象とならずとも、僕がタイトルと寸評だけ見て「おっ」と思うような歌集が必ずあるはずだ。短歌総合誌の今のやり方では、そうした歌集を見つけるのは不可能である。とにかく情報が遅い。遅すぎる。歌集の出版情報はビビッドであるべきであり、僕はそういう情報が読みたい。そもそも歌集出版の世界には予告や宣伝がほとんどないではないか。音楽や小説だったら考えられないことである。これでは歌集は、いつまで経っても寄贈と関係者が買うだけの世界で、一般読者が買おうという気を起せないではないか。そんなのは文学ではない。形骸化した古典芸能である。もっと歌集を、身内の互助会でなく無関係者にも買わせるような努力を歌壇も短歌出版社も心がけるべきである。まあもっとも、歌集出版社など、自費出版を頼りにしてるだろうからそんなリスクは冒すまい。しかしな、いつまでもそんな甘い考えが通用すると思ったら大間違いである。企業努力をしない企業は潰れる。自費出版がいつまでも盛況だと思うなよてめえら。自費出版のマーケットを支えている、あほな自称文学者がいつまでも供給され続けるとは思えない。歌集出版社が、お客がいなくて青ざめるような状況がきっとくる。その時になってお前ら、慌てるなよ。

      今日の三首
圭一郎きさらぎに死す菊月を東京ドドンパ娘がわらふ 仙波龍英
北千住ゆきかふひとの影うすくエクトプラズム肛門から曳き
ぬるき雨ふりしきる真夜さかな焼く死者の夜明けを待ちわびながら
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

824 短歌(うた)は残酷な文学

この文字をなんと読むかと医師が言う癌(がん)ですそうだと宣告終わる 神林千代松

 短歌とは、ある意味残酷な文学だと思う。シビアな状況の歌を詠み、読み手がそれに感動し、また、作者もそんな状況を韻律に詠おうとする。これはどういう心理なのだろう。結局のところ、人間というのは自己表現、といえば聞こえはいいが自分を知ってほしいという願望にとりつかれた生き物なのだ。短歌というのは、まさに、その自己表現の魔物に魅入られたものの文学ではないのか。一銭にもならないのに。
 医師と作者の関係に興味をおぼえる。これは、作中主体が何年も付き合った主治医なのではないか。医者は医者で、癌をどう告知すべきか迷ったことだろう。「癌」という文字を患者本人に音読させ、宣告をそれで終わらせたという。ここに、黒澤明「酔いどれ天使」における医師志村喬の、死病に侵されたやくざ三船敏郎に不治の結核の宣告をするときの皮肉な愛情めいたものを僕は感じる。実に映画的な一首である。ただ、そう鑑賞している僕もまた残酷なひとりである。短歌とは、残酷な韻律である。

「退職をします」と切り出すカウンセラーの眼を視なければ、初めて視る眼 生野 檀

 これも癒すはずの側と患者との歌。ここにはなんとも情けない空気が流れている。カウンセリングされる側にとって、カウンセラーが退職するなどと打ち明けられるなんてたまったものではない。四句と五句が非常に面白い。ここで妙に、両者の立場が逆転しているのだ。眼を視なければ、初めて視る眼とあるが、これが作者の「えええええ〜〜〜そんなアホな」という崩落感を表していて面白い。これも、本人にとっては面白いどころではないが鑑賞者は思わず笑ってしまうのである。作者は、初めてカウンセラーの眼をまともに見てどう思っただろう。精神科医もそうだが、カウンセラーというのは本人の抱える問題を解決したくてなる人がけっこういるという。傷ついたものは傷ついたものの助けになれるだろうという発想、あるいは仲間を見つけたいという願望だろうか。実際は、心の病もまた、Aのひく風邪はBのそれと変わらないように無個性であることを知ってさらに落ち込むのが落ちだとも聞く。カウンセリングをする側とされる側が瞬時転倒するようなナンセンスな筒井康隆的笑いがここには潜んでいるように思える。

踏切の上りと下りの空間に卓袱台を置きアリスとお茶会 天瀬由梨絵

 一読して目が点になった。寺山修司「田園に死す」のラストシーンのゴスロリバージョンかっ。まずこのシチュエーションは、寺山の分身である主人公が、新宿東口で、母親と卓袱台を囲んで食事しているシーンを彷彿とさせる。しかしこの歌では、アリスとお茶会をしているという。しかも、踏み切りと上りと下りの線路の間という必殺な空間においてである。この発想がすごい。僕は、「不思議の国のアリス」にはとんと不案内なので、別役実の戯曲によく出てくるアリスや三月うさぎ(短歌の本をよく注文する三月書房ってそういう意味か?)や気違い帽子屋なんかを参考にすると、アリスは穴に落ちてわけのわからん連中とわけのわからんお茶会をした、ということでいいらしい(違っていたら謝る)。別役のそうした芝居で見るアリスはいつも、少女らしい外見をしてエプロンつきのドレスを着て、いかにも小娘らしい無自覚で幼稚な色気を発散していたから、それがアリスの共通イメージということでこれもよろしいかと思う。つまり、アリスとは成長や現実を拒否し、幻想の世界で生きることを、それもきわめて過激にそうすることを選ぶ精神をあらわしているだろう。日常とは容赦もなく動かしもできないものであるが、線路と線路の間、などという不可侵の場が、理性では把握できない隙間にふいに生じる。そこに、社会にコミットしないという決意をもつものが住みつくのだ。社会というものが耐えがたいのは、それが醜いからではない。醜さすら棲息できないような均質性がそこにはあるからだ。日常をフィクション化しようとする強烈なプロテストを、この幻想的な一首には感じるのである。最近、「短歌人」には、ユニークな視点を持つ歌人がどんどん増えている。この天瀬さんもその一人だろう。期待する。

 秀歌とは、結社の選者が選ぶ歌、を指すのではない。自分がいいと思った歌を秀歌というのだ。読む側にも、その読みの姿勢に独自性があるべきである。いくら結社がほめたたえる歌人であろうとも、俺があかんと思えばあかんのだ。正直、俺が注目しないような歌人は、結社内でどれだけ評価を受けようが駄目なのである。
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:23| Comment(5) | TrackBack(0) | 日記

2007年07月05日

823 「短歌人」7月号会員欄秀歌選その25

 「短歌人」第6回高瀬賞が発表になった。受賞作は川井怜子「六月輪唱」と河村奈美江「島」。この両氏の受賞にはまったく異論がない。特に河村氏の「島」には好感が持てた。職場詠であり、そのある1日をフットワークよく描ききった構成力に感心した。気持ちのよい連作である。また、候補作になった作品のなかにも、選評を読んで、読みたくなったものがかなりある。今回惜しくも日の目を見なかったそれらの作品を、毎月の出詠歌として出していただければ読者として幸いである。
 秀歌選は三十首と決めているが、これには意味がある。三十首を超えたら、読者の集中力が薄らいでくると思えるからだ。三十首というのは、ちょうどいい数だと僕は思う。不思議と、二回に分けてパート1、パート2などとやると、これがまたアクセス数ががたんと落ちるのである。書き手もわがままだが、読者もわがままである。
 今月の赤丸歌、会員1パート1、133首。同パート2、132首。会員2パート1、99首。同パート2、98首。計462首。

      「短歌人」7月号会員欄秀歌選その25

この文字をなんと読むかと医師が言う癌(がん)ですそうだと宣告終わる 神林千代松
「退職をします」と切り出すカウンセラーの眼を視なければ、初めて視る眼 生野 檀
踏切の上りと下りの空間に卓袱台を置きアリスとお茶会 天瀬由梨絵

葬儀屋のごとく段取り指示が出来、嫌な女になったと思う 小林尚生
樋井川のコンクリート護岸にまぼろしの若草あをく萌え出づるなり 三良富士子
風に踊るはなびらよああ「花吹雪」ちあきなおみの声が降るやう 小野さよ子
自販機に缶補充する青年の腕(かひな)清しく伸び縮みせり 河村奈美江
ボクサーは幼虫を吐くと信じてたマウスピースを知らぬあの頃 砺波 湊
書き写す寺山修司に斧のうた多きをいひて母は黙せり 梅田由紀子
「食べる物を下さい」はっきりと言う乞食いて饅頭なんぞをいそいそわたす 岡 頌子
開発のすすむ林のわき道に「銃猟禁止」の錆びた標識 清沢桂太郎
わが友がテレビにをりぬテロップの「近所の人」は添へられてあり 大越 泉
公害を告発せし人の其の後知る村八分ならぬ親類八分とぞ 池田弘子
夕やみに仄かにまねく花梨花(かりんばな)ははの手紙の旧かなづかい 会田美奈子
薄情なアスファルトだね孤独な吾に蹴る石ひとつ与えてくれない 山本照子
根拠のない自信を頼りに生きていく足跡のない道を歩かば 野村すみれ
工事中の道行く車その地点で必ずガタンと跳びはねて行く 菊地威郎
鏡の前かみがたを問はれよみがへる くろぐろ、ニヒル、おお三田明 薄葉 茂
頭(づ)の泡をアトムのごとく逆立てて連れて来られしパロマの時代 薄葉 茂
頬寄せて小顔の吾子と写りたる無駄に大きな新郎の顔 犬伏峰子
長女ゆえ長女らしき顔つくりつつ流れのままに葬儀を終えぬ 畑中郁子
死者の都(ネクロポリス)王家の谷を跋扈する資本主義者はサングラスして 藤田初枝
「妊娠中」と身振りで告ぐる馭者がまたムチをくれたり身重の馬に 藤田初枝
曇り日の桜薄墨色をおび桐壺の更衣かくにやあらむ 野中祥子
亡き母に出逢いしようなる老婦人地震(ない)のニュースにはつか映りぬ 御厨節子
選挙カーに手を振ってみるいまだけは社会に受け入れられる気がして 魚住めぐむ
篠懸の通りに面しカフェはあり常に微風の吹き込むあたり 三島麻亜子
売店に35度の泡盛をぐい飲みすれば売り子青ざむ みろみ
ゴミ袋二つ抱えて捨てに行く豊かな乳房のごとく揺らして 田端洋子
ほどけつつ竜の膚(はだえ)となりかわる飛行機雲は西天に伸ぶ 荒井孝子

      今日のMYビデオ
「小原庄助さん」(昭和24年、新東宝、清水宏、音楽・古関裕而)大河内傳次郎、風見章子、清川虹子、飯田蝶子、田中春男、清川荘司、日守新一、赤坂小梅、鮎川浩
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2007年07月04日

822 歌人にプライドはないのか?

 まず、小話でご機嫌をうかがわせていただきます。

「このたび、先生の作品を我が社出版のアンソロジーに載せていただきたく会議で決定いたしました」
「ありがとうございます!」
「当社としては、10万円でお願いしたいのですが」
「いや、そんなに戴いては申し訳ありません」
「いえ、10万円を払っていただいたうえで掲載するということなのですが」
「馬鹿野郎氏ねおととい来い」がちゃん。

 これは、結構巷によくある会話ではなかろうか。ただし、「おととい来い」は少数派で、「ありがとうござります」と受話器に向かってぺこぺこ頭を下げるバカ歌人が多いのではないか。自費出版社からしてみれば、歌人なんてのは甘ちゃんのカモもいいところである。結社誌に、ノーギャラで文章を書くとか、自費出版で自主的に金を使うとか、これは仕方がない。んがしかし、上記のようなゴロ出版社から、「自分は選ばれたのだ」と思ってほいほい金を出すバカ歌人にはプライドのかけらもないのだろう。なんで自分の歌を、金払って「掲載していただく」必要があるというのだ。多少なりとも歌に自負のある歌人なら「馬鹿野郎氏ね」というのが当たり前だろう。しかし、涎を垂らして大喜びし、なけなしの10万を払って「掲載していただく」甘ちゃんが歌人には多いのだ。そういう例が多いから、自費出版のヤクザ会社の食い物にされるのだ。
 朝日新聞夕刊に、実に面白い記事が載っている。「自費出版業者を著者が告訴した」とのことである。出版社側が、「全国の書店にアナタの本を拡販します」という約束をしてくれたので大枚払って本を作ったのに、その約束が反故にされたという。まず、この出版不況の時代に、自費出版の本が全国展開なんぞできるわけがねえだろがアホ。いや、それを言ってはいけない。これは原告ではなく、あくまで出版社側に非がある。はっきり書くが、これはおそらくかの悪名高い新風舎のことだろう。僕の知り合いにイラストレーターの人がいる。この人は新風舎の「コンテスト」というのに応募して落ちたが、そのすぐ後「あなたの絵本は素晴らしいので是非出版したい」「ついてはいくら出せ」と具体的な数字をつけて打診があったそうである。その人の絵本なるもの、僕は読ませてもらったが、言っちゃ悪いが自費出版レベルでもひどい代物である。さすがにそうは言えず、「夢があっていいですねえ」とだけ言っておいた。彼は、「宮崎駿を越えたい」などとのたまっている(涙)。たださすがに、その会社からの自費出版の話には僕は強く反対した。彼もしぶしぶ同意したが、あとでそうしておいてよかったと言ってくれた。歌集を出すのに自費を投じる、これはもう仕方のないことだろう。が、しかし、たかだか三十首四十首載せてもらうために金を払うというやつ、これはバカである。歌人としてのプライドがあれば、そもそもそういう話には乗らないはずだし、また、乗ってはいけない。本当にやる気のある出版社なら、赤字覚悟でも、自分の見込んだ歌人の歌集を印税保証で出してやる、というのがあるべき姿だろう。大手から出る小説のたぐいじゃあるまいし、印税保証なんて短歌の世界にあるかアホ、と言われるかもしれないが、だからいかんのだ。それを当たり前と思って、自分の歌の商業的価値を軽視するから、出版ゴロの食い物にされ、結果ろくでもない本が乱発されるのだ。どの本のことを言っているかは、賢明なる読者諸氏にはおわかりのことと思う。自歌にプライドがあるなら、たとえ一首あたり300円でもいいからギャラを取れ。自分から「掲載料」(これは普通貰うものではないのか)を払って載せていただくなんぞという事態は決然として拒否せよ。そうした矜持が、歌壇を馴れ合いの不健康さから回復させるのである。
 「通りすがり」さんからのコメントによれば、この日記は野次馬根性で読まれているだけだとのことだ。それは正しい読みである。僕は、このブログを権威にしたいなんぞとはぜーんぜん思っていない。娯楽や、「あの狂犬が今日はまたどんなバカなことを言ってるのかな」という興味で読んでいただければ本懐である。僕は、このブログを一回読んでくれた人が何度も読みたくなるという戦略にもとづいて書いている。決してただ思いついたままをだだ漏れに書いているわけではない。だから、「通りすがり」さんみたいな人は、最高のお客様なのである。ここみたいなブログが10や20、出てくれば初めてその時、インターネット歌壇は活性化していると言えるだろう。とにかく、歌人のサイトにせよ、一般誌の文章にせよ、「読まれるために面白く書く」という努力がまったく認められない。およそ歌人の書くエッセイは、少数の例外を除いて、読み物として面白いものなど皆無にひとしい。ありていに言って、歌壇的権威をとっぱらってしまえば、極めてレベルが低い。そのままネットに載せておれほどのアクセス数の稼げる文章家などまずいないだろう。なぜ自分のサイトのアクセス数が少ないのかと嘆いている諸君は、この日記を読んでよく勉強するがよろしい。毎日読みたくなるような短歌ブログなんて、ほんとないもんな。いや、それよりなにより、こいつら滅多に更新しないで廃墟状態にしとるじゃないか。だったらもう閉鎖しなさい。このような活気のなさが、インターネット歌壇の現状なわけだが、なみの亜子氏は、「批評の状況がインターネットやブログの掲示板で大きく変わった」とのたまっている。嘘つけ。こんな大嘘が短歌時評と言えるのか。なんか言ってきてくださいよなみのさん、貴女、これ読んでるでしょう? 短歌時評というのは、時評というからにはタイムリーなもののはずで、誰ぞの歌集を持ち上げたりするためのものではないだろう。歌壇のシステムというものを撃たねば駄目だ。そしてそのシステムは腐りきっている。凡百の短歌時評より、この日記こそが真の時評だと僕は自負している。だからこそ、これだけの読者数、アクセス数があるのだ。数をバカにするな。数を稼げない歌人ばっかりのくせに。僕に言わせれば、歌人というのは甘ちゃんの集まりである。とくに若手歌人は。あ、一言言っておくが、吉川宏志の文章は優れている。それと松村正直も鋭い。またぞろ、「黒田は塔のゴマスリだ」という馬鹿が出るかもしれないが、俺は事実を言っているまでだ。そもそも「塔」のゴマスリだったらなみの亜子をこうまで批判するわけがなかろうが。
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:55| Comment(7) | TrackBack(0) | 日記