2007年08月31日

868 新宿(ジュク)の青空

      新宿(ジュク)の青空     黒田英雄

太陽は真上にあれど汗は出ずなだりの頂にわれ待つ常宿(やど)あり

お若いのに温泉好きとは珍しいわが手術痕(じゅつこん)に翁黙せり

手と脚を思ひつきり展げ大の字にいやいや宿では太の字になる

エレベーターガールの職業病ってなに?なにゆゑ峡の夕に思ふ

酒(たまはばき)とよくぞ言ひけり魂を掃けば狂人痴人ぞろぞろ

ぐわつとばかり森前首相にヘツドロツクされバツクドロップで返す夢見つ

あはれあはれかそか喜びきざすかな電車の棚ゆ新聞取れば

なにゆゑに病室(へや)の夕べに浮びしか『チロリン村とくるみの木』の絵

エスカレーター深くふかあく下降してスタアのごとく暖風(かぜ)受けとめる

社会主義の理想(ゆめ)など一度も信じずに眼鏡取り替へ生きてみたけど

幾枚の書類示され丁寧にわれは責めらるをみなふたりに

数字数字数字数字また数字部屋ぬちにふと汗の香のたつ

苛つくときふかすタバコの苦さかな新宿条例ポイ捨て禁止

一服し銀行戻りて応接室に入らむとせば警備員来る

おほかたは背広姿ばかりゆゑLEVI‘Sのわれ目立ちたりけむ

一千万失くししあとに見る空のあを目に染みる んなわきやあない

大江戸線新宿西口22時異国の言葉に癒されてをり


 いつものように、結社誌掲載時のものを何首か推敲してある。僕は、短歌を殴り書くので、掲載された歌を見て「しまった」といつも思う。なお、四首目の歌は、作ったときは小泉政権だったので、森「前」首相にしたのである。いちおう注釈しておく。
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:05| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

2007年08月29日

867 高野公彦の名評〜「曳舟」〜

 昨日、私の作になるある一首が、「牛の首」のように、その実体を誰も知らぬままその怖さのみが存在する作品だと書いた。今日、その恐怖をやわらげるために添削をした。どひゃー。恐怖がもっと盛り上がってしまった。これでは、右翼だけではなく、左翼も××学会もCIAもみんな俺を殺しに来る。なにより、俺自身が、みずから描いた恐ろしい光景に震え上がっているのだ。この歌の発表はいったいどうしたらいいだろうかと、マジに思っている。こうなりゃ、呪いのビデオのごとく、誰かのブログかHPに勝手に貼り付けたろうか。三日以内に同じことをしないと死ぬのである。われながら、とんでもない歌を作ったものだ。自意識過剰?いや違う。この歌を読んだ人は、まず三日三晩苦しみ、悪夢にのたうち回ると思う。
 昔のテレビ番組「ミステリー・ゾーン(トワイライト・ゾーン)」で、こんなエピソードがあった。世界中が、猛烈な熱さのなかに滅びていくという筋だった。実はこれは、主人公が高熱のなかで見た夢であり、はっと目をさましてああよかったと思ったら、実は地球が軌道を外れていて外は氷河期、世界は凍死の運命のなかだった、というストーリーである。私の歌はこれに近い。やっかいなのは、もっと恐ろしい、人口的な力が関与しているということだ。まさに、「牛の首」であり、とんでもない歌を作ったものだ。

 吉川宏志歌集「曳舟」(短歌研究社)を何度めかに読み、そのすばらしさを再認識した。とくに、靖国を詠った三十首「火柱」は、僕にとって、浜田康敬「成人通知」と同じくらいのインパクトがある。靖国神社という存在を、真正面から捕え、詠った歌人が他にいるであろうか。いや、いなければならなかったはずだ。歌人の怠慢である。僕は、吉川宏志という歌人に一目も二目も置いている。彼は、「塔」を担う歌人と言う以上に、歌壇を担う歌人と呼ばれるべきだと思う。歌はもちろん、評論がまた優れている。なぜなら、彼の批評は、歌をやっていないものが読んで十分説得力があるからだ。だから、僕は彼を「歌壇の佐藤忠男」だと言っているのだ。そして何より大事なのは、彼には気骨がある。これは、凡百の若手歌人からは完全に欠けているものだ。彼らから「気骨」というものを感じるこては皆無と言っていい。気骨なくして、どうしてこの「火柱」という傑作連作がものせるだろうか。ものせるわけがない。高野公彦が、短いながらこの本の腰巻に、優れた批評を寄せている。

>「一見写実ふうに見える作品だが、/しかし吉川氏の眼差しは、つねに不可視の/領域を感知しようとしてゐるかのごとくである。/吉川氏は〈写実の館に住む幻視者〉ではないか、といふ/印象さへ受ける。」

 僕が屋上架を載せる必要はない。高野のこの短評が全てを言い当てている。さすが、プロ歌人の評はすごい、と思って舌を巻いた。吉川は、すでに師である永田和宏を超えていると僕は思う。彼は、スケールの大きな歌人。同じく、気骨のある、松村正直という歌人が「塔」にはいる。この二人がいる限り、「塔」は安泰だと僕は思う。歌をやる者は、まず吉川の「曳舟」を読むべきだ。歌を志す者の教科書とも言える歌集だと、僕は断言する。

 空襲に焼け残りたる靖国の甍より垂るほそき雨水は(うすい)は 吉川宏志
 反日の声をみずからの声として嗤えり巨根のような鳥居を
 蝸牛(まいまい)のあたまのちぢむすばやさに謝罪をしたる日本語を読む
 詫びるとは地面に映るわが影を見ること 影を這いすすむ蟻
 麻原に騙(かた)られしごと東條にあやつられしと言うか 言うのか
 来年の教科書からは消ゆという〈慰安婦〉、爪で線(すじ)を付けたり
 靖国を焼け あけがたの耳の羽蟻のごと落ちてくる声
 詫びるなら燃やして詫びよべっとりと霊の沁みつく太き柱を
 戦争に行きたくなくて若者は醤油を飲みき唇(くち)黒くして
 涙溜め飲み干してゆく大壜に〈亀甲萬(きっこうまん)〉の文字はありしか
 全否定の立場に行けば楽ならむ我はとどまるこの砂の上(へ)に

 今、若手歌人で、スケールが大きい、と言えるのは吉川宏志と松村正直、この二人だと俺は断言する。この二人が所属している「塔」は、どんどん伸びるだろう。歌集「曳舟」を読んでください。
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:25| Comment(3) | TrackBack(0) | 日記

866 「牛の首」〜ガクガクブルブル〜

 僕はいつも、アクセス解析というページで、過去の日記にどれだけのアクセス数と訪問者がいるかチェックしている。当然、その月に書いた記事に読者は集中する。と、ところがである。ななななんと、昨年の9月24日のbT75の日記、「物凄い一首」に、今月突如として読者が集中している。当然、なに書いたか忘れているので改めて読み返した。ああ、あの事だ!僕はこのころ、今自分で読んでも身震いするような凄い歌を作ったのであった。これをNHK全国短歌大会に送ったが、第一次選考すら通過しなかった。この大会は、無記名での下読みがされるという建前であるが、とある極秘情報によると、名前から所属結社からまるわかりな状態で選んでいるというのが事実だそうである。俺の名前を確認たもんだから三首全部落としやがったのだと俺は思っている。だいたい、どいつだかは見当がついている。歌壇とはそういう所だ。ある人から、NHKのコードにひっかかったのではないか、という心優しいコメントをいただいたが、ソウデハナイ。この下読み選者は、この黒田英雄様の名前を目にした瞬間、即座に全部落選と決めたのだ。そうに違いない。あんなバカげたレベルの低い佳作群に俺の歌が負けているわけはないのである。
 それにしても、bT75で話題としたその歌は、本当に恐ろしい歌なのである。今や、すでに自分の歌とは思えない。この歌を発表すれば、俺は間違いなく右翼に殺られるであろう(陶酔)。結社誌に送ろうと思ったがやめる。まず「塔」だったら100%落ちる。「短歌人」だったら、200%採られるだろうが、俺は発表しない。なぜなら、あまりにも恐ろしい、国体を揺るがすような恐ろしい歌だからである。まさに、その恐ろしさのみ喧伝され誰も実体を知らない「牛の首」状態。
 俺は、この歌を簡単には発表しないが、故仙波龍英氏がここにいたら、躊躇なく披露し、評価を仰いだであろう。彼はきっとこう言ったであろう。「黒田さん。これはうううううう、『牛の首』です。発表はやめなさい。あなたの命が危ない。さもなければ、僕と一緒に冥土に行くしかありません。あなたは何を考えているのですか」
 それにしても、なんでこの575番の後読みアクセスがこんなに伸びておるのだ。誰かなにか言ったのか?面白いなあ、インターネットは。センスいいよ。
 件の日記↓
http://hideo.269g.net/article/2930560.html

 俺は、この歌を、自分の第一歌集に、このまま未発表作品として載せたいと思う。bT75には、「巻頭歌にする」などと書いたが、それはやめにする。また、タイトルを「豹(ジャガー)の眼」とするとも書いたが、それもやめにする。歌集のタイトルは、もちろん「アンギラス」である。第一章は、これも変更するが、「禄で無し」である。これはもう、歌の内容も順番も全部完璧に決まっている。ただ、他の章が弱い。章立てを増やしたくはないが、六章に増えるかもしれない。とまれ、この古い日記を、どなたか知らんがピックアップしてくれて、後読み数を増やしてくれていること、本当に有難い。貴方のセンスは素晴らしい。私のあの歌は、まさしく、「牛の首」なのである。ガクガクブルブル。
 今では、NHK全国大会のバカ選者によって、あの歌が落とされたことを感謝している。あの恐ろしい歌は、たとえ下読みが採ったとしても、選者が全員落としたかもしれない。だって、この歌を選んだが最後、選者の命すら危ういのである。そういう意味では、「短歌人」でも危ない。いや、結社それ自体が右翼の総攻撃を受け、迷惑をかけるであろう。
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2007年08月27日

865 賞より読者〜お前らそんなに賞が欲しいのか!?〜

 一つ訂正がある。bW59、「陽の当たらない名歌選」で、「この選歌をやって初めて、百葉集と一首も重ならなかった」と書いたが、間違いであった。

廃屋は更地となりぬまんなかに人寄り合ひし井戸を残して 助野貴美子

 この一首だけが重複していました。訂正します。
 これだけたくさんの歌が「塔」に載っているのだから、誰も選ばない歌をピックアップすることが、この日記のレゾンデートルであると認識しているので、それが重なってしまうことは、歌のよしあしに関係なく残念なことだと僕は思っている。

 「短歌研究新人賞」最終選考通過作品を読んで、僕の印象に残ったのはつぎの三作品のみだった。佐藤理江「センセイ………ですか?」、十谷あとり「口女―水をわたる」、土屋千鶴子「自己実現の棘」である。その他の、新人賞を巡って熾烈な争いをしたはずの並いる候補作はどうかというと、僕に言わせれば、全部同じ作者が名前を変えて作ったと言っても納得するほど似たりよったりだとしか言いようがない。非常に端的な言い方をすれば、個性がない。そのくせ、修辞だけはだれもかれも一丁前に小器用である。僕が短歌を始めた6年前と比べて、確かに「気分(だけ)」で詠う歌は激減している。それはいい。ただ、もうちょっとテーマを絞って、具体を描いていただきたい。日常の感情を描くのに、修辞にこだわりすぎている。だから、独自の個性というものが見受けられないのだ。これは、この賞のありようにも問題があるかもしれない。なにか、この賞を取るために、いかにも年寄り連中が騙されやすいように、意図的にウケを狙って書いているのではないか。だから、今年の受賞作はそうしたあざとさがなく素直に書いているぶん光って見えるのだ。変わり映えのしない選考委員のメンツ、というのも問題だろう。
 僕は、新人賞を狙うためにのみ連作を作る、という態度は大嫌いだ。たとえば、たまたま連作ができたから新人賞に応募してみるとか、連作を作ることに意欲があってそのうえでチャンレンジしてみる、というならいいが、賞を獲るために傾向をはかり対策を立てる、などという態度は間違っていると思う。そのような意図の透けて見える野口あや子「カシスドロップ」などは、賞は獲ったが作品としてはロクなもんではない。八木博信にしてもそうだが、受賞後第一作ではじめてその本性を剥き出しにするのである。それはちょっと違うんじゃない?
 おまえら、そんなに短歌の賞が欲しいか!?俺にはわからん。俺は賞なんてどうだっていい。そんなものよりも、ひたすらに読者が欲しい。それだけである。うちの女房なんか、毎年「短歌研究」と「角川短歌」に応募しては轟沈している。みっともないからやめろと俺は言っているのに、いっかなやめようとせず、さらに、「歌壇」にも応募しようかなどと(やった年もある)言っている。彼女こそ、賞コジキの最たるものだろう。たとえ貰ったところでそんな交通費も出ないような賞のどこがありがたいのだ。歌集出してもらえるわけでなしキャンペーンを張ってくれるわけでなし特集組んでもらえるわけでなし、わずかなおやつ目当てにハアハア芸をする犬ころと一緒ではないか。そんなことより、自分の歌を読んでくれる人を一人でも多く増やす努力のほうが大事なのだと、僕は思う。短歌の賞なんぞどうだっていい。
 口語で歌を作る皆様よ。もうちょっと、歌を作る覚悟というものを見せてほしい。独自の視点、テーマがなければ、その存在感は極めて薄い。口語短歌というのは、古語短歌に比べて、どうしても歌の「格」や「丈(たけ)」は低くなる。だからこそ、安易にほいほい作ってはならないのである。最終選考に残ったからといって喜んではいけない。あなたがたの名前が最終選考に残ったことを喜んでいるのは、せいぜいがとこ結社の上の方の連中であり、無所属ならば皆無、来月になればだれもあなたがたの名前など憶えてはおるまい。読ませるだけの歌の引力がないからだ。今年は特に、去年と違って、受賞作を除いてはほとんど読むべき作品がなかった。それが残念である。

      今日のMYビデオ
「女校生〜天使のはらわた〜」(1978年、日活、曽根中生、脚本・深水龍作、池田敏春、音楽、大野真澄(ガロ))深水三章、河西健司、樋口達馬、大谷麻知子、川島めぐ

 栄光の「天使のはらわた」シリーズ第一作。ただ、ここでは、シリーズのイコンたる名美はあくまで脇役であり、主役は、強姦恐喝窃盗を主とした若者三人組の狂った青春である。まさに、バイオレンスと精液の匂いに満ち満ちた映画である。日活ロマンポルノの秀作は、「抜ける」ものはほとんどない。その作品の圧倒的な迫力に、口をぽかんと開けて見入るのみである。この映画でも、雨のシーンが実にいい。主演の深水三章はいい役者だ。彼については、また書きたいと思う。
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:59| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

2007年08月25日

864 3行書き短歌の魅力と、小池光

 3日続けて、「六千万個の風鈴」について書いたが、印象に残るのは、佐佐木幸綱という歌人の、実に(いろんな意味で)面白い選評のことである。ただ、彼は、とんちんかんなことは言うが、有能な歌人を見つける才能があると思う。だって、あの俵〇智をプロデュースした歌人が彼である。時代の要請、というものを直感的に見抜く動物的勘が彼にはあるのだろう。これは大事なことだ。また、穂村弘も、その歌は俺にはさっぱりわからんが、読む力が相当ある。昨日も書いたが、この二人をレギュラーに据えることが、「短歌研究新人賞」が歌壇に生き残るために不可欠だろう。
 ところで、同じ「短歌研究」に連載されている評論だが、今号はべらぼうに面白かったのが、小池光「短歌を考える」6 啄木の3行書き(2)である。さすが小池光だと思った。彼は言う。「一握の砂」という歌集は、わかりやすい歌が続くが、時々、立ち止まってしまう。それは、リズムが違う歌が数首入っているからだ。「句の切れ目」ではないところで改行する歌が混じっている、ということだ。実は、僕もそのことを薄々感じていた。ほかにもいるかもしれないが、文章化したのは小池氏が初めてではないのか。小池氏も挙げているが、代表的な一首を挙げる。これは、タテ書きでないと真意がつたわりにくいのだが、ネットなのでしょうがない。

真白なる大根の根の肥ゆる頃
うまれて
やがて死にし児のあり               石川啄木

 これは、四句七音の句割れである。普通なら、

真白なる大根の根の肥ゆる頃
うまれてやがて
死にし児のあり

 となるであろう。ところが、「うまれて」で改行し、そこに空間を生んでいる。これが実に詩的なのだ。小池によれば、「生まれてしまったことが悲しい。死んでしまったことより、ひとたびは生まれてしまったことが悲しい」という見事な詩になっている。また小池は、句割れ、句跨りは、二句七音か四句七音のどちらかにすべきだとも言っている。啄木の歌においては、つねにこの法則が守られており、それが実に効果的である。啄木の歌はもっと研究されていい。彼の、歌の配列というものにも、読者を飽きさせないようにとの計算が行き届いている。たった五章の歌集で、飽きさせないというのは大変な力だ。何度も言うが、現代歌人の歌集には、章立てが多すぎる。十首や二十首で一章を設けるんじゃない。ジャマである。誰かこれについて言ってくれよ!もしも、誰も文句がないとすれば、アンタらの歌集を見る目がおかしいのである。
 僕は、短歌を作り始めた頃、啄木に影響され、三行書きで書いていた。近藤芳美氏だけが採ってくれた、私の初期の代表作にこういう歌がある。

ただ一度唇(くち)より唇にふふませし夜の水のこと君知らぬまま 黒田英雄

 最初作ったとき、これは三行書きであった。こうである。

ただ一度
唇より唇にふふませし夜の
水のこと君知らぬまま

 普通なら、

ただ一度
唇より唇にふふませし
夜の水のこと君知らぬまま

 となるだろう。しかし、あえて私は、四句七音を句切れとして、三行書きにした。夜の闇と、水という清浄にして淫靡な存在の流れとを断ち切らずに1行に集約したときの効果を尊重したのである。まさに、啄木と私は、詩的表現ということに関しては一致しているのではないのか。そのへんが、私が自らをもって、二十一世紀の啄木と確信する所以である。三行書きというものには非常に魅力がある。1行書きよりも、その詩的表現を読者に強烈に印象づける力がある僕は思う。その点においても、小池の指摘する、二句、ないし四句どちらかの不規則改行表現というのは、効果的だとぼくは実感するのである。俺の第一歌集は、3行書きにしようかなあ。なんても思ってしまうのである。なぜなら俺は、啄木の生まれ変わりだからだ。

      今日の二首

雨の歌異様に多く傘の歌異様に少なし佐藤佐太郎 松木 秀
「審議を致しましたが」の「が」でゆっくりとガッツポーズをする男あり
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

863 吉岡太朗誕生(デビュー)と推敲

 日が経つにつれ、「六千万個の風鈴」は傑作だという感想が強まってきた。

すぐ花を殺す左手 君なんて元からいないと先生は言う 吉岡太朗

 僕は、この歌が強く印象に残る。「時をかける少女」がベースだという解釈を述べてきたが、実は映画「シザーハンズ」のイメージもあるのかもしれない。佐佐木が戦国自衛隊と言いバルタン星人と言い、僕がまた時をかける少女と言いシザーハンズと言うように、これらの作品にはさまざまなイメージを喚起させる力があるのだ。既視感があると最初言ったが、よく読めば、その世界観は確かにすでに広汎でありながら、決して言葉遊びに堕さない作者独自の肉体感覚がここにはある。これはいい連作だ。通底している未来的ななにかがすでにあまりにも多岐に渡るので、ややテーマが絞りこめていない印象こそ与えるものの、底力は相当なものがあると思う。今日、二首選までを含め「短歌研究新人賞」を最後まで熟読し、選評をじっくり読んだ。結論として、今年の新人賞は、まさにこの「六千万個の風鈴」を世に出したことに意義があるとしか言いようがない。その読みのずれはともかくとして、この歌人に新人賞を与えたことで、僕は今年の選考委員たちに敬意を表する。
 「短歌研究」は、佐佐木幸綱と穂村弘をレギュラー選考委員にするべきである。この二人の選評は断然光っている。それにしても、穂村弘の受賞作に対する選評が、なんか遠慮して、知っていることを知らないふりをしているような気がする。彼もまた、オタクネタであまたの短歌を書いている人であり、もっと突っ込んだことを言えるはずなのだから、他選考委員のためではなく、読者のために、その豊富な知識を開陳して欲しかった。今回の選評は、「それが言いたいことの全てじゃないだろう」という感じが僕はした。ところで、吉岡太朗氏の略歴によると、「京都文教短歌会を立ち上げる」とある。「京大短歌」にすでに所属していながら、自分の大学で新たな結社を作ったその気持ちが僕にはよくわかる。だって、この作風で、京大短歌会で満足できるわけがないもんな。彼の詠う世界は、巧拙の違いはあれどすでに多くの歌人が挑んでいるジャンルでありながら、いまだ結社的なまとまりを見ない。この受賞が、それに一石を投じる結果となるかもしれない。面白い歌人がデビューしたものだ。この人に僕は注目していく。

 884、「黒と白」、これは僕の短歌をアップしたものである。僕はいつも、月末ないし月の頭に自分の歌を発表している。ありがたいことに、この「黒と白」の読者数が過去最高記録をマークした。自歌を読んでもらえるという、短歌をやっている者にとってのこれ以上の幸せがあるだろうか。読者の皆様に深く感謝いたします。アップ後、推敲の余地ありと判断した歌があったので、推敲後のものとあわせて再度紹介いたします。

自死をせし田宮二郎の亡骸を念(おも)ひ浮かべて湯舟に泛かぶ

 を推敲して、

自死をせし田宮二郎の粉々の亡骸を念(おも)ひ湯舟に泛かぶ
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2007年08月24日

862 続・「六千万個の風鈴」と佐佐木幸綱

 昨日、僕は吉岡太朗「六千万個の風鈴」を、靄のかかったような受賞作だと書いたが、訂正しよう。これは新人賞にふさわしい秀作である。なぜそう思ったかと言うと、あらためて今日、選評を読んだからだ。勘違いしないでいただきたい。意見を変えたのは、選評が正鵠を得ていたからではなく、とんちんかんだったからである。
 佐佐木幸綱の選評が一番面白い。表題の「六千万個」を、少子化を続ける日本の22世紀の人口のことだと解釈しており、僕も最初からそれを直感していた。また、佐佐木の言う「独自の暗さを持つ視点」という感想にも大いに賛成した。が、「戦国自衛隊」という発言にまずずっこけ、僕が選歌したうちの一首「すぐ花を殺す左手 君なんて元からいないと先生は言う」をバルタン星人と解釈するに至って、俺は「ちゅどーん」と諸星あたるのごとく爆発してしまった。作者本人の作歌意図を正確に言うことはできないが、俺はこの「花」というのは、タイムトラベルを誘発する香りとして名高いラベンダーのこと、少なくとも、「時をかける少女」によって種を蒔かれたあるイメージの結実であると思いたい。と同時に、この連作に通底する、パラレルワールドの要素も盛り込まれている。たとえば、こういう歌もある。

友はもう友にはあらず公園のベンチの下に割れた鳩笛 吉岡太朗

 「どこがSFじゃい」と思う向きもあろうが(あえてSFの文脈で解釈する必要はない、という意見は正しくない。意図しているかいないかはともかく、この連作にはSFが骨の髄まで沁みとおっている)、僕はこの情景に潜むSFな抒情がはっきりと見える。もう作者そのものと言っていいほど見える。この連作が持つ大きなモチーフが「音」である。表題作にしてからが「風鈴」である。音とは振動であり、リズムであり、何より耳と心に心地よくまたかなしいものである。世界というものが実体ではなく、空気が震えて音になるがごときある種の振動であるということは、科学的に合ってるかどうかはともかくすでに実感である。もしも世界のあり様に干渉できるような音楽を奏でることのできる楽器(この場合は牧歌的である呪術的でもある「鳩笛」だ)があったとして、おそらくは一度しか吹くことのかなわないそれは、友が友でなくなる世界を生み出してそのまま割れて転がるであろう。余談だが、悪名高いかの「オウム」は鸚鵡ではなく、「世界を生み出した音」の意味である。音=世界という考えは古い哲学のなかにもあるのである。吉岡のイメージのなかに、「音」というものを悲しみの器として昇華させる要素があったのではないか。これを僕は、「既視感がある」「陳腐だ」と言ったが、考えてみればそれを韻律にするというのは確かに才能である。妙な話だが、選評のとんちんかんさを読んで、逆にこれがいい作品にえてきた。なんのこっちゃ。高野公彦の、「虚無的な明るさ」などという選評は論外である。
 佐佐木幸綱という歌人は、実に面白い。彼はありていに言って、体育会系70%くらいな人物だろう。長嶋茂雄と一緒で、論理的にものを言おうとするととんちんかんだが、肝心の選手もとい歌人を選び出す選球眼は動物的カンを働かせて大したものである。なぜなら、「短歌研究新人賞」は不思議なことに、佐佐木が選考委員に加わった年の受賞作はいいからである。長嶋茂雄的動物くんな要素が、場の雰囲気を読み取ってなあなあな結論で収まることを良しとせず、いやおうなく本気な討論へと持っていかれてしまうのではと想像する。
 吉岡太朗の新人賞受賞に僕はエールを送る。このタイトル「六千万個の風鈴」のセンスは実にいい。なんともいえない、悲しみの音が響きあうフレーズである。昨日の意見は撤回する。実に有望な歌人の出現であると申しそえておこう。
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2007年08月22日

861 「六千万個の風鈴」

 「短歌研究新人賞」、「六千万個の風鈴」吉岡太朗を読む。選考委員が、彼に新人賞を与えたこと、これは「賭け」と言っていいだろう。ちょっと俺は、「やばいな」という気持ちで見ている。
 確かに、こういうタイプの歌はあってもいいし、俺の嫌いなへなへな短歌とは違ってその表現している世界を本当に愛しているという実感が伝わってくる。俺はSFとか近未来とかに題材を取った作品が嫌いなのではなく、実は全然SFもオタクネタもわかっとらんくせに表面的にそれをいじってるだけの作品が嫌いなのであって、その点吉岡氏の受賞作は、あるジェネレーションの本当の本質を自分の言葉で表現し得ていると思われ、好感が持てるしジャンルとして自立していけるものだと思う。が、それでもなお俺はやばいと思うのだ。なぜかと言うと、俺のような、いわゆる第一オタク世代に属しながらちっともオタクでない、でもゴジラ関係のことや昔のSFドラマは常識として知っているような人間からするといかにも既視感に満ちている。選評にもあったが、漫画や映像など他の媒体ですでにやり尽くされてしまったこと、な印象なのだ。誤解しないで欲しいが、僕は他の媒体で表現されたことをそっくり短歌へと移植する、というのも表現としてありだと思っている。僕だって日本映画の内容を短歌で表現し直すという試みをよくしている。しかしそれは果たして、新人賞という、まったく新たな感覚が望まれるものに対してふさわしいだろうか。これは俺が門外漢だからこそ強く感じることだろう。なんていうか、あえて言えば陳腐なのである。
 その受賞作のなかから、好きな歌を3首挙げる。

すぐ花を殺す左手 君なんて元からいないと先生は言う 吉岡太朗
窓ぎわの席の男もそうだろう街には無数の約束がある
新しい世界にいない君のためつくる六千万個の風鈴

 一首目は、「時をかける少女」などでおなじみの、自分以外は同級生のことをだれもおぼえていない、記憶抹殺テーマだろう。二首目と三首目は、分岐してゆくパラレルワールドを詠っていると解釈する。悪くはないのだが、元ネタがすぐに連想できてしまいインパクトに欠けるのである。SF的設定を扱ったアニメなどによって繰り返し刷り込まれた、この世代にとっての共通記憶に立脚しており、それが全てであって、彼ならではの感性というものを発見して衝撃を受けるということがない。彼は京大短歌会に所属しているという。それは、つるりんとした喉越しのいいそうめんみたいな歌を詠う集団であり、噛み付きようがなく、「お公家短歌」と僕は呼んでいる。正直言って好きではない。その、お公家短歌の中にもこういう人がいた、というのは確かに面白い。この一連が受賞作であることに文句を言うつもりはないが、なんだかワタガシを噛んでいるような、「なんだかな〜」という気持ちである。靄のかかった新人賞受賞作だとしか言いようがない。
 次席や、最終選考通過作品も読んだ。はっきり言って大した作品はない。あえて言えば、「センセイ……ですか?」佐藤理江が面白かった。あとは正直言って、どーでもいい。去年は、受賞作はひどかったが、その代わり次席以下に留まった作品にいいのが多かった。思うのだが、新人賞って毎年出さなくてはいけないものなのだろうか。今年は、「該当作なし」が正解だったと思う。ただ、吉岡の作品が受賞したことには、それなりに意味があるかもしれない。ヴァ―スからライトヴァ―ス、そしてニューウエーブ短歌へと逸れてきたひとつの流れは、ここに完全に断ち切られた、ということだ。ニューウエ―ブ短歌の連中にとって、SFめかした題材はあくまで現実を軽量化するための道具に過ぎず愛が感じられなかった。この場合の愛というのは好いた腫れたのそれではなく、肉と霊との両方で相手を掴んでいるか、肌や骨で理解しているかどうかということである。そういう点で、吉岡太朗はその表現の対象を確かに血肉で捉えている。彼が詠っているのは彼を形成しているものだという感じが確かにする。ニューウエーブ短歌が終息し、彼らがもてあそんできた対象が立派に一つの文学的芯として機能し始めた証拠だろう。オタクネタなんて、こてこての情念がなけりゃ目も当てられないんである。
 誌面を見て、僕が名前を知っているかたがたも数多く応募されていることを知る。皆さん頑張っているな、と思う。ただその反面、新人賞への応募は、何年か続けたらどこかで見切りをつけるべきだと思う。力(りき)のこもった、賞をとれるほどの連作だったら、最初から結社誌に発表すべきである。春畑茜氏が、去年をもって新人賞への応募をやめる旨宣言したことはひとつの見識だと思う。毎年毎年、自分の名前が総合誌に載って喜んでいるざまは、文学者としてみっともないと僕は思うのである。
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

860 ゆつくりと老い

夢といふさびしきものを見しのちを娘はゆつくりと老いてゆくなり 澄田広枝

 実に味わい深い一首だ。これはいったい、どういう状況だろうか。僕の勝手な推測を書けば、社会というのは大多数の駄目駄目な人生から成り立っている。堅実な仕事であれ、結婚であれ、歌や芝居という目標であれ、その99%は思い通りにはいかず、また叶ったとしても必ず「こんなはずじゃなかった」という思いがつきまとう。芸能や文学功なり遂げた人が自殺したりすると、人は「成功したのになんでまた」と思うが、おそらくは夢を実現したあとのむなしさに倦み果てたのだと思う。だからといって、僕は演劇を始めたときの自分を否定しようとは思わない。それがあらかじめ頂点を極めることのできない夢だと、どこかではわかっていたのだが、自分のなかの馬鹿力(大きな力という意味ではなく、ただ単にバカなだけの力)がむやみやたらとそれを後押しするのだ。昨今、無根拠に「自分を信じろ」みたいな歌謡曲がはやり、それを真にうけて人生無駄にする人がたくさんいるだろう。それは悲惨なことだが、しかし人間が無根拠な自信を持つことをやめてしまったらそれこそ世界は終わりだろう。この歌は、そんな夢に食いつくされて、歌か芝居か知らないが、あたら若い時代をなんの技能も持たないまま無駄にして朽ちていく女性が詠われているようだ。お母さん、夢見たものの一人としてお願いします。一生娘の面倒を見てやってください。これは秀歌である。

道端で糞する犬をつぎつぎとヘッドライトは照らしてゆくも 西本照代

 爆笑してしまった。犬の脱糞というのは、なんとも情けなくも哲学的である。あの主人大事な真面目な性格の犬たちが、腰を落とし、真面目な顔でふるふると震えながいきんでいるのである。その情けなくも真剣な行為の目の前をあとからあとから車のヘッドライトが照らしていくという。まさに、ワンちゃんにしては、「かんべんしてほしいワン」な状況だろう。作者は、実に面白い場面を切り取ってくれたものだ。ヘッドライトとあるから、もちろん夜中の散歩であろう。結句の「照らしてゆくも」という詠嘆が実におかしい。これは視点のすぐれた秀歌である。

遺影みなモノクロなるも妹のこの服の色私は知っている 津野多代

 妹の、数多い遺影写真。葬儀という場面のためにだろう、遺影というのは、カラー写真であってもモノクロの処理をほどこされることがあるようだ。その、白黒に染め直されてしまった妹が、そのときその場面でどんな色の服を本当に着ていたかは、その場を共にした姉である作中主体が知っている。逆に言うなら、慶事であれ弔事であれ、セレモニーというのは主役の、確かに生きてきた経歴を消し去りパターンのなかに押しこめる行為であるということだ。結婚するのは全員秀才と才媛、死んだのは全部いい人間。作者は、そのような無個性のなかに妹が押しこめられようとするのに心のなかで懸命に抵抗している。たとえ褒められるにしたって、よく知りもしない人間に「惜しい人を亡くしました」などと言われたらじゃかましいわいボケと思うのが本当の情というものではなかろうか。今思いついたが、葬式というのは実にくだらん制度である。いやいつも思ってることではあるが。だが、セレモニーというものは、体験を共有するためのものとも言える。この歌は、共同体もセレモニーも共有できない家族の体験、それがよりいっそう人を孤独にするということを表現していて、下句が悲しい。

 ほかにもコメントしたい歌が山ほどあるが、正直言ってコメントはものすごく疲れるのでこのへんでストップする。「塔」は秀歌の宝庫である。その他大勢、の歌のなかにもいい歌が死ぬほどある。「塔」には、ブログやホームページをやっている人がたくさんおられるのだから、皆さんこぞって、結社誌の秀歌選をやってほしいものである。私だけでは手に余るのである。

      今日の7首

この児らと生きむと決めし夏の日の光を把みそこねしわれか 伊藤理恵子
俳句にて短歌(うた)にて児らを伸ばさむとすれど上司は受け入れくれず
己から決して児らを捨てまいと誓へど学校が我を捨てたり
百枚の名刺もおほかた残りをりわれにあらざるわが名を刻み
また国語教へてねなんて楽し気に手を振り帰る 児らは知らずに
職業の欄には主婦と記したり失業者とふ項目はなく
撮りて来し電車の写真見せくれしあの少年に会ひたし 今も
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2007年08月20日

859 「塔」八月号・陽の当たらない名歌選

 今月は、亡き人を悼む歌にいいものがかなりあった。これも短歌という文学を生かす重要なモチーフだろう。考えてみれば、短歌の原型である和歌、これがそもそも挽歌にいろどられているのだから。いつも選歌欄評を見て思うのだが、僕は自分が認めない歌がどれだけ選評で褒められていてもいいと思わない。ただ、こういう歌の読みかたもあったのかと勉強になることはある。結社誌とは、まさに歌を読む訓練をするための場だと痛感するのである。いまだ結社未所属の若き歌人たちよ、とにかく合う結社を見つけて入りなさい。読む訓練になるのみならず、選歌を受け、自己評価と他者の鑑賞との隔たりを葛藤として抱えこむことが歌を作るうえでの滋養となるはずである。
 それでは今月も、私の独断と偏見に満ちた三十首をアップする。
 今月の赤丸歌、真中欄作品1、215首。吉川欄199首。澤辺欄123首。池本欄163首。花山欄140首。栗木欄若葉集、75首。計915首。

      「塔」8月号・陽の当たらない名歌選

遺影みなモノクロなるも妹のこの服の色私は知っている 津野多代

道端で糞する犬をつぎつぎとヘッドライトは照らしてゆくも 西本照代

立つ遊女にすわる童女がさし上ぐる長煙管一本斜めの緊張 池田富美子

結婚の経験は必ずとばさずに読む日経の「私の履歴書」 遠田有里子

娶りえぬひとりふたりの知りし顔もはや老いたり静まる漁港 梶野敬二

廃屋は更地となりぬまんなかに人寄り合ひし井戸を残して 助野貴美子

かかりこし電話は結婚紹介所いまさらそんな 底冷えのする 吉田菊代

センサーを空より越えて椋鳥は原爆ドームの草生ついばむ 上條節子

夢といふさびしきものを見しのちを娘はゆつくりと老いてゆくなり 澄田広枝

まぶた閉じ風を聴いてる 長岡で出産しないと決めた朝に 片岡楓子

署長の子と留置場に弁当配るさま見にゆきたりし夕ぐれどきを 広瀬俊子

右肩を下げて空を曲がりゆく烏ありけり 角のない空だ 柳詰美代子

ゆきづまりて「塔」誌を読めばそれぞれに生活のあり また始めんとす 桶田夕美

根のつきし若布にするどく潮の香す湯にはなたんとつかみたるとき 岩野伸子

痰壺論にムキになりたる大阪のあの頃よりか春のビル風 酒井久美子

鯵のひらきを並べて子らは緋鯉とか真鯉とかいふなにかリアルな 千名民時

白鳥のごとく湯浴みをしていたり同窓会より戻りて妻は 松村正直

思いやる嘘はさらりとつくがよし魚類図鑑は横顔ばかり 加藤都志惠

区界峠(くざかいとうげ)に白樺の香これよりは列車は海に向いて下る 小沢圭三

ふと横切る遠き昭和の冬の日の売られゆく娘(こ)の嗚咽する声 児島良一

水はだめお茶供えよと祖母言いき海水飲みて戦死せし伯父に 中村麗子

当然を付加価値として「無漂白もやし」「無償の愛」などがある 保村たまき

ハーモニカで故郷&vが吹き始むもう少しだけ長湯しようかな 小橋扶佐子

母と子がぐるぐるぐるる輪となりてよくない方へ引きずられゆく 坂崎由明

張りのある声の男は苦手なり重心変えるたびに距離をとる 芦田美香

海音が遠くなりゆく心地して夜降る雨の音ひきよせる 黒木孝子

給料を三十二万もらってる男におごる月収五万 西之原正明

ふたりきりの事務室にいてお互いの匂い消すためコーヒー淹れる 橋本せい子

勝ち名のり受ける位置へと白鵬は勝った弾みのまま弾みゆく 三宅桂子

むかし春は手洟などかみ楽しげに馬車に乗り乗りやって来にけり 鈴木俊春

 今号は初めて、百葉集と一首も重ならなかった。これは大変いいことだ。それだけ秀歌が多かったということなのだから。
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:29| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記

858 歌人の装丁の自由がないって!?

 今日は日記を休もうと思っていたのだが、「週刊時評」が更新されていないかと青磁社のホームページをのぞいてみてびっくらこいた。青磁社のことを、僕は誠意のある出版社だという印象を持っている。だから、でたらめを言っているとは思えない。自費出版のご案内のページにこう書かれていたのである。

>著者にご満足いただける本造りを第一に考え、特に装幀に関しては、著者の意向に最大限添えるようつとめています。斯界としてはおそらく初めての試みとして、装幀案数点を著者に提示させていただいております。ご自分の最も気に入られた装幀を採用していただけるシステムをとっております。

 これはいったいどういう意味だ。ということは、普通歌人は、自分の歌集の装丁に口を出させてもらえないということか?これが、著者、出版社ともに、創作に関わるものの態度であろうか。自分の歌集なら、どういう装丁でどういう描き手を望むか、はっきりしたビジョンを持つべきだし、また出版社もそれに応えるべきではないのか。それじゃなにか?俺が歌集の表紙を頼むつもりでいるイラストレーターの起用も、向こうが勝手に全部決めてしまってパーになることもあるということかい?それでは、俺の歌集は、普通の自費出版歌集会社からでは望むかたちで出せないということではないか。まじかよ。だれかちゃんと、このへんの事情について教えてくれ。この、「装丁のことを著者に相談する」のが「斯界として初めての試み」であるのが本当なら、歌壇はおよそ創作者の集団とは言えまい。歌人論も結構だが、歌集の出版形態とか、自費出版者が思い通りの本を作るとか、そうしたハード面をピックアップして問題化していかなくては、この美的怠慢さを撃つことはできないだろう。何度俺が吠えても、こいつらは壁のように無反応だ。自分たち自身の問題のくせに。装丁における著者の決定権について、ご存じのかたがいれば教えてほしい。歌壇は伏魔殿だ、と言いたいが、そんなかっこいいものではないかもしれない。俺が珍獣と思われているようでは歌壇も駄目だろう。仙波龍英が歌壇を呪いまくったという気持ちが、俺にはよくわかるのである。
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2007年08月19日

857 短歌〜アイロニーという槍〜

 こういう日記を書いているので、僕はさぞかし誤解されているだろう。どう誤解されているかというと、たとえば港港に女や男や犬や猫がいるとか、にっこり笑って人を殺すとか、税金は払わないとかトイレで手を洗わないとか。事実は大間違いであって、僕は性的にも社会的にもストレートきわまりない平穏無事な人間である。
 文学とは「外れ」を描写するものであるが、その「外れ」が普遍に収斂していなくては結局は読むに耐えない。このへん誤解していて、やれ浮気をしただ麻薬をやっただと書けた文学になると思ってる手合いが(まさかと思うかもしれないが)ごまんといるが、真実というのは残酷で衝撃的である反面、ものすごく陳腐であきれるほど常識的なものでもあるのだ。たとえば、「人間は優しくて思いやりのあるのが一番」とか、「戦争はよくない」とか、「モラルを守ったほうが結局は自分のためになる」とか。1000人をくだらない相手と共演したというAV女優が、「好きな人と正常位でするのがいちばん気持ちがいい」と言ったそうである。この平凡さが真実の苛酷さであるだろう。「好きな人」を一生の間に見つけられるやつは稀である。
 真実が陳腐なものだとして、それを短歌に反映させるとき、その言葉の選びが陳腐であっていいわけではない。「孫がかわいい」からといって、他人から見ればいもむし同然な薄汚い餓鬼が這っただの立っただの言って感動が呼べるわけがない。

捕獲さるる度に誰かが引き取りて四丁目にゐた「あか」といふ犬 酒井久美子

 この歌は、平凡な内容を、平凡な言葉だけで非凡に表現した、秀歌中の秀歌である。共同体へのノスタルジーとそれへの賛嘆の念、文明が進んだがゆえの野犬狩りと、それゆえに存在しえた人々のやさしさが、ここまでストレートに、優しさと酷薄さをこめて詠われうることが驚きである。僕は、これこそ21世紀に残すべき秀歌だとまじに思う。「孫がかわいい」も結構だ。「家族が大切」も結構だ。なぜならそれは真実だからである。しかし、それを短歌なり、ほかの表現なりに反映させ、人の共感を得るためには、人生を知ってしまったがゆえの痛みをもそこに込めなくてはならない。基本的には、オマエの孫、オマエの家族なんぞだれも興味がないし、「ああまたか」と思うだけである。それは、陳腐な感情に溺れてはやってられない人間のシニカルさの鎧だろう。それを突き破るためには、アイロニーという槍が不可欠なのだ。短歌というのは、シニカルさの鎧を突き破るのにもっとも適した文学である。この僕がたとえば、子や妻を亡くした歌に胸ふたがれるというのはただごとではない。新聞の投書欄とかで読めば、「オマエの家族のことなんぞどうでもよろしい」としか思わないのに。
 とにかく、甘ったるい歌が多すぎる。自分をアイロニカルに見る視点が欠けているのだ。酒井さんの歌がせつないのは、結局は誰も、この「あか」の保護者たることを本当には引き受けなかった、結局は保健所と近代化をすすめる国家の、庶民レベルでの加担者であったことへの自覚と痛みが感じられるからだ。もしもこの内容をいま散文で発表したら、「どうしてその犬をちゃんと保護して予防注射を受けさせて誰はばかることない飼い犬にしなかったのだ」という近代的で文明的な非難が浴びせられることであろう。しかし、そのようなお利口でくそ面白くもない正論にもまさる詩の力、それが不思議なことに三十一音という短い詩形のなかにあるのだ。僕は、この酒井さんの歌を何度読んでも飽きることはない。
 短歌とは、素晴らしい文学だ。文学はすばらしいが、それにひきかえ、それを担うべき歌人は………。
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2007年08月17日

856 孤独な歌人、仙波龍英と出遭えなかった不運と幸運

 六花書林から、満を持して発刊なった「仙波龍英歌集」が面白くてしょうがない。俺は、およそ歌人と会いたいとは思わないが、仙波は、会いたいと思う数すくない歌人のひとりである。新東宝の話などたっぷりしたい。困るのは、読めば読むほど、彼の歌と僕の歌と、その発想に共通点が相当あることである。映画、サブカルチャー、女優の好み。かなり近いし、そうしたネタを取り上げる詩心そのものが共通しているのだ。だから、俺の歌を仙波のパクリと早合点する向きもいるかもしれないが当然それはありえない。なぜかというと、仙波の歌は長らく読むのが不可能で、最近短歌をはじめた俺が模倣できるわけがないのである。俺は赤木圭一郎を詠い、仙波もトニーを詠う。ほかにそんなお題で詠うやつがおるかいや、いはしない。

ハヤシライス平(たひら)げしのち真似てみるララミー牧場のジェスの早撃ち 仙波龍英
CMの長嶋茂雄が片辺をふるふをとこに「からだが資本だ!」
市ヶ谷に首がとぶとはいまは亡き「黒い雪」裁判被告の幻想
怪談は新東宝にとどめさすをその後恐ろしき映画生れず

 ほかほか、引用したい歌がたくさんあるが、またそれは折を見て。
 
 ところで。仙波の歌には、やたらと詞書きと注釈が多い。第一歌集「わたしは可愛い三月兎」の解説を書いた小池光氏がこう述べている。

 〈短歌に註をほどこすという発明も、そういう中からごく自然に出てきたものだろう。自分を語るには自分の一部(あるいは大部)である流行(ハヤリ)を語らねばならず、したがって「俗悪」がハンランするが、読み手にこれら事象は伝わるだろうか。心やさしく仙波龍英はそこでおずおずと〈註〉を施しはじめたに違いない。ことさらの意企や奇矯性を見るべきではないのである。すべては彼の正直な親切心のなせるわざだ〉

 これは、小池氏の誠意のこもった文章だとは思うが、どうしても、ある種の「ずれ」を感じてしまう。そもそも、なぜ仙波が、第一歌集で、当時は歌壇はもちろん、一般社会、のみならず、マニアの間ですらコアな漫画ファンの知る人ぞ知るな存在だった吾妻ひでおを表紙絵に起用したか、それを考えなくてはならない。僕はまったく知らないのだが、ある世代の「おたく」にとって吾妻ひでおというのは神にも等しい存在であるらしい。連載をいくつも持っている漫画家でありながら失踪しドカタやホームレスを転々とし、ようやく復帰して出した本がいきなりベストセラー、しかも僕の周辺ではやはりその名を知るものがいない、というのが、70年代以降のサブカルチャーのあるかたちを如実に表している。僕はその全盛期を知らないが、収録されてある「三月兎」のイラストを見るにつけ、これははっきり言って「萌える」。男が、いや文学という菌に感染したものならば女性でも、少女という記号に託す妄想を極限まで煮つめたような絵だ。人間を構成するのが思想や理性ではなく、その本質的なものはサブカルチャーにこそ浮びあがるという認識が交差した結果が仙波龍英と吾妻ひでおなのではないか。僕はまったくロリコン趣味はない(三月兎に描かれている女性の体型は成人女性のそれだが、顔は幼女に近い)が、無邪気と魔性の合体に安らぎを見出したいという近代人の要請に、それは唯一の答えを出しているように思える。仙波がみずからの短歌に過剰ともいえる詞書きや註を付したのは、決して小池が言うような気遣いやサービス精神ではない。それ自体が作品の半身をなすコラボレーションなのだ。でなければ、サブカルチャーにおいてすでに生き神であった吾妻ひでおを表紙に持ってくるわけがない。
 仙波は、歌壇に対して根深い嫌悪感を持っていたというが、それはわかる。俺は、仙波の最良の理解者を自称しはしないが、それにしても、当時の歌壇が彼の歌をまともに評価することができず、とんちんかんなことばかり言っていたであろうとは推察できる。だって歌人て、泣きたくなるほどサブカルチャーに弱いんだもん。こいつら文学バカで、仙波が歌にこめた情念がビビッドにわかったのは一人もいないだろう。だから、仙波のライトバースの嚆矢とか、バカ丸出しなことを言うやつがいるのである。俵某や加藤某と、仙波を一緒くたにすんなボケ。加藤はサブカルチャーをその胸や腹でわかっていない。歌を読めば一目瞭然である。
 詠みはともかく、「読み」が一流という歌人は希少である。正直、「これは凄い」と唸った読みをする歌人は、故塚本邦雄一人であった。塚本は、歌人と文学者が当然持っている世界への悪意を読み取り、それを堂々と解説してみせる文学性があった。まさに「詠み」と「読み」を両立させた魔王と言っていいだろう。誰も塚本に追随しえないのは、「悪人」と呼ばれることを恐れていることだ。どの歌人もスケールが小っちゃい。
 仙波が僕と、そして僕が仙波と出会うことができなかったのは、お互いにとって不幸なことだが、また幸運だったかもしれない。彼が「三月兎」を出したころ、僕は金にもならないサム・シェパードの初期短編の日本初演に血道をあげていた。お互いジャンルは違えど、「こんなに先鋭的な俺がなんで受けないのだ」と煮えていた。考えてみればサム・シェパードの劇世界の背景にあるのもサブカルチャーである。俺はいま、仙波と語りあってみたいが、もし実現したら、三日三晩語りつくしたあげく俺が向こうに連れて行かれそうなので語れなくて幸いかもしれない。今、そこまで語りあいたい歌人は、現世には一人もいないのである。ちなみに、私は自歌において固有名詞を乱打するが、読者に解ろうと解るまいとそんなことは関係ないと思っている。解らないのなら調べろ。短歌とは、そういう、読者の知的好奇心を刺激するものであるべきだと思うからだ。
ニックネーム 茶トラのみんく at 21:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

855 サブプライムと猛暑

 日経平均が16000円台を割りそうである。これは大変なことだ。今いったい、株がらみで何人の自殺者が出ていることであろう。その数が報道されないのは政治的配慮というものであろう。日本の雑貨屋からはロープが売り切れとなり、アメリカの銃砲店の棚がカラになる。六月下旬には、日経平均は18000円から19000円台まで行くと喧伝されていた。しかし、7月18日あたりから、サブプライム問題が浮上し始める。経済アナリストたちは、「アメリカの経済実体は確かなのでさほどの問題ではない」とぬかしていたが、俺は信用しなかった。だってGNPの10%が貸し倒れという状態で、影響が出ないわけがないではないか。俺の経済活動は、サブプライムを重くみてのことだったので、さほどの実害はないが、本当に銃をくわえてどたまをぶち抜いている人がかなりいると思う。この問題が厄介なのは、実体がよく見えないことだ。つまり、サブプライムに関する債権や株の居所がつかめないのだ。音もなく侵略し、市民を乗っ取るエイリアンのようなもので、それはいつの間にかそこにあって全体像が把握できない。たとえば、突然M菱T京銀行が50億以上の損害をこうむったなどという記事が飛び出すのである。抗体のない病原菌と言っていいだろう。
 猛暑が続く。日本の天気も経済の影響でやけくそになったらしく、岐阜の某所で気象庁観測史上の記録を更新する猛暑がレコードされたそうだ。ところが数時間後に、東京近郊の熊谷がそれに並び、テレビ局の連中も発狂したのか嬉しそうだった。文字通りのヤケクソである。東証も、このまま落ち続け13000円台なんてなったら大笑いだろう。いやいや笑ってはいられない。サブプライム問題はすべての経済に波及する。持ち直しかけた日本経済の足を引っ張ることは必至だろう。今年の流行語大賞は、サブプライムで決まりである。今日は急遽、予定の日記を変更して経済問題についての記事をもって差し替えとする。
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2007年08月14日

854 「眞空地帯」とチキンライス

      今日のMYビデオ
「眞空地帯」(昭和27年、新星映画、山本薩夫監督、原作・野間宏、脚本・山形雄策、音楽・團伊玖麿)木村功、下元勉、三島雅夫、金子信雄、岡田英次、神田隆、佐野浅夫、下条正巳、利根はる恵

 ひさびさに、このビデオを観る。凄い映画だ。普通映画には、ダレ場という、よそ見したりあくびしたりしていい場面が必ずある。これは、観客を疲れさせないためのサービスでもあろう。しかし、この映画には1分たりともダレ場はない。いったん見始めたが最後、一瞬たりとも目を離すことはならず、この映画の流れに巻き込まれ最後まで見ざるを得なくなるだろう。黒澤明の「野良犬」などが、数少ないそのようなノンストップ映画の系列に数えられる。見ていて疲れるが、映画をじっくり見たという満腹感があとに残る。
 戦後、日本映画は、軍国主義の抑圧から解放され、GHQの保護のもと、かつての軍国主義批判映画をじゃんじゃん作れと奨励された。ところが、作り手のほうは、「そんなこと突然言われましても」状態である。たとえば木下恵介「大曽根家の朝」や、五所平之助「今ひとたびの」などは、軍国主義批判と恋愛賛歌をいっぺんにやろうとして、気持ちはわかるがリアリティをはなはだ欠いた映画となった。また、今井正「また会う日まで」にしても、日本映画としてはやはりリアリティを欠いた美しすぎる映画としかなっていない。戦後七年を経て、人々がまた、戦時中を美化するがごとき心情に陥りかけた(←本当)とき、現れたのがこの映画である。
 「眞空地帯」は、大阪にまだ残っていた兵舎をロケ地とし、新劇人たちが泊まりこみで、まさに数か月間、ノーギャラ手弁当の命がけでのぞんだ映画である。ノーギャラと聞いて諸君は驚くだろうが、当時は、「反戦映画のためならギャラはいらない」という俳優がいっぱいいた。有名なのは、今井正「ひめゆりの塔」に、香川京子が「ギャラはいらないから出してくれ」と言った例などだろう。それだけ、俳優たちの、戦争に対するにくしみは強かったのだ。「眞空地帯」は、陸軍内務班のいじめとリンチのすさまじさと、経理班のデタラメさを容赦なく描ききっている。
 経理班の、派閥争いの犠牲となって陸軍刑務所へ送られた、木村功演じる木谷一等兵が刑期を終えて戻ってくる。その服役歴は一応は隠されているが、ついにばれてしまう。古参の三年兵たちは「刑務所帰り」「刑務所帰り」とさんざん彼を罵倒する。ついに木谷一等兵の怒りは沸点に達した。木谷は四年兵である。憤懣が頂点を極めたとのとき初めてそのことを明かし、「この4年兵の俺さまに歯向かうか」ともともと格下だった連中を一列に並べての壮絶なビンタシーンがそれに続く。これは、本当にビンタを張っているのであろう。その証拠に張られたほうはふっとんでいるし、何度もテイクをしたら役者の顔が腫れてしまうので一発勝負の本気のビンタだったはずである。山本監督が木村に「本気でやってよ」とささやき、殴られるほうはそれを知らされていなかったという証言がある。実際、ぶたれるほうがふっとばされているのだ。このシーンはまさに、天皇制によって痛めつけられた一兵卒だった木村功からの復讐のビンタであり、また、徴兵され使い捨てられ犬死にをしいられた若者の怨念のビンタでもあると僕は思う。
 また、この映画におけるもうひとつの忘れられないシーンは、自らの暗い過去を知っている木谷上等兵を懐柔すべく、金子信雄演じる金子軍曹(本当にこういう役名なのである)が、チキンライスを炊事班に調達させてやる場面である。木村は、正真正銘、こんな御馳走はありえないというばかりの飢えた目をしてそれをぱくつくのである。人間の飢えと、それがもたらすみじめさが如実に出た、なんとも印象的なシーンである。チキンライスという敵性語がここでは使われているが、これはリアリティの欠如ではなくむしろ現実の反映であろう。カタカナ語の規制、などというくだらない戦時下のムーブメントは戦争ヒステリーともいうべき支配の副作用であって、現実の戦争の現場ではチキンライスはチキンライスと呼ばれていたに決まっている。
 僕は、歌人たるべき者は、山本薩夫の、労農党代議士山本宣治の壮絶な一生を描いた「武器なき斗い」と「眞空地帯」を観るべきであると思う。にわか右翼連中からは、こんなのは旧弊な左翼の偏向映画だと言われるだろう。確かに、山本は、オーソドックスな社会主義者であった。しかしながら、その主張を貫くために映画に投影されたものはまさに現実に起きたことなのである。僕は、社会主義者であったことは一度もない。しかし、山本、熊井らの作った社会主義映画の影響を濃厚に受けている。だから、某小林××のりあたりのゴーカンニズム、おっと失礼、ゴーマニズムなんぞというたわごとにはへどが出るのだ。今どきのニートやフリーターはこの手のデマゴーグに踊らされがちなこと、戦前のナチスを支持したドイツの無職青年どもを見る思いである。吐き気を催すとはこのことだ。笹公人氏のような知性が某小林と交流がある、ということが、時代の病を象徴している。好き嫌いは別として、歌を詠む人間は、「眞空地帯」と「武器なき斗い」を観るべきである。特に若手歌人。私は、ど左翼でないばかりか、プチ左翼ですらない。それどころか俺はあのドグマに凝り固まった偏狭なブ左翼どもが大嫌いだ。それでも、この日本の映画は映画史の財産であると思う。山本薩夫監督は、社会主義を礼賛する意図で映画を作ったのではない。そこにはただ、戦争とファシズムのもたらす非人間性を描きつくすこと、それに対する映画人としての使命がひたすらにあったのである。
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2007年08月13日

853 「時の過ぎゆくままに」=「浮雲」

      「時の過ぎゆくままに」

 あなたはすっかりつかれてしまい 生きてることさえいやだと泣いた
 こわれたピアノで思い出の歌 片手で弾いてはため息ついた
 時の過ぎゆくままにこの身をまかせ 男と女がただよいながら
 落ちてゆくのも幸せだよと ふたり冷たい体あわせる

 体の傷なら治せるけれど 心の痛手はいやせはしない
 小指に食い込む指輪を見つめ あなたは昔を思って泣いた
 時のすぎゆくままにこの身をまかせ 男と女がただよいながら
 もしも二人が愛せるならば 窓の景色も変わってゆくだろう

 阿久悠が死んだ。大好きな作詞家だった。特に好きなのは、この詞だった。まさにこれはフランス映画の世界ではなかろうか。耽美にして完結、文学的にして通俗、文学かぶれの少女も、軽薄なアイドルかぶれの少女も、はたまたフォークかぶれのバカ青年も、かつて文学趣味だったおっさんも、すべてにアプローチする完成度である。
 かつて阿久悠のインタビューを読んだことがある。「あなたの歌を作る源はなんですか?」という質問に対して、ずばりこう答えていた。「映画です」。彼は、学生時代、膨大な数の映画を観たという。洋画はもちろん、邦画に関しても凄い知識のある人である。小津、成瀬、黒澤、深作、岡本、あるいは山本、熊井などの社会派まですべて網羅していた。実際、彼の日本映画に対する知識は凄かった。彼は映画からその汲めども尽きぬイメージを無限に供給されていたのだろう。あまり気付く人はいないが、「ペッパー警部」なんていかにも映画的である。それにしても、上記の詞は素晴らしい。作曲の大野克夫も、この詞を得て、イマジネーションを脹らませて名曲をものしたのだと思う。それまでの日本の歌謡で、「堕ちていく男女」というものをここまで、陳腐すれすれの詩的表現で描ききったものがあったであろうか。大衆のメロドラマ性に奉仕することと、文学好きの琴線に触れることの両方を誰が実現しえただろうか。阿久悠の天才は、ある需要を満たしながらその先の、もっともののわかった人間の感性に訴え、しかも偉ぶっていないところまで「気取り屋」たちの感覚を引き戻しえたことである。この歌「時の過ぎゆくままに」は、視点を変えて読めば成瀬巳喜男の「浮雲」である。これを指摘したのは日本広しと言えども私だけであろう。阿久悠は成瀬映画のファンであった。この映画なおイメージなくしてこの歌が生まれようはずもない。そのエッセンスに、フランス映画のような美的注入をほどこして作られたのが「時の過ぎゆくままに」である。この詞を作ったときのイメージの片隅に、弄ばれ堕ちてゆく高峰秀子イメージがなかったとは言わせない。この詞は、岡本おさみ「落陽」と並び称されるべき、日本歌謡史上の金字塔であると僕は断言する。
 朝日新聞夕刊に乗った阿久悠の追悼記事がひじょーに下らなかった。やれ、戦後の、生活感情を逃れた層にアプローチしただの、軽妙な言葉を歌謡曲に持ち込んだだの、わかってないにもほどがあるだろうな記事だった。阿久悠の歌にはオーソドックスな文学性が濃厚にあるというのに。このようなわかってなさはこんにちの短歌界においても一般的である。彼ら(誰のことやら)の考える「花鳥風月」の範疇に入らない単語があるだけで「新しい感性」「浮遊感覚」などと見当はずれな言葉で歌をおとしめ、オーソドックスな抒情の世界を構築しようとしている歌人の邪魔をし、へつらうのがうまい軽薄な連中を持ち上げる。また、歌人のバカどもは「映画ネタの歌をひとつ」と言われたら持ち出してくるのはそのほとんどが洋画である。日本映画を見とらん歌人など俺は信用できん!だから、スケールの大きな歌人が出てこないのだ。歌人の評など、ごく一部を除いてほとんどつまらんと言える。近藤芳美や、岸上大作を評した論に、その人間性を抉ったような論調がひとつでもあったか。ない。俺の予想の範疇にしかないようなことしかこいつらは書かない。歌人の評とは、この程度ものなのだ。
 最近、送り手である私の熱意と、読者数との乖離がはなはだしいことになってきている。読んでほしいと思う記事にアクセス数が集まらないのだ。残念ながら、私の読者の99%は歌人であるらしい。僕は、もっと突っ込んで欲しい記事を書いているのに、短歌以外の話題ではまったく反応がない。要するに、俺はこいつらに娯楽を提供しているだけであり、こいつらはにたにた笑って読んでいるだけで参加するつもりはないのだ。本当に、歌人というのは虫の好かない連中だ。歌人以外の人を一人でも多く読者に加えたいと、僕は切に願っている。
 俺は昨夜も栗木京子の夢を見た。河野裕子が舞台女優なら、栗木京子は僕にとって映画女優である。栗木は香川京子によく似ている。僕は、知性的な女性に弱い。なんでも鑑定団の女性鑑定士安河内さんも僕の萌え女性の一人である。栗木氏は僕の憧れであり、憧れであるからこそ、お近づきになるなどは夢にも思わない人でもある。要は、現在において、僕にとってのアイドルというのはいないのだ。そういう意味で、栗木京子氏は、僕の最後の憧れの存在として、神格化したいのである。
 阿久悠よ、さらば。僕の考える日本の三大作詞家は、岡本おさみ、松本隆、そして貴方なのです。ご冥福をお祈りします。
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2007年08月11日

852 アンギラスの脳味噌

 私の未来の第一歌集、「安輝素」の表紙絵を描いてくださるかたを探していたら、まだ口約束ではあるが、とあるかたが、快く引き受けてくださった。そのかたは、怪獣イラストを描かせたら日本ではまずダントツの権威であり、怪獣好きやオタクならまずこのヒントだけであああの人かとわかるような人である。僕が数ある怪獣のなかでも、アンギラスという怪獣に愛情を感じているということに、「いいセンスですね」と言ってくださったそうだ。なんとノーギャラでもいいとおっしゃってもくださったが、さすがにそうはいかない。もちろん、膨大なギャラを払うほどの資金力はないが、できる限りのことはさせていただきたいと思っている。表紙絵を正式にお願いするあかつきには、私のアンギラスを詠った連作も読んでいただくつもりだ。たぶん、気合のはいった怪獣好きであるそのかたの琴線に触れ、イマジネーションを膨らませてもらえることであろうとの自信もある。
 僕は、アンギラスという怪獣に強いシンパシーを感じている。この怪獣ほど、日本怪獣映画史上無残な死を遂げたやつはいない。「ゴジラの逆襲」において、ゴジラに首筋を噛み切られ、どす黒い血を流し、いたましいほどの叫び声を上げて死ぬ。しかもゴジラは、その死体に白炎砲を吐きつけ、炎上させるのだ。後年のゴジラの変節を知る人は知らないかもしれないがこの2作めにおいてゴジラは前作同様「日本を破壊する荒ぶる神」、端的に言って悪役であり、アンギラスはその悪を強調するためのついでに誕生させられた、つまりは噛ませ犬的存在である。それにしては、インパクトが強かった。彼は清水将夫によってこう語られる。「体じゅうに無数の脳を持ち、しかも性格は凶暴、やたらと敵意を剥き出しにする」。要するに、それなりの知性はあるが、それが生活を向上させる役に立たない、自滅するタイプということだ。だから、あとさきも考えず、ゴジラという強大な敵に向かっていったのだ。まさに、この私そのものである。いや、男、という動物の意識の深いところに、こうとしか生きられないものへのシンパシーが深く眠っているはずだと断言したいところだが、残念ながら当節はそうでもないらしい。アンギラスの無数の脳味噌は、考えるための脳味噌ではなく、ひたすら暴れるための脳味噌であるらしい。それだけにいたましい。僕は、根本的に、闘う、とか自決、とかいう言葉が好きである。このふたつのキーワードが僕の人格にあるが、かといって三島由紀夫みたいなのとは全然違う。彼のように、徒党を組もうとは思わないし、226事件の皇道派の将校連中とも違う。つねに孤独に考え、行動する。だから、アンギラスを自称するのだ。
 予定している歌集の第一章「禄で無し」の草稿はすでに完成した。ただ、あとの四章が、ほぼ出来てはいるがなんか弱い。もうちょっと考えよう。ところで、何度も言ってるんだが、歌人諸君は歌集を作るとき、「章立て」というものをどう考えておるのだ。十首とか三十首とかやたらちょこちょこ章立てをしているが、読んでいて邪魔である。なにも、雑誌に発表したときのままのタイトルと歌数と構成で収録するばかりが能ではあるまい。もう一回、全部をばらばらにほぐして、百首単位で構成し直し脚色してみろよ。歌集を読んでいて、無駄に章立てが多いと思うことが多すぎる。こうやっていくら俺が吠えても、こいつらは壁のように無視をする。ならば繰り返し言ってやる。俺は短歌は好きだが、歌人という人種は大嫌いである、と。
 なお、本日の「今日の一首」は、歌集「安輝素」の締めくくりの歌と決めている歌である。

      今日の一首
アンギラス千住の“お化け煙突”に縋り哭く見ゆ鮮血(あか)き夕暮れ 黒田英雄
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2007年08月10日

851 軍艦マンションと久我美子

 すさまじい暑さである。新宿のコンクリートとアスファルトはドイツに襲撃されたパリのごとく燃えておる。そんな熱気のなか、陽炎にゆれて目立つのは、職安通りに聳え立つ、通称「軍艦マンション」(本名ニュースカイビル)である。通りかかるたびに気になるので、先日、「セキュリティが作動しています」という張り紙もむなしくドアが全開になってたのでちょっと入ってみた。まずこのビルというものは、入り口から覗いただけで普通の感覚の人ならばめまいと吐き気を起こすであろう。廊下が斜め三十度くらいにいきなり分岐し、その廊下の床は真っ黒に塗られ、そこに〜〜〜状の白い線がうねうねと描かれている。いったいなにを考えておるのだ。例えようにも現実世界にあまり例える相手がいないので想像で言うが、おとぎ話の世界で、ものすごくひねくれた魔女に課題を与えられて試練を強要される森とか城とかならなんとかありそうな造りである。妻がときどきやってるテレビゲームの冒険でもこんな構造はないそうで、それはゲームを作る側も、道は直角に交わってるほうがプログラムしやすいからであり、人心を荒廃させると巷で話題のテレビゲームよりももっといまわしい構造をこのマンションはしているのである。例えるならば(例えがしつこいが)、内臓、そう、肛門に入っていく腸カメラになれば味わえるだろう感覚、まさにそれである。最近、「いまどきのランドマーク」とかなんとかいう本を見つけて立ち読みしたら、このマンションが軍艦マンションという異名を持っているとわかったので検索してみたら、1970年の建設だという。先日潜入を果したとき、壁に部屋番号と居住者を書いたパネルがあり、恐ろしいことにその上にはもはや点々としか名前が記されていなかったのである。数えてみたが七部屋しか埋まっていなかった。十二階建てであり、少なく見積もっても八十部屋はあるだろう。まさに新宿の名所、新たな廃墟伝説である。地方在住の読者で、上京するかたでもおられたら、ぜひこのマンションの見物に来るがよろしい。まだ人は住んでいるが、並の廃墟ウオッチングでは味わえない、リアルタイムの廃墟化、というものが如実に味わえると思う。
 新宿は、廃墟に囲まれた街である。聳え立つ多くのマンション、そのほとんどは住居として使用されていない。いったいなんの目的であとからあとから建てられるのか。しかも、購入価格は三年前の2倍近くまで高騰している。不気味だ。まさに、日本はアメリカのサブプライムを真似した転売バブルに踊っているとしか言いようがない。日本人は、その失敗までも、アメリカ人の真似をするのだ。そんな転売目的の、見るからに住みごこちの悪そうな車通りの真ん前に墓石みたいに突っ立ったマンションを見るにつけ、新宿は廃墟の都市であると思うのである。

      今日のMYビデオ
「また逢う日まで」(昭和25年東宝、今井正、脚本水木洋子・八住利雄)久我美子・岡田英次・滝沢修・河野秋武・杉村春子・風見章子・芥川比呂志・近藤宏・大泉滉

 軍艦マンションなんぞ覗き見していたら、急にこの映画が見たくなってきた。戦時下の悲恋を描いた作品として名高ンいが、その劇世界はまったく日本映画のそれではない。完全にフランス映画だ。だいたい、ヒロインの家というのが、玄関からそのまま靴で入る作りになっておるが、そんな家が日本の戦前にあるか。今だってねえよ。フランス好きのインテリ今井正は、これの前作「青い山脈」で苦渋を味わっている。ラストのサイクリングのシーン、小粋なフランス映画らしきしゃれたピアノ曲などつけようと思っていたら、「わぁかっくあっかるいうったあごえにいいいい♪♪♪」なんて歌がかぶさって大激怒したという。その恨みを「また逢う日まで」で完全に晴らしたと言える。映画史に名高い「ガラス越しの接吻」なども、今井の演出の際立ったものである。彼はこの映画を作って大満足しただろうと僕は思う。
 戦後の女優で、久我美子は、香川京子とともに僕が好きな女優である。美子は爵位を持つ家柄の出であるが、みづから望んで女優の道を選んだという。資産家の娘でありながら学園の改革を謳って立ち上がるヒロインを演じた「女の園」と本作は、彼女の代表作と言っていいだろう。ひたむきなヒロイン、という役柄が合う人だった。香川京子とも共通するが、脂粉や香水といった「女の香り」というものがまったく似合わない女優である。そんな女優は現代では皆無である。そういうヒロインが主役を張れた時代の日本映画が、まさに女優の黄金期であったと僕は思う。現代の女優?こう言っては失礼だが、久我たちが絹の、何代にも渡って愛でられるハンカチだったとすれば、使い捨ての雑巾と言っていいのである。まさに、映像女優受難のひどい時代である。
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850 「くさめ」より「放屁」〜短歌の魅力とは〜

「いずれ…」とはもう来ないということなのだ 青葉揺らぎのなかに見送る 森谷 彰

 この歌のシチュエーションは、恋人との別れだろうか、あるいは同性の友人とのそれだろうか。別れ際の、再会を約す言葉というのは意味深である。僕はこれは、男性に対する同性の友人への思いを詠ったものだと解釈したい。「固きカラーに擦れし咽喉輪のくれなゐのさらばとは永久(とは)に男のことば」塚本邦雄。しかし、さらばと言わずに「じゃあまた」とか、「また会おう」と言うときもすでに、永遠の別れが迫っているのである。それをわかったうえで、相手もその言葉を発しているのであろう。初句の「…」に、思いがたぎっている。下句の素直な表現もいい。初句の重さをいい意味でずらしている。この短い韻律のなかに、ぼくは色々なドラマを想像する。歌の魅力とは、ドラマなのだ。

早朝にコンビニでパン買いし吾の証人は若き店員ひとり 関 浩子

 これも実に面白い歌だ。コンビニでパンを買ったなんてどうでもいいことだが、それが、ある日突然重大な、不在証明の証言となるかもしれんのである。自分がその日そのときそこにいたということを知っている相手は見も知らぬ若造の(多分バカそうな)店員のみであるという、そこはかとない恐怖。日常を平凡に暮らしていてもいつ、アリバイの証明をせまられる事態に巻き込まれるかわかったものではない。昔は犯罪とくれば適当な容疑者をつかまえて拷問してむりやり自白させて事件解決と済ましていただろうが、人権意識と科学が、証拠とアリバイの必要性を庶民のレベルにまで徹底させた。これは逆に、いつ自分が犯罪の関係者や容疑者になるかもわからないという「犯罪の均等化」である。そんな近代化と平行して、アリバイを持たない一人暮らしの勤労者は莫大な数に増えた。アリバイのあるほうが不自然なほど、人間は分散されている。これも、現代を切り取っている秀歌である。

恋人は眠りながらにくさめしてなにやら解(ほど)けてしまったようだ 田宮ちづ子

 結句がいい。この恋人は、完全に作中主体である女性に気を許して弛緩しきっているのだ。男のほうはいい気なものだが、それを見る女性のほうは複雑な心境だろう。男として断言するが、男の本質は「おっさん」であり、ひとりの女性に慣れ親しむことはそれを露呈することだとどこかで思っている。したがって、寝顔を見せるほど慣れきった相手の前ではくしゃみどころか鼻くそだってほじるのである。相手の幻滅なんぞ想像もできない。僕は、「くさめ(くしゃみ)して」よりも、「放屁して」のほうがより深く男性の本質を肩っていると思う。女性はともかく、男にとって堂々と屁もこけない女房なんて最悪である。俺なんか会って三日目からかましまくり、屁をこいた布団のなかに妻を閉じ込めたこともある。僕はこういう、映像感のある歌が大好きである。作者はさぞかし、幻滅してるんだろうなあ(笑)。

まなかひを悪事のよぎる顔ひとつ回転扉に行き違ひたり 平居久仁子

 これも実に映像的で、ぞくぞくするような秀歌だ。「回転扉」というのがいい。すれ違いや、過去や未来との邂逅、その通りにくさや堂堂巡りが表すやはり人生の比喩(森ビルの事件はついこのあいだのことだ!)が深い象徴性を持つのである。「まなかひの悪事」という言葉にもリアリティがある。拡大解釈すれば、これはひょっとすると作者本人の顔なのかもしれない、とも取れる。いやいやこれは、素直に字義通り、そのような邪悪な気配をみなぎらせた男(性別はあらわされていないが男性だと思いたい)と回転扉ですれ違ったときのことを詠った歌、と解釈したい。短歌とは、こういう映像的刹那を詠うことに魅力があるのだ。

地下街の出口を塞ぐ夏空を目指して登る汗にまみれて 関根忠幹

 僕は常に、小手先の修辞を弄ぶな、と主張しているが、この歌の修辞は見事である。上句が素晴らしい。地下の閉鎖空間から、熱波の地上へ上ろうとするとき、狭い階段のうえに見えた青空。それが、作者にとっては開放ではなく、むしろ、ゆくてを塞ぐ蓋のように見えたという。結句と相俟って、まさに閉塞感に満ちた、現代の反吐のような歌だ。実際、都会に暮らしているとこうした感覚はよくわかる。ただ、歌にしようとしてそう簡単にできるものではない。見事な都市詠だと、僕は思うのである。

 歌を選するポイントとは、その映像感覚を見逃さないことだ。その意味では、僕の歌の読みは異端だと思う。それでも構わない。僕の選歌こそが、短歌の持つ魅力をアピールしているのだ。阿呆な選歌で採られたからといって喜んではいけない。私から選ばれない歌人など、本質的にスケールの矮小な歌人でしかないのだ。私ほど優れた選者はまず今の歌壇にはいないと自負する所以である。
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:32| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

2007年08月08日

849 「短歌人」八月号会員欄秀歌選 その26

 「短歌人」の、20代30代会員作品競詠欄を、毎年楽しみに読んでいる。いつもながら意外に思うのは、出詠歌から想像していた作者のだいたいの年齢が、見事に外れることだ。そうとういい年だな、と思った人が実はまだ、この競詠に出る資格のある年齢だったり、あるいは若い歌風の人が実はけっこう年配だったりして、これまた驚くことがままある。歌のイメージと作者がそのまま現実化することはほとんどない。それが、短歌の面白さだ。その点から言うとおれの歌なんて一発で年齢がばれるだろうな。ともあれ、「短歌人」若手歌人特集は、今年も面白い歌が多かった。来年がまた楽しみである。
 では、気分を一新して今月の秀歌選に移る。今月の赤丸歌、会員1欄パート1、120首。同欄パート2、135首。会員2欄パート1、82首。同欄パート2、162首。計499首。

      「短歌人」八月号会員欄秀歌選 その26

「いずれ…」とはもう来ないということなのだ 青葉揺らぎのなかに見送る 森谷 彰

まなかひを悪事のよぎる顔ひとつ回転扉に行き違ひたり 平居久仁子

恋人は眠りながらにくさめしてなにやら解(ほど)けてしまったようだ 田宮ちづ子

テレビにて疲れしわれはふと見たり壁のしづかな毒蛾の交合 佐々木和彦

出来たてのパンほおばれば消えていく我の怒りの短さ哀し 吉川真実

早朝にコンビニでパン買いし吾の証人は若き店員ひとり 関 浩子

裏山のホーホケキョの鳴き声が「トウシャピショ(またいらっしゃい)」に聞こえる不思議 池田弘子

他人事(ひとごと)のやうに聴く子ら前にして己れに酔ひて戦争を語る 中山邦子

同人誌「花なき薔薇」は痛そうでついに中味を知らざりしまま 岡 頌子

都会より星は四、五倍かがやくと左遷の憂き身にふれぬも気概 竹浦道子

地下街の出口を塞ぐ夏空を目指して登る汗にまみれて 関根忠幹

「純粋」の意味とは?白にも濃淡があることを知る霧深き朝 里川憐菜

戦後史のさ庭に揺れる白菖蒲、白は無念の色と言いしひとあり 松岡壱八

駅員の車内放送節づいて花魁言葉は方言かくしと 鳴瀬由良

そうですねと言いて下がれる妻怖るこのまゝで済むことはなからん 小林惠四郎

放射線治療に激しく咽乾けば水を求めし被爆者想う 神林千代松

爺ちゃんは読んでゐるのかゐないのかあの世みる眸(まみ)で新聞にらむ 大畑敏子

雨の日に窓磨かむと決めたるは母亡くなりしのちのことなり 朝生風子

カーテンも閉めず着替へる上役の癖にも慣れて挨拶交す 犬伏峰子

上目遣いに見交はしてわらふ女たち京の町屋はひめごとめきぬ 関口博美

軒庇のふれあう路地の家々の上がり框に老人のゐて 牛尾誠三

経歴のどこかに人は翳をもつ雲に遅速の梅雨空暮れつ 早川清生

公営団地の隣同士の老いふたりおなじ日の朝遺体で見つかる 藤井眞佐子

野球選手の父は子育てを能く語り力士の父は語らぬ多し 吉岡 馨

立待岬とどろく波に若からぬ女の傘のはるかうすみどり 田上起一郎

無人駅のホームに立てば日傘さす母と向日葵の遠き幻 菊池尚子

息子誉め嫁褒め孫讃む自慢気な老女 永きに面会者なし 川崎義一

寂しさは常盤木落葉の散りざまよ風も吹かぬに人も来ぬのに 坂井あゆみ

歌一首残していつた旅行者の 春の鞄の古傷みたいに 矢野佳津

 以上、厳選三十首。今月も面白い歌が揃った。「短歌人」の歌は、「塔」のそれよりも、ダイレクトに僕のハートに突き刺さる歌が多い。
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2007年08月06日

848 笛吹けど踊らず

 松木秀氏の日記で、僕のブログの読者には短歌をやってない人が相当いるらしいと書かれていた。僕もそれが理想だが、残念ながら現実はそうではない。読者の99%が歌人ならびに歌人ワナビーな人々であり、まったく短歌と関係ない人というのは、競馬ファンと邦画ファンを足した、わずか1%であろうと推測される。なぜなら、トピックに対するアクセスの流れを見れば一目瞭然だからだ。僕は最近、短歌と関係ない記事を続けて書いている。まあ、アクセス数の落ちる落ちること、面白いくらいである。一日1000を切ってしまった。ただ、これは僕にとってある種の快感ともなっている。正直、アクセス数はもううっとうしい。自分のキャパシティ以上のアクセス数があると、ちゃんと相手に届いていないんじゃないかという不安感に襲われるのである。ただ、のべのアクセス数ではなく、あ読者数は大事である。当ブログのいまの読者数のレベルから言って、毎月の読者数が3000人を切ったら、もう閉鎖したいと思う。月3000人というのが、最低のラインだろう。色々な考えがあると思うが、僕は読まれもしないことをネットに書き込んでもしょうがないと思う。
 歌壇のことも取り上げたいが、今の取り上げるべきトピックがない。まったく、短歌とうのはエネルギーもダイナミズムもないジャンルだ。短歌を知って6年目だが、いまだにまともな、血湧き肉躍る論争というものを知らない。松村正直VS佐佐木幸綱論争はひさびさに面白いと思ったが、これもなあなあで終ってしまったようだ。これでは短歌というジャンルは、トキやコウノトリと同じ、国家によってかろうじて保護されている絶滅危惧動物ではないか。いや、もう何度も言ったことなのでここまでとする。ただ、コメントにもあった、「角川短歌」来月号の栗木京子×小島なお対談というのには非常に興味がある。今最もヴィヴィッドな歌人といえば、この二人だろう。僕はこれまで、小島なおは栗木京子の再来と発言している。小島なおの歌に対する評を、初めて総合誌に書いたのが栗木京子だ。これは、角川「短歌」のすぐれたセンスである、という賞賛に値するだろう。角川「短歌」は、歌人をフォトグラビアでも取り上げ続けている。これは大変いいことだ。角川短歌新人賞の受賞者のレベルが常にある水準をクリアし続けているというのも、出版母体のセンスのなせる技だろう。それに比べて短歌研………。おっとっと、この話題はここまでにしよう。今月出る、新人賞発表号が出てからにしよう。僕がなにを書くか、皆様も楽しでしょ(爆笑)。正直言って、ネット世界で短歌に刺激を与え得ているのは俺だけである。正直、ひとりで戦うのに疲れてしまった。これからは休み休みいきますので、もしも「黒田元気ねえな」と思った有志のかたは、どんどん過激ではれんちな短歌ブログを作ってくれたまえ。
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:56| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

2007年08月05日

847 日本は模倣するらむ、サブプライム

結局、いくらコールしてもナースはこなかった。とほほ。諸君。私の予想のタテ目を買いたまえ。努力次第では、大金持ちになれる。
不動産各社からの売れ売れチラシ攻勢がすさまじい。僕は、アメリカで問題になっているサブプライム(信頼度の低い層への住宅ローン貸付の焦げ付き)が、日本にも波及するであろうという気がする。アメリカの場合、売る側も買う側も、転売することを前提としている。だから、貧乏人にも平気で銀行が金を貸し、金を借りたほうは買った家をもっと高い値段で転売し、生じた利益で食っていく、というシナリオで動いていた。しかし、これは要するに転がしであり、値段がどんどん高くなっていて最後には買う人がいなくなることは馬鹿でもわかる。要するに住宅バブルであり、その崩壊なのである。その損失は、アメリカのGNPの10%にも及ぶらしい。
日本にとってもひと事ではない。僕の住んでいるこのマンションにしてからが、完売しているはずなのに、人が住んでいる気配のない部屋が多い。不動産屋の「買います」チラシの文面は、最初のうちは「この近辺でマンションを購入したいお客様がいます」だったのが「××××(←うちのマンションの名前)の皆様へ」となり、先日ついに、私個人宛のハガキとなって舞い込んできた。俺がここに住んでいることを知っているのだ。個人情報もくそもあったものではない。こいつらはどこかで、俺たち夫婦の窮状を調べ上げ、こいつらならあわてて売るだろうとふんでいるのだ。ふざけやがって。「秘密の情報」と称して「今なら相場を知らない人たちが買いたがっています」などというのまである。笑わせるな。しかし、土地の高騰は異常である。三年前に買ったこの2LDKのマンションの当時の値段が、今売り出している同じご町内の1LDKとほぼ同じなのだ。これは異常だ。笑い話ではないが、何年かたったら、このマンションで実際に暮らしているのは俺たち夫婦だけという事態もありえる。こうなれば俺は意地でも落城だけは避けて、このマンションに住み続けるつもりだ。せめてみみ太が生きている間は。
僕は最近、生きるとは、資本主義社会との対決だと思うようになった。このうさん臭い、資本主義のなかにまみれつつも、生き残っていくのである。資本主義が健全に成長するためには、個人が最低限の義務を果すかわりに権利を保証されるということが大前提である。しかるに日本の資本主義は失敗した社会主義国家なみのでたらめを胚胎しており、さきの参議院選の結果を見るに、日本国民はそのことに相当敏感になっているのではないか。社会保険庁のでたらめさなどこの国の資本主義がまったく成熟していないことの現れであり、それは年金の不受給という生活の困窮へと直結するのである。また、ニートと呼ばれる人々が、十年後二十年後もそのままでいられるわけがない。民主党のキャッチコピー、「政治は生活」というのは、相当効力があったと僕は思う。経済のことは、新しい要素としてこのブログでまた書いていきます。
アメリカのサブプライム問題は、必ず日本にも波及する。要するに、アメリカの不動産屋がやったことを、今日本の不動産屋がやりつつあるということだ。いずれ、ネズミ講と同じく、社会問題となるであろう。アメリカの現在は、日本の十年後であることは歴史が証明している。
ニックネーム 茶トラのみんく at 21:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

当たらん追記8・5

 怖いので、ダイワバンディットもヒモにおさえる。これだけ買えば、ニシノナースコールさえ来てくれればヒモ抜けはないはず。でもパドックを見て何頭か削りたい。カンパニーとニシノの馬連は本線とし、やや厚めに買う。当たらん追記はどこまで行っても当たらん追記。今まで当たった試しがない。
ニックネーム 茶トラのみんく at 10:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2007年08月04日

846 真夏の大混線・関屋記念GV前日予想

 本格的な夏が来た。今日はクソ暑い。暑さをぶっとばすには、熱いお風呂に入って、扇風機をガンガンかけてアイスビールを飲むにかぎる。これで、一日の汗がぶっ飛ぶ。
 明日は真夏の大混戦関屋記念である。オッズ、つきますねえ。一番人気の馬連でも二十倍台だ。僕は、こういう競馬こそ楽しいと思う。なんせ夢があるからだ。軸馬を言おう。ずばり、ニシノ