2007年09月30日

890 あぢさゐ〜元気ですか〜

      あぢさゐ〜元気ですか〜  黒田英雄

わが凧を呑みこみしあの黄昏にああ元号も溶けてゆくなり

タケダタケダタケダタケダタケダタケダタケダターケーダーの昏き夕餉

恋多き母なればこその必然や庭に池掘り鯉泳がすは

数人のをのこ記憶にあらはれてわが頭(かうべ)撫で葬列に消ゆ

「をぢさん」と母はわれ措き磨硝子の向かうがはにて重なるひとつ

いつとだに知れぬ幼な日陰画(ネガ)として小倉の城は愴然と佇つ

岸上の地獄は兵庫福崎町帰る日なきを幸とし逝かむ

貧しさを知らずに育ちしわれなれど幼き日々の寫眞数なく

詠人知らず否、読人在らずぞ読者人口実数五千!

自らを誇示するごとく若者が職安通りをゆうるり渡る

風のやうな人だと云はれたことがある隙間より入り隙間より去る

きつと来る雨を信じてあぢさゐは白南風の中あをく揺れをり

湯煙にあやめもわかぬ大浴場わが過去(すぎゆき)も湯あたりして逝く

夜もすがらゆくりなき死を念ひゐて吐き出す紫煙に白壁(かべ)煤けゆく

ああかつて白の時代ありきたしかに在りき白馬童子が跳んでいつたよ

旧作邦画(ビデオソフト)棚に並ぶを眺めれば遺影のごとく背表紙の微笑(ゑ)む

蹌踉(さうらう)と職安通り睥睨し軍艦マンション七家族棲む

現世(うつしよ)は荒野なるかな老爺にて滾る陽の下旗ふりて立つ

退院を間近にすれば雄の視線(め)が看護士ナース)を射抜く 世間に還る

元気元気元気が大事元気がねなければひとは死ぬことできぬ
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2007年09月28日

889 「白馬童子」は抹殺された

 世田谷文学館へ行く。僕はここで、キネマ旬報のバックナンバーを読むのを慣わしとしている。今読んでいるのは、昭和35年のものだ。映画雑誌なのに、黎明期のテレビを批評する欄があり、これが実に面白い。ありていに言って、ぼろくそである。
 昭和35年、山城新伍主演「白馬童子」が突如打ち切りになったという記事があった。この番組は、今でいうところのテレビ朝日が放映していた。諸君驚くなかれ、当時この放送局の名称は「日本教育テレビ」であった。ちなみに冗談ではない。打ち切りの理由は、関西の主婦連合が、「人殺しをヒーローとするような番組は子供に悪影響を与える」ということでスポンサーのサンヨー電気に圧力をかけたことにある。また、当時のキネ旬テレビ評の欄にもこうある。「テレビは、人殺しばかりヒーローに描く。これは子供にとっては悪影響である。テレビと映画は違う。テレビは、茶の間で見られる手軽な映像だ。それだけに、テレビの与える害毒は甚大なのである」。当時、赤木圭一郎の「抜き撃ちの竜」の映画評にもこんなことが書きたれてある。要約すると、「竜(赤木演ずる主役)は、人を殺さず肩を撃って悪を成敗する」というヒーローである。ところが批評家(注・左巻き)は、「こんなかっこいいヒーローを描いたら、観た人がみんな殺し屋を志願するようになる危惧がある」とぬかしたのだ。これは、僕がアレンジしておもしろおかしく書いたのではなく、本当にそう書いてあるのである。また、テレビ評では、当時、子供が5時間も見ているということを嘆いている。そんな子供は白痴になるだろう(用語規制のない時代である)とまで書いてある。
 それは俺のことだ。
 俺は、5歳のときから1日5時間テレビを見まくっただけで白痴はもうどうしようもないが、ど近眼になってしまった。なんせ、わが家には「しつけ」という習慣がなく、俺はテレビを5センチの距離から見ていたのである。
 また、キネ旬バックナンバーには他の事件もいろいろ書いてあって面白い。テレビのチャンネル権争いで、息子を怒り妹をかばったオヤジを、逆ギレした息子が「毒殺」したという事件には驚いた。毒殺というのが渋いではないか。だって、昨今親殺しなど珍しくもないが、タリウム少女をのぞいては、毒殺というトリッキーなやり口はめったにない。ほかにも、同じくチャンネル権争いでさまざまな悲喜劇が起きていたようだ。キネ旬は、それらを記事にし、テレビは害毒だというキャンペーンを張っている。まあ映画雑誌だし、テレビも黎明期だからしょうがないとはいえ、今読むと失笑ものである。
 僕は、テレビからいろんな教えを受けた。いま考えると、当時としては珍しいかもしれないが僕の習った教師達は揃って反共であり、共産国家は敵であると僕は潜在意識に刷りこまれていた。しかしテレビは違う。番組がないもんだから、旧作邦画をさかんに放映していた。「縮図」とか「原爆の子」とか、今ではテレビ放映が不可能な、独立プロの作品である。僕がそこから学んだのは、戦争批判につながるリベラリズムやかつての日本の体制への批判もさることながら、それにも増して日本における女性の地位のひどさと、いかに女性がしいたげられてきたかということであった。「人間の條件」は、仲代達矢による映画版のみ有名だが、実はそれ以前に加藤剛(まだ俳優座のほやほやだった)によるテレビ版があり、まだ8歳くらいだった僕に消えぬトラウマを刻みこんだ。旧日本陸軍のひどさ。日本人が大陸の人々に対して行った蛮行。僕は、世に言うバカ左巻き教師から、リベラル教育をいただく機会が幸か不幸かなかった。僕の左翼教師は、もろテレビである。当時テレビや、和田勉や安部公房(作家として有名だがテレビディレクターでもあった)が演出を担当した、前衛的なドラマを相当放映したらしい。テレビの華は、昭和35年から39年であったと思う。
 キネ旬のバックナンバーは実に面白い。当時の評論家がいかにバカだったということがよくわかる。佐藤忠男や、田山力哉ほか、僕がのちに尊敬するようになった批評家たちは、さすがに若い頃からいい評を書いている。時流におもねって、バカが喜ぶような、流行りもの批判なだけで内容のないことを書いている「批評家」は、いまとなってはどこにいったかわからんし僕も聞いたことがない。佐藤忠男が、大島渚が監督デビュー間もないころの絶賛評に僕は感動した。さすが、一流は一流を知るのである。評論。これは大事である。今の短歌評に、後世に残るものがいったいいくつあるだろう。短歌評というものが、すでに評価の定まった者へのヨイショに終始し、異能を持った新人歌人を発掘紹介し、普及させ売り出すという批評本来の機能を全く失い、現状肯定ならまだしも、世間一般ではとうに色褪せた流行ものをあわてて追いかけてあさっての方角へ行って失笑を買う、という事態に陥っているではないか。
 「白馬童子」に、主婦連の弾圧によって闇に葬られたという事実を知って僕は驚いた。ただ、あえて言うなら、あの当時、5歳の僕にとってさえ「白馬童子」や「月光仮面」はまったくもってつまらなかった(笑)。僕が好きだったのは「変幻三日月丸」や、「真田十勇士」「天馬天兵」などの、関西テレビ系の番組だった。「白馬」に「月光」は、つまんなかったなあ。いずれにせよ、僕にとってのテレビの黄金期は、昭和35年から、東京オリンピックの39年であったのである。その当時、テレビはリベラルの牙城だった。懐かしく、また思い出すごとに興奮するのである。
 「白馬童子」が抹消されたという時代背景を、僕は常に意識していきたいと思う。
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:47| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

2007年09月27日

888 相撲部屋は真空地帯

 ひどい事件があった。時津風部屋のリンチ殺人である。時津風親方というのは、もと小結双津竜である。もう、これは尋常ではない。夜間に無断外出したというだけの理由で弟子をビール瓶でぶん殴るという行為には激しい怒りを覚える。私情だけでものを言えば、このくそ親方は死刑にも値する。考えてみれば、相撲部屋というのは、かつての陸軍内務班のごとき真空地帯である。閉じ込められ、通常の人間ならありえないリズムで大量のメシを食わされ、養豚場のごとき状況で、親方や先輩の「愛の鞭」にしばかれまくるのだ。ある意味、陸軍内務班のほうがまともに思えるような前近代的環境である。なぜなら陸軍内務班には少なくともリンチ殺人はなかったからだ。ただし、自殺者はあまたいた。あれ、おんなじか。
 僕が、相撲をまともに観なくなってだいぶ経つ。千代の富士が横綱のころの相撲中継を、僕はほとんどショーとして見ていた。千代の富士の、上手投げでしょっちゅう勝つ取り組みを見て、かの「キックの鬼」沢村正の「電光石火回し蹴り」で終わる試合を思い出した。千代の富士の連勝記録なんて、半分は注射(八百長)試合である。一番強烈に印象に残っているのは、とある年の千代の富士―朝潮戦である。ぶつかった瞬間、朝潮が自分で勝手ころげた。この時僕ははっきり見た。千代の富士が、苦笑いを浮かべているのを。その時のウルフの気持ちはこうだったろう。「このブタ。もっとうまく負けろよ」。解説者は、「うーん」と唸るだけでまったく無言だった。この千代の富士の連勝記録を破ったのが、横綱大乃国である。彼は、ガチンコ横綱の変わり者として角界では有名だったらしい。彼は、「弱い横綱」と言われた。十勝五敗とか、九勝六敗とかいう成績が多かったからだ。しかし、これはあたりまえである。いいですか諸君。今、相撲は年に六場所もあるのである。しかもその間に巡業等等、力士は大いそがしである。ケガもする。年間九十番もガチンコ勝負などするわけがないではないか。体がもたん。横綱だから、毎場所十二勝はしろなんて不可能である。僕はもう、相撲はプロレスと同じく、フィクショナルなスペクタクルとして見るべきだと思う。年二場所か三場所だったらまだ、ガチンコも可能だろう。双葉山は偉大である。僕は、かの大鵬はまだガチンコ横綱であったと思う。千代の富士の連勝記録なんてまったくお笑いぐさである。おそらくウルフのガチンコは、ひと場所5回か6回だったろう。ひどいのは北の富士が横綱だった時代である。八百長がまだ黎明期で、みんなヘタクソの見え見え、無気力相撲と呼ばれていた。
 俺は実は朝青龍が好きだ。あの馬鹿ばれぶりが、相撲協会の矛盾を突いて面白い。巡業をさぼってサッカーに興じた横綱。もう最高ではないか。年に6回もふんどしかついでこき使われて、なんでその上巡業まで行かなならんのじゃ、という反発だろうが、そのイノセンスが僕は好きだ。相撲道?笑かすな、八百長道の間違いだろう。相撲道という言葉を使うなら、せめて年2場所くらいにするべきである。6場所というのはクレージーである。
 そんなインチキ相撲界を見るにつけ、この時津風部屋のリンチ事件には猛烈に腹が立つ。いったいなんの権利があって、人様から預かった息子さんのどたまをビール瓶で殴るのだこのデブは。俺は、こいつは本当に死刑にしたい。こんなに最近、激怒した事件はない。まさに、相撲部屋というのは、かつての陸軍内務班そのものである。真空地帯である。僕は、日本の大相撲は危機だと思う。少なくとも「相撲道」などというたわ言は、これきり死語と化すべきである。どんなスポーツであれ、自由でなければ本質的には強くはなれない。
 いい歌人を輩出するためには、結社にも自由さが必要なのである。
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:20| Comment(3) | TrackBack(0) | 日記

2007年09月25日

887 「闇」私見

 歌をやり始めて、本が増えて困る。もう滅茶苦茶だ。なにがどこにあるかさっぱりわからん。私には本を整理する能力がない。ただ、ビデオコレクションだけはきっちり整理している。そのスペースを、最近本が侵食してきており困る。私にとっての第一はビデオであり、本などはずーっとずーっと離れたところにあるのだ。出費がかさむ。ビデオも短歌の本も、高えんだよ!ビデオは5000円前後、後者は本のぶんざいで3000円もしやがる。斎藤斉藤氏がかつて言っていた、短歌の本が高すぎる、という意見にまったく賛同。短歌の本を買わなければと思う矢先に、安倍首相の一年を語った「官邸崩壊」なんて本をつい先に買ってしまうのだ(実に面白かった)。しかし、青磁社のホームページで吉川宏志氏が取り上げていた、「無頼の悲哀」はぜひ買おうと思う。大野誠夫という歌人の評伝である。こういう本を紹介する欄は貴重である。吉川氏には、どんどん、よい歌集や歌書を紹介していただきたいものだと思う。これもなんだと3150円!目玉が眼鏡ごと飛び出しそうである。

 その青磁社、週刊短歌時評、大辻隆弘氏の「『闇』への希求」を興味深く読む。ただ、あくまで興味深かったのであって、全面的共感へとは至らない。それはなぜか。
 まず、先行する時代には有り得た闇を現代は失ってしまった、という嘆き、これは谷崎潤一郎とかが陰翳を礼賛してた頃にすでにあった。いや、おそらくもっともっと昔からあっただろう。焚火が発明されたとき、蝋燭が発明されたとき、ランプが発明されたとき、そして電球が発明されたとき、そのときどきの人々は「ものの翳りやあわれがなくて味けないことだ」と言いつのったに違いないのだ。人類の歴史はつねに繰り言と新しもの嫌いの歴史である。僕は先進的文明をむやみとありがたがって言っているのではない。今どきそんなおめでたいやつはいない。ただ、大辻氏の時評における物言いに、既存の「古もの好き」のおなじみな言いぐさの使い回しを感じてしまい、つい「ちょっと待て」と抵抗を感じてしまうのである。僕は、この大辻氏の時評には、ご本人も意図してはおるまいが記述のトリックがあると思う。それは、山や森の中で見る闇と、人間の社会や心理における闇とを混同している点である。そもそも、親を殺した程度のことで青少年の心を「闇」呼ばわりするマスコミの単細胞ぶりにはあきれる。親を殺したいなんて、その程度のこと闇でも謎でもなんでもない。シェイクスピアじゃないが真昼の草原よりもはっきり(「十二夜」)見渡せる。むしろ、あとのことを考えないパッパラパーは明るさと表現されてしかるべきだ。それはともかく、「現代は多様な価値観のなかで人々が確固たるものを失い相対性のなかで浮遊している」かのような物言い(僕はそう解釈したが、違っていたなら反論をお待ちする)には、「またですか」という苦笑を禁じえない。価値観の多様さを生きている若者は非常に少数であり、たいがいは「千の風がうんぬん」などの類のたわごとにたやすく感動してしまうめだかの群れだ。本当に個性的な価値観を持っている若者はというと、これはもう、僕は知っているのだが、本当にまったくすごいのである。あまりにすごくてここに書けないのだが、一例を上げれば、二十歳かそこらでひとりこつこつと切腹とフェティシズムの研究をしている人だっているのである。
 結論を申し上げれば、大辻氏のこの論は、「文学と『闇』」という不可分なものについて考察し、かなりいいところまでいきながら、惜しいかな、自然界の闇と文学的闇を混同し、いかなる社会においても詩的人間はおのずと闇を作り出せるということに触れず、旧来の「シラケ世代」的論調に終わってしまっていると僕は思う。氏が「いい例」としてあげた前登志夫氏の歌う自然界の闇にしても、若い人で追求している人はきっといる(いなかったらごめんなさいと先に謝っておく)。文学と「闇」という、いいところに着目しながら、ありがちな方角を向いてしまっている、たいへんに惜しい一文だと思う次第である。

     今日の二首

プラタナス塗らして夜の雨が降る濡れたきものは濡らしてやれよ 藤原龍一郎
めちゃくちゃにメスで裂く腹 臓器(オルガン)の長さの辛い引用のため 加藤治郎
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2007年09月23日

886 結社の膿〜縁の下のたんこぶ〜

 1310円、準本線的中!久々の快勝。4着馬を除いてすべて押さえており、ほぼ完全的中である。来るべき馬が来る、それが競馬。このぐらいの配当でよいのだ。中穴に厚めに賭けて稼ぐ、それが俺の基本的な競馬だ。それでも万馬券はこれまでに二回取っている。競馬は、欲をかいてはいけない。やっぱ、菊花賞やろうかなあ………。

 僕は以前、今年の4月15日に、「結社人口を増やすために」というタイトルの日記を書いた。そこで述べた意見は今でも変わっていない。結社はどこも、成員の減少を嘆いているが、それは僕に言わせれば自業自得である。その感はさらに強まっている。何人かの人から、個人的なメールをいただいている。もちろん、その人たちの言い分だけ聞いてなにか述べるのは適当ではないが、半分差し引いても一方的な意見だとは思えないのである。つまり、会員たちを、なんだかんだ言って縛り付ける、そういう傾向を多くの結社は持ってはいないか。誰それ先生の歌集をちょっと内部のものが批判しようものなら袋叩きに遭うとか、選者を変えただけで陰湿ないじめを受けたりとか、歌の内容に執拗な干渉を受けたり、公募の新人賞に応募するんでもセンセイの選歌を受けさせられるとかそうしないとセンセイがへそを曲げるとか、いったいいつの時代の話か。ちょっと、信じられんような情報がいろいろと入ってきている。いや、私が知らなかっただけで、こうした悪習が歌壇の常識なのかもしれない。私のやっている「名歌選」「秀歌選」にしても、結社によっては「生意気なことをするな」と文句を言ってくるやつがいるだろう。
 歌人には、大きく分けて二種類のタイプがあると思う。ひとつは、センセイの教えを乞うことを至上目的とし、その結社に滅私奉公し、批判精神を全く持たず、センセイや結社が批判されようものなら血相を変えるタイプ。もうひとつは、結社というものを、みずからの歌を発表する舞台としてのみ認識し、基本的に、結社や歌壇の公的行事からはいっさい距離をおいてマイペースで結社活動をするタイプである。前者の場合は、まるで導師(グル)に帰依するごとく、センセイに盲従し歌壇でのしていくタイプであり、本人には葛藤や芸術的苦悩はほとんどなく、結社になじんでいくことだろう。問題は後者のタイプだ。いちいち歌にせよ、結社的態度にせよ、がたがた言われると「ふざんけんなこの野郎」とけつをまくる、こうした性格の持ち主には、結社というのは非常に居辛く、ついには結社否定論に至るであろう。結社人口の減少は、この後者のタイプが入会しづらいところにあると僕は思う。この後者のタイプを増やさない限り、結社人口は増えっこない。
 僕は、ある人に、「結社に入りなさい」と勧めたら、「自由に歌を作りたいのでいやだ」と断られた。その気持ちは、あまたの結社の内部事情を知るにつけ、理解できるようになってきたのである。僕はもう、読者に、結社に入れとは言わない。「塔」か「短歌人」に入れと言い換える。なぜか。私はこのブログで、それなりにこの両結社の批判も書いている。ほかの結社なら除名されるか、除名されないにしても、毎月の投稿歌が一首か二首しか選ばれないというイヤミを受けるだろう。しかし今のところ、この両結社は歌壇の暗黒面ともいえるこのブログに対して、意見を言う人はいても、結社の恥だからやめろとか、そうした干渉は皆無である。たぶん、超有名結社「」………。やっぱりやめとく(笑)。とにかく、某結社だったら、電話はかかってくるは、個人メールで、「貴方のためを思って言いますが」とかボケた言い回しで婉曲ないしは直接にブログの停止を命じられるか、そんなところであろう。それだけ、僕に寄せらる他結社歌人のメールに見る悩みというのが深刻なのである。もちろん、この両結社といえども、完璧ではない。組織も人間と同じで、ベストということはありえないのだ。それでもまだ、この二結社は、大手のなかでは風通しがたいへんいい方だと断言してもいいだろう。選歌体制にけちをつけたって、何らのおとがめもない。他の結社だったら、そうはいかないと思うよ。
 俺は、企業努力をしない結社、あるいは、時代遅れのセンセイ至上主義をとっている結社など、どんどん潰れるがよいと思っている。若者のニーズに合わない結社など、あってもそれはむしろ害毒である。もっとフリーな人間を結社に入れるべく努力すべきだ。僕は、結社制が大事だと思っているからこそ言っているのだ。選者どもよ、えばるなよ。貴方がたは、あくまで会員に対してのサービスを行っているのであり、絶対無二のグルなどではない。自分の子分や追従者を増やそうなどと思うんじゃない。それより悪質なのは、取り巻きの茶坊主どもである。こいつらは、頼んでもおらんのにセンセイの批判者に金切り声をあげ、有能な新人を潰すことに汲々としているのだ。馬鹿共が。選者は、会員の個性を高めるための存在であり、お山の大将ではないのだ。それをよく自覚していただきたい。ひどい結社が多い。まあ、これから結社に入ろうかという人は、「塔」「短歌人」を選ぶのが無難であろう。こう言うとまた、「黒田は結社の広告塔」とかぬかす馬鹿がいるのだ。褒めるべきものを褒めてどこが悪い。この屈折陰険文学ゴロどもが。くやしかったら俺みたいに本名で批判記事を書いてみろ。俺は広告塔ではなく、両結社にとっての縁の下のたんこぶなのだ。つまり、内部に抱える爆弾という存在だろう。頭にきたら、この両結社といえどもいつでも爆発するぞ。

      今日の五首

どしゃぶりの雨の中声を大にして鳴く雛のあり目白の雛なり 小野まなび
仰向けに死にたる雛に一枚のティッシュペーパーかけてやりたり
パン屑と一緒に土に埋めてやり線香を立てて経読みあげる
竹薮の闇に溶け込む螢かな瞬くひかりを追えばまた闇
悲しみのふと兆す時はつ夏の深き青き空に臆して怯む
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:18| Comment(3) | TrackBack(0) | 日記

885 一部削除と、オールカマ―GU前日予想

 昨日の日記に対し、一部読者から抗議をちょうだいした。僕はあくまでシャレのつもりであったが、気分を害する人も確かにいるであろうからその部分を削除した。とくに、こだわりをもって書いたことではなかったからである。

 オールカマ―、このレースにもいろいろ駆け引きがあって、毎年面白い。正直、今年のメンバーは小粒である。一番人気不振、サンデーサイレンス産駒も冴えない、というデータがあるが、ここは僕は自信をもって、このメンツなら、軸馬は6番マツリダゴッホにしたいと思う。中山芝2200はベスト。また、使われている強みもある。この馬は、とにかく折り合いがすべて。ここは、蛯名の手綱さばきに賭けたい。蛯名がこの馬に騎乗するのは去年のセントライト記念以来である。この時蛯名は、このゴッホからものの見事に馬から落ちて落馬している。彼も、この再挑戦は、心に期するところがあると思う。馬群うちに馬を抑え、直線一気に抜け出すだろう。今回、伊崎脩五郎と私の軸馬は一致していない。久々の勝利の予感がするのだが………。
 相手本線は、4番タマノサポート。この馬にとっては絶好の展開だろう。逃げ伸びは十分考えられる。三歳GT戦線の好走の、9番サンツエッペリンはやはりあくまで押さえ。休養明けというのはちょっとマイナス要因である。やや厚めに、一番ネヴァブション、サンツエッペリン、シルクネクサス、エリモハリアー、そして大穴は、7番スズノマーチ、ちょっと怖い。
 前日予想結論。馬連本線、4−6、準本線、1−6、6−9、6−12、6−15。フラットに、6−13。大穴、6−7。私は最近、ずっと競馬に勝っていない。今年初戦の京都金杯の馬連本線7020円大的中以来、狂喜したことがない。今回は勝てる気がする。秋の大祭典、天皇賞の前哨戦として、勝たせていただきたいものだ。蛯名よ、意地があるならマツリダゴッホを勝たせてみろ!明日は落馬すんなよ!
 マツリダゴッホ、連体自信度55%。
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2007年09月22日

884 断罪

 芳賀様とおっしゃるかたから昨日の日記にコメントをいただいたが、「蚊帳」というのは、結局は「結界」でもあるのだろう。だから、ぞくぞくしながら、蚊帳をめくってあの空間に入っていったのだ。まさに、夏の象徴である。ちなみに私のマンションは、なぜか蚊がぜんぜん出ないのである。
 コメントを続ける。

点線に沿って切り取るかなしみのこの人もまた味方ではない 松村正直

 ひょっとしたら、連作中には、この歌をよく説明する一首があったのかもしれない。が、しかしこれは一首として独立していると思う。上句がいい。雑誌などにはよく、応募ハガキとか応募用紙(例・「短歌研究」)とかがはさみこまれており、「点線にそってお切りください」などといけずうずうしく書いているが、本の谷に近いので非常に切りにくい。が、いったんうまい具合にハサミが入れば非常に切りやすい。つまりこの歌は、作中主体が何らかの悲しみを感じ、それに共感してくれたはずの他者が、いともたやすく次の動作に移る、そんな日常的な光景を、傷つきやすい感覚が容認すまいとしてもがいているのである。慰めや励ましや共感を街頭のポケットティッシュみたいに安売り(あれはタダだが)する人がいるが、そんなのは本当の共感ではないということなのだろう。下句の、少年ぽいとさえいえる断罪に、この作者が手放そうとしないイノセンスを感じる。松村作品は、冴えている。僕は、この歌人は、現代のアララギの正統だと思うゆえんである。

信仰を持たざる者が祈りたくなるときのため月は輝く 岡本幸緒

 これも、一読して、強烈にひきつけられた作品。そもそも月というのはなぜ美しいのか。なぜ人間はそれを美しいと感じる存在であるのか。僕は、宗教の純粋さにまったく興味なく生きてきた平均的日本人で、クリスマスにケーキを食い大晦日には初詣に行き(ここ三十年ばかり行ってないが)旅先で神社があれば財布のなかで余ってる一円玉を寄進するといういいかげんな人間である。人をテロに走らせたり「自分以外のものを拝むな」と言ったり「自分を信じてれば来世は天国」なんてぬかす神など絶対にいないと確信している(みなさん、この確信だけは正しいと言えますですよ)。だが、そんな人間にも「ああありがたい、祈りたい」と思う対象が時には必要であり、あの銀色に輝く月は、そんないいかげんな崇拝の気持ちをやさしく受けとめてくれる器ではないかと思うのである。この歌は、原始宗教的な境地を詠っているようでいて、実は近代人の迷える魂への皮肉がこもっている。

隣室の号泣背に聞きながら静かにドアを閉め退院す 若松忠雄

 こういう歌を詠むにつけ、短歌の素晴らしさというものを再認識する。説明はいらないだろう。おそらく作者は事実を詠っているのだろうと思う。ただ僕は、こういう歌を想像力の中だけの世界で作れたら、いっそう素晴らしいと思うのである。なぜなら、このような歌を想像の世界で作れるような歌人であれば、読者をつねに惹き付けてやまないであろうから。啄木の「一握の砂」、あれは、事実にわずかに取材した、自己劇化に徹した歌集である。だからこそ、今もなお読みつがれているのである。短歌というのは、読み物でなくてはいけない。すなわち、ギミックであり、嘘から出た真であり、自己劇化である。ドラマ性のあるいい歌だ。こんな歌を事実というベースなしで作りたいものだと、切に思っているのである。

まどろみのさなかに白くドアに沿ふすきまより射すひかりか自死は 常盤義昌

 僕は、47歳でやっと短歌を始めた。もはや、みずみずしい青春歌や相聞歌など詠えるわけがない。やはり、テーマは迫りくる「死」に収斂していくのである。私の第一歌集のテーマも「死」となるであろう。これは仕方のないことだ。一読、この歌には震えた。なぜなら、死というものが必然的に持つ陶酔感を見事に表現しているからだ。以前「最後の出口」というガイドブックが外国で出たそうで、それが何かというと自殺の手引きであり、翻訳されないかなと思っていたら「完全自殺マニュアル」が出た。もっとも後者は、死の陶酔もくそもない、自殺にかこつけて社会への負け意識を綴っただけの駄本としか僕には思えなかったが、自死すなわち自殺が、ある陶酔感を持つ言葉であることは否定できないだろう。「自殺から美的なイメージを剥奪することが自殺の防止につながる」とする立場が政治的には正しいようだが、究極の自己決定であり最終オナニー計画ともいえる自死の美学が、そんな役人的思惑でそこなわれるわけもないのである。僕はここで、「決して自殺を奨励しているわけではない」などと言い訳じみたことは言わない。生きていればいいこともある、などは大いなる欺瞞である。だいたい、自死が、ドアのすきまから射す光に見えるほどの苦悩を負った人間に対して誰がなにを言えるというのか。たれもみな、来たるべき死者のリストに載るべきものとして、静かにこうべを垂れるがよいのだ。この歌は、下句がすばらしい。まさに自死とは、「すきまより射すひかり」なのである。この作者は、怖い歌人だ。

 六十首全部にコメントをつけたいが、到底無理である。読者諸氏は、おのおのの感性でもって鑑賞いただきたい。私の歌を選ぶポイントは、すでにおわかりだと思う。ひとこと。「Action!」。
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2007年09月20日

883 足利競馬と水着とシャツ

 コメントを書く。できるだけ多くしたいと思う。いい歌が多すぎて困る。

始まりと終はりある旅物干しに忘れしシャツのごと我を待つもの 大河原陽子

 断言する。作者は、映画「足摺岬」(昭和29年、吉村公三郎)を観ているに違いない。でなければ、この三句目と四句目は出てこない。いや、僕は、既存の映画をベースにしていることを減点材料としているのではなく、素晴らしいと言っているのだ。映画におけるシーンはこうだ。絶望の淵にある貧乏学生木村功が、自死まで思いつめた旅の終着点として足摺岬を訪れる。かつて東京で親しくしていた津島恵子を訪ねたのだ。彼はその時初めて、彼女に自らの恋心を打ち明ける。津島も彼のことが好きだったが、遅すぎたと言って泣く。すでに縁談が決まっていたのだ。木村は、津島の幸福を祈りながら東京へと戻って行く。津島は、彼の忘れものである洗濯したシャツが物干し竿に揺れているのを見つける。この、シャツが風に揺れるワンカットがこの上なく印象に残るのだ。彼女は、そのシャツを掴み取り、必死であとを追いかけるが、すでに彼の乗ったバスは出発したあとであった。この歌の作者を触発したものが、この映画だと断言して過言でないのは確かであろう。「始まりと終わりある旅」「われを待つもの」にロマンを感じる。僕は映画的な歌が好きだ。このワンシーンを歌に凝縮させた作者には脱帽する。もしまったくの見当違いだったら失礼極まりないが、「物干しに忘れられたシャツ」というイメージは「足摺岬」のワンアンドオンリーであって、ほかには有り得ない。実は僕もこのシーンをネタに歌を作ろうと思っていたのだが、うまくできずに断念していた。僕の一方的な思い込みかもしれないが、「物干しに忘れしシャツ」という表現が、どうしても映画「足摺岬」からのイメージとしか思えないのだ。それを前提としての名歌としたい。ああ、なるたけ沢山取り上げたいのにもうこんなにコメントが長くなってしまった(涙)。

たちあふひ咲けば思ほゆ押入れの奥より蚊帳をはじめて出す宵 渡辺のぞみ

 これも、昭和の日々を見事に描いた一編である。僕は、蚊帳を知っている最後に近い世代に生まれて幸せだったと思う。おそらく昭和37年生まれあたりが最後の世代だろう。蚊帳の匂いはいいものだった。それは、小学生にとって夏休みの始まりであり、また、部屋の四隅にある、普段はなんのためかわからない金具に蚊帳が吊るされて小世界を形成するあの不思議な空間。そして蚊取り線香の匂い、開け放たれた縁側、まさに全身に沁み込む、夏そのものの源風景である。下句が素晴らしい。涙が出るほどのノスタルジーを感じさせる歌だ。「タチアオイ」という花を図鑑で確かめる。ああそういえば、名前は知らないながら、夏、そこらへんにやたらと咲いている花だった。今は、夏という季節はない。単なるとげとげしい熱があるのみである。こういう、昭和の断面を詠った歌は、非常に貴重だと思う。

水着とはそういうものと思いしにずっときつかったスクール水着 川野久子

 これも、男性にはわからない、まさに女性を生きざるを得ないものの視点からしか作れない歌として、非常に面白い。僕は世間に言う「スク水萌え」などはなんのこっちゃと思っている。水着というのは要するに、ハダカで泳ぐわけにはいかないから最小限のところを隠すためのものであって、ハダカに準じるものであり、隠すところがやたらと多い、それも幼い少女のためのそれなどどこがエロなのかさっぱりわからんという朴念仁である。しかしこの歌を読んで初めて思うに、あの、へんなプロレスラーのおっさんにこそふさわしい、胸から股間までを覆う黒いデザインは、必要以上に女性的なふくらみを抑圧する装置なのではないか。一度文化祭の余興で女装する友人が着るセーラー服を持ってみて、その重さに驚いたことがあるが、あの重さに匹敵する束縛がスクール水着にはあり、それが変態どもの嗜好を呼ぶのではないか。よろず抑圧はエロスの装置であるが、着せられる少女たちのほうはたまったものではないだろう。いっそカラフルなビキニを着ていい、ということにすればロリコン犯罪はかえって減るのではないか。これは視点のユニークな、記憶に残る歌である。

掘り起しきず人参は畦に積まれ足利競馬の厩舎閉ざさる 宇野千代子

 ただただ淡々と写実に徹していながら、だからこそ、競馬場の閉鎖と、馬の行く末に想像を及ばせて切ない歌である。上句がいい。推測だが、近隣の農家は、売り物にならないような傷物の野菜を、競馬場の馬用に卸していたのではないか。土地の人と競馬場は長らく、手をたずさえて持ちつ持たれつの関係でいたのだろう。競馬場が閉鎖され、野菜を卸すあてもなくただ畦に積むのみ、という事実だけを詠っている、そのことが、読者に深い悲しみを味わわせるのだ。歌、とはこういうものである。こざかしい修辞など必要ない。視点であり、事実をそのまま詠うというのが大事なのである。悲しい寂しいとひと言も言わず、写実に徹することによって読者に語られることのない作者の思いの深さに思いを至らせることができるのである。

 ああ、簡単にすませて人数こなそうと思ったらやっぱり一首あたり長くなってしまった。僕は、二、三行で歌のコメントを済ませるということができない。めげずに、明日は後半戦に臨みたいと思う。僕が名歌選、秀歌選をやっているのは、徹頭徹尾自分の娯楽としてである。「塔」や「短歌人」の歌を読むのは、子供のころの漫画雑誌を読んだあのときめきと一緒である。僕に取っての、数少ない娯楽なのだ。僕に感動を与えてくれる両結社の歌に、僕は感謝したい。水野晴郎ではないが、「いや〜〜〜、短歌って本当にいいものですねえ〜〜〜」。
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882 「塔」九月号「陽の当たらない名歌選」その2

 では、後半三十首の発表である。名歌揃いだ。じっくり鑑賞していただきたい。

          作品1吉川欄、澤辺欄、池本欄
      「塔」九月号「陽の当たらない名歌選」その2

点線に沿って切り取るかなしみのこの人もまた味方ではない 松村正直

信仰を持たざる者が祈りたくなるときのため月は輝く 岡本幸緒

隣室の号泣背に聞きながら静かにドアを閉め退院す 若松忠雄

火口湖に入りてたゆたふ雲の見ゆ息子の無心は断らむかな 富樫榮太郎

山は女。ひとたびならぬ流産を経つつひとつの麓のために なみの亜子

われの手に『人間失格』手渡して去りたる若者 真つ赤な靴はき 岩野伸子

道端に梨売る男傍らの岩波文庫が日に晒されて 梶原さい子

おひとりさまの食卓は隅友とするは五月の残照、海の残照 斎藤ちづ子

洋梨のくびれを器用に剥く人と通りすがりの雨を見る午後 貞包雅文

山の宿暮れて行くなり白鷺の窓横切り行く一瞬もあり 里田美恵子

日時計に月影さして白日にあらざる時を刻みゆくなり 千名民時

うしろより支へ歩めば老い妻のかなしきろかも胸のふくらみ 田附昭二

冷えし身の海女の乳房にみどり児は泣きつつ手もて胸を打ちゐる 廣 鶴雄

冷奴のまあるい肩をなで回し性欲ってどんなんだったっけ 深尾和彦

しぐれより本降りとなり小うさぎに夜どおししみる冬の雨おと 土肥朋子

山頭火とひそかにわれが呼ぶおとこ駅のベンチにスイカ食みおり 谷口純子

「インター」の出だし忘れたと訊く人に小さき声で立て飢えたる者よ 吉川敬子

実物の名画は小(ち)さく見ゆるらし松平盟子さんちさかりき 中瀬真典

少年と三本足の犬今日も水田に影を落し行くなり 中野満代

使ひ途他に無き字と気付きたりあれほど書きし昭和の昭の字 船田逸夫

あかんたれどないするねんあほちゃうか 叱られながら赦されており 石原しょう子

まどろみのさなかに白くドアに沿ふすきまより射すひかりか自死は 常盤義昌

青春は懐かしむべき日々なりや 戻りたくないあんな狂気に 松本多美夫

築山のほとりの梅のころころと実る夜なり大空襲は 宮良米子

参観の五十分間一回も笑わぬ教師を見て帰りたり 山下裕美

空よりもずっと濃い青空がある「選ばれた街」の吊り広告に 山下裕美

わが死後の遺族年金試算する妻が最後に溜息をつく 村上耿志

まっすぐに物言えというにあらねども庄野の白雨斜交(はすか)いに降る 須磨岡 繁

 今回の名歌選は初めて、百葉集と一首も重ならなかった。万万歳である。それだけ、名歌にちりばめられていたということだ。他にも、紹介した歌はいっぱいある。が、しんどいからやめる。「塔」は、名歌の宝庫である。総合誌に載っているヘタレ短歌を読むより、「塔」を読むほうがよほど楽しいと僕は断言したい。
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2007年09月18日

881 「塔」九月号「陽の当たらない名歌選」その1

 「塔」が、ついに1000人体制になったそうだ。これは当然の成り行きだろう。ほどなくして、2000人を突破するのはほぼ間違いない。今、気風の自由な、風通しのいい結社と言えば、大手では「塔」「短歌人」が両巨頭であろう。この二結社には、会員の増える条件が揃っている。それほど、他の大手結社というのは息苦しく抑圧的であるらしい。それについてはまた書きたいと思っている。
 てな訳で、全部の歌を読んだうえで三十首に絞るというのがもう不可能になった。よって、六選者の六選歌欄を二つに分け、その中からそれぞれ最高三十首ずつ選ぶ、という方式に切り替えた。名歌選が二日続くが、よろしくおつきあいいただければ幸いである。
 今月の赤丸歌。吉川欄作品1、259首。澤辺欄、142首。池本欄、186首。花山欄、190首。栗木欄、178首。真中欄若葉集、105首。計1060首!いったいどないせえっちゅうねん。

 真中欄若葉集・栗木欄・花山欄
      「塔」九月号「陽の当たらない名歌選」その1

始まりと終はりある旅物干しに忘れしシャツのごと我を待つもの 大河原陽子

一丁の豆腐提げてゆくゆうぐれは知らない路地に入りたくなる 徳重龍弥

たちあふひ咲けば思ほゆ押入れの奥より蚊帳をはじめて出す宵 渡辺のぞみ

ダム決壊そんなここちに午前二時酔いつぶれてるディランを聴いて 足立一生

傷多き無声映画のように聞く耳なりの向こう母の呼ぶ声 上條節子

笑わされてこわばっている人の顔その口紅の濃さを忘れず 岡本 潤

親からも打たれしことはなかりしと少女は男を打ちやまぬなり 加藤好男

あの山の向こうにきっと何かある思いし少女も山も削らる 潮見克子

胃の中を鮮血パシッと広がりぬ怪しきポリーププチンと取りて 福岡英一

手のひらの夕やけ色を握りしめしばらくは誰も怨みたくなし 宮下美智子

巨き象のかたみに膝まげ演技するしなびた乳房のかすかに揺れて 山崎好志子

春祭り芸能大会司会者の夫を着メロ「革命歌」にて呼ぶ 山下れいこ

樗谿(おうちだに)神社の口にあかりひとつ離れてゆくのは誰であろうか 荻原 伸

水島先輩と慕いてくるる後輩のあれば吾が子を見直すすこし 水島 修

木下闇「ハブに注意」の絵看板色あざやかに基地に向きおり 伊波邦枝

女性にやさしい職場というがあるらしいそんなものみな消えてしまえい 加藤ちひろ

水着とはそういうものと思いしにずっときつかったスクール水着 川野久子

労働と呼んでしまうは寂しかり家事には母のポエムもあれば 佐野喜洋子

渋滞の交通情報ながれくる二等船室いびき聞こえる 杉浦登代子

全身で泣く事やめしはいつならむ「自立自立」と追ひたてられて 高城惠美

独身の我の異動におみならの歌ってくれた「真っ赤な太陽」 林 広樹

夕飯を卓にならべて寝る妻の頭をなでやりぬ帰り来しとて 湯口拓成

父の柩に入れ忘れたる杖ありてそれを届けむために生きてる 石原安藝子

掘り起しきず人参は畦に積まれ足利競馬の厩舎閉ざさる 宇野千代子

我が小屋を野犬の群の五六頭一列になり無言で過ぎ行く 谷口公一

浴槽を洗いておれば亡き夫の帰宅の気配 庭砂利踏んで 本嶋美代子

ゆうらりと席を譲りしスカートの裾は銀翅となりて透けいる 古栗絹江

アスファルトがぬれる匂いを都会では雨の匂いと呼んでるらしい 上澄 眠

父のゐる部隊なりとはわが知らで幼く歌ひし「ラバウルの歌」 仙田篤子

旗を振る自由の女神のやうな日日やさしき夫と息子らを率て 助野貴美子

 歌は、アクションである。Actionである。後半戦は、後日。乞御期待。いい歌揃ってまっせお客さん。
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880 〜〜らむ〜ミステリー・ゾーン

 俺は未だに、自分が韻律の世界で悪戦苦闘するようになったということが、信じられないでいる。俺は勉強が大嫌いだった。とくに、古典の授業なんて代物には、なんの興味もなく、いつも心地よく昼寝していたものだ。「春はあけぼの」とか「ありをりはべりまそがり」なんぞ宇宙人の言語で、心底くだらねえと思っていた。試験は、現代訳の丸暗記でどうにか赤点を免れた。旧友や、かつての芝居仲間が、わたくし黒田英雄が「短歌」をやっている、といま知ったら、多分こう言うだろう。「ああ、あいつもよほど悲しいことがあって仏門に入ったんだなあ」と。さぞかし同情されることだろう。人の運命などまったくわからないものだ。タイムマシンで大学時代の俺のところに行って、「君は将来短歌をやるようになるんだよ」と告げたら、「アホかおまえは」と一笑に付すであろう。それだけ、僕と短歌の出会いというのは貴重であった。性根を入れて、自分の歌の世界を追求しようと、まじに思っている。
 僕は、入院中に、啄木の「一握の砂」と出会って、短歌にのめり込んだとかつて書いた。特に、「らむ」という美しい言葉に、入院中の絶望感から救われた。だから、あの頃作った短歌では「らむ」が乱用されている。初期のころの作歌ノートを見ると赤面してしまう。全部引用できないが、「君が言ったらむ」などという無知まるだしのでたらめな歌を作り、妻に張りとばされていた。もうちょっと詳しくなってから作った歌を見てみると、意外と「らむ」の登場度は低い。

倦み離るるひとであれども母逝かば八年(やとせ)のうちに我も逝くらむ 黒田英雄

 探してみたら、「らむ」と「む」をかなり混同しており、「らむ」使用であるとはっきり言明できるのはこれしかなかった。「あらむ」や「をらむ」も「らむ」かと思っていたが、違うそうである。となると、「らむ」使用で活字化されたのは、「塔」に載ったこの歌だけである。活字化された僕の歌は565首にのぼる。にも関わらず、偏愛する助動詞「らむ」を使ったものはこの一首しかないのである。「らむ」という美しい言葉に、潜在的に畏怖感を覚えている結果かもしれない。だから、あだやおろそかには使えないのだ。口語短歌を使う若手歌人よ、文語短歌を読みなさい。いや、読まなければ、いずれ行き詰まるだろう。天才歌人小島なおにもそれは言える。文語短歌歌人を、誰か一人選んで読み込まなくては、彼女も自己韜晦に陥るであろう。歌のスタイルには色々あるだろうが、やはり歌人たるもの、文語を学まざれば、いずれ自分の文体に飽きてくるであろう。などと偉そうに言っている俺自身が信じられない。だって、たったの6年前までは、短歌の「た」の字も知らなかったのだから。運命、これほどわからないものはない。一生は、計算通りには行かない。いまだに、自分が短歌をやっているのは、ロッド・サーリングの「ミステリー・ゾーン(トワイライト・ゾーン)」の世界に誘い込まれたような気分でいるのである。
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2007年09月16日

879 文法書を読む前に、歌集に親しめ。

 角川「短歌」九月号、特集「文語で短歌を作ろう」を興味深く読んだ。まさに、文法の基本が書いてあり、私のような無知無教養な人間には、頭痛がしてくるような特集だった。しかし、たしかに基本中の基本が書かれてあり、それは大事なことだ。ただ、僕は思う。文法を学ぶ前に、まず実際に歌を読めと言いたい。

「らむ」といふ美しき助動詞在ることを教へくれにき「一握の砂」 黒田英雄

 もちろん僕は、文法はまったく無知であった。その僕が、曲がりなりにも文語で短歌を作って採用してもらえるようになれたのは、啄木の「一握の砂」を読んだからだ。古語はぜんぜん知らなかったが、とにかく「らむ」という言葉がすごく美しく響いた。

わが泣くを少女等きかば/病犬の/月に吠ゆるに似たりといふらむ 石川啄木

 啄木の歌はわかりやすい。この場合の結句は、どう読んでも、「似ていると言うだろう」という意味にしか取れないと当時思った。だから、「らむ」という助動詞は、推量を表すのだろうとすぐに思ったのだ。他にも、「き」「つ」「し」など、古語の助動詞の使いかたは、啄木を読んで覚えたと言っていい。また、僕は、「けむ」という過去推量の助動詞も大好きだ。

閑古鳥/鳴く日となれば起るてふ/友のやまひのいかになりけむ 同上

 この結句も、現在古語を使う歌人に歌わせたら、「いかになりしか」となるであろう。要するに、「けむ」は「し」に吸収されてしまっているのだ。でも僕は、この「けむ」という言葉の響きが好きなので、意識的に使っている。

田中絹代濯ぎ女(め)とせし清水組ロケの合間に川遊びしけむ 黒田英雄
おほかたは背広姿ばかりゆゑLEVI‘Sのわれ目立ちたりけむ

 「けむ」という助動詞は、どこか奥ゆかしさを感じさせて好きなのだ。
 僕が言いたいのは、最初から文法書で覚えようとしたって、たぶん身につかない、ということなのだ。まず、歌を読んで自然に、文語の言い回しを身につけるということが大事だと思う。かといって、百人一首を丸暗記すればいいというものではない。なぜなら、1000年も昔の歌なんて、僕みたいな無教養な人間には面白くもなんともなく、なんの共感もおぼえないからだ。文語を学ぼうとする若手がいたら、「一握の砂」を読めと僕は言いたい。啄木の歌は、ドラマ性に満ちていて、読めども尽きぬ魅力をはらんでいる。面白いと思えるものから、自然に文法を学ぶのがベストであり、また、そうでなきゃ文法なんかおぼえられるわけがないのだ。今、文語短歌を作る若者が少ないというが、嘆かわしいことだ。僕に言わせれば、文語のほうが、五七五七七のリズムにぴったりはまるので、よっぽど作りやすいと思うのだが。歌壇でビッグになりたいと思っている若手歌人よ、ビッグになりたいのなら、文語短歌を学びなさい。口語短歌のなかに、文語を巧みに混在させれば、その歌はすごく映えるだろうと思う。文語を学ぶなら「一握の砂」。それが僕の提言である。私のような短歌無教養な人間でさえ、文語短歌を作れるようになったのだから。
 久しぶりに、活字になった自分の歌を書きとめたノートを読んでみた。全部で565首にのぼる。どれもいい歌だと思った。最近、作歌に落ち込んでいただけに、励みとなる。やっぱり私は、二十一世紀の啄木なのだなとつくづく思っている次第だ。
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2007年09月14日

878 もういい加減にしろ!

 今日は、予定していた記事内容を変更する。読者には、この際言っておかなくてはならないだろう。このブログを開設して以来、私宛の個人メールで、歌壇の暗部への告発が相次いでいる。やれ、あの歌人はセクハラだとか、誰と誰が不倫誰と誰が犬猿の仲だとか、要するに結社内のどろどろと渦巻く百鬼夜行のさまである。それらの意見は、発言者の観点でのみ語られており、僕は、平等に検討する手段を持たない。告発者は、僕のブログでそれを大々的取り上げ、自分の観点を後押ししてもらいたいと思っておられるのだろうが、さすがにそこまで無責任なことはできない。僕の好みであの歌人の歌がいいとかダメだとか、そんなことはいくらでも言うが、プライバシーや名誉にかかわることを、片方だけの意見だけ聞いて書けるわけはないのである。このブログは東スポではないのだ。告発したい相手があれば、自分でブログなりHPを開設するなりして言えばよろしい。読者数が欲しければ、ここのコメント欄を利用し、アドレスを貼りつけてくれてもいっこうかまわない。アクセス数が倍増するであろう。このブログは、短歌ブログとしては確かに群を抜いたアクセス数であるとはっきり言えるが、それを歌壇の権威と勘違いしてはいけない。こんなのはネットにつながれば誰だってできることであり、俺がでかいつらをしていると見えるのは俺がそうしたいからやってるだけであり、歌壇が俺に一目置いてるとか俺に発言力があるとか、全然そういうことではないので、過大評価するのはやめて、言いたいことがあったら自分でやっていただきたい。俺はディスクジョッキーじゃねえ。
 俺は、歌友などいっさい持たずに一人で歌を作っている。その俺が、なんで歌壇通みたいに思われなくてはいかんのじゃ。××の●●がストーカーだとか≒≒の亭主の$$は〇〇のあれをこうしただとかの話を、「すでにご存じでしょうが」なんて文脈で書いてよこすな!ご存じのわけがないではないか、俺は歌壇のCIAか。タイコモチみたいに思ってる連中もいるだろうが、例えば俺は所属結社の幹部となんてむあったく話したことはおろか会ったことすらないに等しいぞ(だいたい歌会も宴会も行かないのになんで知り合いになれるというのだ)。みんななに勘違いしとる。みなさん、告発したいことがあれば、堂々とこここのコメント欄に書いてください。「黒田のご意見ということを装って告発お願いします」というお願いはやめていただきたい。もううんざりで、メールを開くのがいやになってきた。
 ただ一つ、信憑性のある告発を最近受け取った。その内容はおそらく真実であり、これには僕も非常に腹が立っている。ので、ここで言っておく。某結社の(イニシャルを書きたかったがやっぱりやめた)某氏よ。いいかげんにしろよ。これ以上、僕の逆鱗に触れることがあればここに実名を晒し、おまえのないに等しい歌壇生命を奪ってやる、とだけ言っておこう。その人物がここを読んでいることもわかっており、イヤミなコメントを何回か変名で送ってきていることもわかっている。心あたりのある奴は震えて待つがいい。なんせ俺は歌壇的に失くすものがないのだからして、いかったら何をするかわからんぞ。
 幸いにして、私の所属する「塔」「短歌人」ともに、そうした薄汚い告発はいまだに一件もない。この二結社が、例外的にまともなんだと思う。他の結社は、学閥閨閥政治閥、おまえらいったい何やっとんじゃと言いたい醜態ぶりである。ただただ歌がやりたくて結社に入ったんじゃないのか。正直、うちのメールに来た告発文のかずかずをここにアップしたいくらいだが、それはあまりに一方的だし、歌壇そのものの存在をゆるがしかねないので、涙をのんでやめておいてやる。歌は、一人でやるものだとつくづく俺は思う。組織に飲み込まれたが最後、ひどい目に遭うのだなと、これらの告発文を読んで思う次第である。みなさん、結社というのは、自分の歌の世界のためにだけ存在するもので、くだらん政治的な人間関係なんてもの、もういい加減にやめようではないですか。
 「塔」「短歌人」はまともである。しかし、この二結社といえども、見苦しい派閥争いなどもし起こしたら、俺は告発の手を緩めはしないであろう。
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:26| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記

2007年09月12日

877 安倍晋三と選評と名美

 安倍総理が、辞任表明をした。これに関して、猛烈な批判が四方八方からあるだろうが、僕はあえてそれをしたくない。僕は、率直に言って安倍総理のことが好きだった。「美しい国」。へそが茶をわかす言葉だが、彼には彼の理想とする国家像があったのだろう。彼には、歴代総理にはない「品」がある。僕とほぼ同学年だが、たぶん知り合っていればお友達になれたと思う。僕は、下品なやつが大嫌いである。森元首相とか、古い話だが宇野とか、吐き気を催す。安倍晋三という男には、育ちの良さを感じさせるところがあった。彼の退陣は、実に痛々しい。彼はたしかに、マリオネットだったろうが、優秀な傀儡使いに恵まれぬ、ぼろぼろになって捨てられた人形を連想させる。僕は、ひどく落ち込んでいる。安倍総理には、最後まで火だるまとなって、与党自民党最後の総裁として燃え尽きていただきたかった。繰り返すが、僕は安倍晋三のことが好きである。そして彼は、周囲によって八つ裂きにされた首相として歴史に残るだろう。

 栗木京子「けむり水晶」、吉川宏志「曳舟」、小島なお「乱反射」、ほかほか、最近立て続けにいい歌集を読んだ。いい歌集を読むというのは大事なことだ。しかし、逆に自信を喪失したりもする。みんな俺より優れているからだ。とても太刀打ちできない。しかし、俺が彼らの真似をしたってできるわけがない。俺は俺の歌を作り続けるしかないのだ。選評というのはありがたい。以前、「短歌人」で、三井ゆき氏が僕の歌にすばらしい選評を寄せてくださった。「手作り感の歌、素手での生存への賭けかたの意志を買いたい」。この選評は、僕が歌を作る上での大なる励みとなっている。そうだ、俺は、栗木や吉川や小島とは違うのだ。当たり前のことだが、それを自覚することが大事だ。また、「塔」9月号の、7月号池本一郎選歌欄評担当川田伸子氏が、僕の歌を取り上げてくれた。短評だが、すごくいい評だ。対象となったその歌は、僕自身快作だと思っていただけに嬉しい。また、川田氏の評も的確である。この歌に関して、僕は、さんざん自己註を書きたい思いでいっぱいだが、それはやめておく。自己註ほど、読者を白けさせるものはないのだ。川田氏の批評をもって、僕がこれ以上付け足すことはなにもない。選評を賜るというのは実にありがたいものだ。作歌の谷間にはまって落ち込んでいるとき、これほど励みになるものはない。だから、選歌欄評の多い結社に入るべきだと言うのだ。会員が会員の歌を取り上げる、これが大事なのだ。まだまだ、歌壇は仲間の歌に対しては無頓着である。

      今日のMYビデオ
「天使のはらわた名美」(1979年、日活、田中登、原作・脚本石井隆、音楽アビスリ)鹿沼えり、地井武男、水島美奈子、青山恭子、草薙良一、宇南山宏、古尾谷雅人

 レイプを主題にした、重々しい映画。荒涼たるレイプシーンがすさまじい。女を犯す男のケツをまた別な男がよだれを垂らしてさらに犯すというシーンはあまりのことに目が点になる。ちなみに、女を犯しながらケツを犯されているのは若き日の古尾谷雅人であり、その役名は「良子を襲う男」である。また、そのケツを犯しているのは、変態俳優庄司三郎であり、役名は、ない。こう書くと山上たつひこの漫画のようだが、これは実にシリアスな映画である。おそらく脚本の石井隆には、ブニュエルなどの、シュールレアリズム映画を意識したところがあったのではなかろうか。そのシュールさを見事に映像化したのが、鬼才田中登である。彼には、「マル秘色情めす市場」という傑作がある。石井隆の作品には、過剰なセックスシーンがあるが、それはまったく欲情の役には立たない。逆に、彼の映画を見ているとインポになってしまう。それほど、「天使のはらわた」シリーズというのは、男の性が持つやりきれない原罪性というものを描いて余すところがない。
 この映画の音楽、アビスリなる人物によるピアノの曲が素晴らしい。冒頭のクレジットとラストで流れるが、それが耳について離れない。歌集「乱反射」を読むたびに、このメロディが浮んでくるのである。
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2007年09月11日

876 「乱反射」(角川出版)にただよふエロス

 僕はいつも、近頃の歌集には章立てが多すぎるとぶつくさ言っている。しかし、吉川宏志「曳舟」と、小島なお「乱反射」に関してだけは、それが気にならなかった。逆に、章立てが生きていると思った。「乱反射」は、一分の隙もない、見事な歌集である。見事すぎて、読んでいて息苦しいぐらいだ。

天井に水面が映り水の夢浸透圧に冒された昼 小島なお

 作者自身は感じていないかもしれないが、僕は読んでいて非常なエロスを感じる。「冒された昼」の「冒す」は「犯」や「侵」でなくこの字であるのが面白い。少女の潔癖さが、冒険の冒を選んだのだという想像がよりいっそう中年の妄想をかきたてる。まるで、自分では意図せずに男どもを迷わせる聖騎士ナウシカのようである。それは、エロスと聖性の完璧な合致である「天使のはらわた」に通底する世界だ。聖女は、果てしなく冒されまた犯されながら、自らは汚れることなく世界を純化し続けるのである。小島なおの歌には、独自の肉体感覚が溢れている。もしも小島なおが「天使のはらわた」シリーズの一本でも見れば、その小娘みたいな「やだー何これ」なんて反応ではなく、その聖と堕落に引き裂かれた世界におおいに共感し、さらに詩的世界を深めるかもしれない。
 もしも十人の選者に、「乱反射」から十首ずつ選べと命じたら、その結果は一首たりとも重ならないかもしれない。それほど、バラエティに富んだ秀歌が多い。その中から、私なりの数首を引く。

肋骨に蝋梅の花咲くごとし雨の匂いのあたたかき夜 小島なお
黒髪を後ろで一つに束ねたるうなじのごとし今日の三日月
海亀が重たきまぶた閉じるごと二つ雫のコンタクトはずす
霧雨のあたたかく降る夜ふけてわたしの体かぐわしくなる
かたつむりとつぶやくときのやさしさは腋下にかすか汗滲(し)むごとし
台風の目に入りたる青空に陶の艶帯びからすは光る
梅雨の空は重たく赤く濡れている小さき球のさくらんぼ食む
雨すぎて黒く濡れたる電柱は魚族のひかり帯びて立ちおり
草むらに二人はかくれて見えなくて日は南中の時に近づく
遮断機が下りてふたたび開くまで球根のごとくひとりのわたし
風見鶏日照雨(そばえ)に濡れてまわりおり少年の耳燃えている夏
立ちこぎのブランコこいでそのまんま額の上の大空に消ゆ
お祭りのざわめきのなか照らされる汗ばんだわれの暗きからだが
りんご噛む音は雪噛む音に似て北半球に雪は降り積む
まだ知らぬ世界があってただ今はわれのからだに夏満ち満ちる
白き陽が体ぜんぶに染みてゆく片付け終えし学祭のあと
春色のコートはおって別れ際すこしふりむく友のO脚
変わりゆくいまを愛せばブラウスの袖から袖へ抜けるなつかぜ

 以上、ほんの一部を紹介した。274首の全てが秀歌である。一流の歌人と言われる人たちが同歌集から挙げた歌は、小島なおの本質を伝えてはいない。彼らには、「乱反射」に溢れているエロスの香りがまったく理解できていないか、意図的に無視しているかのどちらかである。小娘だからといって甘く見るな。小島なおの歌には、溢れんばかりのエロスが満ち溢れている。それを無視して、みずみずしいだの無垢だのととってつけたような空疎な褒め言葉を並べるんじゃない。俺こそが、ちゃんと小島なおを読んでいるのだと自負している。これだから歌人は、日活ロマンポルノのひとつも知らんから駄目だと言うのである。俺は、エロスへの嗅覚は鋭い。ここに挙げた小島なおの歌には、エロスの香りが馥郁と漂っている。違うと言うなら言ってみろ。
 僕は、小島なおの修辞から学びたい、また学ぼうと思っている。この歌集が売れないようでは、日本の歌壇もおしまいである。
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2007年09月10日

875 小島なお

 正直言って僕の好みではないが、なぜ小島なおの歌の世界に惹かれてしまうのか。ある人から置くってもらった新聞掲載の歌にこういうのがある。

熱帯夜の駐車場で相対性理論を語り合う車たち 小島なお

 相対性理論と言えば原爆である。いやそうではなく光速度がどうとか、双子のパラドックスがどうとか言う人がいると思うが、僕に言わせればそんなのは人間の実感からはるか遠くに隔たった科学的修辞に過ぎない。相対性理論といえばアインシュタイン、アインシュタインと言えば原爆、と僕のイメージはストレートにつながっていく。真夏の、逃れようのない熱気のなかで、命あるもののごとく、瀕死のもののごとくくっつき合う車の列は、自分たちの科学的存在と究極の熱死のさまを重ね合わせているかのようだ。閉ざされた車の内部は、熱帯夜のなかのもうひとつの熱帯夜だ。子供たちが蒸し殺され、泣こうがわめこうがその叫びはどこにも届かない。夏の夜の、居並ぶ車に、相対性理論というイメージを繋ぎ合わせるという発想に舌を巻く。極めつけはこの歌だ。

黒髪を後ろで一つに束ねたるうなじのごとし今日の三日月 同

 僕は、この歌を読んでふか〜〜〜くため息をついた。こんな美しい比喩を、いったいどうして十代の歌人が編み出せるのだろうか。彼女は修辞の歌人だ。これは間違いない。修辞多用というのは、僕の嫌いなジャンルなのだが、彼女の作品にそのいやらしさを感じないのは、読者に対する媚びや、自分を分かって欲しいという甘えを持たず、とらえた事象をとらえたままに詠おうとする素直さと肉体感覚、そして清冽な孤独感があり、作りこんだものにありがちな嫌味がない。そして何より、彼女の歌には愛誦性、ヒット性がある。素直さ、というのが、これほど詩的な才能とダイナミックにつながっている歌人はいないだろう。その歌風は正統的であり、こざかしい小細工はない。だから、僕は彼を栗木京子以来の大物歌人だと評するのだ。
 角川「短歌」9月号を読む。小島なおと栗木京子の対談が楽しかった。その中で小島は、「どんなときに歌ができるのか」という問いに対してこう答えている。「それは気分が乗っているときです」。これも凄い言葉だ。俺なんか、いい歌ができるのは、競馬に負けたり、ローンに追われたりして悲しみのどん底にいるときばっかりだ。短歌を作るために競馬に負け、生活苦にあえいでいるようなものだ。短歌が、敗者の文学と言われる所以もこのあたりにあるだろう。決して私は例外ではない。しかし小島は、気分が高揚したときに歌ができるという。こういう人は少ないと思うよ。聞くところによるとモーツアルトは毎晩宴会のどんちゃん騒ぎの最中に酒飲んでおねえちゃんを両脇に抱えながらちょちょいのちょいと作曲したものが、空前絶後の名曲だったりしたそうだ。天才とはこういうものだろう。そうした意味で小島なおは、歌人の常識を超えている。歌集「乱反射」も何度も読み返した。栗木京子「けむり水晶」の感想と重なるが、この歌集の唯一の瑕瑾は、凡歌がないことだ。小島なおの課題は、彼女独自のドラマ性をどこまで紡いで行けるかだろう。今現在では、歌はよくても、歌集総体としてのドラマ性が足りない。意識的に凡歌を混ぜて、彼女独自のドラマ性を高めるべきだ。いや、これは贅沢な望みかもしれない。
 僕は、彼女の歌を読んでいて、映画「天使のはらわた名美」の、冒頭のクレジットと、ラストに流れるアビスリという謎の人物の手になるピアノ曲をいつも連想してしまう。小島なおに、情念の世界が加われば、最強の歌人となることだろう。歌壇の「名美」は、間違いなく有友紗也香だ。有友は………いや今はやめておこう。
 栗木京子、小島なおのツーショットの写真がいい。短歌という、どマイナーな文学を、メジャーなメディアに引き上げているような写真だ。輝きがある。小島なおは、すでに「コスモス」会員だという。「塔」にも入ってくれないかなあ。「コスモス」より向いていると思うんだけど。
 小島なおは、歌壇の明日を担うミューズである、と僕は断言してはばからない。現代には珍しい、スター性を持った稀有な歌人である。
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2007年09月09日

874 ハートがたのあせ〜青春を韻律に叩き込め!〜

ばらばらにくずれはじめた俺たちは東京タワーを階段で行く 尾方 裕

 いい歌だ。一読して、1969年制作の出目昌伸監督「俺たちの荒野」を思い出した。この映画に東京タワーは出てこないが、青春の痛みと挫折、という点で、この歌と共通するものがある。東京タワーに登ったことは一度だけある。もちろんエレベーターである。今はどうだか知らんが、あそこのエレベーターというのは素通しで外の鉄骨格が丸見えであり、それは近代的なような寒々しいような、最先端のような人類滅亡後のような、なんとも異次元的なものとして映ったが、そう感じるのは僕だけだろうか。毎週毎週怪獣に折っぺしょられたり、「三丁目の夕日」のエンディングを飾ったりする東京タワーは、ビルでもなく塔でもない、骨組みだけの不思議なモニュメントだ。そこを階段で昇るというのは一種破滅的な行為である。鉄骨のザルが囲むだけの狭い空間の外にあるのは無限の自由と永遠の死だ。青春の不安定て末期的な光景によく似合う。考えてみれば、若さというのはどうしてああも行き止まりで行き詰まりな感じを当事者に抱かせるのだろう。希望に満ちた若者、なんぞ本当にもしいたらさぞかし気色がわるいと思う。この歌の作者の掲載作品の残り5首も実にいい。まさに、映画のワンカットを取り上げたような、青春の持つ憤りを韻律に思いきり叩き込んだエネルギーに満ちている。僕は、青春歌とはこういうものを言うのだと思う。「短歌人」は、いい新入会員を得た。これからもこの作者に注目していく。これだから結社誌を読むのはやめられない。

えんそくでせなかのあせがハートがた はずかしいけどじぶんもわらう 上村駿介(11歳)

 作者は11歳。僕は、少なくともあと九年は彼の歌を読めることだろう。彼が、どういうふうに青春の日々を詠うか、読者として楽しみだ。この歌は、ハート型の汗、という表現が実にいい。ありそうでない。こんな表現を読んだことがない。同級生から、「おまえ汗がハート型になってるぜ」とからかわれたのだろうが、それを歌にするというセンスが素晴らしく、また初々しい。また、11歳にしてひらがなを多用している。「遠足」や「汗」が書けない年齢ではないが、この場合はひらがなのほうが効果的であり、そこに詩的戦略を感じる。意識的にひらがなでまとめたとしたら相当なセンスの持ち主である。上村くん、欠詠することなく作歌に励んでください。をぢさんは、毎月楽しみに君の作品を読ませていただきます。「短歌人」は俄然面白くなった。

親日ならず親日本語であるといふ黄雲芝台湾句会率ゐて 野上佳図子

 日本人は、英語の読み書き喋りはてんでダメなくせにどうしてああも英語のポップスが好きなのであるか。その99%は意味もわからんで「いい歌だ」なんて言ってるわけであるが、子宮にいるときから英語のリズムとメロディーに慣れ親しんでいて、好むと好まざるとにかかわらずそれが魂の音楽になってしまっているのだろう。こういう若者たちだって気持ちでは反米嫌米だったりするから面白い。僕もそうだが、もはや和音階や民謡の世界など逆に見知らぬ世界の、非常に奇妙で馴染めないそれである。
 教科書に載っていた「最後の授業」ではないが、幼いころから日本語を習わせられ、それを母語とすることを強制された人々がいる。言わずと知れた旧亜細亜植民地である。その中でも台湾は、珍しく日本軍がさほどの蛮行をおこなわなかった場所で、戦後も日本文化全面禁止などの措置が取られず、日本人が今行っても気まずい思いをせずにすむ場所として、かのゴーマニズム漫画家にも褒められるくらいであるが、この歌はそのような脳天気に冷水をぶっかける。台湾には今でも日本語で俳句や短歌を作る会が存在し、これもそのような情景を詠ったものだが、いったい、「詩」という、魂のかなでるメロディを強制された言語で作ったほうが心親しむ、というのは途方もなく悲惨なことではないのか。侵略とは武器と流血だけでするものではない。ソフトな、本人が選びようもない幼い時期の刷り込み、という形でもなされるものなのだ。台湾における、日本の小説や漫画の翻訳はアジアでも群を抜いて優秀だと言われるが、それがどれだけ忌まわしい精神的侵略、誰も文句がつけられないがゆえにたちの悪いことであるか、それを思わせて戦慄を呼ぶ一首である。自分たちは恨まれていない、などと思ってはいけないのだ。

 「短歌人」には、注目すべき新入会員が相当いる。意識的に彼らの歌を取り上げていこうかなとも思っている。とにかく、「会員2」欄が面白い。短歌は、ストレートであるべし。もって回った修辞など使うな。ストレート。これこそ短歌の命である。「短歌人」は、すこぶる面白くなりつつある。
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2007年09月07日

873 短歌人9月号、会員欄秀歌選その27

 「短歌人」には、毎号表紙の裏で歌人その歌がピックアップされている。今号のそれは、有沢蛍「朱を奪ふ」である。批評子「I」氏の短評が6行にわたって綴られている。僕も、この歌集を読んだが、I氏は実にこの歌集のポイントを掴んでいると思い、感心した。一首評はともかく、歌集の評を短くまとめるというのは大変な作業だ。僕は、一首評では自分なりの切り口を掴んだ自信はあるが、歌集評は非常に難しい。正直、まだ僕独自の切り口というのがつかめていない。すべての歌集評がいいとは決して言わない。くだらん評、単なるゴマスリとしか思えないものが相当数ある。かと言って、批判すればいいというものではない。批判しつつも、その歌集のよさを伝えられるような評を書きたいものだ。ごく数人を除いて、優れた歌集評というものを寡聞にして僕は知らない。
 今月の赤丸歌、会員1欄パート1、158首。同パート2、64首。会員2欄パート1、97首。同パート2、177首。計496首。

      「短歌人」九月号「会員欄」秀歌選その27

前向きに生きなさいよと師の言葉目を閉じ思う前向きの前 山崎カツ子

閉ぢられし冷蔵庫の内暗ければ開ける術なき夢にくるしむ 松岡建造

親日ならず親日本語であるといふ黄雲芝台湾句会率ゐて 野上佳図子

密やかな悪事を思いて仰ぎ見る 雨降る前の風の行方を 竹田正史

露草の藍ちりばめしくさ原につゆを咥えて消えし生きもの 佐藤綾子

「人道に反する」と弟に言はれ婚約破棄せず今に至りぬ 赤尾和葉

市役所にて声掛けてきし老人あり三日後気付くあれはナンパと 楠 律子

膝までの浴衣新たな美ありとか少女闊歩す奇異と思ふも 岡田敏子

夕焼けの月光仮面風呂敷を畳めば二年二組の勉 田所 勉

歪みたる魂としも見ゆゆふぐれに我が吐き出せる紫煙の形 内藤健治

昼どきの職員室に入り来て「下水の臭ひ」と女生徒言へり 田村よしてる

脱ぎたての外骨格を撫でながら身近な者に優しくなれぬ 後藤祐子

えんそくでせなかのあせがハートがた はずかしいけどじぶんもわらう 上村駿介(11歳)

降りたのはわたくしひとりはからずも「もってのほか」とう名の駅なりし 朝生風子

鬼婆のかなしみじわり胸をうちし観世栄夫の「黒塚」おもふ 小出千歳

陽の沈むかなた見おればおだやかに光まといて人は来れる 利根玉惠

幼なき日夜半に目覚めてふすま一重開ければ若き父母ありき 木戸真一郎

切り崩す貯金止まらず雪崩打つ末は湯水の泡風呂の泡 本橋外堀

巡回中の札かかりいる派出所の机の上に眠りいる猫 伊藤直子

ばらばらにくずれはじめた俺たちは東京タワーを階段で行く 尾方 裕

客席の暗い海より手をたたく悲劇を演じ終へたる人へ 阪本まき子

犬の目から見れば人間みな名無し名無しの人が犬の名を呼ぶ 生野 檀

小石川円乗寺お七の墓のまへあやとりせむと少女がさそふ 花鳥 佰

つらなめて山のかなたに沈む雁塩山駅にひと待ちし日よ 青木ルリ子

ゆふぐれの路上にあかきハンカチが火照りをたたむごとく置かるる 八木照子

目をつむり風中に犬は尾を振れり匂にも音楽はあるらむ 松野欣幸

木漏れ日の涼しきけやき公園に老夫婦来て唱歌を和しぬ 御厨節子

やあやあと手を振り近付く男あり待てばいきなり大嚏せり 川崎義一

「またお越しくださいませ」と言う声に応えるためのマニュアルがない 久保寛容

異物だと思われないで溶けるなら唯一、海の中で泣きたい 丸井まき

 以上、厳選30首。短歌は、実に面白い。特に、総合誌に載っているとり澄ました歌群より、結社誌の歌のほうが断然面白い。まだ結社に入っていない諸君、ぐずぐずするな。ただちに入れ。「短歌人」は、正直言って、会員1欄より会員2欄のほうが勢いがある。会員1欄は、もっと頑張らなくてはいけない。と自戒をこめて言う。
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:38| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

2007年09月05日

872 俺の歌の世界と、石井隆の世界

 石井隆の劇画や、映画は、強烈な性描写、ありていに言ってレイプシーンが頻出する。しかしなぜか、彼の作品には、女性のファンが多いという。これはなんとなくわかる気がする。「名美」をヒロインとした一連のシリーズに、「天使」と「はらわた」という、まったく相反するものを並列させたタイトルがつけられているのには深い意味がある。天使とは言うまでもなく天上的にして崇高、欲望や俗悪さのはるか彼方にいて、透明な光のなかで無性的な笑みを浮かべている、といったイメージがある。そしてさらに言うまでもないがキリスト教的な存在でもある。天使はそれ自体の性格を持たず、あえて言うなら「崇高さ」がその性格といえるだろう。これはあの名美たちにも言えはしないか。名美は俗世的な欲望を持たない。男たちに弄ばれ、辱められるほどに彼女は聖性を帯び、汚そうとするその行為自体が逆に純粋さを際立たせていく。果てしなく傷つきはするが決して本質的に汚すことのできない魂、それが名美であり、まさにはらわたを持った天使なのだ。だから、石井作品における性描写にはある種の真摯さがあり、ゲスな感情を畏れ入らせてしまうのである。俗に言う、「抜けない」というやつである。「天使のはらわた」シリーズは、日活ロマンポルノのアイデンティティそのものであったと僕は確信している。
 私の歌も、気がつかなかったが、潜在的に石井の世界に侵されていたと、今では思うのである。

飲み明かし四肢なげて見し朝やけのたれのほてりか紅きまちなみ 黒田英雄

をのこにつく乳首の理由を教へしはかの夜の君の唇の円

ただ一度唇より唇にふふませし夜の水のこと君知らぬまま

ゆきをんな喘ぎの汗に溶かしつつともに死なましゆめ来ざる冬

をみなの汗腐りし桃の香のごとき匂ひ放てりつつしみぶかく

俺といふ世界の創が膿むやうに射しても射しても果てぬ体液

京の雨横ざまに腰濡らしてた面影すらも忘れた女の

 酒・唇・夜の水・汗・雪・体液・京の雨――まさに石井隆の世界ではないか。俺は潜在的に、雨の降る映像を短歌に描き出していたのだ。石井の描く雨の世界、そして名美と村木のドラマは、俺にとっての永遠のロマンティシズムなのだ。

雨が降る淫りがましき雨が降る名美のエピローグわれは知らざり 黒田英雄

 石井隆の世界は、セックスにまみれていながら、本質的には恋愛を描いている。昨今の20代の若造、とくに男どもにはわからないかもしれない。
ニックネーム 茶トラのみんく at 21:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2007年09月04日

871 8月月間ランキングと、「ラブホテル」の悲劇

 ブログ開設、947日目。総アクセス数、658513。総訪問者数、126800。

      8月月間ランキングベスト10

 1位 27日 「賞より読者〜お前らそんなに賞が欲しいか!〜」 1845
 2位 13日 「時の過ぎゆくままに=『浮雲』」 1720
 3位  6日 「笛吹けど踊らず」 1584
 4位 29日 「高野公彦の名評〜『曳舟』〜」 1525
 5位  5日 「日本は模倣するらむ、サブプライム」 1467
 6位 22日 「六千万個の風鈴」 1459
 7位 17日 「仙波龍英と出会えなかった不運と幸運」 1458
 8位 19日 「歌人に装丁の自由がないって!?」 1455
 9位  2日 「7月月間ランキングと歌会の功罪」 1384
10位  1日 「黒と白」 1361

 8月のアクセス数は、32262、読者数は、4967人でした。

 石井隆の劇画を無性に読み返したくなり、ネットで検索し、Amazonで「名美Returns」(石井隆著・ワイズ出版)を購入。3000円した。たけー。久しぶりに石井の劇画を読んで僕は納得した。石井が、なぜ映画にのめりこんで行ったかということをだ。正直、劇画では、石井の描こうとしていた世界は表出しがたい。名美、という実体が、いまいち二次元の世界では伝達し得ないし、石井の様式美の大黒柱である雨のシーンは、これは映像でしか表現不可能である。また、石井の劇画は、もともと、映像的なショットであることを前提として描かれているように思える。だから、アップや、奇妙なアングルからのアオリの構図が多いのだ。それは、石井の映画を見ているからこそ言えることであり、いまだ彼が映像デビューを果たしていなかった70年代、その漫画を読んでいる最中にそう思ったわけではない。いずれにせよ、精液と体液の匂いが充満した、見事な劇画であることは間違いない。
 ところで、この本の末尾には、石井のフィルモグラフィーが収録されている。それを読んで、驚くべき事実を知った。相米慎二監督による傑作「ラブホテル」」では、劇中、もんたよしのりの「赤いアンブレラ」が効果的に使われている。その、曲使用をめぐって、後日版権問題が生じたというのだ。要するに制作側が無断使用したということなのだが、この曲は、埠頭で名美と村木がイヤリングを探す、約4分にわたる長回しのシーンで流れ続ける。ビデオの廉価版では、もんた側が勝訴したため、この4分間が完全にカットされているという。しかし、これは芸術的観点から言って滅茶苦茶な話である。劇場で見た人が廉価版を買って見たらいかるであろうし、ビデオが初見、という人に対してはこれはもう販売側の詐欺行為と言っていい。それほど、この4分間の長回しシーンは、この映画にとっての命なのだ。名美と村木を繋ぐ掛け橋でもあり、その後の進展を暗示するための大事なシーンである。それを抜きにしても、恋愛映画の歴史上十本の指に入るほどの名シーンだ。この映画は、この埠頭の長回しシーンなくして成立しえないのだ。それをカットして販売しているという、それが僕には信じられない。
 この映画には、山口百恵「夜へ」も印象的な使われかたをしている。しかし、百恵サイドがなにか言ってきたという話はついぞ聞かない。もんたよしのり並びにその事務所は、まったくセコイことをやってのけたものだ。金に困ってそのために芸術を冒涜したと取られても仕方がない。使用許可を取っていないからという理由でいちいち提訴されていたら、日活ロマンポルノはそもそも成立しない。カットだらけ穴だらけになってしまうだろう。「女教師」では、泉谷しげる「春夏秋冬」が堂々と流れるし、にっかつ末期の名作「母娘監禁・牝」では荒井由美「ひこうき雲」が主題歌扱いである。松任谷(荒井)由美がその事実を知ったとしたって提訴なんかしないだろう。だって、新聞に、「ユーミン、『母娘監禁・牝』を相手どって提訴」なんぞという記事が載ったりしたら、逆にプライドが許さないだろう。泉谷しげるは泉谷しげるで、別な意味で気にしないであろう。もんたよしのり、あるいはもんたサイドのやったことはブサイクである。「赤いアンブレラ」の流れる4分間は素晴らしいシーンであり、自分の曲が使用されたことを名誉と思うべきだ。それを裁判沙汰なんぞにして、ビデオからのカットを強要したなんぞ、映画にとっても、アーティストもんたにとっても自殺行為である。実際僕は、この映画を見てこの名曲を知ったのである。この埠頭のシーンはすばらしい。それをカットしてだ、しかも販売するという行為に対して、僕はものすごい怒りをおぼえる。何度も言うが、この埠頭の長回し4分間をカットしてこの映画の存在価値はない、と僕は断言する。僕は、たまたま「ラブホテル」ビデオ版の初版を持っているので、このシーンをちゃんと観ることができるのである。が、廉価版を買った人は同情に堪えない。それは「ラブホテル」であって「ラブホテル」ではないのだから。
 戦前、日本の映画人は、軍部の圧力によってカットを強要され、苦闘しつつ映画を作り続けた。この平和な時代に、著作権という化け物によって、映画はボロボロにされている。もちろん、著作権は大事だ。しかし、アーティストのほうもちっとは考えていただきたい。日活ロマンポルノが、低予算、ゲリラ撮影という悪条件から、あまたの名作を生み出したことに、創作者としてリスペクトすべきではないのか。この提訴は、実にくだらないことだったと僕は思う。そう言えば、「ラブホテル」は、名画座での上映があまりなかったような気がする。この問題が尾を引いていたのだとすれば、まさにそれは悲劇そのものである。すでに完成した作品にハサミを入れる、そんなことは金輪際やめていただきたい。この事実を知って、僕は非常なショックを受けた。
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2007年09月02日

870 アララギよ、都市を詠え!

 新潟二歳S、一着は、蛯名正の、エフティーマイア。連勝中のこの馬を、考えなかったわけではない。しかし、軸馬にしなくてよかった。当然、本線は結果三着のゴールドストレインとなり、今ごろ地団太を踏んでいただろう。二着のシャランジュは買えない。だから馬連4万もついたのだ。どうせ負けるなら、さっぱりと負けて一敗地にまみれたほうがいい。惜敗ほど嫌なものはないからだ。それにしても、俺と井崎の軸馬が一致したときは、本当に当たらない。なんの根拠もないが、もう32回くらい、井崎との軸馬一致で潰れている。次回の競馬は、秋の祭典天皇賞(秋)。それまでやんない。でも、競馬中継は毎週見る。だって、競馬で面白いんだもーん♪(女子高生か)。

 競馬に負けると短歌ができる。「短歌人」に送る詠草が4首しかできず困っていたが、今日、あっという間に5首できた。俺は新宿に住んでいる。都会は、歌の素材の坩堝だ。作歌に困ったら街を歩けばいい。歌のネタがごろごろしている。俺は田舎は絶対にいやだ。たまに旅行詠を詠むぶんにはいいが、ずっとそこにいたらたちまちネタに詰まるだろう。地方の結社の歌のつまらさなを見よ。しょうがないよな、だって、生活に変化がねえんだもん。アララギ系というのは根本的に勘違いをしている。目にうつったままの花鳥風月を詠えば歌になると思ってけつかる。よくあるパターンが、四句まで心情らしきものをだらら綴って、最後を「さるすべり」だの「さらそうじゅ(なんだそれ?)」だのの、花や植物の名前を書いただけですましている、というものだ。これは悪魔の法則であるらしく、読むものがいくら辟易してもいっこうになくならない。小笠原和幸が地方結社を批判しているが、そんなことにエネルギーを使うのは下らない。地方結社なんぞどうでもいいのだから、批判するならば中央歌壇のことを批判せよ、小笠原よ。
 アララギ派で言う写実を、自然を詠うことと勘違いし、いやまだそれはいいのだが、自然というものの把握が自己批判のないだらだらでれでれした、小学生の絵日記にも劣る詩的怠慢がひどすぎるとは思わないか、諸姉諸兄よ。都市に身を置きながら、すぐれたアララギ歌をものした歌人に、佐藤佐太郎がいる。

舗道にはいたくきえる亀裂(きれつ)があるかなと寒(かん)あけごろのゆふべ帰路(かへりぢ) 佐藤佐太郎
なにごともなき昼すぎの路上(ろじゃう)にて石ころほどの融(と)くる雪あり
街川(まちかは)のむかうの橋にかがやきて霊柩車(れいきうしゃ)いま過ぎて行きたり

 3首とも、ため息が出るほどの、都会を詠った見事な写実詠である。ただ、佐太郎にして僕が残念に思うのは、ついに人間を詠わなかったことだ。人間を詠う、というのは、アララギの根本精神に抵触するのであろう。これは、人間を描写しないことをもって本道とする、アララギ精神そのものの誤りである。そんなことでは、これからの時代を生き残ってはいけない。人間を登場させずして、深い情感を伝えうる、佐太郎のようなそんな天才はまず生まれてこないだろうし、そのうえでまだ人間描写を拒むのであれば、アララギ派の衰退は火を見るよりあきらかである。僕がこんなことを言うのは、アララギ派が嫌いだからではない。好きだからこそ言っているのだ。
 僕が新宿に住み続ける決意をしているのは、歌の素材を見つけるためだと言っても過言ではない。なんの縁もゆかりもない土地だが、いくらでも写実で歌を作れる。アララギ派こそ、都市を詠うべきである。いつまでも田舎の、花がどうした野菜がこうしたと言っていても、人間の真実には迫れない。僕は、自分自身をアララギ系歌人だと深く自覚している。前衛短歌にはまったく影響されていない。僕は、僕なりの、アララギ系都市詠を作っていきたいと思う。僕の歌に乞御期待。

      今日の5首

売れざりし理由を聞きに行く旅の 窓に飛び散る釘のような雨 吉川宏志
夜のバスにうつむきおれば大根のような固さの首と思いぬ
午前二時のエスカレーター黒ぐろとうごかぬものにわれはつまずく
歩くとき首うごく鳩あるくとき手の動くひといずれ疲るる
職業をもう変えられぬ齢(よわい)かな体臭のような雨に濡れゆく

 「曳舟」(短歌研究社)より。
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:34| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

2007年09月01日

869 またまた混線! 新潟二歳ステークス前日予想

 今年の競馬、初戦で京都金杯馬連本線7020円大的中し、それを含めて三連勝したときは、「これで私も競馬で食える」と我が世の春を謳歌したものだが、その後はぼろぼろである。ああ、競馬はやっぱり難しい。
 このレース、僕は、ダリア賞を快勝したスズジュピターから行こうと思ったが、なんと回避。馬インフルエンザか!? その結果、超難関なレースとなってしまった。軸馬候補は、ずばりこの4頭。15番・タケミカヅチ、6番・ゴールドストレイン、16番アドマイヤホース、14番・リーベストラウム。さあ、どれを軸にするか、頭がいたい。軸馬が外