2007年10月31日

913 くそつたれ!

      くそつたれ!   黒田英雄

天に向けラムネ響らせし日は杳く都会の汗は胸から滲む

デニムジャケット粋に着こなし煙草吸ふ赤木圭一郎(トニー)佇む街角は消ゆ

ちちふさの巨きをみなは多けれど京マチ子とはちがふふくらみ

新宿は薄墨色に暮れゆきぬ木暮実千代の唇(くち)の黒子よ

山奥に佇つ一軒家に幸せの原風景あり 生家にあらず

紙芝居読んでくれたる美智子姉(ねえ)の声はやさしもかの日の雷雨よ

麦飯の半分混じる夕餉かなその縦線を舌で愉しむ

西洋の絵本の好きな隣家(となりや)の少女の膚は牛乳石鹸

拐ふがに没陽は紅し泣き泣きて甃(いしみち)の頂跨ぎゆくとき

短歌(うた)でしか昭和に還る術知らぬ男に黒き傘は似合はず

病めるとき生命(いのち)希ひて治癒すれば死を想いゐる小心者かな

何やらむ我にこみあぐる無気力な笑いの因は 蝿を目で追ふ

近くある利上げを控へ大泉滉のごとく笑ってみたり

日の本は炎(ひ)の下なるやとりあへずイカレポンチ!と吐き捨ててみる

携帯電話(ケイタイ)で話す黒服(オトコ)と風俗嬢(オネーチャン)に挟まれわれはレジに居並ぶ

疲れてはゐないが陰気な中年とこの店員も思ひをらむや

色彩(カラー)まとふ客でにぎはふコンビニの日曜20時われは無彩色(モノクロ)

くそつたれくそつたれくそつたれくそつたれ!四度叫べば哀願となる

打ち捨てられし人造人間(モンスター)らの泣くやうな風鳴り聴こゆ颱風の夜
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

913 くそつたれ!

      くそつたれ!   黒田英雄

天に向けラムネ響らせし日は杳く都会の汗は胸から滲む

デニムジャケット粋に着こなし煙草吸ふ赤木圭一郎(トニー)佇む街角は消ゆ

ちちふさの巨きをみなは多けれど京マチ子とはちがふふくらみ

新宿は薄墨色に暮れゆきぬ木暮実千代の唇(くち)の黒子よ

山奥に佇つ一軒家に幸せの原風景あり 生家にあらず

紙芝居読んでくれたる美智子姉(ねえ)の声はやさしもかの日の雷雨よ

麦飯の半分混じる夕餉かなその縦線を舌で愉しむ

西洋の絵本の好きな隣家(となりや)の少女の膚は牛乳石鹸

拐ふがに没陽は紅し泣き泣きて甃(いしみち)の頂跨ぎゆくとき

短歌(うた)でしか昭和に還る術知らぬ男に黒き傘は似合はず

病めるとき生命(いのち)希ひて治癒すれば死を想いゐる小心者かな

何やらむ我にこみあぐる無気力な笑いの因は 蝿を目で追ふ

近くある利上げを控へ大泉滉のごとく笑ってみたり

日の本は炎(ひ)の下なるやとりあへずイカレポンチ!と吐き捨ててみる

携帯電話(ケイタイ)で話す黒服(オトコ)と風俗嬢(オネーチャン)に挟まれわれはレジに居並ぶ

疲れてはゐないが陰気な中年とこの店員も思ひをらむや

色彩(カラー)まとふ客でにぎはふコンビニの日曜20時われは無彩色(モノクロ)

くそつたれくそつたれくそつたれくそつたれ!四度叫べば哀願となる

打ち捨てられし人造人間(モンスター)らの泣くやうな風鳴り聴こゆ颱風の夜
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2007年10月30日

912 電車で出遭った役者と歌人

湿り帯ぶ小田急線の斜向ひ島田修二氏こつくりこくりと 黒田英雄

 東京に住んでいると、電車の中などで、しばしば有名人を見かけることがある。僕にとっての有名人とは、まず役者である。今まで出会った人はまず、榎木兵衛。それは誰かというと、戦後日活の文芸作からムードアクション、そしてポルノにまで生き残った、日活はえぬきの脇役俳優だ。山手線の中で、真白なシャツに真っ赤なパンタロンという格好であり、まさに映画のなかの怪人俳優そのままの姿だった。隣に座っていたのはおそらく奥さんだろう。ちょうど石原裕次郎が死んだ頃のことである。電車内に、裕次郎の葬式のことを報じる週刊誌の広告が吊り下がっていた。榎木さんはこう言っていた。「裕ちゃんはすごいなあ。こんなに人が集まるんだ」。ほんのつぶやきだったが、はす向かいに座っていた僕はちゃんと聞き取ることができた。さらに、粟津號とも遭遇した。時期はたしかでないがやはり小田急線だった。この人は、ATGや、日活ロマンポルノの脇役で活躍した人だ。「竜馬暗殺」では落ちこぼれの新撰組隊士を演じ「行くどーっ」と叫びながら中川梨絵の肉体に突進していた。また、「文学賞殺人事件/大いなる助走」では、真面目すぎる文学者として石橋蓮司に批判される文学青年を演じて印象深い。粟津さんもまた、映画で見るのとまるで印象が変わらなかった。確か、しきりと汗をぬぐっていたなあ。そして遭遇役者の極めつけは、成城学園前駅のホームに佇んでいた石橋蓮司である。彼はカーキ色のコートを着て、一心に地面を見つめていた。なにか考えていたのだろう。すごい知的な顔をしていた。かっこよかったなあ。
 俳優と一般人との違いの本質は、その目にある。とにかく目がギラギラしているのだ。たとえ道ばたですれ違ったとしても、その眼光を見れば「むむ、役者め」と、マンガの侍が忍者を見抜くごとくわかるのだ。彼らの視線は野性動物のように鋭く深く、繊細である。まさにいつも、獲物に飛び掛るべく研ぎ澄まされた目の光なのである。
 俺が挙げたのは、古い意味での役者である。今時売れてるのも何人か見かけたが、こいつらまったく話にならん。役者ではなく、単なるタレントである。存在に威厳というものがなかった。
 そして冒頭の歌である。電車のなかで、歌人と出会うなんてことはほとんどないだろう。ところが、その貴重なる経験に、僕はまたしても小田急線のなかで遭遇した。はす向かいに座ったその紳士を、「ををををををを、しししししし、島田修二だ」と心のなかで絶叫した。どっからどう見ても島田修二、写真で見たよりももっと島田修二なのである。島田氏は茶色いカバンから白い紙束を取り出し、熱心に読んでいた。それは歌稿の束なのだと僕は直感した。ととと、ところがである。突然島田氏、居眠りをお始めになり、僕は思わず、静かにずっこけた。たぶん、相当疲れてんだろうなあと同情しながら、居眠りする島田氏をずっと眺めていた。僕の降りる駅が近付き、突然島田氏は眠りからさめ顔を上げた。そしてそのまま俺をにらみつけたのだ!これにはびっくらこいた。俺がずっと見つめていたことを彼は肌で感じていたのだろう。あの貫くがごとき視線は忘れられない。心臓が止まるかと思った。僕は思う。役者と歌人には共通点があると。それは、視線の鋭さということだ。肉体で表現する役者と、言葉で表現する歌人。ツールは違えど、その視点の鋭さというのは大事だろう。僕が遭遇した役者諸氏もそして島田氏も、その眼には独特の獣のごとき光があった。
 僕は、歌人もまた役者同様スターだと思っている。河野裕子、栗木京子両氏のようなスター歌人は、同じ結社にはいるが到底俺など口をきけたものではない。女優に例えれば前者は杉村春子であり、後者は香川京子である。歌人だって、それなりのオーラを纏わねば駄目だ。役者と歌人は、似ているなと思う所以である。

      今日の一首

こほろぎはつひに一つの声にしてまぎれなし闇にまたかすかにて 植木正三
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2007年10月29日

911 アンカツ激怒!〜天皇賞秋余波〜

 今日の「東京スポーツ」に、昨日の天皇賞で不利を受けた騎手の怒りがぶちまけられていた。あのアンカツが、ゴールに入ってから、「誰じゃあ!」と叫んだらしい。しかも検量室に引き揚げても怒りがおさまらず、ま、柴山のことだが、「なに考えとんじゃあのバカ」と怒りまくっていたらしい。普段は温厚で知られた人だけに、よほどダイワメジャーの受けた致命的な不利が頭に来たのであろう。アドマイヤムーンの岩田も、「俺のも相当やられたよ。ぶつけられて馬が横向きにさせられたから、あれではさすがにどうにもならん」。彼らも、僕もそうだが、結果論でものを言うバカ競馬記者には腹が立つだろう。「アクシデントがなくてもメイショウは勝っていただろう」なんぞというコメントを堂々とこきまくる「競馬のベテラン」どものことだ。騎手は怒るだろうし、俺も怒る。
サムソンはあのままでは内ラチ二分三分どころに閉じ込められたままでいたであろう。府中のあのコースはとにかく伸びないのだ。柴山くんがメイショウのために、外の馬を露払いしてくれたようなものだ。とにかく、後味の悪いレースだった。柴山くんがあんな大斜行をしなければ、ゴール前すさまじい叩き合いの激戦が見られたであろうに、残念だ。僕は、もしそうであっても外の馬がきっと差し込んできただろうと思っているけどね。ポップロックも、かなり影響を受けたとの騎手のコメントである。昨日の日記に「バカ」と名乗る人物から、その通りバカなコメントをいただいた。人の予想にケチをつけるなら自分の予想をコメント欄に書き込んではくれないかね?歓迎するぜ。そんな度胸もないくせにくだらんいちゃもんをつけるなこのタコ。
とにかく、このトラブル抜きでメイショウを絶賛する競馬屋どもには腹が立つ。とくに井崎だ。JC、有馬と、おそらくサムソンは一番人気となるだろう。願ったり叶ったりである。今回のことで、武豊の騎乗を名騎乗などとはやし立てるのはやめたほうがいい。彼はなにもしていないのだから。ただ運がよかっただけだ。結局最後まで、自力でサムソンを外に出すことはできなかったのだから。
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:54| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

2007年10月28日

910 し、し、し、し、し、柴山あ〜!!〜幻の菊花賞馬、天皇賞馬〜

 府中に行き、ライブでレースを見る。トンデモないレースだった。僕は、馬群が4角を回った時点で勝利を確信した。本命アドマイヤムーンは、絶好の手応えでまくってきたし、ダイワメジャーもいい位置につけていた。穴、シャドウゲイトも、実にスムーズに外を上がってきた。武豊メイショウサムソンは相変わらずインに閉じ込められ、内ラチ二分三分どころで直線に入った。府中は、今内ラチが全然伸びないのだ。これでメイショウは予想通り負けてくれると思った。とととととととととと、ところがである。二番エイシンデビュティが突然斜め外に向かって突っ走りくさり、つまり斜行をかましてくれて、隣のコスモバルクはびっくり仰天、つられて同じく外に斜行。要するに、馬群全体が外に向かってヨレてしまったのだ。さあ今からというアドマイヤムーンは、おっとととととと外へハジかれてしまった。ダイワメジャーも仲良く付き合う。メイショウは、外が空いたもんだから、4分か5分どころという最高のポジションを取ることができた。要は、エイシンの斜行のおかげで外に持ち出せたのだ。武はラッキー。メイショウは強いが、あの斜行がなければ3着以下に惨敗していただろう。あの内ラチ沿い二分どころで伸びるわけがないのだ。アナウンスがむなしく響く。不利を受けた馬4頭のうちの3頭、シャドウゲイト、アドマイヤムーン、ダイワメジャー、全部おれが買っていた馬だ!!!!!あのままの展開で行ったらアドマイヤムーンは最低軸は確保していたのに。
 斜行したエイシンデビュティのジョッキーは誰であるか。確かめたら、なに〜〜〜〜っ、しししししし、柴山あ!?こいつは先週の菊花賞で、ロックドウカンブのミス騎乗で彼を3着におとしめ、今回は直線の斜行で俺のアドマイヤムーンをすっ飛ばしやがった。菊・天皇賞ともに、俺の予想自体は正しい。が、勝つべき馬が勝たず、取れてしかるべき馬券が取れなかったのは、すべてこの青二才のせいである。てめえもうGTレースに出るな!!武豊の勝利はラッキーであり、これをもって乗り変わった石橋騎手との差を論じては石橋が可哀想だ。2着に来たアグネスアークなんて問題外であり、柴山斜行の恩恵を受けただけの話である。
 僕が録画していたのはフジテレビの中継である。ふざけた中継だった。吉田均がこうのたまった。「直線ちょっともたつきましたね」。お前なあ〜〜〜、ちょっとじゃねえだろ!井崎も吉田も、自分は馬券を取ったもんだからこういう時には涼しい顔である。挙句の果てに、「メイショウは、今までクビ差ハナ差で勝っていたのに、本当に強いんですね」などとぬかしくさる。エイシンの斜行のおかげで有力馬が不利を受けたからぶっちぎっただけなのは明らかだろうが!そのへんを解説しないでなんの解説者か、ぼけ。
 それにしても柴山というジョッキーは大した野郎だぜ。こいつは、幻の菊花賞馬、幻の天皇賞馬を生んだ。前者はロックドウカンブ、後者はアドマイヤムーンである。このバカ騎手のために、勝つべき馬が負け、真面目な馬券者(私)の馬券もゴミと化した。柴山あ、てめえ二度とGTレースに出るな!
 私は2連敗したが、まったく気落ちしていない。私の予想はほぼ正しい。ただ、柴山くんひとりがレースをぶち壊しているのだ。帰りの電車の中で、こんなことを言っている若者がいた。「俺、天皇賞秋一週間考えたのにちくしょう〜〜〜」。若者よ泣くな。真面目にレース検討しているものを、競馬の神様はきっと見ていて、いつか君に配当をくれるはずだ。今年のレースも残すところあと4つになった。京都マイルチャンピオンシップジャパンカップ愛知杯GV、有馬記念である。私のファイトは潰えていない。ただ、柴山、お前はもう出るな、出んといてくれえ〜〜〜!!この男のためにGTレースは滅茶苦茶になっている。

      今日の一首

夜更けて寂しけれども時により唄ふがごとき長き風音 佐藤佐太郎
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:20| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

909 重馬場激戦!天皇賞秋前日予想

 明日は、府中は間違いなく重馬場。だからといって、レースが荒れるというわけではない。逆に、上位4頭には有利になったと思う。軸は、二頭のいずれにするかで迷っている。12番アドマイヤムーンか、14番ダイワメジャー、このどちらかが軸となるのは間違いない。明日はたぶん、2分00秒台の決着だろう。アドマイヤにとっては有利。前を行く、ダイワ、メイショウサムソンを標的にして、レースは組み立てられる。また、ピークは過ぎたと言われているが、ダイワメジャーにとっても、有利な展開となるだろう。前走、毎日王冠で3着に敗れたとはいえ、前半5ハロンが57秒台という超ハイペースした中で、前残りしたのはこの馬だけだ。今回は当然、そんなばかげたペースは考えられない。また、メイショウの屋根である武は、後のアドマイヤ、ポップロックを気にして走るはずだ。多分前半は、60秒ジャストくらいのペースだろう。うーん、迷うが、当欄前日予想では、アドマイヤムーンを軸とする。ダイワ以上に展開が有利だと思うからだ。12番ゲートも有利。
 メイショウサムソンは、1ゲートを引いたのが痛い。内に包まれる可能性があり、どこで馬を出すか判断が難しい。今、府中の内側はさっぱり伸びない。それでなくてもマークされるのに。15番ポップロック。この馬も有力だが、どうしても府中2000というのがピンとこない。最低2200はないと、持ち味の生かせない気がするが、鞍上がペリエなだけに、無視できない有力馬だ。穴馬候補は3頭。11番シャドウゲイト、6番カンパニー、10番ブライトトウモロウ。とくにシャドウが怖い。たぶん、ハナを切るのはデルタブルースだろう。流れに上手く乗れば、重馬場得意のシャドウの前残り、ということも十分考えられる。買い方が難しい。チョウサン?そんなもんいらん。
 前日予想結論。本線馬単、12−14、14−12。以下、馬単12−15、15−12、12−1。馬連、11−12、10−12、6−12。そしてタテ目として、11−15、11−14も押さえる。明日は府中競馬場現地へと赴く。黒田英雄様降臨である。見かけたら声かけてね(わかるわけがねえ)。最終的にパドックを見て、アドマイヤか、ダイワのどちらを最終的に軸にするか決めるつもりだ。ところで、メイショウサムソンは、どうして、恋女房の石橋守から、武豊に乗り代わったのであるか。サムソンは、石橋のお手馬なのに、どうしてこの期におよんで乗り代わりなのだろう。武はもちろん名手だが、サムソンは、追い出しのタイミングが非常に難しい馬だと思う。気心の知れた石橋のほうがいいと僕は思うのだが。1ゲートに入ったサムソン、これの騎乗は非常に難しいよ。武のお手並みを拝見したい。
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:01| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

2007年10月25日

908 「総合誌」の存在価値って?

 天皇賞秋までいよいよ三日と迫った。しかし、いまだに菊花賞の惜敗がこたえている。ロックドウカンブ、これはいい馬だ。僕は大ファンになった。頭のいい馬であり、今ごろ、「屋根があんなバカな若造でなければ」と、厩舎でくやし涙を流しているであろう。馬を擬人化しすぎてるって?アナタ違いますよそれは。馬をバカにしてはいけない。かしこい馬は、自分がなんのために生まれてきたかを知っている。かの無敗の帝王シンボリルドルフは、ギャロップダイナという世紀のクセ馬にゴール直前抜かれて負けた夜、明らかに涙を流して泣いていたという証言がある。ロックドウも賢い馬であり、きっと泣いたはずだ。彼には、つぎは有馬記念に出ていただきたい。騎手はもちろんアンカツへの乗り換わりである。有馬に出たら、この馬は勝てると僕は思っている。それだけ、レースセンスの抜群にいい馬だ。騎手はいらない、自分でレース展開を組み立てられるだけの賢い馬だ。有馬に出て欲しい。ロックちゃん、待ってるわ。
天皇賞秋、軸馬は決まってる。ただ、賭けかたが難しい。馬連馬単三連複か。オッズ次第だ。軸馬は何かって?それは、前日予想に書くのでお楽しみに。まずこの馬で間違いはない。

 「短歌研究」を立ち読みする。先日のことだったので最新号ではなかったかもしれない。目玉は、「新人歌人特集」(写真つき)である。いい企画だと思って勇んで読んだが読んでがっかり。要するに、自分とこの新人賞の最終候補組を新人歌人と銘打っているだけのことである。新人賞の候補に残れば「有望新人」か!?そうじゃないだろう。短歌誌の編集者に言いたい。おまいら、自分の目で歌を読み、自分で新たな作家を開拓するという努力をしろよ。新人賞周辺で浮き沈みしてる賞コジキの、それも、「万年候補どまり」みたいな永久にB級の烙印を押されたようなのばっかり取り上げやがって。おまえらよー、山ほど結社誌が送られてきてるんだから、ちゃんと目を通せよ。その中に、賞とは無縁でも、いくらでもいい歌人がいるだろう。俺は「塔」「短歌人」を毎月読んでおり、それだけでも、世に出したいと思う歌人は二十人をくだらない。総合誌の編集者どもはいったい普段なにをやっておるのだ。その年の新人賞候補にえらそうに書かせてやるみたいな態度で応対してるか、そのときどき、いかにも受けそうな(これが面白いくらい的はずれなのである)浮薄な自称歌人をヨイショしてるか、あと、評価の定まった大御所にぺこぺこしているか、おおかたそんなところだろう。要するに、編集者のオリジナリティなどまったく感じられないのだ。新人歌人特集、という企画は、3か月に一回くらいはやってもいいと思う。顔写真付きで。歌人にとっても励みになるし、活性化にもつながると思う。そのためには編集者が、常にオリジナリティを持った視点で、新しい歌人を発見しようという努力をしていなくては駄目だ。僕はぜひとも教えて欲しい。現代における短歌総合誌の存在意義っていったいなんなのだ!?総合誌を読むより「塔」「短歌人」の結社誌を読んでいるほうが俺はよほど面白い。とにかく編集部の努力が足りない。
 総合誌に載っている短歌の6割はつまらんのが、これについても教えていただきたいことがある。いったい、なにを基準にして、総合誌は載せる歌人を決めておるのか。結社の推薦?ほかにもっと、いい人いないの?このへんが僕にはわからない。誰か内部事情に詳しい人がいたら教えてください。とにかく、今のままでは短歌総合誌にはその存在価値というものがまったくない。我がブログの読者諸賢よ、総合誌を読むくらいだったら、「塔」「短歌人」を読みなさい。そのほうが面白いし、勉強になります。だいたい「総合誌」の総合ってどういう意味だ?結社性に縛られない、という意味でなら、大先生の顔色をうかがわず、独自の路線を打ち出してみやがれ。超党派を目指したつもりが、ただの八方美人であり、僕に言わせれば歌壇ゴロである。とっとと潰れさらせ。
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:58| Comment(3) | TrackBack(0) | 日記

2007年10月24日

907 闇と金

捨てて捨てて物無くなりし押し入れの闇が恐いよ眠れぬ夜は 前橋一二子

 モノというのはどうしてああたまるのだろう。どう考えても二度と使わないし、なくなっても思い出しもしないものがどんどん積み重なっていく。特に、ためこむ性格の人などはひどいものだ。引越しの手伝いなんかに行って、「これ捨てていいか?」と聞いてもほとんどは残留組に回される。昔のノートだの手足のもげた人形だの。思うに、物体には人の思いがのりうつり、容易に別れることを許してくれなくなるのだろう。この場合の思い、というのは阿呆な人生論者が言うようなしみじみほのぼのしたものではない。むしろ若かった自分の恥と無知と屈辱とバカの集積である。人生の暗部である。そしてまた、押し入れという空間の不思議さも筆舌につくしがたい。西洋の洋服箪笥にも死体とかいろんなものが入っているらしいが、奥行きと闇の濃さにおいて押し入れにはおよぶまい。いったん押し入れにしまったダンボールはつぎの引越しのときまで、ということは場合によっては何世代も、開けられない可能性だってあるのだ。そうした空間が、なにかの拍子できれいさっぱり片づけられてしまったあとに残るのはなんだろう。僕は思う。それはずばり、「飢え」であると。家という、人の怨念の集積のような場所にあいた空間は、なにかで充満させておかないときっと人を飲み込んでしまうのだ。あ、また評が長くなった。つぎ行こう。

ああ蜘蛛よおまえが糸を張る場所は我らの首のゆきかう高さ 加藤ちひろ

 医療現場でのハードな日々を、作者は一貫して詠う。普通、蜘蛛の糸が首にかかったりしたら不快極まりないだろう。しかし作者は蜘蛛に同情し、蜘蛛の巣を壊している自分たちの存在に忸怩たるものをおぼえている。蜘蛛にさえ共感しているのだ。それほど、作者のおかれた状況は苛酷だということがにじみ出た一首である。初句がいい。この詠嘆は意味深い。

母はその母にも死なれ目の前のわれの数える札にひれ伏す 朝井さとる

 一読、成瀬巳喜男のシビアな家族映画の数々を思い出した。祖母の葬儀を詠った連作の一首。凡庸な精神がいかに母性を称揚しようとあがいても、結局家族とはこういうものなのである。利害集団であり、お互いは自分の利益と、愛されたいというあさましい飢えとのあやうい均衡の綱渡りであり、母から娘へのそれはおおむね、はたから見てもいまわしい限りの搾取となる。ゼニならゼニで話がつけばすっきりするのに、そこにカギカッコつきの「愛情」がからんでくるから事態はもっといやらしい。おまけに、肝心の母親が、実はいまだに「娘」であるような人だとすると。これは人生の真実の断面というものを見事に切り取った一首である。作者は立派に自立して祖母の葬儀代が払える大人なのであるが、この母親という人はそうした娘の自立心、言うなれば「女らしくなさ」「娘らしくなさ」をずっと非難し、自分の依存的な生き方を模倣しない不孝者としてスポイルしてきたのではないか。あまりにもよくある話でいやになる。自立できない人が他人(もっとも近しい他人としての我が子)にも自立しないことを望むというのも不思議だが、札束を数えている作中主体だって決して美しくは描かれていない。あさましく、非精神的存在と映るが、これはもちろん作者の意図するところだろう。ここまでやって破壊しなければ、母と娘の気色の悪い負の連体は断ち切れはしないのだ。

通過する回送電車に途切れたる話の続きを友はせざりし 久岡貴子

 これは、よくある情景とはいえ、すごいドラマ性を感じる。この「友」は、ホームでつい深刻な話をしかけた時に、通過する電車の騒音にふと口をつぐみ、そしてそのまま話題を変えてしまったのだろう。実に映像的な歌だ。突っ込んだ内容の話をするには場の勢いというものが必要であり、それががさつな電車の音で遮られてしまった以上、もう繰り返すことはできないのだ。短歌とは、こうした刹那を詠うから魅力的なのだ。

 いっぱい評を書こうと思っていたが、また長くなってしまい四首でおわり。取り上げた歌を、皆さん独自の判断で批評してください。
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2007年10月22日

906 「塔」10月号「陽の当たらない名歌選」その2と、違和感

 今月の赤丸歌、花山欄138首。池本欄172首。澤辺欄作品1、152首。計462首。

      「塔」10月号「陽の当たらない名歌選」その2

ああ蜘蛛よおまえが糸を張る場所は我らの首のゆきかう高さ 加藤ちひろ

捨てて捨てて物無くなりし押し入れの闇が恐いよ眠れぬ夜は 前橋一二子

母はその母にも死なれ目の前のわれの数える札にひれ伏す 朝井さとる

逝きし父壊れゆく母元気な祖母 こんな人生仕組まれてゐた 田中律子

ひとことが足りない息子とひとことが多い母との溝は深そう あかり

離れたら忘れてしまふと抱きあひしあの時の右脇の鬱血 国森久美子

いやだいやだ学校はいや父の手に引き摺られ来る広太は今朝も 中本久美子

家事よりも向いているなり事務よりもずっと好きです黒板の前 森 富子

折りたたむ他には特に進歩なき二十世紀の雨具の歴史 松村正直

この場所が誰かの悲しい点である交差点で待つたび思う 藤田千鶴

菩提樹の大きな蔭に寄る人も静寂として描かれてをり 鈴鹿晴子

味噌汁に伊勢えび半分ぶち込んで妻と二人の我が誕生日 竹之内重信

担架かこみ搬送さるる妻とゐて烈しき揺れにただ耐へてをり 田附昭二

通過する回送電車に途切れたる話の続きを友はせざりし 久岡貴子

子も妻もおらぬ息子はどこまでも若者のままの青空が続く 谷口純子

氷川坂本氷川坂南部坂静かなり江戸の風吹くような 真隅素子

まだ誰もいない教室見計らい生徒の机に飛び蹴りをする 坂崎由明

人にボール当てて楽しきひと居るやドッジボールは固くて痛い 青木明子

曇天に心垂れ込むひと日なり『新月の木』確(しっか)りと読む 阿子島早智子

子の指の触れしほくろか並びゐる子の恋人の頬のほくろは 梅田啓子

稗粥をひもじき吾子に食わさんよ橋立女郎の青き狐火 小川良秀

畑にて草取る君に会ひしとき何も言わざり昨日自裁せり 加藤好男

槙の枝下りくる蛇と目の合いてともに見つめてしばし動かず 北村英子

みずからの名前を星につけるのが夢だといったあの子はいずこ 白伊沙和子

久しぶりに会ったあいつの顔色が俺よりよくて会話弾まず 西之原正明

レシートに熱帯魚の生き餌と記されし金魚我が家に太りてきたり 西本照代

タクシーの中いっぱいに豚マンの匂いをさせてむさぼる男 山崎一幸

改札にICOCCA(イコカ)の音のはじけ飛ぶ夕辺のラッシュのわが街につく 大木恵理子

稲妻の雨に走りて過ぎしより竹林の家に灯るあかりが 四本妙子

子を生まない予感満ちたり幻のごとくに子供が遊ぶ団地で 花山周子

 「塔」10月号赤丸歌の総数は874首。

 「短歌人」に比べて、「塔」の選歌にはいつも違和感をおぼえる。特に、会員諸氏の選歌欄評だ。選評でどれだけ褒められてても、僕はやっぱりつまらん、と思う歌が多いのである。僕の短歌観が、基本的に「短歌人」のほうに合っているのだろう。「短歌人」のセレクション欄には、僕が見ていい歌が多い。反して、「塔」の選歌欄評には、クエスチョンが山盛りである。たぶん、「塔」の歌人と僕とでは、短歌を鑑賞する視点が根本から全然違うのだろう。だからこそ、この「陽の当たらない名歌選」をやる価値があるのだと思っている。皮肉に言えば、私が褒める歌の作者は、塔では出世しない、ということかもしれない。ご愁傷さまであるが、歌壇での出世なんていう虚名より、僕の賞賛という実を手に入れるのであるから、皆様喜んでいただきたい。「塔」には気取った歌が多すぎ、また、選者もそういうものを優先的に採っている。もっといい意味で直截的な、肉体感にあふれた歌を採り上げていただきたいものだ。
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:54| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

2007年10月21日

905 柴山騎乗ミス、悔しい!〜来年も半袖〜

 菊花賞は俺をおちょくっておるのか。去年は三連複1、2、4着。今年は馬単、1着3着3着1着。馬鹿にすんな。ロックドウカンブはかわいそうだった。柴山く〜ん、俺は言ったろう?5、6番手追走で直線に賭けろと。なんやねん、12番手追走?アホちゃうか!アサクサキングスは五番手追走、理想的な位置。ロックはその後につくと思って、僕はこの両頭をど本線にしたのだ。要するに、2着に入ったアルナスラインの位置こそが、ロックのいるべき場所だったのだ。完全に足を余らせた。あの位置から届くわけがねえだろう馬鹿野 郎。もう、ロックのジョッキーは、アンカツかヨコノリに替えるべきだ。武でもいい。いつも通りの競馬をやっていれば間違いなく勝っていた。どたまに来るぜ。
 俺は、結局、馬単5点、馬連1点の6点勝負に絞って臨んだ。ロックとアサクサの一騎打ちと最終的に判断したのだ。この2頭を本線にして裏表にドカッと賭けたのに。去年に続いて俺の菊花賞の予想はほぼ当たっている。なのに負ける。悔しいいいいいいいいい〜〜〜〜〜!!!!!この2頭からの三連複やりゃよかったなあ。7点買いで済んだのに。ただ、前回も三連複で買ったから、2回は続かないという変なジンクスを思ってしまった。バカだった。ジンクスといえば、井崎と私の連軸馬は軸を外すということが今回も証明された。なんの根拠もないのに、どうしてだ!?それがジンクスだからかそうか。ああ、今日は悔しくて眠れそうにない。次は天皇賞秋である。そして、京都マイルCも控えている。この二つは私の勝負レースだが、実は、今年は密かにジャパンカップに賭けている。このレースの軸馬はもうすでに決めてある。絶対彼だ。多分、五番、六番人気だろう。JCは基本的にやらないのだが、今年は彼という存在があるので、やることにする。まさにJCは、彼のためにあるGTと断言してもいい。誰かって?乞御期待。
 菊花賞は俺をおちょくっている。来年こそはリベンジだ。

菊花賞二度と賭(や)らぬとつぶやいて明日から俺も長袖着やう 黒田英雄

 というギブアップ歌を作ったが、来年もチャレンジする。半袖を着て。
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最終判断

 菊花賞最終判断。馬単4−10、10−4、4−9、4−12、4−14、4−16、4−17、4−18。馬連、4−7、4−11、7−10、10−14、10−17。的中すればどれもぷらす。パドックで絞りたい。
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2007年10月20日

904 怪物誕生か!?菊花賞、前々日予想

 去年の三連複、1・2・4着の悔しさをバネに、今年はとにかく「的中させる」ことを第一義として予想する。去年ほどのハイペースではないにせよ、このメンツでは、スローペースはありえない。平均だが、ヨーイドンの上がり勝負にはならず、折り合いと、スタミナが勝負を分けるだろう。軸馬は、ずばり4番、ロックドゥカンブ。この馬の強みは、とにかく、精神的にタフだということだ。どんなペースでも折り合いがつき、我慢強く、そして器用である。前走のセントライト記念、揉まれながらも好位から見事に差した。距離が伸びれば伸びるほどいいという差し足だった。京都の馬場が少し渋る天気予報であるのも、有利に働くかもしれない。柴山騎手は、あまり前に行かず、6、7番手でじっくり馬を折り合わせて、直線勝負させるべきだろう。まさに、好位差し有利のレース展開なのだ。
 対抗は、10番アサクサキングス。ダービー組ではこの馬が一番怖い。先行すれば、京都競馬場は前が止まらん可能性がある。ただ、この馬を本命でなく対抗に落したのは、先行勢にかなり有力な馬が多いからだ。彼にとって楽な展開とはいえまい。穴は、まさに絵に描いたような穴馬、14番デュオトーン。いかにも馬力型のこの馬には合いそうなレース。そして7番、タスカータソルテ。こいつは、京都は走るよ。京都新聞杯では見事だった。菊に出れば面白いと思っていたら出てきやがった。要注意。12番、アルナスライン。この馬も面白いが、ただ、ローテーションがきつくなった。故に、紐に落とす。16番ドリームジャーニーは距離がどうだろうか。また18番ヴィクトリーも折り合いが難。このへんのダービー組は、ガミにならない程度の押さえ。17番、ホクトスルタンも面白い。横典がどんな競馬をするか見物だ。まだ、前売りオッズが出ていないのでなんとも言えないが、いちおう前日予想結論を述べる。
 前々日予想、結論。本線馬連、4−10。穴、4−7、4−14、4−17。やや厚めに、4−12。以下、4−11、4−16、4−18。タテ目、7−10、10−14、10−17。11点と多いが、当たれば勝てると思う。当然、当日消す買い目もあるだろう。
 ロックドゥカンブ、連対確率35%。低い?これには理由がある。なななななななんと、井崎脩五郎と本命馬が一緒なのだ〜〜〜!あの蝶ネクタイ眼鏡と予想がかぶった軸馬が、ことごとく連を外しているのだ。ロックドゥがこのレースにもしも勝ったとしたら、そのジンクスを終焉させるほどの怪物だったということは言えると思う。この馬の印象はとにかく賢いということだ。自分でレース展開を理解して走っているような気がする。その知性が、井崎と私の本命一致という呪いに勝ちますように。馬体重は、6キロは減量してきてほしい。カンブちゃん、がむばって〜〜〜。アンタは賢い馬だ。
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2007年10月18日

903 私の名歌鑑賞その3・相聞歌〜大松達知・吉川生夫・米川千嘉子〜

 私は、相聞歌が大好きだ。ただ、現代短歌で、ビビッとくるような相聞歌はまれである。近代のものですぐ思い出せるのは、例の北原白秋の超超有名な「君かへす朝の舗石さくさくと雪よ林檎の香のごとく降れ」くらいである。白秋の歌と並べるのもおこがましいが、ブログに何度も書いている「ただ一度〜」のほかにも僕にはこういう歌がある。

をのこにつく乳首の理由(わけ)を教へしはかの夜のきみの唇の円 黒田英雄

 僕のこの歌もまた相聞歌であることは説明不要であろう。がしかし、四十七でようやく歌を始めた私にとって相聞歌とは、どうしても性愛がらみのものになってしまい、どうしても、恋のはじめの初々しさに欠ける。正直言えば、昔の初々しい恋を思い出そうとしてもぜんぜん思い出せんのである。そんな中で、現代短歌にも、探してみれば私の腐ってひからびた恋心をよみがえらせてくれるいい歌が何首かあった。紹介する。

かえりみちひとりラーメン食ふことをたのしみとして君とわかれき 大松達知

 ああ、なんて懐かしい感覚だろう。実に初々しい、恋の始めの男の歌である。彼女との楽しいデートを終え、また会う日を約して別れる。そのまま家に帰る気はしない。一日中気を張って、ちょっとでもいい男に見えるよう背筋を伸ばしてきたのだ。いつもの、ラー油にまみれた、スポーツ新聞がちらかったラーメン屋で夕餉を取ることを青年は渇望する。いや青年は、最初からデートのあとラーメン屋に立寄ることを楽しみにしていたかもしれない。本命の彼女とデートのデートコースに、ラーメン屋を入れ込む度胸は、若ければ若いほどないだろう。彼は、ひとり立寄るラーメン屋で、今日の楽しかった時間を追憶して幸せな一日を終えようとしているのだ。わかるなあ。僕も、十代のころの恋愛を思い出した。いい歌だ。同じ作者の歌に、やはり初々しい、こういう相聞歌がある。

噴水のざわめきにこころみだされて愛を告白したり この場所 大松達知

 続いて、魅力的な相聞歌を挙げる。

はじめてのくちづけをへてあふぐときどこかでいつかみた空がある 吉岡生夫

 これもまた、なんと清新な相聞歌であることか。初めてのくちづけを交わしたあと、空を見たという。この時見えた空をどこかでいつかみた空、と言うのはこれは陳腐さや既視感を言っているのではない。絵画や、少年らしい芸術的な想像のなかで、何度となく体験していながら捕えることのできなかった感動をついに認識したという、恋愛の頂点でのみ覚えることのできる感動なのだ。恋するとき、自分たちは太古の昔からずっとこうだったのだと感じはしないだろうか。それは錯覚にすぎないが、そんな錯覚のない人生は砂漠であり、生きる意味がない。私は悲しいかな、ファーストキスをおぼえていない。もう最悪である。いったいぜんたいどこのどなたと、どういうシチュエーションでどういう接吻をしたんだか今となってはさっぱり思い出せない。なんせキスした女性がたくさんいるので(決して自慢で言っているのではない)。肝心の最初の相手が思い出せないとは、なんと私は不幸な男ぞ。この通り私は、初々しい相聞歌を詠う資格のない男なのである。

 さらにまた、こういう素敵な相聞歌もある。

白藤のせつなきまでに重き房かかる力に人恋へといふ 米川千嘉子

 たれ下がる藤の花の特徴をとらえて、みずからの恋心をたくしたいい歌である。下句がいい。恋心というのは、決して天空はるか舞い上がるものではなく、深く深く沈潜していくものである。なにかというと、流行歌などでは日もすがら、バカがバカに向かって、「負けないで光めざして上へ上へ世界でひとつだけの花〜」とかなんとかあほだら経をこいているが、真の恋、真に大切な言葉というのは内へ内へ、深きから深きへとしずんでいくものである。日向ばっかり向こうとするやつは人間のことも恋愛のことも少しもわからんアホである。藤の花が主役ではないが、僕にもこんな歌がある。

枝垂れ咲く藤の花より女郎花に思ひ焦がるる遊子ありしや 黒田英雄

 ………やっぱり、相聞というより性愛の歌だなあ。俺はどうしてこう、なんでもかんでも肉欲に結び付けてしまうのだ。諸君、このをじさんに、肉欲以前のあの初々しい恋愛の感覚を喚起させるような歌を読ませていただきたい。小島なおさんの歌は、そういった意味ではかなり、僕に新鮮な感動を蘇らせてくれる。彼女の歌には、エロスに裏打ちされた清純さがある。そこがいいのだ。歌人諸君よ。くれぐれも言っておくが、俺みたいなおっさんになってはおしまいである。清新な相聞歌などまず作れないであろう(泣)。
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2007年10月17日

902 諦念

「原爆の子」観しのち食べた支那そばの麺碼がどうして今ごろ泛ぶ 石原しょう子

 映画「原爆の子」は、昭和27年劇団民藝と、近代映画協会が提携して制作された、新藤兼人作品である。この映画のなかに、僕の印象に強烈に残っているシーンがある。それは、被爆した老人滝沢修が、バラック小屋で食事を摂るシーンだ。日常の挙措もままならない体の痛みのため動きは終始ぎこちなく、その不自由な四肢を震わせながらやっとのことで炊事をし、めしを口に運ぶ。この歌の作者にとっても、滝沢のこのシーンが強く印象に残り、なにかの拍子にそれがふと浮んできたのではないか。だが、作者が直接に思い出すのは、鑑賞後に食べたラーメンのメンマだという。ことさらに「麺碼」(こういう字を書くとは知らなかった。中国語でタケノコのことだろうくらいにしか)と表記されているが、それはナルトよりもチャーシューよりも、ラーメンにおいては存在感のあるトッピングである。特に桃屋のメンマが発売されるまでは、家庭ではまず食されることはなく、ラーメン屋のラーメンに乗って出てくるいわば「ハレの食べ物」であった。言うなれば、少女期の作者にとっての特別食である。その食の記憶が、滝沢修の壮絶な食事シーンとあいまって、もうひとつのハレの食事を思わせたのではなかろうか。もうひとつのハレ、とはもちろん、おそらくは遠からず苦しみのうちに死ぬであろう廃老人の、それまではとりあえず続けざるを得ない食事のことである。旧作邦画を短歌に詠うというのは大変貴重な試みだと思う。

吾が車の後ろを逸れしトラックより何かをわめく顔遠ざかる 橋本英憲

 作者は、難聴という困難を持った人である。歌の構成から言えば本人の運転している車のようだが、免許について詳しくないのでそのへんよくわからない。新聞で読んだことがあるが、聾唖者、あるいは難聴だったり聞きとりに困難のある人が一番困るのが、すぐに相手が「なんでお前はこっちの言ったことを無視するんだ!」と怒り始めることなのだそうだ。それには僕もおおいに共感した。なんだってまた、健康でコミュニケーションに不自由のない「正常な」連中というのは、「ひょっとしたら相手は耳が遠いのではないか」とか、「こっちの声が小さいか、発音が悪いのではないか」という想像力を働かせないのか。それでいてなにを無視されて怒ってるかというとだいたいにおいてたいした内容ではないのである。しつこく言うが「正常な、健全な人々」というのは本当に想像力がない!この作者も、幾度となくそんな災難に遭っているうちに、むしろ聴こえないことを天恵として、気にしない習慣がついてしまったのだろう。それは寂しいことでもあるが、ひょっとしたら人間は本質的に孤独であることに普通より早く気付くぶん、やはりそれは天恵であるのかもしれない。この歌にはドラマ性があり、非常に映像的である。そして、難聴者の悲しみと諦念を象徴する刹那を詠って印象深い。

いちどきりキャッチボールをしたときの原つぱにまだ父は佇(た)ちをり 久保茂樹

 不思議な歌もあったものである。なんとこの僕にも、河原でキャッチボールをしている親子を詠おうとしてやめたことがある。僕自身は父を早くに亡くしこの手の経験がまったくない。にもかかわらず、父と子のつかの間の交流、というシーンに強くひかれるのだが、それは僕が父性に飢(かつ)えているからではなく、むしろ父たることの不可能性にノスタルジーをおぼえるからだろう。息子とキャッチボールをしている男には、なんとも言えないたそがれた、家庭人と言うよりもどこか取り返しのつかないやるせなさが漂っている。そうじゃないそれは立派な父親像なのだと思う人は僕の短歌観とは関係ない人なのですぐにこのサイトを閉じて「家の光」かなんか読むがよろしい。
 この歌の不思議さは、父親とキャッチボールをしたのがたった一度きりであり、しかもその父はいまだその原っぱに立ちつくしている、という作者のイメージからきている。なんで父は二度とキャッチボールをしなかったのか。よほど家庭に親しまない男の気まぐれだったのか。あるいは父はよそに本宅のある人でおおっぴらに息子と遊べなかったのかまさかひょっとして宇宙人か。などと想像はふくらむが、「早くに亡くなってしまい、記憶のなかでいつまでも若いままの父」という解釈が好みで言えばいちばん好きである。父、というよりひとりの若い男が、その像を堕落させないままいつまでも草むらの向こうでグローブを持って笑っているのだ。夕日に輪郭はぼんやりとかすみ、そしてその死のありさまはなぜかどうしても思い出せない。刹那の持つ永遠性をうまく切り取った一首であると思う。どこか、やるせない悲しみを湛えた歌である。

 ほか、取り上げたい歌はたくさんあるが、一首を評するという作業は実に疲れるものである。三首だけでご勘弁願いたい。選歌した三十首を、読者おのおのが鑑賞していただきたい。わかってない人がいるといけないので念のために言っておくが、昨日の名歌選は6選者のうちの三人だけを取り上げたものである。すでに赤丸チェックは終わっているので、残り三人の選歌欄の名歌選は後日ということで。続けざまにやると読者が飽きるからである。後半戦をお楽しみに。
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2007年10月15日

901 「塔」10月号「陽の当たらない名歌選」と「歌ふ狸御殿」

 今月の赤丸歌、若葉集吉川欄95首。真中欄159首。栗木欄158首。計412首。

      塔10月号「陽の当たらない名歌選」その1

「原爆の子」観しのち食べた支那そばの麺碼がどうして今ごろ泛ぶ 石原しょう子

吾が車の後ろを逸れしトラックより何かをわめく顔遠ざかる 橋本英憲

初めての東京は雨国変えると気負い昂ぶり夜汽車に揺られて 大倉秀巳

なつたかも永田洋子にうすぺらに正義を信じた若き日のわれ 川崎香南子

あちこちに井戸がありたる少女期は井戸の底にも青空ありき 小山美保子

大根を厚めに剥きてゐるうちに大袈裟になりゆく怒りあり 山地あい子

次の忌は呼ばるることはないだろう妹(いもと)の夫は再びの婚 津野多代

ツキモノがついたか落ちたか四十にてファンクラブとふものに入りたり 遠田有里子

リビングのテレビを消せば広がりぬ時代を映す深き暗闇 吉田淳美

蓄へし知恵の量など計りつつ歌づくりすなり おお貸借対照表(バランスシート) 高見 徹

いちどきりキャッチボールをしたときの原つぱにまだ父は佇(た)ちをり 久保茂樹

雨くらく車の窓をたたき降るこのやまなみの底に道あり 金治幸子

夕闇に雨は溶けつつくろぐろとカンナ見えくる長き停車に 清水弘子

すべり台の裏を覗けば楷書にて百姓一揆と書かれていたり 乙部真実

振り込め詐欺に惚け役者を演ずれば「くそじじい」と電話切れたり 清藤勇吉

犬かばい犬の目線で見る雑踏オレも時どき吠えたくもなる 赤石森太

「晩メシは要らぬ」と夫の置き手紙の重石になりている青蜜柑 石原安藝子

宮城野の原に咲きたる鳳仙花美しかった防空壕傍 及川綾子

垂直な首筋を見せ新聞を読みおり時に聡明は寂し 黒沢 優

窓暗く雨ふりやまぬ日の暮れは候文のこいぶみが欲し 徳永香織

玉櫛笥(たまくしげ)ふたたび見たし微笑めばたちまち咲(ひら)く水原紫苑 中瀬真典

右肩を下にして寝るときの右の手は左の肩を掴むかたちに 西内絹枝

その頬を押えて泣いた日もあらん虫歯とともに楼蘭の子は 今岡悦子

論破してなほ残りたる怒りあり大の男に泣かれてしまひぬ 山下れいこ

アンネ・フランク遺品発見報じゐし画面変りぬ為替相場に 原 夏子

急いでる時に限つて入らないピアス 耳たぶがほてりはじめる 高橋香澄

コンサートの受付に立つ少女ゐてごゆつくりと髪の毛ゆらす 杉崎康代

念願の下水道遂に整備さる排水の音もせせらぎのごと 小澤光枝

命綱腰に結びて一方は夫に委ねて潜りゆく海女 森 敏子

      今日のMYビデオ
「歌ふ狸御殿」(昭和17年、大映京都、木村恵吾)高山広子、草笛美子、宮城千賀子、益田喜頓、伊藤久男、豆千代、美ち奴

 うひゃー、楽しい!まさに日本映画史上に輝くバカ映画の金字塔。いや、これは純然たるホメ言葉である。サトウハチロー作詞、古賀政男作曲によるこのオペレッタ映画は何度見ても飽きない。監督の木村恵吾は、1939年に「狸御殿」という映画を作っている。このシリーズの流れでこの第二作ができたのだ。森の音楽会の、カチカチ山組VSぶんぶく茶釜組の歌合戦も楽しいし、狸御殿でのシンデレラストーリーの歌の数々も心に残る。鈴木清順監督で最近リメイクされたと聞く。たぶん、CGを駆使した豪華絢爛な画面だったろうと思うが、オリジナルのこの素朴な能天気に果たして敵うものだったかどうか、見てはいないが疑問に思う。主演の高山広子は、この狸映画で一気にスターダムにのし上がり、当時は「狸女優」と呼ばれていたらしい。ところが、肝心のこのヒロインはいっさい歌を歌わない。ハスキーな低音は、当時は悪声と思われたのだろう。僕はいい声だと思う。まあ、彼女に歌を歌わせられない時代だったのだろうと思う。彼女は、今の女優に例えるならば斎藤由貴だ。まさによく似ている。
 僕は、この映画が作られた時代を思う。昭和17年、それは太平洋戦争真っ只中だ。こんなバカ映画が、この時代に制作、上映されたという事実に驚愕する。観客は、わずか数十分の娯楽に酔い、そしてまた戦時下の厳しい現実へと帰っていったのだ。この映画は大ヒットした。しかし、軍部は大激怒。この非常時なんたる不謹慎ぞと、監督を見せしめのように徴集し、戦地に送り込んでしまった。ひどい話だ。ファシズム下における日本映画は、第一期黄金時代と言える殷賑ぶりだった。もちろんそれは、検閲との戦いである。このことについてはまた書こう。
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2007年10月14日

900 「選歌の現場から」を読んで

 ふゆの様から、昨日の日記にコメントをいただいた。一読戦慄したが、内容はコメントを見ていただくとして、僕の抱いた感想は、日本人というのは基本的に、おぎゃーと生まれたからには誰もが生きる権利を平等に持っている、ということがわかっとらんのだなということである。こういうことを言うと、んなもんは奇麗事だ世の中は事実弱肉強食であり弱者必滅の世界なのだとわかったようなこと言うやつが必ず出てくるが、権利というのは自然現象ではなく概念である。概念であるからこそ、人間はそれを理性でもって意図的に、言い方は悪いが捏造し続けなくてはいけないのである。なぜなら、弱者の生きられない世界では強者も結局は生きられないからである。障害者「自立」支援法なる、矛盾と誤魔化しだらけの法律を持つ日本という国家は文明国ではない。障害者をはじめ、弱者が保護されるのは当然のことである。これは政治家だけの罪ではなく、日本においては健常者が、「なんでおらたちが役立たずのために税金おさめねばならねえだ」と内心思って恥じない習慣を持っているせいだろう。人間というのは、口に出されない内面にこそ良心の責任を負うべきなのに。「本音」こそは、理性によってきびしく管理されるべきなのである。日本は二十一世紀になっても、その意識は村落共同体そのものであり、村八分体質なのである。「役立たず」と言われる人間への対応こそが、文明のバロメーターなのだ。日本はその点において、三流以下であると言える。

 「塔」10月号が届く。まだぱらぱらとしか読んでいないが、特集「選歌の現場から」が非常に面白い。6人の選者のコメントを、うーむと唸りつつ読む。皆さん本当に真面目なのだなあと感銘を受ける。特に、真中朋久氏の、「絶対は無い」という文には、ここまで真剣に選歌に取り組んでいるという姿勢に感動した。何人のかの選者は、作者は採られなかった歌も大事にしていってほしいという意味のことを書いている。これには僕も大賛成だ。僕は、自分の歌が可愛くて可愛くてしょうがない。なかには、出詠したあとに、まだ改善の余地があったのにと地団太を踏む歌が多くある。
 かつて、「塔」にこういう歌を送ったことがある。

娘(こ)は母に息子は父に似るといふ父親(おや)知らずのわれ親知らず抜く 黒田英雄

 く、くだらん。送ったあと、われながら頭が痛くなり、万一採られたりしたら末代までの恥だと恐怖したが、その月の選者に当たった栗木さんは当然のことだが落してくださった。これを推敲して「短歌人」のほうに送ったのがつぎの歌である。

娘(こ)は母に息子は父に似るといふ父親(おや)知らずのわれに似るものはなし

 こっちは見事選歌された。誰が見たって改作後のほうがいいと思う。いや実は、全部は書かないだけで僕の場合こういうことは枚挙にいとまがない。だからこそ、送ったら全部載るわけではない選歌制度というのはありがたいのだ。この場合は最初から落ちてくれと願っていたが、そのほかにも、落されて初めて目が覚める、という作品も多くある。そういう歌は推敲を重ねたうえで、もう片方の結社に送るようにしている。そういう意味でも、結社はふたつ以上所属するのがベターだと思う。所属結社すべてにハネられたら、さすがにその歌は封印したほうがいいかもしれないが、それだって例外はある。

ただ一度唇(くち)より唇に含ませし夜の水のこと君知らぬまま 黒田英雄

 これなどは、すべての結社、送ったすべての短歌雑誌で落され続け、やっとのこと今は亡き近藤芳美氏に採っていただき、命を与えてもらえた。僕は近藤氏に深く感謝している。自分でいいと思った歌は、たとえ誰も認めてくれなくても絶対に捨てないほうがいい。ただし、あくまでこれは例外であり、基本的に選者の目というものを僕は信じたい。自歌の最初の読者である、選者という存在を僕はありがたいと思っている。明日から、お前の歌を全部載せてやると言われたら僕は困惑するだろう。こう言ったらバカみたいだが、僕は万一同人に昇格する日がきても、ずーっと選歌を受け続けたいと思っているのである。それだけ、選歌を受けるということは、自分の歌を見直すチャンスでもあるということなのだ。
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2007年10月12日

899 美しい国=餓死者の群

 日銀が、今月も利上げを断念した。あたりまえである。消費者物価指数は7か月連続でマイナス、企業収益は上がっているが、給料は下がり続け、庶民にその恩恵はまったくない。今のこの世にインフレの懸念がどこにある。たしかに、ガソリン代は上がっているだろう。あるいは、カップラーメンなどの日常品の値段は多少上がりはしている。が、とてもインフレを懸念するほどの値上がりではない。しかし、福井日銀総裁は、なんとか利上げしようと必死である。また、水野某という日銀のバカ委員は、日本がどんな状態であろうととにかく利上げ利上げ利上げバンザイの大バカものであり、なんでこんな低脳が審議委員に入っているのかさっぱりわからない。このバカは、経済界のタカ派と呼ばれているらしいが、タカ派なるものがどこの世界でもバカばかりなのがこのことをもってしてもよくわかる。僕は、向こう2年間は利率は据え置きにすべきだと思っている。それほど、日本経済が陥っている状況は深刻だ。利上げをして嬉しい人などどこにもいない。なんで福井と水野が利上げ利上げと騒ぐかというと、利率が低いと欧米諸国に対してみっともない、というただの見栄なのだ。戦前の日本を見よ。東北の村の娘が身売りしなければ一家が餓死するという状況でありながら、「我が国は一等国なのだから」とわけのわからんことを言ってGNPの実に50%を軍事費に計上していたのだ。さすがに、いまどき身売りする娘(まあ自発的にするのもいるが)はいないとしても、今利上げをすれば、中小企業の倒産が相次ぐだろう。
 今は、諸外国への外づらなんぞ考えて利上げしとる場合か日本。悲しいかな、この世界に冠たる一等文明国において、餓死者が続出しているという。要するに、病人やなんらかの事情があって貧困に陥っている人々に対する生活保護の打ち切りである。北九州では、役所のマニュアルに、生活保護を打ち切るまで人を追い込むやりかたが書いてあるそうである。これでなんの一等国か。国民がばたばた餓死に追い込まれる文明国なんてもんがどこにある。要するに、オカミの手をわずらわせるだけで税金もしぼり取れないような相手はとっとと死ねというあからさまな政策なのだ。なにが利上げだバカ。福井、水野、てめえ、私財を投じて餓死しそうな人々を救ってからものを言え。
 シビアに世界経済を予想する。今ときめくサブプライム問題。これはもう、底を打ったと僕は判断する。さらなる負債の発生が明らかになったとしても、米経済界は、これ以上の落ち込みを見せないであろう。むろん急激に伸びることはないだろうが、落ちることもないと思う。米の、雇用者統計がマイナスだったにも関わらず、ニューヨークダウは好調である。僕は、10月中にもう一回、日経平均が大幅ダウンすると予測していたが、これはどうやら外れそうだ。たぶん、17300円前後の揉み合いがこのまま続くだろう。揉み合いとはつまり、上がりもしなければ下がりもしないということだ。僕は、経済投資を始めて二年10か月経つ。この間、世界同時株安(逆に儲けた)や、サブプライム問題が生じた。このうち、後者を僕は特に重要視した。僕の、この経済感覚の鋭さは、母親の血統かもしれない。知人に言われた「競馬で回収率80%もあるなら経済でも勝ちますよ」という言葉で投資を始めたが、たしかに、馬の気持ちよりも人の気持ちのほうがわかりやすい。競馬はつくづく難しいと思う次第である。
 それにつけてもだ。餓死者のニュースを見るときにわきあがる得体の知れない怒りは、行政に対するものばかりではない。唯々諾々と、役所の意向に乗せられ、町なかに住んでいるというのに近所の人に助けも求めず、静かに黙って死んでいった当人たちに対してもそれはある。これが日本人の心性なのだ。日本はいまだに楢山節考の世界に住んでおり、「おらのような余計ものは村のためにならねえだ」と思わされたものは黙って山のなかへ消えてゆけ、当人もそのほうが負担を感じないでいられる、という、人権意識のかけらもないムラ社会なのだ。これが欧米であれば、ハジかれた者はハジかれた者として、泥棒でも強盗でもなんでもやって生きようとするのではないか。アメリカの治安の悪さは困ったものだが、「社会の要請に従って」素直に死んでいく人々を見ると、まだ治安が悪いほうがいいような気がしてくる。見えない圧力におされてカミカゼ特攻をかます心性と餓死者のそれは通底している。まったくもって、日本は戦争に負けてなにを学んだのだと言いたい気持ちである。
 日銀の、次の利上げはズバリ、来年の2月であると僕は予想する。このバカどもが!
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2007年10月11日

898 藤原龍一郎氏HP休止と「短歌ヴァーサス」廃刊

 藤原龍一郎氏のホームページ「抒情が目にしみる」及びウエブ日記「夢みる頃を過ぎても」が休止となるそうである。これによって一番困るのは、文学のことを語り合いたい訪問者たちであろう。文学音痴の私も、ときどきのぞかせてもらっていた。が、はっきり言ってちんぷんかんぷんであった。もちろんプロレスの話やお笑い話題もあり、そうした書き手たちも淋しいことであろう。藤原さんは、多忙に理由にあげているが、果たしてそれだけであろうか。
 ネット発信というのは、どこか、真っ暗な海に文字通り網を放つことに似ている。手ごたえは確かにあり、魚がたくさんかかっているな、という感触はあるのだが、引き上げたときにはいつもの、おなじみの魚が数匹残っているだけであり、結局は少数の「おなじみさん」ばかりがビクに入ることとなる。海にはいっぱい魚がいるし、彼らが待っているのもわかっているのだが、やはり同じことが何年も重なると、なんとも言えない徒労感がじわじわと忍び寄ってくるのである。藤原さんにもそれはあったのではないだろうか、と推測するのだ。いずれにせよ、個性的な短歌のサイトというのがこれで一つ消えることになり、ネット上歌壇はますますつまらなくなることだろう。藤原さんのサイトがなくなれば、僕が熱心に読むのは青磁社の「短歌時評」のみとなってしまう。つまらないことだ。私も、この低俗な「安儀素日記」を閉鎖しようかと思うことがときどきある。もっともそれは、俺が勝手に藤原さんに対して憶測したような複雑な事情からではない。私は徹頭徹尾形而下でしかものを考えない人間である。ネット発信することの意義はアクセスしてくれる人数でしかはかれないと思うので、月間訪問者数が3000人を切り始めたら、そろそろ潮時だと感じるであろう。僕がブログを閉鎖するとしたら、そうしたわかりやすい理由からでしかないだろう。要するに、自分の日記を誰も読む人がいない、という現実に素直に対処するまでなのである。
 ひとつのサイトが休止するかたわら、ひとつの雑誌もまた休刊する。先鋭的な誌面作りを謳っていた、「短歌ヴァーサス」である。先鋭的は自称であり、僕にとっては、なんとも煮えきらない雑誌だった。枡野浩一や穂村弘の特集もこれで読んだが、ありていに言っててんで面白くなかった。特集の対象となる歌人の年が若いというだけで、既成の短歌総合誌とやってることが変わらないのである。いろいろ言葉をこねくり回してはいても要するに褒めてるだけであり、全否定にまで及ぶほどの熾烈な批判を載せるなどして歌壇の問題を浮き彫りにする、という努力がまったく見られなかった。また、もしも斎藤斉藤の「渡辺のわたし」の大特集が組まれるとしたら、この雑誌をおいてほかにはなかったであろう。加藤だの穂村だの、ある程度評価の固まったのを相手にしたってしょうがないのである。また、知名度がなくとも、編集部が積極的に若手歌人をピックアップしてプッシュする、ということもなされてよかったのではないだろうか。僕が編集長だったら田中雅子や有友紗也香、堀越貴乃などを取り上げたであろう。そのほかにも、結社誌を見ればいくらでも有望な歌人が野におかれたままでいるのがわかるはずだ。歌壇の異端児たることを目指したのであれば、枡野、穂村はすっとばし、無から有を生むごときアクロバットを決めるべきであった。その点、いまだに、とっくに死んだ中井英夫が偉いと言われ続けるなんぞ、情けない話ではないか。短歌ヴァ―サスなんぞ佐藤真由美なんていうゲロが出るほどくだらないのを載せくさって、持ち上げたわけではないが、あんなのは載せるだけで犯罪である。要するに、有名若手歌人を無責任にヨイショしただけで、戦略というものを全く欠いた編集であった。不定期刊を重ねたあげく廃刊になるのも当然だったろう。
 ただ、物事すべて悪い面ばかりではなく、この雑誌は歌集のオンデマンド出版といういい前例を作り上げた。松木秀の「5メートルほどの果てしなさ」を出版し、彼に現代歌人協会賞をもたらしたことは、この雑誌の勲章と言っていいだろう。このシステムまでが一緒になって消えてしまうとしたら困ったことである。
 何度も繰り返しているが、ブログにしろ雑誌にしろ、まず「読者を確保する」努力なくしては何事も始まらないのである。読者にアピールすることを意識して、あざとさをもいとわない、そんな書き手が歌壇に何人いるだろうか。思いつくのは笹公人氏くらいである。多少面白いことを書く歌人がたまにいても、ちょっと2ちゃんねるでからかわれたくらいでどっとへこんで沈んでしまう。打たれ弱いにも程がある。私みたいに、けなされればけなされるほど舞い上がって大喜びするようなバカが増えなければ歌壇はダメである。歌人ども、ええかっこすんなよ。短歌をやってるなんぞ自慢できた話ではないのである。自らの暗部や恥部をさらけ出して喜ぶ自虐者の趣味であると心得るがよろしい。実際そうだろうが!

      今日の一首

その人は長き廊下のある家に育ちたるゆゑ嘘が下手なり 栗木京子
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:34| Comment(0) | TrackBack(1) | 日記

2007年10月09日

897 ごまかし

 私は、実に気難しい人間だ。その傾向は、年をとるごとに顕著になってゆく。私は、まともな家族生活などできない人間である。私の大っ嫌いなもの、それはテレビの音だ。私はテレビが大嫌いだ。とくに、あの馬鹿馬鹿しいバラエティ番組の騒音が耳に入るたびにどたまに来る。とくに激怒するのは、風呂に入っているときにテレビの音が聞こえることだ。こんな不愉快なことはない。一度、俺が入浴中に妻がテレビをつけていたので、「うるせえぞてめえ消せ馬鹿野郎」と怒鳴ったことがある。我が家では、まずテレビは見ない。夜、二人でいる時など決してテレビなどつけさせない。妻は超能力だのUFOだのくだらないものの出る番組を見たがるがいっさい許さない。とにかく、テレビから流れる、あの白痴的な笑い声が、俺は我慢できないのだ。昔よくあったホームドラマだって、音が聞こえようものならぞっとしたものだ。な、なんと、六、七人で食卓を囲んでメシを食っているのである。気色が悪いといったらない。今でも、十何人もいる馬鹿ヤンキーの家庭を追跡する番組とかあるが、どんなホラー映画よりも俺には恐怖に満ちている。ひとりっ子が兄弟の多い家庭に憧れるという話を聞くが、俺に言わせれば絶対ウソである。人間というのは、生まれた環境からは逃れられない存在である。俺はだいたい、幼いころから晩飯は一人で食うものだと思っていた。それが少しも苦痛ではなかった。あんな、六人も七人も雁首を揃えてメシを食うなんぞ俺には耐えられない。また、ひとつの家に人間が五人も六人もいるということ自体俺には恐怖である。ほんまにぞっとする。その象徴がテレビだ。やたらと「家族」をありがたがりやがって、推理ドラマの犯人の動機は90%が母性愛、コマーシャルの決まり文句は「みんなどこかでつながっている」(おえええええ)とかなんとかいう寒気のするフレーズである。初代テレビっ子とも言える俺がこんなことを言うのもおかしいが、リバウンドとも言うべき現象だろう。
 俺が見るテレビ番組、これは決まっている。競馬中継と、日曜日の「なんでも鑑定団」の再放送、ビデオで見る「朝まで生テレビ」と「クロージング・ベル」。そして、最高なのは、これこそショーの傑作と思う、テレビ東京の大食い選手権。これは、数多い凡百のバラエティの上に屹立する最高のショー番組である。よく、「識者」なるものが、「アフリカに飢えた子供がいるというのに」などという馬鹿をぬかす。こういうのは、現代文明社会に住んでいながら過食の罪から逃れるすべがあると思うエコロ馬鹿であり、飽食と飢餓の関係をはきちがえたえせヒューマニストである。大食い番組のせいで子供が飢えて死ぬわけではないし、どうせこいつらだって山ほど食い物を捨てているのだ。その点、大食い戦士たちは残さずぺろりと平らげてくれて、実に美しい。これは、いいショー番組だ。
 閑話休題。もういいかげん、家族幻想というものに終止符を打ってもいいのではないか。俺は、家族幻想に束縛されて子供夫婦らと暮らさせられる老人を気の毒に思う。一般的な老人のイメージというのは、孫は目に入れても痛くない、といったものであろうが、そんなことはないと俺は思う。おおかたは、「いいおじいちゃんおばあちゃん」の役を演じさせられている、家族幻想のあわれな囚人なのだ。欧米では、ある年齢まで行ってまだ両親と同居していたりすれば、独立心のない、インディペンデントでない人間と見なされて一人前扱いされないし、親のほうも、保護の必要な老人みたいに扱われたら腹を立てる。それだけ、「一人で生きられる」ということが人間の大前提としてあるのだ。ところが日本では肝心の息子や娘が家を出て行かない。自立を前提として社会ができておらず、それをごまかすためのいびつな家族幻想である。どう言おうとごまかしはごまかしであり、実質的には崩壊していると言えるが、僕に言わせればそれは決して悪いことではない。人間は本質的に一人なのだ。そのことを直視せず、いたずらに家族家族と幻想をあおり立てるな。
 僕は、年々人間嫌いになっている。特に男が嫌いだ。僕の気難しさを知っている妻は、僕が他人と接しているところを見ると、「なんて外面のいい野郎だ」といつもぬかしている。悲しいかな、僕はつい人に気を遣ってしまい、だからこそ人と会いたくないのだ。僕と暮らしていけるこの妻は、まさに奇跡の存在と言えるだろう。妻は俺のことを自分にとっては「白馬の王子様」だと言うがおそらく頭のネジが三十本くらい飛んでいるのだろう。これからは、俺みたいなわがままな老人が増えていくはずである。老人というものを、これまでの常識で計ることのできない時代が迫りつつある。しかし、一言言っておく。私は、女性と会うことは好きだ。スケベな意味ではない。世の中、女性と話をしたりいたわったりするのは嫌いで性交だけしたいという馬鹿が多いが私はまったくの逆である。おそらく、根っから女性という存在自体が好きなのだと思う。なぜだろう?
ニックネーム 茶トラのみんく at 21:41| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

2007年10月08日

896 快勝!京都大賞典完全的中!!

 京都大賞典、ど本線1070円大的中!!私は、今日はリアルタイムで見ることができず、馬券だけ買って、ついさっきビデオで確認したばかりである。もう、大興奮だ。今、勝利の美酒を味わっている。パドックで、三連複の本線だったファストタテヤマをマイナス16キロで思い切って切る。また、4番マキハタサイボーグも切った。インティライミ、ポップロックの3着候補として、五番アルナスラインをど本線にし、以下、7番ダンスアジョイと、2番デルタブルースを買った。ショクン、見たかね?結果は、1着インティライミ、2着ポップロック、3着アルナスライン、4着ダンスアジョイ、5着デルタブルース。ワカル?完全的中である。もう、最高の気分。いまだに興奮が冷めない。前回のオールカマ―も、準完全的中だった。
 僕は、京都競馬場が好きだ。相性がいい。これには理由がある。京都は、平坦コースで有利不利がない。実力馬が実力通り勝つし、調子のいい穴馬はそれはそれでまた勝つのである。それを見極めるのに、最適の競馬場だろう。今回で言えば、アルナスラインやダンスアジョイが、ちゃんと3着4着に来てくれるということだ。もちろん、それを予想するには、力がいるが。さあ、次回は菊花賞だ。去年は、大外ソングオブウインドを私は穴馬に抜擢した。見事一着だった。しかし肝心の、一番人気メイショウサムソンが4着に破れ、三連複1着2着4着という結果に終わった。この悔しさはいまだに忘れない。絶対、今年はかたきを討つ。競馬の神様は、真面目にレース予想をしている競馬者に必ず還付金を与えてくれる。私は、今年、春・夏競馬を負け過ぎている。秋競馬は完全に還付金モードだ。

菊花賞二度と賭(や)らぬとつぶやいて明日から俺も長袖着やう 黒田英雄

 去年、菊花賞惜敗のあと、こんな歌を作った。とんでもない話だぜ。今年は勝つぞ〜〜〜!そして、天皇賞(秋)も勝つのだ。なんせ、競馬の神様が、俺に還付金を下されようとしているのだから。私の秋の競馬予想は、注目である
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2007年10月06日

895 少頭数?聞いてないよ〜。京都大賞典GU前日予想

 え〜、10頭だけかよ!俺は、15、6頭は出ると思ってたのに。中心馬は間違いない、6番、インティライミである。このレースには逃げ馬がいない。要するに、チョウチョに追い越されそうな超スローペースということだ。33秒台の末脚を持つこの馬が絶対。だから、馬連で勝負しようと思っていた。しかし、10頭じゃ話にならねえよ。そこでもう一頭の人気馬、3晩ポップロックを検証する。この馬は、上がり33秒台の瞬発力勝負にはまったく合っていない。なだれ込みで勝つ馬だろう。しかしながら、このメンバーでは、3着以下ということはありえない気がする。近走、強敵相手に勝負できているのもこの馬だけだ。ペース、コースは合わないだろうが、このメンバーで4着以下ということは考えられない。僕は考えた。インティライミから馬単勝負するか、あるいは、インティ、ポップを軸にした三連複で勝負するか、である。結果は、後者と決めた。配当的にそのほうがいい。
 三連複勝負なら、本線は9番、ファストタテヤマだろう。3着に粘りこみそうだ。穴馬は、4番マキハタサイボーグ。ペースはこの馬には全然合わないが、しかしながら、京都2400で3勝という実績は無視できない。五番、アルナスライン、3歳馬にしては器用な馬。3着粘りこみも十分考えられる。そしてもう一頭、7番、ダンスアジョイ。いかにも京都、芝2400は合いそう。てなわけで、私としては珍しく、三連複勝負としたいと思う。なお、人気馬1番トウショウナイトは消す。この馬を買ってたら、儲からないからだ。京都2400は、この馬に合ってない気がする。だから、思い切って消す。
 前日予想結論。三連複本線、3−6−9。以下、準本線均等に、2−3−6、3−4−6、3−5−6、3−6−7。これで当たると思うけどなあ。こんなうまい買い方、ほかにはないと思うよ。
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:16| Comment(4) | TrackBack(0) | 日記

894 儀式〜名誉を求める文学ではない。

「かけがえなき命を生きよ」小鳥ほどの軽い命に生まれたかった 生野 檀

 この作者の歌は、世間との関わりを断っているかに見えて、実は非常にアグレッシブなものを内包している。自殺者年三万のこのすばらしき美しい国において、メディアもポップスも死ぬな死ぬなの大合唱である。アニメ映画は「命を粗末にするやつなんで大嫌いだー!」(すでに古くてすまん)とがなり、自殺関係の書籍は「いかにして防止するか」ばかりにページを割き、政府は自殺防止なんとか予算を計上するが、誰ひとりとしてなんで死んではあかんのかを論証してはくれない。かけがえがない、と言うのならそのへんをのたくっているバイキンの一匹だって同じである。人間から見て全部同じに見えるスズメだって一羽一羽はオノレの遺伝子を残すために卑怯卑劣な戦略を持つ。それはどの命も価値があることを意味しない。とある戦争映画の鬼軍曹がこんなことを言っていた。「俺は白も黒も黄色も差別はしない。皆平等に価値がない」。爆笑しつつ、それこそが存在の本質であると観客は痛感するであろう。生きる意味とは本来的なものではなく、押し出しの強いやつが自分のためにでっち上げるものである。とかく自殺を止めたがる連中は「残された者のことを考えろ」と言う。かねてからの疑問だが、そもそも当人の生きる支えになってない「残された者」になんで気兼ねして無理に生きねばならんのか。
 極論であることは承知しているが、「アナタの死に傷つく誰か」の存在など気にせず、猛禽に食われて終わってしまう生命であったらどれだけ気楽か、そんな作者の気持ちが痛いほど伝わってくる一首である。死に至る病、とは実は絶望ではない。無駄な延命治療のようにむなしく与え続けられる希望こそがそれである。

この暑き日々を如何にと亡き吾子の友より届く一通の文 関根静江

 一見、読み過ごされそうな歌だが、僕はこの一首に深いドラマ性を感じた。死んだ我が子の友達からの暑中見舞いが届いたという。普通、死んだ友達の母親に、当の友達が死んで時間がたってから、連絡を取るということはまれであろう。ただ単に筆まめなだけなのかもしれないが、これをファーストシーンとすれば、非常に奥深い映画ができるのではないか。みんみんと蝉が鳴いている真夏。すでに喪服ではないが、まだ喪の雰囲気をまとった初老の女性。初登場がいきなり遺影な若い俳優。そこに舞い込む一通の手紙。それを見る母親の脳裏にこみあげるドラマ。内容はなんだかわからないが、もし僕が監督なら絵コンテをがしがし書いてしまいそうだ。実に感慨深い一首だ。ドラマ性とは、無理矢理大げさなことを詠うことではない。こういうなにげない一首にこそ立ち現れるものだ。シチュエーションは異なるが、高林陽一監督「本陣殺人事件」が、事件から日にちが経ってからの葬列のシーンから始まり、回想へと移っていくことをこの一首から想起した。

寝る前の儀式がひとつ玄関の戸を開け向かいの明かり見つめる 戸川純子

 これも実に不思議な歌だ。僕も子供のころ、母に無理矢理命じられ、夜中に犬の散歩をさせられたことが何度かある。そのとき、習慣で、いつも向いの家の灯をぼんやりと眺めていたものだ。作者は、向かいの明かりを見つめることが儀式になってしまっているという。これにはおそらく、深い意味はないであろう。ただ、現代人が持ちあぐねているある祈りの感覚の対象の役割を、なんてことのない電気の光が作者対して果たしているということではないのか。考えてみればいくら信仰の対象であろうとも、太陽も月もお星様も全部ただの物質が光っているだけであり、神社仏閣にいたっては織田信長ではないがまさしく単なる土と材木である。それがあからさまになったとき、人は改めて自分の心をたくす対象を自分で見つけるのかもしれない。
ところで、私の母は、犬好き。私は猫好き。ここに最大の悲劇があった。うちには猫がいたが、母はミケのことを、ネズミ捕りの道具としてしか考えていなかった。なんか、その時代のことを、ふと思い出させてくれた、不思議な歌である。

色々の歌集を読んで有名に成りたい人の悲鳴ききたり 大畑敏子

 わはははははははははは。
 もしも大間違いだったら作者である大畑さんに悪いのだが、ものすごく簡単に言って僕は、「歌集を出して歌壇でのし上がりたい人はみっともないなあ」という意味にとってしまうのだ。歌集が出る。あとからあとから出る。いらんと言うのに送ってくる。俺に送ってどうすると言うのだ。中には、「ブログで取り上げて下さい」(よろしかったら、などという遠慮すらない)なんてのもある。ええいさがれさがれ、おまえらひょっとして、「本を出しさえすればあとは自動的に上に行ける」とでも思っとるのとちがうか。だから身銭を切ってまでくそつまらない歌集を出すのか。自費出版の出版社なんてあれは悪徳不動産屋と一緒であって、金だけ貰ったらあとは知ったことではない。僕はよく知っている。そして、そうやって無理に出版される歌集の内容がつまらなければつまらないほど、読み手には作者の歌心ではなく、「有名になりたいようなりたいよう」という無駄なあがきばかりが伝わってくるのだ。喪前ら、一発逆転を狙ってるのであろうが、一発逆転するためには満塁にしておかねばならんのだぞ。この歌の作者は、「いっぱい歌集送られてくるけどどれもつまらん」ということを遠回しに言って余計に残酷、という絶妙な技を使っている。わざとじゃないだろうが。短歌というのは、有名性や、名誉を求めてやる文学ではない。ひたすら、自分を詠うこと、自分にとっての「幸福な少数者」を充実させること、それ自体が目的であり、賞を獲ろうとか、バカにも受けようとか、そんなのは下司の浅知恵である。どうせこんな奴らが多いのであろう。自分とはステージの違う優れた歌人を探そうともせず、「先生」受けや「歌会」受けがするだけのオノレの歌を先生お墨付きで歌集にして、どこだかさっぱりわからん「上」へ行こうとする、そうすれば自分のみみっちい人生が報われる、と思う連中が。
 繰り返すが、短歌というのは世俗的な名誉を求めるための手段ではないのである。
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:41| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記