2007年11月29日

923 激怒!!〜選歌でわかる歌人の価値〜

 「短歌人」十二月号の「三角点」欄で、気になる記事があった。水島和夫氏の寄稿された、「『現代短歌を観る』を読む」である。これは、存命だった坪野哲久を中心に、昭和五十三から結社誌氷河に、哲久のほか富田昭二、国定祐一らが、角川「短歌」誌に載った主要作品を俎上に上げ、批評したものをまとめた本であるらしい。現物を読んではいないが、水島氏の紹介をざっと読んだだけで、正直僕は、ど左翼歌人の並べたてたクズ評論本だと思った。そう思った根拠は、松平盟子の次の歌を、「語を極めてすさまじく批判」しているそうであることにある。

春ゆふべ千万の竹なま臭く青きからだとからだ打ち交はす 松平盟子

 これは、「異本『六条御息所の御歌集』補遺」という連作のなかの歌であるらしく、評者たちは、連そのものをけなしまくっているらしい。しかし、取り上げられたこの歌、実にいい歌ではないか。六条御息所といえば、源氏の高まんちきな女房(奥さん、のほうであって女官ではない)に生霊となってタタルほどの情念ゆたかにして悲しい女性である。その年上女の情念を、松平盟子は見事にとらえている。また、滝耕作という歌人の、「誕」一連に対しても、「興味本位の歌ばかり」と手厳しく批判しているらしい。次の一首をぼろくそに言っているのだそうだ。

産台にのぼりて膝をひらきいる妻の正面にためらわず立つ 滝耕作

 これも、究極の肉体感覚を詠った秀歌だと僕は思う。また、この評者どもは、葛原妙子や河野愛子の作品にも手厳しい批判を加えているという。こういうバカ評者どもがいるから、短歌はいつまでたってもポピュラリティを持たないのだ。僕は、単純バカの右翼はもちろんだが、それと同じくらいど左翼というのが大嫌いだ。こいつらはまさに、文学の敵と言っていい。原理主義的な右翼と左翼と宗教屋、こいつらは芸術の破壊者と言っていいだろう。成瀬巳喜男の名作「浮雲」を、当時の左翼評論家どもは、「こんなだらだらした汚らしい進歩のない男女を描いてけがらわしい」と無茶苦茶な批判をしたのだ。しかし、そのみっともなくだらしなく惰性に満ちた腐れ縁の中に、恋愛の真髄が描かれており、それこそ芸術というものではないか。進歩発展向上のどこに文学的な美がある。そんなもんはただのスローガンであって、芸術とはなんの縁もゆかりもない。俺は、坪野哲久など、歌人とは認めない。歌というのは、何年かやっていればそこそこのものは作れるのだ。しかし、歌人の本性が現れるのはじつに選歌にあると言っていい。そこそこの歌を作ったやつでも、選歌が下らなければ俺は思いきり軽蔑する。多分、坪野、富田、国定の三馬鹿には、歌を読む才能など無いのではないか。こいつらは、短歌における大事な要素である肉体感覚を全く無視した、ダメな評者である。もしも、中城ふみ子が長生きして角川「短歌」に載ったとしたらさぞかし、このど左翼のバカどもは、「セックスのことしか考えてない」とかなんとか、ぼろくそ言ったことだろう。
 僕は、選歌というものを重視している。歌人の資質というのは選歌にあるのである。そこそこの歌を作っていても、選歌がダメな歌人は二流歌人だ。俺は注意深く見ている。知名度はあるが選歌がダメな歌人も何人もいる。こいつらがまたふざけたことをほざいたら、当ブログで徹底的に糾弾する。
 ところで、結社によっては、会員の私生活にまでチェックを加えて差別するところがあると仄聞したが本当のことだろうか。具体的には書けないが、いわゆる、あまり社会的倫理的に名誉とされない裏商売などについている会員が除名されたりすることもあるという噂だ。もしそれが本当なら歌人どもよ、オメーらいったい何様のつもりだ。歌というのは、絶望の果てから生まれてくるものではないのか。職業には関係ない。むしろ、不名誉な職についている人がその日常を詠うほうが生々しくていいではないか。著名な歌人の大半は教師だとかなんとか先生だとか、あまり面白みのない生業を持つ、歌人としての限界の見える人ばかりだ。歌を詠むからって偉そうにすんな。歌を詠むということ自体が、自意識のストリップをする河原乞食であると天下に晒したようなものである。威張れたものではない。

      今日のMYビデオ
「祭りの準備」(1975年、綜映社=映画同人社=ATG、黒木和雄監督、制作・大塚和、三浦波夫、脚本・中島丈博、撮影・鈴木達夫、美術・木村威夫、音楽・松村禎三)江藤潤、原田芳雄、馬渕晴子、ハナ肇、竹下景子、石山雄大、杉村美樹、桂木梨江、三戸部スエ、浜村純、前田昌明、原知佐子、阿藤海、湯沢勉、江沢萌子

 これは、僕がリアルタイムで観た日本映画のベストワンである。以前、この日記でこの映画のことを書いたので読者諸氏にはぜひ再読し、できたら映画も鑑賞していただきたい。

http://hideo.269g.net/article/543150.html

 原田芳雄の、ラストシーンにおける「バンザーイ、バンザーイ」は、日本映画屈指の名場面と言えると僕は思う。バカ左翼評論家どもにこの映画の良さはわからんだろう。バカどもめ。
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2007年11月27日

932 鶴田伊津「百年の眠り」六花書林〜歌集の差別化〜

 「短歌人」12月号を読む。鶴田伊津歌集「百年の眠り」の単独特集が載っており、三人の歌人が執筆している。歌集の評の特集などいつでもどこでもやっているではないかと思うかもしれないが、結社が自ら押し出したいと思う歌集を特集するのは、実にめったにないことであり、結社がこの歌集を世に問うという意志を持ったればこそ、三人のうちの二人の評者を外部に求めてまで原稿依頼をしたのではないのか。これは大事なことである。普通、結社誌に載る歌集評というのは、およそ偏りがなくていけない。どの歌集のためにさくスペースも似たりよったり、そこそこに気をつかい、一つだけを持ち上げないような均等化が計られているように見える。だから、読んでいてあくびが出るのだ。編集部側に一押しの歌集があれば、あたりさわりのない褒め言葉の応酬で誌面を無駄にせず、「これがわが結社の有望歌人」と思い切り偏った特集を組んでしかるべきだろう。僕は、短歌編集者たるものはこれすなわち推すべき短歌、歌人、歌集に対する絶大な好みと方針と哲学を持ち、よろしくこれを世に喧伝すべきものだと思う。批評の平等な分配、というものが歌壇をダメにしている根底にあると僕は考える。歌集紹介に差別や偏りがあるのは当たり前ではないか。みんな平等にホメてどうする。「これがいい」と本気で編集部が思ったものを取り上げることが大事なのだ。実際、この「百年の眠り」はなかなかいい歌集なのでは、と思わせるものが今回の特集にはあった。歌集の特集はしょっちゅうあるが、結社が本当にリキを入れているのだな、と思わせられることは珍しい。こういうことが大事なのだ。
 僕は、一冊の歌集のみの特集ということがどうしてできないのか、いつも不思議に思っている。膨大な数の歌集が毎月毎月出版される。その中で、一押しと思うものを取り上げ、特集するのは短歌雑誌の義務だと僕は思う。何度も言って恐縮だが、加藤治郎の「環状線のモンスター」がなぜ単独特集されないのか、僕は不思議でしょうがない。これは、賛否両論の嵐が巻き起こってしかるべき問題歌集だと思う。賛否の否は、俺が喜んで書くと言ってるのに。毎月発行される膨大な歌集の中からこれはと思うものを選び出し、リアルタイムで(それこそ出て数ヶ月後なんてのは話にならない。次の週くらいでちょうどいい)批評の俎上に乗せることがなんでできない。評価の定まった古っちい歌集の分析なんてもうお腹いっぱいだよ。リアルタイムで出されている秀逸な歌集を選別し、取り上げることが、短歌編集者の義務だと僕は思うのだ。歌集紹介の均等化など、歌壇活性化のためには害悪であって、いささかも寄与するところはない。
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

931 岡井隆と玉城徹と角川「短歌」

 青磁社ホームページの週刊時評が実に面白い。吉川宏志、大辻隆弘両氏ともに、毎週毎週、非常に興味深い問題提起をしてくれる。今週は大辻氏の回で、お題は「大衆化とジャーナリズム」である。それによると、私が全然読んどらん「短歌現代」誌において、玉城徹氏と岡井隆氏が往復書簡形式で、短歌の大衆化について論争しておるそうで、私も今度是非読もうと思う。大辻氏の文章から私なりに要約すると、岡井氏の立場は「バカも歌人のうち」。玉城氏の立場は「バカ相手にすんな」ということだがよろしいだろうか。これは非常に難しい問題だ。岡井氏の立場は、いくら芸術的もののわかったインテリやアーティストが山のてっぺんで騒いでも、それだけではすそ野の広がりはない、参入したい人に間口をどんどん開けて、人口の拡大と維持に務め、全体的な短歌の質うんぬんはそれからの話であり、その限界の中で頑張るしかない、ということだろう。現に岡井は、とある対談で、結社の選歌と、新聞歌壇の選歌では選歌レベルを違えていると発言しており、ぶっちゃけた話、新聞に応募してくる低いレベルの歌の中でさらに優劣を考える立場もあっていいということだ。それに対して玉城氏は一環して、「芸術性の低い作者なんぞ相手にせずわしらは芸術家の立場を守れ」という態度を貫いておられるらしい。両者とも立派なご意見だとは思いつつ、僕は岡井氏の側に同調する。なぜかとゆうに、「バカ相手にするな」と言われると真っ先に私が困るからである。私もまた、押しも押されもせぬバカである。短歌における高踏的形而上学ぬわんてもんはハナクソほどにも理解できない。それでも、啄木を知って短歌をやり始め、のめり込んだのである。僕は、こういう末端歌人こそが大事なのだと思う。とにかく、短歌人口を増やすことが先決である。裾野が広くなければ山も高くならない、というのが僕の持論である。だから、結社は大事なのだ。歌会に対しても疑問もついでに言おう。歌会レポートなど読むにつけ、「本気でホメとんのかおまいら」と言いたくなるような駄歌が持ち上げられていることが多い。なんでも、歌会という場ではあまり厳しいことを言うと次から来なくなってしまうので、かなり高度な視点を持った参加者でも、意図的に批評のレベルを落とすのだそうだ。これは、間接的にだが実際の発言を引いて言っているのである。だから俺は歌会になど出て、内心バカにされながらホメられるような恥をかきに行くつもりはないが、岡井氏の言うことはすごくよくわかるのである。これは難しい問題だ。どんどん歌人様たちに取り上げていただきたいが、どうせ大した波紋も投げかけはしないであろう。それが歌壇というものだ。
 さらに大辻氏は、ここのところ角川「短歌」の編集方針が、初心者向けのハウツー物と化していて、公器としての芸術的義務をついに放棄した、という嘆きかたをしているが、僕に言わせれば、角川「短歌」は「売らんかな」主義に転向したように見えて、その実まったく売あるための戦略としてなってない。本当に雑誌や関連書籍を売ろうと思うなら、編集部独自の目ですぐれた歌人を発見し、大々的にキャンペーンを張るなどして売り出すべきなのである。そうした努力をした気配などかけらもない。この商業的怠慢は「短歌研究」になおいっそうよく当てはまる。すでに僕は「短歌研究」など総合誌として話にならんと思っている。とっとと潰れてしかるべきだと思っている。角川「短歌」にまだしも期待できるというのは、この雑誌はレイアウトその他のセンスがいいということだ。歌人のフォトからなるグラビア記事を載せているのが素晴らしい。その上で、本当に「売れ線」を狙うのならば、自分たち独自の目で歌人を発見し、紹介すべきであろう。俺は、「塔」「短歌人」に所属しているが、両結社ともに、歌壇的に無名であるがプッシュしたい歌人が相当数いる。角川「短歌」には、そういう歌人たちを見出していただきたい。そのために、結社誌を読めと言いたい。「心の花」や「未来」にだってたくさんいる。新人賞候補に残ったものばかりピックアップするな。新人賞候補など、新人賞というお祭のときだけ咲く花に過ぎない。もっと地道に、有能な歌人を広く探して欲しい。
 僕は岡井、玉城両氏の論争について、大辻氏の文章から知った範囲でだが、岡井氏を支持する。とにかく短歌人口を増やすこと、これが大事なのである。
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2007年11月26日

930 「簪」

 ああ、インティライミ、直線で失速。ななななななな、なんでやねん。メイショウをがっちりマークして、最高の騎乗だったと俺は思う。故障でもしたのかな。しかし、インティが3着以内に来ていたらメイショウサムソンは4着だった。またまた大激怒、というところで、まあこれでいいや。ところで、マイルチャンピオンCはダイワメジャー、そして、JCではアドマイヤムーンがそれぞれ優勝している。ふたたび、天皇賞秋の柴山の斜行に腹が立ってきた。不利を受けた馬が、そのあとのレースではちゃんと上位に来ているではないか。結果論で、バカ評論家ども、メイショウサムソンがナンバー1だのとぬかしやがって。あの秋天は、斜行さえなければアドマイヤムーンが勝ってたよ。いずれにせよ、競馬は難しい。次は、愛知杯有馬記念だが、誰かいい馬がいたらコメント欄に書いてくれよ。アホな短歌もどきで揶揄するくらいだったらな。競馬は、10戦して2勝すれば好成績と言える。それほど難しいのだ。誰かたすけて〜。

 テレビで「点と線」をやっていた。昭和32年当時の東京駅を再現している。過去の映像は貴重だ。このドラマに触発されて、Amazon等で邦画ビデオの販売価格を検索してみた。なかなか興味深かった。清水宏の「有りがたうさん」は9000円台で販売されている。多分、 ビデオ絶版からくる価格だろうが、僕がビデオ屋の親父だったら20000円のプレミアをつけるね。また、加藤泰の「真田風雲録」が17000円台だった。東映ビデオはこれを絶版にしたのかなあ。でなきゃこんな値段がつくわけはない。むろん、この映画も秀逸。不思議なのは、川島雄三監督の、「洲崎パラダイス赤信号」のビデオが10000台をつけられているということだ。この作品はDVDで4000円台で売られているはずだ。なのに、なんでこんな高額がつくのか?考えるに、DVDというのは、中味さえ見られればいいというならともかく、コレクション的価値はない。レコードはコレクションになるがCDがならないのと同じ理由だ。ビデオのあの、ダサくて重厚な背表紙を並べるというのは実に気持ちがいいね。そういう意味で、この作品もDVDが出ているにもかかわらずビデオ価格が高いのだろうと思う。
 諸君、お買い得の映画がある。清水宏監督作品「簪」が3000円台で売られている。この映画は、昭和16年8月公開作品。下部温泉に逗留する人々の出会いと別れをスケッチ風に描いた好作品である。太平洋戦争直前の制作である。しかしここに戦争の影はない。清水は、映画における写実主義を唱えた作家である。嘘くさいドラマ性を剥ぎ取り、自然の中で人間をキャラクター化し一人一人をひとつのモデルとして描き出した監督である。この映画に関しては、かつてこのブログ初期に書いたような気がするがいつ書いたかさっぱりわからない。この作品を論じたいが、以前にも書いたし、しんどいからやめておく。ただ、お買い得である。早いもの勝ち。残庫僅少。見たらきっと、幸福な気分になると思います。せせらぎの美しさ、陽の光が木々に反射する懐かしさ。清水の代表作の一本だと思う。買え買え。この映画に材をとった歌を作ったことがあるので、最後に挙げておく。

『簪』にゆたけくありし下部川護岸せばめてかなしみめける 黒田英雄

田中絹代濯ぎ女(め)とせし清水組ロケの合間に川遊びしけむ

学者先生宣ひたりき情緒的イリュージョンなる敵性語美し

ノンビリズムの清水宏の勲章として思ふべき「非國民映畫」

大戦の迫りくれども朝なさな川原に集ふラジオ体操
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:44| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

2007年11月25日

929 インティライミ、なぜこんなに人気あるの?

 JCは、すでにこの馬と決めていた。インティライミである。5歳秋に入って、本当に本格化した。朝日チャレンジCでの馬群をさばいての差し脚で溜息をつき、極めつけは前走京都大賞典である。直線、二度壁になるという致命的な不利を受けながらも、33秒4の末脚を繰り出して一着。経済的コースをとった2着ポップロックとの差は歴然であり、格付けは終わったと僕は思っているくらいだ。だから、JCには燃えていた。多分この馬は四、五番人気だろうと思っていた。ととととと、ところが、である。みんな勉強してるなあ、差のない3番人気で、オッズが極端に低い。東スポの前売り予想では、一番人気メイショウサムソンとの馬連が25倍もついてたのに、実際前売りが始まってみたら5・8倍。競馬記者どもは、一般のファンをバカだと思ってなめておる。俺に勝手な夢を見させやがって。これで買い方が難しくなった。
 馬連はやめ。ここは三連複勝負で行く。メイショウが、まず4着以下に敗れるとはとても思えない。よってこの2頭を三連複の軸とし、流すしか手はない。3着候補の本線(変な言い方だなあ)は、当然2番ポップロック。府中2400はいかにも合いそうだし、鞍上ペリエも、天皇賞秋の雪辱を期しているだろう。準本線は14番ドリームパスポート。休み明けとはいえ実力馬。無視できない。4番アドマイヤムーンは、府中2400というのがどうもピンとこない。また、11番ウオッカも、前走取り消しの影響がないとはいえまい。あくまで押さえだ。6番ビクトリー、ルメール騎手は怖い。今回は、思いっきりハナを切るかもしれない。3着まで残る可能性は十分ある。あと期待しているのは、人気のない外国馬5頭の皆様。あんたら頑張って3着に来てよ〜。俺が普段JCをやらないのは、見たこともない外国馬に賭ける気がしないからだ。しかし、今年はインティライミが出るからやる。人気薄の外国馬がしょっちゅう連対している。それを期待して、5頭すべて買う(泣)。だって外国馬が上位に来なくちゃあ、勝っても旨味がないんだもの。
 前日予想結論、三連複9−10から、本線2、準本線14、押さえ、4、11、以下、6、7、8、16、17。なんか、前売りオッズを見て、急に気が抜けてしまった。なんでインティライミ、こんな人気上がってんだよ。畜生、今日のジャパンカップダートやっとけばよかったかな。ペーパー馬券、馬連3点で大的中だったのに。インティの佐藤哲ジョッキーは、あまりこの馬の末脚を過信しないほうがいい。スローペースと判断したら、前々で競馬をやってもいいと思う。先行力もある馬だ。メイショウは、菊花賞で4着となり、俺の三連複の夢はパーとなった。ま・さ・か〜〜〜、今回4着以下に負けることはないよなあメイショウ〜〜〜。まあ、ここまで買えば馬券は当たったも当然だろう。あとは、好配当の馬が3着に突っ込んできてくれるのを願うのみだ。
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:20| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

2007年11月21日

928 息を止める〜短歌は視点〜

銃を撃ちし腕でわれを包む手の君の親指変形しており 佐藤浩子

 この一首の含まれた連作から推察するに、作者の恋人は韓国人であるらしい。かの国には兵役が存在し、成人男性はすべて武器をあやつって2年間を過ごすのだそうである。この歌の秀逸さは、普通だったら恋人の指の変形をのみ詠うであろうところを、その腕に包まれたという恋愛の場面にそれを織り込んだところが秀逸である。その変形した指が肩や背中をなぞる、その肉体感覚がいい。平和ボケのわが国、常に戦争の危機を感じているかの国、という図式で読むのは陳腐なのでやらない。あくまで、作者の肉体感覚を大事にしたい。面白い歌だ。

悲しくば息を止むほかあらざらむ鬼の口みな暗く開きたる 出 奈津子

 これも、なるほどなあと一読して思った。絵に描かれた鬼の口というものは、そう言われてみれば確かに開いている。その刹那、息を止めているのだ。鬼、というものが、中央政権によって追いやられ失墜させられたさまざまなものの謂であることは、文学のひとつもやろうという人間にとっては常識であろう(閑話。「短歌って文学なのかなあ。そんな大上段なものなら俺はヤラネ」みたいなことを言う人がいるが、文学に決まっておるではないか。堂々と文学者を名乗ればよろしい。閑話終わり)。桃太郎や一寸法師などの勝利を歌い、庶民に異界のものへの恐怖と憎悪、差別意識、権威主義などを植え付けたであろう草紙の絵も、現代の感覚で見れば無残な差別の映像化と見える。誰かを鬼と名指しすることは差別を生む鈍感さであり、現代人は誰もそれに無神経ではいられないが(それが行き過ぎて差別語狩りみたいなことにもなったりするが、それはまた別な話)、その鬼たちの慟哭を、「息を止めているさま」と捕えたところが独創性である。確かに、本当に悲しい時には、口を開けて息を止めるしかないのだ。その刹那を鋭く捕えた一首である。

ゆうぐれの自動改札機に入れし切符の出る間老いゆく吾か 本間温子

 これも視点の面白い歌。あの、自動改札機から切符を取る瞬間の、一首の気だるさ。ゆうぐれと詠っているので、おそらくこれは帰路であろう。自動改札というやつ、どうも導入されたときから気に食わない。「いちいちパンチで手動で穴をあけてもらいたいのか」と思われるかもしれないが、僕はそっちのほうが全然いい。便利だろうが早かろうがパスモだろうがスイカだろうがカボチャだろうが、要は人件費の節約であり、乗客を数字の群れ
としかとらえていない効率主義の象徴である。もちろん鉄道会社だって会社であり、荷物(お客)をなるたけ効率よく目的地まで運ぶは至上目的ではあるが、これほどその非人間性があからさまに、しかも愛想笑いをもって供されている場面もめったにないのではないか。かつて、千円札対応の自動販売機が開発されたとき、朝日新聞の「フジ三太郎」に、主人公がその自動販売機に向かって「もうちょっと名残り惜しそうに吸い込め!」と文句を言っている場面があった。まさにその通り、現金もさることながら、帰宅という安らぎの時間を託した切符をなんの感情もなく吸い込んで吐き出す(あの、「ぺっ」とでも言うような出しかたがふざけているではないか)あのマシンの存在は、人間を自分が荷物、それも時々刻々劣化していく荷物だと思い知らせる、魂への暴力かもしれない。自動改札が開いて、閉まって、開いて、閉まって、そして、次に開いたときには、廃馬の屠殺場へと続く道が伸びているだけなのだ。その行為の中で老いて行くのだという、作者のこの視点がいい。

風呂の湯が沸き上りましたという声は何故にして女の声か 小島さちえ

 これも視点の面白い歌。一読、爆笑してしまった。「オフロガ、ワキマシタ」と壁にとりつけた機械から喋っているのは確かに女の声だ。なんで女の声でなくてはならんのか。ここで想像してみる。たとえばこれば、江守徹の声だったらどうか。風呂に入るというよりも、入ったが最後なんかのワナが待ち受けているような気がする。でも、笠智衆の声だったらどうだろうか。これには逆に、「東京物語」的落ち込みを感じる。およそ機械がしゃべる声は、キャッシュコーナーといわず、電話の天気予報や時報といわず、名所旧跡の音声といわず、ことごとく女性の声であり、例外は電車のホームの片側のアナウンスくらいだがこれだって上りの下りの区別をつけるためだけのことであり、男の声と言うのは「単なるお知らせ」にはどうも向かないもののようだ。いかにフェミニズムが浸透しようと、女性のジェンダー、それに期待される役回りというのはとことん非個性的なものだというのがよくわかる一首である。
 僕は、短歌は9割がたが視点だと思う。あとの1割がテクニックだったり、作者のレトリックだったりするが、大部分はやはり視点である。これについてはまた書く。最後に一首だけ上げる。コメントはつけないが、これには爆笑した。作者は、深刻なものを詠ったのかもしれないが、とにかく私は笑ったのだ。

十代の未来図の中に鍬を持つ我の姿は絶対なかった 福島美智子

(爆)。
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2007年11月20日

927 「塔」十一月号「陽の当たらない名歌選」その2

 今月の赤丸歌、栗木選150首。花山選159首。池本選作品一・197首。計506首。「塔」十一月号総赤丸歌数、932首。

      「塔」十一月号「陽の当たらない名歌選」その2

銃を撃ちし腕でわれを包む手の君の親指変形しており 佐藤浩子

悲しくば息を止むほかあらざらむ鬼の口みな暗く開きたる 出 奈津子

雨中よりカラスの一声濁音に意志あるものの声を放てり 足立一生

緑陰をクロイトトンボは低くとぶ面になりつつ線になりつつ 林田幸子

あなたにも私にも有る病名に触れずに今日も話題は「戦後」 海野 翔

文殊菩薩の掛け軸の前で泣きしこと誰にも伝えず胸に秘めおり 片山楓子

横を向きシャープな顔を夫は見せ「じゃあまた明日」と逝ってしまへり 古賀公子

三日月がナイフの刃先に見える夜足音高く家路をいそぐ 古賀公子

風吹けば森がなるゆえ帰ろうよ闇があとから追いかけてくる 徳永香織

Gパンで正座し松村正直氏そのまま二時間短歌語れり 中村蓉子

十代の未来図の中に鍬を持つ我の姿は絶対なかった 福島美智子

硫黄島にて玉砕の伯父但し死ぬ直前は狂人と生存者語る 山下太吉

口角を上げて今見し事故を語る人らの普段の顔を知らざり 保村たまき

群というかたち美ししろがねの刃抜くごとひるがえるとき 足立一生

ひだまりにほくろのごとし黒猫がまんまるとして居眠りをする 市 美穂

ダフネーのごとく木となりさやさやと自己完結のなかに生きたし 苅谷君代

罰などは当たらぬからとスコップで遺骨を砕けと僧くぐもり言う 中野満代

頑ななうまじ西日に焼かれつつ入道雲へとまっすぐ歩く 山下れいこ

傾きて山峡に立つ道標の壊(く)えつつ尚も北に向(むか)える 須磨岡繁

サイダーに金魚を落とす実験をかなしめば思ひたりけり 朝井さとる

心弱りに世間の人は厳しくて体弱りには優しい人も 荒井直子

煮つまれば蓋持ち上げて吹き上がる鍋の真っ正直を見ており 池田幸子

コカコーラ飲むとボーリング上手くなる少女の頃の真面目な話 大塚洋子

頭の中は短歌たんか短歌だけ草抜きおるのはきさらぎゆうか きさらぎゆうか

風呂の湯が沸き上りましたという声は何故にして女の声か 小島さちえ

犬の啼く声を真似して鳴く鴉を生ゴミ収集の朝に聞きたり 塩谷いさむ

ミッキーの惨殺さるる番組を正視してゐるイスラムの児ら 鈴鹿晴子

子育ての頃がいちばんよかったね」次の話題に入るまで間あり 林 泉

追い立てるわけではないが週一度まだ元気かと施設を訪う 村松建彦

ゆうぐれの自動改札機に入れし切符の出る間老いゆく吾か 本間温子

 三十首すべてにコメントをつけたいほどの秀歌が揃った。読者諸氏にはじっくり鑑賞していただきたい。「塔」は今、絶好調である。
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2007年11月18日

926 肉親を詠う〜さまざまな視点〜

憎らしき兄の箪笥に火を放つ我の後ろを素通りし夏 新倉由美子

 短歌は、わかり易ければいいというものではなく、また、難解であればいいというものでもちろんない。この短い韻律の中に深いドラマがこめられていること、それが僕にとっての「いい短歌」だ。想像することの楽しさを教えてくれる短歌が「いい短歌」だ。
 箪笥というのはけっこうシュールな物体だと思う。半村良の恐怖小説に、また確か韓国映画だったと思うがホラー映画に「箪笥」がある。西洋ではクローゼットに骸骨や死体が入っているが、東洋の箪笥はそれに加えてへその緒とか先祖代々の怨念とかエロ本とか隠し預金とかいろんなものが隠れていそうである。
 およそ日本人の文法において、肉親への憎しみを憎しみとして描くのは至難のわざだ。ちゃんと「憎い」とか「嫌い」と書いているのに、それは本音じゃなく逆の意味だろうといらん裏読みをされてしまう。ひょっとして日本語そのものが、憎悪を率直に伝えるのに向いてないのではないだろうか。特に肉親へのそれ。これも、ともすれば裏読みされてしまう危険をはらんでいるが、それを阻止しているのが盛大な「火を放つ」という一言である。遺品だろうか、あるいはわざわざ持ち出して、あるいは捨ててくれと言われたものをわざわざ、と妄想が広がる。いったいどんな確執があったのか、それはきっと、人生における貴重なあるひと夏をまるまる奪われるほどの苛酷な経験であり憎しみであり、いったいどんな兄上なのだろう、決して許すんじゃないぞいっひひひひひと、残酷な喜びに胸は震えるのである。何かと言うと現代の家族には愛が足りない、などとぬかす阿呆が多いがとんでもない、日本の家族にまだまだ足りず、それゆえに悲劇を招いているもの、それはあからさまな憎悪と対立である。本音を隠して馴れ合ってなにが解決するものか。これは、強く印象に残る歌である。

戦闘の合間に食みし乾パンの噛む音不意にす駅の地下 藤本北夫

 これも映像的な歌であり、すぐに僕の目に止まった。作者はおそらく徴兵体験者であり、それをもとにしたリアルな歌を数々発表されている。その、戦場での痛みが現在の刹那に描きとめてられているところがこの歌の強烈さだと思う。戦場で飢餓を癒した乾パンを噛む音が、駅の地下で作者の耳に聞こえたのだろうと思う。それはおそらく、何かほかの、かさかさとかぱりぱりとかいう音に過ぎなかったのだろうが、それは作者にとって、あの地獄絵図のなかでぼそぼそと噛んだあの乾パンの音にしか聴こえなかったのだ。乾パンというのは、今やちょいとしたしゃれたスナックのコーナーか、さもなくば、地震に遭ったときのための非常食としてしか売られていないもので、ある意味貴重品である。作者の中では戦争はまだ続いており、それはおそらく一生消えないであろう。駅の地下にて、という結句が悲しい。おそらく、塹壕とかタコつぼとか、そうした閉塞状況の記憶が作者の意識に濡れた服のようにこびりついているのだろう。戦争の歌はもっともっと、単なる被害者意識や加害者意識を越えたところで、詩的に詠いつがれるべきであろう。

病院食のにんじん食べる母の口不思議な存在感を持ち初む 尾崎知子

 これも視点の面白い歌として、思わず目に止まった。にんじんを食べる母の口が、不思議な存在感を持ち始めたと作者は詠う。昔、確か「ザ・ガードマン」か何かだったと思うが、ある一話におけるヒロインが犯罪を犯す理由が、年老いた母親をなんとかして食べさせていかねばならぬというものであり、その母親のがつがつとめしを食うシーンの、なんとも言えない卑しさと執拗ぶり(なんという監督かわからないが、よくまああんな描写をしたものだ)がいまだに印象に残っている。その老母は、娘の犠牲になんの気がねもせず、養ってもらい高額の入院費を払ってもらうのも当然とばかり、うまそうに、また限りなく下品に口をもぐもぐと動かし続け、目をそむけたくなるほどのリアルさでめしを食うのである。当時は老婆を演じる女優の名前なんぞ関心がなかったのでおぼえてないが、「恍惚の人」が出版された頃であり、思えばあれは国民的トラウマ小説であった。「食べる」というのは生存の証明であり、老い先短いはずの人間が、その原点たる生命活動を恥も外聞もなくさらけ出す。「にんじん」という具体がまた面白い。俺は思うが、老人がめしをがっつくという様は実に卑しい図だ。じじいやばばあが、食に執着するというのには、虚飾をはぎとったらもっと下品なものしか残らないという人間の情けなさを象徴しているような気がする。おそらく、作者の意図とは異なるだろうが、僕の印象ではそうだ。

瀬戸内のとげやわらかな栄螺(さざえ)焼く同居のはなしことわれぬまま 原ゆきこ

 何度も言って恐縮だが、これも実に映像的な歌だ。想像するに、この場合の同居というのはダンナの両親とのそれだろうか。やわらかなサザエを焼いている最中にそんな話をされ、なごやかな酒宴の最中である、「冗談じゃありませんよお義母さん!」なんてとてもいえない雰囲気である。サザエを焼くいい香りが罠と化す瞬間である。
 諸君、短歌とはこういう刹那を詠う文学なのだ。修辞まみれの、観念的な歌を詠うバカが多いし、また、どうでもいいようなことを韻律でわざわざお示しくださる方々もいる。歌とは視点なのだ。どういう視点から素材を選び、詠うかが大事であり、それが歌人の個性というものなのである。もちろん、そのためにある程度のテクニックは必要である。言うまでもないことだ。私の選ぶ歌には、素材、テクニック、ともに優れたものが多いと読者諸氏にはわかっていただきたい。

 京都マイルチャンピオンシップ、負けた。でも、軸馬にすえたアグネスアークはがんばった。レース終了後、故障発生が判明したようだ。大丈夫だろうか。僕は、負けても全然悔しくない。軸馬が、ちゃんと一生懸命走ってくれたからだ。来週のジャパンカップ、これこそが私の勝負レース。見とれよ。
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2007年11月17日

925 京都マイルチャンピオンシップ前日予想

 今年も来ましたね、京都マイルチャンピオンシップ。年間通じて、私の最も好きな」レースであります。今年はずばり、スローペースだ。その上で、有力馬を見る。ダイワメジャー、この馬は平均以上か、ハイペースでこそ生きる馬だ。後続を引き付け、引き離す。要は、上がり35秒中盤から34秒前半のタイムで勝つ馬だ。今回の展開はどうだろうか。そうはいくまい。それなりの瞬発力が必要な展開となるだろう。また、このレースは、三年連続出場してなおかつ連対した馬はいない。その点、ダイワにとっては不安な要素ともなるだろう。また、カンパニー。確かにこの馬は1600では実績があるが、実は弱点が多い。前が塞がったり、ペースが合わなかったりすれば、実力を発揮できないという条件限定の馬なのである。今回もかなり、馬群に紛れて3着ということもありえる。
 軸馬として僕は、12番、アグネスアークを挙げる。天皇賞秋で、斜行で負けた僕は二着に来たこの馬を、まぐれだとか斜行に助けられたとか僕はぼろくそ言ったが、あとでレースを見直して、とんでもない申し訳ないと思った。この馬もまた、天皇賞では大変な不利を受け、なおかつ2着に入っているのだ。すごい根性の持ち主だ。まず、揉まれ強いという強みがある。夏以降これで5戦目だが、4歳にしてまだ10戦というキャリアが、疲労よりも上昇を感じさせる。今回も、ゴール前は相当ごちゃつきそうだ。外枠からアグネスが馬群をさばいてくる可能性も高い。鞍上が藤田だというものいい。なんせこの騎手は、前が詰まると、あのハンサムな顔に似合わぬ胴間声で「どけこのボケカスぶっ殺すぞ」叫ぶ漢(おとこ)であるらしい。馬の気性と騎手の気性のマッチングがすばらしい。対抗は、2番エイシンドーバー。これも、鞍上が要注意。ルメールは、勝つ競馬しかしない。エイシンも休み明けを苦にしない馬であり、鞍上と性格が一致している。そして、7番、スーパーホーネット。いかにも京都マイル戦は合いそうだ。穴馬もごろごろいる。自費でアメリカからやってきたベクラクッス、やる気になれば怖い13番ローレルゲレイロ。いかにも京都大好き、てな感じの10番トウショウカレッジ。また、馬体減のなければこわい、15番ジョリーダンス。ここは、手広く行くしかないだろう。
 前日予想結論。馬連本線、2−12、7−12。準本線(押さえ)、8−12、9−12。以下、3−12、4−12、11−12、12−17。穴、10−12、12−13、12−15。
 12番アグネスアーク、連体確率60%。この馬の不安は馬体減である。前二走をぎりぎりの馬体で出走している。これ以上、馬体減してきてもらうと困る。最低、プラス4キロはほしい。マイナスで出てきたら、予想をまた変えざるを得ない。京都マイルチャンピオンシップは私を裏切らない。有利、不利のない、公平なGTレースである。アグネスアークよ、馬体減だけはかんべんしてくれ。
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

924 「塔」十一月号「陽の当たらない名歌選」その1

 今月の第一部赤丸歌、澤辺欄若葉集122首。吉川欄159首。真中欄145首。計426首。

      「塔」十一月号「陽の当たらない名歌選」

憎らしき兄の箪笥に火を放つ我の後ろを素通りし夏 新倉由美子

戦闘の合間に食みし乾パンの噛む音不意にす駅の地下にて 藤本北夫

ゆうぐれにすれ違う人はみなどこかで会ったというような顔をする 徳重龍弥

聞き返しまた聞き返しみちのくの人らと話す沼山峠 藪田智子

変わったと云われることは悪くないそれがタトゥーの友からであれば 飯村みすず

くつずれのいたみは性的興奮にすこしにていてサンダルをぬぐ 上澄 眠

そう言えば金銀パールプレゼント当たった人はどうしてるかな 中山悦子

瀬戸内のとげやわらかな栄螺(さざえ)焼く同居のはなしことわれぬまま 原ゆきこ

電話器はコール音のみ激震地刈羽の友の声いまだなし 丸山隆子

今ここにいない誰かを迷いなく斬り捨て声を合わせて笑う 吉岡昌俊

ミイラにも羞恥はあらむ映像に視線泳げりインカ少女の 原 夏子

ソ連軍戦車を前に捨てし馬夏草の中頬寄せて来し 福代加根夫

卯の花にひとつばたごの咲き盛り登山口は目立たぬところに 上田充子

日傾き羅臼岳より下り来れば「地の涯」というホテルのありぬ 田中梨和

病院食のにんじん食べる母の口不思議な存在感を持ち初む 尾崎知子

敬称をはづして吾を呼び初めしかの夏の日の君を想へり 澄田広枝

8月は傷みやすきぞ鬱を病む人の電話の切りどきさがす 井上良子

一度だけ試してみたり褒め殺し言葉足りずに褒めただけなり 鈴木俊春

三十四歳没と書かれし義父の墓被爆の父を夫は知らない 田中敏枝

ひとこともしゃべらなくても生きているすでに二日目まだ生きている 西之原正明

つひにせぬままの口づけ梢より丸き光が吾の肩に落つ 本田光湖

刑務所の歌の選者になりゐるが唯一我の繋がる世間 宮田 保

不味すぎるものはなぜだか飢えてても喉が塞がり胃へとゆかない 山崎一幸

うすけむりあまやかに立つ下草の葉裏に忍ぶ渦巻き線香 隈元榮子

どの道を行けば着くのかわからない畑の中のマンションを見る 山内頌子

ぞうりひきずる音近づくは怖し歩道橋に昼の日は射す 山下裕美

赤とんぼ口移されし子ツバメの口の端から羽根のあふるる 浅野次子

消費者の声だ聞けという人の電話の向こうで犬も吠えおり 小山美保子

原発事故の謝罪の写真 謝られる人もわずかに頭を下げて 向山文昭

夏の陽が直に頭に落ちるとき陽炎のごとし「綺麗な戦争」 関野裕之

 うーん、実にいい歌が揃った。読者諸氏にはじっくり鑑賞していただきたい。これらの歌の良さがわからない人は読みが駄目だ、と断言する。今月は、若葉集にいい歌が多かった。他にも、取り上げたい歌はたくさんあったが、これで勘弁してほしい。なお、歌評は後日です。なぜなら、明日は、京都まいるチャンピオンシップの堂々予想の日であるからなのである。「塔」編集部のスケジュールも詰まっているだろうが私のブログのスケジュールも詰まっておる!なお、十一月号はすべて赤丸チェックし終えて残りの名歌選も決まっているので、来週の第2部をお楽しみに。なかなか暇が取れないが、なるべく早く続きをやりたいと思っております。歌を打ち込むのはなかなか面倒なのだ。
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2007年11月14日

923 現代歌人十ヶ条

 角川「短歌」11月号を求めたしと思へども、今から新宿紀伊国屋本店に行っても手に入るものであろうかどうであろうか。それにしてもだ、毎年毎年、新しい新人(あたりまえだ)が賞を取り、歌壇デビューをしてる、ということなんだろうけどそれにしても、誰もなんも言わんではないか。これはいったいどういうことだ。昨日の日記へのコメント某氏は、僕が2ちゃんねるの「短歌の新人賞」スレを読んでないと思ってらしらしいが、それを読んだうえでの、昨日の日記なのである。要は、2ちゃんねる雀の皆様も、受賞者が美人だとか候補作はどこの結社が多いとか少ないとか、そんなどーでもいーことばかり書きたれて(それはそれで面白いが)、肝心の作品に対して批評、とまでは言わない、感想すら書いてこない。そうかそれほど俺の批評をみんな待ってるのか(泣)。
 僕が短歌を始めて不思議だったのは、昨日の日記の繰り返しになるが、本当こいつら他人(ひと)のことを語らんのだな、ということである。おおやけの場、すなわち総合誌の特集、ないしは結社誌における歌集評、などを除いて、自前のHPやブログを持っている歌人が堂々と歌人や短歌や作品や歌集や歌壇の批評を開陳なされないのには疑問のあまり頭がウニになってしまうが、つたない頭で整理してみるとこうだろうか。
1、そもそも本当は結社なんぞ発表の舞台としか思ってないから依頼原稿だけ熱心なふりをして書く。
2、無根拠なナルシズムの塊なので本当は他人をほめたくない。
3、自分の結社の歌人は仲間ぼめだと思われないように褒めなくてはならない。
4、他の結社の歌人は義理だと思われようがなんだろうが褒めなくてはならない。
5、しかし他の結社から何らかの賞の受賞者が出た場合、公的には褒めるが飲み会では罵倒し倒す。
6、俳句ほどストイックにはなれない連中が省エネ的な表現手段だと思って参入してきとるせいで、要するに読まれたいだけで読む意思はない。
7、全部とはいわんがある種の権威ある結社の上層部は身内がだれを褒めて誰を褒めないか(決して、「けなす」ではない)にいちいちチェックを入れるらしい。
8、自結社の重鎮の歌集や最近の歌風を批判しただけで非難してくる茶坊主どもがいるらしい。
9、ネットに発表したことが親族会議を引き起こすような閉鎖的体質がこの美しい国にはまだあるらしい。
10、とにかく敵を作りたくないことが短歌をやる理由の人が多いらしい。

 インターネットという、ゲリラ戦術がいくらでも可能なこの世界においてなおも、ホームページやブログのひとつもやろうという歌人の大部分はヒモつき(結社のしがらみとゆうこと)であるか、逆に組織の軋轢を完全に無視した自己満足ネット歌人どもである。これでどこがインターネット歌壇が隆盛と言えるか。歌壇や結社に身を置きながらもアナーキーであることこそが重要なのに。こういうことを言うとすぐに、「歌壇や結社を批判するならそこから出てからにしろ」という阿呆がいるがこういうのを、死ななきゃ治らないといのである。よろしいか、批判や批評は内部にいてこそ有効なのである。内部にいたら提灯持ちしかしてはならぬという考えこそ不健全である。そしてまた、そのような分子を内包できてこそ大物結社と言えるだろう。しかし、たとえ重鎮がマトモでも、勝手に批判封じ込めようとする自主的シンパがいたりするのでなかなかに、ゴミ掃除は困難なことである。
 とにかくよー、おまいら、新人賞つーのはいちおうお祭なんだから意見を言えよ。ボロクソはもとより、万一すごくよかったりしたら、手放しに褒めちぎってそれがまた非難ごうごうの祭になったとしたらそれはそれで面白いじゃねえか。こいつらは、なんでもありみたいなことを言っていて実は壁である。どうせ、他人の歌への批評なんて、原稿依頼がきて初めて書くんでしょうね。バカどもが。と言うか、こんなことを書くのは俺自身はもううんざりしている。ところがこういうことを書くとアクセスが異常に伸びるんである。要するに、俺のことを珍獣として眺めているだけなのだろう。なあ、どうかね、かつて俺を珍獣呼ばわりした某O沼くんよ。アンタ、言いたいことがあったら、もっと頻繁にブログに書かんかい。「T歌人」に優等生的な文章を書いてるばかりでどうする。読んでてまったくおもしろくないぞ。
 歌人のお友達?欲しくないね。歌人という連中は、徹底的に、俺を孤独にさせるための存在である。猛省せよ!
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2007年11月13日

922 歌人の怯懦

 さっき突然気がついたのだが、歌人としてたいへんに基本的なことを、僕はすっからかんに忘却していた。それは、こここここここ、今年の角川短歌新人賞がとっくのとんまに発表になっていてすでに掲載号が書店に並べられてから日も久しいということである。完全に忘れていた。偶然にも、掲載号が発売された(であろう)10月25日の私の日記のタイトルは、「『総合誌』の存在価値って何?」である。これは皮肉でもなんでもない、純然たる偶然であるが、そう思わなかった人もいるかもしれない。また、当ブログの読者には、私が角川短歌新人賞の受賞者をどう批評するかと期待をこめて待っていた人もいるだろう。んが、おりしも季節は天皇賞秋を控えており、そっちで頭がいっぱいでぜーんぜんそっちのほうを思い出さなかったのである。しかし、天皇賞秋と角川の発表が重なるのは例年のこと。去年まではちゃんとおぼえていたのに、今年は忘却していたということは、僕はもう短歌の新人賞というものに飽きてきているのだろう。毎年毎年よくまあ選ぶよな。
 単純な疑問だが、歌壇でデビューするためには、新人賞という登竜門を通過する必要が本当にあるのだろうか。そんなことはないだろう。賞とは無縁でも、注目されファンを獲得し、あるいは結社の中心となっていく歌人はたくさんいる。藤原龍一郎氏がよくおっしゃっているが、すでに新人賞というシステム事態が疲弊しているのではないか。競馬やってるとつくづく思うが、一年というのは早い。毎年毎年、あまり変わりばえのしない新人賞を無理に輩出する必要もないと思うがね。
 2ちゃんねるの短歌コーナーにある「短歌侍でござる!」でごたくを抜かしてるみなさん、お前らもちっとは角川新人賞のことに触れろってんだ。誰も書かないもんだから忘れちゃってたじゃないか!しかし、2ちゃんねらーの短歌雀どもの話題にすらのぼらないということは、これは一般誌における短歌新人賞というものが飽きられてきているという証拠ではなかろうか。だいたい俺は、批評力を持っているとは到底思えない編集者が編んでいる総合誌なんて、それそのもの自体への興味を失くしているのだ。ハウツー企画ばっかり立てやがって。
 当ブログで、短歌をネタに日記を書くことに、最近はむなしさを感じている。短歌の世界に向かって何を言っても、こいつらは「壁」である。俺は、ことさらに挑発しようという意思を持って書いている。反論があれば戦い、この場を盛り上げようという打算もあった。だが、返ってくるのは石のような沈黙と無視である。黒田のブログに関わったら、歌壇で出世できないというこざかしい打算と怯懦に満ちたヘタレ、それが歌人というものなのだろう。だから俺は、歌人というのが大嫌いだと何度も言うのだ。最近、邦画のことを書いた日記のアクセス数が伸びている。初期の頃は、邦画のことなんぞ書こうものなら閑古鳥、アクセス数がふた桁まで落ち込んだものだ。しかし地道に邦画の普及に努めた結果、相当数の固定ファンを獲得したとおぼしい。僕の日記の読者に、歌人以外の人をどんどん増やしていきたい。非歌人の皆様、どんどん僕の読者になってちょうだい。歌人とはヘタレである。つづく。
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:01| Comment(3) | TrackBack(0) | 日記

2007年11月12日

921 日本映画に遺された光景

 映像作家というのは、意識的にその風景を留めようとしているのだろうか。松本清張原作の映画のなかでの傑作とも言える「張込み」(昭和32年、松竹野村芳太郎)の冒頭シーンが印象深い。殺人の共犯である田村高廣が、かつての恋人であった高峰秀子のもとへ逃避行するとふんだ刑事が、高峰の住む佐賀へ、横浜から向かうのである。映画は、この延々たる汽車の旅を丹念に描いてゆく。当時横浜から佐賀までは、急行(もちろん蒸気機関車である)でじつに24時間。停車駅は52駅(ラストシーンで、停車駅を全部アナウンスする。もちろん、刑事は田村を逮捕して同じ路線を再び北上するのである)。俺はちゃんと数えたのだ。もちろん、舞台は夏の盛りだが冷房車なんてものはない。窓は開けっぱなし、男はほとんどランニングシャツ姿だ。刑事二人は床に新聞紙をしいて座っている。翌日、京都でやっと席が空いて座れるというシーンがある。僕が不思議に思ったのは、これは当時の人にとっては、まったく珍しい光景でもなんでもない。そんなシーンを延々と撮ったというのは、たぶん、当時の鉄道のありさまというものを、後世のために残そうという監督の意志が働いていたのではないか。もちろん、野村と橋本忍のコンビが後世「砂の器」で加えた大胆な脚色同様、こんなシーンは原作にはない。そして、張り込みにあたる旅館で刑事がふるまわれる最高の御馳走は、なんてことない氷のかけらである。それを、いかにもうまそうに新米刑事役の大木実がかじるシーンが印象的だ。そのごりごりという音は、氷というのは、当時貴重品だったのだなあと実感させるに足るものである。
 同じく、昭和31年成瀬巳喜男監督「驟雨」にも、同じことが言える。ロケ嫌いの成瀬監督が、珍しく当時の小田急線梅丘駅でロケをしている。吹けば飛ぶようなちっちゃな駅である。住宅地がぽつんとあり、田んぼが広がっている。今の人には(当然私にも)想像できないだろうが、当時の小田急線の車輛はたった三両、なんの仕切りもなく単なる道路の横をちんたら走る、おもちゃのような電車だったのである。それがちゃんと映像に残されている。成瀬監督は、やがては再開発の波に呑まれ消えゆく運命の光景として、それをフィルムに保存する意志をもって撮影したであろうと僕は確信している。
 興味深いのは、これは偶然だが、昭和11年制作清水宏監督「有りがたうさん」である。この映画に中に、白いチマチョゴリを着た女性を交えた朝鮮人労働者の一団が重々しい足どりで天城峠を越えて行くシーンが出てくるが、これは演出でも演技でもない。たまたま、ロケ地で撮影隊が実際に遭遇した朝鮮人労働者を撮影したものである。これは、強制的に朝鮮から日本に連行された人々であり、日本人のそうした行為の犯罪性を糊塗しようとする後年の言質への痛烈な反対証明となっている。清水は偶発的に撮れたその映像に急遽女優を投入し、朝鮮人の少女たらしめ、その後待っている過酷な労働のことを主人公「有りがたうさん」に向かって語らせている。それはこうだ。「私たちは、自分で作った道を自分で歩くことができないの。次は長野でトンネル工事に行くの。有りがたうさん、お父さんのお墓に花を供えることを忘れないでね」(大意)。強制労働はなかったとか、あったとしても一部だったとかぬかす連中の脳天を叩き割るような、これは映像である。もちろん清水宏というのは、革命とか左巻きなどは薬にしたくもない人物だが、強制連行された朝鮮人を実際に見て発露した健全な同情心の表れたシーンであると僕は思う。
 そして、清水宏という、思想色とは無縁なエンターテインメント監督の面目躍如なところは、当時体制や国家を批判するのが絶対的タブーであり、革命的言辞に過敏だった検閲や軍部を騙すために、少女にこう語らせているのだ。「私たちは、自分の作った道を、日本の服を着て歩きたかった」。これは清水の、検閲官という無教養なバカをだまくらかすための完全な煙幕だ。戦前の邦画は、検閲官との果てなき戦いである。これについてはまた稿を改めて論じたい。
 記録映画の中にも、かつての日本の情景を見ることはできる。しかし、それはドラマという絵空事の中で見るほどの迫真性を持たない。旧作邦画に描かれた当時の日本の光景というものは非常に貴重だ。日本映画については、僕はこの日記でこれからも熱く語って行きたいと思っている。
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2007年11月11日

920 中村錦之助と森雅之〜お小姓文化を描く!〜

   今日のMYビデオ
「武士道残酷物語」(昭和38年東映京都、今井正、原作・南條範夫、脚本・鈴木尚之&依田義賢、撮影・坪井誠、音楽・黛敏郎)中村錦之助、有馬稲子、森雅之、加藤嘉、岸田今日子、渡辺美佐子、三田佳子、西村晃、東野栄次郎、丘さとみ、江原真二郎、佐藤慶。

 久々にこの映画を観返す。すすすすすすす、すげえ〜〜〜や、この不快感(笑)!関が原の時代から、忠義に生きた飯倉家という武士の一門の悲惨な運命をこれでもかこれでもかこれでもかと綴った、まことに心のアタタまる、今井正らしい良心作である。忠義のため娘を妾に差し出したり、妻が藩主に強姦されかけて自殺したり、さらにその忠義ぶりは昭和に入ってからも続き、恋人を汚職のために利用するというエピソードまで付け加える。その中でも印象的なのは、藩主森雅之が、飯倉家の若き後継ぎでまだ前髪の勉学中の若侍に懸想し、無理矢理ホモ強姦するエピソードである。この時の、中村を見つめる森の視線は、本物のホモかと思うほどの迫真の艶っぽい、ドいやらしい名演技である。森は、「そちを心から愛しているのぢゃああああああああ」とかなんとかうめきながら中村の腕を歯型が残るほど噛むのである。ところが、中村は森にホラれながらも、森の側室の岸田今日子を愛してしまい、関係を結んでしまう。森激怒〜〜〜〜!!!なななななんと、中村のチ××コを叩っ切ってしまい、「そんなに好きなら一緒になるがよろしい」と、去勢された中村と岸田に暇を出すのである。ところが、すでに岸田は中村の子を妊娠しており、飯倉家はその後も続いて、屈辱的な奴隷の歴史を刻んで行くのであった。あと印象的なのは、加藤嘉演じる、頭がボケてるくせにあっちだけは元気でしょうがないアホ藩主である。加藤嘉というのも怪優である。「砂の器」で満天下の観客の涙を絞りながらも、このような精薄のくせに丘さとみを強姦するという荒業をまあ楽しそうに楽しそうに演じている。あと残虐な藩主を、江原真二郎も演じているが、この役に真にふさわしいのは、菅貫太郎である。ただ、彼を使ったら今井正的には、戯画的になりすぎるので起用されはしなかっただろう。なんせ、今井監督はゲージツ派なのであるからして。そして、このゲージツ派、良心派というのが一番残酷なのである。以前、熊井啓や浦山桐郎の、映像における動物虐待のことを書いたが、今井もしかり。凶悪な藩主江原真二郎は、残酷趣味の変態で、生きた兎を庭に放って矢で射抜いて喜ぶシーンがある。矢で首を射抜かれた兎が苦痛のうめきを上げるシーンであり、これは絶対何回も撮り直しをしているはずであり、そのワンカットのために何十匹という兎が首を矢で貫かれ、苦痛のうちに悶死したはずである。そして、いちばんいい声で死んだ兎の映像が採用になったのである。熊井も浦山もそして今井も、動物たちに捧げる言葉はこうだろう。「社会正義の映画のためだ死んでくれ」。
 しかし今井は、旧制度のもとでの残虐刑や、また赤裸々な性などを描写してはいない。なんせ彼はゲージツ家なのであるから(笑)。そこをつきつめたのが、同じ東映での石井輝男である。東映は、この「武士道残酷物語」をさらにスキャンダラスに発展させて「大奥残虐シリーズ」を制作したのだろう。監督は違うが、同じ東映の鈴木則文監督の「徳川セックス禁止令」では、ちゃんとキチガイ将軍に菅貫太郎をキャスティングしているのである。なぜなら石井や鈴木はゲージツ派ではないからである。なんせ石井バージョンでは「牛裂きの股裂き」までもろ見えに見せてたもんな。ちなみにこのときのバカ殿様を演じたのは汐路章である。しかしさすがに、藩主が男を手ごめにするというやおいの世界を撮ったのは残酷物語史上でも今井正だけである。おそらく、当時のプロデューサーは、「男を男が強姦したって観客の誰が喜ぶか!」と思ったのであろう。しかし今だったら、アイドルを主役にお小姓映画を撮ったら、やおい女どもの熱狂を呼ぶであろう。今井監督の創作意図は封建制度の残酷性を描き、さらに、その呪縛から放たれていない日本人の矛盾を衝くことにあったのだろうが、今見るとはっきり言って、トンデモ映画である。ただ、非常に優れたトンデモ映画ではある。僕の記憶にある限り、日本が世界に誇るべきお小姓文化というものをちゃんと描いたのは、この一本しか知らない。諸君、想像してみたまえ。森雅之「愛いやつじゃのお」中村錦之助「お、お許しくださああいいいいい」。こんな淫靡で豊潤な邦画世界なんて他にはないぜ。興味あるかた是非ご覧あれ(いやしねえか)。
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2007年11月09日

919 お祭のはずれ〜歌を拾い探す楽しさ〜

 面白い歌が多かった。できるだけ多く取り上げたい。

お祭のはずれは白くしんとして君の輪郭あさくするどく 尾方 裕

 お祭の、音や光が届かなくなった境目を、「お祭のはずれ」と表現したことが秀逸である。多くの人にとってお祭とは、本来の意味神に捧げる儀式というよりは、限られた期間、それも夜にだけ出現する小さなサーカスのようなものだろう。敬虔さは消え、代わりにかりそめの異空間が出現する。その祭礼の空間をほんの少し離れただけで、神も人も関われない闇が昨日と同じに広がっている。その狭間では、祭の光はその神秘性を失い、かといって闇に溶け込みもせず、浮き上がっている。この「君」は作中主体によって想われている人だと思いたい。そして、それは叶わぬ想いであるようにも思われる。恋するものがその相手を見るときの憬れと渇仰が、「あさくするどく」という言葉に顕著に表れている。なぜかというと、神(祭の主役だ)というのは、崇拝はされるが実態を持たない、美しいが奥行きのない存在だからこそ神なのであるから。作者の刹那を掴み取る感覚は非常に映像的だ。僕は注目している。

わびさびを語る人の輪離れ来て空ゆく鳶を眺めてゐたり 室山郁子

 上句が、詫びだの寂びだのいうことを、いかにもわかったように言う(茶の湯の会かなにかか?)俗物どもへの皮肉になっている。実感もなく、教養ありげに振る舞う連中をスノッブと言う。作者は、それに敏感に嫌悪を感じ、そうした群れを離れたときに、初めて空ゆくトンビという、真に俗物性のない存在そのものの存在を見る。上の句に、作者の批判精神が色濃く表れている。

朝のバスに揺られ思ひつ十年前初めて席を譲られしこと 小島すぎ子

 電車やバスで、初めて席を譲られる、ってどういう気分だろう。他人から見て、自分は老人だと決定された瞬間だ。作者は十年前のそのことを、バスに揺られながら思い出しているという。今や、押しも押されもせぬ堂々たる老人であり、席のない時には誰か立ってくれないものかと切ない思いを抱きながら、老人扱いされたその最初の日の衝撃を思い出し、思えば遠くに来たものだとため息をついている。その時は「馬鹿にするんじゃないわよ」と思ったであろうが、間違いなくその時、作者にとっての真昼は終わり夕暮れが始まっていたのだ。「まだ若い」と思うことがすでに老いの始まりであると、残酷な事実をこの歌は伝えてくる。

祖父たちは岐阜県恵那にたどりつき生れたる父よ在日二世 成田さだこ

 一読して、昭和11年制作の清水宏監督の映画、「有りがたうさん」を思い出した。この映画の中で、強制的に日本に連れて来られた朝鮮人の一団が、黙々と天城峠を越えて歩いてゆくシーンがある。これは、たまたまロケ隊が現地で遭遇した実際のシーンを撮り、それを清水が即興的にドラマ仕立てにして映画に付け加えたものであり、役者による演技ではない。そのシーンを劇化するために、これは役者に演じさせている朝鮮人の少女の台詞にこういうのがある。「道路工事は終わったけど、今度は長野でトンネル工事なの」。
 この歌の、固有名詞「岐阜県恵那」というのが悲しい。聞くところによるとど田舎であるらしい。強制連行された朝鮮人たちは、こういう僻地で低賃金の苛酷な労働に従事させられていたのだろう。こうした宗主国による搾取に対して、「在日の連中はもともと好きで来たんだ」というような言い草があるがとんでもない話だ。国もとで食いつめて好きで来た者たちもそれはいるかもしれないが、あくまでごく一部のことであって、日本の植民地支配と安価な労働力(果ては慰安婦問題にも及ぶ)搾取はいささかも正当化されない。悪党どもは、いつでも相手を追いつめておいてから「おまえが選んだことだ」とぬかすのだ。ふざけるな。たどりつき、という言葉も悲しい。作者がこの号に載せた6首はすべて秀逸である。

河豚供養は毎年風が強いとふ船長の日焼けただごとならず 森 通誠

 上句も面白いが、やはりこの歌は結句がいい。普通、船長の日焼けというのはたくましさの象徴であるが、それがただごとでないという。オゾン層の破壊された夏の陽射はまさに殺人光線なのだという恐ろしさを表現している。日焼けした、というよりも、焼けただれた、というのが適当なほどの日焼けなのであろう。上句と連動して怖い歌だ。そのうち、映画「ゾンビ」シリーズのように、太陽からの変な電波で人が人を食うごとき狂気に陥ることであろう。

 結社誌というのはいったいに、最初に載るか途中に載るか最後に載るかで、選者の内なる評価の上下がわかってしまうものだが、僕は、歌を評価するとき、そうしたランク付けなど全く意に介さない。結社誌イチオシの歌でも、つまらんもんはつまらんのだ。何度読んでもつまらんのだ。自分がピックアップした歌が秀歌名歌。それが全てである。
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2007年11月07日

918 「短歌人」11月号、会員欄秀歌選その29

 今月の赤丸歌、会員1欄パート1、141首。同パート2、141首。会員2欄パート1、144首、同パート2、59首。計485首。

      「短歌人」11月号会員欄秀歌選その29

お祭のはずれは白くしんとして君の輪郭あさくするどく 尾方 裕

わびさびを語る人の輪離れ来て空ゆく鳶を眺めてゐたり 室山郁子

朝のバスに揺られ思ひつ十年前初めて席を譲られしこと 小島すぎ子

葬列の先頭のごとゆるゆると法定速度遵守車は行く 斎藤 寛

今日の空 雲にあながあいている神様が指であなあけたんだよ 上村駿介(十一歳)

腕時計をはづした後に残る汗は黒巣のやうな臭ひしておをり 牛尾誠三

河豚供養は毎年風が強いとふ船長の日焼けただごとならず 森 通誠

指名手配犯人の名に「優」の字あり「愛」の字も「幸」の字もあり 中野 粒

しゃぼん玉弾けるを見て天に問う野口雨情の臨終のさま 赤井多恵子

国道に見ゆる宮島稜線をむすべば女の仰向く姿なり 森川武彦

窓枠は額縁のごとし病室より日々に富士み父は死にたり 成田さだこ

祖父たちは岐阜県恵那にたどりつき生れたる父よ在日二世 成田さだこ

生まれれば生きるほかなし蝉の殻あおきの葉先に残されており 野中祥子

父らしき人が時をり訪ねくる向ひのアパートに母子は住めり 坂口香代子

愛しくて哀しきものなど子で充分 孫の顔など見ずに死にたい 西尾睦恵

十戒の九つまで破りたるわれに残りのひとつは何かと問ふな 西尾睦恵

『私の履歴書』と度々書いてみる某氏 されど日経より今年も依頼なし 西尾睦恵

往路(いき)に見しサンドイッチマン復路(かえり)にも動かずにおり 猛暑の渋谷 蜂須賀裕子

「ズボラ」とは「坊主」の逆の複数形『禅的生活』のあとがきに知る 矢野佳津

労働のさいごの力でシャッターをおろして赤き蛾も潰したり 久保寛容

頸に深手を負って飛べないカラスおりサルビア咲ける花壇の中に 柊 明日香

生野銀山社宅の生れとぞ上映会ポスターの顔志村喬は 森脇せい子

モデルルームのような家に住んでいた女少し会わぬ間にもう死んでいた 岡 頌子

八十歳の媼の投稿たたみたり夏日の続く風なきあした 上杉諒子

返信の望めぬメール綴る夜携帯の光はあの世のごとし 阿部美佳

帰る家ある老い人や湯のまちの釣瓶落としに暮るる灯明かり みの虫

寡黙なる原爆ドーム鳥かごに形似てると言えばかなしも 有馬美佐子

浴槽に膝を抱えて入ったらふたっつ膝で出来た満月 丸井まき

若き母はうれしくもなくわれを連れて千林(せんばやし)商店街を歩き回りしや 村田耕司

せせらぎの音を聴かむと耳をすます外へは流れでないせせらぎ 津和歌子
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2007年11月05日

917 短歌は義理の文学ではない。

 某氏のミクシイ日記を読む。野樹かすみ氏の歌が、三十首もアップされている。昨日の私の日記への抗議の意味がこめられているのだと思う。アップされている歌を読んだ。なるほど確かに、某氏がわざわざ書き写してまで私の蒙をひらいてくれようと思われるのがもっともな、いい作品が揃っている。他メディアをあたるとか、それをしなかった自分の無知を恥じながらもひとこと弁明させていただくと、arukaさんがそのブログで取り上げた二首はやはりどう呼んでも凡歌は凡歌であり、あの時点で「いや待てもっといい歌がこの人にはあるかも」と思う義理はこちらにはなかったということだ。ただ、arukaさんや某氏がネットで彼女を取り上げたことで、僕はその存在を知ることができた。僕だけでなく、これにより初めて彼女の名を知った人も多いだろう。ネットが、短歌に対して貢献できるとすれば、こうしたことをおいて他にないだろう。すなわち優れた歌人の紹介とピックアップである。
 「塔」編集長松村正直氏の企画に、「私の偏愛する『塔』の歌人」というものがある。これは好企画である。想像するに、松村編集長には次のような苛立ちがあったのではないか。「歌人には、他の歌人を積極的に取り上げようという意志が見られない。原稿を依頼でもされない限り自分から他の歌人のためのアクションを起こそうとはしない」。要するに歌人というのはおしなべて自分の歌とそれへの評価だけが大事なのであり、他の歌人なんてどうだっていいのだ。それが歌壇の活性化を妨げる元凶だと僕は思う。師系の流れに乗っかって持ち上げてもらうか、まめに結社活動をして歌と関係ないところで評価されるか、あるいはひょんなことでサブカルチャーの世界で注目されるかして権威の目に止まらない限り、実力一本槍で行こうとするあまたの在野の歌人は、誰にも知られず読まれないということだ。売れるためには「愛嬌」、すなわち席亭やお客に可愛がられる要素が不可欠だと言うが、幇間もちじゃあるまいし、なんで歌人たるものがいちいち営業をせねばならん。歌人の営業は他の歌人の担うべき仕事なのである。
 たとえば、僕のやっている自結社誌からの名歌選、秀歌選をなぜもっとたくさんの歌人が自分のブログなりHPなりでやらないのか。そうすることがまた、自己アピールにもなるし、ネット歌壇の活性化にもつながり、草の根的歌人を見出す力にもなり得るのだ。だいたい自分とこの結社誌に載ってるほかの作品をロクに読みもせず、自分の歌の扱いと評価にしか関心のない者に、魅力ある歌など作れようはずがないではないか。私はこのブログで、歌壇的に無名な田中雅子、有友紗也香をピックアップし、少なからぬ注目を集めたという自負がある。この日記を読んで彼女たちのことを初めて知ったという読者もたくさんいるだろう。そう断言していいだけのアクセス数があった。そういう、自分の目で自分の好きな歌人を見つける。それは、誰も読んでくれなくていいとばかりにふにゃけた歌もどきを垂れ流すのがネット短歌の世界だという誤った認識を排し、真にインターネットが短歌に対してなしうる、最大のことではないだろうか。
 まあ、僕がこう書くのは、大家であるはずの歌人たちが新人賞を受賞させたり最終候補に残したりする歌に不安を感じるからである。どれだけ有名歌人がほめちぎろうと、自分がいいと思わないような歌はよくないのであり、いい歌というのは、新人賞のリストのなかに見つかるのではない。それは結社誌の、あまたの歌のなかに隠れているのであり、それを自分で見つけ、さらに人に広く紹介すべきものなのである。
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

916 2ちゃんねると野樹かすみと加藤治郎

 ここんとこ、2ちゃんねるの短歌スレ、「タンカ侍でござる!」が面白い。2ちゃんねるのような辺境地帯であれ、活性化は喜ばしいことだ。こうした短歌スズメどもがはしゃがないジャンルなんて下降するばかりなのだ。裾野が広ければこそ山も高い。相変わらず私の悪口や、私を騙る書き込みが満載であるが、いつも大笑いさせていただいている。嬉しいことである。でもって、面白い書き込みを発見。

>クロちゃんここ読んでるのでひとこと言っておくと、批判していた野樹
かすみって1991年の短歌研究新人賞の受賞者で、歌葉から歌集も出してるよ。
というよりお金がなくて今まで歌集が出せなかったんだろうけど。

 これを書き込んだやつは、おれが「それはすまなかった、そんな実力派だと知りやせんでしたお許しくだせえ」とでも言うと思ったのだろうが、逆に、おれの正しさが証明されたようなものだ。短歌研究新人賞には、この手の気分だけ新しがってるような歌が蔓延しているということを。しかも1991年?16年も前ではないか。いかに選者が、題材や感覚の新旧もわからない不勉強な連中であるかの証左ではないか。この野樹かすみなる人物は僕は初耳である。しかし、arukaさんがアップした二首は、凡歌であると断言しておこう。不勉強な、短歌研究新人賞の選者だけが新しがるような歌であると再認識できただけでも、2ちゃんねるのこの書き込み主に感謝したい。
 加藤治郎「環状線のモンスター」、これは非常に面白い歌集だ。短歌誌で特集を組むべきだったと僕は思っている。それは、みんなでこぞって褒めろという意味ではない。いい歌はかなりあるが、俺は批判的な態度を取らざるを得ない。だからこそ、さまざまな問題提起こし得る歌集として、特集すべきだったと思うのだ。加藤治郎は、初期の作品よりもこの歌集のほうがはるかにいい。
 今後も2ちゃんねるに面白いレスがあればアップさせていただくわ♪それが嫌なら実名で文句を言ってこい。2ちゃんねらーよ、汝らもまた緊張せよ。
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2007年11月04日

915 詩性は多様

 arukaさんのブログが面白いので、今日もまた取り上げさせていただく。まず、彼に言っておきたいのは、ネット短歌を盛り上げるために僕はこのブログをやっているわけではないということです。盛り上げたいのはネット短歌ではなくネット歌論であって、ネットを主な表現場とするしかない連中のことなんぞどうでもよろしい。僕が問題としたいのは、ネットにおける「短歌について」のブログやHPや掲示板に見るべきものがほとんどないということであって、その点において、arukaさんを有望だと言っているのである。
 彼のブログを読んで僕は考えた。短歌における詩性、いやそもそも、詩性とはなんなのだろうかと。arukaさんからすると、僕の取り上げるような歌は詩性に欠けて見えるのだそうだ。そして、ブログ上で次の4首を上げ、「おぞましき聖性への対峙から生まれる詩の感覚」を感じ、ネット上で探してみてもこうしたタイプの歌は非常に少ないと述べておられる。

両目から砂がこぼれる魂が崩れ始めているかもしれない      野樹かずみ

あの晴れた朝に廃墟となる街に少女のあなたがいたのだという   野樹かずみ

白く残る月の気配に怯えながら無音の街を歩き始める       けこ

火星まで晴れた夜空は無防備な正しさを叫ぶ 凍えてしまう    けこ

 果たしてこれらの歌は発見するのが困難なほどの希少性と詩性に満ちているだろうか?いやその片鱗すら有しているだろうか?正直言って、僕が短歌を始めた七年前は、どこに行ってもこんな歌をやたらと見かけたものである。特に短歌研究新人賞の最終候補にこの手のはごまんとあった。要するにトレンドだったのだ。それがどたまに来て、僕は「この手の」をまとめて批判していたわけなのだが、いちいち言うと長くなるので引用歌からひとつだけ批評させていただくとたとえば3首目。白に残るに月に気配に怯えるに無音に街に歩き始める。なるほど一個一個の単語は詩的だが、それを繋げるべき作者の世界の把握のどこに詩があるか。あえて言うならここには、arukaさんが評価の基準としている「対峙」の姿勢がどこにもない。滅亡や廃墟のイメージをネタにした近未来が舞台の漫画やアニメで腐るほど描写され済みの、手垢のついた出来合いの光景であり、「青い空に白い雲」のたぐいとその陳腐さに違いはない。要するに独自の視点に欠けるのみならず、独自性を放棄した独自性にもまた欠けているのだ。出来合いのイメージに負けており、作者が本当に感じたことの欠片すら見出すことはできない。無個性という個性すらないのがいっそ見事である。
 正直、これら四首は取り上げるべき価値のない凡歌だと思う。僕も偉そうなことは言えないが、arukaさんにはもっと色々なジャンルの歌を読んでいただきたい。日常生活にまみれた歌が詩性に欠けるなどということは断じてない。日々の感覚を直截に詠った歌にも詩性はある。修辞まみれの歌を詩だと思っていたら大間違いであり、かかる四首はその典型例である。
 僕は、当ブログで加藤治郎批判を散々行っているが、それでも加藤治郎の歌は読んでいる。「環状線のモンスター」はもう何十回となく読み返した。僕の短歌観とは全く違うが、それでもいい歌はかなりある。短歌とはそういうものではないか。短歌とはこういうものだ、と頑固に考えるのではなく、自分の好みと違ったタイプの歌を読んでみるということも大事だと思う。arukaさんのブログは面白い。それだけに、その硬直した詩観が残念である。俺が言うのも変かも知れんが。
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2007年11月03日

914 10月月間ランキング〜arukaさんのブログ〜

 ブログ解説1008日目。総アクセス数723697。総訪問者数135752。

     10月月間ランキングベスト10

 1位  9日「ごまかし」 3723
 2位  7日「快勝!京都大賞典完全的中」2336
 3位 15日「『塔』10月号、陽の当たらない名歌選その1、と『歌ふ狸御殿』」1896
 4位 25日「総合誌の存在価値って何?」1753
 5位 28日「し、し、し、し、柴山あ〜 幻の菊花賞馬、天皇賞馬」1674
 6位  4日「『短歌人』10月号、会員欄秀歌選その28」1535
 7位 13日「『選歌の現場から』を読んで」1524
 8位 18日「私の名歌鑑賞その3・相聞歌〜大松達知、吉川生夫、米川千嘉子」1461
 9位  3日「インターネット歌人とはオレ」1456
10位 11日「藤原龍一郎HP閉鎖と『短歌ヴァ―サス』廃刊」1450

 十月のアクセス数は37004。訪問者数は、4566人でした。

 いつもたのしい2ちゃんねるの短歌スレにアップされていたアドレスにアクセスしてみたら、これが無類に面白いブログだった。
http://sleepingarea.seesaa.net/
 著者は謎のarukaさんなる人物。読んで思ったことを少々書いてみたい。
 僕が自分の選歌をこの日記にアップするのはなにも、自分の短歌観こそが歌壇の主流となるべきだと思っているとか、そういう意味ではない。あくまでも、自分の短歌観の表明であり、それと適合しない歌はなくなってしまえとか、そういうことを言っているわけではない。たしかに、このような歌は滅びろとか氏ねとかいう表現をすることがあるが、それはあくまでひとつの比喩である。たとえば加藤治郎の歌の中にだって、僕の琴線に触れる歌があるのだ。
 arukaさんは言う。「おぞましき聖性に対峙した場所から生まれてくる詩の感覚」、これこそが短歌であると。そうか俺は、おぞましき聖性に対峙した場所から生まれてくる詩の感覚こそが短歌であるとはちっとも知らなかった。おぞましき日常性に対峙した場所から生まれてくる、一見平凡なある壮絶さこそが短歌だとばかり思っていた。aruka様は私の短歌と選歌をぼろくそに言ってくださっているが、皮肉ではなく、これはたいへん名誉なことだと思っている。aruka氏の文章は、某結社なんとかと違い読んでいてはらが立たない。なぜかというと、その文章が非常に知的だからだ。arukaさん的な詩の読みかたもまた重要であると思わせるだけの力がある。私のコメント欄にも、「オマエの歌や選歌はクソだ」というご意見があるが、そうしたコメントのどこがそれこそクソかというと、単なるいちゃもんに終わっているからである。また、某短歌ブログのように、まともな論証で、元となってる歌集も読まないでおいて印象だけでいちゃもんをつけるアホがいる。まともな短歌ブログは皆無といっていいと思っていた。
 aruka氏の短歌観にそぐうものは、かの中井英夫のそれであり、その基準に照らせば、私の歌や私の選歌は、詩ではなく、つまらないと言明されている。そう言われて不快でないのは、aruka氏の文学観の軸が明確であるからだ。いちゃもんのいちゃもんではなく、自分の詩観をおびやかすものにはっきりとしたアンチテーゼを掲げている、それが、共和党が民主党を評価しうるように評価しうるのだ。自分と反対の意見でも、それがちゃんとした土性っ骨を持っていれば共感できるということだ。僕とarukaさんの美意識はどこまでいっても水と油だろう。そうした葛藤こそが、短歌を豊かにしていくのだ。
 僕は中井英夫という文学者を高く評価する。しかしそれは、中井のお耽美な文学感に共鳴したからではない。彼がなによりも、短歌編集者としての独自性に基づいて、歌壇や歌人に媚びへつらうことなく、独自の視点で独自に歌人を発掘したという、その矜持に敬意を表しているのである。彼が発掘したのが寺山修司や中城ふみ子でなかったとしても、僕はその態度を尊敬したであろう。
 ところで、arukaさんのとこにはまともな反論が来るのに、なんで俺んとこには来ないんだろう。俺は、反論を挑発するべく書いているつもりだが、読者が多いわりにはまったく反論してもらえない。少しはarukaさんのような、紳士的な態度を心がけたほうがいいかもしれない。なんせネット歌壇というのは、かかってきなさいと言うとかかってこない連中ばかりなのだから。そのへんが俺が、歌人という人種をどうも好きになれない所以だと思う。
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記