春ゆふべ千万の竹なま臭く青きからだとからだ打ち交はす 松平盟子
これは、「異本『六条御息所の御歌集』補遺」という連作のなかの歌であるらしく、評者たちは、連そのものをけなしまくっているらしい。しかし、取り上げられたこの歌、実にいい歌ではないか。六条御息所といえば、源氏の高まんちきな女房(奥さん、のほうであって女官ではない)に生霊となってタタルほどの情念ゆたかにして悲しい女性である。その年上女の情念を、松平盟子は見事にとらえている。また、滝耕作という歌人の、「誕」一連に対しても、「興味本位の歌ばかり」と手厳しく批判しているらしい。次の一首をぼろくそに言っているのだそうだ。
産台にのぼりて膝をひらきいる妻の正面にためらわず立つ 滝耕作
これも、究極の肉体感覚を詠った秀歌だと僕は思う。また、この評者どもは、葛原妙子や河野愛子の作品にも手厳しい批判を加えているという。こういうバカ評者どもがいるから、短歌はいつまでたってもポピュラリティを持たないのだ。僕は、単純バカの右翼はもちろんだが、それと同じくらいど左翼というのが大嫌いだ。こいつらはまさに、文学の敵と言っていい。原理主義的な右翼と左翼と宗教屋、こいつらは芸術の破壊者と言っていいだろう。成瀬巳喜男の名作「浮雲」を、当時の左翼評論家どもは、「こんなだらだらした汚らしい進歩のない男女を描いてけがらわしい」と無茶苦茶な批判をしたのだ。しかし、そのみっともなくだらしなく惰性に満ちた腐れ縁の中に、恋愛の真髄が描かれており、それこそ芸術というものではないか。進歩発展向上のどこに文学的な美がある。そんなもんはただのスローガンであって、芸術とはなんの縁もゆかりもない。俺は、坪野哲久など、歌人とは認めない。歌というのは、何年かやっていればそこそこのものは作れるのだ。しかし、歌人の本性が現れるのはじつに選歌にあると言っていい。そこそこの歌を作ったやつでも、選歌が下らなければ俺は思いきり軽蔑する。多分、坪野、富田、国定の三馬鹿には、歌を読む才能など無いのではないか。こいつらは、短歌における大事な要素である肉体感覚を全く無視した、ダメな評者である。もしも、中城ふみ子が長生きして角川「短歌」に載ったとしたらさぞかし、このど左翼のバカどもは、「セックスのことしか考えてない」とかなんとか、ぼろくそ言ったことだろう。
僕は、選歌というものを重視している。歌人の資質というのは選歌にあるのである。そこそこの歌を作っていても、選歌がダメな歌人は二流歌人だ。俺は注意深く見ている。知名度はあるが選歌がダメな歌人も何人もいる。こいつらがまたふざけたことをほざいたら、当ブログで徹底的に糾弾する。
ところで、結社によっては、会員の私生活にまでチェックを加えて差別するところがあると仄聞したが本当のことだろうか。具体的には書けないが、いわゆる、あまり社会的倫理的に名誉とされない裏商売などについている会員が除名されたりすることもあるという噂だ。もしそれが本当なら歌人どもよ、オメーらいったい何様のつもりだ。歌というのは、絶望の果てから生まれてくるものではないのか。職業には関係ない。むしろ、不名誉な職についている人がその日常を詠うほうが生々しくていいではないか。著名な歌人の大半は教師だとかなんとか先生だとか、あまり面白みのない生業を持つ、歌人としての限界の見える人ばかりだ。歌を詠むからって偉そうにすんな。歌を詠むということ自体が、自意識のストリップをする河原乞食であると天下に晒したようなものである。威張れたものではない。
今日のMYビデオ
「祭りの準備」(1975年、綜映社=映画同人社=ATG、黒木和雄監督、制作・大塚和、三浦波夫、脚本・中島丈博、撮影・鈴木達夫、美術・木村威夫、音楽・松村禎三)江藤潤、原田芳雄、馬渕晴子、ハナ肇、竹下景子、石山雄大、杉村美樹、桂木梨江、三戸部スエ、浜村純、前田昌明、原知佐子、阿藤海、湯沢勉、江沢萌子
これは、僕がリアルタイムで観た日本映画のベストワンである。以前、この日記でこの映画のことを書いたので読者諸氏にはぜひ再読し、できたら映画も鑑賞していただきたい。
http://hideo.269g.net/article/543150.html
原田芳雄の、ラストシーンにおける「バンザーイ、バンザーイ」は、日本映画屈指の名場面と言えると僕は思う。バカ左翼評論家どもにこの映画の良さはわからんだろう。バカどもめ。









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