2008年01月31日

979 列

     列     黒田英雄

所信表明述べて辞めたる宰相を嗤はば嗤へ われは悼みき

品格の格の足らざる宰相は青(ぶるう)のネクタイ似合ひたりしも

美(は)しき国夢見て語る宰相の現実感(リアリティ)なきカメラ目線よ

半袖で行かうって感じの秋陽(あきひ)だね日刊競馬を肩で鳴らして

平日の新宿ウインズ緑色(グリーン)の警備員(ガードマン)とわれのみ閑か

音もなくぬつと出でたる配当金新札うん枚さつと抜きとる

何者にもあらざる者となるために十と五年の蕩尽はひかる

胸ふたぐべかりし際(とき)も鳴る腹は年若(ヤンガー)と飢ゑ(ハンガー)の韻を踏みたり

川風は夕餉の気配運び来ぬカレーのかをりにひと無力なり

今に見ろ今に見てろと過ごすうち体重だけが増えてゆくのだ

恋多き母なればこその必然や庭に池掘り鯉泳がすは

日野てる子に似てゐし母の口癖はあんたの貌は父親そつくり

蛍火の儚き数に光る窓サブプライムとは真正(マジ)われのこと

誤算誤算誤算の連鎖に生きしかばわれと列など組むものあらず

暖冬の烈の四点(れんが)も融けゆきて列列列列数字の列が

阿久悠の荒御魂乗せこの夜をイスカンダルへ旅発むとす

よく見ればつるりと老けた貌をして十五の春はいつの世も鬱

良き伴侶に出逢ふが一生(ひとよ)の勝利かも初冬のゆふべに小旋風(こつむじ)巻きつ

出詠をすませしあとの安堵感ぶぶ漬け啜り野沢菜を噛む
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2008年01月29日

978 「いま、社会詠は」(青磁社)を読んで その1

 「いま、社会詠は」を通読する。短歌を始めて七年目にして、やっとまともな短歌論争を目にして、僕は大満足だ。というか、このレベルの論争がしばしば起こらない歌壇がヒドいのである。このディスカッションを読んだといって、自分なりの結論が出るというわけではない。それでいいのだ。ディスカッションの意義とは問題提起をし、読者の考えるきっかけを与えることなのだから。
 それでも僕なりに強引に、ここに参加された小高賢、吉川宏志、大辻隆弘の三氏のスタンスを要約してみたい。
 大辻氏は「社会詠は情念であり、歌の出来が全て」と結論づけ、小高氏進歩主義者の立場から「照り返し」という言葉を使って、「歌を作りつつも自分が変化していかなければいけない」と述べ、題詠化する社会詠を批判する。そして吉川氏は、「読みの決めつけ」を批判し、短歌を通じてある種の交流が喚起されるのではないかと提議している。それぞれの主張はわかるし、僕自身もこの討論から、社会詠の定義とは、と考えさせられた。いい討論である。
短歌について論争するときは、何はともあれ、自分が高く評価する歌を提示してみるのが最も効果的なのではなかろうか。その意味で、僕がすぐれた社会詠だと思う一首を上げる。去年の「塔」若葉集に載った歌である。

卒寿にて襁褓換えるを拒みいる母は赤線に売らるるを恐れ 中尾純子

 これは、痴呆に陥った母を介護するという、言わせてもらえば当節ありがちな題材の一環として詠まれた歌である。しかし、結果的にこの一首は、現代から過去を照射した見事な社会詠(戦争詠)たりえていると思う。国家予算の実に5割近くを軍事費に費やしながら、国民生活や、農業政策への配慮を全く欠き、底辺の生活者を犠牲にして省みなかった戦前の軍国主義日本の病みただれた暗部であり、恥部である。当時、身売りなど当たり前の話であり、貧乏な家の娘には誰でもその可能性があった。この母親なる女性は、痴呆症となり記憶だけが娘時代に戻って、また売られるかもしれないという恐怖を再体験しているのだ。これほど痛烈な社会詠(戦争詠)を読んだ記憶がない。また、こういう歌をピックアップしない選者どもは、目玉の代わりに銀紙でも貼っておけと言いたい。つまり社会詠というのは、自らを安全な位置に置いて安直に批判の対象を見つけたような歌のことではないのだ。掲出歌のように、日常の中で、逃げようもなく突きつけられてくる残酷な認識、それなくして、社会詠を名乗ることはできないのである。つまり社会詠とは、ニュースを見て善良な市民が持つべき感想を持ちそれにのっとって読まれただけでは詩たりえない。詩的に誠実であるならば、焼かれる側ではなく焼く側への共感を同じだけ持ち、生きていることの恥辱と諦念に震えずにはいないだろう。つまり、社会詠には強烈なアイロニーと挑発性が必要なのであり、その諧謔の炎に焼かれているのは真っ先に詠み手本人でなくてはならないのだ。だから、社会詠は難しい。
 僕は、安直にアメリカを批判して事足れりとする歌が大嫌いだ。何度も言うが、日本の経済的発展を助けてくれたのはGHQのニューディーラーたちが与えてくれた平和憲法と日米安保条約である。日本人は自らの手で民主主義を実現したのではない。農地解放も、女性の参政権も議会制民主主義も、みんなアメリカがくれたことである。自らの力を過信した、ワクチンも受けてない迷惑を撒き散らすだけの薄汚い野犬が、無理矢理ぶったたかれ飼い犬たることを強制され、なんとか人前に出られるようになった、それが日本の真の姿である。僕たちは皆、その犬にたかるノミである。だから僕は、アメリカを単純に批判する歌など恥ずかしくて作れない。よくて、昨日自家引用した投資家デモの歌である。社会詠はもっ屈折すべきである。あまりにも脳天気で無自覚な歌が多く、そのへんが小高氏の神経に触ったのであろう。
 ただ、小高氏が批判の対象としている次の歌は、僕はいいと思った。

NO WARとさけぶ人々過ぎゆけりそれさえアメリカを模倣して 吉川宏志

 これも、屈折感をまじえた名歌である。デモのやりかただって、アメリカに教わり、その猿真似でNO WARと英語で叫んで事足れりとする日本人の能天気さを痛烈に描いている。俺はデモなんかに絶対参加しない。誰も頼みにこんだろうが。
 しかし、才人吉川宏志にして誤読と思える個所を見つけた。82ページに引用された

三日目にほとほと食欲なくしけり十四歳(じふし)のわれのヒロシマ・ナガサキ 大口玲子

 吉川氏はこの歌を引用して、「熾烈な体験をした人に対しての、未経験者の無力さが作者を沈黙させた」と解釈しておられるようだがそれは違う。ただ単に、原爆体験者の話や写真やフィルムが、スプラッタ映画を無理矢理見せられるのと同じに気色が悪くてめしが食えなくなった、それだけの、しかしそれだけに、「伝えられなさ」の絶望を歌ったものだと僕は思う。僕も子供のころ新藤兼人の「原爆の子」をテレビで見てうなされ、のちに「さくら隊散る」を見て、戦争反対だのどうのこうのより、やっぱり気持ちが悪くて寝られなくなった。反戦教育もいいが、現実の残酷さはしばしば人間の感度のレベルを超える。小中学生に無理矢理見せたらトラウマになる子が続出するのも当然である。ただし、そうした教育をするなと言っているのではない。その中から、大口氏のような詩的誠実さを持った人間が輩出されてほしいと思う。
 「いま、社会詠は」。この本に関してはもっと言いたいことがたくさんあるが、また折に触れてここに書きたいと思う。
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2008年01月28日

978 金(マネー)は平和(ピース)を

 「いま、社会詠は」(青磁社)を読み終える。実に面白かった。ここで言われている「社会詠」というのは、「戦争詠」ということだろう。よい論争だ。読んでいて勉強になった。これへの感想はまた後日書く。

 良質な社会詠とはなんだろう。それは、ドグマに裏打ちされた思想的な歌ではなく、安全な場所から世相を嘆いてみせる情緒的な歌でもなく、安直な批評性を掲げた歌でもないだろう。やはりそこには、「われ」の視線がどうしても必要だと僕は思う。「われ」の視線があるからこそ、その歌はリアリティを増すのだと考える。僕は最近、こういう歌を作った。読者がどう思うかは知らないが、僕はこれは立派な社会詠だと思っている。

反戦デモに投資家立たばわれ信ず金(マネー)は平和(ピース)をポールはポーラを 黒田英雄

 僕は、デモを見るのが恥ずかしい。イラク戦争の反対デモも見たし、反ブッシュのデモも見た。なんか面映かった。僕がそのデモに参加しろと言われたら断るだろう。しょせんは、本当の修羅場を遠く離れて綺麗事を並べているだけという気がするし、参加者が増えれば、目をキラキラさせた人たちが「これだけ動員できたこれは国民の総意だ」とか舞い上がりそうで、そういうアホの自己満足に加担したくない。たとえば、右翼が殴りこみをかけてきたり機動隊に包囲されるようなデモだったら考えなくもない。映画「日本の夜と霧」の中で、「マルクス主義とは関係なく、このデモには参加しなくちゃいけないのではないか」というノンポリ学生の感動的な台詞がある。今、それほど切羽詰った政治的状況があるか。もしも僕が信用できるデモがあるとしたら、上記の歌のように、正義や信条のためではなく、投資家が自らの既得権益を守るために戦争に反対するデモであろう。そういう動機こそが、実は最も信用できるものなのだ。今のグローバル経済の中において、軍需景気や戦争特需によって資本家や投資家が儲かり、なので戦争が根絶されない、という仮説はもはや虚妄である。かつては国同士のネットワークも貧弱で、自分の国さえよければそれでよかったが今や経済はボーダレスである。市場は、戦争を憎むように変化してきている。戦乱が起きれば一気に株式市場は下落する。9・11でもイラク戦争でも、株価は急落した。戦争で儲かる奴なんてもはやいないのであり、軍需産業は生き残りに汲々としているのが現状だ。なので、投資家は戦争が起こりそうとなれば青くなって反対し、デモのひとつも起こすかもしれないし、そういったデモならば僕は信用できるのである。これが、日米安保条約のもとで経済発展をした日本の、真の反戦のありかただと僕は思うのだ。この歌には、かなりのアイロニーを込めてある。反戦を美しい心のありさまだと思ってはいけない。それは純然たる経済活動の一環なのである。
 何度でも言おう。日本の経済を発展させたのは、アメリカがくれた日本国憲法と日米安保条約である。反米だとか嫌米だとかほざいているプチナショナリズムの文化人(?)どもなどバカの見本である。アメリカ様のおかげの日傘でなんとか一人前の暮らしがしてこられた哀れな犬、しかし毛のふさふさしたふくよかな犬(最近痩せ気味であるが)が日本という国なのであり、その現実を見ずしてデモも社会詠もあるまい。惨めであり、誇りがないと言うのか。だったらとことん惨めに誇りのないところから歌うがよろしい。生きるというのは必ず誰かのケツを舐めさせられるということである。そうした状況に自覚的でありつつ、寸鉄人を刺す警句を提供する存在を道化と言うのであり、道化の要素は詩人にとって不可欠である。そんな矛盾を抱えた痛みを背負った歌こそが、真の社会詠だと僕は思うのだ。そして常に、「われ」の視点がなくては駄目だ。僕が感動した社会詠を二首あげる。これこそ、直感と状況が見事にシンクロした名歌であろうと思う。

紐育空爆之図の壮快よ、われらかく長くながく待ちゐき 大辻隆弘

なぜ銃で兵士が人を撃つのかと子が問う何が起こるのか見よ 中川佐和子
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2008年01月27日

977 評論「レジスタンス・ツールとしての短歌」を読んで

 昨日、「太っちゃいやあよ〜」と書いたのに、なんやねん、ドリームパスポート+10キロ。中途半端やなあ〜。+12ならやめようと思っていたのに、なんやねんこの中途半端な体重増は。つい、当初の予想通りやってしまった。直線失速は、展開うんぬんは関係ない。太かったのである。先週のアドマイヤジュピター+18に続いて、今週もこうだ。結果、対抗馬が1着になっている。俺の予想は間違ってはいない!馬どもが、正月だからってモチやしるこを食いすぎてブタになったのがいかんのである。墓石を探しに神保町をさ迷ったが、あまりに寒かったのでとっとと家に帰った。2着に、けなげに馬体重−10キロと絞ったトウショウナイトが来た。今、馬体減して出る馬は買いかもしれない。めげずに五連闘、次回は東京新聞杯である。絶対に勝つ。ああ、平安S、やればよかった。ペーパーでやった予想はクリーンヒットだったのになあ。

 「短歌人」2月号が届く。花鳥佰氏の評論、「レジスタンス・ツールとしての短歌」を読む。僕は、ここで取り上げられている斉藤斎藤の連作「今だから、宅間守」を未読である。だから、これはあくまで花鳥さんの評論に対しての感想である。僕は、正直言って違和感をおぼえた。
 その違和感の正体はなんであるかとつらつら考えるに、斎藤が「今だから」という言葉にこめた思いへの感想が花鳥さんと僕とではまるで正反対だということである。花鳥さんは、ここ数年の格差固定社会への閉塞感や、9・11事件後の肥大するグローバリズムという世相を例に引き、

>いまも苦労しつづけている「ロストゼネレーション」と呼ばれる世代の若者たちが大量に生み出された。社会の変化によって理不尽にこれからの人生さえも限定されようとしている若者たちにとって、「宅間」はひとごととは思えないだろう。

 と述べておられるが、僕はここに、この評者の現実認識の不足を見るのである。
 いったいに、社会の発展に取り残され鬱屈を抱えた若者が大量にいなかった時代があるだろうか。歴史小説などを読めばわかるが、「出稼ぎが大量に流入」「失業者は町にあふれ」「無頼漢が横行した」と表現されない時代も場所もまずないのだ。それでなくたって、多少はまともな感性を持った若者なら社会に疎外感を抱くのは自然なことである。僕の愛読書「社会派くんがゆく!」シリーズで唐沢俊一氏が同様のことを述べておられるが、そもそも思春期に「てめえら全員ぶっ殺す」と思わない少年少女が果たしているだろうか。若者はいつだって既得権のある連中から疎外され、適応性のある他者たちから疎外され、それでも犯罪にも殺人にも走れない大部分が気息奄奄社会を継承していくのであり、時おり勃発する狂気は実は彼らにとっての突破口であり、認めたくない代弁者なのである。宅間守も、同様に時代の病理みたいに思われオタクが不当な非難を浴びる結果となった某宮崎君や酒鬼薔薇君も、せんじつめれば僕たちの鬱屈した心理のガスボンベが破裂した限界点だったのである。僕は彼らの行為を正当化はしないが、それを特殊な、現代特有のことのように言うのは、人間とはそもそもそのような資質を内包した存在であり、現象そのものは珍しくもなんともないという認識を欠きすぎてはいまいか。日本最大の猟奇殺人津山三十人殺しは戦争中に起きておるのだぞ。そして、評論において認識を欠くことは大いなる欠陥である。そもそも花鳥氏が例に引く「マスメディアによって人間がみな観客と化してしまった社会」にしたって、人類の歴史において字を読めるやつがあまりおらず、王様だの教会だのの言うことを鵜呑みにしてありもしない神=物語を信じこんで一生を終わったのが大多数だったことを思うと、昔は権力者が今で言うマスメディアの役割をしてただけで大勢は変わっとらんだろう、と思うのである。自発的に送り手になれる人間がそうそういると思うほうが間違いである。
 花鳥氏が例に引いているカミュの「異邦人」だが、この物語の新しかった点は「理由なき殺人」と言うより(暑いから人を殺した、というのはあまり不条理とも思えないのだが)、「死刑になる自分をみんなが罵ってくれると気持ちがいい」ということをあからさまに言った点であるだろう。これだって、死刑台に上る人間がせせら笑いを浮かべるという描写は昔からあるわけであり、それを当人の視点から描いたのがカミュの偉さだったのであり、「近代的自我」の発見というのは要するに、犯罪者とそうでないものも同じ内面を持っているというあたりまえの認識だったのである。
 であるからして、斉藤氏が連作に添えた「今だから」という言葉の解釈を、僕は花鳥氏とまったく異にするのである。「今だから」とは、「今はこんな特殊な時代だから」という意味ではなく、「もういいかげん人類を長くやってるんだから、彼のケースを異常なことのように見るのはやめようよ」という提案だと僕は見るのである。「もっともっと彼らの心に寄り添い、健全な市民のふりをするのはやめようよ。あの事件に爽快感をおぼえた自分を認めようよ」という、真の近代のめざめへ提言だと思うのである。そして僕は、真に猟奇的事件をなくしたいと思うのであれば、皆が自分の中に当然あるそうした要素を認め、自覚あるがゆえに結局は社会の生贄たることを強いられる犯罪者の皆さんに共感を寄せること、それしかないと思うのである。まあ、「あんなのは要するに社会病質者で自分たちとの接点などありえない」と思いたい大多数には、言ってもわからんだろうが。
 結論として、「現代が過去に比べてことさら病理に満ちた社会」とは僕は思わない。子供殺しなんて、間引きを始め、神話にだってざらに出てくる人類の営為である。僕は、犯罪者に対して、「俺が壊れないためにこいつが代わりに壊れてくれたんだ」という思いでいつも見ている。津山30人殺しなんて、俺だったら幻想の中で40人は殺してるぞ。この事件は凄い。これに匹敵する「現代的病理な事件」があるか、問いたいものである。とにかく、評論が「現代」を捉えるとき、その論調はおおかたがぬるい。人は誰でも生まれながらに殺人者になりうるという当然の視点を欠き、その理由を外部に求めたがる。だが実は、斉藤の連作の引用から僕が読みとったように、不条理殺人者とは実は普遍的で平凡なお前のことなのだ。
 それにしても、この斉藤の連作は問題作であろう。このような題材は、取り上げられることはあっても短歌の表舞台には出にくい。これはちゃんと読まねばならぬので誰か「るしおる」を送ってくれ。俺は競馬で負け、かつ出費が多くて金がないのだ。住所は「塔」か「青磁社」に聞けばわかります。関係者よろしく。
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

976 太っちゃやあよ〜急遽参戦、アメリカJCC〜

 京都金杯から四連闘になるが、急遽このレースに参戦する。どんなフライパンよりも硬い鉄板馬、10番ドリームパスポート。まず軸馬はこれで間違いない。有馬記念からの直行馬は、このレースでは駄目だというデータがあるが、そんなこと関係ない。ドリパスが負けるなんてことは、いかなる要素を勘案してもありえないのである。長くいい脚を使う彼にとって、中山芝2200は最適。また、ペースも平均よりやや速くなるだろう。それにこの馬はG1ホースメイショウサムソンに圧倒的に勝ち越している。僕の好きな馬だ。ドリパスよ、このメンバーで負けてくれたりしたら、俺は冬の墓地に出向いて見知らぬ人の墓を相手にワンカップを空けながら泣くであろう。ここは、相手探しのレースだ。
 相手本線は、ずばり5番エアシェイディ。安田記念で本命にして惨敗したが、彼はマイルよりも、2000前後が合ってるのかもしれない。ペースが微妙だが、これも好きな馬、応援したい。あとは、7番アドマイヤメイン。ただ、馬体重を減らしてきてもらえないとなあ。今のところの彼は、デブすぎである。1番トウカイトリック、ちょっと距離が長い。あくまで押さえ。9番シルクネクサス、この馬も前走の体重がブタ。少なくとも8キロは落としてきてくれなければ。穴として面白いのは、6番、メイショウレガーロ、16番ブラックアルタイル、以上。ほかの馬は切って差し支えないだろう。これも当日のオッズが重要。賭け方が難しい。
 一応、前日予想はこうだ。馬連大本線、5−10。準本線、7−10、9−10。馬単、10−1、10−6、10−16。いずれにせよ、明日のオッズ次第で賭け方も変わるが、前日予想はこれでよい。明日は馬体重に要注意だ。先週のアドマイヤジュピター、プラス16キロというブタぶりには泣かされた。ブタは、飼葉をおいしく食べてかわいいがレースには勝てない。ドリパスが、プラス18キロなんてって出てきたら俺は考え直すよ。とにかく、馬体重増がまずい人気馬は、アドマイヤメインとシルクネクサスである。彼らは、痩せてきてくれなくては、俺は軽視する。
 10番ドリームパスポート連対率、95%(ただし、太って出てきちゃダメよ〜)。

 「いま、社会詠は」(青磁社刊)を購入。今日は競馬予想日だったのでまだ熟読していないが、ちらっと読んだだけだが実に面白い。これについてはまた書きたいと思う。乞御期待。
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2008年01月24日

975 短歌とは、徹頭徹尾孤独な文学

 よく歌人が、短歌を作り続けていく上で「歌友」が必要だとおっしゃっておられる。この意味が僕にはさっぱりわからない。歌友がいなければ、短歌を十年二十年、続けていかれとでも言うのか。ふざけた話だ。僕は、血へどを吐いて入院し、絶望の果てで偶然啄木を読み、そこから歌を始めた。自分は孤独なのだという認識から歌を始めたのだ。短歌とは、そういうものであると思う。なぜ、仲間がいなければ作れないのだ。もちろん、歌友は偶然できればそれを拒否するものではないが、自分からわざわざ求めるものではあるまい。短歌というのは、徹頭徹尾孤独な文学だと思う。だから僕は、短歌に惹かれているのだ。歌友がいなければ作り続けていられない、という人はもともと歌に向いていないのだろう、と僕は思う。

 若者が、結社に入らないという。それはそうだろう。結社に入ったら色々がしがらみが生じることを、彼らは本能的に察知しているのだ。ただ、ネット歌人諸君よ。ネットだけで歌を発表するなどという寂しい行為はもうやめなさい。自分の歌を真剣に読んでくれる選者という存在が必要なのだ。選者をこそ、最初の読者と考えてもらいたい。選歌に対してぶつぶつ文句を言うのも勉強なのである。自歌に対して、客観的な読者の目というのは絶対必要だ。僕は以前、「塔」の合同歌集「風神」「雷神」に、自選の歌を十何首か送ったが、そのうちの六首は大失敗だったと思っている。自選というのは危ない。他者の評価というのが重要なのだ。また、結社の側も、若手歌人が入りやすくなりそうな自由な社風をもっとアピールしたほうがいい。結社、という言葉のいかめしさもさることながら、実際上下関係や序列に厳しく、他流試合を咎めたり幹部への批判を許さなかったり結社のイベントへの参加を強制したりネットで話題になることをスキャンダルとしか思わなかったりするバカ結社が数多くあるという。結社人口が減る要因である。原稿依頼だったらOKだ。それは文章で勝負すればいいことだからである。あとは、歌会に出ることをことさらに称揚されるのも、全国大会にこぞって参加協力せえと編集後記で言われるのも願い下げである。
 歌人は、みずからの読者を増やすことをこそ考えるべきだ。僕は結社を二つかけもちし、かつネット活動もしれいる。この日記では毎月、月末か月始めに自歌を発表している。ありがたいことに、読者数が多い。これは、僕が結社に入っているからだともと思う。また、その月の歌によって、全然読者数が違うのだ。たとえば、「オールド・ストレート」(bV17)、「黒と白」(bW44)、「あぢさゐ〜元気ですか〜」(bW90)、「くそったれ!」(bX13)などは、たいへん読者数が多かった。これは重視したい。僕は、ドグマ優先の頭でっかちみたいに思われてるかもしれないが、客観的な数というものを重視している。当然、読者数の多かったこの四つの連作は、僕の第一歌集に載せたいと思っている。
 このように、日記にアクセス数が増えるのも僕が結社に入っているおかげであり、そしてまた、自分の歌への客観的評価という点で、ネットにおけるアクセス数というのは選者の選にまさるとも劣らぬ指針なのである。ネット歌人たちよ、とにかく結社に入って選を受けなさい。結社歌人たちは、結社の中でちやほやされても、それが果たして広汎な評価に価するかどうか、ネットに打って出て勝負するがよろしい。また、理想論であるが、結社は二結社に所属するといいだろう。一つだけだと、そこの社風に取り込まれて、はなはだ視野の狭い、セクト主義的でありながら馴れ合いの歌壇の弊風に染まってしまう危険性がある。まあ、私のやり方が一番の理想である。ただし、それはいいと思って実践したら、歌壇における出世の目はないと覚悟しておくがよろしい(笑)。そんなもんより僕は、自分の歌が大事なのである。ネット歌人諸君よ、現歌壇において自由な社風を持ち、なお比較的大手であると言えるのは「塔」と「短歌人」であろう。何しろ、これだけ好き勝手書いている俺がいまだに、陰険な批判や除名のほのめかしといった迫害を受けていないのだから(爆)。
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2008年01月22日

974 韻律に甘えるなよ〜短歌はシビアな文学〜

 歌は、綺麗事を体よくまとめた工芸品ではない。作者の痛みや、醜さや無様さが韻律で表現されていない限りそれは文学とは言えない。甘ったれるなよ。

磨ぎ汁を幾度もかえて思いおりわが子を橋より落とす瞬間 永田聖子

 平穏な日常における、主婦の家事の中で生まれた危険極まりない歌。「磨ぎ汁」というのがいい。米を研ぎ、その白い水が透明になるまで何度も水を変える。その刹那に作者は、かの畠山鈴香に自分をなぞらえてみたのである。磨ぎ汁をすすぐ手とわが子を橋から落とす瞬間を重ね合わせたのである。その冷たさが痛い。平穏な日常の中に、今を境に自分は壊れるかもしれないというひやりとした時がある。「悲劇的カタルシス」という言葉があるが、最も大事なものをぶち壊すときの快感の陶酔を想像しないやつは人生の真実を知ることはない。そして、子を持ち子の世話に追われる主婦のうちに、畠山鈴香の気持ちなど全然全く理解できないとほざく者がいるとすれば、逆にその鈍感さゆえにいつか子供に深い傷を負わせるであろう。そもそも子供というのは、いつ親の手にかけられるかわからんことを知っておくべきなのだ。そのほうが社会のためである。この歌は、早くも二十一世紀の名歌として残すべきインパクトを持っている。

夕焼けをまはす少女の縄跳びのひらりひらりと堤をゆけり 田附昭二

 一転、美しい抒情に満ちた歌に移る。上句の「夕焼けをまはす少女」というフレーズが絶品。縄跳びの回転の中にある、夕日に染まった風景を「まはす」と表現した着眼点が秀逸である。下句の「ひらりひらりと堤をゆけり」もいい。うまく上句とつながっている。小川未明(違ってたらすまん)の童話に、金色の輪回しをしながら死の国にいざなわれてしまう少年の話があるが、金色はもちろん夕日の、そして死の国の象徴だろう。回転という運動には、どこか死への憧れと陶酔を誘うものがあるのだ(全然違うようでいて上の歌と関連してたりして)。この縄跳び少女は、作者のイメージの中ではもうすぐ死ぬ子供(それは決して悲劇的なものではなく、少女がなかば異界の存在であるということを意味する)であり、また詩人の魂を黄泉へと誘う死の大天使である。少女に美を見る性向はやれロリだペドだと評判が悪いが、そもそも美や文学は社会に属さないものに美を、彼岸のいざないを見るものではないのか。少女趣味のまったくない僕ですらそう思う。この歌を大評価するのは近藤芳美か、さもなくば黒田英雄くらいであろう。これまた、二十一世紀を代表する秀歌である。なお、この歌の「少女」のところが「少年」だったら話にならない。もちろん、「おばさん」や「おっさん」では駄目どころか別な世界になってしまう。「少女」であることは動かせない。

山の上に住む人が言ふ異界とは川下であり桃太郎である 塩谷いさむ

 うーむ。これも、視点の面白い、二十一世紀の名歌である。「川下であり桃太郎である」というフレーズは、ミシンとこうもりがさが出会うがごとき唐突さであるが、きちんと分析するならば「川の下流で柴を狩ったり洗濯したりしてる一般人にとっては、熊を狩ったり木の実を食べたりしてる川上の人種は異界だろうがおたがいさまじゃ。だいたい桃太郎って侵略者で略奪者ではないか」ということではないかと思う。もっとストレートに「桃太郎ってそんな英雄か?」という詠みかたもできたろうと思うが、「桃太郎である」という強引すぎる結句が逆に、侵略というものの歴史の古さと罪深さを強調している。

 一流の歌を詠む一流の歌人がたくさんいらっしゃるみたいだが、歌を読む才に関しては僕は疑問を抱いている。正直、この程度かと思っている。一流の歌人に選ばれた歌だからいい歌かと思ったら、そうでもない歌がだいぶある。一回そういう歌の批判をぶちかましてやろうと思っているが、いろいろ問題がああるかな?(←弱気)
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2008年01月21日

973 「塔」一月号「陽の当たらない名歌選」その2

 今月の赤丸歌bQ。吉川欄、133首。真中欄、105首。栗木欄作品1、245首。計483首。赤丸歌の総数、856首。

      「塔」、「陽の当たらない名歌選」その2

夕焼けをまはす少女の縄跳びのひらりひらりと堤をゆけり 田附昭二

山の上に住む人が言ふ異界とは川下であり桃太郎である 塩谷いさむ

冷蔵庫に鍵かける暮らしあることを新聞記事の隅にて知りぬ 小川和恵

肋骨のような形の雲浮きて不安なことを妻は語りぬ 後藤正樹

アケボノサウの白き花弁に紫の夜明けの星を置きて夏逝く 酒井久美子

バク転のもう若くない悪役が見得切る時に汗は飛び散る 川本千栄

高層のホテルの窓は開かざりきマッチ箱ほどの海が見えたり 岡本幸緒

保護者会終わって首からまずはずす「保護者」と書かれし認識票を 秋葉陽子

亡き父の目をした老婆がこちらむく水のおもては冬ちかき色 出 奈津子

漁火の増ゆるにつれて星もまた増えてゆきたり越前岬は 上田善朗

三毛や虎きょう見し猫は三匹で秋口という表札の家 江種泰榮

ふるさとは遠きにありて鉄路に沿い夕日のしっぽ流れながれる 大内奈々

被爆後をいずれ巣ごもりいし癌か耐え来し夫の胃の腑あっぱれ 岡本典子

うろこ雲ほどけゆくなり親戚の戚の字いつも忘れ事典引く 小菅悠紀子

草を食む牛ぼんやりと現われてまた霧に消ゆどこかで見た景 菅田弘子

港湾に漁船の並ぶ日の暮れに餌ばかり換へる釣人を見る 武田久雄

ときおりに小さき声して電話くるる四つ違いの叔父がまだいる 早川洋子

舟は朽ち背景として浮かびたり水の記憶と森の記憶と 藤田千鶴

いもうとへ長い手紙を書きおれば君は右から明かりをくれる 藤田千鶴

人間はおのれが欲する現実しかみないがゆえに夫婦円満 村松建彦

亡き義母のかがりし手鞠のオルゴール負けば鳴るなり「雨降りお月さん」 本間温子

おしあててながくなりたり月の夜の耳の電話のふしぎなる色 河野美砂子

たった二年雇われるために集まり来 控え室には話し声なく 森尻理恵

雀蜂に刺され啼きゐる茶の犬の涙なき痛み しつかりと抱く 藤原勇次

灯台の痩せむばかりに風吹きて一人の旅の冬晴れさみし 廣 鶴雄

谷の水引きて蕎麦ひく水車小屋 名札掛けあり人かげのなく 青山幸重子

碧空に小富士は浮かぶ吾妻地区伴侶見つけて妻と呼びたし 大田太郎

友はみな太りて我もおそらくは 東京に来て十年の澱 岡本 潤

授乳するそばで毛布をもみもみともむ猫がいる一所懸命 片山楓子

氷溝(クレバス)の傷をもつ胸君がむかしわれとは違うひとを愛して 助野富貴子

 以上30首、読者諸氏、心してじっくりと感情してくれたまえ。
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2008年01月20日

972 「塔」一月号「陽の当たらない名歌選」その1

 うーん、アドマイヤジュピタ、プラス16キロは重かったか。一瞬、回避しようかと思ったが、それでも連に絡むんじゃないかと思ってやってしまった。正月にモチを食いすぎたんだろう。今日は、100%勝利を信じていたのでがっくりきた。しかし、この馬は今後も注目していきたい。絞れば勝つぜ。

 今月の赤丸歌、花山欄若葉集、102首。池本欄、154首。澤辺欄、117首。計373首。

      「塔」一月号、「陽の当たらない名歌選」その1

磨ぎ汁を幾度もかえて思いおりわが子を橋より落とす瞬間 永田聖子

重なりてなほ君が欲しと見開けば君はひつそり目を閉ぢゐたり 國森久美子

少年は神輿担ぎに恍惚を見いだせぬまま法被脱ぎ捨つ 尾崎智美

見交わせば通じてしまう母子ゆえに時には視力正さずにおり 吉澤ゆう子

レース付きの扇を重ねたるごとき雪解け前の山々隠し 谷口かず子

逆上がり出来ぬ子励ます父の声夕暮れ迫る校舎に響く 相澤大也

帰ってよ。帰りなさいと追ひやれど生垣に黒きヘビは動かず 東 紀子

意図的に人を傷つけし日の夜に鏡を見つむる私のかほは 飯村みすず

バスに乗るとかならず眠る恋人は私のいない方によりかかる 上澄 眠

メガネ店で検眼をせり「赤と青どちらの○がきれいでしょうか」 瀬川しん

砂利をふむ音であなたのおみそ汁温めなおす愛なんかない 鈴木麻衣子

ぶらんこに揺れつつメールする男二十一世紀のひとつのかたち 石原安藝子

配給の夜汽車のキップで迎えに来し母と弟のそこまでの記憶 杉浦登代子

輪唱に短調はなし かなしみはいつか再びめぐり来るから 関口健一郎

駅伝の選手が走る路の辺にしばらく映る霊柩車あり 総田正巳

真中朋久第二歌集『エウラキリオン』を 一年七月間でよみおわりたり 高橋勝義

卑屈にはなりたくなくてアイロンをかける姿勢を考えてみる 西村玲美

人形の墓場へ向かうバスに乗り無言のままで朝を迎える 山上秋恵

釘にかかる帽子のような思い出の釘なくなりし落ちてさ迷う 河原修吾

ゆったりと昼間の風呂に髪洗う天婦羅揚げるパート終え来て 越川幸子

朝光を反射し進む流線型の白き車輛に喪服の一団 廿日日富貴子

晴れた日に人は死ぬなり病室の障子しろじろ秋の陽みちて 渡辺のぞみ

満月がゆっくり西に動く時虫は疲れて眠りゆくかも 青木初枝

ここにくればあの老人が座っている息子を亡くした海に向かいて 石井久美子

褒められることに慣れない友人がいい女なので泣きたくなった 金田光世

むつかしき顔してメール打つひとの指の先まで血管が浮く 五宝久充

原油上がり巡り巡りて夕食のカレーが上がりておもしろくなし 福井まゆみ

短(みじか)雨ハイビスカスはいさぎよく花色とかしねじ切れており 柳詰美代子

月の青あまりに強く願い事したき夜なりわが頬を打て ダンバー悦子
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2008年01月19日

970 シビア〜竹中平蔵〜

 昨日「塔」の遅配について心配したが、今日到着した。私の杞憂であったのだと安心する。選歌体制が変わるという。歌稿数増加に伴い、選者を8名にすると言う。僕は、以前から「塔」は、「選者指定移動性」にせよと発言している。基本的に、選者指定制のほうが、歌の力を伸ばしていくと思うからだ。ただ、最近は、「塔」はそうしなくてもいいのかな、とも思う。たくさんの選者にアトランダムに読んでもらって選歌してもらうのも悪くないかなという気がしてきているのだ。今回決まった選者8名制に対して、僕は異存はない。新しく選者になったかたがたも信頼できる歌人たちである。まあ、これはこれでいいだろうと思う。
 今号の特集、「塔の働く女性の歌」は面白かった。それでなくても職場詠というのは絶対数が少ない。この特集は何度も読み返したいと思う。

 話は変わる。サブプライム問題がすさまじいことになっている。アメリカの経済政策に対して、世界の見る目は冷ややかである。信用収縮は収まりそうもない。どんどん、実体経済へと波及していくだろう。それにしても、メリルリンチ2万人クビというのがすさまじいね。こいつら全員、日本円にして2000万前後の年収を得ていたはずだ。それが一気に無職になる。これがアメリカの資本主義経済のシビアさだ。責任を取るやつが必ず必要であるということだ。僕は、こういうアメリカのシビアさが嫌いではない。資本主義というのは冷徹なものだ。日本を見よ。不良債権を隠しまくって、バブル崩壊から立ち直るのに十年かかり、今またこの悲惨な状況である。いい意味でのシビアさを日本の企業人を持って対処しなければ、世界から見放されるだろう。
 問題は、為替である。FRB(アメリカの日銀)が四度目の利下げをするのは確実。そうなれば、ドル売りが増加し、一気に円高となるだろう。僕は、今年は1ドル105円から、118円だろうと踏んでいたが、下手したら100円を切るかもしれない。そうなれば輸出産業は大打撃である。日本の不況は一気に加速するであろう。この期に及んで日銀のバカどもは、まだ利上げを考えているという。僕は、何度も言うが竹中直人、じゃない、竹中平蔵が適任だと思っている。彼(平蔵のほうね)は去年六月、経済が順調なときに、利上げに関して質問され、「絶対反対です。危険です」と答えていた。時間の関係で理由をテレビでは言わなかったが、彼には分かっていたのだろう。アメリカの住宅バブルの弾けることが。すでに市場は、日本の利下げを折り込んでいる。利下げしなければ、日本の中小企業はどんどん潰れていくだろう。今、日本の経済界に要求されるのは、シビアさである。竹中のような、冷静な判断で経済を見る視点こそが大事なのである。てな訳で、明日は、「日経新春杯」の予想である。京都V3を狙う。軸馬は決まっている。乞御期待。
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2008年01月17日

969 心ある青年たちよ

 「塔」一月号の発送が遅れている。普通は16日ともなれば届いているのだが、発送のお知らせもなく、なんか変である。「塔」内部で大異変でも起こったのだろうか。遅れますともなんとも告知のないのが不安だ。おかしいな、と内心思っている「塔」会員のかたは多いと思う。

 母親に睡眠薬を飲ませ、眠っている母親と姉妹を殺してあまつさえ母の腹には人形をつめこんだいち少年の家宅捜査の結果、残酷シーンのある漫画が出てきたと、十年一日の報道がされているようだが、いつもながらメディアの単細胞ぶりには呆れ返る。
 だいたい、人間とは、「小説や漫画に刺激されない限り残酷なことをしない」存在であろうか?もしそうだとしたら、その「残酷な表現」を生み出した作家はなんだというのか。宇宙から来たエイリアンか日本を滅ぼそうとするニャントロ星人の尖兵か(いや本気でそう言う人がいそうで怖いけど)。人間が表現したきたもの、それこそ世界最大のベストセラー聖書を始めとして、字を知らない人々でもわかる、「サルにもわかる地獄絵図」を見るがいい。あるいは古来延々と行われてきた酸鼻を極めた拷問や処刑の数々。いったいどの面さげて、現代は人心の荒廃した残虐な時代だなどと言えるのか。神や共同体が人間の倫理を支えてきたなどと最近はその手の言論がかまびすしいが、過去はおしなべて現代よりも残酷であった以上のこの論法は当たってはおるまい。
 だいたい、昨今やたら見直しが叫ばれてる家族とか共同体って何だよ。俺は、「家族」という概念が大嫌いだ。あの、血縁というべたべたした馴れ合いにはうんざりする。家族は愛し合わねばとか分かりあえるはずだとかたわごとをぬかす奴で世間はあふれておるが、そういうのが多数派であるからして、このような煮詰まって家族を殺す心ある青少年が発生するのである。家族は他人、と最初からわかっておれば、わざわざ自分の人生を葬るような犯罪には走るまい。小津や成瀬はその点において前衛作家だ。家族という物に、最初から何の期待もしていない。いや、絶望しているからこそ、見事な家族映画を撮ることができたのだ。小津の「一人息子」や、成瀬の「秋立ちぬ」を見るがよろしい。俺だったら、これを見て逆に家族愛に目覚めちゃうぞ。希望を持たせようと思うのなら、はりぼての希望ではなく、絶望を徹底して描くべきだ。最近なんかのコンテストで、「子供に希望を与える言葉募集」とかなんとかいうのを知識人に対して行ったそうだが、俺だったら「寝る前に忘れず締めよう親の首」と出すところだが、あいにく盗作なのでやめておく。子供の純心でナイーブな心(笑)真に届くのは鬼畜な言葉であり、なぜなら子供は、とりつくろった嘘には極端に敏感だからである。彼らに与えてやれ、「早く絶望したほうが勝ち」だというメッセージを。
 ところで、いつも思うことだが、うん百万もかけて墓を建てる人間というのがおるらしい。俺には理解できない。よろしいか。死は死であり、天国も地獄も存在しない。祖先供養うんぬんのたわごとと恫喝で食ってる細木数子以下の有象無象。死ね。俺は墓など要らぬが、ふと思うのが、ペット霊園に入るのは悪くないな、ということである。ミケやポチの写真の間に「黒田英雄ここに眠る」というのもほほえましくていいではないか。きたならしい人間どもと一緒に埋まりたくはない。それくらいだったら無縁仏となって、道ばたのたんぽぽの肥料になっていたいが日本は文明国なのでそれもかなうまい。家族の解体の危機が叫ばれておるそうだが、真に犯罪を減らしたいと思うなら、そんなものもっとどんどん解体して消滅するがよろしい。世界の肛門で愛を叫ぶとか、既存の家族の概念によりそったベタベタ映画を作る作家や監督は噴飯ものである。こいつらは、過去の映像作家の作品など見てはいないだろう。成瀬、小津、溝口、彼らの孤独感には凄愴たるものを感じる。だが、今どきの若(バカ)者たちは、孤独であることをもって悪となすらしい。キミタチに、カヌーイスト野田知佑氏の金言をプレゼントしよう。
 「友達が多いなんてやつにロクなやつはいない」。
 僕は、徹頭徹尾孤独であり、孤独の中で生涯をまっとうしたいと思っている。
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2008年01月15日

968 日本の夜と霧

      今日のMYビデオ

「日本の夜と霧」(昭和35年、松竹、大島渚、脚本・石堂淑郎、撮影・川又昂)津川雅彦、桑野みゆき、小山明子、渡辺文雄、戸浦六宏、芥川比呂志、佐藤慶、吉沢京夫

 日米安保闘争直後の新左翼と旧左翼との醜い確執を描くディスカッション映画。現在でこそ、日米安保は、日本の経済的発展を支えた要であることを、よもや共産党ですら否定はすまい。しかし、だからと言って、当時の学生たちの懊悩を僕は決して馬鹿にしない。敗戦からわずか十五年の話だ。日米が、軍事同盟したことにより、またあの悪夢の戦争が繰り返されるのではないかと危惧した学生たちの思いはよくわかる。いや、学生だけではなく、一般市民も、心情的にはこの不安に同調し、陰ながら支持していたのである。だって当時の首相が、どっからどう見て戦犯の岸信介である。国民の、第三次大戦への危機感がつのったことは想像にかたくない。僕が当時大学生だったら、当然安保闘争に参加していただろうと思う。
 だが、左翼運動の暗黒面を描いたこの映画に普遍的価値があると僕が痛烈に思うのは、ここに右左を超えた、普遍的な組織と権力の腐敗というものが、いやと言うほど描かれているからだ。
 スパイの容疑、いや濡れ衣を着せられ、苛酷な査問に晒されついに自殺に追い込まれる学生が悲しいし、その役者名さえわからぬキャラクターに、この映画の真髄がこめられているだろう。つまり、記憶に新しいところでは旧ソ連、歴史的には中世の魔女狩り、最近ではオウム真理教、右左宗教かかわらず、「教義はそうでも人間的にどうよ」と懊悩に陥るようなまともな良心の持ち主は、「おまえ××のスパイか!」と糾弾され、吊るし上げられ、政治的リンチを受け死に追い込まれて行くのだ。この映画のよさは、個人の懊悩と組織の論理の相克を見事に描いたとこにあり、また、組織で生き残っていく人間のゲロが出そうないやらしさをもうたくさんと言いたくなるほどたっぷり描いているところにある。要すに、上層部が「武力闘争」と言えば武力闘争、「会話とダンスの相互の親睦」と言われれば、踊って革命を語るのである。これは六全協(第六回全国協議会)への批判であろう。共産党は武力革命を大学生に奨励していたのだが、急に話が変わって、会話とダンスを奨励し始めるという茶番を当時演じていたのだ。真面目な学生は当然腹を立てたであろう。この映画はもろに代々木(わからん人のために注・共産党本部のこと)を批判している。公開当時、不入りを理由に4日間で打ち切られたが、理由はそうではあるまい。共産党から強烈なクレームが来たものと思われる。
 当時のキネ旬を読むと、この問題にはいっさい触れていない。ただ、投稿欄で読者がいかっている。「なぜこの映画を見られないのか。この映画の自主上映運動を起こしたい」とまで書いているのだ。この投書を載せただけでも多少はましかもしれないが、当時のキネ旬にはキネ旬の、大人の事情というものがあったのであろう。同時代を生き、公開の年に自死を遂げた岸上大作もこの映画にはまったく触れていない。時期的に、見ることはかなわなかったろうと思われる。岸上のこの映画への感想を、俺は聞きたくてたまらない。もし見ていたとしても、死期を早めただけだったりして。岸上と映画のことで語り合いたいとつくづく思う。たぶん全然話がかみ合わないだろうけど。
 この作品は1時間40分あまりの長さを持つが、わずか44カットから成り立っている(俺が自分でちゃんと数えた)。つまり、1カットが大変長いのであり、役者がいい間違えるシーンまであるが、それがリアリティを増大させている。だって、普通の人間が討論してたら、言いよどむのが当たり前であろう。その、立て板に水でないところを、大島渚はあえてNGを出すことなくそのまま使ったのであろう。そして大島は、間違いなく、新東宝における中川信夫監督の怪談映画に影響を受けている。これは、あえて長々と分析解説はしないが、俺以外にそれを看破した人物を寡聞にして俺は知らないから、これは俺だけの新発見と言っていいだろう。
 日本の株式相場が落ちまくっている。はやばやと日経平均が14000円を割った。これは世界が日本を見離している証拠である。それはそうだろう。構造改革はいっこうに進まない。また、でたらめな会社運営は野放しである。ファンドが、日本の企業をM&Aにしようと思うのも無理はない。日本の企業倫理はでたらめで、従来の談合と馴れ合い体質が相も変わらず続き、それはどこの国でもあるにしても、それが暴かれたときの国民の怒りと倫理観がないのである。日本はおそらく、文明国先進国と言われるなかでの最低の国であろう。日米安保条約に守られた、この国のこれが末路である。

      今日の一首

貴船明神男の声に告げたまふ「そらみつやまときのふほろびき」 塚本邦雄
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2008年01月13日

967 京都マイルV2!!冷や汗の写真判定

 馬連本線、4−5、1060円的中!! 競馬の神様、ありがとうございます。でも、頼むからもっと楽に勝たせてください。心臓が止まりそうでした。軸馬、ドリームシグナルは楽々一着だったが、対抗本命のドリームガードナーは写真判定。三着のマヤノベンケイを俺は切っていたので、再生ビデオスローモーションはまともに見られなかった。オッズ場で、隣のおっさんに、「にににににに、二着どっちでしょうねえ」と聞いたら、「うーん、4番かなあ」。また地下で別なおっさんに「に〜に〜に〜二着(俺はにいにいゼミか)どっちでしょおおおねええええええ」と聞いたら、そのおっさんも「4番じゃないかなあ」と言ってはくれた。ちなみに、このおっさん二人は、武に賭けていたと見えて、負けたがゆえに冷静に見られたのであろう。俺はまともに見られなかったよ。とにかく京都は写真判定が多い。しかし、すべて勝っている。京都では、俺は運が強いんだろう。今日は、馬連1−5が700円台という人気だったので、反発して4−5を大本線とし、馬連4点勝負で挑んだ。本線的中が2週続くなんて諸君、そうそうないぜ。しかも、ハラハラドキドキの結果だ。
 それにしても、ドリームシグナルは強かった。前走朝日杯で4着に敗れたが、一番印象に残った馬だ。これからも、注視して行こうと思う。私は、年明け三連闘である。来週は同じく京都、日経新春杯。今年は、京都中心のローテを組んでみようかと思う。京都競馬のGU、GVの私の勝率はすごく高いのだ。それにしても、もう一回言うが、競馬の神様、もっと楽に勝たせてください。こんな写真判定が連続しては、私は心臓発作を起こして花の命を玉と散らせてしまうであろう。勝ったからいいようなものの、このレースだけで、半年ぶんくらいの生命力を使い果たしてしまった。ああ疲れた。諸君、競馬なんぞに手を出してはあかんよ(笑)。
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2008年01月12日

966 勝ちに来た!シンザン記念参入。

 競馬ローテを変えて、先週に引き続き、京都マイルのシンザン記念に参入する。狙っていた馬が出た。五番、ドリームシグナルである。前残り有利の朝日杯で、一番いい競馬をやっていた。やはりこのレースを狙ったか。正解である。一分34秒1というタイムは出色。ここは負けられない。相手は、一番ミッキーチアフル。不利―のあった京王杯を除けば、堅実に走れる馬だ。京都マイルがベストだろう。同じく4番、ドリームガードナー。前走の不利惨敗は度外視していい。この馬の末脚も強烈、京都マイルにぴったし。まず、この3頭だ。人気馬、12番タケミカズチ、信用できない。多分、最後方からの競馬となるが、果たして追い込めるか。この馬はムラっ気が多い。あくまで押さえ。また人気馬、マヤノベンケイ、これは切る。ドリームシグナルにとって、相手は弱化している。ただ、なんか、ギリギリ二着とか、三着もありそうだな。穴は、7番チョウサンディー、15番ダイワマックワンあたりか。
 前日予想結論。馬連本線、1−5、4−5。縦目1−4。以下、押さえ、5−8、5−12。穴、5−7、5−15。
 岩田、武豊、アンカツの人気ジョッキーの上位3頭中心の予想となったがいたしかたない。ただ、明日のオッズが問題だ。たとえば僕の本線1−5は、競馬新聞のよる予想配当では、1540円となっている。本番では、こんなにはつくまい。多分、950円くらいまで落ちると思う。オッズ次第では、また予想も絞らなくてはならないだろう。明日もドキドキハラハラの展開になるであらむ。
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2008年01月11日

965 黒瀬カラン卿への批判と擁護〜角川「短歌」への期待〜

 昨日取り上げた、角川「短歌」一月号の新春討論、前半戦しか取り上げられなかったので、残りの感想を書きたい。まず、何度繰り返しになって恐縮だが、黒瀬氏の短歌観は古い。ひどいたとえでわれながら済まないと思うが、共産党の古株が特権的資本家と搾取される労働者という図式で歴史を説くのを聞いているような違和感である。ポストモダンなどというものは、たしかに文学における神性をいったん剥奪し分解するのに成功したが、共産主義同様、人間の本質にはなーんにも迫っておらないのであり、ベルボトムはいた自分の写真を見るがごとき恥ずかしさである。また、黒瀬氏が取り上げた歌をもう一首俎上に乗せさせていただきたい。

床に投げつける錠剤ジーザスが死んだのはぼくたちのせいじゃない 松野志保

 おええええええええええ(爆笑)。
 おまえなー。次の競馬で勝ったときの金を賭けてもいいが、この作者の「ジーザス」理解のベースは最近のミュージカルとか映画がせいぜいであろう。間違っても聖書なんぞ読んではおるまい。俺だって読んでないがそれでも、もしも作者がキリスト教にある程度親しんでいる人間でなおかつこう歌ったのだとしたら、「教育が無駄な人間はいるものだ」としか思えない。「錠剤」というのは多分精神科の薬かなんかだろうが、オノレの精神不安定をキリストと結びつけよう、いや無関係を装おうとして意識させようとしているそのずうずうしさはなんなのだ。イエスの死に責任はない、と言えるのは責任を負わされようとした者(ユダヤ人とか)だけであって、誰も追及してない責任の責任のがれをしてどうする。要するにこいつは、歴史的大事件と個人的事情との間に落差はないと見せかけようとして、落差のないふりをしているのである。最近はやりの、「セカイ系」とか言うゲロ増大発想の貧弱な追随でしかない。大松氏が、この松野の歌集を評してこう言っている。

大松「松野さんの歌集はセンセーショナルな感じをわざとだしていて痛々しかったですよ」

 この一首を読んだだけでも、この大松の意見は正解であろうと思える。
 系統の、「現実や自我はあやふや」系の、甘ったれた歌は、小島なおの歌を一首引くだけで木っ端微塵に粉砕されるであろう。松野を始めとして、この手の人をなめた歌を作る連中は、実は言葉の官能性を知らないだけなのだ。言葉というものを甘く見て、言葉の表現力を馬鹿にしているくせに、短歌に寄生し、そのみじめな自意識を認めてもらおうとする。子供のままでいたいとわめく子供そのものだ。加藤治郎の一派にもこういう連中が多い。また、こういうのをありがたがって新人賞に推すバカ選考委員も多いのだ。この松野の歌を評価する黒瀬氏の選歌眼というものを、僕はまったく信用する気にならないのである。なぜ、黒瀬カラン卿は、ポストモダンの呪縛から逃れられないのだろう。彼の師にあたる春日井建はそんなふぬけた近代主義とは全然違うだろう。
 と、黒瀬批判をしつつも、返す刀で言えば、彼はたいへんいいことも言っている。

黒瀬「結社はもっと自分の党派性を強く打ち出すべきだと思うんです。最近、妙にニュートラルな建前が出てくるようなところが多いけれど、もっと結社の我(が)があっていい。(中略)短歌の世界における編集者の役割を、結社はもっと打ち出してもいいと思います。」

 これは正論だ。
 なんで今どきの結社というのは結社同士こうも仲がええのだ。実に気色がわるい。かつて劇壇において、状況劇場と天井桟敷が取っ組み合いの大喧嘩に至ったような騒ぎを、なぜ短歌結社が行えないのか。たとえば、「塔」は、公的に加藤治郎批判をすべきである。加藤の短歌を認めることは、「塔」の短歌を否定することである。違うか。だから俺が、「環状線のモンスター」の批判を書きたいとい言っているのだ。結社と結社の間には、もっと、一触即発の緊張感があっていい。それが、総合誌をも面白くさせるのだ。また、黒瀬氏が取り上げた「宅間守」一連の歌の一首、これはもっと議論されてしかるべきだろう。決して、
倫理観のみで否定される歌ではないと僕は思う。とにかく、俺に「今だから、宅間守」を読ませろ。歌壇のへタレどもがこの作品に対して何も言えないと言うのなら俺が言ってやる。
 ともあれ、この新年号の討論会はまことに面白かった。最近、角川「短歌」が面白い。岡井隆×小高賢の対談と篠弘の連載も読みごたえがあるし、今号の「五十歌人競詠」も、予想に反して(失礼)いい歌が多かった。来月号も、「投稿歌人の秀歌を読む」という特集を組むという。こういう企画が欲しかったのだ。また、さらに同号には、「死刑囚の歌」という記事も載るらしい。そして巻頭には、石田比呂志、浜田康敬の新作も載るという。絶対に買う。総合誌に興味の失せていた俺が、ぜひ買って読もうと思ったほどの好企画である。このような面白い記事を総合誌には今後期待したい。

      今日の3首

一度きりの老婆の日々がすぐに来る焚き火の火照りに屈みゐる間(ま)に 河野裕子
誰からも遠くに居たいと地下鉄のベンチで電車二本やり過ごす
あの世とこの世がごつちやになりてしまへどもこの世の青空には人間のこゑ

今日は、経済のことを書こうと思ったが、予定から外れてしまった。明日は、予定外の、京都シンザン記念の予想を書く。私が狙って馬が、このレースに使われるからだ。乞御期待。
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

964 角川「短歌」一月号新春討論会を読んで

 「角川短歌」一月号、巷で話題の新春討論会「短歌はどこへ行く」をついに読む。去年の、俵、加藤、穂村の仲良し三人組の討論会(全然討論になっとらんかったが)とは大違い(加藤の発言にあった、歌集読者人口20000人説には驚いたが)。今年のは実に面白かった。なんか、吉川―大松タッグVS黒瀬、という図式になってるがむべなるかな。
 要するに、なんだかんだ言って結局のところ、黒瀬カラン卿という人物はポストモダンの信者なのである。作品を作者と不可分のものとして見ず、テキストなどという汚らわしい言葉でもって切れば血の出る文学を解剖死体のごとく扱おうとする前世紀の遺物である。いや解剖学だってもうちょっと人間味がある。これは昆虫を弁じるのに、一度も野原に出たことがないのに標本こそが本質であるとする態度と同様である。明日のパンや、平和に眠るための最小限のスペースのための苦痛を強いられない、などというのは今も昔もほんのひと握りの人々であり、彼らが発見した近代的自我だとか、大きな物語の喪失だとかいうものはそれはそれで貴重だとは思うが、物質が原子と分子からできてることを発見したって生の苦悩がいささかも衰えるわけではない。だいたい、黒瀬氏が「それはもう古い」と言ってる言い草自体が果てしなく古く見えるぞ。まるで、「これからの映画はテクニカラーでトーキーの時代だ」と言ってる人みたいなアナクロぶりである。「イベントがない日常を永遠に生きる」うんたらという発言からするとたぶん宮台真二が好きと見えるが、当の宮台のほうが「終わりなき日常」という「売り」から逃げ腰でいることをご存じないのだろうか。黒瀬氏の乗ったハシゴは、とっくに外されているのである。現に、この豊かな福祉国家・日本は、役所の無能と保身の犠牲としての餓死者を続々と出している。どこが終わりなき日常だ。衣食足りた状態が恒常的だと思っているのか。
 黒瀬氏が「これから短歌の主流になりそうな歌」として取り上げた五首の中に、実にくだらんものがある。

わたしは別におしゃれではなく写メールで地元を撮ったりして暮らしてる 永井 祐

 おえ(失礼)。
 吉川「地元で写メールを写している暮らしなんて、上の世代の人がこの歌を読んだら、切実でも何でもなくて、のんきでいいねとしか思わないよね」。
 まったくもってその通り、いったいこの歌(?)のどこに、「現代の若者の切実さ」などというものがあるのか。教えて欲しいものである。
 以前も書いたが、未来の「彗星集」は、未来を離れて、結社「修辞遊び」を立ち上げて独自にやっていくがよろしい。自分と仲間うちでだけ、「現実に足がつかないごっこ」をして遊んでいればいいのだ。相当人が集まるだろう。加藤治郎王様をスバラシイ人とあがめる臣民どもが。僕は、「短歌の二極化」というのは、その一方の極をとことんふぬけた、わかりにくさを装った低血圧なたわごとに短歌を堕さしめた加藤治郎―穂村弘連合をA級戦犯と認定できるものだと思う。
 ところで、この討論の中に、斉藤斎藤の問題歌が引用されている。

「あいりは二度殺された」などと言う権利は父にもないなどと言う権利 斉藤斎藤

 「今だから、宅間守」という連作の中の一首らしい。俺はこの一首にも論評を加えたく思うがそれは差し控える。なぜなら、当該連作を読んでいないからだ。これは実に読みたい連作だ。誰か、コピーして郵送か、メールに添付してくれないかな。ちょっとこの一首だけでも、僕は衝撃を受けている。安易な批判はしたくない。面白い素材だ。

      今日の3首

改札に人を待ちをりふとパンの耳などちぎりてみたくなりつつ 栗木京子
中指を歯にはさみつつ手袋を脱ぎぬ近づくあなたを見つけ
首筋の傷に気付けり白桃にあらねばそこより香り立たねど
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:17| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記

2008年01月09日

963 〜視点〜自死と哲学と親子丼と句跨り

「みずほ台〜柳瀬川間」人の死んだ駅の名前はいつもやさしい 砺波 湊

 僕は常々、「歌は視点」と言っているが、この作品はそのいい例として最たるものだろう。僕の利用している地下鉄もしょっちゅう、「現在人身事故のため検査をしております」なんぞというアナウンスがあるが、要するに、「飛び込み自殺がありまして現在お客様の破片を回収しております」という意味である。さぞかし酸鼻をきわめた仕事風景であろう。それに比べて、駅の名前は不似合いにやさしいのだと作者は詠う。この残酷なコントラストをテーマにした視点の鋭さがいい。短歌とは、こういうことだと僕は思うのである。「何を歌にするか」という作者の感性が大事なのだ。

棺桶を引きずり歩く「フランコネロ」ああ哲学が土煙を吐く 山本照子

 出典、マカロニウエスタンの名作「続・荒野の用心棒」。棺桶を引きずりながらさすらうわけのわからんガンマン、フランコ・ネロは、クライマックスにおいてその棺桶からマシンガンを出すやいなや悪人どもをばばばばばばばとぶち殺すのである。その情景に配する下句が無類に面白い。ひょっとして人は、そのアナーキーさに「暴力の前に敗れた教義問答が崩壊してゆく」土煙、だと思うかもしれないが、僕はそうは取らない。哲学とは要するに世界と人間について考え続ける作業のことであり、それは一つも幸福を約束しないが(このへん、間違ってる人があまりにも多いが、人間は幸福になるためになど生まれてはこないのである。自己批判せよつかこうへい)、死人を入れているはずの棺桶から死人を量産するためのマシンガンが出てきて、なんだかよくわからないヒーローのなんだかよくわからない圧倒的勝利に終わるという無茶苦茶なカタルシスにも似た、無情の快感をもたらしてくれるのではないか。しばしば誤解されるが、絶望というのは大変に甘く楽しく、希望よりもはるかに真実に近く味わい深いものである。件のシーンのマカロニな馬鹿スピリットに感動しない人間を詩人とは呼びたくないものである。この歌はいい!

親子丼その残酷をよろこびてはじめてその名つけし人はや 松野欣幸

 親子丼、なんと巧妙にしてグロテスクなネーミングであろうか。ニワトリと卵という、あからさまな親子関係をそのままドンブリにするのだ。母子監禁ならぬ母子監禁煮である。この名前をつけた人は、天才だとは思うがどういうつもりだったんだろう。明治時代あたりだろうと思うが、何よりかにより、「おお親子丼かそれは言いえて妙」とか喜んで食いに行った明治インテリ諸氏のシャレのきつさが面白くも恐ろしい。肉食が長らくおおっぴらにできなかった日本人、しかも、異常に母子の密着したこの文化において、それはグロテスクかつ附に落ちる表現だったろう。まさに、肉親を食うのだ。この作者の諧謔性が素晴らしい。これも短歌の魅力だ。ちなみに、鶏肉でない肉(主に牛や豚)を卵で閉じたものをかけたドンブリは、「他人丼」と呼ばれる(笑)。

音高く降る雨に支配されている夜のこころは句跨りする 有馬美佐子

 上記3首と一転して、情緒纏綿たる歌。雨の音は間断がない。しかも、夜であればなおさらその音が際立つだろう。作者は結句で、その心象風景を、「句跨りする」と表現している。実に美しい。夜半ひとりいる女性の心情をアンニュイに描いた詩や歌は死ぬほどあろうが、歌人として歌人にしか通じない美学をもって詠った作品は稀である。「有馬美佐子」というて典雅な作者名ともマッチしている。短歌も詩であり、内容と同じくらい視覚効果が大事である。この歌のあとに「黒田英雄」と銘じてあったらなんかぴんとこないであろう。有馬美佐子、という名前がふさわしいのだ。作者は、この歌を代表歌の一つとして大事にされるがよろしい。

 なお、昨日の秀歌選にアップし損ねた歌があったので、ここに書き加えておきたい。

そのむかし島倉千代子のうたひたる「つんぼゆすりの歌」嗚呼、聞きたしよ 花鳥 佰
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:35| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

2008年01月07日

962 「短歌人」一月号、会員欄秀歌選その31

 今月の赤丸歌。会員1欄パート1、98首。同欄パート2、127首。会員2欄パート1、94首。同欄パート2、121首。計440首。

      「短歌人」一月号、会員欄秀歌選その31

「みずほ台〜柳瀬川間」人の死んだ駅の名前はいつもやさしい 砺波 湊

棺桶を引きずり歩く「フランコネロ」ああ哲学が土煙を吐く 山本照子

音高く降る雨に支配されている夜のこころは句跨りする 有馬美佐子

無人の家に残るやさしさどの部屋も懐中電灯そなへしままに 三良富士子

受給者を受刑者と聞き紛いても違和なきにおりテレビ報ずを 小林恵四郎

細き道を蝦蟇渡り終えみえずなりぬ土くれのごと折々やすみ 北村鈴枝

土曜日が半ドンだったむかしむかし午後は限りなく自由であつた 森 敏子

世の中にさびしき響きのママハハとふ言葉のありてママチチあらず 藤井眞佐子

底うすき靴をはきたる蹠が舗道を叩く粘着のおと 脇山千代子

まろやかに大鋸屑香る製材所隠れて鬼を待ちし日とおく 後藤祐子

笑ふのは健康によい而して笑わせ人は健康いたむ みろみ

熊牛原野番外地にて生まれたる高橋惠子ほがらかなれり 伊波虎英

寝かされて見えるもの女性医師の腕の産毛はよく手入れされ 生野 檀

親子丼その残酷をよろこびてはじめてその名つけし人はや 松野欣幸

ゆっくりと葉の色つくように二人して歩ける人と終に逢わざり 阿部美佳

「代はりはいくらでもゐる」易々と唇(くち)を出でたり他人(ひと)に言ふとき 田中曄子

鶏卵一個二万円なるジンバブエ思へば割れやすし今朝の卵は 森脇せい子

恍惚とエクスタシイはどう違ふか黒髪と金髪の差ではなからむ 坂井あゆみ

児童の声に変りて減量呼びかける塵収集車近づきてくる 辻田洋美

間違へてこの世に出て来てしまつたけれど間違ひなくあの世へ帰つてゆきますから 西尾睦恵

息ひとつ大きく吐きて若者はエレベーターを降りて行きたり 荘司竹彦

アラジンのランプのごとき存在になれと言ふのか老いたる夫よ 室山郁子

濡れそぼる大樹を見つめ青色に灰色まぜる少女の自立 森 典子

早朝の屋上より聞こゆ 変声期の少年たちの「エーデルワイス」 蜂須賀裕子

乾物屋(ひものや)が突然クリーニング屋になって今年も立冬となる 森 直幹

軋みつつカーブするとき助手席の君のシャネルの香つよく立つ 三浦利晴

おとこらは夜勤の工場の庭に出て溢れて余る月光(つきかげ)を踏む 久保寛容
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2008年01月05日

961 快勝!京都金杯〜箱根駅伝と高校野球〜

 えー、馬連ド本線970円的中!!!!!諸君、970円を馬鹿にしてはいけません。100円賭ければ970円、1000円賭ければ9700円、そして、私みたいにウン円賭ければ、ウン円賭ければウンウンウンウンウン円、戻ってくるのである。9−16が、思ったより人気があったので、エイシンドーバーを除く押さえ3頭を切り、なおかつ三連複も切って、アドマイヤオーラから馬連5点勝負とした。もちろん、9−16には、切った分の掛け金を加算し、なおかつプラスαを加えた。これで負ければ、ひと月半は競馬ができなかったろう。自信はあったが、やはりひやひやものだった。だって、私が穴と買ったカネトシツヨシオーが、軸馬アドマイヤオーラを差して来たときには目の前真っ暗で、私は無我夢中で「岩田―!!アンカツー!!」と絶叫したのである。京都金杯は、毎年軸馬がぎりぎり2着なので、心臓に悪い。これまで私が買っただけでも写真判定が三回もあった。結局勝ったがな。去年に続いてお年玉を貰った。きっと競馬の神様は私に「黒田よ。今年も競馬にやよ励めよ」と激励をくださっているのだろう。今年のレースは、厳選十八戦とする。七勝十一敗でプラスになる計算だ。あと6勝。これが大変なのよ、チミたち。ローテを変えて、次回の予定は、同じく京都、日経新春杯とする。

 箱根駅伝が、実に面白かった。これなくして、日本人の新年は来ないと言っていいだろう。これはまさに、日本人の心性に合ったレースと言えるだろう。つまり、「タスキを繋ぐ」という行為に、皆感動を覚えるのだ。チャーリー浜ではないが「一人はみんなのために、みんなは一人のために」、そして「♪君たちがいて、僕がいた♪」である。だってこんな変なレース、日本だけだもんなあ。タイムが足らなくて一斉スタートなんて、まさにマゾ費スティックなさらしプレイであり、へろへろになって中継地点にたどり着いたのに、誰も待っていないというシーンに、また日本人は涙ぐみ、アナウンサーも「誰もいません!誰もいません!」と絶叫するのである。つまり、このレースは敗者の美学を楽しみつくすという、日本人の心情を掬い取ってあまりある、ナミダの年頭行事なのである。
 俺は思う。こういう人気行事こそ、公営ギャンブル化すべきだと。そして、その上がりを、福祉予算に回せばいいのである。テラ銭はJRAを上回る30%取ったっていい。総売り上げは有馬記念の5倍は軽く行くだろう。単勝、複勝、馬連もとい校連、まずはこの3パターンでいい。今年から実施していれば一着の駒沢大学は単勝800円はついたはずだ。また、校連は、2着の早稲田が穴だったがゆえに3800円はついたと思う。また、複勝の中央学院も大穴であり、これも4000円くらいついたのではなかろうか。このように、日本全国民が、駅伝を射幸心をもって楽しめばよいのだ。ましてや、それが福祉予算に回されると思えば、負けてもそうは文句が出まい。そうなればもう、九月あたりから、各校の調整や調教(?)状態が綿密にスポーツ新聞(の後ろの欄)に載るのであり、選手たちは、日本全国民の期待と財布のプレッシャーの中で走るという栄誉に浴するのである。そうなったら、沿道で旗振ってる連中も「頑張れー」なんて奇麗事なんぞほざいてないだろう。「テメーこの死んでも走れー」「まくれまくれまくれ」「てめーこら潰れろ!」という人間味に溢れたスポーツになるのである。元締めは、厚生省が筋だが、伝統なのでここはJRAの農林水産省が引き継ぐということでいいだろう。
 諸君は、これを笑い事だと馬鹿にしているだろうが、決してそんなことはない。スポーツのギャンブル化を批判できるほど、日本経済は安泰ではないのだ。消費税を、「福祉目的税」と強弁して15%に上げるなどという愚案が出ているのだ。日本経済は滅茶苦茶である。国民一人あたり160万を国に貸しているという。貸した覚えがないぞこのやろう、。だから、綺麗事を言っている場合ではないのだ。箱根駅伝を公営ギャンブル化し、福祉予算に当てよという私の意見は正論である。あの偽善に満ちた、トトカルチョ渦巻く高校野球もこの際公営賭博にするがよろしい。諸君考えてみたまえ。この二つに、国民が喜んで私財を投げうつことによって、どれだけの福祉予算が毎年毎年増えることか。石原都知事は、お台場にカジノを作るなどとほざいていたがそんな必要はない。箱根駅伝と高校野球を公営ギャンブルにすれば済むことである。賭けたほうも、負けたって納得するであろう。
 箱根駅伝と、春夏高校野球を公営ギャンブル化せよ、というのが、本日の私の結論である。ギャンブルを馬鹿にするほどの余裕は、今の日本にはない。日本の馬鹿政治家どもが、こんなド貧民な国家へと変貌させてしまったのだ。
ニックネーム 茶トラのみんく at 21:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2008年01月04日

960 京都金杯?ああ、また今年も競馬が始まった。

 えーっ、もう京都金杯かよ。早いなあ、とかなんとか言って、すぐにまた有馬記念が来るのだ。永遠の円環活動である。去年は、穴馬エイシンドーバーが写真判定で2着。馬連本線7020円を的中させ、開幕3連勝。左うちわでプラスかと思ったら、その後負け続け、結局回収率86・1パーセントで終わってしまった。ったく、競馬って難しいぜ。京都金杯は俺の得意なレース。ここはフンドシを締め直して、じっくりと予想する。
 軸馬鉄板、16番アドマイヤオーラ。この馬でまず間違いないと考える。なんせ、同じ京都マイルで、去年シンザン記念であの女傑、ダイワスカーレットを完封しているのだ。叩き2戦目、上積み十分。この馬は、このレースを勝つことだけではなく、今年のマイル路線の主役ともなるべき馬だと思う。ここは負けられない。相手本線は2頭。まず9番、エイシンデビュティ。スローペース必至。開幕京都、逃げ切り十分。そして3番、クランエンブレム。得意の京都で斤量53キロはベスト。この馬は、平坦馬場に強い。前走は度外視してよい。京都マイルはベストである。穴は15番、リキッドノーズ。実に堅実な馬だ。一発あってもおかしくない。さらに10番、カネトシツヨシオー。GVなら十分勝負になる。あとの人気上位馬は信用できない。押さえで十分だろう。ただやっぱり、エイシンドーバーはトップハンデとはいえ怖いな。
 前日予想結論、馬連本線、9−16、3−16。押さえ、4−16、6−16、8−16、12−16。穴、10−16、15−16。三連複、3−9−16、6−9−16。今年もお年玉が欲しいよお〜〜〜。
ニックネーム 茶トラのみんく at 21:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2008年01月03日

959 アララギ衰退の理由〜ストレート短歌の難しさ〜

 歌を始めて7年目に突入した。いい歌とは何か?簡単だ。それは、ストレート短歌である。カーブやフォークやシンカーではない。自分の見たもの、思ったことをそのまま韻律にぶつけること、それが短歌である。実はこれは、大変難しい作業だ。何が難しいか。それは、視点である。歌を作る才能とは何か。僕は、それは「何を題材に持ってくるか」という、選択眼であると思う。大半の歌人は、詠うべき題材というものを見過ごし、どうでもいいてめえの内面とか日常の断片とかをありがたがって詠んでいる。歌における才能とは、たぶん8割がたは、なにを歌にすべきかという、日常への観察眼に拠っているのである。よく、佐藤佐太郎の歌に対して「何げない日常を詩的に掬い上げている」という評があるが、とんでも
ない話だ。彼の視点は、何げないどころではなく、身の毛がよだつほど鋭い。たとえば、とっさに目についた3首をあげてみよう。

街空にひくくなりける月光(つきかげ)は家間(いへあひ)の路地にしばし照りたる 佐藤佐太郎
長浜のところどころに波高き故里に来て心さびしゑ
つとめ終へ帰りし部屋に火をいれてほこりの焼くるにほひ寂しも

 これらの歌の視点を、平凡な日常と果たして言えるだろうか。確かに詠ったのは、誰しも思い当たる日常だろうが、そんな日常の断片と自らの寂寥を直結させるセンス、これは稀有の才能だろう。つまり、才ある人というのは、歌にすべき刹那を直感で掴み取り、それを自らの実存と結びつける直截さを持っているのである。それは、存在そのものの孤独や寂しさと不可分なのであるが、自らを寂しい存在と認める勇気のある人間のなんと少ないことか。何度も言うが、歌人は精神のストリッパーであるという気概を持っていただきたい。
 僕は、秀歌選、名歌選に写実詠をあまり取り上げていないが、写実詠が嫌いなわけではない。いやむしろ好きである。ただ、好きなだけに、いい写実詠があまりにもなさすぎるので取り上げたくても取り上げられないのだ。特にひどいのは、よく、上句で自分の気持ちを詠い、下句でノーゼンカヅラがどうしたとか、そのへんにあった花の名前を並べるというだけのクソパターンである。読んでいて吐き気がする。花の名前は、上句に持ってきたものには、たまにいいものがある。

きつと来る雨を信じてあぢさゐは白南風のなかあをく揺れをり 黒田英雄

 せめてこれくらいのレベルの歌は詠んでいただきたいものだ。なお、この歌を駄作だとか愚作だとか言うやつはどうぞご意見を寄せていただきたい。存分反論してさしあげよう。とにかく、下句に植物を出して思いを託すという歌はやめていただきたい。「塔」にはやたら多かったが、このブログの影響か、最近はかなり減ってきた。いいことである。
 僕は、基本的いに「アララギ」という歌風が好きである。じゃあ何故、アララギという短歌思想がダメになったかと言えば、それは、写実のなんたるかを理解できる在野の歌人が、アララギの創立当時の知識人が想定したよりずっと少なかったからである。つまり、孫がどーしたとか、庭になんの花が咲いたとか、どーでもいいことしか事実として観察できず、写実の中に叩き込む情念をもたらす内面のある一般人があまりにも少なかったのだ。正岡子規やその他の先人たちは、機会さえ与えれば農民や市民の中から芸術家がたくさん出てくると思ったのであろう。また、現代においても、いい写実詠というのはほとんどない。僕はそれを読みたいと渇望しているがほとんど見つからない。それほど難しいジャンルの歌なのだ。また、アララギの衰退の理由の一つとして挙げられるのは、彼らは、植物や天気を詠っても、それを通して人間を描くということがまったくなってないということである。尊敬する佐太郎にしてからが、都市を詠むことはあっても、その都市に棲む人間の情景は全く詠っていない。人間を、詠むに価しない題材と思っていたとしたら、アララギの衰退も無理からぬことであろう。

携帯電話(ケイタイ)で話す黒服(ヲトコ)と風俗嬢(オネーチャン)に挟まれわれはレジに居並ぶ 黒田英雄

 僕は、この歌を自分ではアララギの系列に属する歌だと思っている。つまり、アララギは、「人」を排除したところにその隆盛があり、その衰退の理由もそこにあったのである。
 繰り返すが、短歌はストレートでなくてはいけない。直球である。僕は、あくまでストレート短歌を目指して、僕なりのオリジナリティに満ちた歌を作って行きたいと思っている次第である。まあ、歌壇では主流にならんだろうな(笑)。
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:58| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

2008年01月02日

958 十二月月間ランキング〜オタク歌人たちの切実な抒情〜

 ブログ開設、1069日目。総アクセス数、781145。総訪問者数、143361人。

      十二月月間ランキングベスト10

 1位 30日「下を向いて歩かう」2145
 2位 11日「角川短歌11月号を読んで」1733
 3位  6日「『短歌人』1月号、会員欄秀歌選その30」1344
 4位  7日「神話と本音と盗人と弱者」1237
 5位 12日「佐藤佐太郎まみれ」1227
 6位 13日「文法と軍艦マンション」1222
 7位  4日「カンタン短歌はカンタンか」1212
 8位 15日「『塔』12月号『陽の当たらない名歌選その1』〜歌は直感で読め〜」1191
 9位  1日「眼窩」1177
10位  8日「プロ市民=ファシズム〜白木みのるを惜しむ〜」1139

 十二月のアクセス数は26821、訪問者数は3583人でした。

 僕は、旧作日本映画が大好きである。