「いま、社会詠は」を通読する。短歌を始めて七年目にして、やっとまともな短歌論争を目にして、僕は大満足だ。というか、このレベルの論争がしばしば起こらない歌壇がヒドいのである。このディスカッションを読んだといって、自分なりの結論が出るというわけではない。それでいいのだ。ディスカッションの意義とは問題提起をし、読者の考えるきっかけを与えることなのだから。
それでも僕なりに強引に、ここに参加された小高賢、吉川宏志、大辻隆弘の三氏のスタンスを要約してみたい。
大辻氏は「社会詠は情念であり、歌の出来が全て」と結論づけ、小高氏進歩主義者の立場から「照り返し」という言葉を使って、「歌を作りつつも自分が変化していかなければいけない」と述べ、題詠化する社会詠を批判する。そして吉川氏は、「読みの決めつけ」を批判し、短歌を通じてある種の交流が喚起されるのではないかと提議している。それぞれの主張はわかるし、僕自身もこの討論から、社会詠の定義とは、と考えさせられた。いい討論である。
短歌について論争するときは、何はともあれ、自分が高く評価する歌を提示してみるのが最も
効果的なのではなかろうか。その意味で、僕がすぐれた社会詠だと思う一首を上げる。去年の「塔」若葉集に載った歌である。
卒寿にて襁褓換えるを拒みいる母は赤線に売らるるを恐れ 中尾純子
これは、痴呆に陥った母を
介護するという、言わせてもらえば当節ありがちな題材の一環として詠まれた歌である。しかし、結果的にこの一首は、現代から過去を照射した見事な社会詠(戦争詠)たりえていると思う。国家
予算の実に5割近くを軍事費に費やしながら、国民生活や、農業政策への配慮を全く欠き、底辺の生活者を犠牲にして省みなかった戦前の軍国主義日本の病みただれた暗部であり、恥部である。当時、身売りなど当たり前の話であり、貧乏な家の娘には誰でもその可能性があった。この母親なる女性は、
痴呆症となり記憶だけが娘時代に戻って、また売られるかもしれないという恐怖を再体験しているのだ。これほど痛烈な社会詠(戦争詠)を読んだ記憶がない。また、こういう歌を
ピックアップしない選者どもは、目玉の代わりに銀紙でも貼っておけと言いたい。つまり社会詠というのは、自らを安全な位置に置いて安直に批判の対象を見つけたような歌のことではないのだ。掲出歌のように、日常の中で、逃げようもなく突きつけられてくる残酷な認識、それなくして、社会詠を名乗ることはできないのである。つまり社会詠とは、
ニュースを見て善良な市民が持つべき感想を持ちそれにのっとって読まれただけでは詩たりえない。詩的に誠実であるならば、焼かれる側ではなく焼く側への共感を同じだけ持ち、生きていることの恥辱と諦念に震えずにはいないだろう。つまり、社会詠には強烈なアイロニーと挑発性が必要なのであり、その諧謔の炎に焼かれているのは真っ先に詠み手本人でなくてはならないのだ。だから、社会詠は難しい。
僕は、安直にアメリカを批判して事足れりとする歌が大嫌いだ。何度も言うが、日本の経済的発展を助けてくれたのはGHQのニューディーラーたちが与えてくれた平和憲法と日米安保条約である。日本人は自らの手で民主主義を実現したのではない。農地解放も、女性の参政権も議会制民主主義も、みんなアメリカがくれたことである。自らの力を過信した、ワクチンも受けてない迷惑を撒き散らすだけの薄汚い野犬が、無理矢理ぶったたかれ飼い犬たることを強制され、なんとか人前に出られるようになった、それが日本の真の姿である。僕たちは皆、その犬にたかるノミである。だから僕は、アメリカを単純に批判する歌など恥ずかしくて作れない。よくて、昨日自家引用した
投資家デモの歌である。社会詠はもっ屈折すべきである。あまりにも脳天気で無自覚な歌が多く、そのへんが小高氏の神経に触ったのであろう。
ただ、小高氏が批判の対象としている次の歌は、僕はいいと思った。
NO WARとさけぶ人々過ぎゆけりそれさえアメリカを模倣して 吉川宏志
これも、屈折感をまじえた名歌である。デモのやりかただって、アメリカに教わり、その猿真似でNO WARと
英語で叫んで事足れりとする日本人の能天気さを痛烈に描いている。俺はデモなんかに絶対参加しない。誰も頼みにこんだろうが。
しかし、才人吉川宏志にして誤読と思える個所を見つけた。82ページに引用された
三日目にほとほと食欲なくしけり十四歳(じふし)のわれのヒロシマ・ナガサキ 大口玲子
吉川氏はこの歌を引用して、「熾烈な体験をした人に対しての、未経験者の無力さが作者を沈黙させた」と解釈しておられるようだがそれは違う。ただ単に、原爆体験者の話や
写真やフィルムが、スプラッタ映画を無理矢理見せられるのと同じに気色が悪くてめしが食えなくなった、それだけの、しかしそれだけに、「伝えられなさ」の絶望を歌ったものだと僕は思う。僕も
子供のころ新藤兼人の「原爆の子」をテレビで見てうなされ、のちに「さくら隊散る」を見て、戦争反対だのどうのこうのより、やっぱり気持ちが悪くて寝られなくなった。反戦教育もいいが、現実の残酷さはしばしば人間の感度のレベルを超える。小中学生に無理矢理見せたらトラウマになる子が続出するのも当然である。ただし、そうした教育をするなと言っているのではない。その中から、大口氏のような詩的誠実さを持った人間が輩出されてほしいと思う。
「いま、社会詠は」。この本に関してはもっと言いたいことがたくさんあるが、また折に触れてここに書きたいと思う。