2008年02月27日

999 カツ丼は日本女性を解放する

 今日、松屋に入って牛丼(卵つき)を食った。その間、二人の女性客が入ってきた。二人とも「お持ち帰り」である。そういえば、牛丼屋でも、女性がひとりで牛丼、あまつさえ牛カルビ定食大盛りなど食ってる姿を見たことがない。ましてや、カツ丼においてをやである。Ha〜なる人物のコメントによると、女性は今やカツ丼だろうがなんだろうがなんでも自由に好きなことをやっているそうであるが、嘘をつけこの野郎。本当にそんなに、カツ丼食う女がポピュラーならば、関西関東北海道九州関係なく、もうちょっとは俺も目にしているはずだ。こういう男は、男の既得権(そんな物は本当はない)がちょっとでもおびやかされると過剰反応を起こし、抑圧された性である女性に抱くべき共感などかけらも見せず(男である、という一点以外自慢するタネがないのであろう)、やれ女は勝手にやってるのこれ以上権利を与えなくていいだの男のほうこそ弱い性であるの、被害妄想に満ちたたわごとをぬかし始めるのである。
 日本という国は、法整備はともかく、女性の権利のまるで尊重されない、世界の田舎である。例をあげよう。最近、鹿児島で評判のよかった女性のバス運転手が猛烈なセクハラを受けて退職に追い込まれたという悲惨な事実がある。なにが薩摩隼人じゃ。笑わせるな。要するにこいつら、女性に職場で対等に働かれると、てめえの脆弱なアイデンティティーが揺るがされるほど、実力がないのである。この女性は、女手ひとつで娘さんを育てているという。そのような女性を守ることこそ本当の男らしさではないか。馬鹿ども氏ね。ちなみに、幕府を倒した薩摩と長州は仲がいいみたいに思う人がいるかもしれないが大間違いである。薩摩人と長州人の気質というのは、水と油のように相容れない。長州の男は、薩摩のバカと違って、男だというだけで威張ったりはしない。いや逆に、長州の男は女性の社会的能力を高く評価している。端的に言っていろんな意味で女好きなのだ。対して件の事件に出てきたような薩摩男というものは、性的にはヘテロだろうが、実は絵に描いたようなホモソーシャルであり、いくつになっても、異性というものの他者性と向き合い、学ぶということのないボケである。薩長はもともと、不倶戴天の敵同士である。それを調停したのはかの、女性ばっかりが働きものの土佐から出た坂本竜馬である(笑)。長州出身の桂小五郎や高杉晋作は本当の意味でのフェミニストだった。実際ハンサムだったし、いい男というのは実は女性尊重主義者で、なおさらもてるのである。まさに長州人の誉れだ。
 だんだん故郷自慢になってきたので閑話休題。
 要するに、俺は、女性が堂々とカツ丼を食えるような社会にならなければ日本は変わらないと言いたいのだ。その時こそ、本当の男女平等が成り立つのである。食べ物をバカにしてはいけない。男女平等と言うと、女性にも深夜勤務をさせろとか電車で女性に席を譲らなくてもいいとか、そういうマイナスな平等にとるバカがいるかもしれないが、僕が言っているのは社会的平等であって、女性性をないがしろにしろということではない。そもそも、社会的に平等だと相手を異性として尊重できないなんて、「お前らそれでも男か」?女は冷たいとかひどいとか勝手だとか言うやつがいるが、嘘つけ、どう見たって女性はより優しいほうの性である。気をつかい、言葉をつくし、相手を傷つけまいとしている。そうじゃないと言う男がいるならそのように扱われる貴様に問題があるのだ。また女性も、バカ男に差別されることを恐れずにもっともっと闘わなくてはいけない。バカに、「女らしくない」と思われたとこでそれがなんだというのだ。男の大部分はバカだが、そんなもんに合わせる必要はない。

 三浦和義逮捕は、まさに快挙である。僕は、アメリカ人は偉いと思う。あの野郎、最初の奥さんもやっているに違いない(名誉毀損?訴えられるもんならやってみやがれ)。まさに、虫の好かないイヤな野郎だ。俺がロスの捜査官だったらその場で射殺していただろう。この裁判は、ぜひテレビ中継していただきたいものである。視聴率90%は確実である。各テレビ局は急げ。こんなサイコパスを無罪放免にした日本の最高裁なんて信用ならない。俺は、状況証拠だけでこいつは追い込めると思っている。ところで、推理作家の島田荘司様、ずいぶんと三浦無罪に肩入れなさっていましたが(噴飯)、今回なんのコメントもなしですか?なんだったらうちのコメント欄に書いてくださっても結構でございますよ。
 島田先生、警察嫌いで有名だが、だからといって、あのサイコパス三浦に生理的嫌悪感をおぼえなかったとしたら、先生の作品はともかく、人間性には疑問符をつけざるを得ないのである。

      今日の2首

邦人の顔たへがたく卑しげに/目にうつる日なり/家にこもらむ 石川啄木
ふがひなき/わが日の本の女等を/秋雨の夜にののしりしかな
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2008年02月26日

998 ピューリタニズムとカツ丼

 三浦和義の再逮捕には驚いた。俺が思うに、三浦は、簡単に言って、毛唐を怒らしたのだ。たぶん、大昔のあの初動捜査のとき、くそナメた態度で、コロンボやドレビン警部を要するかのロス市警をかんかんに怒らせたのであろう。アメリカ人は執念深いよ。カリフォルニアあたりで日光浴しとるようなバカと見えても、心の中にはヨーロッパ数千年の戦争の歴史が刻まれている。名誉を汚されたらもー許さんのだ。だから、ハードボイルドというジャンルが成立するのであり、悪人を放置すると騎士道精神にもとるという考えが向こうの正義感の根本にはあるのである。要するに、こんなサイコパスに裁きを下さずにおいたら、神が怒って自分が地獄に落ちる、とまでジャクソン捜査官は思い続けていたのかもしれない。三浦は、アメリカ人をナメていた。アメリカと喧嘩なんかしてはいけない。向こうは徹底的に分析し研究し記録し考察しということを何年も何年も何年もやり続ける。能天気に見えてその実地力が違う。なお、沖縄のバカ兵隊の暴行事件から目をそらさせるためという意見があったが、それは全然違う。なぜなら、バカ兵隊が任地でおいたをしたところで、向こうは本心ではなんも感じてないからだ。これはまた別の問題である。
 アメリカの裁判では、状況証拠だけでも陪審員の判断で有罪判決を下すことができる。有名なのは、「逃亡者」リチャード・キンブルのモデルとなったサム・シェパード医師の冤罪事件だ。この時、その州は多数決で決まる規則だったので、7対5という僅差で有罪が決まり、死刑判決が下ったのだ。のちに冤罪だったことが判明したがあとの祭でとんでもない話である。そのことを忘れさせないために、劇作家サム・シェパードはその名をペンネームに使っているのではないか。僕は、米国の法制度のもとでは、第一級殺人に時効が存在しないということを評価する。これは、罪は必ず誰かが贖うべきだというピューリタニズムに基づく精神なのだろうが、そのぶん、冤罪で死刑になるのがわんさかいるという悲惨な副産物もある。物事には光と影がある。が、犯した罪は消えない。家族に保険金をかけて殺すような悪質な謀殺に時効がないというのは正しい制度だと思うし、日本でも時効という制度はなくすべきだと僕は思っている。
 今回の逮捕に関して、注目すべきはアメリカ人の執念と、その「正義」へのこだわりである。この「正義」は、しばしばひとりよがりの超迷惑を世界に及ぼすが、個人や司法のレベルでは見上げた精神だと僕は思う。日本も、女性たちが人前で堂々とカツ丼を食える文化であれば(この話は終わってるようで終わっとらんのだ)、もっと肥強い、戦犯が大臣になったり、実刑くらったやつが議員に返り咲いたりするようなそんなバカなことはなくなるだろう。愚直な正義感というのは見苦しいものだが、日本人みたいにそれがなさすぎるというのはさらに見苦しい。だから、女性たちよ、明日からソバ屋で堂々とカツ丼を食え。付け合せはタクアンがいいと思う(論理めちゃくちゃ)。
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2008年02月24日

997 をみなとカツ丼

 ああ、これで、四レース連続、軸でなくて対抗馬が来てしまった。穴馬もしっかり来ている。ブルーコンコルド、2着に突っ込んできやがった。諸君、私のタテ目を研究したまえ。馬券がプラスになるかもしれんぞ。今日の1着3着はこたえた。3月は日経賞のみ。トライアルレースをじっくり見させていただく。ただこれも、最近本番に結びつかず、当てにならんけど。

 「伊豆の踊子」の、踊子が親しくなった学生に言う台詞にこういうのがある。「下田についたら、活動に連れてってくださいましね」。活動とはもちろん映画のことである。可愛い台詞だ。ところが、うちの愚妻はなんと、この台詞をこうだと思っていたそうだ。「下田についたら、カツ丼に連れてってくださいましね」。アホかと思った。何が悲しゅうて踊子と学生がカツ丼食いに行かにゃならんのだ。ただ、このことに関して、僕もちょっと考えさせられた。「短歌人」二月号にこういう面白い歌がある。

短か過ぎる逢瀬よひとり帰り道「かつ丼奢ってもらへばよかつた。」 安斎未紀

 僕は、半世紀以上生きているが、いまだに、そば屋などでカツ丼を食べる女性というのを見たことがない。これはなんでやねん。カツ丼というのは、めちゃくちゃにうまい、日本人の偉大な発明である。とくに、飢えてがつがつした高校生大学生などによく似合う。ところが、食欲旺盛なはずの若い女性がカツ丼食ってるところを見たことがない。これは七不思議のひとつではないか(あとの六つは知らんが)。
 現代の女性のことを、やれ優遇されている甘やかされている、権利ばかり主張して恥じらいがないなどなんだのとひがむ男は多いが、この、あのうまいうまいカツ丼を人前で食えない、というのは、実は女性がいささかも解放されておらず、有形無形の差別に晒されているという証拠ではあるまいか。社会は女性に対して、「男に嫌われたらおしまいだ」という無言のサインをのべつ発し続ける。男に対しては仕事ができないとか性的能力がないとかいろんな種類の悪口があるが、女性を傷つけようと思ったら「ブス」の一言で済む。それが事実かどうかは関係ない。「こんな女じゃ勃たねえよ」という漫画があるが(そしてその漫画はそうした男性の傲慢さへの風刺なのだが)、「オマエが勃とうが勃とうが知ったことか」と堂々としておれない社会的弱者、このご時世になってなお、男に選ばれるか選ばれないかを自己評価の基準にせざるを得ない女性の立場というものがそこにありはしないか。ショッピングの女王こと中村うさぎ氏はいまやセックス放浪者の体をなし、その本の帯に「ああ誰か私に欲情して」などと書いてあるが、欲情されようがされまいが自分は自分なんだからどうでもいいではないか。乱交パーティーみたいなとこで股ぐらを開くほうが欲情されないよりまし、というのは、当人もわかってるだろうが病気である。だいたい男の欲情なんてろくなもんじゃなく、ろくなもんじゃないことに評価をゆだねてたらろくなもんじゃなくなる。プロの娼婦たることのプライド、なんてのは針にひっかかった魚がどれだけ上手にもがくことができるか、というレースにすぎない。そこに人間の尊厳や自我はない。話はものすごくそれてしまったが、女性がカツ丼を堂々と人前で食えない社会は、女性を欲情装置として見なす社会であり、同時に、カツ丼食う女を女と思えないようなインポがはばをきかす社会である。俺は平気だ。よく食う女って愛しいではないか。男の目を気にしない女も好きだ。男なんぞ土台がろくなもんじゃないんだから、そんなのの評価を気にしてはいかん。
 女性の解放というのは、ずばり、女性が人前で堂々とカツ丼を食える社会が来るということではなかろうか。それだけ、食い物というのは文化と密接した重要な要素なのだ。なお俺は、じじいがカツ丼を食っていたとしたらこれは許せない。いい年してそんなもん食うな!まだ油ぎるつもりか!じじいがカツ丼や焼肉どんぶりを食ってる様ほど醜悪なものはない。それも文化的偏見だと言われるかもしれないが構わない。俺は基本的に、おっさんという人種が大っ嫌いだ。まだおばはんのほうが好きだ。今月は書きたいことがたくさんあり、予定が伸ばし伸ばしになってしまっているが、今日も関係ないことを書いてしまった。これも競馬に負けたせいだ。競馬に負けたときって、変なことを考えてしまう。世の中には、ネタがなくて困ってるブログ作者もいるそうだが、俺はあとからあとから書きたいことが出てきて、先に書きたかったことがところてんみたいに出てってしまうではないか。このブログを書くのも疲れるので週休二日制にしているが、それでまたネタがたまっていくのである。
 今日の結論。をみならよ、公衆の面前でカツ丼を食え!

      今日の3首

俺はもうポルノ男優で終わるのか風間杜夫の嘆きのカツ丼 黒田英雄

監督と主演女優をまへにしてわれ無言にてカツ丼を食む

胸ふたぐべかりし際(とき)も鳴る腹は年若(ヤンガー)と飢ゑ(ハンガー)の韻を踏みたり
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:06| Comment(6) | TrackBack(0) | 日記

996 ワイルドで行こう!ってか?〜フェブラリーS〜

 フェブラリーS、このレースは勝ちたい。そんなに荒れるレースではない。強い馬が勝つ、という非常に公平なレースだ。しかし今回はどうだろう。ひと波乱ある、かな?軸馬は、大外2頭、15番バーミリアン、16番ワイルドワンダー。この2頭のうちのどちらかだ。選択が難しい。府中マイル、展開、調教、ローテーション、などを鑑みて、ワイルドワンダーを軸とする。バーミリアンは自力は抜きん出ているが、決してゆるいペースにはならないと思えるマイル戦に、果たして適応できるか。出遅れ癖もあるという。このレースは、出遅れたらもう致命的である。よって、対抗にする。面白いのは4枠2頭、ドラゴンファイアーとロングブライドである。穴は、10番ブルーコンコルド、1番フジノウエーブ。フィールドルージュ、メイショウトウコンは、あくまで押さえ。あ、そうだ、6番メイショウバトラーもちょっと怖いな。15、16で決まる可能性はあるが、しかし、意外とこのレースはペースが速くなるかもしれない。バーミリアンがこけたら、とんでもない配当が出てくる可能性が十分だ。とにかく岩田、がんばって(泣)。ただし、ワイルドワンダーは馬体増であることが重要。もしもまた、減らしてくるようであれば、武豊を軸に変えるかもしれない。ここんとこ、対抗馬ばっかり来やがる。私の日記を読んでる人たち、バーミリアンを軸に賭けたほうがいいかもしれませんよ(笑)。
 前日予想結論。大本線、馬連15−16。準本線7−16、8−16、10−16。押さえ、4−16、9−16。穴、1−16、6−16。
 岩田あ〜〜〜〜、がががががが、頑張ってええええええええええ!!!!!
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2008年02月22日

995 「塔」二月号、「陽の当たらない名歌選」2〜無責任短歌の無責任〜

 赤丸歌、澤辺欄、177首。吉川欄、214首。真中欄作品1、246首。二月号赤丸歌総数、1107首。いったいどないせいっちゅうねん。

      「塔」二月号、「陽の当たらない名歌選」2

階段の段差を使いキスをする種族の脇を駆け上がれ俺 相原かろ

深々と暮れゆく空にどの花も淋しいなどと甘えはしない 黒沢弘子

まだ道が土だった頃月光を映す硝子のかけら拾いき 菊沢宏美

六戸十人の村の温とさ語りいる立松和平は渋谷区住人 橋本せい子

家事下手な息子の妻は良き妻であり良き母であり良き嫁である 岩永幸子

死にましたと電話するだけでいいんだと父は渡せり葬儀社ファイルを 尾崎知子

母の死をあへて近所には知らせぬと父は言ひ置き床屋に行きぬ 尾崎知子

凩は龍笛となり過ぎゆかむけものも通るちちははの墓 小澤婦貴子

追ひこしてゆきし人の背消えゆけり空より先にふもとは消えて 筑井悦子

なめらかに朱唇ひるがへしをとめごは養育費請求をなしをる 遠田有里子

住む人のなく荒れ果てしわが家の写真見て病む妻は泣きたり 山本 薫

大岩が山頂であるいずこよりラーメンの匂いそをすする音 真隅素子

さびしさはこんな味かとたれかけずつるりつるりと心太(ところてん)食ぶ 中村麗子

あつあつの缶コーヒーを持ち直し手の平見せて止めるタクシー 石原しょう子

ばあさんが死なば此の部屋誰が使ふ若しも若しもと言ひにくさうに 伊波邦枝

洗い場に食器を運ぶ習わしのいつよりならむたぶん六十歳(ろくじゅう) 大倉秀己

詩的だなと思いつつ聞く眼科医の「涙の層が切れています」を 黒沢弘子

黄に染まる銀杏の下の石段をユダの目をした若者がゆく 関野裕之

俳優座の面面駅に降り立ちぬ歓迎の幕の端ぴんと張れり 西内絹枝

一葉の〈十三夜〉見き月と車夫の距離の見事さ父は語りて 山沢靖子

偶然の出来事のごと唇をかさねてゐたり目を閉じゐたり 國森久美子

走りゆくタイヤにあがる水音に北山時雨の来ていると知る 永田 淳

高層の灯さざる窓見上げをり雨ふる前の雨が匂ひぬ 久岡貴子

四種類の異なる咳を聴き分けてバスの座席に目は閉じており 松村正直

みちのくの秋の街なかぶらり来て錆びたナイフを歌うひとあり 大内奈々

猫の土葬終えて病院に戻る夫 それが最後の仕事となりぬ 西藤光美

都落ちの初めの宿場芥川街道(みち)直角にここより曲がる 酒井久美子

撲たれゐる鮫の目すでに潰れしも尾鰭は強くデッキを叩く 廣 鶴雄

白神の山々錦に映えてをり見上ぐる我と見納む父と 松木のり子

潮の流れあるとも見えぬ海峡の向かうの街はさつきゐた門司 安井幸子

すぐそばに海のあること思い出す銀座の雨に柳がぬれて 岡本幸緒

 「短歌人」と違って、「塔」の選歌後記欄や、会員諸氏の選歌欄評、に強い違和感をおぼえる。歌を読むセンスが、「塔」の歌人と僕とでは全然違うらしい。もともと、名歌選をやり始めた理由は、なんでこんないい歌を誰も選ばへんのや、という苛立ちからであった。今だにそれは同じである。おそらく、僕の選ぶような歌は「塔」においては反主流なのであろう。ならば僕は、その反主流歌人たちを応援する。そこにこの名歌選の存在意義があるのである。永田主宰の言う、「結句に責任を取るな」という無責任短歌も、わからないではないが、「静かな演劇」と同じで、結論することの汗くささから逃走する気障ったらしさをしばしば感じる。情熱やドラマ性を全面に押し出さないことに頼った、女たらしの無責任さを見て取ってしまうのである。はっきり言おう。僕は、淡々とした、京大短歌会の短歌が大嫌いなのである。私の選ぶ歌の作者たちこそが、「塔」の未来を担う歌人なのである。
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:28| Comment(4) | TrackBack(0) | 日記

2008年02月21日

994 ワンカットのドラマ性

嘘を知り嘘を覚えし少女期の吾しか知らぬ人と出会いぬ 小野まなび

 たいへん不器用な印象を受けるが、心に残る一首。作者の痛みがよくわかる。僕は自分が男のせいか、どうしても女性はその思春期以前に嘘も汚れも知らぬ時期があり、どんなに世間の荒波にさらされすれっからしになろうとも、ひょっとして自分と出会っていればかつての清純さを取り戻すのではないかという、まあ分析してみると恥ずかしい感覚がある。それを自覚したのもこの歌がなぜいいのか自問してみたからだ。僕は女性が自衛のためにつく嘘が嫌いではない。というか、逆に可愛いと思う。女性が嘘をつくのは、俺に嫌われたくないからだなと自意識が膨張するくらいである。そんな女性の、自分は嘘をつくことを覚えてしまった、でも本当は……という心のもがきをいいと思える俺は本当に男の中の男だなあ。いかにも女性ならでは作れない歌であると思う。たった一箇所、「少女期」を「少年期」に変えただけでこの歌はど間抜けになる。馬鹿野郎の世界になってしまう。不思議なことだ。

「山上は色白だから幽霊だ」教壇の前に立たされ言われた 山上秋恵

 小学校時代の辛い体験を詠った中の一首。ふざけた教師から浴びせられた言葉は作者の一生のトラウマとなり、何十年もたった今、やっと歌に読めるだけのわずかな回復を果したのだ。たとえば竹山広が、原爆体験を詠えるようになるまで何十年もかかったように、真に深い心の傷というのは、言語化できるのに長い時間を要するのだ。いじめというのは、相手の存在を無にしてしまおうという凶暴な衝動である。それゆえ、上句の強烈なフレーズが読み手の心にまで突き刺さるのである。辛いことをあえて直截な言葉にするのは短歌の機能の一つであり、辛い生に、たまさかの鎮痛剤として作用だろう。苦しみは消えないだろうが、やっと体験を言語化した作者の潔さを感じる一首である。印象深い。

曲ったらすぐにわかるよ その道は干し大根のにおいがするから 高橋香澄

 一読、気に入った。リズムがいいし、(干し大根を日頃食っていればだが)馬鹿でもわかり愛唱性のあるいい歌だ。作者は、道を説明する中で最後に「干し大根のにおいがするから」と言い添えている。すばらしく直截なイマジネーションをかきたてるではないか。その道という道を僕はたどってみたいと思った。そうやってたどる道は海のそばだろうか、山の中だろうか。一緒に旅をしているような気にさせる素敵な歌だ。現代の短歌にはこうした素朴性が足りず、短歌に不可欠な愛唱性というものを持ちえないのだ。わかるか、一流歌人と言われる者どもよ。この歌は一発で僕の愛唱歌になった。

宴会場の汗にしめりし衿元を衝立の裏に回りてふきぬ 谷口かずこ

 これもいい歌。男が汗を拭く歌はよく目にするが、女性が詠うことは珍しい。なんかの間違いでうっかりコンビニの化粧品コーナーなど見てしまうと、「汗をおさえる」「臭いをおさえる」「息キレイ」だの、どいつもこいつもロボットにでもなりたいのか、と思えるほどの無臭志向である。キミタチ、異性の汗やワキの匂いを愛おしいと思わないのか!?女性が宴会場でサービスするその笑顔の裏でかいた汗を、衝立の裏に回ってさっとぬぐう。この、恥じらいとプロ意識の狭間に生じる女性性にぐっとくるのである。

 僕は、歌にドラマを求めているとしょっちゅう言っている。そのドラマとは、無理やりストーリーを作って大袈裟なことを詠えと言っているのではない。なにげない刹那のワンカットを詠えと言っているのだ。その歌には、身体感覚がなければいけないし、何よりカットが動いていなくてはいけない。賢明な読者諸氏にはわかっていただけると思うが、名歌選で僕が選ぶ歌はどれもその条件を満たしていると思っている。ビビッドな刹那のワンカット、大袈裟でなくてもいい、日常生活の中でそれが描かれていれば、僕は採るのである。それが、僕が提唱するストレート短歌というものだ。今の歌壇に必要なものは、良質な通俗性であり、技巧はむろん大事だが、99%の技巧があっても、1%の霊感がなければ、そんな歌はクズなのである。だから、愛唱性のある歌が生まれてこないのだ。何度も言って恐縮だが、僕は一流歌人の選歌をほとんど信用していない。このインテリ馬鹿どもに、二十一世紀の啄木を発見するような選歌眼はまずないといっていいだろう。
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:14| Comment(0) | TrackBack(1) | 日記

2008年02月19日

993 「塔」二月号「陽の当たらない名歌選」1

 今月の赤丸歌。栗木欄若葉集139首。花山欄192首。池本欄139首。計470首。じっくり鑑賞していただきたい。

      「塔」二月号「陽の当たらない名歌選」1

宴会場の汗にしめりし衿元を衝立の裏に回りてふきぬ 谷口かずこ

曲ったらすぐにわかるよ その道は干し大根のにおいがするから 高橋香澄

「山上は色白だから幽霊だ」教壇の前に立たされ言われた 山上秋恵

カメラにて捕えられたる紅蜀葵(こうしょっき)は自死せし叔母の手植えし炎 秋野道子

銀杏散るひざうえまでの靴下は少女と処女のあいだの紫 上澄 眠

車椅子に押されて走れば風立ちてわが手術着のなか抜けてゆく 進士 歩

なめくじはうつうつ歩む母という盲目の日もいつかは終わる 永田聖子

出征の父を送りて駅舎まで月は弦月母子をみてた 福田フミ子

冷むる時煮物の味は染みこむとふ動けぬことも無駄にはあらず 江原幹子

夜勤終へ来院せしとふまだ若き女性は腕の汚れ言ひたり 松永ふみ子

頬骨に寒さのしみる夕まぐれ三白眼の月は出でたり 原田 直

息子の代にて絶えなむ我が家の血筋の事も病みつつ配る今の雑念 石川 啓

単色にひろがる青きそらありて鋭き鍵はさしこまれたり 荻原 伸

嘘を知り嘘を覚えし少女期の吾しか知らぬ人と出会いぬ 小野まなび

公園を横切る猫の疲れおりお産のあとかゆっくり消える 北村英子

風呂を焚く焔の前がすきだつたあの頃確と見えてゐた道 古賀公子

参院で隊員に済まぬと守屋氏の目尻ぬぐふを演技とは見ず 小林登喜恵

文化の無い単なる祭と嘆きつつ生徒の作りし焼きそばすする 坂崎由明

あまたなる名画のビデオ捨て難く観てゆくままに形見と決めぬ 堀 和子

俺といふ幼の言葉に強さあり僕とたださず聞きておきたり 水口秋桜

いま以上近づけぬことこれ以上離れることもなしと訳して 森 祐子

思い出す幼き日々の影絵かな障子の向こうを知らないままに 関口健一郎

道づれはかなしみだけと思ふ日のときをり岸の芒がひかる 村田弘子

信仰と文学の道は相容れずと運転しながらふと友の言う 渡辺久美子

駅降りてモノクロームの空の下 詐欺師に生まれ来る者はなし 小川和恵

道あまたあると思いて眠りたり魚がさかなを食む絵のまえに 塚本理加

口がまだ一つだった頃ポストには丸い背中とぬくもりありき 畑 久美子

隣家へのいぶす煙を気遣いし焚火の風情唱歌はいずこへ 森 睦郎

人がみな薄暮にとけてゆく時間近眼もよき神無月かな 三浦こうこ

音なくて一生終えし人送るクラクション長く寒風に乗る 松尾睦子

 たとえ結社誌が、特集欄で取り上げるような歌であろうとも、俺が駄目だと思ったら駄目なのだ。結社誌が推そうとも、俺の記憶に残らないような歌人はしょせん二線級である。自分自身の「歌を読む目」が大事なのだ。選歌欄というのはあくまで基準。技巧のあるなしで歌を選ぶなよな、と言いたい。
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2008年02月17日

992 覚悟〜自己検閲?笑わせるな!〜

 紐育空爆の図の壮快よ、われらかく長くながく待ちゐき 大辻隆弘

 僕はこの歌が大好きだ。あの9・11同時多発テロのニュースを聞いたときの、端的な感想をもし歌にしたとすればまったく同じものができたであろう。作者が、自己を偽らず、良識というバイアスをかけずに刹那の感情を歌に昇華したことを、僕は高く評価するものである。それが短歌というものだろう。「被害者のことを思え」などという良識派の批判があるだろうし、事実当時大変な騒ぎになったのを憶えているが、とんでもない話である。おっとそれを言うなら、多くの非戦闘員を殺し、名優丸山定夫や名花園井恵子を虐殺した原爆投下や、世界中に今もぼこぼこ爆弾を落としまくっているアメリカに対して、紐育あたりに爆撃があればいいのにと俺は思っていたし、この歌に日本人が反発するその神経がそもそもわからない。
 「いま、社会詠は」の中で松村正直は、自分の「夏が来るたびに箱から取り出して日本人はみなヒロシマが好き」という歌が「被爆者には辛くて読むに耐えない歌」であるという意味の批判を鈴木英子から受けたと発言している。僕は、そのへんのおっさんやおばはんならともなく、文学者である歌人がこんな感想を言うのは表現の自殺だと考える。当事者が傷つくから駄目、というのは、悪名高い言葉狩りと同じであり、てんかん患者が傷つくからとかつて筒井康隆を断筆にまで追い込んだ騒ぎに通じる愚かさである。露悪的で、社会的には許されない表現をするのは歌が本来持つべき武器であり、それを世間的な見識で批判するような常識人には、歌壇を去っていただきたいと思う。良識で歌を読まれたのでは、有望な新人など出てこようもあるまい。歌壇の価値観=世間と一緒では、もう短歌は文学たりえないだろう。鈴木英子の歌は「セレクション歌人」で読んでおり、優れた批評精神や諧謔に満ちた鋭い歌人だと思っていたのに、この批評だけで評価を下げた。それだけ、評というのは大事なのだ。鈴木は、電車の中で知恵遅れの青年がオナニーをしているという衝撃的な歌を読んでおり、これだって読む人が読めば傷つく歌なのではないのか。それをあえて露悪的に詠ったのが歌人の矜持であり、相手が被爆者ならなぜ一転して批判に回るのか。偽善というものだろう。
 松村が、大辻にこういう意味の、鋭い質問を投げかけている。「あなたには、歌を作る覚悟というものがあるのか」。つまり、詠った結果としていかに社会との軋轢を生もうとも決して腰の引けた態度に後退しないだけの度胸をもって詠んでいるか、という意味である。大辻は、自己検閲という言葉でこの質問の答えから逃げている。自己検閲なんぞもってのほかである。かつて筑波杏明という歌人は、警察官という身分でいながら、ゲバルト学生に同情を示した歌を作り、更迭された。僕はこういう歌人は信じられる。短歌というのは、三十一文字の爆弾である。危険な文学なのである。あだやおろそかな覚悟でできることではない。決して、縁側でお茶すすってるじじばばの手遊びではないのだ。松村の質問は鋭い。歌を作るというのは、ある種、その人生を賭けて社会に戦いを挑むということに等しいと俺は思っている。何度も繰り返して恐縮だが、一流と言われる歌人が一流の選歌眼を持っているとは、皆さん思わないほうがいい。常識人の範囲でしか歌を捕えられない歌人がわんさかいるのだ。選者としては最低である。
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:33| Comment(4) | TrackBack(0) | 日記

991 合掌

 今日も、書く予定だった日記の内容を変更する。というか、予定の内容を書く気がなくなった。なにを書こうあれを書こうとそのとき思いついても、時間がたつと日常のトピックにとり変わられ、冷めてしまうのだ。社会詠について、続きを書こうと思っていたがやめた(苦笑)。
 「塔」二月号到着。たいへんショックなことが書いてあった。会員の、藤本北夫氏が逝去されたという。当ブログの名歌選でもたびたび取り上げさせていただいたかただが、藤本氏は大変歌人として貴重な存在であられたと思う。第二次大戦中の満州における苛酷な体験をベースに詠いつつ、それを感傷に陥らせず、現代を生きる自分のリアルにひきつけ、戦争を知らない世代にも、喩による伝達をビビッドになしえていた人だと思う。僕は、藤本氏の作品をいつも緊張して読んでいた。秀歌はあまたあったが、藤本氏の作品から一首を選ぶとしたら僕はこの歌を挙げる。

戦闘の合間に食みし乾パンの噛む音不意にす駅の地下にて 藤本北夫

 山本大二郎氏の追悼文から、藤本氏というのはたいへん謙虚なかただったことが伺われる。藤本氏は、結社「水甕」から「塔」に移ったかたであり、キャリアは長いが、歌集を出しておられるのだろうか。もしあったら、僕はぜひ読みたいと思う。
 また、同じく「塔」の川合都美氏も物故されたという。僕は、歌人の名前を読者に印象づけるのは、決して作品の力ばかりではないと思う。たとえば、「塔」の吉川宏志の名を僕が明確に認識したのは、失礼ながらその歌ではなく、「塔」の「特別作品」の欄に有友紗也香を採用した、たった一人の選者だったことを入口としている。それを契機として吉川氏の作品にも注目をしだしたのである。だって、いい選歌をするからには、当人の歌もさぞかし、と思えたからである。川合氏の名が僕に強烈に印象を残したのはやはりその選歌であった。川合氏は、吉川宏志氏の選歌の評を担当しておられた。僕は頑固な性格であり、いくら選評で褒められていても嫌いな歌は嫌いである。ただ、この一首に対する川合氏の評には驚きかつ勉強になった。

トイレまでの道は長いよ鏡台に般若の面がぼおつと燃えて 梶原さい子

 この歌は、僕は印象に残ったが意味がさっぱりわからなかった。しかし、川合氏の選評を読んで目からウロコが落ちた。川合氏もやはり、短歌が好きで好きでたまらなかったかたであろう。
 僕は、世間を狭くして生きていきたいという歌をかつて作ったことがあるが、はっきり言って、臆病者なのである。人の死にまともに対峙する根性はとうていない。藤本氏や川合氏にもとより面識はない。なのに、その訃報に触れてこれだけのショックを受けているのである。もしもご本人を直接知っていたなら、立ち直れなかったかもしれない。僕にとって歌人との付き合いは、あくまで作品だけで十分である。本人を知ったうえでその死に立ち会うような、そんな根性がないのである。ご両人のご冥福をお祈りいたします。
ニックネーム 茶トラのみんく at 01:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2008年02月14日

990 気障の権化〜カフェテラス短歌を駆逐せよ。〜

 とっとと本題に入ろうと思っていたのに、パソコンが空くのを待ってる間に、運悪く、またしても加藤治郎の歌を目にしてしまった。
 つ、つまんねええええええええええええええええ。
 書き写すのもしゃくにさわるが二首挙げてみよう。

あなたの夢のなかに雪ふりしんしんとわが庭石に雪ふり積もる 加藤治郎
噴水は翼を閉じて居たりけりある雪の日の口づけ香る

 えー、連作中の最後の二首をたまたま取り上げたにすぎないが、これ、いい歌だと思う人いるの?もしも、いやこういうのに感動する人が多いのだ、と言われたとしたら、それはひとえに読み手の文学性がはなはだしく劣化している結果だと思わざるを得ない。俺は一読、ケツがかゆくなり吐き気がし、蕁麻疹が出そうになった。こんな実感のない「恋愛歌」をありがたがって読む馬鹿が本当にそんなにたくさんいるのか。一首目は北原白秋の「りんごの香」の本歌取り的性格があるかもしれないが、ひどいくさいげろい。
 なにが「あなたの夢」だ。一発か二発やったからって(下品な表現だが、俺ではなく加藤が下品なのだ)、相手の夢の中まで入れると思うその浅墓さはなんなのだ。だいたい「あなた夢」というこっ恥ずかしいフレーズが、五十でこぼこになってよくまあ使えるものだと思う。こういう歌を読んで、「ああアタシの繊細な心がわかってるのね♪」と思うバカ女が世の中には多いんだろうなあ。こういう男は、誰にでもこういうこと言ってると知りもせず。
 二首目、葛原妙子や高野公彦の名歌を思わせ、上句はたいへんよろしい。んが、下句はなんですかこれは!?「ある雪の日の口づけ香る」!?三流の作詞家か、詩を作り始めたばかりの中学生か。俺が短歌をやり始めた七年前、こういうヒドイ歌がたくさん流通していた。俺は、短歌というのは三流作詞家の吹き溜まりか!と散々文句を言っていた。20代歌人にとくに多かった。いずくんぞ知らん、最近は地に足のついた情念を詠う若手が多くなってきていて、人類への希望を取り戻してきているところだ。当時の若手は、俵万智の能天気な現実肯定の歌や、加藤の詠う気分だけの恋愛歌に影響されてたんだろうな。だから僕は、この二人は歌壇の癌だと言っているのだ。
 いったい全体、歌壇に加藤治郎のファンてそんなに本当に多いのか!?いや、たとえそうだとしても加藤嫌いも相当いるはずだ。でなければ、歌壇の感覚は正常とは言えない。こういう「カフェテラス短歌」は、次第次第に駆逐されつつあるようだ。当然だろう。今はそんな、原宿のカフェテラスでケーキ食っとるような歌が通用するような時代ではない。歌壇は、加藤そしてその系列の歌を誉めそやすことをいい加減に止めなくてはいけない。極論を言わせてもらえば、加藤系(と今名付けた)の歌を放置し続けるのであればたとえば、「塔」という伝統ある結社の存在価値すらあやういと俺は思う。結社というものは、それくらい緊張した短歌観をもって屹立すべきなのであって、「塔」が、真にその結社性を重んじるのであれば、加藤ごときに原稿を頼むんじゃない、と俺は言いたいのである。なあなあの、馴れ合いの、歌壇の付き合いなんぞやめちまえ。文句があるなら言ってこい。
 すでに四十五回くらい言ってる気がするが、俵、加藤の現代歌人協会賞ダブル受賞は、長い短歌歴史の汚点として恥となって語り継がれるであろう。この二人はバブルが生んだジャンクであり、お客が多いからといって安心してはならない。お客が多いのは、ジャンクフードの常なのだから。あ、俺のブログもそうかな(←謙虚である)。
 馬鹿野郎、俺は今日、他に書きたいことがあったのに、たまたま加藤の連作なんぞが目に飛び込んできたもんだから忘れちまったではないの。俺は暇ではない。ブログを書くにも時間を割いているのだ。俺をいからせるな。責任者出て来―い。
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:05| Comment(6) | TrackBack(0) | 日記

2008年02月12日

989 「一握の砂」は何故読み継がれたか

 僕が、いつも不思議に思うことがある。どうやって歌人は歌に命を吹き込み、その歌をいつまでも読み継がれるようにしているのか。僕の永遠のベスト1歌集は石川啄木「一握の砂」である。これ以上の歌集は未来永劫出てこないであろう。しかし、明治末期に発表されたこの歌集が、大正時代を経て、昭和初期になって再発見されたのはなぜであろう。この歌集は、発表当時はほとんど注目されなかったという。要するに売れなかったのだ。それが大正時代を経て、昭和初期になって突然庶民に読まれ始めたと言う。これが僕にはわからない。そして、啄木の例の有名な歌

はたらけど/はたらけど猶わが生活楽にならざり/ぢっと手を見る
友がみなわれよりえらく見ゆる日よ/花を買ひ来て/妻としたしむ

 この二首がピックアップされ、現代にも読み継がれている、その理由がさっぱり分からないのだ。いったい誰が、啄木の歌集を注視し、いったい誰が、この二首を取り上げたのか。こういう問題は大事なのではないか。
 文学において、当人の死後何年何十年もたってからの再評価などざらにある、それには時代が追いつくことと同時発生的な評価の高まりがあずかっているのであり、最初に再発見した人物や媒体など研究するに値しない、というのが(例によって妻によれば)普通の見方だそうだが、僕はそれではいやなのである。作者同様、スポットライトを当てた人間、あくまでいち個人に帰することのできるその人の名と素性と感覚を知りたいのである。でなければ文学いや短歌に、それを評価する選者などいてもいなくても同じということになってしまうではないか。「一握の砂」は不思議な歌集である。出版当時に話題にならなかった歌集がいまだに読み継がれている。それは何故なのか、どうしてこの歌集がピックアップされ続けて来たのか、そのへんのメカニズムを僕は知りたい。なぜこの歌集が大正時代には全く無視されながら、昭和初期に再評価の機運が起きたのであるか。高名な歌人が再発見して結社誌や新聞に載せたのならその記録が残っていそうなものだがそんな話は聞かない。想像するに、近代的自我とナショナリズム、ようやく一般的なものとなってきた田舎と都会の相克という啄木の主題に二十年遅れて追いついてきた当時の文学部の学生かなんかが、叔父さんの本棚や古本屋の隅(大学の倉庫ということもあるかも)に転がってた「一握の砂」を発見して驚愕し、学生たちの間で評判になった、という過程があったとは思うが、それだっていの一番に発見した個人はいるはずだ(妻は、「そういうのは共時性といってほぼ同時にあちこちで起きるのだ」と主張するが僕は認めない)。そういうことを研究した本を読みたい。
 僕がこういうことを言うのも、真に優れた歌人を見出すのがつねにその時代に一線級と見なされる歌人であるとは限らないと思うからだ。「短歌研究新人賞」を見よ。これが新人賞に値する作品かと目を疑うような受賞者が多々いるはずだ。当代もてはやされているあるいは先生呼ばわりされているようなかたがたが、だからといって評価眼が確かだなんて誰にも言えないのである。要するに、好きな歌人というのは自分で見つけるしかないのである。啄木の「一握の砂」が出版当初黙殺され、昭和初期に再発見されたという事実の裏には、自分の目で優れた文学を見つけたいという、在野の教養人の力があったのだと想像せざるを得ないのである。自分の好きな歌人は、有名歌人の評価におもねることなく、自分の目で見つけろということなのだ。でなければ、二十一世紀の石川啄木など、発見されようもないのである。
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:04| Comment(5) | TrackBack(0) | 日記

2008年02月11日

988 秀歌の輝きとは

 今日は、「『いま、社会詠は』その2」を書くつもりだったが、予定を変更する。昨日の日記の内容を猛烈に批判する人物が現われた。誰あろう、わが妻である。大口論になった。なのでもう一度昨日のテーマで書く。妻とは、基本的に短歌に対する考えかたが違う。よく夫婦でいられるものだと思う。
 妻が言うには、「万葉集よりも百人一首のほうがいい。自分はたくさんの玉の中からとりわけ美しい玉を探したいのであって、なんで石の山の中からわざわざ玉を探さねばならん。だいたいたまさかにできたような名歌なんて名歌ではない。打率が一定しないやつは選手ではない(百人一首が名作揃いという意味ではありません←妻注)」。
 おそらく、こういう意見の人は多いであろう。前から言っている、「歌集には秀歌を引き立たせるための膨大な駄歌が必要」という意見は相当な反発を食らい、「自分で駄作だと思うものを収録するやつがあるか(大意)」という批判まで頂戴した。そう言った人は、一首一首自分で名作だと思うのばかり歌集に載せたいらしい。しかし僕は、秀歌揃いだとどれが秀歌かわからなくなる。秀歌同士だと、お互いの光が光を殺しあって結局どこに光があるかわからなくなる。これに対して妻などはやはり、「誰がどんな状態で見ても光の速度が一定(そうなの?)であるように、どこに置いても秀歌は秀歌である」とぬかすが、これはもう人生観それ自体の違いだろう。犬が西向きゃ尾は東、というのは正確ではない。尾の向く方角が変わるのではなく東西の位置のほうが変わるのである、それが僕の方向感覚だ。
 たとえば、僕は若山牧水の歌集が好きである。章立てが少なく、一ページに5首も6首もがだらだらだらだら並べてある。有体に言って、凡歌だと思うものが相当ある。その中に突然、かの「幾山河越えさり行かば」などの名作がぽんと放り込まれている。これは、牧水自身がそんないい歌だと思わずにそこに収録したんだろうか。そんなことはないはずだ。彼だって、凡歌の中に置いたほうが光ると思ったから、こんなところに無造作に放り込んでおいたのだと信ずる。僕は、こうした感覚が好きだ。そしてそこには、読者がきっと見つけてくれるという信頼がある。僕が当時の読者であれば真っ先かけて発見したであろう自信がある。つまり、僕が言いたいのは、歌集というのはだらだら読まれるべきであるということである。そこで突然いい歌に遭遇しはっと目が覚める。そういうのが、いい歌集だと思うのだ。だから、僕は角川「短歌」の、「現代万葉歌人」という特集を評価するのである。
 秀歌揃いの歌集、というものも確かにある。1ページに1首か2首、作者が吟味に吟味を重ねて収録したものだ。例を挙げよう。栗木京子「けむり水晶」、田中雅子「令月」である。僕は、この二歌集を折にふれて読んでいる。凡歌がない。ただ、この二歌集は、読むことに緊張を強いる。それがなんか、こう言ってはおかしいが不満なのだ。どうして歌集を読むのにいちいち緊張してかからねばならん。凡歌がないからだ。歌集を編む上で、著者にはもっと余裕が欲しい。秀歌ばかりでは僕みたいな読者は疲れてしまうのである。歌集を編むというのは、いろんな意味で難しい作業だと思うのだ。私の意見は暴論かもしれないがあえて書かせていただいた。
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:20| Comment(5) | TrackBack(0) | 日記

2008年02月10日

987 歌壇の主流って何?〜良質な通俗性〜

 角川「短歌」2月号を読む。実に読み応えがあった。特集の一つ、「現代万葉集/投稿歌人の秀歌」を読んで、考えさせられた。僕は、秀歌や名歌ばかりえりすぐったような書籍にはいまいち食指が動かない。結社誌を二誌もとり、毎月なめるように読むのは膨大な歌群の中から、砂の中に光るガラス玉を捜すがごとき楽しみを覚えるからである。そのためには、と言っては悪いだろうが、砂に相当するあまたの凡歌の存在がどうしても必要である。要は、歌の羅列の中にあってこそ、たまさかの秀歌が光るのである。つまり、秀歌というのは寂しがりやであり、単独では存在できない。五十首の歌が集まれば、必ず一首か二首はいい歌があるはずだ。それをピックアップするのが、僕の読む楽しみなのである。
 特集中でしきりと、「現代短歌の主流から外れた名もなき歌人たちの歌」というようなフレーズが出てくるが、この場合の「現代短歌の主流」とはいったいなんであるか。偉そうなことは言えないが、僕にはこの言葉の意味するところが把握できた試しがない。どうも漠然と思うに、真情のあまり生々しくこもっていない理論優先のものをそう言っているような気がするが、そうした視点から言うと、この特集で岡井隆や永田和宏があえてピックアップしようとしている歌などは、小説で言えば通俗的であり、ひところで言う中間小説的なものなのだろう。永田氏は、地方紙の投稿短歌欄の選者をしている過程で出会ったつぎの二首を絶賛し、事あるごとに紹介しているという。

逝きし夫(つま)のバッグのなかに残りいし二つ穴あくテレフォンカード 玉利順子
泣き夫の財布に残る札五枚ときおり借りてまた返しおく 野久尾清子

 いい歌だと思う。誰もが共感でき、かつ陳腐な言葉に頼らず観察の羅列によって深い心情を描いており文句のつけようがない。そして、この文句のつけようがない、というところがまさに前近代的であり、時には「凶器攻撃」などと揶揄される通俗性なのだが、その通俗性を僕はいいと思うのである。家族を思い、詠い上げるのは人間の自然な感情だがともすればそれはべたべたと気持ちが悪く、とうてい現代人の感性に耐ええない甘えに満ちたものになってしまい、近代短歌がそれから逃れようとひたすら無味乾燥な修辞の羅列に陥ったのもむべなるかなであるが、結局人間の感動とかそういうものは、そうした通俗性へと帰って行くのではないか。川で洗濯してるそのへんの女への恋を切々と詠ったような、元祖万葉集の歌がいまだに読み継がれているのは意味のないことではない。
 現代短歌の主流、とよく言われるが、いったいそれはどんなものであるのか、俺は問いたい。たとえば、加藤治郎とその一派のような、肉体感覚や自然な感動をあえて排除したようなもののことを言うのであれば、俺はそれを全力で否定してかかる所存である。今の短歌に足りないのは、良質な通俗性である。だから短歌が普遍性を獲得できず、インテリがたわごとを並べて自足するだけの狭い世界から出て行けないのである。だから読者が獲得できず、結社が高齢化していくのである。今、歌壇に必要なのは二十一世紀の石川啄木である。通俗性に満ち満ちた、情念めろめろ、怨念ぐちゃぐちゃの歌人の出現を待望する。そのような水気あふれる歌人を忌避する傾向が定常化しているもんだから、谷村はるかが結社賞や新人賞を受賞できない、などというべらぼうな事態が起こるのである。通俗性の何が悪いと言うのだ。通俗性あってこその短歌ではないか。通俗性こそが短歌のレゾンデートルである。歌壇の馬鹿ども、そんな当たり前のことを否定しくさって。
 なお、それだったら某サラダは通俗性のきわみなのでお前の好みに合ってるではないか、という意見もあるかもしれないが、あれは通俗を通り越して風俗である。歌壇の馬鹿どもは良質な通俗を見ずに、風俗の上澄みのようなものに現代歌人協会賞を与えたのである。加藤治郎もしかりだ。歌壇芸者とその旦那連中が。一流歌人の選歌?俺はそんなもの信用しないね。所詮は時流に乗ろうとして一般読者の需要を読み違えた浅墓どもの勘違いである。
 そういう意味で、今回の角川「短歌」特集、「現代万葉集」は新鮮だった。歌というのは、その歌人の人生を一緒になって読んでいくものだと僕は思う。それが、歌を読む喜びというものだと僕は思うのだ。
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:34| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記

986 自我の安定と不安定〜不器用さの幸福〜

 今月はできるだけコメントを多くしようと思っている。

逃げ惑ふわれの眼に映りしは空襲のなか燃ゆる火葬場 中山邦子

 一読、大笑いし、一瞬後にしまったと思った。これは考えてみれば大変悲惨な状況である。考えなくてもそうだが。空襲でぼんぼん町じゅうが炎上している最中に、死者を炎上させるための火葬場が一緒になって焼けているという。これは言うなれば、轢き逃げされた人を収容した救急車が人を轢いたみたいな、あえて言えば究極の修羅場の中のドタバタである。昔から究極の悲劇は究極の喜劇になると言われているが、その中でもこの状況はどんな鬼畜な作家も思いつかないくらいのインパクトがある。

MRI頭上に響く空間に炎のなかのひつぎを想ふ 薄葉 茂

 上の歌と、火葬場ネタがかぶってしまったが、MRIというものをまだ受診したことがないがなんでも、円筒形の狭い場所に全身を突っ込まれるものであるらしい。下句の視点が断然いい。噂によるとその検査というのは、かなり騒がしい音が患者に聞こえるものらしい。それを作者は炎の中のひつぎ(入ってるのは自分)と捕えた。その連想が秀逸である。考えてみれば、それは誰もが体験する音でありながら誰にも伝えることはできないのだ。

休日のバイキングでは不器用な家族な方が幸せに見える 丸井まき

 これも視点の面白い歌。たまの休日、ひさしぶりに外食でも楽しもうかとやってきた一家、バイキング形式に慣れてないので、すぐ人の流れを乱したりトンカツとアイスクリームを一緒の皿に載せたりとどうもやることがぶきっちょである。しかし、逆に考えてみれば普段は家庭の料理をみんなで食べているということで、こういうときスムースに処理してのける人間なんてのは外食慣れした連中であるということだろう。普通だったら、「なんだこの雰囲気読めてない邪魔な連中は」と思うところに、不器用さの幸福を作者が感じたことが秀逸である。

われに向き大きく手を振る夫の背でライオンの目が光った気がする 田端洋子

 これも面白い歌。解釈が分かれるだろう。最初は、夫をライオンの勇姿に見立てたのかと思ったが、冷静に考えてみれば妻や恋人からそんな偉く思ってもらえる男なんて地球上にはいないのである。佐々木幸綱の、子供から金色の獅子に見てほしい、という有名な歌だって、奥さんがそういう目で見てくれなくなったからこその皮肉な歌ではないのか?なので、奥さんが夫をライオンの目を持つ男と見ているとは信じがたい。ならば何なのか、と言うと、奥さんの前で能天気に油断しきった男というのは、もしもライオンが背後にいたらひとくちで食われてしまうくらい間抜けな存在なのではないか、と思うと、我が身を振り返って少し戦慄してしまうのである。これも、視点の面白い歌である。

放浪の目が絡みつく地下道の出口のあたり風が尾を引く 平柳ミツ子

 これは悲しい歌だ。僕は一読、これはホームレスを詠ったものだと直感した。上句がいい。ホームレスだって、人がいっぱいいて蔑みの視線を浴び、うすら汚い照明に満たされた地下道なんかにはいたくないはずだ。普通の人は彼らに感情や願望があるとは思いもせず、その顔をのぞき込むこともない。が、この作者は彼の視線が渇望に満たされて地下道の脱出口を見つめるのを見たのである。それはさながら収容所の囚人のようだ。囚人と同じように、彼もまた社会によって選別され囲いこまれ、他にどこにも行きようのない狭い狭い牢屋の中に押しこめられているのである。ここにいたくはない、だが、一歩出たら待っているのは死でしかない。風が尾を引く、という結句がシビアだ。

踊り場で歩みを停めし看護師は深呼吸して階下に向かへり 牛尾誠三

 看護師というのは、常に緊張を要求される仕事だろう。このナースは、踊り場で歩みを止めたという。自分に喝を入れてかからねばならぬほど、そのときの状況が深刻だったのだろう。結句の「階下」という言葉が無気味に死のイメージを呼び、この看護師が今から患者の死に立ち会うのだという連想を爆走させる。この歌の凄さは、さり気ないが死を暗示する言葉が連ねられているということだ。踊り場は転換点であり生と死の境目である。深呼吸も、死者の最後の息吹に直結し、階下は言うまでもない。この歌は、なんの修辞遊びもないが巧みである。見たままを詠っただけかもしれないが、看護師の一瞬の動作に戦慄すべきものを読み取った作者の感性がすばらしい。加藤治郎はこの歌を見習ったほうがいい。

 二月六日に書いた「自我の安定=ストレート短歌」の読者数が多い。ちょっと言い訳を述べさせてもらう。僕は、自我が安定した歌人がいい歌を作れると言っているわけではない。自我が不安定で、いい歌人というのはもちろんいっぱいいいる。不安定な自我を守るために、社会や共通認識などあらかじめないものだったかのようにふるまうのが問題なのであって、自我が不安定なりに外界と軋轢しようとしていく歌人なら僕は大歓迎である。例を挙げれば「短歌人」の松木秀、生野檀がそれに当たる。何が嫌いと言って、社会も政治も存在せずアイスティーの氷がとけたからどーだこーだというような(あくまで今思いついた印象で言っております)ふにゃけた情熱欠如なたわ言をぬかす「歌人」が嫌いなのである。これも今思いついたが、こういうのを「カフェテラス歌人」と呼んでこまそう。こういうのはそのアイスティーの底にごきぶりが沈んでいたところで見なかったことにしてすましてしまう類いの連中である。
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:51| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

2008年02月08日

985 「短歌人」二月号「会員欄」秀歌選その32

 今月の赤丸歌。会員1欄パート1、124首。同パート2、161首。会員2欄パート1、143首。同パート2、184首。計612首。

      「短歌人」二月号、会員欄秀歌選その32

踊り場で歩みを停めし看護師は深呼吸して階下に向かへり 牛尾誠三

休日のバイキングでは不器用な家族な方が幸せに見える 丸井まき

MRI頭上に響く空間に炎のなかのひつぎを想ふ 薄葉 茂

阿部寛・草刈正雄と美男子は水気が抜けてから勝負する 山本照子

ナポリタンスパゲッティとは未(ま)だ道が砂利だった頃の土曜の定番 勺 禰子

不自然に明るい家族が横に居るミスドの前の薄暗き墓 勺 禰子

大学に昼食とらうと言ふ妻に従ふ京大医学部ランチ 森川武彦

縁側の板に尽きせぬ爪のあと猫には猫の寂しさもあれ 佐藤宏子

月の夜に「めがねはいかが」と売りにきた絵本読みおり午後の図書館 後藤祐子

放浪の目が絡みつく地下道の出口のあたり風が尾を引く 平柳ミツ子

黒子に徹してゐると言ふ貴女決して黒子ではない表情で 洲淵智子

犬を呼ぶ声を久しく聞かぬまま散歩の道に冬は来たりぬ 大原幸子

(性的に牡羊と山羊は合うしかし性格的に不一致である) 天瀬夕梨絵

夏の朝のような夕べ 窓際の上司二名が学生に見え 尾方 裕

一群が同じことするペンギンは男子(だんし)みたいと女子児童言ふ 野上佳図子

八十の啄木の歌いかならん読みたくもあり読みたくもなし 榊原トシ子

十七年築地市場に生きし人五輪招致の署名を拒む 村瀬直躬

売国の虫にはあらずにつぽんを恥ぢてちぢみて蚯蚓ののたうつ 斎藤 寛

入替えのなきシネマにひさしぶり観客(きゃく)すすり泣く場面より観みる 藤原美絵

塀越しに花賜びし老女(ひと)見えずなりて売家のチラシ新聞に入る 青木みよ

セピアに色褪せてゆく家族写真 セピアの世などかつてありしか 萩島 篤

グラウンドに銀杏雌株のもみじ散り少しずつ肥えゆく体育教師 久保寛容

短か過ぎる逢瀬よひとり帰り道「かつ丼奢ってもらへばよかった。」 安斎未紀

屋根の上の銀杏落葉は銀色の褥(しとね)となりて青空を呼ぶ 鎌田ヒロ

後からそつと差しかく雨傘に乙女さびたる孫を見上げぬ 原田美代子

ひたすらに没つ陽を追ふ鴉二羽とどこまでゆけばひと日がをはる 尾本直子

正論でこの世を生きてゆけるなら 夕餉のキムチ鍋の混沌 近藤かすみ

逃げ惑ふわれの眼に映りしは空襲のなか燃ゆる火葬場 中山邦子

プログラム順位のこだわり捨て切れずステージに立たば弥次のひと声 竹安啓子

竹叢(たけむら)の秀(ほ)のしづまりを眺めいて妻との諍(いさかい)虚しさを知る 深津禮ニ

丑三つのラジオが流す歌に和す一オクターブ低きキーもて 生野 檀

われに向き大きく手を振る夫の背でライオンの目が光った気がする 田端洋子

 「短歌人」は、「作品2」欄が圧倒的に面白い。「作品1」欄は停滞している。もっと頑張らなければ。
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2008年02月06日

984 自我の安定=ストレート短歌

 僕の歌で、これまで活字化されたものは619首だ。今日ひさびさに自分の歌を読み返してみる。実に断定調で、自分が世界の中心で俺様を叫んでいるような歌ばかりだ。別に結句で結論づけようと意識していないが、結果としてそういう歌が多く採られている。それはそれでいいと思う。
 僕は、自分で、文学者としてこれでいいんだろうかと思うくらい自我が安定している。たとえ他人からボロクソに言われ、メールが炎上し、「世界中がオマエを嫌っているぞ」と言われ、悪質ストーカーが発生しようと、それでノイローゼになったりする人の気持ちがわからない。だって、他人は他人で自分は自分ではないか。ただ、そういうどっしり性格が文学に向いてるかどうか、と問われればちょっと考えざるを得ない。歌人には、繊細な人が多い。というか多すぎる。変メールを送りつけられたり2ちゃんねるで晒されたり匿名でカミソリが送りつけられたりエロサイトに貼りつけられたり、たかがそれくらいのことでネットや表立った活動から撤退してしまう人が多いというが、僕はなんでそんなことが気になるのかさっぱりわからない。これは、強がりだと思われると困るので念には念を入れて言う。本当にまったくさっぱりわからないのである。嘘だと思ったらここのコメント欄並びに2ちゃんねるを炎上よろしく。
 僕の考える「自我の安定した歌人」の代表は浜田康敬である。ぬーぼーとした中にも、実にどっしりとしたふてぶてしさを讃えた歌人だ。そして、巧みなストーリー性での自己演出をおこたらない。あるいは寺山修司もそうだと言える。浜田や寺山に共通しているのは、演劇性人格障害のケがあるということである。みずからを主役とした舞台に一生立ち続けることができ、まかり間違っても裏方の人生なんぞに思いをはせたりしない。でなければ、さながら「糞尿たん(漢字が出ない)」を読むがごとき薄汚い(最上の褒め言葉です)一首、

豚の交尾終わるまで見て戻り来しわれに成人通知来ている 浜田康敬

 のような、悲惨な状況の中でスポットライトを浴びて見得を切る歌は詠めまい。自我が安定している歌人こそ、僕の考えるストレート短歌を詠むことができるのだ。だから僕は、僕の歌はストレート短歌であり、ストレート短歌を世に提唱していきたいのだ。僕が、加藤治郎を許せないと思うのは、彼はどう見ても自我安定型の人間である。なのに、自我不安定型の若者に、「この人は自分をわかってくれる神」と思わせる詐術にたけている。自我が安定していればこそ、例のゆりの花瓶のごとき傲慢な歌が詠めるのである。あれは女性の変わり身の早さに感心しているようでいて実は、「ひいひい言わせてやったぜ」という自慢こきの歌なのである。実に傲慢であり、女性が未練を述べたときに「大人の関係」とやらを主張してあっさり捨て去りそうな下劣さまでを感じさせる。加藤よ、自我が不安定なふりをするな。ストレート短歌を作れるくせにウケ狙いの修辞遊びばかりに凝りくさって。俺の目は誤魔化せないぞ。
 今どきの歌人たちはひ弱すぎる。いちいち批判やネットの晒しに敏感で、僕に言わせれば、自分の人生の主役ではなく、役者の動向でおろおろと焦点を変えてしまう裏方である。歌人は、スタッフ根性ではだめだ。他人を立てるなんてことは一瞬たりとも思わなくていいのである。自分こそがスターであり、脚本やギミックや音響や照明でがんがん盛り立てさせ、それを本当の自分だと思えるような自我肥大こそが必要なのである。自我が安定した歌人の出現を待つ。ある意味、小島なおも今どきめずらしい自我安定型の歌人かもしれない。でなければあのようなスケールの大きな歌は詠めないだろう。文学者のイメージとして病弱で繊細、というのがあるかもしれないが、文弱派の先鋒みたいな朔太郎や啄木、龍之介、全員酒や睡眠薬でへろへろだったがその我の強く近所迷惑だったこと比類がない。今の若い連中、全員、「近所迷惑だ」と言われることを死ぬほど怖がってないか。「空気読めない」とかきったならしい言葉をはやらせくさって、だいたい空気を読んで雰囲気をこわすまいとするようなのに文学ができるか。後ろ指をさされ悪い評判が立ち友達が少ないことをなぜ自己陶酔の手段にできないのか?僕は自我が安定してるのでわからなくてすまんが誰か説明してくれ。
 とにかく、スケールの大きさを感じさせる若手歌人が少ない。そんな中からあえて何人か挙げてみよう。吉川宏志、松村正直、谷村はるか、田中雅子、有友紗也香、この5人である。
 ところで、夕刊に、寺山修司の未発表歌が発見され、刊行されるというニュースが載っていた。寺山は、短歌とは決別したと思われていた1973年以降、ひそかに詠み続けていたらしい。それはそうだろう。いったん短歌を始めたやつが、そう簡単に離れられるわけがない。あの韻律は、好きになったらやめられない、植木等ふうに言えば「わかっちゃいるけどやめられない」、金にならんがのめりこんでしまう、悲しき玩具なのである。
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:26| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

2008年02月05日

983 「今だから、宅間守」

 冗談で、「住所を調べて送れ」と書いたら、「読者」とのみの差出人の封筒で斉藤斎藤「今だから、宅間守」のコピーが送られてきた。「読者」氏には感謝する。そして、こういう冗談はあまり言わないほうがいいかなとも思った。なんか、俺はいずれ後ろから刺されるんじゃないかという気がするのである。それほど、当ブログに対する抗議メールはすごいのだ。もちろん、支持や擁護もね。
 文学というのは、決して標準的市民の価値観を安泰なものにさせるためにあるのではない。ガキの頃から文学作品をなぞという学者がおるが、文学というのは、あんな悪いもの読んではいけませんと言われても読むガキが読んで人生を誤るためのものであって、そこは鬼畜と病人と娼婦と殺人者の巣窟なのだ。今回、斉藤斎藤が宅間守という稀にみるトリックスターを題材に歌ったというのは、たいへんな快挙であり、勇気の産物だと思う。力作である。面白く読んだ。
 前にも書いたが、「今だから、宅間守」の「今だから」は、決して「この異常な殺人のことを風化させてはならない」という意味ではなく、「普遍的なこととして捕え直し、皆有罪の十字架を背負え」という意味なのだと僕は思う。この一連には、最後の一首を除いてことごとく、過剰とも言える詞書が添えられている。しかも、表面的にマスコミの報道を追っただけではわからない、調書から採ったものが使われている。これはもう、佐木隆三が調書の内容の取捨だけで「復讐するは我にあり」を書いたように、ノンフィクションの積み重ねの中からフィクショナルな真実を掬い上げるというあの手法に通じるものがあり、それを韻律にまとめた言葉たちは鮮烈である。おそらく斉藤斎藤自身、「まかり間違ってたら、絶叫しつつ小学校に乱入していたのは俺だったかもしれない」という恐怖をリアルに感じたのではないか。文学者たるものはこうじゃなくちゃいない。安全な小市民的立場から、誰からも非難を受けないような当り障りのないことを詠ったってそれは文学ではない。自分の暗黒を暴きたてることなしになんの表現だろうか。この一連には詞書なしでも十分通用するいい歌がたくさんある。

仏にしてから殺したかったが殺してからでも遅くはないか仏にしたい

 獄中結婚した奥さんの立場で詠ったもので、その複雑な心情がよく現われている。もっとも、「仏」という言葉への感受性にはいささか違和感があるかもしれない。仏とは執着のない存在であり、「真人間になって償いと反省の余生を送りたい」などという執着をついに持たなかった宅間くんは現生人類の中で最も仏に近い存在(もう存在しないけど)である。「仏」というのは「いい人」という意味では全然ないし、衆生に慰撫や救いを与える存在だと思ったら大間違いのこんこんちきである。究極の無意味の体現、それが仏である。

 うちの子は天使じゃないと思っても言える空気ではなかったろう
 家が安定した裕福な子供という不条理さを世の中に分からせたかった

 これらも、強烈なアイロニーと挑発性に満ちた歌である。善良な市民(あるいは善良な市民の一人だと思いたい、ネットの炎上に加担するたぐいのやから)からは、安全地帯からの轟々たる非難を浴びるだろうが、文学とはもともとそうした危険性に満ちたものである。ある種、世間と対決するぐらいの、少数者のための真実をシニカルに貫く武器である。これは大辻隆弘氏の紐育炎上の歌にもつながる文学的誠実さである。僕は、何度も述べるが、創作者の気持ちをこの大量殺人者にリアルに寄り添わせた、そのことに深い意義を感じるのである。ただ、この大量の詞書が、そうせざるを得なかった世間の偽善を読者に確認させる装置として機能していて、言い訳めいて見える感はいなめない。鬼畜評論家村崎百郎氏だったら、「ったく気持ちわりいよなあの遺族連中の自己陶酔!」の一言で済ませ、言い訳なんぞせずにせせら笑っているであろう。実際僕は、この連作29首が、まさにそれゆえに話題となった詞書が、本当に必要だったのだろうかと思う。いや、必要なかったと結論づける。「今だから、宅間守」と題して29首をただ並べてみせたほうがより効果的だったろうと思う。ただ、斉藤自身は、読者の「読む力」を信用できなかったのだろうと思う。確かに詞書があって判り易いのだが、そのぶん、宅間守という存在の、宗教的とも言えるほどのスケールを損なっているのは否めない。もう、説明っぽくていやになるのだ。短歌は想像力の産物だ。宅間守を巡る世間の言質の気持ち悪さをわざわざ述べなくては非難されると恐れたとしたら、それは作者の怯えというものであろう。
 大辻隆弘氏も、例の紐育の歌で、歌人たちからさえ相当の非難を浴びたらしい。冗談みたいだが斉藤斎藤も相当非難したらしい。いずれにせよ、一線級歌人どもの、歌を読む力なんぞというのはその程度のものであり、俺は基本的に馬鹿にしておるのだ。短歌というのは、危険なものであると俺は何度も言っている。こんな短い韻律だからこそ、挑発性と諧謔性が必要なのだ。綺麗ごとばかり詠っている短歌になんの力があるか、なあ加藤治郎&彗星集の皆様よ。「コンナニ傷ツイテル僕ヲ見テ、哀レンデ」?勝手にやってろ。練炭くべた七輪でも囲んで自閉してろ。私の選歌を批判したArukaさんよ、あなたの好むような歌は「彗星集」に山ほど集まっている。あなたが「詩的」と思うような世界は。「未来」に入会して仲良くやったらよろしい。
 いずれにせよ、この斉藤斎藤の連作は問題作である。あらゆる人があらゆる感想を述べるべきだ。もしもその結果斉藤斎藤が裁判を起こされ敗訴されるようなことになっても、それは詩的勝利というものである。僕の感想だが、斉藤斎藤という歌人は、確かに才はある。しかしもっと、私みたいに心臓に毛がはえたようなふてぶてしさをもって短歌に挑んでいただきたい。NHKホールでにたにた笑ってるだけが能じゃないだろう。
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2008年02月04日

982 一月月間ランキング〜加藤治郎大先生〜

 ったく。連軸馬、4着ばっかり来やがって。4着当てるために俺は競馬をやってるんじゃねえぞ馬鹿野郎(八つ当たり)。対抗馬ばっかり来やがる。諸君、俺の対抗馬から予想を練ったら億万長者になれるかもしれないぜ。中二週置く。次回はフェブラリーS。絶対当てる。

 ブログ開設1100日目。総アクセス数809212、総訪問者数147094人。

      一月月間ランキング

 1位 17日 「心ある青少年たちよ」1941
 2位 26日 「太っちゃイヤーよ〜急遽参戦、AJC杯〜」1805
 3位 12日 「勝ちに来た!シンザン記念参入」1773
 4位  8日 「〜視点〜自死と哲学と親子丼と句またがり」1699
 5位 24日 「短歌とは徹頭徹尾孤独な文学」 1401
 6位 18日 「シビア〜竹中平蔵〜」1325
 7位  7日 「『短歌人』一月号会員欄秀歌選その31」1273
 8位  4日 「京都金杯?ああ今年もまた競馬が始まった」1240
 9位 11日 「黒瀬カラン卿批判と擁護〜角川短歌への期待〜」1226
10位 10日 「角川短歌1月号『新春討論会』を読んで」1114

 一月のアクセス数は、28067、訪問者数は、3733人でした。

 2ちゃんねる短歌スレに、面白い書き込みがあったので紹介する。

http://www2.2ch.net/2ch.html
 これの432番の文章が次のコレである。

>ボロクソに言っておきながら加藤治郎の歌をパクるおバカさんw

 まず、432番氏にお礼を言いたい。私の下手な歌の発表を、毎月読んでいただいているのですね(感涙)。ではここで、432番氏が、私がパクったと称される加藤治郎大先生の元歌と、私の歌を並べてみませう。

マガジンをまるめて歩くいい日だぜ ときおりぽんと股(もも)で鳴らして 加藤治郎
半袖で行かうって感じの秋陽だね日刊競馬を肩で鳴らして 黒田英雄

 まず、加藤先生の歌だが、この人の特性だが実〜〜〜〜に気障ったらしく、現実味のない歌である。おまえはマガ×ンハウ×の回しもんか。こんなアメリカ人みたいなイキな動作に似合う日本人男性なんぞいるのか。いや、アメリカ人だって、大半は無教養なプアホワイトで、片岡×男みたいなノリを実現できてるやつなんておらんだろう。少なくとも、サム・シェパートの戯曲にこんな気取った連中は出てこない。いかにも、ポップアートを短歌に世界に生かしてくだされる加藤大先生らしい気障ったらしい歌だ。こういう歌を、新しい時代の現実把握の方法だなどと認めた奴は誰だ。馬鹿者が。ひょっとして「お」のつく人か?俺は、「未来」という結社に対しては言いたいことがある。特に、加藤、彗星集、某「お」のかたがたである。お前らが現代短歌を駄目にした張本人である。今月は、競馬に二日もとられたが、このへん言いたいことが山ほどある。特に「未来」よ、俺は許さんぞ。いかっているのだ。
 それに比べて、黒田英雄くんの歌のなんとリアリティがあってしかもさわやかな秀歌であることか。加藤大先生のごとき気障ったらしさはまったくなく、しかも、加藤先生の語法を踏襲しつつ、パロディにして原典を越え、原典脱構築した秀歌となりえている。諸君、好きな歌人の歌ばっかり読むのが能じゃない。嫌いな歌人の歌を読むのも新鮮だよ。なぜかというと、片っ端から改作したくなってくるからである。今度とも、加藤大先生の歌を僕は改作して作って行きたいと思うものである。もちろん、オマージュ(尊敬的パロディ)ではない。私ほど、加藤先生著「環状線のモンスター」を熟読している者はおるまい。俺は十四回読んだぞ。多分、加藤の支持者たちも、実は俺ほどは読みこんではいないだろう。この歌集は面白い。実に面白い。しかし、ボロクソに言いたい。しかし誰も俺にそれを書かせようとはしないもんな。ネットに書くのでは駄目だ。活字にしたい。「塔」に書かせろと言っているのに。
 今日のまとめ。好きな歌人の歌集だけではなく、大っ嫌いな歌人の歌集も一冊買って読みましょう。そして、私は「未来」に対して批判記事を書きます。乞御期待。
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2008年02月02日

981 京都がある〜京都牝馬ステークスGV〜

 ウインズへ出かける。結論として、東京新聞杯は回避した。俺の敗戦記を楽しみにしていた皆さん、残念でした。サイレントブライド、マイナスになったら買おうと思っていたがプラス2キロ。それになんか、勝負師の勘がイヤ〜な気配を察知し、「これは荒れそうだ」とアラームが鳴ったので、買わずに観戦。負けろー負けろと思って観戦するのも疲れるものだ。これで、予想が当たったりしたら目も当てられない。一着二着馬は、紐としては押さえていたがとても軸には上げられなかった存在。僕の意識の中に、明日の京都があるから無理をするなと深層心理が教えてくれたのであろう。
 家に帰ってからどっと疲れた。たとえ回避したといえども、競馬の予想というのはとにかく疲れるのだ。京都金杯から5連闘。明日もやるから六連闘。ローテーション競馬にしてから、緊張感がすごい。賭け金が半端じゃないからだ。競馬記者は、よくまああんんあ毎週毎週予想を立てるものだ。彼らの大半は、胃が溶けたり穴があいたり胃の三分の二がなかったりするそうである。その気持ちはわかる。ギャンブルというのは苛酷なものであるがやめられない。なあ諸君。フロに入ってやっと疲れが取れた。京都牝馬ステークスの予想をやる。鉄板馬は決まっているが、相手を絞るのが実に難しい。これも一筋縄ではいかないレースである。
 軸馬、14番ルメール騎乗のブルーメンブラッド。疲れてるので理由は書かない。競馬紙における予想単勝は350円だが、俺がノミ屋だったら180円ほどの鉄板だと思っている。簡単なレースかと思っていたら、相手選びが実に難しい。紐本線には、5番ザレマを抜擢。不器用な馬で、色々不利があったりして苦杯をのんでいるが、明日の京都の馬場状態はこの馬にとってベストだろう。明日の京都は、パワーが必要だ。同じく10番、ランペイア。京都の荒れた馬場は合いそうだ。もちろん3番、実力馬アドマイヤキッスも、ガミにならない程度に買う。
 前日予想結論。馬連本線、5−14、10−14。準本線、3−14。以下、1−14、6−14、9−14、11−14。穴、8−14。八番ショウナンアクトは大穴だ。13番コスモマーベラス、4番ローブデコルテ、斤量が57、58は苛酷。これは切る。明日は絶対に回避しない。京都がある。その一言が、東京新聞杯を回避させたのだ。京都競馬場を僕はひたすら愛している。相性がいいのだ。
 問題馬は7番、アンブロワーズである。この馬の取捨に関してはいまだに迷っている。斤量56キロは彼女にとってキツいと思うのだが判断が難しい。とにかく、ブルーメンブラッドは強い。ブルーメンブラッド連対確率、85パーセント
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2008年02月01日

980 馬体を絞れ!〜東京新聞杯GV〜

 アドマイヤジュピター、プラス18。ドリームパスポート、プラス10。馬体を絞れずに出てきたがそれでも軸を確保できるだろうと思っていた俺が甘かった。要するに、この時期絞れないような馬は実績があっても軸にからまないということなのである。それを肝に銘じて明日の戦いに臨む。
 軸はズバリ、大外、サイレントブライド。前走は、展開が全く向かなかった。この馬は、平均よりやや早めのペースで、力勝負で競り勝ちする馬だ。今回は展開が向いているのではないか。また、マイルのほうがよいだろう。対抗は10番、ジョリーダンス。自力はある。ただ、この女傑は、折り合いが難。それさえ克服すれば十分勝てる。穴は13番カネトシツヨシオー。府中マイルは合いそう。あと9番、リキッドノーズあたりも面白い。5番カンパニーも実力十分だが、中10週、いったい何キロで出てくるだろうか。この馬は少なくとも、4キロ以上絞れていないと怪しい。力石徹なみの減量をしてきて欲しいものである。あと、武のマイケルバローズや、コイウタも、絞れてないだろうなあ。要は、ジョリーダンスを除いて、みんな何キロ「太っていないか」が勝負の鍵だということである。この時期に馬体重を減らして出てきた馬には注目ということである。先週のAJC杯に、10キロ絞って参戦して2着に食い込んだトウショウナイトがいい例である。この時期に、10キロも減量してきたということは、馬自身が相当のやる気で、トレーナーの言うことをちゃんと聞いたということである。
 前日予想結論。馬連本線、10−16。以下、10−13、5−16、7−16、8−16、9−16、11−16、12−16、13−16。サイレントブライドは、プラス4キロまで。プラス6キロ以上ならば、軸から外す。チェックしていない馬でも、馬体減の馬がいれば重視。要するに、明日のレースは馬体重の増減を見て頭を悩ますということだ。回避、ということも有り得る。実は諸君、日曜の京都メインのマイル戦「京都牝馬特別」に、もろ鉄板馬と言えるのが出てくるのだ。京都は先週、平安ステークスをやっていれば私は勝っていた。これもマイル戦であった。冬の京都マイルをコンプリートするはずが、ドリームパスポートを信用したばっかりに土がついてしまった。あくまで京都メインを頭に置いての明日の東京新聞杯である。だから、納得のいかない馬体重であれば、今度こそ迷わずに僕は回避する。ただし、サイレントブライドが馬体減で出てくれば、これは勝負かもしれない。彼も本気になってこのレースに挑むということだ。競馬をやらない人は信用しないだろうが、一戦級の馬は、ちゃんと自分でダイエットや練習に励むのである。レースにそなえて飼葉の食いすぎを控える馬がちゃんといるという。これは厩務員が証言しているので間違いないのだ。一流馬とはそういうものだ。勝つために生まれてきたということを知っているのだ。
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記