2008年03月31日

1022 笑ふな!

      笑ふな!  黒田英雄

膝頭の猫の温もりたはやすく思考は下肢より麻痺してゆきぬ

暖冬の一日(ひとひ)暮るればこのままに猫と交りて眠り尽くさむ

尿せる男威張りてわれに向き茨の道を行けよと笑ひつ

たれひとり俯き歩くひとはなし家路を急ぐ白き息息

わが部屋を名指しで売れとふハガキ来ぬ新宿黒田家なめられちまつた

年収を調べ寄こせし葉書ならむ縦横斜ちぎりて捨てつ

脊髄の反射のみにて笑み痴れるサルの客席 火を放つべし

何やらむ我にこみあぐる無気力な笑ひの因は 蝿を目で追ふ

死を直前(まへ)にひれ伏す我であらねども肉体須臾にし滅ぶしづけさ

精神(こころ)病むまでの才覚我になく現実(リアル)な風に現実(リアル)にのめる

色彩(いろ)のなき睦月の北風(かぜ)は肌を刺し平均(たいらひとし)は吹つ飛ばされる

モノラインヘッジファンドにFRB FBIが出ないだけマシ

容赦なくカタカナ文字に日常を侵食されて集の字ド忘れ

鬱の字はいつでも書けますすらすらと痴呆(ボケ)老人が素に戻るごと

赤上げて白上げないで赤下げない金利旗遊戯(キンリキゲーム)に果てあらざらむ

バーナンキ議長の瞳は憂ひ帯び日銀総裁(ふくい)は因業親爺の薄笑(わら)い

ゆきなづむ歯医者への路向ひ風敗者復活とつぶやき歩く
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

1021 重かった冬

 日経賞は、三連複五点で勝負。ど本線とは言え、630円は安いよな。高松宮杯、やればよかった。スプリント戦で強いと思っていたキンシャサノキセキを僕は予想していた。この馬から6点買いで済んだのに。それにしても、ファイングレインとの馬連で4000円台もつくとは思いもよらなんだ。桜花賞皐月賞が待ってるが、軸馬はもう決まっている。上位拮抗で、そんなに荒れないんじゃないかと僕は予想している。
 三月もやっと終わる。この3か月は長かった。一月から急に寒くなり、その寒さがもろにこたえた。あんまりいい3か月ではなく、その締めくくりが津波なつさんの死で、とどめを刺された。一月25日に亡くなられたという。ちなみにこの日は、僕がなんてことない1日を終え、夜、ビデオで大島渚の「日本の夜と霧」の5回目の鑑賞をしていた日だ。一月25日の滋賀県は、さぞかし寒かったことだろう。僕は最近、しょっちゅう「流氓の歌」ばかりを口ずさむ。今の僕の心情にぴったりだ。これは、大島渚監督作品「太陽の墓場」の中で、佐々木功が口ずさむ歌である。この映画の中で、最も美しいシーンだ。

懐かし山 懐かし川
追われ追われて果てしなき旅を
道づれは涙 幸せはない
国の外にも 国の中にも

 とにかくこの冬は重かった。津波なつさんのご冥福を、心からお祈りしたい。残念な歌人を失った。
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2008年03月28日

1020 マツリダモナークで馬券ゲット!〜日経賞GU〜

 今日は自信あるよ。まず、この二頭。9番、マツリダゴッホ。中山は大好き。なぜか中山では、折り合いを欠かないのである。有馬記念一着は、決してフロックではない。実力を出したのだ。そしてもう一頭、5番アドマイヤモナーク。この馬も、今がピークだろう。前走ダイヤモンドSは横綱相撲だった。ほぼこの二頭で決まりだと思うが、馬連は多分、5倍台くらいだろう。これでは旨みがない。よって、当ブログでは、三連複勝負とする。3着争いは、もつれて穴が開きそうだ。面白いのは、2番ブラックタイド、6番ゴールドアグリ、8番レッドドラゴン。そしてまだまだ見離せない12番コスモバルク。偶然だが、2、6、8はどれも色の名前が入っている。ただ問題は、マツリダゴッホくんの馬体重だね。あんまりブタで出てきたら、俺は考えるよ。その時は、アドマイヤモナークからの馬連で勝負、ということになる。よほどの馬体調節の失敗がない限り、5番9番は外せない。
 前日予想結論。三連複、1−5−9、2−5−9、3−5−9、5−6−9、5−7−9、5−8−9、5−9−12、5−9−13。ただし、馬連5−9に8倍つけば、馬連勝負も面白い。その時は当然3点ぐらいに絞る。アドマイヤモナークは現在絶好調、マツリダは、馬体重が問題である。このレースは自信あり。諸君、参考になると思うよ。さあ、明日から春競馬が始まる。ペーパー馬券は絶好調だった。お金を賭けるわが馬券も絶好調と行きたいものだ。あしたは勝つぞー!!
 今後の予定。4月から5月にかけて、桜花賞、皐月賞、京都アンタレスS、天皇賞春、京都新聞杯の5連闘となる。京都中心、ガッツだぜ。
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

1019 誰がゴローやねん、ゴロー出てこい!

 一月二月三月は過ぎるのが早いというが、今年はものすごく遅く感じる。年が明けてからこっちロクなことがない。今の私にとって至福の時と場所は、新宿十二社温泉に浸かっているときのそれである。
 先日、十二社の真っ黒黒の冷水と温水に浸かり、ゆでたまごになった気分での帰り道でのことである。前から、どう見ても広域なんとかに所属しているとしか思えないカタギ度ゼロのアロハのあんちゃんと、昔のエロ本でしか見たことがないようなけばけばしいねえちゃんのカップルがやって来たと思いねえ。それ(男のほう)が突然俺に向かって、「あ、ゴローさん、お久しぶりです」と挨拶しやがった。誰だよ!?俺はマジで、因縁をつけられたと思って緊張した。しかし男はあくまでマジに、「あれ?ゴローさんでしょ?」と問いかけてくるのである。俺は「は?」と一言。ほかにどう言いようがあるのだ。ケバい女が、「あんた、人違いよ」と言ってくれたおかげでやっと解放されたが、詫びの一つもなく、男は俺の顔をじーっと見て「似てるなあ」という一瞥をくれて去って行った。ふふふふふふふ、ふざけんな!この俺が、このインテリゲンチャに溢れる、ラスコーリ二コフかカラマーゾフの末っ子にも比すべきドストエフスキー的知性と良心の権化たる眉目秀麗白皙のこの俺のどこがゴローだ!ゴロー出てこい、責任者出てこーい!たぶん、そのゴローとかいうやつは、ばりばりのヤクザではなく、悪徳弁護士とか結婚詐欺師とか密売人とか買春斡旋人とか、そういうたぐいだろう。ふざけやがって。俺によく似た、ゴローなにがしという悪党が、歌舞伎町を跋扈しておるわけだ。この俺が人違いで射殺されたり女に刺されたり刑事にしょっぴかれたらどうしてくれる。あのどチンピラの腰の低さは、相当お世話になってるという感じだった。ったく、不愉快なことばっかりで頭に来る。

 津波なつさんの死には、いまだにショックが尾を引いている。その死は、果たして本当に病死、自然死であったのだろうかとつい疑問を抱いてしまう。僕は今、彼女の遺した歌を一首一首丹念に読んでいる。僕の、歌を読むスピードは速いが、さすがに今回はそうは行かない。歌の良否ではなく、彼女の実像というものを、しっかりと僕の中で把握したいからだ。歌集を出さずに亡くなったことが本当に惜しまれる。後に残される人たちのためにも、せめて歌人たるもの、生前に自分の歌を一冊にまとめておくべきだと思う。残念だ。津波なつさんの死に対しての、「喪の仕事」を終えるのには、相当な時間がかかると思う。僕の「喪の仕事」は長い。そんなことを考えながら歩いていたら、「あ、ゴローさんお久しぶりです」である。ふざけんな。ゴロー出てこい!俺は普段から不機嫌だが、今日はとりわけ不機嫌である。ふざけんな!
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2008年03月25日

1018 津波なつ逝く〜ストレート短歌〜

 当ブログは、最近「死」についてばかり書いている。もうこんな話題はやめよう、と思っていた矢先、とんでもない悲報を目にした。今日届いた「短歌人」4月号、「編集室雁室」の藤原龍一郎氏の編集後記によると、津波なつ氏が亡くなられたという。大ショックだ。津波さんの歌が僕は大好きだった。肉体感に溢れたその歌は、時には汗、血、粘液の匂いを漂わせながらも、直截的な表現で、自らの生きざまを何の飾りもない歌で発表されていた。ぎりぎりの精神状態での毎月の出詠歌だと感じてはいたものの、僕は能天気に、津波さんの第一歌集が出たら買うぞといつも思っていた。「喪の仕事」という言葉がある。これは、人の死から立ち直る時間を言ったものだ。僕はもちろん、津波氏とお会いしたことはない。不幸中の幸いだったろう。もしも津波氏を僕は知っていれば、僕は「喪の仕事」から立ち直ることはできなかったと思う。津波氏は、僕のブログを読んでいただいていた。「ゴジラの逆襲」を見て、アンギラスを見ましたというコメントもいただいた。僕の胸は悲しみでいっぱいだ。僕が標榜する「ストレート短歌」を詠っている歌人は、ご本人たちには迷惑かも知れないが、大橋麻衣子、谷村はるか、阿部美佳、中川佳南がすぐに浮かぶが、津波さんはその核となる人だった。僕としては珍しく、ひそかに彼女を僕の同志だと思っていたほどだ。とにかくショックだ、言葉がない。今は、もう一度、「短歌人」に掲載された津波氏の歌を読み返してみたいと思っている。それが、僕が津波氏に対してできる唯一の供養となると思う。最後に、遺詠となってしまった七首をここに紹介し、ご冥福をお祈りしたいと思う。

      桜散る 津波なつ

夜が更けて立てば床の上倒れてしばし動けぬこの身

わが身より滴る赤い血の筋と西へゆく風桜の花と

雑音の多いラジオを聴きながら血は流れ出すこの身体より

眠れない夜にわれの身は血を失いて死を待っており

この身体真直ぐ支えていることが出来なくなりてシーツの上に

あといくつ寝たら命は尽きるのかカレンダーの今日の日を消す

満開の桜の森の下にいて狂いしわれは刃をふるう

 合掌。
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

1017 「抒情の奇妙な冒険」〜固有名詞の違い〜

 笹公人第三歌集「抒情の奇妙な冒険」(早川書房)を読む。ちなみにこのタイトルは、某人気マンガに立脚しておるらしいが、堂々と言うが僕はそんなマンガの存在すら知らないので、感想もそれとは全然関係ないものになるが文句は言わないように。
 笹公人という歌人は、SF短歌というジャンルを完全に確立しおおせたと言える。ほかにも、SF的な、またはオタク的な短歌は目にするが、それらの多くは、笹短歌に比べると「SFっぽい」あるいは、「オタクっぽい」だけのものにしか見えない。それがなぜかと考えるに、笹公人の歌には、SFとは切っても切れない(今回表題にも使われている)抒情が本質的なものとして通底しているからなのである。極端に言うとありとあらゆる(?)SF歌人の中で、笹公人氏のみが「ここでないどこかにいた記憶」を濃厚に持っており、意外やそれは、よく考えると優れた歌人の全てが持っているはずの資質なのである。SF仕立て、オタク仕立てを気取る連中の歌の多くがなぜつまらんかと言うと、どこまでいっても所詮は地球で生まれて地球で死んでくしかない奴らであり、悪い意味で足が地についているのである。「こいつはこの世界の人では本来ない」と思わせずして、どうして幻想を詠うことができようか。
 たとえば、去年の短歌研究新人賞、吉岡太郎氏の受賞作にはSFを強く感じたが、受賞後第1作を読んだ感想は、「あー、まだまだやねチミい」ということである。直接的な感想を述べれば、「少年たちとマドンナと原っぱ」という手垢のつきまくったイメージに頼りすぎていて、ノスタルジーとしてもオリジナリティがない。笹公人は、既存のSFの持つノスタルジックな抒情に立脚しながら、「ものごとに別な視点を持ち込み、かつ情緒纏綿である」というSFマインドにもとづいたアクロバティックな言語遊技をいつもかましてくれる。この人はスケールの大きな歌人だ。僕は、旧作邦画オタクである。もちろん、円谷東宝だって見てることは見てるが、ななななななんせ、成瀬巳喜男の大ファンなのである。これくらいSFから遠い話はない。そのわたくしがいいと思うのであるから、笹公人は、短歌における新しいジャンルを確立し、かつ、模倣者を多く生みながら誰も本当には模倣し得ていないという、かわいそうだがうらやましい立場の人なのである。僕は、歌集は「読み物」だと思っている。面白くなくては意味がない。そういう歌集は極めて稀である。僕にとって、笹公人の歌集も啄木の「一握の砂」も、読み物として面白いという点において遜色がない。
 笹短歌にも頻出するが、短歌における固有名詞というものについて一言述べておきたい。たとえば、固有名詞短歌といえば、すぐに思い浮かぶのは藤原龍一郎氏である。藤原氏の短歌における固有名詞は、酸化してゆく古本のページのように、あらかじめノスタルジックであることを希求している。古くさいと思われてもそれはすでに創作段階で折込済みのことである。笹公人における固有名詞(実在してないものや人間でないものが多いが)は、新しい紙に印刷され、CDに収録され、ネットで配信され宇宙すら駆け巡るであろうができたてのほやほやのときからすでに古色をまとっている。二人とも、固有名詞の扱いにおいて現代性というものを強く意識している(現代に合わせる、という意味でなく、現代にとってどうか、という意味である)。僕もまた、固有名詞を多用する歌人である。が、この二人とは全然違う。僕には、時代と取り組みたいとか、現代をどうにかしたいという意識はまったく皆無である。たとえば僕が、戦前の悲劇のアイドル女優、水久保澄子や、日活大部屋女優森みどりを取り上げるのは、単なる事実としてその名を記したいためだけなのだ。そういう意味では、僕の固有名詞短歌は、仙波龍英に近いと勝手に思っている。僕の短歌には、余裕がないのだ。固有名詞短歌」だから同じと思ってほしくないので一言書いておく。
 最後に、「抒情の奇妙な冒険」から、爆笑した歌と、ぐっと心にきた歌、2首を取り上げて終わりとする。

前世は村人Aと告げられてやぶれかぶれの夏の放課後 笹公人

泣き濡れてジャミラのように溶けてゆく母を見ていた十五歳(じゅうご)の夜に 同
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2008年03月22日

1016 岡井隆と永田和宏と高瀬一誌

 今日、面白いことを耳にした。こういう噂である。角川「短歌」における、小高賢の岡井隆へのインタビューの連載において、岡井は、わけあって(女と逃げたんである)歌壇を捨てて九州へ落ち延びたときのことを語るに、「自分は医学に身を捧げ、このまま文学は捨ててもいいと思っていた」とぬかし(もとい)おっしゃっておられる。なみたいていの読者なら、「おおそうかこの人は、優れた文学者であることを捨ててまでも医学に身を捧げたい、シュバイツアーのようなかたなのね」と感動したであろうが、俺は心が歪んでおるので「キナくせえなあ」と思ったのである。そして、である。今日聞いた面白いことというのは、とある歌人が「あんなのポーズに決まってんじゃん、もしも医学雑誌のインタビューだったら、医学を捨てて文学をやりたかったって言うに決まってるよ(笑)」。
 ああ、俺と同じ感想を持った人がいたんだと安心した。
 僕は、岡井隆というのはC調な人だと思う。このC調というのは、決してけなして言っているのではない。かの、医者にして偉大な芸術家であった手塚治虫にしてからが、死ぬほどC調な人物だったことが知られている。僕は、ナマ岡井を一度だけ短歌マラソンで拝見した。その自意識過剰の自己演出と陶酔ぶりに、「これは役者だ」と深く感じいった。端的に言うと、ど狸である。いや諸君、すぐれた歌人ほど、ど狸の要素は必要不可欠である。ど狸というのは、奥行きが深いということである。今の若手歌人にはこういうタイプがいない。たとえば、今は亡き「短歌ヴァ―サス」を読んでいて「だめだこりゃ」と思ったのは、加藤、穂村、荻原の編集陣に戦略性が徹底して欠落しているということであった。読者に架空のヴィジョンを与えて乗せて盛り上げるようなプロデューサー的資質がなく、良きにつけ悪しきにつけ真面目なのである。でありながら、既成の歌壇に対する反骨心にすら欠けていた。岡井隆は、明らかに自分の医者というエリート性を「売り」にする興行師のふてぶてしさがある。この世代の歌人は揃いも揃ってふてぶてしい。なんせ、「第二芸術論」と戦ってきた連中である。
 と狸といえば、もう一人取り上げたい歌人に永田和宏がいる。「塔」を小じんまりとした高安体制から、現在の永田体制へと無血移動させ、歌壇に冠たる一大結社へとのし上げた。「塔」が、2000人体制となり、歌壇において、隠然たる勢力を誇るのは時間の問題であろう。僕は、永田氏については忘れられない光景がある。数年前、東京で初めて「塔」全国大会が行われたとき、会場入口で永田主宰は、厳しい目で会場を見渡していた。僕はその目つきをこう解釈した。「初めて『塔』が東京進出したのに、主席者が少ないじゃないか!」という不満と、出席者が退屈しないかという不安であると。ああ、まさにこれはプロデューサーの視点であり、こういう視点を持っている主宰者だからこそ、「塔」という結社が今日の繁栄を見たのであると思う。
 野心は必要だ。「塔」について言えば、吉川宏志、真中朋久、松村正直、このへんは、歌壇的野心を比較的感じる若手だ。だから、「塔」は大丈夫だと僕は思うのだ。「歌壇的野心」とは、短歌に殉ずるという覚悟を持ったスケールの大きさを言うのである。「塔」は、今後も伸びていく結社だ。
 「短歌人」も非常に魅力的な結社であるが、いかんせん独裁者がおらず、過度に民主主義的で、ときにはよき独断専横を貫く人物に絶望的に欠けるという点である。だから、谷村はるかという逸材が結社賞を貰いそこねるという愚挙が生じるのである。高瀬一誌という天使的存在が天国にとっとと帰ってしまったのは痛い。僕だって、高瀬氏本人から手紙で誘われてたら、もっとアグレッシブな結社活動をしていたかもしれない。俺が「短歌人」に入ったとき、すでに高瀬氏に羽根がはえて飛んでってしまっていたのは残念至極だが、俺というのは生まれつきそういうタイミングの悪い人間なのだ。
 本日の結論。岡井隆と永田和宏はど狸である(最高級の褒め言葉である)。高瀬一誌は天使である。その他、ど狸ならぬ豆狸やキツネ、子なきじじいや砂かけばばあ、単なる詐欺師やタカリ屋や植木等そこのけの無責任野郎も歌壇の大御所として君臨してるような気もするがこれ以上言うと命が危ないのでやめておく。
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2008年03月20日

1015 「塔」三月号「陽の当たらない名歌選」2〜意味を失う。〜

 花山欄、143首。栗木欄、151首。真中欄若葉集、100首。計394首。「塔」三月号赤丸歌総数、915首。

      「塔」三月号、「陽の当たらない名歌選」2

かうやつて貴方をぢつと見てゐると貴方が誰かわからなくなる 飯村みすず

あなたには失望しましたといふ声に水に落ちゆくごとく目覚めぬ 山下れいこ

石橋を強く叩きて壊すこと多し またひとつ恋をなくしぬ 中瀬真典

そこだけがくらがりになる中学生男子のおぼれるようなわらい声 上澄 眠

庭の落葉掃きて食後を入浴しぐらりと倒れ夫は逝きたり 進士 歩

黒い鞍付けられるまま目を閉じてはしゃぐ子を待つ老いたポニー 宮坂昌余

腰を病む友より届く物はみな都度(つど)薬局の袋に入りぬ 東 紀子

氷上に三回転半したる間を我は杖にて一歩進みぬ 江原幹子

米六合さげて学友と宿に入る陸幼受験を唯一の旅行とす 小山惇男

われを指しマダムボヴァリと言いし男の早世を知る同窓会報 今井由美子

子を育て伯父、伯母、父を看取りきて履歴はいつも無職と書きぬ 南條暁美

最後まで聞きしことなくねむりたり父の夜毎のさるかに合戦 林田幸子

納骨堂の抽選会場満員なり死ぬまで負けることができない 石井久美子

保健所に捕えられたる野良犬の凛々しかったと人語りたり 稲垣保子

葬式で夫のまといしワイシャツが学芸会の舞台に踊る 尾崎智美

新しい手帳に予定書き込めばもう終りたるその年の期待 佐藤浩子

もみじ葉の赤より濃ゆき前垂れの地蔵ありたりつわの花里 邑岡多満恵

くらき海を別府航路の船がゆく船のかたちに光りをのせて 徳永香織

浜風に秋刀魚干されて靡きいる誰が付けしか「銀の簾」と 楠 ななも

虫籠に入るきりぎりす思はせて格子戸そろり潜れるをみな 林 はるみ

青さぎが影を映しに立つ川のさびしき水位われにもありなむ 清水弘子

時折を耳立て聞くや盲導犬かたえに乙女は第九を歌う 上田充子

日暮坂須坂稚児坂九段坂祖母に昭和の歳月ありき 関野裕之

放課後に10キロ泳ぎこし肩を少しうねらせボサ・ノバを弾く 渡辺美穂子

あいまいに手を振れば指先にわずかにあまる手ぶくろのふくらみ 塚本理加


  かうやつて貴方をぢつと見てゐると貴方が誰かわからなくなる 飯村みすず

 「あ」とか「い」、あるいは、あまりにも普通に出てくる漢字(「字」なんてまさにそうだ!)を何度も書いたり読んだりしてると意味が消失し、その本来の無意味性が立ち上がってきてただの線の集まりにしか見えなくなる。そんな経験は誰にでもあるだろう。文字とか言葉とかいうものは所詮約束ごとであり、自分と向き合う時間が長ければ長いほど意味を失っていくものなのだ。人間関係にしてもしかり、ある人物が「特別なあなた」であるのは偶然と関係性の産物であり、冷静になって眺めてみればそこにいるのはただの細胞のかたまりである。「誰」というのは、自分にとってと本人にとってと社会にとってとの総合であり、しかし逆に、男の側からそれに違和感をおぼえた歌というのはあまりない(ような気がする)。女性のほうが関係性に敏感であり、男は一度築いた関係に配慮しない、ということの表れだろうか。視点が抜群に面白い歌である。

 以下、コメントしたい歌はいっぱいあるが俺が疲れた。取り上げた歌を、読者諸氏がおのおの解釈、鑑賞していただきたい。すべて秀歌だと思う。「塔」は、どのページにも秀歌が必ずある。秀歌というのは、たくさんの歌の中に、ひっそりと息づいているものなのだ。
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:58| Comment(3) | TrackBack(0) | 日記

1014 放っといても死ぬんだから。

 最近、腹立たしいことがある。それは、俺の帰る時間に頻発する飛び込み自殺だ。16日は京王線がストップ、今日は、中野坂上の人身事故で大江戸線がストップ。おまいらな、死ぬんだったらせめて最低限、人に迷惑をかけない死に方をしろ。それとも、ろくな自己主張もできなかった人生のしめくくりに、せめて最後の最後だけは大迷惑をかけてくたばりたいという、情けない根性なのだろうか。実際、飛び込みで電車の止まった損害は遺族が賠償せねばならんのだそうで、もしも家族を憎んでいるのであれば最大の復讐であり、そうでないとしたらあとのことを考えんにもほどがある。俺は、「人身事故で電車が遅れます」というアナウンスを聞くと血が逆流し、「殺すぞこのボケ」と叫ぶのだが、残念ながら殺そうにも向こうはとっくに死んでいるのである。
 人口あたりにしめる自殺者の割合はトップがロシア、そして、それに1人差で次いでいるのがわがまほろばの日本である。ロシアは白人もおればモンゴロイドもおって広いし他民族だし、データにあまり統一性がなさそうなので、民族の均質性から言っても日本は実質トップといっていいだろうえっへん。自殺なんぞ聞き慣れ過ぎて全然驚かない。それが知人の自殺であっても驚かない。ただ、電車を停めるな!この俺にしたところが、死を思わぬ日はない。だが、自我が安定しているので、帰ってフロに入ってビールを飲み、めしを食う喜びを想像すると死ぬ気なんぞふっとんでしまうのである。だいたい鉄道自殺なんぞ、首は飛ぶは手足は飛ぶは内臓ぶちまけるは、見苦しさの金メダルであろう。都市伝説によると、飛んだ首にまだ意識があって、「いて〜〜〜〜」とか言ってた例もあるそうである(声帯がないから言えるわけないが)。
 死んだ人にインタビューできるわけじゃないが、失敗した人の中にはこんなのがある。知人の経験だが、とあるビルの裏手を歩いていたら、今しがた飛び降りたばかりらしき青年がいて、どたまがぼこっと割れて脳味噌が半分はみだしておるのに全然死にきれなくて、「ああ〜〜〜しまったなあ〜〜〜」とつぶやき続けていたそうだ。ぞおおおおおおおおおおおおおおおおお。また、あの可愛かった岡田有希子は顔から落ちたもんだから前半分がひしゃげてさながら車に轢かれたカエル状態、あれで後追い自殺した連中はアホじゃないかと思う。飛び降り自殺は、比較的苦痛も少なく成功率も高いというが、失敗したり、着地を考えたりしないとひどいことになる。みなさん、自殺なんてことを安易に考えてはいけない。なぜなら、失敗したら悲惨だし、成功したらしたで後始末が大変だからである。飛び降りるんなら特大のポリ袋に自分を密封したうえでやっていただきたい。着地点がゴミ集積所だったら完璧である(ゴミ出しの日を間違えないように)。
 映画「ソイレント・グリーン」みたいに、ゆくゆくは国家が、肉体的、精神的を問わず追いつめられた人々に安楽死を提供する時代が来るべきだと僕は思う。現在、安楽死を法的に認めているのはオランダくらいだが、そこですらよほどの重病でない限り認められないという。が、僕は、健康で五体満足な若者でも、死にたいというのならどんどん楽に死なせてやるがいいと思う。それだけ、生きるというのは大変なことであり、「頑張って生きろ」などという権利は誰にもないからだ。
 ただ、安直に自殺を考えてはいけない。陳腐だが、せっかく生まれてきたのである。食って飲んでセックスしてフロ入って、という目先の快楽に溺れてるうちに、どっちみち人生は必ず終わるのであるから。誰にでも、死は例外なく訪れるのであるからして、なにも今あわてて死ぬ必要はないのである。

暁の薄明に死をおもふことあり除外例なき死といへるもの 斎藤茂吉
ニックネーム 茶トラのみんく at 01:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2008年03月18日

1013 短歌の主題〜死〜

 「死」を詠った作品が、今月は目についた。短歌のこれからの主題なのかもしれない。

誰の死が着初めとならむ顔のしろさ際だつる喪の服試着す 鮫島浩子

 人間、ある年齢まで行ったら知り合いという知り合いが、それこそ「櫛の歯が欠ける」ように減ってゆき、数珠と葬儀袋を常備し連絡網を充実させ喪服を身長せねばならん地点を迎えるのである。らしい。らしい、というのは、僕にはそのようなエシャジョーリ(会者常離)の無常さに感傷してみせる資格すらないからである。なんとなれば、あまりにも人付き合いをしないので親戚であれ同級生であれ、誰が生きたか死んだかさっぱりわからんし知らせも来ないだろうからである(笑)。今気がついたがいい年をして冠婚葬祭用の服を持ってないばかりか作法も知らん。しかし、生まれて生きて、生みそして死ぬという人生の行程を受け入れて生きて行く人にとり、「必ず近々誰かの葬式に出る」というシチュエーションはこう言ってはなんだがひとつのイベントとして意識されているであろう。そしてまた、喪服の女性は妙に魅力的であるとも聞く。親戚や友人がこれからばたばた死んでいくはずの年齢にさしかかった女性が、「顔のしろさ」と表現したところに、なんとも美しくも不気味なナルシズムを感じるがどうであろうか。言っちゃなんだが色黒の人に喪服は似合わないと思う。喪服美人というのは確かに存在するのである。

末期がんの友が洗礼受けると言うひとりで死んでいくのはさびしいと 渡辺久美子

 自慢じゃないが僕は宗教音痴である。昨今の、スピリチュアルなんとかにハマる連中は、まだ魂とか前世とかいう単語を自分の中に持っているのであろうが、僕はそうした単語にすら、ナベとかねじまわしとか、そういう単語に対して持つのと同じくらいな印象しか持たない、ほとんど人間とも思えないほどの宗教音痴である。もしもばりばりのカトリック国やイスラム国に生まれててもやっぱり無神論者だったんじゃないかと思うくらいそっち方面の才能(?)がない。墓石を踏んづけて歩いても平気なことは宣言してもいい。なので、なんでこの作中主体の友人が死の直前に突然宗教の人になってしまったのかについては、「きっと一人ぼっちの悲惨な人生だったからだろうなあ」という浅い解釈しかできないのだが、結構当たっているような気もする。洗礼と言うからにはキリスト教だろうが、僕も死ぬ段になって突然何かに入信したくなったらやっぱりキリスト教にする。なぜなら、「かっこいいから」である。文句あるか。俺はアメリカが好きなのだ。(ただし、進化論を否定するようなサルと一緒にされては困る)

死ぬことをただに怖れゐし父を台風が連れてゆきしと便り届きぬ 村田弘子

 人間、自殺する以外に死に方は選べんのである。死をおそれ、おそらく健康にひたすら気を遣っていたであろう、知人の父は、台風で(土砂崩れか溺死か知らないが)であっさり死んでしまったという。人生は諧謔に満ちている。いくら健康に気を使おうと、上から石が落ちてきたらそれでしまいなのである。こういう歌を、ドラマ性があると僕は思うのである。アキ・カウリスマキ監督「コントラクト・キラー」という映画は、自殺志願の男という深刻なテーマを扱ってるくせに爆笑のドタバタとなっている。ガス自殺しようとしてたらガス会社が休みだとかの失敗のあげくに幸せになるという、「プラス思考」なんぞというふぬけたスローガンがぺしゃんこになるような皮肉なコメディだった。この歌はその映画のネガのようである。さぞかし、酒も煙草もやらずに気をつかって生きていたんだろうなあ。が、死神の訪れは一瞬である。合掌。

えんぴつを噛む老い猫のよこがおに糸切る母をしばし思えり しん子

 視点がすばらしい。人間には犬歯というものがあり、人類となってからはドラキュラ以外はあんまり用のない歯だが、唯一の例外は針仕事をする女性である。別名糸切り歯。裁縫をする母親というのは母性的(あたりまえか)なくせにどこか戦慄的だと思ってきたその謎がこの歌によって解けた。猫が老いてもなお、獲物の骨を噛みくだくための牙を研がずにいられないように、家族のつくろい物を営々として行う母には、人間というより母という独立した種族の持つ恐怖さえ感じる。視点の優れた秀歌である。

服を着た犬と目があう駐車場きさまに負けるわけにはいかん 西之原正明

 作者には悪いが、一読腹をかかえて笑った。服を着た犬(多分、金持ちの飼ってる犬)を見て、人にではなくその犬に対して「貴様に負けるわけにはいかん」といきり立った作者の、壊れっぷりが見事である。もはや、人間には誰ひとり勝てないから犬をライバルとするしかない、という作中主体の追いつめられかたがすばらしい。これは決して作者をバカにしているわけではない。短歌が本来、敗者の文学であるということの証明ではなかろうか。こういう歌こそ、僕が称揚するストレート短歌の極致であると言えよう。この人の歌はいったいに「塔」の詠風に合っていないが僕は大好きである。歌集を出したら買います。

 ほかにも、コメントしたい歌がたくさんあるが、これで終わる。歌評というのは、実に書くのに疲れるのである。「塔」「短歌人」所属歌人の多くがブログをやっているようだが、キミタチ、このような秀歌選、名歌選をもっとちゃんとやりなさい。それが、ネット上日記を展開することの意義ではないのか。僕の探した限りでは、自結社の名歌選をやっている社友は某I波氏以外に見当たらない。歌人というのは、まったくもってヘタレである。
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2008年03月17日

1012 「塔」三月号「陽の当たらない名歌選」1

 「新樹集」に、川合都美氏の絶唱九首が掲載されている。川合氏の短歌に賭けた執念を思い、背筋が伸びる心境である。死の直前にここまで短歌に打ち込めるものかと自問自答した。ご冥福をお祈りしたい。

 三月号、作品1欄、作品2欄を通して読んだ感想として、死を詠った作品が多かったような気がする。死というのは、普遍的なテーマではあるが、史上前例のない高齢化時代を迎え、死に対する切り口も変わってくるだろうし、高齢者の高齢者による高齢的な衰弱死を詠う歌が一つの潮流となっていくだろう。

 吉川欄作品1、196首。澤辺欄、150首。池本欄、175首、計521首。後半戦の結果はまた後日。

       「塔」三月号「陽の当たらない名歌選」その1

誰の死が着初めとならむ顔のしろさ際だつる喪の服試着す 鮫島浩子

シマダクンに鈴つけるなと子らの言ふ野良の世界でいぢめられると 青山幸重子

夕暮れてさよならしてゐる女の子わがふる里の道で出会ひぬ 藤原はつみ

左右の手の甲を走れる静脈の異なるを見て雑巾しぼる 高橋れい子

紙当たりよき赤ペンに持ち替えて「至急」と記す大き付箋に 秋葉葉子

波の寄す擬音のやうに落葉掃く背広姿を私は見てゐる 出 奈津子

えんぴつを噛む老い猫のよこがおに糸切る母をしばし思えり しん子

再投稿せし歌採られたるごとき結論の出づ朝の会議に 本間温子

田仕事を終へたる妻は鍬握るかたちに指を曲げて眠りぬ 郡山紀男

書きかけてやめた手紙の空白に安曇野往きの列車が走る 数又みはる

大菜(おおな)とふ魚との出会ひ語りつつ義父(ちち)は少年の日に戻りゆく 山地あい子

ガイド言ふを紙に書きゐる添乗員手話の夫婦と共に旅行く 嶋寺洋子

二十人の運動会は大忙し父兄もたっぷり出番を受けて 津野多代

酸素吸入不要になりて涼しげな姑の手取れば指ずもう始む 中村ヨネ子

ジョンフォードポイントにああわが立てり名画さながら砂塵は叫ぶも 西本利徳

死ぬことをただに怖れゐし父を台風が連れてゆきしと便り届きぬ 村田弘子

うす暗き建物に入り眼から滲みはじめる京都のくらさ 山内頌子

末期がんの友が洗礼受けると言うひとりで死んでいくのはさびしいと 渡辺久美子

こんなにも父はちひさき人なのか諍いの後の背はまろくて 澄田広枝

汚れたる皿を重ねて立ちきたり もう仲裁はしないと決めて 筑井悦子

苦労多き漫画家といふ道をゆくおまへが息子であるをよろこぶ 助野貴美子

オロナインすりこんだ手が暖まり祖母から冬の匂いがしていた 黒木孝子

わたくしのことは今日からぜつたいに歌にしないで 今朝言はれたり 久保茂樹

わが授業をつまらぬと言い本閉じぬクラスで一番まじめな生徒が 澁谷義人

生きゐるが手柄と励まし手術後の麻酔より醒めし妻の手握る 関山正雄

服を着た犬と目があう駐車場きさまに負けるわけにはいかん 西之原正明

今一度歌集を出さむその経費葬式用に残せと言う声 村上耿志

わが詠みし韻文のやうなるひびきもてつきまとふ蚊をばつしと打ちぬ 若松忠雄

命毛のわずかに残る小筆なり静かに今年も筆を拭きをり 永井千裕

かの道に立たせ給へや幼き日に五円玉握りて訪ひこし人の―冬道麻子 安藤純代
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2008年03月16日

1011 じじじじじじじじ、事実じゃけん!!

 僕の歌は、基本的に、見たり聞いたり経験したりしたことをベースにしている。架空性を尊重する作風ではない。ある時、こんな光景を見た。夕日が照らす仙川(世田谷区を流れる川)の堤防で、父と息子らしきふたりがキャッチボールをしていた。懐かしい光景だと僕は思った。そして、少し離れた場所で、母親とおぼしき女性が微笑みながら見守りながら立っていたのである。僕は、即その光景を歌にしようと思って何首か作ったが、満足いく歌ができなかった。まんま詠んだら、「『巨人の星』の明子ねーちゃんかよボケ」と、読者に嘲笑われるとしか思えなかったのである。こんな、絵に描いたような家族の風景が、しかし、事実として僕の眼前に存在したのである。しかし、あまりに出来すぎていて、歌としての深みを持たせることができず、いまだに詠うことができずにいる。絵に描いたような事実というのは、現実の中でいくらでも転がっている。
 今日届いた「塔」三月号で採用された僕の歌の中にこういうのがある。

尿(いばり)せる男威張りてわれに向き茨の道を行けよと笑ひつ 黒田英雄

 みなさん、わたくしが、イバリと、威張りと、茨をシャレのめしてでっち上げた歌だとお思いであろう。しかし、これは、この光景は、じじじじじじじ、事実じゃけん!これは、新宿駅だったと思うが公衆トイレで用を足していたら、右隣でたまたま連れション状態になったおっさんが突然俺のほうを向いて、こう言ったのである。「キミい、男は茨の道を行けよ!」。そしておっさんは大笑いして、ナニのしずくを振ったのである(汚ねえなあ)。おっさんは明らかによっぱらいであった。背広姿の、サラリーマンらしき、五十がらみの男であったが、多分あれは、自分自身への鼓舞であったのだろうと思う。だいたい僕は、昔からよっぱらいのおじさんによく声をかけられるという宿命を持っている。これが、おねえちゃんに声をかけられる宿命だったらいいのだが、揃いも揃って薄汚いおっさんばかりなので嬉しくもなんともない。なんで俺はよっぱらいに声をかけられやすいのだ(怒)!てなわけで、これは、事実をそのまま詠ったらシャレになってしまったという歌なのである。
 現実というのは、実は思ったよりもできすぎの面を持っている。朝、ひさしぶりに着てみた上着のポケットから出てきた文庫本の作者がその前日死んだことをあとから知ったとか、昔つきあっていた女(それも二人)と、同じ車輛に乗り合わせて冷や汗をかきまくるとか、そんなことが本当に存在するのである。もしも、小説として書いたら「リアリティがなさすぎる」と編集者に怒られるような事実が現実にはごろごろしているのだ。
 何度も取り上げて恐縮だが、この歌もやはり事実である。

ただ一度唇より唇に含ませし夜の水のこと君知らぬまま 黒田英雄

 これは、どこに送ってもボツになりまくり、ようやく近藤芳美氏だけが採ってくれたという歌だが、ここに詠われている情景も、じじじじじじじ、事実じゃけんね。三十人以上の歌人に落とされたが、おそらく出来すぎ、作りすぎと思われたのであろう。短歌は難しい。本当のことを詠うと出来すぎだと言われ、頭ででっち上げた歌がリアリティがあると言われる。表現というのは、もともとそういう物なのだろうか。私の歌を読んでくださる読者が多い。ありがたいと思っている。読者諸氏に言いたい。私の歌は基本的に実体験をベースにしている。出来すぎだ、作ってるな、と思われるような歌ほど、それは現実の光景なのである。私は、フィクションは詠わない。
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2008年03月14日

1010 老人の幸とは

 今日、テレビを見ていたら、三十年後の日本は、一人暮らしの世帯が一番多くなると言っていた。これを不幸ととるか、自然のなりゆきととるか。僕は後者である。一人暮らしの多くなる原因としてはまず家族数自体の減少もあるだろうが、それ以前に、家族幻想というものの崩壊が自覚的にとらえられていくであろう、ということだ。欧米には一人暮らしの老人が当たり前にいるが、これはオノレの世話も焼けないようなやつは人間にあらず、なインディペンデンスをベースとした文化が根底にあるからであって、人間が不人情とかそういうことではないと思う。現に、アンケートを取るとアメリカなんぞ「親が病気になったら世話をする」と答える率はたいへん高い。もっとも、「病気になったって子供に負担はかけん」と答える率も同様に高いのが偉いというかすごいというか。日本の家族幻想の根底には、「独立した人格」を憎むというみぐるしい国民性があり、戦争に負けたおかげで教育が豊かになり、祖父は祖父祖母は祖母という役割に人は押しこめられなくてもいいのだと悟ってしまった今からの老人は、んな無根拠な閉鎖性なんぞうんざりだろう。なぜなら、「大家族に囲まれていた」前の世代がどれだけ悲惨だったか如実に知っているからだ。社会参加というイニシエーションを体験し、適当な相手を見つけて配偶し、繁殖し、繁殖能力と生産能力がなくなったら繁殖したその結果に死ぬまで面倒を見てもらう。これが日本の常識だったのであろうが、しかし諸君、この図式をよーく見てみたまえ。
 これが、近代の精神を持つ人間が耐えうる、尊厳をもって生きられる人生だろうか?
 人間としての尊厳、というものがそもそも近代の感覚だが、それを学んだ文明は決して後戻りできない。家庭という閉鎖社会においては、親が、何人もいる子供を「分けへだてなく愛しはしない」ということが当たり前に行われており(兄弟姉妹のいる人でこれに反論できるやつは嘘つきか、よほど運のいい人である)、どれだけ人としての尊厳を蹂躙されようが誰に相談しようが「家族なんだから我慢しなさい」と言われるのがオチだったのである。密室状態の中では格差が必然的に生まれ、閉じ込められた者は反抗も脱出もできない。まさに生き地獄であり、そんなことが平然と行われてきたのがこの極東の家族主義なのだ。俺はヒマな喫茶店でウエイトレスと雑談してたとき、「うちは離れにおばあちゃん住んでるけど、みんな『ゾンビ』って呼んで完全無視してるよー」とけらけら笑いながら話されて暗然としたが、そのゾンビばばあはいったい若いころ、どういう覚悟でそのクソ家族のとこに嫁いできたのか。「あんたそりゃ無理や」と言われるかもしれんが、男に世話され嫁や家族から一言も口をきいてもらえん老後のために生きてきたのか。自立とか独立とか女性の権利とか、一度も考えずに昔ながらの家族主義に頼ってればなんとかなると思ってたのか。このウエイトレスもひどいが、自立心を持たなかったという点でこのばばあにもあまり同情はできない。なぜかというと、「年とってから周囲に恨み言や繰り言を言うのが楽しみで生きているだけで現在を楽しんでない人間」が山ほどいるのを僕は知っているからである。
 日本人は、何かというと老人の一人暮らしを悲劇的に見たがるが、それ以前に、家族という閉鎖集団の中で老人は幸福であったかどうか、また、老人というカテゴリーに個人を押しこめて顧みなかったか否か、を自覚的に検証すべきである。今の日本で家庭崩壊、とことさらに言われる現象そのものは決して不幸なものではない。家庭が崩壊しきれず、密室から出ていくことができず夫や妹をぶち殺したりバラバラにしたりするしか逃げ道のない社会環境、そこにこそ真の問題があるのである。

      今日の一首

孤独死の都となるは自明にて鴉の骸未だわれ見ず 黒田英雄
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2008年03月13日

1009 GHQよ、もう一度。

 睦月、如月、弥生は、例年あっという間に過ぎるものだが、今年はそうもいかない。長い。睦月に突然訪れた冬の寒さはやわらいだものの、経済は依然として真冬である。
 サブプライム問題は、深刻な事態に陥っている。米財務省によれば、世界の金融機関が公表した損失額は2000億ドル超にのぼるという。これは、日本円にして、約20兆円!にににににに、20兆円てなにが買えるの?地球といわず、火星や木星くらいまで買えるのと違うか。しかも、この損失額はまだまだ増えていくということだ。しかもしかも、アメリカでは、優良住宅ローン証券までが売っぱらわれていつつあるという。銀行の貸し渋りは昂進し、当然、個人や企業にも銀行は金など貸さん。これが、米景気をさらに悪化させる。アメリカの不景気は世界に波及する。すでに、欧州経済にも陰りがきざしている。アメリカが風邪を引けば日本は肺炎になる、という物言いが昔からある。しかし、今はその肝心のアメリカが肺炎なのだ。となれば、日本はなんだ?結核か?肺癌か? 今日、1ドルが100円台になった。深刻だ。次の指標は97円だろう。これを切れば底なしの円高となるは必至。日本は暢気だねえ。なんの経済対策も講じていない。それどころか、日銀の時期総裁も決まらないというドタバタぶりだ。ただ、悲しいかな、市場はちゃんとこのドタバタを折り込み住みであり、総裁が落選しようがどうしようが、売り買いになんの影響もないのであった。要するに日本経済なんてすでに世界から信用されていないのだ。だって日本は、サブプライムの影響を今のところ、いちばん受けていない国である。しかし、相場は一番低い。日本人は、これから20年間、「下を向いて歩こう」の時代だ。石にけつまずかないように下を見て、生活防衛をしなければ生きていけなくなる。
 僕は提案する。日銀総裁は、偉大なるハゲ、バーナンキ議長の兼任、首相はオバマとヒラリー・クリントンの落ちた方にやってもらうというのはどうだ。アメリカ人の合理性が、日本の構造改革を促進し、役人の天下りの元凶である特殊法人をぶち壊してくれるであろう。できることなら、もう一度GHQのニューディーラーたちに日本を占領していただきたい。だって彼らが、日本に農地開放や平和憲法や女性参政権をあっさり与えてくださったのだ。日本人は、クソくだらん戦争でまんまと予定通りに負けくさっただけで、民主主義を勝ち取るために知性を使ったためしはない。ただ弾圧してきただけだ。戦争で惨敗しなくてはまともな法律ひとつ作れやしなかった。そのアメリカ様でさえ払拭できなかった悪しき風習が、経済界の攘夷体質である。外資を排除し、てめえらだけの取引でやって行こうとする、煮つまったナベの中であり、もうコゲて煙が出てんのに、水を足そうともなんともしやがらねえ。
 日本は今や、人口あたりの自殺件数世界第2位の自殺立国である(なんだ1位じゃねえのか。でもそのうち1位(ロシア)を抜くだろう)。経済的理由は平均的に見て自殺のトップには来ないが、日本の自殺は圧倒的に経済的破綻が理由である。
 日本人を救うことができるのは日本人ではない。それは、アメリカ人なのだ。

      今日の一首

きりぎしに砕ける波をいとしめば死より遅れて生きいるわれら 田中雅子
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1008 私の名歌鑑賞その5〜石田比呂志〜

水槽に冬の水白く溢るれば昼も流浪の猫が来て呑む 石田比呂志

 なんの雑誌かは忘れたが、若き日の石田氏の写真とともにこの歌が載せられていて強烈に印象に残った。
 これは石田氏の自分史において、啄木の歌に感動して短歌に目覚めた石田氏がモノサシの裏にかきなぐった処女作、ということになっている。出来すぎてて現代人の醜い心では信用しがたいところがあるが現実とはけっこう出来すぎなとこがあるので、僕はそれに疑義ははさまない。と言うより、そのような出来すぎが平気で存在するところが人生のよさであり、それがわからん「予定調和嫌い」の連中は素直に、単に自分には天稟がないんだと認めるがよろしい。僕は神の存在を信じないが神の偏愛は信じるのである文句あるか。
 掲出歌は、流浪とか無頼とか宿無しとか冬とか寒いとか、木枯し紋次郎のテーマが鳴り響きそうなくらいこてこての、「ドロップアウトしたわたくし」のイメージで固められているが、(このへんが啄木嫌いの共通意識だと思うが)「ハズれたきゃ勝手にハズれて人に迷惑かけんな!」という社会の冷たさを跳ね返し、じんわりと侵入してくる(いい意味での)甘えがある。啄木が嫌い、というのは(女性に多いが)、まあ要するに啄木が甘えているからである。しかし僕は思うが、もしも石田氏がオノレの直情やドロップアウトやニートな日々を、「選ばれた者の恍惚と不安」という形で啄木に補足してもらわなかったら、その巨大な自意識は昨今流行りの鬱状態を生んだであろうし、僕はなぜか、文学的ゴーマンな自意識が味わう蜜のような陶酔が、他人事であれ楽しいのである。「甘えるな!」と言う人々に俺はあえて逆ギレする。「お前らそんだけ強いんだったら俺たちを甘えさせろ!」と。今突然気がついたが啄木の人気というのは、「オレはオレのダメさにこれだけ陶酔できるんだぜへっへっへ」という脳内麻薬の力ではないだろうか。
 この歌の成功の鍵は、猫を登場させたところである。
 石田氏は、無頼派のイメージが強いが、無頼派というのは天涯孤独を装いながら、揃いも揃って、「人好きのするゴロ」(例・山頭火、山崎方代)である。無頼派というものの正体は、人の世話になっておきながらそれを屁とも思わず、かつ可愛気があって見離されないお茶目さにあるのである。まさにそれは、猫という動物の生き方そのものだ。だからこそ、この処女作が石田比呂志という歌人の生きざまを、その出発点において象徴しているのである。すべてのロクデナシに捧げたい名歌である。
 石田比呂志氏は、性根のすわったロクデナシである。そこに彼の、短歌の真髄があるのだ。
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2008年03月10日

1007 「暗さ」こそ斬新

 「ネットカフェ難民」なる層が増えているという。僕は実はネットカフェに行ったことがただの一度もない。家もあるし、パソコンもあるからである。だが、そのような境遇に陥る事情や心理はわかる気がする。数か月前雑誌でこのような例を読んだ。とある専門学校生なのだが、それだってぶらぶらしてるんなら出てけと言われてやむなく入った学校であり、もちろん登校なんぞせずにいたら、あるときぱったりと仕送りが途絶え、あわてて実家に帰ってみたら家はもぬけの空、両親は行方不明、本人は無一文の宿なし、やむなく、夜の10時から朝までネカフェに泊まる生活を続けているのだそうで、本人の言い草に大笑いしてしまったが、「なんて無責任な親でしょう。生んだからには世話をすべきじゃないか!」………こいつの言い草も図々しくて好きだが、ここまで駄目な子供でも、昔は、家を捨ててまで子供から逃走しようなんて親はいなかったのではないか。昔の人は、家や土地を捨てられなかったから、その代わりに間引きという合理的な手段(おい)を行使したのである。ここに、現代の問題がある。
 今は、やろうと思えば親が子を捨てることのできる時代である。資本主義社会において、投資した以上の利益を上げないものは悪であり、利益は資本主義社会の神である。「子供を持つことは利益か否か」という提議をした人がちょっと前にいたが、議論自体がうやむやにされてしまった。子供を持つことの利点を誰も挙げられなかったせいだろう。議論に参加した評論家連中も皆、子持ちであり、子供なんて無条件で愛せるもんじゃないことを骨身にしみて分かっていたからだろうと推察する。
 日本はかつて士農工商の身分差別バリバリの世界だったが、明治以降、貧乏人の子供でも「末は博士か大臣か」というコースが冗談ぬきでありえた背後には、日本人の識字率の高さ(百姓は文盲だった、というのはウソである)と、横並びを好むがゆえに、みんなで一緒に努力しようと頑張る国民性があったのではなかろうか。日本くらい、誰でも読み書きができる国はないそうであり、イギリスあたりなんぞ格差の固定というのはもう凄いものがあるらしく、最初から身の程知らずの夢など見ようがないのである。その、「日本は違う」と思えていた格差社会の現実化(義務教育さえやってればある程度の知性は身に付くと思えていた世界の崩壊)が迫りつつある。いや、実はすでにもう、固定化されつつあるのである。
 僕は、ネットカフェ歌人の出現を待望する。住所がないから結社に入れないと言うのであれば、俺のところに投稿してくれ。現代の主流とされる短歌は、相変わらずバブルの名残のような浮遊感や能天気な現実喪失感を詠うものばかりで、家族や社会から弾き出されて都会という砂漠をさまよう、シビアな感覚に満ちた歌がない。住みかも生き甲斐も仕事も未来もない、「なんのために生きてるのかわからない」、絶望のどん底にいる若者にこそ短歌をやってほしい。なぜなら、日本は、今から絶望の時代へと入って行くからである。今の日本に希望はない。コンビニで流れている流行歌ときたらどいつもこいつも、「明日を信じて〜」とか、「君は君のままでいい〜」とかゲロの出そうな歌詞ばかりで近頃のアーティストは全員白痴かと思ってしまうが聞いたところによると、自殺とか絶望とか歌おうとするとレコード会社がストップさせてしまうんだそうである。欺瞞である。
 佐々木幸綱氏は、「現代短歌の新しさは、暗さである」と言っている。これは正しい。バカな選者が、バカな新人に賞を与えること、もうやめていただきたい。佐々木氏が選考委員に参加している年度の「短歌研究新人賞」はいい。なぜなら、今は、「暗さ」の時代だからである。「暗さ」を詠うことこそが現代的なのである。
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2008年03月08日

1006 こんなモノいらない@〜「墓」〜

 つくづく思うが、僕は、何百万、あるいは何千万もかけて自分の「墓」を建てようという人の気が知れない。いったい、墓ってなんだ?なんのためにあるのだ?想像するに、そういう人は漠然と、霊魂だかなんだか知らないが自分の精神的営為が死後も継続すると思っており、そのために死後の家が必要だとか思ってるんじゃないだろうか。皆さん。この俺さまが自信を持って断言してさしあげよう。霊魂だと?―――んなもなあ、無い。死んだらそこにはただの有機物の塊が残され、焼かないと腐るのでしょうがなく焼いてるだけの話である。まさしく死んだらそれまでであり、本人が何か感じたり呪ったりタタッたり子孫を守ったり、んなこたあ絶対にない。うん百万もかけて石のカタマリを地面にすえつけるくらいだったら慈善団体に寄付するか、そこまで無欲になれないなら歌集かなんか出したほうがまだ後世に残ることができると言える。
 俺自身、墓なんぞに入りたいとはちっとも思わない。無縁仏ですらない、そのへんで野犬や雀に食われたって構わないが、不衛生だというなら誰か勝手に始末してくれ。後世の人間がそれを哀れもうがどうしようが果てしなくどうでもいい。死んだらそれまで。なんでこんな単純なことがわからないのか。スピリチュアルという本来美しい言葉は現代日本でクソのかたまりのごときものに貶められ、郵便ポストが赤いのもみんな供養しないのが悪いのよ、みたいな白痴世界に突入しておる。みなさん冷静になって連中の言うことを聞き、宗教史を眺めてごらんなさい。先祖供養、なんてのは近世の発想である。人間十代さかのぼれば先祖は1000人越えるのであり(もう1代足すと2000人だ)、そん中に人殺しや狂人や悪代官の一人や二人や十人や二十人混じっててあたりまえであり、兄弟姉妹まで混ぜてったらヒットラーだってどっかで俺の親戚にたどりつく。ありていに言おう。墓をおがまないと悪いことが起きるとか拍手(かしわで)をちゃんと打たないと悪いことが起きるとか先祖への感謝の気持ちを忘れると悪いことが起きるとかぬかす連中は、全員嘘つきの詐欺師である。生まれてきたことへの感謝は生まれさせられたことの迷惑ですでにチャラだと思うがどうか。それは言い過ぎだと言うならもっと単純に、昔の人口は今より少なかったわけだから霊魂の数はその時点で足りんではないか。そんなにおまえら、自分の責任でないことにびくびくして暮らしたいか。不幸をありもせんもののせいにしたいか。おまえの人生がだめなのはおまえがだめだからである。それのどこが悪い。
 世間の常識によると、ひとり暮らしの老人が人知れず死ぬのはたいへん不幸なこととされているらしいが、おまえら、当の死んだ老人に聞いたんかい?そいつらが、「私は孤独死して不幸だった」とでも言ったんかい。孤独死なんてもなあ当たり前である。人間、孤独に生まれ、孤独に還って行くのだ。孫は可愛い、というのは一般常識らしいが、ガキの頃は可愛いかもしれんが、育てばしょせんはただの憎たらしい青少年である。人間というのは、不幸なことに社会的存在であるので、肉親の情というフィクションをでっち上げなければ生存じたい危うかった。だから、金目当てに、あるいは、オタク趣味をバカにされたから肉親が肉親を殺す、というのは、そうした枷がなくなり、村崎百郎氏なども言うように、「そんなもなあもともと意味も拘束力もない」ということにみんなが気づき始めたからだろう。短歌の世界には相変わらず、甘ったるい家族愛の歌が山ほどあるが、反吐が出そうになる。肉親というのは、自分という、自分にとっての最大の病を植え付けた張本人であり、恩に着たり着せられたりする筋合いがないどころか、謝ってほしいくらいの忌まわしい存在である。たかが精子と卵子の細胞分裂ではないか。偉そうに言うんじゃねえ。

      今日の一首

川にちる花吹雪をば見ていたり上手な死に方ある筈がなく 田中 栄
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2008年03月07日

1005 悲しみの器

 短歌とは、悲しみの器だとつくづく思う。毎日ハッピー、みたいな人間は短歌をやらないだろう。短歌が滅びることは絶対にない。なぜなら、人間の心は、かならず道に迷うようにできているからだ。短歌というのは、日本独自の、誇るべき文学だと僕は思う。一言で言って、不幸な文学であり、作り手を幸福にしないのが取り得の文学なのである。

夕日背にみづからの影と遊ぶ子よ さう何もかもまた明日から 吉野加住子

 この歌は、解釈が分かれるかもしれない。子供の遊ぶ姿に、「明日があるさ」という希望を見た、と思う人が多いだろうが、違うのである。大人でもそうだが、夕暮れというこの世でもあの世でもない時間にひとりを満喫してる子供なんて、およそ現実に適応してはおるまい。今だけ、この黄昏というわずかな時間でだけ、人間は(存在しなかった)太古の黄金時代を取り戻せるのであり、そう、「何もかもまた明日から」砂を噛むような、歯車のひとつでしかない無味乾燥な地獄が再開されるのである。希望が絶望と同義語であるということを端的に語った歌であろう。明日がある、というのは希望でもなんでもない。ナニモカモマタアシタカラ。際限もなく。

四日後にまた会う人にさりげなく「よいお年を」と言われりゃ切ない 丸井まき

 年末に交わされる、「よいお年を」。あれってなんなの!?妙な寂しさと皮肉を感じさせる慣用句である。作者は、4日後に会うであろう同僚か誰かにさりげなくその常套句を使われ、それが切ないといっている。年が変わったって生活に変わりはないのである。穂村弘は何かの対談で、「雨乞いの和歌とか詠んだって効果がないのは見て明らかなのに、どうして和歌の呪術性は疑われなかったのか?」と批判的に発言し、ほかの出席者は誰もそれに返答しなかった。僕は穂村氏の短歌をほとんど評価しないがこの疑問はするどい。実際はなんの効果もないくせに5月5日にこいのぼりを上げれば子供が丈夫に育つ、と思ってきた人類の歴史を、貴重なものと言う人もいるかもしれないが近代人の精神ではもはや耐えられない。常套句みたいに「よいお年を」なんて言うやつは、自我と世界の桎梏に目覚めていないようで、詩人にとっては気持ちがわるいのである。三句目の「さりげなく」と、結句の「切ない」という言葉が、アイロニーに満ちている。この作者は、日常のなんでもとない光景をドラマにする力のある人である。

無意味なる一行とむかし思ひたる「賞罰なし」をしばしおもへる 野上佳図子

 若いころバイトなど応募するときの履歴書の賞罰欄。たいていは「なし」で済ませ、「なんでこんな欄があるんじゃ?」と思うだけなのだが、年経て、賞も罰もなかったけれども、これといった人生の荒波に巻き込まれずに過ごせてこれたことを意味あると思える人生もあるのではないか。そういう歌だろう。ただ、別解釈もある。たとえば、普通の会社やあるいはバイトに応募するとして、その人が「痴漢とのぞきで前科十三犯」とか、「実は芥川賞と直木賞を受賞している」なんぞと履歴書に書くわけがあるだろうか。冗談ぬきで、ブルーリボン賞を受賞したような映画関係者が普段はバイトで食ってるなんぞ実際にあることで、喫茶店の経営者だって面接に来たウエイトレスに「『悶絶しびれくらげ』で助演女優賞受賞」なんて書いてこられても困るだけだろう。なのでこの歌はひょっとしたら、そうした状況で生じるギャグを想像してちょっと笑ってみた、という内容なのかもわからない。「賞罰なし」というありがちな空欄に視点をおいた作者の勝利である。

「竹薮が枕元に座ってゐるの」あなたが言ふからリアルに聞える 長谷川知哲

 どうやら、作者が歌会で言われた言葉であるらしい。
 作中の「あなた」というのは、河野裕子氏のことである。河野氏は、一度だけお姿を拝見したことがある。小柄なかただが、さながら舞台女優のごとき、何倍にも見せるオーラを放っておられた。それは「塔」の夏の大会の歌評コーナーでのことだったが、その鋭い舌峰でもって、池本一郎氏や栗木京子氏を沈黙させてしまったのである。とにかく、有無を言わせぬ女優的カリスマのある人である。僕は結構反骨心に富んだほうだと思うが、河野氏にもしも、「黒田。おまえ、バカ」と言われたら反論しようもなく黙りこみ、鴨川に身を投げるであろう。歌人兼主宰兼学者兼教授なおかつすべてにおいて第一線のスーパーマン永田和宏もそうだが、この夫婦は、できうることなら敬して遠ざかっていたいと切に願うのである。
 この作者も、どんな歌を出したか知らないが、あのまとわりつくような京都弁で上句のようなことを言われたら、誰であれたちまち納得してしまうだろう。河野裕子という人物の存在性にはすごいものがある。まさにその存在そのものが短歌の情念そのものである。
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2008年03月06日

1004 短歌人3月号、会員欄秀歌選その33

 今月の赤丸歌。会員1欄パート1、143首。同パート2、102首。会員2欄パート1、143首。同欄パート2、124首。計512首。

      短歌人三月号「会員欄秀歌選」その33

四日後にまた会う人にさりげなく「よいお年を」と言われりゃ切ない 丸井まき

無意味なる一行とむかし思ひたる「賞罰なし」をしばしおもへる 野上佳図子

手紙書く右手(めて)の内側ほの暗く汗ばむあたりにゐる恋ごころ 近藤かすみ

戦ぐものひとつとて無き事務室に備品のごとく在りて古りたり 石川普子

空き缶もビニール袋も子鴨には故郷になる土の無い川 吉川俊幸

のど仏その名の由来知りそむる舅の遺骨のかたちしるけく 本田鈴雨

鈍色の殺意眠れるあばら家をそろり出でゆくおほとしの宵 斎藤 寛

「竹薮が枕元に座ってゐるの」あなたが言ふからリアルに聞える 長谷川知哲

夕日背にみづからの影と遊ぶ子よ さう何もかもまた明日から 吉野加住子

雪渓のひとつひとつを血管に例へて想ふ君の居る冬 薄葉 茂

狭い道すれ違ふとき青年は目が醒めるやうに風をくれたり 脇山千代子

荒川(あらたま)に高くかかれる正喜橋(しやうきばし)、身投げしをなご見知りたる人 針谷哲純

手のわざの多しと言へど君の背にまわした十指で拝む観音(くわんおん) 三島麻亜子

「この雪の白さを君に送ります」幾度撮りても白の持つ闇 三島麻亜子

「また来てね」本気にされぬやうに言ふ妻のなで肩永久に変らず 篠塚 涼

おーい、ひで、火が熾ったで炬燵に入れろ、沓きいろりゆ母の呼ぶこゑ 永井秀幸

寝たきりの娘の髪を洗へるは介護で習ひしゴミ袋の応用 辻田洋美

もうここに居場所はないと感じつつ二十四時間の帰省を終える 魚住めぐむ

半額のケーキを無骨な手に取りて作業着の男レジに持ち来る 前田靖子

白樺の幹しろしろの群生に勃起の松がここぞと目立つ 三浦利晴

粛清を終へて味はふ赤ワイン「いいやつだったのになぁ」とスターリン 野村裕心

みずほ銀行みぎてに回るととつぜんに空の明るさ失ひにけり 村田耕司

年ごとに重くなる障害を平然として言う「皆ガンバッテいる」 阿部美佳

ぼろぼろの借家の小窓に灯りさし君の影見ゆ何時もの場所に 栗林菊枝

年を越すかたばみの花ここに見て涙する人われは見てをり 蔵本かつ枝

ばっさりと髪を切った翌日に声をかけてはくれない人ら 上原康子

〈農業の担ひ手募集〉担ひ手といふ言葉にまづ後づさりする 森脇せい子

佐太郎も紫式部もすさまじき独り笑ひをなしたるものか 高島 藍

夜の闇に深々吸えばいろありし酸素と思うむらさきと思う 榊原トシ子
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:13| Comment(0) | TrackBack(1) | 日記

2008年03月04日

1003 短歌は自分だけのために詠え!

 僕は、全ての歌人に、当たり前のことを言う。
 人に認められたいとか、結社で出世したいとか、選者に褒められたいとか、そんなことで歌を作るな!歌というものは、ひたすら、他人のためではなく、自分のために作るものなのだ。そのように、己ひとりをたのみとして詠んでいる歌人は、俺にはひと目で分かる。歌壇や結社において上に行こうだの出世しようだのというのはくだらん。実にくだらん。要は自分の歌を、一人でも五人でも十人でも百人も千人でもいいから、ふやそうという努力が大事なのである。こう言うと、「歌壇で出世すれば必然的に読者が増えるではないか」という人がおろうが、それはところがどっこいぎっちょんちょんである。「歌壇や結社で出世して知名度上がって一般誌にも載ってたくさんの人が読んでくれている」と思い上がっている歌人がごろごろいるであろうが、実は、本当の短歌の読み手は、そんなもん読んじゃおらんのである。僕が、このブログで毎月月末に発表している拙歌には、600人前後の読者がついている。もちろん、中には「くくくくくく、くだんねー。この歌壇の水虫めが」と思っていやがりながら読んでいる人もいるだろう。それでいいのだ。黒田英雄という名のたわけ者の歌にひと目なりとも興味を抱いてくれる人がそれだけいる。そういうことが大事なのであるよ諸君。結社という身内で褒められるだけの歌を読んでありがたがっているようでは駄目なのである。だって、結社内評価が高くとも俺が読んでくそつまらん歌はハマのマサゴのごとくある。結社や総合誌の、おえらい選者の皆様がたの選歌を、秀歌の基準にしてはいけない。自分がいいと思っても、「センセイ」がほめてない、あるいはけなしている、との理由で自分に疑問を持つこともあるかもしれないが、んなこたー気にしなくていいのである。貴方がいいと思えばそれは「いい」のである。
 「玲●」69号をさる人から送っていただいたので読む。時評欄における魚村晋太郎氏のコラムで、穂村弘氏が故安立スハル氏が歌壇への露出度が全くといっていいほどないのに、いまだ語られるということに「歌がいいというだけで残れるのですか」と驚いておられる。この穂村氏の気持ちは僕にもよくわかる。しかし、考えてみれば、「歌がいいから歌人として名が残る」つーのは、あったりまえのことなんである。というか、歌がいいから名前が残る、以外のどこに歌人、ひいては文学者の存在価値があるのか、と言うのもばかばかしいことを言ってみたりする。文学は、ある時期まで間違いなく若者のオピニオンリーダーだった。本は借りてまで読んだし、すごい人になると紙に写した。それだけ文学作品というものにみんな飢えていたのである。今は、小金持ちが増えてちょっとムリすれば誰でも歌集は出せるが、歌集を問わず何の書を問わず、自己を強烈に啓発してくれる一書を求めるという読者の気概がはなはだ低下している、というより、壊滅しているのではなかろうか。文学に己のアイデンティティーの存亡を賭ける、などという若者がいないのは歌壇のせいではなく時代の潮流というものであろうが、あえてそれを放置しまくり、あまつさえ増長させているような歌壇のありようは大いによくないと思うのである。過激なことを言っているにみせかけて、具体的な事例や個人名をあげず、漠然とアホ左翼みたいな擬似反逆的な意見を垂れ流し、その実何者とも戦うことなしに歌壇的出世ばかり狙ってラディカルのふりをし続けるようなある種の歌人の欺瞞を僕は嫌悪するものである。
 啄木の「一握の砂」をこんにちまで伝えおおせたものは、その時々の一線級の歌人や有名出版社ではない。白秋とか星菫派とかが決して救い上げない男の、むさくるしい孤独と、女性性によっては決して癒されないろくでもなさに共感したそのへんのボンクラどもである。男とは、サルマタケの生えた部屋で行きずりの好きでもない女にインキンをこすりつけながらも自分を純粋きわまりない思索の権化と思う生き物であり、それを否定されたら存在できんのであり、啄木はそんなボンクラどもの心の叫びのスピーカーなのである。
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:15| Comment(4) | TrackBack(0) | 日記

1002 腐敗〜ひとり負け〜

 今朝、物凄い光景を見た。窓の外で、ヒッチコックの映画かと思えるほどの鳥の羽ばたきの音がする。なんやねんと窓を開けてみて愕然とした。我が家は4階にあるが、隣の家が三階建てで、ちょうどベランダの真正面に隣の屋上がくるのである。その屋上で展開されていたこと、それは、五羽のカラスが、一羽の、すでに半分骨になった鳩の肉をついばみ、むさぼり食っている、踊り食いの宴会会場であった。もちろん辺りは、鳩の羽だらけ。四羽のカラスが飛び去り、一羽だけが残ったが、鳩の残骸を見たらすでに三分の一くらいしか残ってない。こらこらこら、この惨殺死体を俺んちのベランダの前に残してくんぢゃねえ!と思っていたら、最後のカラスがくわえてどっかへ持ってってくれたので助かった。カラスも、ゴミ捨て場に網が張られて腹がへっているのか、あるいは、今日はカラスの同窓会で、「たまには同じ鳥類の生肉踊り食いでもどうでえ幹事」なんて会話でもなされたか。いずれにせよ、鳥が鳥を食うというのはグロテスクだ。カラスも大変だよなあ。

 物凄いといえば、日本経済ももーめちゃくちゃである。為替がとうとう、102円という円高にまでなった。物価が高騰しているが、これは産業の基本である、諸原材料が高騰している波及効果である。インフレと、景気悪化というのは本来相反するものだが、それが一緒くたになって襲ってくるスタグフレーションの状態に陥っている。アメリカも同じだ。FRBのバーナンキ議長が、金利を2パーセントまで引き下げる決断をしたら、日本の為替が100円を切ることは目に見えている。まさに、大恐慌だ。これに対して日本政府は無策無能の状態を呈している。構造改革はいっこうに進まず、航空会社から外資系を締め出した。おまいらなあ、今どき攘夷でも考えてるのか。生麦あたりで外人パイロットを見かけたら斬り殺すとでもいうのか。すでに日本の株式投資外国人が7割を占めている。しかし、その大部分は売りに走っている。彼らは日本経済を見離しているのだ。亜細亜の通貨も、人民元にとって代わられる日も遠くないだろう。この悲惨な経済小国状態をなんとかするためには、自民党を政権から引きずり下ろすことだ。政権が変わらなければ、いかなる意味においても、経済界のパラダイムシフトはないだろう。福田みたいなしなびたラッキョよろしきサラリーマン首相に用はない。今必要なのは、小泉みたいな、誰の言うことも聞かん変人が必要が再び必要なのだ。防衛庁は、守屋があの通りで、警察もソデの下で運営してるような「ここは南米の小国か!」てな腐敗ぶりだそうである。実際、二二六事件が起こってもおかしくないほど、政財界官界は腐りきっているが、そんな気概のある青年将校はいないし、気概のある某国防軍の青年を何人か知ってはいるが、悲しいかな、とても後事を託せるほどの理性や知性はなく、正義感はあっても根本は鉄砲がぶっぱなしたくて軍隊志願したような背骨の通ったバカばかりである。日本は腐りきっている。僕は、カラスの宴会の餌食となった鳩の血まみれの半身に日本の将来を見たような気がして、暗澹たる気分な一日であった。
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2008年03月01日

1001 二月月間ランキング〜歌人は優等生か〜

 ブログ開設1129日目。総アクセス数836155。総訪問者数150893人。

      二月アクセス数月間ランキングベスト10

1位 12日「『一握の砂』はなぜ読み継がれたか?」1777
2位 14日「気障の権化〜カフェテラス短歌を駆逐せよ〜」1500
3位 17日「覚悟〜自己検閲?笑わせるな!〜」1351
4位 11日「秀歌の輝きとは」1344
5位 19日「『塔』2月号『陽の当たらない名歌選』1」1297
6位 10日「歌壇の主流って何?〜良質な通俗性〜」1277
7位  5日「『今だから、宅間守』」1254
8位 23日「ワイルドで行こうってか?〜フェブラリーS〜」1188
9位 24日「をみなとカツ丼」1180
10位  8日「『短歌人』2月号秀歌選その32」1179

 二月のアクセス数は、26943、訪問者数は3799人でした。

 「短歌人」三月号を読む。「三角点(てんの字が出んわ)」に、久々われらがヲイヌマくんが投稿をされてをられる。「誌面の役割」なる文章である。これによると要するにヲイヌマくんは、「三角点」という欄のレベルアップを要求しているわけだ。
 くだらん。お前の話は実にくだらん(@大滝秀治)。
 僕に言わせれば、「三角点」は、一般人が読むには気取りすぎ、かといって、歌人が読むには有益な提案に欠け、はなはだ中途半端で、読み物としての面白さが欠落している。要するに、どいつもこいつも優等生的なのである。これは別に「短歌人」に限ったことではない。結社誌にも総合誌にも、面白いエッセイの欄がまったく見当たらない。誤解されては困る。文章が下手だとか駄目だとか言っているのではないのである。それぞれの主張や内容はちゃんとしているが、読み手を面白がらせようという、娯楽性がてんから欠如しており、こいつら中島らもとか、面白いエッセイを読んであやかりたいとか、思った経験ないのか、根本的に散文の経験がないのか、と思ってしまう。「短歌人」の「三角点」などまだいい方である。エッセイというのは、露骨に自分の好き放題なことを、ユーモアでくるんで書くべきものであり、その視点を欠いた短歌雑誌のエッセイなど、面白くなりようがないのである。俺に書かせろと言うのである。なに、だったら投稿しろ(@2ちゃんねらー)?ふざけるな。俺に、原稿を依頼しろと言っているのだ。読者数を倍増させるような見事な散文をものしてやる。
 僕は以前、この日記でこういうことを書いた。題して「『短歌研究新人賞』試案」。

http://hideo.269g.net/article/731636.html

 これぐらいのことを専門誌が面白がって載せないようでは、短歌の未来は暗い。まず、つまらんので一般人は誰も買わないであろう。当ブログは、2005年一月26日から始まった。この当時は、アクセス数が1日100から400台であった。今みたいに、1000を越えるなんていうのは、考えられないことだった。しかしながら、断然、やり始めのころの日記のほうが面白い。時間のあるかたは最初からもう一度読みなおしていただきたい。「短歌研究」誌、ボロクソである。ヲイヌマくんよ、総合誌の批判もさかんになさっているようだが、それだったら具体的な試案を打ち出すべきであろう。いずれにせよ、現在の短歌誌は、専門誌結社誌を問わず、面白い記事がない。
 要するに、歌壇は優等生の集まりなのだ。だから、批判慣れしない。佐々木幸綱が、松村正直の批判記事に対して、常軌を逸した憤りかたを見せたのがそのいい例である。歌人なんぞ、批判の応酬を楽しむこともできない、温室に咲く培養植物に過ぎないのである。しかし実は、この俺の日記に1日1000以上のアクセスがあるということは、俺のようなバカの存在を歌人たちが実は求めていて、しかし表現方法を知らないか、言うとあとが怖いと思ってしまうかのどちらかなのだろう。情けない限りだ。俺にエッセイを依頼するだけの先見性がない限り、歌壇の発展性はないであろう。歌壇は、花壇なのだ(誰がうまいこと言えと)。
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:15| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

1000 水泡(みなわ)〜誰がためにベルは鳴る〜

       水泡〜誰がためにベルは鳴る 黒田英雄

甘橙色(オレンジ)の雲がぽつかりただよひて恥ぢらふごとくやまぎはに消ゆ

唇をかむ貌車窓に映りゐて母の癖とぞ思(も)ひて見つめつ

MAXの下階を降りぬ景色絶てる灰色の壁思ひ出として

あんたは鬼です@文受けしは練馬にて夢追ひし頃 母よりの文

許される者許されざる者いつか皆しろき水沫(みなわ)となりて果つらむ

一寸法師よおまへは黙し語らねど敵は鬼より猫にやあらむ 

二二六の狂気嗤ふはたやすくも鴉はけふもごみ袋突く

しろがねの雪に映ゆべき安藤の両の眼鏡(レンズ)は血にくもりたり

すめらぎをつひに灼かざりそが魂の有処海へと御滋羅は還る

酒浸りの戸浦六宏咆哮す 敗北ばかり描いちゃ駄目だ!

声を失くしし大島渚の無念思(も)ふ夜と霧との果てざる国で

後楽園オッズの帰路に聴こえるジェットコースターの嬌声(こゑ)忌忌し

生きるとは資本に塗れたたかふこと五十路越えなほ羊腸の道

クロージングベル一喜一憂しつつ見て今年もまたああオープニングベル

黒白のみみ太は妻に添寝してわれは歌集(ほん)読む いい正月だ

大切に思(も)ふ人ふたりあれば良し賀状出さずに十年過ぎゆく

 なお、十首目、13首目、14位首目は、結社誌掲載当時のものを推敲したものである。
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記