2008年04月30日

1043 嗚咽

      嗚咽  黒田英雄

何のために生きてゐるかと問はれなば即座に答へむ風呂に入るため

甲州の夜気はしんしん澄みわたり犬の聲にも谺(エコー)がかかる

ぬばたまの夜の障子のしるく顕ち百八つの鐘かそか聞え来

初夢に扇子あふぎてちよび髭の多々良純出でわれを煽てる

湯村の湯七度浸りし心地良さ信玄のごと京を夢見る

東向く窓昏くなる午後三時餅ふたつ焼きしやうゆつけ食ふ

都会には都会のキノコ生えてをりそを喰らひをれば我もマタンゴ

老人のごとく嘔吐きて痰を喀く子等よ未来ハ君タチノモノ

影薄き芦屋三兄弟末っ子の名思ひだせずして蟋蟀の鳴く

敵持たぬ男の口から夢といふ言葉漏れるを嘘寒く聞く

いつの日か妻の亡骸まへにしてわれ呆然と雲呑食ふらむ

鴉どち鳩を喰らひをる朝にわれ口遊まむ「流氓の歌」を!

眠りたし!ただひたすらに眠りたし愛知る者は輪廻を乞はぬ

女郎蜘蛛わが世の秋と榛名山背にしてゆうるり寅縞が這ふ

女郎蜘蛛の網は夕陽に照らされて骸飾れる権田車庫前

せめて優し死地なからむか凍鶴のさま首垂れて眠る男に

かをり変らず時は流れき真ん中のへこみしチキンラーメン頒つ

山科の雨横ざまに腰濡らし於りくの嗚咽と揺るる篁
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2008年04月28日

1042「太陽の墓場」に通じる現代性

      今日のMYビデオ

      「太陽の墓場」

 昭和35年松竹、大島渚。脚本石堂淑郎、撮影、川又昴・音楽・真鍋理一郎。炎加世子、津川雅彦、佐々木功、川津祐介、伴淳三郎、北林谷栄、渡辺文雄、浜村淳、佐藤慶、戸浦六宏、藤原鎌足、田中邦衛、羅生門(人名である)、小池朝雄、左ト全、清水元、小松方正。

 久々にこの映画を見返す。大島監督は、釜ヶ崎という地区を日本の縮図として捉え、無残に死にゆくべき人間たちの様相を見事に描き出している。「少年たちに愛の光を」などという看板をいやみったらしく撮っているが、大島監督の考えはこうだろう。「人間はみずからの環境から這い上がることはできない」。当然そこには時代というものがある。この映画に描かれている貧民というのは在日朝鮮人であり、ありていは言われていないが同和地区の人々である。
 津川雅彦をリーダーとするチンピラグループの崩壊を描きつつ、アナーキーなまでに、はけ口のない怒りが表出されている。僕は、この映画にはすごい現代性があると思った。もちろん在日や部落問題、日米安保という状況を無視できるものではないが、それを度外視しても、現代に通ずるものがある。
 今、小林多喜二の「蟹工船」の文庫本がひそかなベストセラーだという。そもそもは、現代の若者たちのおかれた「ネット難民」「体のいい日雇い状態」「契約不在の未来のない就職状況」を、「蟹工船」における労働者搾取と重ねあわせて論じた新聞紙上の某評論家による紹介がきっかけらしいが、家もなく金もなく保証もなく(しばしば、親すら失踪していていないのだ。親や兄弟や親戚だけは売るほどいた蟹工船の時代より自由………か?)、ひと番1500円のタコ部屋にも劣るスペースにわが身を押し込め、携帯で日雇いの仕事を探すその惨めさは、北海を放浪する蟹缶製造業者への共感を呼ぶに十分だろう。「何を言うそこにはエアコンも照明も漫画もネットもあるではないか」とほざく向きもあるかもしれないが、それが地獄の別名であることに、敏感なかたはお気づきであろう。かつてサルトルは、至れりつくせりのホテルだがお互いの憎しみをぶつけあうしかない死後の世界を「出口なし」という芝居に描いた。それすらまだましかもしれない。
 「太陽の墓場」において、日本人の共同社会からはぐれた人々の悲劇として描かれた状況は、今見れば、日本人の誰にでも起こりうる問題としてつくづく感じられるのだ。この映画において小沢栄太郎が口にする、「戦争が今に起こる。戦争が起こればみんな変わる」という言い草を、ごく最近、フリーターのオピニオンリーダーなる人物が高名な一般誌に書いた評論でまったく同じ論調で読んだ。この映画でも、それを信じる貧民どもが描かれている。そこに時代を越えたリアリティがある。
 佐々木功が口ずさむ「流氓の民」のシーンが美しい。演出が上手いと思う。この歌にかぶせて、真鍋理一郎のメインテーマを同時に流しているのだ。そこに、チンピラグループの、鬱屈した酒宴の場における、アンバランスな状態というものを見事に描いている。アンバランスというのはこの映画において重要なモチーフだが、長くなるのでやめる。
 大島渚という監督は、いったいにキャスティングが見事である。「戦場のメリークリスマス」において、デビッド・ボウイ、ビートたけし、坂本教授という驚異かつ、キワモノとしか思えないキャスティングをして、傑作映画をものしたが、新人時代においてもそのキャスティングセンスは見事である。この一作のみで消えた幻の女優炎加世子、松竹大船二枚目俳優津川雅彦の起用(好演。彼は「日本の夜と霧」で、新左翼の学生を演じた)。また、当時まったく無名だった田中邦衛、小池朝雄の抜擢。そそそそそして、「羅生門」(しつこく言うが人名である)というもとプロレスラーの起用。絵的にすばらしい。また当時、日本のプレスリーと言われた佐々木功、彼もまた好演。大島監督のキャスティングセンスは抜群である。
 この映画は、松竹からビデオもDVDも出ている。ぜひ見ていただきたい。数ある大島作品の中で、若さに溢れた、もっとも好きな作品である。
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:51| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

2008年04月27日

1041 ギャンブルは芸術

 なんで、俺の軸馬は最近、馬体重が滅茶苦茶なのだ。フィフティーワナ―、プラス12はねえだろう。減ったら駄目とは思っていたが、まさかこんなに増えるとは。ただ、ギャンブラーの性、回避はできなかった。案の定、ゴール100メートル前で失速、4着。モニターで見る京都は砂塵が待っていたが、強風だったのだろうか。逃げ馬不利だな。1着ワンダースピード、2着ドラゴンファイヤー、紐に押さえることはできるが、とても軸馬では買えない。比較的固いレースであるアンタレスSまで万馬券かよ。ここんとこ、レースが荒れまくって手がつけられない。強い馬が勝つというのもレースの醍醐味。こう大荒れ続きでは、戦意喪失になってしまう。来週は天皇賞春。これも、難しい。ただ、予想するのは楽しい。この誘惑に負けてついついやってしまうのだ。

 今日テレビで、黒鉄ヒロシがいいことを言っていた。「ギャンブルというのは、勝つためにするのではなく、負けるためにするんです。そして、世の不条理を知り、無常を感じる。それがギャンブルの醍醐味なんです」。いいこと言うよなあ。道理で、競馬に負けた日は必ず短歌ができる。そりゃ、負けたときの無常観てすごいもんな、諸君。お蔭様で、今日も歌が三首できた。そうか、俺は、短歌を作るために競馬に負けているのだ。でも、やっぱり、勝ちたああいいいいいいいいいいいいいい〜〜〜〜〜。当分、春の地獄は続きそうである。
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2008年04月26日

1040 フィフティーVS武兄弟、ってか〜注目度ゼロのアンタレスステークスGV予想〜

 明日は、待ちに待った(笑)アンタレスSである。テレビ東京競馬中継を最後まで見とったのに、一言もこの明日の京都メインにふれねえでやんの。メインレースなのに完全無視かよ。京都ダート1800、奥深いね。行った行ったか、差した差したか、面白いレースだ。このレースに注目しない奴はトーシロだね。
 軸はずばり、5番、フィフティーワナ―。推定タイムは1分50秒台と思う。フィフティーは、京都大好き。鞍上岩田。平均速めペースに持ち込み、逃げ切り濃厚。相手は、当然、3番ロングプライド、2番メイショウトウコンの、武兄弟コンビ。メイショウとロングの比較では、僕はロングが勝っていると思う。ただ、ロングは出遅れ癖がある。このレースでの出遅れは致命的である。また、メイショウも、自分でレースで作れないという弱みがある。よって、フィフティを軸にする。穴は、14番キクノアロー。この馬も、京都大好き。前二走の惨敗は、それぞれ理由がある。京都で甦る可能性大。まるで、「塔」の歌人みたいな馬だ。あと10番、エスケーカントリーも面白い。しかし、メインレースなのに、テレビもネットも誰も注目しとらんな。ヒモ穴もありえる、面白いレースだ。なお、アンタレスというのは、さそり座に属する華麗なる星なのだが、ひょっとして競馬おやじどもというのは、星の名前なんぞ一回も気にしたことのないヤボのかたまりなので、「アンタレス」と聞いただけで尻込みしてしまうのかもしれない。さそり座の女性(例・栗木京子)は注目すべし(ただ、栗木氏は誕生日がボーダーで、僕のイメージとしては、てんびん座寄りの確率が高い)。
 前日予想結論。本線三連複、2−3−5。穴、3−5−14。馬連、3−5、5−10、5−11、5−14、5−15、5−16。穴、5−12。フィフティワナ―は、馬体重増が絶対条件である。馬体減なら、ロングプライドを軸とする。フィフティーよ、逃げろ逃げろ逃げまくれ、この世の果てまで。なお、このレースの位置付けをあえて言えば、大井競馬の帝王賞(GT)のステップレースである。そのことが、中央競馬としては気にいらんので、JRAを神と仰ぐ土曜競馬実況中継は予想はおろか、レース自体存在しないがごとく無視したのかもしれないがそれにしても、京都メインだというのに、マスコミの注目度ゼロであるのは不可思議なことである。でもこのレースは面白いぜ。直線の叩きあいは凄まじいことになるだろう。岩田くん、頑張ってちょうらい。競馬の世界も、、歌壇と一緒で、暗黙の遠慮というものがあるのだろうか。
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

139 歌人の自由のために

 僕は、これからの歌人は、二つの結社に所属すべきであると主張するものである。もちろん、一つだけにしか所属していない人を非難する気は毛頭ない。ただ、歌を作るものの生理として、一つの結社だけで満足できるのだろうかと、僕は疑問に思うのである。だいたい、端的に言って、あきてこないか?短歌結社というのは、政治団体でも宗教団体でもない。それはあくまで、自分の歌を発表し、読んでもらう舞台であり、舞台である以上、帝国劇場にも出たいし文学座アトリエにも出たいし、その都度作風を変えてみたい、そうした願望は表現者として当たり前のことではないのか。まるで思想に殉ずるかのように所属をダブらせることに潔癖な反感を持つ人がいるが、歌人が結社に所属するというのは、単に発表する権利を得るというだけのことであって、その結社の作風に殉ずる責任を負うということではまったくない。
 僕は、選者指定制というものを高く評価する。そのほうが、歌人は伸びると思う。が、その反面、ず―――――っと同じ選者の選を受ける、これはまたこれで欲求不満に陥るのではないか。要するに、人間というのは、他流試合がしたくなる体質を元来持っているのである。短歌研究研新人賞の応募用紙には「師系を書け」という欄があるが、噴飯ものである。短歌における師弟制なんていうもんはすでに過去の遺物である。もちろん、影響を受ける歌人はたくさんいるが、どんな尊敬する歌人であれ、勝手に添削されたり歌の方向性をごちゃごちゃ言われたりするのは、俺だったら御免こうむる。歌というのは、あくまで、自分の感性で自分の詠いかたで詠うものだ。また、選者にも、自分の選の常連だからといって「自分が育てた歌人」だと自慢するとか、はなはだしきは、選者や師匠を鞍替えしたからといって、怒って意地悪したりするようなシーラカンス的なのがいると仄聞するが、そういうのはとっとと消えてきただきたい。誰とは言わんが大先生(不特定多数)よ、歌人はオマエが育てたんじゃない。本人の力があって育ったんである。オマエはただたんに機会を与えただけにすぎないのだ。土俵を変えたからといって、いかる権利なんぞひとつもない。いばるな。
 師弟制、これは短歌の世界では俳句ほどには目立たないが、隠然たる事実として存在するそうである。短歌というのは、すぐれた複数の歌人の影響を受けながら、独自の世界を切り開いていく、それが本道である。俳句みたいに、師系ガチガチの世界と違って、短歌はもっと自由な文学のはずだ。よって、自由な気風な結社が、今後どんどん伸びていくであろう。でなければ、師系がどうの、選者を変えるとまずいだの、そんな雰囲気にとこに若手が入ってくわけがあるまい。まだ俺は、「塔」や「短歌人」は自由なほうだと思うのだ。この2結社にしたところで、俺から言いたいことはいろいろあるが、ガチガチ揃いの歌壇の中でまだリベラルな精神を持っていると思うので、批判はやめる。「K」とかまた別な「K」とか「C」とか、超大手結社の裏情報がいろいろと俺のところにもたらされているが、いやまあひどいもんである。筒井康隆の「文学部唯野教授」に匹敵するひどさである。
 歌壇は、結社の人口の減少を嘆いているが、それは自業自得だ。自由を感じられない結社になど誰が入るか。僕は、先生大事の、自由度の低い結社は潰れていいと思うし、潰れていくだろうとも思う。よろしいか。選者という存在は、センセイにあらず。サービス業である。その歌人のよさをいかに引き出すかというのがその使命であり、オノレの作風の模倣者や崇拝者を作り出すのが目的じゃないだろう。そのへん、勘違いしたバカ先生が多くて困ったことである。これじゃ、結社人口なんて、伸びっこねえじゃねえか。
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2008年04月23日

1038 「塔」と「短歌人」〜くだらんプライドは捨てろ!〜

 僕は、以前にも書いたが、結社に入るなら、最低二つくらいかけもちするのがよろしいというのが持論だ。なぜなら、ひとつの結社にしか所属しなかったら、そこの歌風や傾向にどっぷりはまって飲みこまれ、センセイ大事の一家制にたとえそうすまいと思っていても染まってしまうからだ。歌に飛躍がなくなる。だいたい、ひとつの結社にしか入ってなかったら、諸君、おおなんということだ、月に一冊しか結社誌が届かないということではないか!そんなのすぐに読み終わってしまって、あとの二十何日が退屈で困るではないか。やっぱり、少年サンデーを読むなら少年マガジンも読むべきである。いやジャンプやチャンピオンやGXやドラゴンマガジンでもなんでもいいが、複数の結社、結社誌に触れることが重要なのである。
 僕は「塔」と「短歌人」に所属しているが、これはベストマッチである。「短歌人」では、(みんな知ってるだろうから今さら隠さないが)藤原龍一郎選を受けている。ここには僕は、本音の歌を出詠している。しかし、本音ばかりでは、僕の芸術家としての魂が物足りないのである。僕は、佐太郎も読めば邦雄も読む。セキララでビンボくさいアララギ系も大好きだが、観念的で抒情に溺れたような世界もやっぱり好きなのである。だから、その両方の歌欲(?)を満たすべく、「塔」と「短歌人」に所属して、精神のバランスを取っているのである。そしてまた、複数の結社誌を読んでいれば、それだけいい歌人を発見する確率も高まるというものである。
 ただ、「塔」と「未来」、この両方を掛け持ちするのは、私見であるがおよしになったほうがいい。完全にミスマッチである。この二つは、源流をアララギに置く兄弟結社と僕は見るが、今現在はライバル関係であると思う。兄弟というのは、そういうものだろう。大手結社で掛け持ちするなら、「塔」と「短歌人」がベストマッチである。だって考えてもみたまえ。

 問・「塔」と掛け持ちしてもっともぴったりくる結社を以下からあげよ

 短歌人 コスモス 玲瓏 未来 かりん 歩道 かばん 沃野 まひる野

 「短歌人」と答えた人、A。「まひる野」と答えた人、B。あとは落第。
 これが「短歌人」と「コスモス」という組み合わせだとさらに気持ちが悪い。寿司にソースをかけてくうようなものである。
 結社の主宰が変わったり、死んだりして、それまでいた幹部が新たな落ち着きさきを見つけようとするとき、それまで幹部扱いだった歌人をどう処遇するか、という問題がある。くだらんことだ。いい歌人というのは、どこから始めても読む人が読めばわかる。要するに作品勝負である。どの欄に載ったところでいい歌はいい歌である。「俺は前の結社だったら巻頭で特集だったのに」とか、「評論とか選歌欄とかやってたのにい」とか、そうしたくだらんプライドで、いちから登りなおすのを厭うようなら、それはダメな歌人である。だって、いい歌はいい歌であり、そうでなくて、評者としてとか、有名歌人であるとか、そういうことにプライドを置いていて、最初から重役待遇してくれるところを探しているとしたら、はっきり言おう。「オマエは駄目だ」。
 僕は、結社誌であれ、総合誌であれ、有名歌人の歌評なんぞじぇんじぇん気にしてないし、大きく取り上げられたからといって、「そうかそれならきっといい歌なんだろう」なんて思うこともじぇんじぇんない。大きく取り上げられてても、「なんじゃこりゃあ」と叫びたくなるようなくだらん歌やくだらん評や歌集が掃いて捨てるほどある。僕はこれらのものを、まとめて丸めてふんづけて唾棄したいのだが、あいにく歌人という人々は繊細で、へたなことを言って首を吊ったりされたら困るのでやめる。僕は、名歌選、秀歌選では歌を褒めているが、実は、駄歌選愚歌線をやってけなしまくるほうがよっぽど得意なのだが、やらないのは武士の情けである。ただ、俺の堪忍袋がバーストするようなくだらん文章を目にしたら徹底攻撃する所存である。なあ、K野MS希よ?
 要は、いい歌というのは、えらい先生がホメた歌のことではなく、自分自身で見つけるものである。今の歌壇には、この視点がまったくない。総合誌も然りだ。今の総合誌の編集者に、田中雅子を、有本沙也香を、あるいは、谷村はるかをピックアップするだけの見識があるか。あるまい。つまらん歌人ばっかり取り上げやがって。馬鹿野郎。
 この項、やっと終わったと思ってる皆様にはすまんが続く(冷笑)。
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2008年04月21日

1037 「塔」4月号「陽の当たらない名歌選」2〜渋谷の沖〜

 欠詠者が多い。歌人というのは、原発の業火のごと、いったん点火したら、どれだけ苦しくても詠い続ける、そのような存在であるはずだ。月10首が作れなくてなんの歌人か。スランプ?いい歌しか発表しない?ふざけんな。それは気障ったらしい傲慢というものだ。

 今月も秀歌が揃った。多くの歌にコメントはしないが、読者にはじっくり鑑賞していただきたい。
 今月の赤丸歌。真中欄、177首。栗木欄、161首。花山欄作品1、124首。池本欄作品1、167首。計629首。4月号赤丸歌総計、1084首。

      「塔」4月号「陽の当たらない名歌選」その2

誰からも好かれる人に嫌われて夜の渋谷の沖へと向かう 高橋武司

もう泣くな分かつたからと言ふ父の睫毛が不意に長く見えた日 澤村斉美

京に住み十五年という青年はわれを呼ぶ時名前で呼べり 中村光子

浮く島を一つつまんで寄せてみる油のような瀬戸内海に 古栗絹江

〈利用料二千円が払えません〉障害者自立支援法の退所者の理由(わけ) 植村ゆかり

村神楽太鼓の音の近づきぬつき歩きたる子らはまぼろし 宮西久枝

男子用公衆トイレ掃除する女の横で男たちはする 相原かろ

古着屋に吊るされている服たちが師走の風に昔語りす 潮見克子

声あげて走り出したくなる夜更け例えば明日の医師の宣告 須磨岡 繁

あきらめる事覚えてきたよと夫は言い薄き布団の上に坐りぬ 沼波明美

ひと言が足らぬばかりに怒らせて日暮れのように今日が始まる 村田弘子

換気扇こわれし夜のしずかなる風呂場に九九は長く続けり 山下裕美

過ちて田に落ち雨に打たれしと配達員の死の記事短し 石川 啓

池の面は百万石の雪吊りの束縛の美を映してゐたり 上田善朗

スーパーの店員のごとき口調にて故人の生ひ立ちナレーションする 今西秀樹

裸木の銀杏はすくっと天を突く妻の視線に合わせ仰げり 松島良幸

まだ動く蟹に怯みておしこめし冷凍庫よもや笑ひはすまい 出 奈津子

くちびるを求めるように顎をあげ今宵の月を探していたり 岡本幸緒

呼ばれたように振り返るのはなぜだろう橋を渡り終えたるときに 岡本幸緒

胃の悪きこと嘆きつつすぱすぱと喫煙席のチェーンスモーク 千名民時

柩あけねむれるわが子に妹はその名を呼びて礼を言いたり 徳永香織

フラッシュには幾分慣れかしサリン被害薬害訴訟を闘う女 林 泉

雲が生れ消えゆくまでを細やかに語る夫となりてをりける 高橋 窓

弟に預けしわれの手の平はひろびろとわが弟を見つ 花山周子

てのひらは静かな夜に思い出すふるさとに老いて眠るタローを 松村正直

ハイラルの戦の日々を語り終へ目瞑りゐむか藤本北夫氏 山本大二郎

補聴器のなき暗闇に目覚めけり 敗戦のラジオの雑音を思う 濱藤勇吉

十二月の闇に吸はれてゆくやうに川合都美はふはりと逝けり 井上政枝

とをか程を選歌欄評に没頭し燃え殻のごと床につくとふ 井上政枝

宝くじ売場の女性いつもいつも顔下半分が笑っている 森 富子


 誰からも好かれる人に嫌われて夜の渋谷の沖へと向かう 高橋武司

 「誰からも好かれる人」とはいったいどういう奴だ。カヌーイスト野田知佑氏は、「友達が多い、なんてのにロクな奴はいない」とどこかで書いていたが僕も全く同意見である。いや、「××ちゃんを見なさい。誰からも好かれて友達がいっぱいいるでしょ(だからお前も見習え)」と言われたことのなんと数限りなくあることか。その度に、「こんなクソ面白くもない八方美人の、流行にだけは敏感な野郎(女性含む)のどこがいいんだ!?」と混乱することしきりであった。私見だが、「誰からも好かれる人」の魅力のなさというものはもう漏れまくった原発事故のごとくすさまじいものであって、そのオーラの醜悪さというのは笑うしかないのであるが、こういう奴が嫌う人間というのはすなわち、そうした醜悪さを見抜く、つまりは鏡を見せられてるような気にさせられる相手であろう。自分の偽善と、自己主張の無さ故の「誰からも好かれる」を思い知らされるのである。とは言うものの、この歌の作中主体というのも相当あくの強い、傲慢で不愉快でとげとげしい人物かもしれない。どうせ知り合いになる心配もないから歌さえ面白ければ作者が人でなしだろうがフクロモモンガだろうが僕はいっこう構わないので、どんどん嫌われ者の人生を邁進していただきたいものである。「渋谷の沖」というのが俗というか神秘的というか、いったいどっちの沖だろう。幽霊が出るというNHK方面だろうか、奇怪至極なラブホテルの林立する円山町か、今どきこっそり鯨を山ほど食わせてくれるという居酒屋があるという某方面か。ともあれ、「誰からも好かれる人」の没落を強く願うものである。
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:25| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記

2008年04月20日

1036 代償〜サラブレッドへの敬意〜

 オッズシートを見て呆然となった。マイネルチャールズ、マイナス2キロ。体を減らし続けて、連勝してきた人気上位馬が、本番でまた体を減らして連対した例はない。僕は、「ああ、あかん」と思った。陣営は、460キロ台出走できるとぬかしていたのに、450キロではないか。なんやこれは。僕は、このレースは回避しようと思った。んが、ギャンブラーの悲しい習性、17番フローテ―ションから流して惨敗(泣)。思えば、この馬も馬体減だった。
 レースは思ったよりスローペース。見た人は、松岡はもっと前で競馬をすべきだったと言うかもしれない。だが、僕の想像だが、出足がつかなかったのではないか。この馬体重で3着に来たというのは、強いということだと思う。今日の結果だけで、ダービーで見離すわけにはいくまい。ただ、体は戻さなきゃあね。
 今年の三歳馬は、どうもスケールの大きい馬がいないのだ。みんな繊細だ。先週のトールポピー、マイナス10キロではないが、レースが近づくと、馬は神経質になってしまうのだろう。人間世界でのダイエットは大変だが、サラブレッドの世界では、かように減量とは容易なのだ。それだけ、彼らは苛酷な運命を背負って走っている。勝てなければ、コンビーフに混ぜられれば運のいいほうで、下手をすれば実験動物である。

おほかたの競争馬(サラブレッド)は潰瘍を患ひターフを駆くると云ふぞ 黒田英雄

 俺は、たとえ馬券で負け続けようとも、彼らに敬意を表する意味でも、競馬に参加したいと思う。彼らの苛酷な人生に比べたら、俺の人生、いや、人間の人生の苛酷さなんて屁みたいなものだからである。ダイエットしたい人がいるなら、僕はぜひおすすめしたい。それは、胃を壊すことだ。そこまで破滅することだ。そこまで堕ちないでおいて、体重が落ちないなどとぎゃあぎゃあ言うな馬鹿野郎。体重を落とすためには、代償が絶対必要なのである。
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

1035 神様仏様松岡様〜皐月賞はもらった!〜

皐月賞、混戦と言われているが、それはあくまで紐のこと。軸は決まっている。9番、マイネルチャールズだ。確かに、強い勝ち方はしていないが、彼は進化している。中山2000のスペシャリストであり、このコースが大好きなのだ。多分、明日のタイムは、2分02秒台。この馬は、2分01のタイムを出す力がある。単勝300円台みたいだが、僕に言わせれば180円くらいの実力と見る。ただし、馬体重。プラス8キロ以上は欲しい。馬体減で出てきたら、ちょっとこのレースはやれないかもしれない。
 僕は、ショウナンアルバが面白いと思っていた。外枠さえ引かなければと。とととととところが大外枠18番。最悪である。この馬には、引っかかるという癖がある。鞍上蛯名は、ハナを切らざるを得ないであろう。よって対抗二頭、13番ドリームシグナル。馬場状態といい展開といい、この馬にとってベスト。一発あっておかしくない。また、17番フローテ―ション。前走スプリングステークスで、一番強い競馬をしていた。この馬も、ハイペースは望むところだろう。実力馬である。大穴は12番、ベンチャーナイン。京成杯では、マイネルチャールズと差のない二着。前二走敗退には理由がある。また、着順ほど着差はない。正直言って、二着は何が来てもおかしくないのだ。なお、武のブラックシェルは、典型的な押さえ。スマイルジャックも同様、ガミ覚悟の押さえ。その程度の馬だ。このレースは、たくさん買っても大丈夫という、好配当レースだ。チャールズさえ信用すればね。
 前日予想結論。馬連本線、9−13(8790円)。9−17(5920円)。穴、9−12(16350円)。以下、馬連乱れ買い。1−9、2−9、3−9、4−9、5−9、6−9、9−10、9−12、9−14、9−15、9−16、9−18。なななななんと、馬連15点買い。それでも、二頭を除いて、当たれば全プラスである。
 松岡よ。去年の、サンツェッペリン2着の悔しさを忘れるな。
 神様仏様松岡様、私に好配当を
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2008年04月18日

1034 月面を翔ぶカモメ〜イイ顔〜

雨上がり光る路面の水溜りをとびこえてみる勇気があった ホイラップ房子

 この歌には、映画的短歌としてのドラマ性を感じる。水溜りを飛び越える、という行為は、年をとったらなかなかできないものである。避けて通るのがおちだろう。しかし作者は、雨上がりに光る路面の水溜りを飛び越えたのだという。それをまた、「勇気」と詠っている。「あった」というのは単純な過去形ではなく、「まだ自分にはそんな勇気があったのだ」の「あった」であると僕は解釈するし、そのほうが詩的に正しい。水溜りを飛び越える、という行為は、「転んだらどうしよう」「水にはまって汚れたらどうしよう」という配慮をいっさい持たなかった幼少期の黄金時代の再現である。あるいは作者は、そのまま水溜りの底深く沈んで消え去ることを夢見ていたのかも知れず、逆に、何の気なしに水溜りを飛び越えてみて、あらためて自分の中に残っていた(いい意味での)幼児性に気づいて明るい気分になったのかもしれない。単純な歌だが、強く心に残る。それが短歌の魅力だ。

あおぞらが憎悪に変わっていくまでをきっちりと革の手袋を嵌める 沢田麻佐子

 これも、実に映画的な短歌だ。作者は、青空の持つ澄みわたったすがしさというものを感じつつ、その青を汚すがごとく、日常生活においての怒りを徐々に露わにしていくのだ。つまり、美というものは、憎悪の対象にもなるということである。下句がいい。「きっちり」という形容詞がいい。「あおぞら」という言葉から連想される形容詞(あれ、副詞だっけ?)は「くっきり」であり、この歌は自動的に「くっきり」と「きっちり」が読者の頭の中で対応するようにできている。あおぞらのくっきりが、証拠を残さずに人を絞め殺すのによさそうな「きっちり」へと移行していくのである。事情は知らねど、ほとんど快楽へと至るほどの怨恨を感じさせる歌であり、僕は深く恨む女性というのが女らしくてとても好きである。

いつからか月面世界に迷ひこみ杳と知れない一羽のカモメ 武部秋夫

 一読、目が点になった。月面世界を飛ぶカモメ、という景に深い幽幻さと怖さを感じた。下句は、僕の思い過ごしではあろうが、世界初の女性宇宙飛行士テレシコワ女史の「私はカモメ」というフレーズを想起させる。月というのは非常に連想性の高い物件(?)である。かぐや姫であり、アポロ計画であり、月見だんごであり、どんな馬鹿でも最後に「夜半の月かな」とつければ様になるくらい人類にとって普遍的な無慈悲な夜の女王である。そこにカモメとくると、中島みゆきの歌であり、無限の飛翔を目指したジョナサンであり、これまた放浪と孤独のイメージを多分にまとっている。つい、若山牧水の見た「白鳥」も、カモメに違いないと断定してしまいそうになるほどの喚起力である。このカモメは、作者の自己投影というよりは、作者にとって本人でありながら本人よりももっと純粋で高級な、地上に生きられなくなったものの謂であると見たい。果てしなき飛翔と自由を目指したあげく、アポロ計画も見離したどこまでも続く荒涼(宇宙計画がなかなか進まないのは、異星から送られてくる光景がしごくつまらないものだからではないかと僕は疑っている)の中をゆっくりと羽根を動かし(空気がないから飛べるわけがない、という教養はこの際無視する)、自由の不可能性を詩人の妄想の中で紡ぎ続ける。これは、イメージを増幅させる秀歌だと思う。

前へ前へと桑田真澄がいう時の瞳の奥にアメリカがある 石井久美子

 年をとって、「いい顔」になる男というのは非常に少ない。たいていは世俗にまみれ、世間の垢に朽ち果てた顔をさらしている。しかし、「投げる不動産屋」と揶揄され、あまたの4コマ漫画家どもに馬鹿にされまくった桑田真澄があにはからんや、現在、実にいい顔をしている。多分、野球一筋に賭けようという決心がついに本人についたからであろう。実にスカッとしたいい顔になっている。結句がいい。アメリカというのは、なんだかんだ言っても夢と実力の両立した人間にとっては皮肉ぬきで「いい国」である。馴れ合いと暗黙の了解と不文律と褒め合い譲り合いのヤマトダマシイにうんざりした人材からすれば、もはや地球上にはほとんど残っていない「前」を期待させるだけのフロンティア・スピリットを喚起させる力を持っている。そんなのは幻想だと言われるかもしれないが、幻想を持たないスポーツマンなんてどこに魅力があるだろうか。幻想を持って自爆する連中がいるからこそ、世の中は面白いのではないか。アメリカという国には、まだ幻想を持たせる力がある。

塔来れば真先に妻が読めと言ふ境遇の似し田附氏の歌 山本 薫

 作者の妻なる人物は、介護を受けている身だという。ここで引き合いに出されている田附氏というのは、田附昭二氏のことであり、氏の歌は、今は亡き妻への介護の日々を詠ったものでほとんどが占められている。今月の「特別作品」に載った田附氏の「いてふ散る」も、目頭を熱くさせる連作だった。山本氏の奥様は、境遇の似た歌を詠う田附氏の歌を、夫に朗読してくれと真先に頼むのである。僕はここに、短歌の持つ魅力というものを感じる。短い韻律の中で、共通する苦悩を、歌によって知りたいという切実な希求と慰謝を感じるのである。根源的な短歌の魅力というのは、そういう物なのではないか。
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2008年04月17日

1033 「塔」4月号「陽の当たらない名歌選」1

 今月の赤丸歌。三井欄若葉集、119首。小林欄、155首。吉川欄、181首。計450首。

      「塔」4月号「陽の当たらない名歌選」その1

雨上がり光る路面の水溜りをとびこえてみる勇気があった ホイラップ房子

あおぞらが憎悪に変わっていくまでをきっちりの革の手袋を嵌める 沢田麻佐子

塔来れば真先に妻が読めと言ふ境遇の似し田附氏の歌 山本 薫

幸せにひたりいながら感じてた服の裏地のようなる不安 村瀬美代子

静けさの戻りし病院待合室にナースが一人涙流しをり 小林登喜恵

いつからか月面世界に迷ひこみ杳と知れない一羽のカモメ 武部秋夫

ただ一杯のワインに酔ひてまどろめる夫なり臓器ひとつ失くして 東郷悦子

「不肖の子」と吾を断じて追いし夜を亡父はその後も悔ゆることなく 松本多美夫

震災前おそらく路地に猫たちがいたのであろう芦屋津知(つじ)町 山崎一幸

かみ合はぬ歯並びのごと向かひ合ふ二十三人の法事の会食 尾崎知子

やわらかく砂に埋もれているがゆえ越えてしまえる一線もある 金田光世

父さんも私もシューベルトの顔に落書きしたよ中学時代 山上秋恵

前へ前へと桑田真澄がいう時の瞳の奥にアメリカがある 石井久美子

霙からぼたん雪へと変わる間に茶房の男女が喧嘩をはじめる 石井久美子

牛舎内を黒猫三匹走り合ひ餌によるねずみ懸命に追ふ 宇野千代子

聞こえないときの「え?」の言い方が何だかこの人好きになれない 乙部真実

「品格」の文字見ておれば真四角の多きことのみ気になりている 黒沢弘子

「噛まれます」ではなく「噛みます」看板を残して檻のはての夕映 小林敦子

ちちははは癌治療中そのひとり娘の煙草の匂ひ強くなりにし 西内絹枝

直角に折れた翼を持つカラス生きんとす尚 群に向かへり 三浦こうこ

落ちて来る玉入れの玉浴びながら罪ということ思いていたり 杜野 泉

垣根越し人の胴体流れゆくテロップのように元日の朝 井上良子

川の字に寝ていし時は知らざりしその一本が消え去ることを 木嶋美代子

みづからをみじめと思ふゆふぐれは駅の裏手のスタバに憩ふ 磯部葉子

子の布団ぱたんと伸ばす風に知る流し忘れたトリートメント 宇梶晶子

過ちて家人の歯ブラシ使いし夜は先に眠りぬ黙秘したまま 上原寿明

マンションを売りにくる人、靴いつも水茄子のごとつやめかせおり 永田聖子

切なさのない切なさにふと気づきバス停ふたつポツポツ歩く 新倉由美子

南座の大き提灯紅き灯に師走を急ぐ影の行き交ふ 原 夏子

 「塔」の歌のことを言っているのではないが、技巧のみの歌はやめていただきたい。歌とは、刹那の感情、描写を掬い取るものであって、決して修辞遊びではない。たぶん、いい歌というのは、即座にできるものなのだろう。
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2008年04月15日

1032 21世紀型天才歌人

 昨日に続き、笹公人の「念力短歌トレーニング」(扶桑社)のことを書く。もう、この本は面白くて面白くてしょうがない。僕にとって、啄木の「一握の砂」に匹敵する愛読書となるかもしれない。それにしても、笹公人氏は、端的に言って天才だと思う。天才というと、だいたいにおいて、最初は認められないとか世にいれられないとか不遇だとか女に逃げられるとか、そうしたイメージがつきまとうが(そのワンパターンもどうかと思うが)、彼はそうしたタイプではない。偏屈でなく、縦横無尽であり、人あたりよく、気配りがあり、21世紀型の天才というのはこういうのを言うのかもしれない。この本も、歌の読み方ポイントというものを、ギャグを繰り出しながらも肝心なところはきっちりシリアスに指摘している。その中に、岡井隆の有名歌などを自然に織り込んで、読み手が短歌のなんたるかを理解しやすくする工夫を忘れていない。彼は、娯楽色豊かに書いているが、実は、オーソドックスな短歌の抒情性というものを、歌道に暗い人に伝えたくてしょうがないというたぎるような情熱を持っているのだ。笹氏の登場及びメジャー化は、短歌人口を増やすうえでも功績があるがそれだけではない。某氏とか某氏とか某氏とか某氏とか、若者の人気者になり、歌を作る人口だけは増やしたものの、文学的広がりということに関しては害毒でしかない、自閉短歌を蔓延させた連中とはぜんぜん違う。笹氏の提唱する「念力短歌」には、表現の限界を追求しよう、言い表せぬものを言い表そうという普遍性への熱情がある。つまり、外へ向かって発散されているのだ。だから、「塔」や「短歌人」の歌人ですら、こっそり参加するだけの短歌的地力が彼のブログにはあるのである。実際、ここに掲載された投稿歌の数々はいい。ちなみに、わが妻の歌も、とある項目で最優秀賞に選ばれている。だいたい、俺は妻の作る歌はどれもこれも気取りまくっててくそ面白くもなんともないと思っているが、この本で採っていただいた歌は、アララギ風SF短歌でたいへんよろしいのことある。さすが、笹師範の選歌である。本人は、どこがいいのか自分ではわからんと今でも首をひねっているが。
 掲載歌を、もう少し紹介したい。
 初めて知ったが、歌のある部分をあらかじめ決めておいて残りを作る、「付け句」という手法が昔からあるらしい。そこで、下句「やぶれかぶれの夏の放課後」に応募された歌。

メキシコで母の不倫の現場見てやぶれかぶれの夏の放課後 堀内 日出登巳

 僕も、同じような題材で作ったことがあるが、俺の歌のほうはひたすら陰々滅々たる暗さであった(それはそれでよいのだ)。この歌は面白い。なんせ、フィリピンでもなく、韓国でもなく、中国でもカナダでもリヒテンシュタインでもなく、メキシコである。メキシコっていうのがいいなあ。なぜ僕の心が(そして笹師範の心が)反応したかというのに、メキシコというルチャ・リブレ(プロレス)の土地幻想が関与しているような気がする。変に(あくまで、変に、である)開放的で笑っちゃうのである。

前世は村人Aと告げられてやぶれかぶれの夏の放課後 笹 公人

 これは、近年はびこる、スピリチュアリズムなるクソインチキ商法に対する批判精神に満ちた最高傑作である。

秘湯にてつげ義春の跡を追ふ「湯の町エレジー」低く歌ひて 鶴田屋

 つげ義春というすぐれた漫画家を、文学者はみんな好きなのに、歌人で題材にした人を知らない。近江俊郎の「湯の町エレジー」を引くのがセンスがいいし、初句の「秘湯」というのも、イメージの連鎖としてすばらしい。あともう一首。

ねずみ男の口臭ただよふごとき夜あはれ眠剤を服(の)みてねむりぬ 鶴田屋

 この歌に関してはコメントしない。あまりにも上手すぎる。座布団3枚。「鶴田屋」氏が影響を受けた歌人に、ちゃんと佐藤佐太郎が載っている。笹氏のブログには、こういう実力派歌人を呼び込むだけの力があるのだ。
 とにかく、笹公人の「念力短歌トレーニング」は、インターネット歌会を編纂したものとしては、異様なレベルの高さである。
 諸君。
 買いたまえ。
 決して損はない。
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:08| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記

2008年04月13日

1031 かわず掛け〜念力歌人の念力〜

 ととととととと、トンデモない結果に終わった。いや、予想はできた。トールポピー、マイナス10キロに不安を覚え、しかもパドックでは腹は巻き上がり、チャカついていた。やめりゃよかったが、3番エームアットビップから、馬連13点買いという小刻み馬券に賭けた。もちろん、優勝馬レジネッタも買ったよ。一瞬はいい夢を見させていただいた。それにしても、レジネッタを軸にして馬連、馬単を買った人は残念だったろうなあ。勇気あるギャンブラーだ。2着18番、エフティマイア、これは買えない、絶対買えない。今ごろ、レジネッタから流した人たちは地団太を踏んで悔しがっていることだろう。だって、軸が穴なのに、紐にもっと大きな穴が来てしまったのだ。総流しじゃなきゃ勝てないね。カスリもしなかった私のほうがまだ気分は楽。競馬は継ぐ。来週は皐月賞。これで勝てばいいのである。諸君。
 笹公人の「念力短歌トレーニング」(扶桑社)を読む。落ち込んでいた私の心を大いに癒してくれた。これは、笹氏のブログ「笹短歌ドットコム」に応募されてきた歌の中から優秀作を取り上げ、批評と解説を加えつつ同時に短歌論にもなっているという面白い本である。私は、常に不機嫌な、笑わない男である。しかしこの本を読んで、爆笑させていただいた。最高に可笑しかった歌を何首か紹介させていただきたい。

ジャイアント馬場に食らった蛙(かわず)掛け級の絶望 空を見つめる 異能兄弟

 一読、大笑いしてしまった。かわず掛けというのは、ジャイアント馬場の必殺(?)技。フォークダンスのポーズからそのまま後に倒れこむような、なんとも情けない技である。こんなもん効くわけねえよ!シナリオとはいえ、これでフォールを取られたレスラーは悲しい存在だと思う。かわず掛け級の絶望、という比喩がすばらしい。まさに、否応なく空を見つめざるを得ないのだ。

わが恋は哀しきことにいつの日もグレコローマンスタイルでした あきえもん

 これも大笑いしながらも、「うまいなあ」と思った。グレコローマンスタイルのレスリング、というのは要するに、「下半身を使えない」という意味である。ある意味これは、純愛歌(笑)でもあるのだ。グレコローマンをこういう局面で使うというのが、いやらしくなくてかつ面白いなあ。あともう一首紹介させていただく。

木戸修のように髪型整えてゴッチイズムで我就活す 横山相似

 これはいちいち説明しない。わかる人にしかわからない歌である。ただ、俺は大爆笑した。俺みたいな不機嫌な男を、この本は大いに癒してくれる。僕は、短歌は娯楽だと思う。娯楽、の意味するところはいろいろある。悲しみや切なさを詠う短歌も、僕にとっては娯楽なのだ。笹氏の提示する「念力短歌」も大いなる娯楽である。
 笹公人という歌人に対して、いろいろと批判もあると思う。マスコミを利用しているとか、時流に媚びているとか言うたぐいもおろう。ただ、僕が彼を偉いと思うのは、短歌で身を立てようという野心と、短歌への愛を両立させていることである。歌壇には、身を立ててはいても短歌への熱烈な愛を感じさせるやつがあまりにも少ない。笹は、この韻律を一般人にも浸透させようと本気で考え、そのためのあらゆる努力を惜しまない。彼を批判する歌人に対しては、だったらオマエは短歌のために、何ほどのことをやっているのだ、と問い糾してやりたい。とにかくこの本はめちゃくちゃ面白い。ワラワン殿下の黒田英雄を大爆笑させたほどの本である。一読をお勧めする。
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1030 四月に咲くのはポピー〜明日は桜花賞です。どきどき。〜

 ポルトフィーノ出走回避で、展開が狂った。平均速めのペースだと思ったが、五ハロン59秒台のスローペースになるは必至。ここでは、経験と揉まれ強さが軸となるだろう。僕の軸馬は不動だ。10番、トールポピー。今回の推定タイムは1分34秒台と踏む。このタイムを出せる可能性のあるのはこの馬だし、前走の負け方も、本番へ向けて、という感じで、不気味だ。好位折りあい、直線抜き出てくるだろう。前売りでは3番人気、嬉しいねえ。いっひっひ、である。
 対抗は二頭、16番ブラックエンブレム、この馬は強いよ。ただ残念なことに、16ゲートというのが痛い。内に入りたかったなあ。折り合いに難のある馬なのだ。だから対抗にした。もう一頭は3番、エイムアットビップ。前走は度外視していい。これも地力を持った馬。穴は12番、ベストオブミー、17番、シャランジュ。人気の9番、リトルアマポーラや5番オディールは押さえとする。前走馬体を減らして好走した馬が桜花賞に来たためしはない。反動というものは怖い。よって、ガミ覚悟で押さえに回すのである。あと、11番エアパスカルは、なぜか人気がないが、この馬も怖い。タテ目を買うかどうか、迷うところだ。
 前日予想結論。オッズは前売り情報による。本線馬連、10−16(1950円)、3−10(2090円)。タテ目、3−16(7440円)。以下、5−10、9−10、10−11、10−12、10−13。穴、10−17。池添、死んでも2着を死守せよ!頑張ってちょうだい〜〜〜。
 トールポピー連対確率、70%
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2008年04月11日

1029 嘔吐

 久しぶりに、嘔吐という事態に陥った。サルトルを読み返したとか、そういう意味ではない。だいたいサルトルって誰だ。昔の歌人か(それは猿丸)。ゴジラの吐く火焔砲のごとき大量吐血、入院以来である。理由は簡単。ボトルコーヒーの飲み過ぎである。チェーンスモーカーならぬ、僕はコーヒーのチェーンドリンカーである。冷蔵庫にペットボトルのアイスコーヒーを常備し、一日に何十杯も飲んできた。タイミングの悪いことに、その前夜にスキヤキを所望し、僕はしらたきが大好きなのでしらたきばかり大量に食い、これが胃で消化できず、消化不良を起こし、コーヒーともども逆流を起こしたのであろう。十回吐いてやっと楽になった。いずれにせよ、俺の三分の一しかない胃が弱っているということだ。
 夏目漱石は、四十七歳のとき胃潰瘍で死んだ。俺は、四十七歳のとき胃潰瘍で2回目の大吐血をし、ついに手術に至り、胃の三分の二をぶったぎられた。不摂生のいたすところである。これが明治時代だったら、漱石同様四十七でお陀仏だったことだろう。血を吐き、メシも食えず、出血は止まらず、衰弱の果てに死ぬのだ。医学の進歩というのはまことに偉大だと思う。俺のようなロクデナシを生かしてくれているのだ。手術はいやだ、手術しなくったって高橋源一郎なんか生きてるじゃないかとごねる俺に、医者は「アンタの場合潰瘍が動脈に達しててちーとも血が止まらんので、このままだと手術に耐えられん体になるぞばかたれ」とオドシをかけてきやがり、なにがなんだかわからんまま手術台の上にマグロ状態と相成ることとはなったのであった。
 とにかく、今回久しぶりの嘔吐で決めたのは、もうコーヒーはやめようということである。俺の胃腸は、悲鳴をあげているのであろう。吐くというのは、すごいエネルギーを要するが、慣れるとなんとないものである。それが怖いのである。

 先日、伊豆は下田温泉に保養に行ってきた。「唐人お吉記念館」に入ってみて、俺は無性に腹がたった。記念館には、懇切丁寧に、どれだけお吉が当時のどん百姓どもに迫害されたかこれでもかこれでもかこれでもかこれでもかと書かれている。そう書きながら、堂々と観光資源として消費してる、そのどん百姓どもの子孫の態度に矛盾を感じたからだ。田舎ものというのは、根本的に根性が卑しい。太宰治の小説ではないが、短歌の世界は田舎ものというのがいかに卑しいケダモノ以下の存在であるかを詠うべきである。「社会派くん」こと村崎百郎氏の言葉を引用すれば、「田舎は空気はキレイ、自然は豊か、そして人間は最低」。彼らは、自分の村から有名人が出ればほめそやし記念館を作るが、実は、排除された人間の悲しみなどてんから理解しようとはしない。宮沢賢治、若山牧水、そして啄木、雨情その他その他、当人の地元の研究家のあらわす伝記に、ありていに言ってロクなものがないのは、当人が読んだら怒って化けて出るような美化や誇張的誤解が横行してるからである。読者として読んで面白いのは、彼ら文学者がいかにエゴイズムに満ちた、それだけに自らの才能の中で溺れ死ぬことのできたある種のキチガイであったか、ということなのに、これら郷土文士のたぐいは、ただ美化し、彼らを無罪とすることに腐心している。まさにお吉記念館に見る鼻もちならない感傷のごとく。これを題材に歌を四首作った。採られるかどうかは知らんが「塔」に送る。
 てなわけで、今週いよいよ桜花賞である。混戦だって?俺の軸馬はもう決まっている。競馬なんか、胃には一番悪いのだが、悪いものこそやめられない。予想は明日。乞御期待。皆様、せいぜい吐血にいたらぬ程度に健康には気をつけるように。
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2008年04月08日

1028 記憶の痛み〜しゃがみこむ〜

 短歌の魅力とは、辛い記憶も、何年か経って昇華できる、というこの韻律にあるのではないかと思う。適切でないかもしれないが、その意味では「癒しの文学」とも言えるのかもしれない。

空襲下古墳にしゃがみし少女吾(あ)に濡れ手拭をくれし人あり 中山邦子

 この歌は、実に痛々しい。読者は、二句めをどう読むだろうか。しゃがむ、という行動、単純に読めば、爆弾を避けて身を縮めている行為ととれるだろう。だが、僕は別な想像をしてしまう。空襲に見舞われた防空頭巾の少女は、そんな戦火のさなかでも襲ってくる尿意に耐えかねて、木や茂みなど目隠しの多い古墳という場所で切羽つまって用足しをしたのではなかろうか。女性が「しゃがみこむ」という動作には、それくらい特殊な印象がある。濡れた手拭をくれた人、というのは、拭くための紙の代わりとしてそれをくれたのではないだろうか。ここで思い出すのは、シチュエーションは異なるが「ひめゆり部隊」のエピソードである。穴ぐらに潜んで水も食料もなくなった少女たちに先生はとうとう、「手拭をおしっこで濡らしてそれを吸いなさい」とアドバイスしたそうである。実際にそれを口にした女性の手記を読んだことがある。それ以来、手拭と戦火と乙女とおしっこ、というものが僕の中で強烈に結び合わされてしまった。古墳、というのも悲しいが、これは、単なる体験歌ではない、戦争という日常の悲惨さを鮮やかに掬い取った見事な反戦歌である。

ゐてもゐなくてもゐてもゐなくてもゐてもゐな 浪の響きを聞いてはいけない 川井怜子

 波の音というのは、聴いていて実に心地良い。一定のリズムを刻むその自然音は心を鎮めるものだが、しかしだんだん、自分がこのまま無に還ってもいいのではという危険な誘惑をも感じさせる。いてもいなくてもいいんならいればよさそうなものであるが、やっかいなのは、死に至る病というのはしばしば、悲惨のきわみではなく、きわめて甘美な姿をとってやってくる、ということである。「いてもいなくてもいい」というのは友人や近親者やあまつさえ社会にとってのそれではない。大自然、大宇宙にとってはあらゆる存在がそうである。そうした認識に立つとき、いてもいなくても、というフレーズは全存在との融合を感じさせて実に誘惑的であり、あとの始末なんぞどうでもよろしい(どうせ百年たてば同じ土の中)という気分にさせてくれる。電車が停まるのが迷惑だから飛び込み自殺はやめろ、という人でなしの僕ではあるが、この歌のように恍惚と無化された果ての死はうべなわないでもない。いてもいなくてもいい、というのは、決してやけっぱちや自己憐憫からくるフレーズではないのである。考えてみれば、これは宗教というものの到達すべき究極のかたちではないだろうか。

きりぎしに砕ける波を愛しめば死より遅れて生きいるわれら 田中雅子

 僕の愛唱歌であるこの歌と共通するものがあるだろう。秀歌である。

ふと君の耳のかたちを思うかな卓に置かれし眼鏡のつるに 佐山みはる

 たとえば、ジョン・レノンや、岸上大作の遺品をどれでもいいからやる、と言われたら、僕は即座に眼鏡を所望する。なぜなら、眼鏡というのは、人の顔の一部でありながら肉体ではなく、視力を補助する道具でありながら、その視力の弱さではなく逆に知性と人格の強度を感じさせるという稀有な装置だからだ。眼鏡をかけた人物を漫画に描こうとしたら、ほとんど眼鏡と鼻だけで足りるというくらい特徴的なパーツであり、世の中には眼鏡をかけた異性しか好きになれないという変態も多いという。だから僕の、「眼鏡から連想される人体のパーツは何か」というと、即、鼻なのである。しかし、この歌は耳のかたちだと詠っている。これが僕には意外だった。作者は、亡くなったご子息のことを詠っている。眼鏡と鼻を結びつけるのは、あかの他人同士である異性の視点であり、この作者が眼鏡から耳を連想するのは、正面きって向かい合うにはあまりにも近すぎ照れくさいので横からの視点からしか持ちえない、母と娘という関係に特有な反応かもしれない。面白い歌だ。

しんなりと着物が身体に馴染来る 締め付けぬよう解き良きよう 中川厚子

 「よいではないか。よいではないか。げひひひひひひ」「あ〜れ〜ご無体な〜〜〜」。おっさん丸出しの連想を誘う傑作である。下句が、簡潔にしてエロチックである。まさに、その通りだろう。締め付けぬよう解き良きよう。これ以上なんの表現がある。デートではなく、着物を着たときのなんとも重厚かつすかすかな感じ(あれだけ何枚も着て何本も締めてるくせにパンツブラジャーもしてないのですぞ!)、衣が身体に触れるエロチックな感覚を表現した珍しい歌である。

 私の秀歌選、名歌選を、馬鹿にして読んでいる奴もいるかもしれないが、そういう連中は歌を読む感性が足りないのだ。私の選歌は絶対である。
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:07| Comment(0) | TrackBack(1) | 日記

2008年04月07日

1027 「短歌人」会員欄秀歌選その34

 今月の赤丸歌、会員1欄パート1、112首。同パート2、127首。会員2欄パート1、98首。同欄パート2、170首。計507首。

      「短歌人」会員欄4月号秀歌選、その34

ゐてもゐなくてもゐてもゐなくてもゐてもゐな 浪の響きを聞いてはいけない 川井怜子

ふと君の耳のかたちを思うかな卓に置かれし眼鏡のつるに 佐山みはる

秘め事を打ちあけたくなるながながと小便つづく象を前にし 後藤祐子

山査子(さんざし)を〈カラスの実〉と地の人言へり小樽の町の廃駅に立ち 森脇せい子

野良の猫あきらめ去れり家猫にはるばる寄りきて慕ひ哀しめど 高島 藍

空襲下古墳にしゃがみし少女吾(あ)に濡れ手拭をくれし人あり 中山邦子

三つ四つと重なりひびく山越えの除夜の鐘聞きし新婚の家 越田慶子

短歌人に飼はるることの幸ひよわれは空の巣症候群で 近藤かすみ

書きなぐり書きなぐりても詩は白き偽装再生紙を汚すのみ 伊波虎英

もう鳴らぬラジオに甦るかの年の西鉄―巨人戦兄との喧嘩 三良富士子

五日ほどしたら食べ頃と仏壇に置きたるメロンぷよぷよ腐る 森 敏子

上役の怒鳴りし声を電話機の着信音にしたので首です 田所 勉

生きゆくは鳩にありても辛からむ指欠けたるがあまた混じりぬ 石川普子

じわじわと麻酔効ききて抜歯まつほの暗き午後を氷雨ふりつぐ 滝川美智子

気がつけば報復のごとき黙殺がしばし続きて人間性を知る 田中愛

千円で僧侶来たりて枕経唱えるだけの生活保護葬 木戸真一郎

わが生の盛りの頃の背広着す癌の転移の最中(さなか)なる身へ 早川清生

華やげる新年歌会昨日終へて明日は予約の入院となる 村瀬直躬

茶運びのからくり人形あゆむごと夫に持ちゆく朝の珈琲 高木律子

焼け跡を見つめる猫は塀の上呼べばかぼそく応へて鳴きぬ 安達広子

終の日の近づくときに移るとふ緩和病棟をひそと覗にゆく 吉田宏道

眉ひいて今日一日をと立ち上がる 昨日も小さな出会いがあった 鎌田ヒロ

右肩に湿布を貼るときひとりってちっぽけなつらさが染みてくる 魚住めぐむ

運命を変えたらいいのか悪いのか、デキ婚の友とピル飲む友と。 冨田真朱

うたびとの冬道麻子よき名なり光と風のゆきあう冬道 御厨節子

年ごとに箸がスプーンに変わる吾この切なさは誰にも分からぬ 阿部美佳

知恵遅れの少女に爆弾巻き付けて自爆させたニュース耳から離れず 阿部美佳

わが子が身障者でない事を喜びながら我等を見ているのだろう福祉関係者 阿部美佳

しんなりと着物が身体に馴染来る 締め付けぬよう解き良きよう 中川厚子
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2008年04月06日

1026 「ただの人」にならないために

 僕が「塔」に入会したのは、平成十四年十二月二十四日。「短歌人」に入会したのが、平成十五年十二月二十四日。出詠を始めて、「塔」では六年目、「短歌人」では五年目である。この間、欠詠は一度もない。有森裕子ではないが、自分をホメてやりたい(気色わるっ!)。「短歌人」への出詠歌を作るのは、締め切り月の前の二十九日から次の月の九日であり、「塔」の場合は、締め切り月の11日から16日までには作るように決めている。締め切りが重なっていなくて大変助かっている。
 その時、連作の主題が決まっている場合、どれだけ締め切りが迫っていても僕は慌てない。一日じっくり考えれば、十首なんてすぐにできるからだ。問題は、なんの主題も見つからない場合、バラバラの歌を作らねばならぬ場合である。これは冷や汗ものだ。僕は、「塔」の締め切りのために、ネタを得るために、新宿十二社温泉まで出かけていったほどだ。苦しまぎれの行動だったが、ここが不思議なところで、歌のネタを探しに出かけると、見慣れた場所で、次々と題材が飛び込んできてくれたりするのである。いや、歌を作ろうと思ったから、その題材に気づいたのかもしれない。いずれ結社誌に掲載されますのでお楽しみに。今日、「短歌人」への出詠歌を発送した。これまた主題が見つからなくて困っていたのに、突然悲しい知らせを受け、三首作ったら、あとは関係ない日常詠がぞろぞろ出来た。歌は、とっかかりの一首が勝負である。それができれば、あとは芋づる式にぞろぞろ出来てくるのである。ただ僕は、そうした芋づる作用は、出詠するリズムを僕なりに確立しているからだと思う。もしも1回でも欠詠してしまったらこのリズムは木っ端微塵に砕け、歌そのものが詠めなくなるかもしれない。僕は、そういう恐怖を感じながら、毎月出詠しているのだ。だって、歌が作れないなんてこんな恐ろしいことはない。俺は、全然詠えなくなったとしても、全然めちゃくちゃな駄作を、死にもの狂いで出し続けるであろう。結社に入っているよさというのは、僕のようなずぼらな人間の無意識に鞭をくれて義務感をもよおさせる、というものがあるだろう。それに、自分が欠詠した号の結社誌を受け取るなんて、想像するだにぞっとする。両結社の会員のみなさん、私の歌を見つけて、ぜひ読んでいただきたい。私も、貴方がたの歌すべてに目を通しているのだから。結社誌とはそういうものなのだから。
 バックナンバーを読み返してみると、「塔」も「短歌人」も、ああいいなあと思える人がどこからか断ち切ったように欠詠していることが多い。悩める歌人のかたがたに言う。秀歌を発表するばかりが歌人の能ではない。駄作だろうがバカ歌だろうが、とにかく規定数作って締め切りまでに出詠すること。それが何より大事なのである。ちゃんと、読む人は読んでいるのだから、あなたが欠詠したら、それだけで、がっかりする人がいるのである。毎月毎月、秀作ばかりできたら化け物である。凡作あればこそ、秀歌が光るのである。僕は、誰が見てもどーしよーもないような歌であっても、欠詠しない、という人にはそれだけで敬意を払いたいと思う。歌人、というのは、「歌を詠む人」のことであり、無理矢理にでも詠む、ということをせずに、充電だとか言ってる人はすでに歌人ではない。ただの人である。

      今日の一首

写真店の奥に垂れゐるネガフィルム 時間は長き長き舌もつ 栗木京子
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2008年04月05日

1025 「高尚な趣味」の持つ凄味

 僕は、歌をやっていることを、ことさら人には喧伝しないが、職場などで歌集を開いているとそれを見られて、ばれることがある。その時に言われる常套句は常にこうだ。「短歌やってるんですか?高尚な趣味ですねえ」。
 はらほろひれはれ。なんでそういう結論になるんだ!?
 この、「高尚」という意味はいったいなんだろう。
 依然にも書いたが、短歌という詩形は、決して作者を幸福にしない。俳句には、ものごとを相対化して「結局なんでも自然の一部じゃがはは、戦争がどうした社会詠がなんぼのもんじゃ」と思わせる作用があると見えるが、短歌はまったく逆で、個人の背負った悲しい歴史や逃れようのない精神の歪みを凝縮し、増幅させ、こと細かにそれを表現させて作り手をなおも苦しめようとするヒドイ機能を持っている。しかし考えてみれば、それこそが文学本来の役割ではないのか。言わせてもらえば、人というのは絶対に、「幸福になるために生まれてきた」のではない。ここ数年僕の周辺でも、ウツになる人がなだれを打って増えているが、それは「人はハッピーであるべき」というドグマに毒されたあげく、ハッピーでないというあたりまえの状況にたやすく絶望してしまうからではないのか。文学というのは実は、人生と世界の不条理と残酷を突きつけ絶望させるためのものだと僕は思う。「なんでわざわざ絶望するようなものを人は作り続けてきたのか?」とハッピー主義者は能天気に尋ねるかもしれないが、絶望を具体化して自覚しておかないと、昨今のウツ流行りに見られるごとく、自分が見ないふりをしてきたものに飲み込まれてしまうからである。
 歌人、小説化、詩人と、自殺した人は山ほどいるが、俳人で自殺したという人を僕は寡聞にして知らない。俳句というのはおそらく、「悲しき玩具」ではなく、「楽しい玩具」なのだろう。それにしても啄木は、短歌を悲しき玩具とよく言い当てたものだ。この言葉が短歌の全てを物語っている。その優れた短歌的霊感を受け継ぐ者は、見渡した限り、俺しかいないのだなあと、つくづく思うのである。私こそ、啄木直系を名乗る資格のある唯一の歌人である。

       今日の一首

時化つづく埠頭に舫ふ船あまた順次揺れをり軋み残して 坂井 満
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2008年04月03日

1024 歌人の冥福

 「短歌人」4月号に、こういう面白い歌があった。

(いずれ来る自分の葬儀の日のために)
一回も会ったことない人にまで冥福を祈られても困る 生沼義朗

 あのヲイヌマくんの新作である。僕は、自分の葬儀なんてどうでもいいと思っているが、ヲイヌマくんたら、あの若さでもう自分のお葬式のことを想像なさっているらしい。まあ、著名歌人となり、山ほどの菊の花に囲まれてるっていう想像なんだろうな。俺にはその発想が信じられないよ。
 僕は最近、会ったこともない歌人の訃報に触れた。大変なショックだった。そして、心から冥福を祈っている。ここで思うのは、その人を知ってから死なれるか、その逆か、ということなのである。たとえば、僕には、生前一度でいいからお会いしたかったという役者がごまんといる。たとえば伊藤雄之助、平田昭彦ほか多数。俳優というのは肉体表現者だ。心の中で、「俺はこんな人間じゃない」と思っていても、持って生まれたキャラに応じて、求められるままに演じ続ける人生の娼婦、それが役者である。なので、本人とお会いして、役のイメージと全然違った人だったとして、それはかえって面白い。要するに、役者というのは「他者」を演じる肉体芸術なのである。
 ここで、「短歌もおんなしや!」と言う人がおろうが、ぜんぜん違うのである。短歌は肉体ではない、文章で表現する芸術である。その芸術の本質は自らを晒すことにある。もてないくせに恋愛幻想めろめろの歌を詠ったり、メタボ野郎のくせに白馬の騎士みたいな歌を詠ったりしてはいけないのである。要は、

「歌人その人は自作の歌のイメージを裏切ってはいけない」

 ということである。なに暴論?あのな、もしも歌人Aが、「いやああれは歌は歌ですし僕自身とは別もんですよ」などと目の前でぬかしたら俺は問答無用でぶん殴る。詩における言葉というのは、ちょっと慣れてくれば、それなりの効果を作り上げることができるものである。とくに、短歌においてはそれは顕著であり、「それっぽい」だけの短歌の横行を見るに、それは明らかであろう。だからといって、僕は塚本邦雄のようなお耽美詠、葛原妙子のようなお抽象詠を否定しているわけではぜんぜんない。なぜならそこには、彼らのどうしようもない個性というものが傷のようににじみ出ているからだ。塚本の山川洋品店はじめ一連の一見おふざけみたいな歌には、吉本でもやっていけそうな塚本の個性がにじみ出ている(実際塚本氏は、新しいビルを見ると「すぐ誰か飛び降りまっせ」などとぬかすようなユーモラス、というよりシャレの超きつい人だったらしい)。
 短歌は、演劇と違い、三十一文字で自らをさらけ出す文学だと僕は思っている。だから、生前お会いしたしないに関わらずその死はショックなのである。なぜなら、歌人の死はその歌の死と同義であるからだ。物故歌人に対して、「生前一度もお会いしなかったことが悔やまれる」などという文章をときどき見るが、そのような感慨は僕にはまったくない。歌人はすなわち歌である。本人に会ったところで、その作品にまさる何かがその実存から得られるとは思えない。よって、掲出したヲイヌマくんの歌を、歌人の死としての自分の死を同一視したものならば、詩人にしては俗物もいいところだと思うし、俗人として詠ったのであれば、数々の先行作品にかなわないと思うし、何よりかにより、最近死についてよく述べている、俺に対する皮肉を感じて噴飯ものである。歌人は表現で勝負する芸術家だ。その歌がその歌人の実存であり精神であり肉体である。である以上、生前会ったことがあるかないかなんぞは問題ではない。僕は、そういう本物の歌人の歌を探し続けているのだ。だから、津波なつさんの死はショックだったのだ。

      今日の一首

気化しゆくごとき残生曝(さ)れながらまどろむごとき歳月の嵩 永田典子
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:29| Comment(0) | TrackBack(1) | 日記

2008年04月01日

1023 三月月間ランキング〜第一歌集と出会う奇跡〜

 ブログ開設1160日目。総アクセス数862793。総訪問者数、154898人。

      三月月間ランキングベスト10

 1位  4日 「短歌は自分だけのために詠め!」1488
 2位 10日 「『暗さ』こそ斬新」1304
 3位 20日 「『塔』3月号『陽の当たらない名歌選』2〜意味を失う〜」1209
 4位 17日 「『塔』3月号『陽の当たらない名歌選』1」1181
 5位 19日 「放っといても死ぬんだから」1147
 6位 18日 「短歌の主題〜死〜」1114
 7位 15日 「じじじじじじ、事実じゃけん!!」1112
 8位  1日 「2月月間ランキング〜歌人は優等生か〜」1106
 9位  6日 「『短歌人』4月号会員欄秀歌選その33」1071
10位 27日 「誰がゴローやねん。ゴロー出てこい!」1033

 三月のアクセス数は26638。訪問者数は、4005人でした。

 僕は、第一歌集の出会いを大事にしたいと思う。膨大な数の歌集が出版されている。短歌を始める時期で、誰と出会うか、というのはけっこう大事なのではないか。たとえば僕は、たまたま、松村正直「駅へ」と出会った。これまたたまたまであるが、歌をやり始めた頃、角川「短歌」の歌集紹介欄を読んで、購入したのだ。だって、放浪する人の歌って面白いじゃん。それで、「塔」という結社を知った。また、「塔」へ入会し、田中雅子「令月」という傑作歌集にも出会えた。この歌集は、「塔」の会員しか読んでいないだろう。もったいない話だ。砂子屋書房は、再版すべきだと思う。実際、このブログで田中雅子氏を紹介して、この歌集を読みたいという感想をずいぶんといただいた。歌集出版社に対して文句はかなりあるよ。これはまた、別な機会に書きたい。と言うか、こういうシステムに対してものを言うやつがいないってことだよ。時評なんかには、ぜひこういう、システムに対しての矛盾を衝くような文章を読みたいものである。好きな歌人の歌評を、わざわざ時評で書くことはないと思うのだ。時評はもっと、歌壇システムの疲弊について語るべきだ。ちゃんと具体的に雑誌名、出版社名を名指ししてね。総論ならなんとでも言える。各論を述べていただきたい。
 最初から傑出したものを持っている歌人の第一歌集とリアルタイムと出会う、というのはもう、これは奇跡的なことかもしれない。僕は、それらの歌人の歌を、今後ともじっと追って行きたいと思っているのだ。それにしても、「塔」「短歌人」で僕が注目している歌人のかたがの第一歌集がなかなか出ない。津波なつさんなんて、出さないうちに死んでしまったではないか(泣)。僕の好きな歌人って、みんな貧乏なのかなあ。名は挙げないが期待しております。

      今日の2首

最初から選ぶはずのない選択肢にさいわいなどが住んでたりする 阿部 愛
海のごと皺よるシーツ冷たかり女体がふいに寝返りをうつ 黒瀬珂瀾
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記