2008年06月29日

1085 ライスシャワーとロックドウカンブ〜結社誌を読むということ。〜

 宝塚記念は、雨の中の激戦だった。軸馬、ロックドウカンブがまた負けた。彼には、三回賭けて三度負けたが、なんの恨みもない。故障発生したみたいだ。必死に走った馬に俺は賭けた、それで十分。結果は問わん。ロックは重傷みたいだな。宝塚ではかつて、名馬ライスシャワーも故障を発生した。僕は今でもあのビデオの映像が忘れられない。びっこを引きながら、落馬した的場のそばに寄り添い、騎手を気遣っていた。涙なくしては見られない光景だった。ライスは予後不良となった。的場は、その遺体を前に号泣したと新聞の一面に載った。騎手も馬も、命がけでやっているのだ。騎手にとって、馬は戦友である。だから、競馬は単なるギャンブルではないのだ。ただ、馬の故障は見たくない。とても暗い気分になる。名馬サイレンススズカの故障もリアルタイムで見ていたので辛かった。名猫、茶トラのみんくが死んだのはその数日後である。悲しい秋ではあった。

 久々に、「塔」のバックナンバーを開く。多くの人が、結社を去って行ったんだなあとつくづく思った。僕の持っているのは2003年からだが、それからずっと休まず出詠し続けている人を僕は偉いと思う。一首選とかで取り上げられたりしない限り、作歌というのは暗闇に向かってボールを投げ続けるような営為である。なんの反応も返ってこないのに出詠し続けられるというのが、それが歌人としての精神力の証だと僕は思う。また、この歌人にこんな歴史があったのかと、気づかされたことも多かった。結社誌を読むということの楽しさは、歌人の歴史の重みに触れることでもあるのだ。たとえば、2003年6月号で僕が大赤丸をつけたのにこの歌がある。

コネ入社してきた小西と机とか動かしながら掃除機をかける 片山楓子

 とてもユーモラスな歌で、思わず爆笑してしまった。ただ、この作者も、今は住職のもとに嫁いで、それなりのシビアな結婚生活の歌を作っている。結社誌を読むというのはこういうことだろう。詠草に表わされた作者の時の流れを、読み返すという作業によって追って行く、その感慨に醍醐味がある。しかしそれにしても、結社というのは人々が、どこからか来てはいずこともなく去っていく場所である。一定の厚みを維持しているので気がつかないかもしれないが、たとえ山ほど入会しても歌を続けるのはほんの一握り、おおかたは一度も出詠せずに終わり、いい歌を輩出していた人ですら、いつの間にか霧の彼方に消えていたりする。僕は、読み手という存在が、短歌にとって今ほど大事な時代はないと、バックナンバーを見ていてつくづく思った。熱心な読み手のいない結社誌なんて、何の意味もないと痛感したのだ。選者がホメる歌ばかり読むのはやめよう。自分自身の目で見つける、隠れた歌人の存在こそ大切なのだ。宝塚記念を見て、ライスシャワーや、ロックドウカンブ(おそらく予後不良)に思いをいたしつつ、結社的歌壇的な注目を浴びずとも優れた歌人を自ら選び、記憶に残したいと思った次第である。
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1084 宝塚に、ロックよ響け!〜宝塚記念、中途半端な雨〜

 先週のマーメイドS、軸馬ザレマの惨敗は、彼女が雨が嫌いだったということらしい。重馬場ならいいが、雨に濡れるのは嫌いらしく、返し馬から不機嫌だったと騎手が証言している。先に言ってよ(泣)。そういう情報こそ先に欲しいのに。馬語がわかったらなあ。
 宝塚記念。いいメンバーだ。ただ、明日も予報は雨。しかも、降水確率40から50という中途半端な雨。振るなら、100%土砂降りとか言ってくれたほうがまだ予想がしやすい。中途半端やなあ〜〜〜。
 人気馬を見よう。一番人気のメイショウサムソン。2ゲートは不利。今、阪神の内ラチは延びない。武はどう乗るか。僕は、メイショウは、差し馬だが、早め追走5、6番手につけない限り危ないと思う。もしも後方待機なら、届かず3着は十分ありえる。11番アサクサキングス。軸はこの馬と考えていたのだが、雨予報でちょっと落とす。多分、4角あたりからロングスパートを決めてくるだろうが、いかにも飛びの大きいこの馬は、 良馬場が絶対条件。ただ、やや重あたりでは、来る可能性は十分である。展開有利。四番、アルナスライン。距離が短すぎる。よって、紐。
 軸は、8番ロックドウカンブ。彼は、1800から2400がベターであり、2200はベストだろう。ローテもいい。雨も大丈夫。と言うより、ロックちゃん、俺はあんたにはずいぶんつぎ込んだぜ(泣)。セントライト記―念の強さでこの馬にほれ込み、次の菊花賞有馬記念と、大金を投入しては負けた(号泣)。休み明けの目黒記念も、ダービーの後だったので賭けなかったが、もしも賭けてたら負けてただろう。3着だった。ここは三度めの正直、俺の直感だが、宝塚はロックが勝つような気がするなあ。8ゲートも絶好の枠。ここなら、外にうまく持ち出せるだろう。言いたかないけど、ロックよ、金返せ!なお、天皇賞春の一着馬が出走しない宝塚記念は、別路線の馬が活躍するという、僕の記憶がある。その意味でもロックには期待する。
 前日予想結論。本線馬連、8−11(2430円)。以下、やや厚めに、2−8、4−8。フラットに、7−8、8−9。穴、1−8。なおこれは、雨の馬場という前提だ。アサクサキングスが馬体減で出てきたら、相当調子がいいと見るべきだ。軸を変えるかもしれない。また、馬場がそんなに悪くないとすれば、14番エアシェイディが浮上してくるし、悪くなれば、5番サクラメガワンダーも浮上してくる。要するに、雨次第だ。競馬をやり始めてから、天気予報ばっかり聞くようになった。いずれにせよ、岩田よ、ぐわんばれ。
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2008年06月26日

1083 高瀬賞発表〜砺波湊さんについて〜

 「短歌人」7月号が届く。高瀬賞受賞の発表があり、受賞作は砺波湊さんの「雑踏の中」である。全く異議はない。毎月秀歌選のために赤丸チェックをつけているうちに、いつも印のつく、彼女の名前は自然とおぼえてしまった。この人は、言葉のセンスがすごくいい。歌がヴィヴィッドである。笹公人氏の短歌サイトの常連だが、笹氏の「念力短歌」の世界に彼女が親和性を持ったということは納得がいく。

飽きられたヒットソングに科せられるオルゴール調アレンジの刑 砺波湊

 これは、「日常の陳腐」というものを見事に語っていて秀逸であり、一連の中で僕が最も好きな歌である。なんの因果かデパートのオルゴール売場なんぞに間違って入ってしまうと(某小田急は三省堂の真下がそうだから困る)、誰かが蓋を開けるのか、「世界でひとつだけのブタの鼻」だの、「へど戦記のテーマ」(タイトルは微妙に変えてあります)なんぞが世にもなさけないアレンジで聞こえてきて思わずその場に崩れ落ちそうなくらい気持ちが悪くなる。これは、音楽にとってまさしくひとつの刑である。ヒットソングにとって大事なのはある程度の陳腐さだが、それがオルゴールという小宇宙に半永久的に閉じこめられることによって目もあてられないことになる。また、同じくデパートでエレクトーンのデモンストレーションなどしとる人、あるいは楽器売場で勝手に鳴ってる電子ピアノ、みなこのようなぶざまをさらしている。妻の持っているカシオトーンなどうっかりボタンを押すと松田聖子のインストが電飾つきで流れ始め、僕はこれ以上に無残で索漠たる音楽というものをほかに思いつかない。とにかく、この作者の歌は生き生きとしていて実感がこもっている。そして、批判力が鋭い。高瀬賞受賞を機に、もっともっと伸びてほしい歌人である。注目している。
 話は変わるが今号、私の歌が、作品月評で長谷川富市氏に、三角点欄で松木秀氏に取り上げていただけた。嬉しいのは、この二氏が選んだのが同じ歌だったということである。かつて私の別な歌が、「塔」の百葉集欄で、河野裕子選で第一席に採られたことがある。その歌と、今回二氏の選んだ歌に共通するのは、疲れ切って、ああもう生きるのはうんざりだと思ったときにできた、即詠であるということだ。「塔」6月号で、古賀公子氏に採っていただいた歌も、温泉に入っているときにできた即詠である。選者及び、会員諸氏が採ってくれる歌は、僕に関して言えば即詠ばかりだ。歌っていうのは、考えて作るより即詠のほうがいいのかな、と思う次第である。ところで、松木氏はもう一首採ってくれているが、それはこのような歌である。

せめて優し死地なからむか凍鶴のさま首垂れて眠る男に 黒田英雄

 松木氏は、この「優し」は「優しき」が文法的に正しいだろうと述べておられる。それはその通りだ。ただ僕は、この動詞に「き」をつけるのが、どうしても嫌だったのだ。「恋はやさし野辺の花よ」という歌があるではないか。これも、文法にこだわるなら「恋はやさしき野辺の花よ」であるべきだろう。が、それでは歌の流れが遮断されてしまう。歌のスピリットのために、文法が犠牲にされることも、ままあっていいのではないだろうか。かの塚本邦雄だってやっている。詳しく言うとボロが出るので言わんが、一例を上げるなら高名な「馬のたましひ」がそうである。どうしても僕は、この歌に「き」を入れたくなかったのである。
 長谷川氏、松木氏が採ってくださった歌を最後にアップして締めとしたい。なお、この歌は、ブログに発表したとき、初句の最後に「!」を入れたが、「短歌人」に投稿する際に添削したものであり、これを決定稿としたい。

眠りたしただひたすらに眠りたし愛知る者は輪廻を乞はぬ 黒田英雄
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2008年06月25日

1082 老人の迷走

 77歳の祖父が、一家を惨殺するという事件が起こった。被害者は気の毒だが、僕は、「ああ、起こるべくして起きた事件だな」と思った。動機がわからんというが、動機なんぞシンプルきわまりない。要は、この老人のたまりにたまった憎悪であろう。家族から浴びせられる日常のなにげない言葉、プチ虐待に、この男は何十年と傷ついていたのだ。たとえば、離れに住むこのじいさんのところへ、嫁は自分の子供に対して近寄るなと命じていたという。これだけでもどういう状態だったか想像がつくではないか。以前この日記でも書いたが、バイト先の女の子が、「うちにゾンビみたいなババアがいて、全員でシカトしてやってるんだー」と自慢げに話していた。これが80年代の話である。はっきり言おう。現代において、三世代同居なんつーのはもう無理の皮である。昔の日本で、嫁姑の確執は永遠の課題などと言われつつもこの手の事件がクローズアップされなかったのは、「家」意識が根強く、子供や孫は自己の存続の手段として認識されていたからだろう。「墓を守る」なんぞという、僕にとっては意味不明の言葉が有効であった時代のことである。子や孫も、連綿たる(なんだかよくわからん)ものの末端としての自己認識をきっぱり切り捨てることができず、そういうのが中上健次とか寺山修司とか、土俗的なとこに吸収されていってしまう人間の恐怖や恍惚につながっていたのだろうが諸君、驚くなかれ、「どれだけ振り捨てようとしてもつきまとう地縁血縁」というものが、実はいつの間にかきれいさっぱり消滅していたのである。寺山も地獄(恐山か?)で苦笑していることだろう。要は、自己の存続のためにこらえていられた怒りや憎しみが、もはや、こらえる根拠をなくしてしまったということだ。人が家族を殺さずにすんでいるのは、それが自己愛を継承してくれる相手だと思える間だけである。それが崩壊すれば子供が親を殺しじじいが一家を皆殺しにするのは理の当然である。だからといって、僕は現代を悪い時代だとは全然思わない。戦前の家族制度なんぞ、おぞましいの一言である。こういう事件が起きるのは、家族幻想が中途半端に残っていて、老人を孫子と同居させるなどという虐待が公然と行われていることに原因がある。
 老人たるもの、独居老人が当たり前である。アメリカみたいにな。なぜなら、DNAを共有してるだけで世代がまったく違う同士が同居していたら、憎悪と排斥といじめが生じるのは水に水素が含まれるがごとく常識である。家族であること、親子であること、古い共同体に属していること、それから完全に自立しない限り、このような家庭内殺人というのは起こり続けるであろう。とは言うものの、人間は自己愛の動物であり、自己の存続を願うものである。それがかつては家名であり血筋であった。人はその中に価値観を埋没させ、エンドレステープみたいに延々と鳴り続けることを確信して生き、家族を殺したりもしないでぬけぬけと生きて畳の上で死んだ。断っておきたいが僕はそんな時代を良いとも懐かしいとも復活させるべきだとも思わない。ただおぞましく、気持ちが悪いだけである。
 人間は自己愛の存続を望むものだし、僕だとて例外ではない。だが、なぜそれが「家族」や「血縁」や「DNA」でなくてはならんのだ? ぶっちゃけた話、誰かとつながりたいなら短歌でも俳句でもその他の同人誌でもなんでもいい、趣味でつながるほうがよっぽど確かだし長持ちするではないか。少なくとも「自分」を認識してくれる人が百人から手に入るし、こちらは作品を発表する以外なんの努力もしないでいいのである。確証はないが、凶刃を振るうようなタイプのまず90%は自己表現の能力に乏しい人であろう。思いを綴ることができないから、子や孫が自己を保証してくれないと気づいたときにすべてを破壊にかかるのである。
 自己表現の手段を持たないまま生きてきた人が老いると悲劇である。もう、老人だからといって尊敬はされない。そして、人は生きてきた通りに終わるしかないのであり、くだらない大人はくだらない中年になり、くだらない老人になるしかないのである。青年時代や壮年時代に、本や文学や映画を、なんの役にも立たないものと軽蔑して過ごしたやつは多くの場合しっぺ返しをくう。
 みなさんは、日本軍のヒサンな玉砕などを扱った映画や文学を御存知であろうが、あのような局面で、たとえば学徒動員されたり、内地では学者だったりした人は真先にへばるとお思いであろう。ところが、実際は違うんである。食いもんも何もなくなり、洞窟の中で仲間の肉を食うしかなく明日はバンザイ突撃、なんて場面になって、最後まで生きる希望と正気を失わなかったのが、むしろこの手のインテリで、一見タフそうに見える肉体自慢の(インテリを殴ってたような)連中は、状況が悪化するにつれて次々と発狂したり伝染病に負けたりしていったそうだ。それを分析してある人が言っているが、本当に困難に直面したとき、「観念」というのはものすごい力を持つのである。教養のない人間が絶望したらただ絶望するだけだが、教養は、それを詩にすることができる。詩、というものが、辛いとき苦しいとき、どれだけ自己を相対化し澄明にしてくれるか、この日記をお読みのかたがたなら御存知のはずである。しょせん頭でこねくりまわしたことではないかケッ、と言うかもしれないが、食い物がなくて言葉しかなければ、頭でこねくりまわす内容がどれだけ豊かであるかで人間の運命は決まる。
 自己表現手段を持たない老人、あるいは若僧の悲劇は、これからも続くであろう。家族以外によりどころのないような無教養な人間がもたれあいのためだけに家族を持つならば、「殺るか殺られるか」という緊張の日々を覚悟すべきである。そして、そういう時代を、俺は悪いとは思わない。
 つづく。
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2008年06月23日

1081 「塔」6月号「陽の当たらない名歌選」2〜カンオケのサイズ〜

 名歌選1を激戦と言ったが、名歌選2は大激戦だった。
 今月の赤丸歌。栗木欄、143首。花山欄、210首。池本欄作品1、145首。吉川欄作品1、125首。計623首。「塔」6月号赤丸歌総数、1064首。

      「塔」6月号、「陽の当たらない名歌選」その2

乱れ髪うなじに束(つか)ね明けがたに母(かあ)はいつでも竈吹いてた 能登 鳶

野焼きの煙に墨絵のごとき遠き村夕刊配りにわが急ぐ村 石川 啓

身長をシャクトリムシに計られた僕はもうすぐ死ぬのでしょうか 山上秋恵

傍にいて大き溜息つく人の溜息をうつかり吸つてしまひぬ 浜崎純江

叱られるのが下手な子どもを叱るのが下手な教師が叱りていたり 杜野 泉

真向かへば追ひつめてしまふ母われに 電話を切りしのちの底冷え 澄田広枝

使われぬモノ悪からずアパートの給湯器より雀出てくる 荒津憲夫

「出る釘はもつとのばさむ」と新しき部長の朝の訓示心地よし 大木恵理子

同じ歌同じところを間違えて毎日歌う夫の退屈 数又みはる

杖をつきバスによじ乗り銀行へ安きドル買いに老父は行くも 斎藤賢悦

ノックする前の右手は考える扉の硬さ、音の大きさ 永田 愛

誰が読んでいた歌集なのか図書館の本を開けば煙草の匂いす 石井久美子

幼子に茹でしニンジン握らせるふたたび来たる母性怪しみ 尾崎知子

七十年前に苛めを受けしこと今日会ひし友ぼそぼそと言ふ 加藤好男

骨太のおじさんのいる花屋なりぎりぎりの無愛想も心地いい 潮見克子

入浴の介護を受けて母は言ふ「里芋のように洗ってもらった」 南條暁美

港町の喫茶シーガル カフェオレは砂にまみれし鴎の色よ 山上秋恵

子育ての六月の風おもいだす畳のうえの素足のかんじ 古池泰子

風邪の子が学校休みひっそりと布団のなかで読む怪談の本 山西直子

廊下とは冬日あまねく射すところ父は切りたる爪を片せり 黒沢弘子

昭和二十六年院内短歌誌会費十五円寄付芳名欄に五円が並ぶ 小川康男

雪まじりの風に全身あふられて電線にゐる鴉の握力 尾崎加代子

自分からはけっして笑うことのない事務長はシベリア帰りだった 谷口純子

〈駆られる〉とう題詠のあり早口の徹子の前髪上げたき衝動 福生ますみ

映像の「認知症とたたかう人」画面の一人と視線の合いぬ 山内貞子

水を打つ老い人の手にぶらさがる馬穴の日暮れ心細かり なみの亜子

我らふたり猫を枕として会話を続けていたこと今更に気づく 池田幸子

酔い潰れままにならない夫の足みぎよ、ひだりよ手と声にひく 中島扶美恵

にぎり飯作りゆく時掌と飯の響(な)り合う音の囁きのよう 山下昭榮

おもつてもみない力で吹きし風髪にかなしき跡が残りぬ 澤村斉美

     一首評

身長をシャクトリムシに計られた僕はもうすぐ死ぬのでしょうか 山上秋恵

 なんとも、不思議な感覚の歌だが。シャクトリムシなど図鑑や映像でしか見たことがない、あるいは全く存在すら知らない、虫のことなど考えたくもない、という人もいるだろうが、僕は田舎者なのでたびたび見た。要するに細身の緑色のいもむしであり、普通の感覚だったら、体にくっつかれたりしたが、悪いがぎゃあと叫んではたき落としたくなるような外見をしている。それが、自らの身長を計り終えるまで作中主体はじっとしていたというのである。古来、虫を死の国のお使いとして見る神話は多いが、これはまるでいもむしが「ちょっと計らせてください」と言って、作者のカンオケのサイズを計りに来たことのようで、死というフレーズがありながらユーモラスな歌である。およそ関係のないもの同士を結びつけてしまうのは一般に「電波系」などと呼ばれてしまうが、これはその電波がいいように作用した例であろう。面白い作者だ。
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2008年06月22日

無題〜トホホ〜

 私が穴と踏んでいたトウホウシャインが、一着で突っ込んできた。しかし私がこの馬を軸にして勝負していたとしても、結果は負けだったろう。二着、ピースオブラブを切っていたからだ。たった二頭しか切らなかったそのうちの一頭なんです(泣)。それにしても、ザレマちゃんいったいどうしたの!?何があったの!?彼女にとって最高の舞台だと思ったが、まったく見せ場なし。原因がさっぱりわからん。多分、今朝から不機嫌だったんだろう。ああそれにしても、競馬は本当〜〜〜〜に難しい。今日の敗戦は、一番こたえた。自信まんまんだったから。よって、日記を書く気もないので、ここでやめます。もう寝る。
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2008年06月21日

1080 雨だザレマだ馬力勝負だ〜マーメイドS(GV)、荒れるぞ〜

 大阪地方の天気予報をわざわざ、06たすことの117で確認する。「大雨洪水カミナリ警報」と三拍子揃ったものが出ているそうである。ホントだろうな!?競馬をやっていると、大阪や京都の天気がとても気になる。予報を信じて、大雨、不良馬場という前提で予想を立てる。
 少頭数だが面白いハンデ戦だ。ダントツの一番人気、ベツラレイア、雨だとすれば怪しい。確かに実績は一番。ただ、この馬の調教時計が僕は大いに不満。まだ本調子に戻ってないのではないか。ましてや、明日の大雨、トップハンデ56キロはこたえるぜ。差し馬の彼女には、苛酷なレースと言える。よって、元返しの押さえとする。軸馬、はい、11番、グラマラスなザレマちゃんである。切れ味勝負ならこの馬は負けるだろう。しかし、明日の大雨は彼女にとっては恵みの雨だ。1分59秒台では苦しいが、多分明日は、2分00秒台、あるいは01秒台かもしれない。とすれば、馬力型のこの馬にとっては最高の舞台である。しかも斤量は1キロ減の54キロ。恵まれた。牝馬にとっては、1キロ違えど偉い違いだ。叩き3戦目、調教時計もいい。そして、阪神2000という舞台もベストである。ここは彼女を信じて、軸馬とする。和田くん頑張れ。
 相手はわからんぜー。雨の阪神2000、軽量馬が連対する可能性は十分。まったく人気のない1番ブロウオブサンダ―(まさにカミナリ、暗号馬券か!?)。8番トウホウシャイン(こっちは「晴れ」である。矛盾した暗号馬券か!?)。10番トウカイルナ、このあたりが浮上してくるだろう。カットできるのはたった2頭、2番ピースオブラブと、3番サンレイジャスパー、これはないだろう。ほとんど、ザレマから総流し状態である。
 前日予想結論。馬連本線、6−11、4−11、元返しで5−11。以下、7−11、11−12。穴、1−11、8−11、9−11、10−11。天気予報よ。本当に、大雨と洪水とカミナリが来るんだろうな!?もしもそうなら、この予想は的中するはずである。マーメイドステークスは、二年前初めて参戦し、5380円的中した。もっとも、このときは京都だった。去年はやってないが、ゲンのいいレースだと思っている。明日は、グラマラスな人魚(マーメイド)が勝つはずだ!天気次第では、一番人気が逆転する可能性もある。ちなみに、前売りではザレマは2番人気である。彼女、重賞を勝つのはここしかないぜ。頑張れよな!

 面白いコメントをいただいた。今日は競馬予想の日なので書かないが、それについては明日、たっぷり書こうと思う。乞御期待。

 ザレマ連対確率、雨とすれば、66・2パーセント
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2008年06月20日

1079 啄木と英雄(ひでお)〜俺はオレだ!〜

日本における自殺者、十年連続して年間三万人。僕はむしろ、「えっ、たったそんだけ?」と思っているがそれは置いとく。自殺の原因の一位は鬱病だという。精神病の本で読んだが、日本人の鬱病というのは、自分が社会や周りにとって「役に立たない」と思うと発症するそうだ。そうしたメンタリティは本当に弱いと思う。「役立たず」?それのどこが悪いのだ。役に立たない?人間は自分のために生きてるんであって、社会や他人はそのためのバックグラウンドであって目的ではない。役に立たない、ってことのどこが悪いのだ?そんなことを自我の根底に置いたら、いったん社会情勢が変わったらあっさり死んでしまうってことではないか。人間は自分のために自分ひとりの独自の人生を生きるのであって、他人や社会の役に立つかどうかなんぞ結果論であって、ひとつも生きたり死んだりする理由にはならない。俺なんかしょっちゅう「この役立たず」と言われたもんだがそのたびに「ざま見ろ」と思ったもんだ。誰がてめえらなんぞの役に立とうと思うか。くだらんクラス、くだらん学校、くだらん組織、くだらん共同体ばかり蔓延しやがって。俺は、「役立たずな人生」というものを誇りに思っている。逆説的に言えば、この世に、「役に立たない人間」というものは一人も存在しない。組織にとってごくつぶしでも、個人として見たらそんなのは一人もいなかった。大嫌いな人間でも、俺の負の感情をかきたててくれるという巨大な価値がある。だから、俺は意識的にいつも敵を作るのだ。加藤治郎という敵がいるせいで、おれの短歌人生がどれだけ豊かになったことか。
 最近気色がわるいのは、「本当の私を見て」みたいな言い草が蔓延していることだ。というか、「自分がこう見てほしい以外の見方をされると激怒、失望、落胆する」連中の存在である。オマエらなー、普通他人を見るのにそいつの自己イメージで見るかよ。勝手に見とるに決まっとるではないか。短歌とか自己表現を通じてなら「本当の自分」をわかってもらえる(この場合の「本当の自分」というのは、実際よりも繊細で美しい自分である)
思ったら大間違いだ。そんな脆弱な根性で短歌をやられたらたまったもんではない。歌人なる連中、ちょっと批判したり、私生活に触れられただけでぎゃあぎゃあわめきくさる。こいつらには、創作者としての覚悟がまったくない。文学というのは、自分の繊細をアピールする道具ではない。ありのままのオノレを晒し者にして祭りにされて笑われてなんぼのもんである。誰がオマエの繊細さなんぞの神輿かつぎになるかボケ。本当に繊細さをホメられたいんだったら、そのような作品を作るがよろしい。それができないとしたら、君は繊細気取りなだけで繊細な文学者などでは、本当はないのだ。俺は常々、短歌は好きだが歌人という人種は大嫌いだと公言している。軽薄で、無根拠なナルシストが多すぎるのだ。ちょっと「この人は結社を変わったらしい」と書いただけで「余計な詮索はよしてくれ」とか言ってきたり。創作というのは、芸能活動と同じだということがわかっとらんらしい。個人的動静に口出しされたくないというなら、ものを作って発表すること自体をやめなさい。批判されたり評判になったりあらぬ噂を立てられたり、そんなのは当たり前の話ではないか。とにかく歌人というのは、俺から見て精神がひ弱すぎる。情けない限りだ。俺なんか怪文書が来ないことを嘆き、毎晩2ちゃんねるで祭りになるのを待ってるのにー。もっともっと、オマエら俺のことをボロクソのクソミソに叩け!せいぜいがとこ、バカとか機知外とか語彙の少ない罵倒をこわごわ書き込むのがせいぜいだろうがな、この根性なしどもが。
 もっと、アイデンティティのしっかりした、どしょっぽねのある歌人の出現を待ちたい。アイデンティティの確かな歌人の両巨頭といえばこの二人だろう。石川啄木と、黒田英雄だ。短歌は、癒しと似非ナルシストのための文学ではない。攻撃の文学である。諸君、啄木と英雄(と書いてひでおと読む)を見習いたまえ。とにかく、歌人という人種がひ弱すぎて、いやになってくる。
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:41| Comment(7) | TrackBack(0) | 日記

2008年06月18日

1078 「僧帽筋」〜歌人の個性=身体感覚〜

気づかれぬように泣くとき痛くなる僧帽筋と知ってしまいぬ 加藤ちひろ

 厳しい医療現場を詠い続ける作者は、たぶん新米の医師なのだろう。その歌には、毎月心惹かれる。まず初句と二句が興味深い。「気づかれぬように泣く」と始まれば、人は普通道ならぬ恋の相手が死んだのかと思うところだが、医師が、感情をあらわにすべきでない場で悲しみをこらえていると解釈すればシビアな歌となる。僧帽筋、という専門用語が効いている。なんだかわからんので辞書でひいたら、こめかみあたりの筋肉のことだという。顔を上げて、涙を我慢しているとき、確かにそのあたりが痛くなってくる。それを専門用語で表現したのがこの作者らしいところだ。そして、医学用語というのは、実はかなり詩的にできている。「三半規管」はエロチックだし、「ランゲルハンス島」はダダイズムだ。結句の「知ってしまいぬ」はまさに、読者の感想でもある。注目すべき歌人だ。

あえかなる師への憧れ「朝霧」とうドラマをラジオで聞きしそのころ 児島良一

 この作者は、ラジオドラマを歌に詠み込むことによって、僕の印象に残り続けている人である。おそらくこの「朝霧」というラジオドラマの放送は、戦後間もないころだろうと想像する。かの「君の名は」なんて、放送時間には銭湯がカラになったという伝説を持つくらいだ。僕も、小学六年生くらいまではラジオドラマを聴いていた。灯ともし頃の、なんとも切なくなる時間に聴いたドラマは印象に残っている。「朝霧」というタイトルと、「あえかなる師へのあこがれ」というフレーズがマッチングしている。ところでこの「師」というのは、女教師だろうか、それとも短歌の師匠だろうか。あるいは男性かもしれない。いずれにせよ、その時代への郷愁を感じさせるいい歌だ。僕の勘だが、作者は成瀬巳喜男のファンだと思う。

春昼に降りこぼれくる光あり君の喉の水飲む音す 古賀公子

 作者には、亡き夫のことを詠う歌が多い。下句が素晴らしい。普通故人のおもかげとして偲ばれるのは顔かたちとか、眼鏡が置いてあるとか車椅子が置いてあるとか、即物的なところに行きやすいのだが、「肉体のたてる音」を死者を思うよすがにしているところが独創的である。上句が生命感に溢れてる。それだけに、亡き夫がかつて、元気よくごくごくと水を飲み干していた音が彷彿とするという状況がいたましい。作者は看護士である。やはり、このような職業性が、こうした視点を生むのであろうか。印象深い。

一生(ひとよ)かけローン払はむこの家のベッドに夫が近づける音 助野貴美子

 下句がいい。これが夫婦生活というものだろう。そして上句に、経済的な悲愴な決意をこめている。だから、「ローン払はむ」という言葉が生きてくるのだ。この歌のよさは、ローンという経済用語と、ベッドというもろに性的な意味を持つ単語を並立させることによって、夫婦という最小の生活単位の持つエロスに、冷徹な経済原理と戦いぬく力を与えているのだ。

最後に問題作を一首。

私が歌会へ行く日は庖丁を研ぐ日と夫は決めているらし 枡田玲子

 この歌は、家族の中で自分が歌人、それもアマチュアであるという疎外感を抱いている人ならではの歌だろう。女房がたまの日曜日にひるめしも作らずに(←想像)歌会へ出かけていくの尻目に、夫は人食いばばあよろしく庖丁を研いでいるという。たぶんこのダンナも、奥さんが友達と旅行へ行くとか、親戚の法事に行くとか言うのなら笑って送り出してくれるだろうが、女房が歌会に行ってオレのひるめしが出ない、というのはものすごくはらがたつのである。旅行も遊びだが、歌会というのはなぜか、オレをほったらかして勝手に遊びくさって、という感じがすごくするのであろう。たとえば俺も歌人のはしくれだが、歌会なんてどうでもいいと思っている。しかし、妻は歌会が大好きで、朝から俺とみみ太の世話もほったらかしでるんるんと出かけて行く。なんか知らんが腹が立つのである。夫婦で同じ結社に入る人の気持ちも、この歌を読めばわからんでもない。なんか歌会、というのに出かけられると、ほったらかされ気分が激しく増大するのである。歌をやっている俺ですらそうなんだから、ましてや、歌をやってない作者のダンナは猛烈にイライラしていると思う。庖丁を研ぐ、というのがおかしくもシビアだ。家族の中でただ一人、短歌をやっている、というのはこれは大変だろう。俺んちなんか夫婦で歌をやってるくせに歌に関しては仲が悪いというかなんというか、お互いの歌を罵りあっているのである。俺は妻に、加藤治郎の彗星集に入れと勧めている。彼女の資質に合っていると思うからだ。しかし妻は「冗談じゃねえ」と言ってセンヌキで額を割りにくる。このように、家庭と歌人というのは、波乱を巻き起こす関係にあるのだ。

 歌人という表現者には、独自の身体感覚が必要だと思う。一人の歌人の歌を追っかけで読み続けるというのは、読者の楽しみである。身体感覚、すなわち、本人の肉体性の個性の感じられない歌人にはまったく興味が持てないし名前もおぼえられない。まあ逆に、加藤治郎みたいに、あまりにもイヤすぎて記憶に残ってしまい、つい歌集まで買って熟読しちゃったりする歌人もいるが、そこまで強烈なのも逆に稀である。個性=身体感覚である。身体感覚そのものを捨象することがイマドキの文学として正しい、みたいに思ってヘタレなたわごとを短歌と称して垂れ流す手合いがあまりにも多いが、キサマらはいったいなにがやりたいのだ?この地上から、汗もかけばクソもする肉体を消し去りたいのか?だったらためしにカスミでも食って修業してみなさい、三日目にハエが目鼻にたかり、恥垢がたまってそのイカくささに猫が舐めにくるであろう。歌人とはそういう存在なのだ、とことん血と肉でできているのである。
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2008年06月16日

1077 激戦!「塔」6月号「陽の当たらない名歌選」1

 毎月歌を読み、赤丸チェックをつけることには何の労苦もない。それだけだったら一時間もあれば終わる。問題なのは、この日記にアップするために三十首に絞りこむ作業だ。切っても切っても切っても切っても三十にならねえ!三十首に絞ってアップするというのはもう限界かもしれないが、これ以上増えると、俺が書き写すのも大変だし読者も疲れるだろう。絞り込んだ三十首を、読者はじっくり鑑賞していただきたい。前半後半に分けて(つまり合計60)こんなにしんどいのだ。泣く泣く紹介できなかった歌が、選歌欄評に取り上げられることを心から願っている。
 今月の赤丸歌(その1)、小林欄若葉集106首。黒住欄、186首。真中欄、149首。計441首。

      「塔」六月号「陽の当たらない名歌選」その1

この道の角曲がるたび重さ増ゆ「過去」とはまるで子どものやうで 相澤豊子

私が歌会へ行く日は庖丁を研ぐ日と夫は決めているらし 枡田玲子

通りやんせ くちなは坂は火点し頃影が迷へるごとく行けり 筑井悦子

お互いの残る時間の見えて来て黙って妻の車椅子押す 外輪清孝

水仙の清しき香りの中に佇ち岩打ち返す波の華みる 東 紀子

いつよりか寝室分ける齢となり夫は句作り吾は歌を詠む 岡崎富貴恵

朝日背に作業をこなす青年の服にとび散るペンキはアート 加藤 紀

ごうごうと音立て雲を掃除機が吸っているのと子が空をさす 多 昭彦

ローンにて家を逐はれし人たちの野宿の小屋に星条旗なびく 広瀬 守

草かげの蛇の骸が白骨となりゆくさまを通るたび見る 石飛誠一

二階にて夫が大きなくしゃみする一人じゃないと思う瞬間 渡辺久美子

ゆっくりと冷めていく風呂出られずに冷え切るまでの時間を計る 新井 蜜

子育てもやりがいあって楽しいと言いつつ隠すささくれた指 飯村みすず

嘘くさい咳をしており明後日の運動会は休むつもりか 乙部真実

春昼に降りこぼれくる光あり君の喉の水飲む音す 古賀公子

両腕を切り落とされし柿の木の冬の夕べに影として立つ 関野裕之

どうしても出てこなかった歌手の名がある日現れリピート続ける 三浦こうこ

行ったことなけれど毎月封書出す京都市大枝西新林 森 富子

挨拶も返さぬ人と向かい合う配置は四月もこのままらしい 美野冬吉

十二色の一番端にいつまでも長いよ白の色鉛筆は 加藤都志恵

おそろしき量(かさ)のさくらが咲き揃う予感のありて乳房太くする 植田裕子

授乳できぬ乳房をしぼる病室に隣接しているトイレで一人 片山楓子

母が父にしてゐたやうに死に人の開きたがる口の顎を支ふる 首藤よしえ

気づかれぬように泣くとき痛くなる僧帽筋と知ってしまいぬ 加藤ちひろ

満月がしかめっ面に見えし夜は黄卵ひとつご飯におとす 歌川 功

平日の序列そのまま座りいて十三号車はひとつのオフィス 岡山あずみ

あえかなる師への憧れ「朝霧」とうドラマをラジオで聞きしそのころ 児島良一

うとうしい、お前は消えろと言われても話さねばならぬ担任として 澁谷義人

笑ひゐるこの一時も過去となる椿のくれなゐ落ちるか明日は 北村美代子

一生(ひとよ)かけローン払はむこの家のベッドに夫が近づける音 助野貴美子
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2008年06月15日

1076 河原乞食と歌人

 びっくりした。妻の入っているミクシイを脇から覗いていたら、今をときめく笹公人氏、なんと大林宣彦氏の映画に役者として出演するのだという。どひゃ――――!!!!!
 役者と一般人の違いを一言で言えば、それは、視線だ。僕の知る限り、真に実力ある役者というのは、視線が鋭い。彼らはよく人を見、ものを見ている。常に観察することを忘れない。だから、自然と視線がきつくなるのだろう。もちろん、自己表現をすることを宿命づけられているゆえに、内面をさらけ出すことが習い性になり、自分を鏡として他人観察するがゆえに、鏡が反射するように鋭い眼光を放つこということがあろう。だから彼らには、存在の迫力というものがある。そして、こう言ってはなんだが、プロの役者というのは、舞台であるとに映像であるとにかかわらず、「肌が荒れている」(笑)。厚いドーランときつい照明、そして不規則な生活の賜物だろうが、それがまた一種の凄味になっている。電車の中なんかに役者が混じっていると、一発でわかる。以前にも書いたが、乗ってきたとたんに「こいつ役者だな」と直感した男が、僕の隣に座るなり、やっぱり台本を開いて読んでいた。そういう意味では、ひと目でわかるという点で役者というのはヤーさんとほとんど変わらないと俺は思うのだ(笑)。まあ、役者もやくざな職業だもんな。とは言え、最近のタレントについては知らん。俺は何人か歩いてて見かけたことはあるが、名前も思い出せなかった。そういう意味では、「いい役者」は少なくなっているかもしれない。
 ところで話は戻るが笹公人である。そういう意味では彼はフィルム俳優(今フィルなんぞ使っとらんかもしれんが)に向いた素材かもしれない。彼は眼力(めぢから)の持ち主であるし、落語家の格好をさせるとすごい似合いそうだ。「の・ようなもの」に出ていた伊藤克信のイメージを彷彿とさせる。大林監督にしても、彼が映像映えすると判断したからこその起用であろう。これは面白い。僕は、歌人はどんどん、映像であれ歌曲であれヌードグラビアであれ、他ジャンルに打って出て自己アピールをし、なおかつ作品を発表していってほしいと思う。何が悲しくて、歌壇というせまっくるしい中だけで、歌壇的出世がどうとか歌壇内部の賞がどうとか、そんなことに拘泥して一生を終わらねばならんのだ。短歌というのは、本来、平安京をひっくりかえらすほどスキャンダラスで猥雑な文学のはずである。歌人の本懐というのは、ぎとぎととした自己アピールであり、プロレスラーも裸足で逃げ出すほどのギミックであるはずだ。笹のことを、マスコミを利用しているとか芸人だとか批判するやつがおるが、貴様はバカだ。歌人というのは、詩のタレントであり芸人である。ので、お客でなく、歌壇内部にばかり顔を向けて、結社内の昇欄がどうの、先生のご機嫌がこうのとぬかしてる連中は滑稽としか思えない。キミタチは、笹公人のことを電波芸者みたいに思ってるかもしれないが、キミタチこそ、俺に言わせれば歌壇芸者、歌壇タイコモチである。いずれにせよ、笹公人という存在は非常に注目すべきだ。加藤治郎が時評で言っている「ポピュラリティの行方」を確かに示唆する、現代唯一の歌人と言っていい。
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2008年06月13日

1075 「角川全国短歌大賞」〜お祭は最高〜

 「塔」六月号が届く。「塔」は、全国随一と言っていいほど、選歌欄の多い結社誌だと思う。どの選歌欄といわず、自歌を取り上げられたら嬉しいものだが、「一首評」欄に取り上げられると特に嬉しい。この欄は、「塔」入会当初から僕は大好きだった。全部の歌を読んで、一首だけ選ぶなんて不可能だと思う。選んでいる人は、たぶん、「好きな歌人」の中から一首を選んでいるのだろう。それしか考えられない。なぜなら選評が、その歌人の歌を読み続けてきたという思いに満ちているからだ。だから、「一首評」欄はよいのだ。実際、僕もこの欄を担当させていただいたことがある。そのときは、好きな歌人に絞って一首を選んだ。今号、僕の歌を古賀公子さんに採っていただいた。その選評は的確で、私の思いをよく汲み取り、私が表現した以上のことを喚起されてくださったような、素晴らしい評をいただけたと思っている。かつて、小林信也選評欄でも採っていただいたことがあるが、この欄で取り上げられると本当に嬉しい。古賀氏に採っていただいた歌の三句目、「問わるれば」を、僕は「問われなば」に推敲しました。文法的にこっちが正しいので。いちおう言っておきます。
 ところで、「塔」の今号の特集は、「新かな旧かな」である。全部の歌を読んだあと、いっくりこの特集を読みたいと思う。それにしても、「塔」の特集は面白いなあ。どのような編集会議であるかは知らないが、この結社誌には活気がある。みなさん、「塔」を買いたまえ。
 ところで。角川「短歌」がスゴイ企画をしている。その名も、「角川全国短歌大賞」である。オマエはNHKか(笑)。巻末についている応募用紙で題詠と自由詠を応募するというものだが、僕が驚いたのは、応募者全員の全作品を掲載した作品集を発行し、しかもそれを書店でも販売するという。こんな企画、商業出版では前代未聞だろう。だって、落ちた歌どころか、予選にも残らなかったような歌まで全部載せるってんだぜ。これは、もう、短歌のカーニバルである。大変いいことだ。僕は、短歌祭りが大好き。かつて、短歌研究新人賞を、短歌界の有馬記念に相当すると思っていたが、それは完全な勘違いであった。この角川の短歌大賞こそ、歌壇界の桜花賞皐月賞、まさにG1お祭レースと言えるであろう。ところで、賞をとると10万もらえるというがそんなもんはどうでもいい(本当)。僕は、佳作にでも残って、賞状が欲しい。短歌の賞状はいい。なぜなら、NHK全国大会の秀作でもらった賞状はほんまに素晴らしかった。自歌が毛筆で綺麗に書かれ選者名が併記されている。僕の場合は近藤芳美選だった。この賞状は黒田家の家宝である。だって、近藤氏に、「あんた短歌をずっとやっていきなさい」と激励されたようなものだからである。だから、角川短歌も、賞金も大事だが、選者名の記された賞状を発行すべきである。本当に励みになる。選考委員に関してはまったく異議なし。どれをとっても、歌を続けていく勇気の出る審査員である。また、題詠のテーマは「自分の住んでいる都道府県」なのだが、これが都道府県別に選者が(つまり46人)いるというのがうまいところである。角川「短歌」、商売うまいねえ。いやそれより、短歌のカーニバルとしてこの企画はいい。僕は、参加を表明いたします。
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2008年06月12日

1074 「ポピュラリティの行方」

 角川「短歌」6月号の歌壇時評で、加藤治郎が先月に続いて興味深い文章を書いている。「ポピュラリティの行方」と題されている。歌人にとって、「ポピュラリティ」とは何だろうか。かつてはそれしかなかった、歌壇の中でのみ歌集や短歌の読み手と買い手が流通するという金魚鉢みたいな閉塞感に耐えられず、インターネットでの発表や、そもそも歌壇の存在すら知らない歌人たちが台頭してきたのではなからおうか。加藤の言うように、「売れる」というのは一攫千金ではなく、みずから読者のターゲットを絞って、アプローチする姿勢を持つということである。僕もよく、「売れなきゃダメだ」と言っているが、これは大ヒットを出せという意味ではなく、固定読者をもたなければ駄目だという意味である。加藤は、その成功例として、笹公人を挙げている。僕も同感である。笹は、短歌という表現形式の、若い感性にとっての有効性を懸命にアピールし、歌壇人口を増やそうという意思が明白である。つまり、自分が好きな形式であり生きた表現だと思うから、歌壇的にどうのというより以前に、多くの人をひっぱりこみたいという情熱を純粋に持っているのである。それがあざとく見える場合もあろうが、笹の場合は短歌的実力があるのでいやみえにならない。笹の短歌の実力も見ずに、出たがりとか言ったり師匠に失礼だとか言ったりするのは、全員嫉妬深い茶坊主なので無視してよろしい。
 だいたい、表現者たる歌人本人が、自己イメージを構築したり、ファンにアプローチする姿勢を見せることのどこがいかんのであるか。たとえば、風俗勤めや、自殺未遂経験や、アル中経験や、虐待経験を売りにする歌人、これはたいへんOKだと僕は思う。と言うか、」そんな強烈な経験がありながら、宣伝しなかったり、いわんや歌に詠まないような歌人は生きたまま死んでるようなものである。そういう現実を無化するためにふわふわ短歌で相対化してます、てな感じの歌人もいるが、無駄な努力である。
 僕は名歌選、秀歌選を毎月やっているが、歌とその作者のイメージが即座に浮かぶような人はほんの数名しかいない。おおかたの詠み手は記憶に残らないのである。あたりさわりのない「いい歌」を詠んでおれば、世間的には誰も知らん選者に認められたり、巻頭に持ってこられたりするかもしれんが、そんなのは結社内だけの優越感であり、一般読者の獲得とはなんの関係もない。啄木の歌が蟹工船よろしく今もって受けるのは、その私怨のかもしだすぎとぎと感と、ポピュラーな詩情が見事にマッチングしているからである。駅前の現代美術の彫刻みたいな丸太ん棒もどきの短歌をありがたがるアホが多いが、短歌はどこまでいっても、作者その人と密着した俗で艶歌調(えんがちょ)な文芸である。純粋芸術みたいなのを短歌で志向しようなどというもくろみは自殺行為である。歌人は、ポピュラリティを持つためにもっと努力すべきだ。その点、加藤治郎の戦略は正しい。正しいがしかし、女子供をターゲットにしたその作風を俺が嫌いなだけの話で、言ってることは間違ってない。俺は、自分で始める前は、短歌ブログはもっと面白い日記があふれていると思っていたが、実際に検索などかけてみると「こいつらバカか」と思うほどつまんねえ。なんでもっと、キミタチは、ブログであざとく活動しないのか。僕は、かつて「珍獣」と嘲笑されたが、おまいらなあ、短歌をやっとる時点で、世間から見りゃ俺もオマエも珍獣なんだよ。同じ珍獣同士、吠えんかい。さも自分が世間の荒波に耐えられないたったひとつの花みたいにしおらしくしくさって。どうせ短歌なんて表現手段を持ってしまった珍獣なのだ、大御所に噛みついたり何の罪もない人に噛みついたり、大いに世間のど顰蹙を買うようなこととして文名を高めようではないか。「そんなのは文名ではない」と言う人は、文学の歴史がスキャンダルの歴史であることを知らないおめでたい人である。ともあれ、先月今月と加藤治郎の時評はたいへんよろしい。こんな面白い短歌時評は初めてである。加藤氏にはどんどん、こうしたシステマティックな問題を取り上げていただきたい。それとなー、現在、短歌ブログが俺のひとり勝ちであるのは、全然よろしくない。俺に対抗するポピュラリティを持ったブログの出現を待つものである。啄木が今生きてたら、さぞかし熱心にブログをやって、四方八方ケンカを売りまくっていたことであろう。
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2008年06月10日

1073 白の持つ無残とエロス〜小学生の責任〜

落書を白で消したるその白がさらに異様な落書きに見ゆ 斎藤 寛

 子供のころ見た「月光仮面」や「白馬童子」、そして「豹(ジャガー)の眼」の白ジャガー、あるいは「怪傑ハリマオ」の白いターバン。こうしたものに、僕は異様に興奮。これはガキらしい正義の興奮ではない。ずばりエロスをそそられたという意味での興奮である(もちろん当時、性のなんたるかなんぞ知らなかったが)。白という色は、通常、「正義、純潔、処女性、童貞性、正しさ」などを象徴するとされているが、しかし、いや、それ故に、僕には、「どうとでも蹂躙され汚される」可能性を持つもののエロスを感じさせる色である。古来、白が花嫁衣裳の色とされるのは、純潔の象徴と、「婚家の色に染まる」という意味を持つそうだが、それもまた、激しくエロチックである。
 この歌の視点は抜群にいい。確かに、壁の落書きを白ペンキで消せば、それはさらに異様にアブストラクトな落書きのように見える。それはそもそも、落書きされてもしょうがないような、ひどい色の壁であり、そこに消さざるを得ないようなひどい落書きがされたのであろう。その落書きそのものより、それを白く塗りつぶすということが俺にとって激しくエロチックなのだ。この歌を見つけて、俺は異様に興奮した。この落書きというのはひょっとして「便所の落書き」か?今、白という色からもっとも連想しやすいのは便器である。家の中で純白のものといえばあれが筆頭であろう。洗濯機や冷蔵庫も白いが、危機的状況にはない。便器の白は常に汚されるためにあるという逆説に基づいているのだ。なぜ便器は白なのか?茶色や黒だっていいではないか。そのほうが汚れが目立たない。ゆえに私は、今日も一生懸命便器を磨く。まるで女性に奉仕するように。便器の白ほど、白という色の持つエロスと無残さに満ちているものはない。ちなみに、対極である黒も、エロチックな色である。黒いジャガーと白いジャガーの対決は興奮したなあ。だって白いジャガーが死ぬんだもん!この世は僕は白と黒、すなわち喪の色だけでいいと思う。なぜなら、人間は死ぬために生きているからだ。白と黒、これは僕の歌にとって重要なテーマである。この一首のためにだけものすごいスペースを使ってしまったが、それくらい僕を興奮させた歌なのである。ちなみに我が家の猫みみ太は、陰陽師が神と間違えそうな見事な白黒模様である。が、エロスはない(笑)。茶トラのみんく(メス)のほうが色っぽかった。これがオス猫の限界であろう。ただ、エロくないぶん可愛いけども。

肩に重い休み終わると六年生こんなぼくにも責任がある 上村駿介

 私は中学一年の一年間、「給食委員」をやらされたことがある。それがいまだにトラウマだ。この委員のおもな仕事は、給食を食べる前に、前につつと出て、手を合わせて「いただきます」という。するとそれを待って全員が「いただきます」と言って食べ始める。自由な気風で育った人には信じられないかもしれないが、かかる前近代的な風習の学校に入ってしまったのである。俺はいつも思ったよ。なんでよりにもよってこの俺が合掌して「いただきます」と毎日言わなならんのだ。ちなみに変な宗教団体付属校でもなんでもない、全国どこにでもある公立中学である。なんで自分が給食委員になったかは忘れたが、目の前が真暗になったことは鮮烈におぼえている。だいたい、学校というのはロクなものではない。漫画家の西原理恵子は、中学生が覚醒剤などをやっているという報道に対して、「シャブでもやんなきゃ中学生なんぞやってらんねえよ一刻も早くこの世から学校がなくなってくれますように」と例によって皮肉のきいたコメントをかましていたが、まったくその通りである。中学時代というのは人生最悪の時代であり、こんなもんなくていい。集団生活なんぞいいかげん小学校でうんざりしてるんだから、純然たる学問だけ教える場所として塾を公立化し、委員だの自治だのくだらんことは一切廃止がするがよろしい。俺は今もしも、俺を給食委員に投票したやつが誰か判明したらぶち殺してやりたいと思っている。
 作者は、まだ小学校5年生である。何かの委員を任されちゃったんであろう。それを「責任」と言っているところが悲しいが、実は痛烈な皮肉をかましているのかもしれない。だいたい教師なんてものは、根拠も理由も示さずに「責任を持て責任を持て」とぬかすものであり、しかし、てめえの仕事をガキを奴隷がわりにして減らしたいこと一目瞭然である。上村くんは、小学5年生にして短歌に目覚めた。これは素晴らしいことであると同時に、額に烙印を押されたということでもある。上村くん、君の歌を、おじさんはずっと読むよ。中学、高校と、どんどん歌を作っていってくれ。小学生で結社に歌人に入ってるって上村君だけじゃないないのか?ぐわんばって歌を作ってください。

 私は、この日記を書くときはまず酩酊状態であるが、しかし、「名歌選」「秀歌選」「コメント欄」を書くときは素面である。それだけ、これらの日記に賭けているのだ。毎月、読者数の多いことに感謝している。
 コメントが長くなりすぎて今月は2首で終わってしまった。すまん。
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:09| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

2008年06月09日

1072 「短歌人」6月号、会員欄秀歌選その36

 今月の赤丸歌、会員1欄パート1、九十三首。同パート2、百三十五首。会員2欄パート1、九十一首。同パート2、百二十二首。計四百四十一首。

 「短歌人」6月号会員欄秀歌選その36

落書を白で消したるその白がさらに異様な落書きに見ゆ 斎藤 寛

抽出の遺品の眼鏡かけて見き夫の視野に棲みし五十年 新井 礼

意識とかしてないけれど夕方が夜に変わる時外を見てない 丸井まき

すでにふかく思惟するごときをさな児とならびて春のクレーンを見る 水原 茜

黒い服を着ている友の顔を見てぷらんくとんを思い出してる 尾方 裕

取り乱す子らを残して飛花のした孤独死なんて粋な死に様 三島麻亜子

肩に重い休み終わると六年生こんなぼくにも責任がある 上村駿介

見得を切る歌舞伎役者のかたちにて頭で球を流す技あり 薄葉 茂

胸底に沈めし光景顕ちてくる路上の兵を兵が殴打す 赤井多恵子

「作らない日は淋しい」と記したる俳人山頭火眼鏡の度数を淋しむ 森川武彦

貧しさは節目にあらはれ幼な子は無口になりて節目をしのぐ 牛尾誠三

つんのめって前へ子どもが転ぶときもののみごとに両手投げだす 西尾正美

岡本太郎曰(いわ)く「人間は両性具有」われ少年からおばさんとなる 山本照子

欠伸する校長の口虚空へと一瞬吠ゆる形に開く 松岡建造

物忘れひどくなりたるこの日頃夢に出てくる前日の夢 室山郁子

家の戸になんど鍵かけ鍵開けしぞ何を守らむこれから先も 藤田くみこ

糠床をしつかり混ぜて錠掛けていざ『こもれびジャズナイト尾崎紀世彦』 西尾睦恵

美声なる呼び出し次郎の節回し安馬(あま)呼ぶときにわずか揺らぎぬ 荘司竹彦

変声期終えしころより母われを気軽にアナタと呼びはじめにき 荒井孝子

買えば必ず運が舞い込む壺ならばそれは運ではなくて科学だ 砺波 湊

『靖国』(YASUKUNI)の上映中止の地方版ほどなく花の記事に埋もれぬ 服部文子

糊づけのシャツ干す時に漂いし裏切りという微かな香り 伊吹礼子

ベランダに青春はあり去る人と来る人の影見比べている 田所 勉

海に向き傾(してなだ)れて咲(ひら)く水仙の奔放にして花序はあるらし 長田貞子

転落の夢つづけみて三日めは朝の鏡に強く眉引く 佐山みはる

「生かされる」謙虚に見えて傲慢で手鎖のような言葉つぶやく 生野 檀

曇天に木霊するようにうちふるう白木蓮にこころざしあり 朝生風子

「アマイ」他人に言える人たちはそれなりに皆しあわせならん 阿部美佳

障害者世間が害≠ニいうならば害にならんとこころを研ぐも 阿部美佳

爆撃に素堀りの壕に飛び込みて立ち上がりし時生きしは吾のみ 中山邦子
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2008年06月08日

1071 一万円負ければ一首

 安田記念は、テレビ観戦。パドック、返し馬でのウオッカが素晴らしかった。プラス8キロ、馬体を戻していた。予想を立てたら見事的中。ペーパー馬券はよく当たるぜ。しかし、宝塚はもう使わないほうがいい。休ませろ。ダービー、安田をとっただけでも十分じゃないか。なんか僕は、この馬には不幸の影を感じて、恐いのである。あんまり働かせたらアクシデントが起こりそうで。それにしても、この馬はほれぼれとするワーキングガールだ。関係者は、宝塚には出すなよ。
 角川「短歌」一月号をつらつら読んでいて、面白いエッセイを目にした。「一首一万円」と称する石田比呂志の文章である。石田氏は、世人も認める競輪好き。ギャンブルをやる者はたいていは負ける。石田氏は、オケラ街道をゆく落魄の背を、赤い落日が焼くと書いている。ここからが面白い。1万円負ければ名歌一首、2万円負ければ名歌2首、できるという。博打の神に見離された無念の代償を、文芸のバネとして、名歌一首をひねりだすと言う。これにはまったく異議はない。私も、競馬に負けた日はとにかく歌ができるのだ。いや、この切なさを歌に託そうという気が起こるのだ。短歌というのは不思議な文学、どうして落ちこんだときに、こんなにすがりつきたくなるのだろうか。俺が大金1000万を無くしたときも、歌どころじゃないだろうに、と人は思うかもしれないが、とにかく歌を詠みたくてしょうがなかった。長塚節や、伊藤左千夫の気持ちがよくわかるのだ。二人とも生活苦と借金まみれ、節に至っては結核患者であり、歌どころじゃなさそうなのに、彼らは結社活動に命を賭けていた。これはなんかわかる気がする。歌は、「敗者の文学」と言われているが、そんな単純なものではない。悲しき玩具であるのは確かだが、武器ともなる。この韻律を知っていれば、みずからの不幸と戦えるのである。だから僕は短歌は滅びないと言っているのだ。なぜなら、人間はほとんどが不幸だからだ。この韻律を知った人は幸福だ。世の中は、どんどん世知辛くなっていく。好むと好まざるとに関わらず、一人暮らしの時代が来るのだ。怒りや嘆きを、歌にすることを知らない人は不幸だ。歌人たる者よ、歌を知ったことそれ自体を幸せと思え。
 老いは、今からの短歌の重要な主題となるだろう。俺は、一生競馬をやり続け、その度に歌を作ろうと思っている。いや、競馬をやり続けることができれば、それが幸せな人生だと思っている。歌人よ、ギャンブルをやりたまえ。ギャンブルを知らない歌人の歌なんて、俺は興味ないね(女性は除く)。

      今日の一首

どうぞとゆずられいいえとことわりてバスの吊り革握りしめたり 新川克之
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

1070 売れないのに賞は乱立

 「角川」短歌特集、「今気になる十二人の歌人」。こういう企画はいい。既成の、評価の定まった歌人を特集するより、今まさに吹き出んとする中堅、若手を取り上げるということは、歌壇にとっても大事なことだ。「塔」に、「私の偏愛する歌人」という企画もあるが、総合誌はこれを見習うがよろしい。
 谷村はるかや小島なおを、私は高く評価するが、小池光氏が取り上げている、花山周子氏も、注目すべき歌人だ。私も名歌選で取り上げたが、小池氏の挙げたこの歌が非常に面白く、この作者の名前を私に刻みつけた。

この頃思い出(い)ずるは高校の職業適性検査の結果「運搬業」 花山周子

 この歌に僕は爆笑した。「運搬業に向いている」と診断されたのは事実だとしても、芸術を志す者としてこんなふさわしくない職業もあるまい。こういうことを歌にすることに作者のふてぶてしさを感じ、奇抜とも言えるドラマ性を掬い取り、僕を楽しませてくれる。作者の第一歌集「屋上の人屋上の鳥」の歌数は、なんと860首だという。これだけの歌を収録した作者の度胸を僕は買いたい。私は金がない。金がどんどん、翼をつけて飛んで行く。が、この歌集はいずれ買おうと思っている。それにしても諸君、歌集は高いねえ。これはひどいと思うよ。僕の、本を買う基準価格は1500円までだ。それが何だ?歌集は、3000円もするんだぜ!この状況はなんとかならんのかい。どうしてこんなに高いの?これが、たとえば商業出版の小説であれば、「たくさん刷って廉価で売る」という薄利多売の原則が成立するが、歌集というのはいったいに装丁が豪華で紙が上質で部数が少ない。要するに、かかった金を部数で割ったののプラスαが値段というわけである。とまあ理屈ではこうだが、歌集出版社も、自費出版にあぐらをかいてないで、もうちょっと冒険をしたらどうだ。これと思った歌人をキャンペーンを駆使して宣伝するとか、そういうマーケッティングに配慮した戦略を行ってもいいのではないか。連中は、せっかく売り切れても増刷をしないのである。あにを考えておるのだ。俺が花山さんの歌集を注文したら、電話口で木で鼻をくくったような口調で「売り切れです」と言われるのが落ちかもしれない。歌集のタームというのは長いのだ。歌集出版社も、長いタームに応じた対処をするべきであろう。それにしても、サラダ記念日が確立した、「歌集のくせに何百万部」という「偉業」には、なんの意味もなかったのだなあ。これによって、ほかの歌集も売れるようになる、という効果があったのならば俺は「サラダ記念日」を大評価してもいい。だが、「時宜に恵まれれば売れる」ということを立証しただけで、プロジェクトチームのみの勝利であり、歌壇や短歌そのものへの貢献は何もなかった。僕は、ブログを持つのであれば読者数を集めなければダメだと思っている。なぜなら、公開しているからだ。読まれないブログなんて意味はない。歌集も同じ、売れない歌集というのは意味がないと思う。そして、大部分の歌集が売れない、すなわち意味がないのであれば、歌壇にも意味がないという結論に達する。「先生、先生」と茶坊主どもばかりが歌壇には蠢いている。世間の人からは、「ああいいご趣味ですねえ」となまぬるい目で見られているだけだ。とにかく売れなきゃダメ!めちゃくちゃなベストセラーを出せと言っとるのではない。50冊くらいは自腹で買ってもらえなくては本を出す意味がない。歌集出版社や結社誌の態度を見る限り、売ろうという商業主義的に正しい姿勢がまったく見られない。諸君。歌壇内の賞を取る取らないなんぞどーだっていいのである。賞を取ったからってその作品が読まれてることになるか?自分の歌をもっと人に読まれようという努力をすべきである。
 僕にとって、いいと思った歌人が賞を貰うことは嬉しいが、賞そのものは全く無意味であると思っている。なぜなら、賞を取ることと読者を獲得することとの間に関連性がないからだ。それは、選者にも問題がある。
 歌壇って、いったいなんなのだ?
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2008年06月06日

1069 「人妻集団暴行致死事件」

      今日のMYビデオ

「人妻集団暴行致死事件」(1978年日活、田中登、原案・長谷部日出雄、脚本・佐村乾、音楽・アビスリ)室田日出男、古尾谷雅人、深見博、黒沢のり子、志方亜紀子、小松方正ほか

 公開当時、リアルタイムでこの映画を見たとき強い衝撃をおぼえた。暴行された黒沢のり子の、死後硬直を起こした死体の映像が強烈に印象に残った。ただ、ひさびさにビデオで見直して、「なんて哀しい作品なんだ」と胸が熱くなった。この映画には、悪い人間が一人も出てこない。しかし、不幸のスパイラルが止めようもなく人々を巻き込んでゆく。舞台は埼玉県だが、都会の近郊都市がどんどん都会の一部として侵されていくなかで若者たちが知らず知らずに狂っていくという生態を、病んだ風土性の中で見事に描いている。そして、この映画において何より哀しいのは、人は理解しあったつもりでも、それは錯覚に過ぎないということだ。ロマンポルノらしく、それを性愛の問題に置き換えて、見事にそれを描きだしている。室田日出男は、それでなくても名優だが、これは彼の代表作の一本だと断言していい。理解していたつもりの妻が、若者たちに輪姦されて死んだことによってはじめて、彼女が心臓の苦痛をこらえて自分に抱かれていたと気づくのだ。ちなみにこの奥さんは、多少頭の足りない、それだけに夫に気をつかう人物である。黒沢のり子は、そんな優しくて被害者に生まれついた女性を見事に演じている。
 この作品の偉大な点は、まだ、都会近郊のベッドタウン化に伴う地域の荒廃や、先住民と移住民の意識のギャップからくる軋轢、それに伴う若者のストレスや犯罪性の高まりなどに、1978年という時代に着目していたことだ。中上健次の「さらば愛しき大地」とその柳町光男による映画化が1982年であることを考えると、たいへんな先見性と言える。たぶん田中の言いたいことを全部言ったらこの映画は1時間50分くらいになったと思うが、ロマンポルノ枠の哀しさ、90分が限度であった。田中のもう一本の代表作「マル秘色情めす市場」は、本来120分の映画だったらしいが、ロマンポルノなのでなんと83分までにカットされている。残念なことだ。いずれにせよ、この「人妻暴行致死事件」は名作である。キネ旬のオールタイムベスト100に唯一入ったロマンポルノである。ロマンポルノには、実は秀作が多い。そして、この秀作群は、「ポルノ」と銘打っていながらオカズ目当てにもぐりこんだ客のハートとチ×ポをずたずたに引き裂いて、インポ状態にするというすばらしい文学である。俺なんか、セックスそれ自体がいやになるくらいである。
 ところで、このビデオは、「今日は見るだけよ」というノリでひやかしに行った店で見つけ、はっと気がついたらわたしの財布はカラになっていた。けっこうな値段であることに憤慨したわたくしと店主との会話。
私「マル秘色情は安いのに、なんで人妻暴行はこんなに高いの!?」
店長「マル秘色情はDVD化されているのに人妻暴行はされてないんですよ」
私「なんで!?」
店長「多分、先にDVD化したマル秘色情が売れなかったので人妻暴行も出さないのではと」
私「なんでマル秘色情が売れないんですか!」
店長「さあわかりません。マル秘色情が売れないから人妻暴行も出ないし、だからこういう値段をつけざるを得ないということです」
 この会話をはたで聞いてる人がいたら、鬼畜AV専門店の店長とどすけべ客の会話にしか思えないだろう(笑)。
 諸君。タイトルはアレだが、二作品とも、ニューシネマの名作を見るごとき、哀しい思想性とシュールさに満ちた名作である。こんなものを冷やかしのはずが見つけてしまったがゆえに金に羽が生えたごとく飛んで行く。歌集を買う金などないのだ。
なにはともあれ、歌人の皆さん、もっと日本映画を見ましょう。
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2008年06月04日

1068 五月月間ランキング〜幸福という名のドグマ〜

 ブログ開設、1221目。総アクセス数、914154。総訪問者数、163665人。

     五月月間ランキングベスト10

 1位  2日「4月月間ランキング〜嗚呼!本間千代子〜」1303
 2位 18日「新宿区の素晴らしさ〜柴夏子退会!?〜」1278
 3位 4月31日「嗚咽」1231
 4位 23日「『山のあなた徳市の恋』=『按摩と女』=清水宏」1169
 5位 28日「訃報欄と退会欄〜病犬(やまいぬ)〜」1206
 6位 26日「『塔』五月号『陽の当たらない名歌選2』〜短歌における肉体感覚〜」1158
 7位 25日「残酷な乙女ポピー狂い咲き」1110
 8位 21日「浅い水路〜視点〜」1077
 9位 15日「ギゼンに塗れた国ニッポン」1056
10位  6日「『短歌人』5月号会員欄秀歌選その35」1055

 5月のアクセス数は23751、訪問者数は4620人でした。

 「幸せのドグマ」という怪物が世間を跋扈しておるのではないか。あの辛辣をもって知られた劇作家つかこうへいですら、何年か前「人は幸福になるために生まれてきたのですよ」とかなんとかいうふぬけた本でヒットと飛ばしたのは記憶に新しい。だからこいつはもう劇作家として駄目なのだ。とっとと引退しろバカが。
 存在することに意味や目的を求める人がやたらと多いが、そもそも存在というのは本来的に無意味に決まっておろうが。腹のなかでメタンガスがたまって屁となって出るのと同じ単なる自然現象である。そこには価値はないが、同時に無価値もない。生きる目的や意味が欲しかったら、誰かが投げ与えてくれるのを待つのではなく自分で作れ。いやでっち上げろ。自らの価値を捏造するパワー、それが本当の意味での「生きる力」であり、社会にとってどうの家族にとってこうのなんてのとはなんの関係もない。だいたい、「幸せ」というものがすでに世界の内部では自己矛盾的観念である。不幸で当たり前なのだ。だから僕は、人生を謳歌した有名人として挙げたいのは石川啄木、岸上大作、小林多喜二、この三人にとどめを刺すだろう。まるで不幸になり夭折し自殺し虐殺されるための人生だが、これこそが人生と呼べないだろうか。「生きる」というのは、激流を無理矢理溯上しながら最後には岩にぶつかって砕け散り、無と合一するという至福に還る、そういうものではないだろうか。要するに生きるというのは、砕け散るということなのだ。社会に順応すればするほど不幸感、絶望感は増していくものだろう。生まれてきたそのこと自体不幸なことなのだ。かの可愛い巨大犬の名付け親であるセントバーナードという坊主がこんな言葉を残しているそうだ。「生まれるのは災難生きるのは不幸死ぬのは厄介」。ましてや、歌人たるもの、幸せなんぞ望んではいけない。生きることを不幸と感じるアンテナがあったからこそ歌人たりえたのではないのか。だからあなたたちは、どんどん自らの不幸をさらしまくるべきなのだ。佐々木幸綱の言う、「暗さこそが斬新」というのは当たっている。ただ、佐々木はあの俵万智をプロデュースした張本人。この歌人は、時代を見る目という確かな視点を持った人なのだろう。
 僕は言いたい、人は、幸福になるために生きるのではない。人生に意味を求めること自体が無意味である。その覚悟がないもんだからみんな宗教や思想にはまって果ては殺し合いになるのだ。真の平和主義者というのは、自分の幸福も他人の幸福もどうでもいいエゴイストのことである。そして諸君、真のエゴイストである黒田英雄の短歌を読み、じっくり考えることだ。私の歌にこそ真実はある。短歌が滅びることはないだろう。なぜなら、人間は滅亡の瞬間まで不幸だからである。
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2008年06月03日

1067 リタリンとタリバン

      リタリンとタリバン  黒田英雄

十二社温泉は湧くビル群の高きあはひの潭(ふか)き底(そこひ)ゆ

吐血せしわが血の色の湧き出でて甘き味する唇に滲めば

源泉の黒き水面(みなも)にわが息の白が滑りて岩壁(いは)の揺れをり

疲れたるホストがぴしやつと顔ぬぐひ金髪剥がれ黒髪の見ゆ

湯煙に灯る電燈ぽつかりと泛びて人工の満月となる

着替へたる背広のままで椅子深く眠る客あり胸に右手(めて)あて

人界に向くゆふぞらも傷つきて剥けば血を噴く鰯雲たつ 

夏は逝く五十二度目の夏は行く返り血のごと夕陽浴びたり

風のやうな人だと云はれたことがある隙間より入り隙間より去る

岸上の地獄は兵庫福崎町帰る日なきを幸とし逝かむ

自死歌人の列に従きゆく淑女ひとりかかるとき「喪」は青まとふべし

津波ざま春一番の吹き荒び遥かはるか往け還ることなく

吾に難き「喪の仕事」易くせむがとて会(まみ)えず逝きし人にあらねど

髪の毛を右手(めて)もて何度も梳きをりし汝(なれ)もさみしきひとにやあらむ

リタリンとタリバンの違ひわからねど白頭鷲はリタリン飲むまい

便所掃除にわれは固執す新年度便器の白こそ真正の白

トイレットペーパー渦巻き流れゆく便器の真白(しろ)はしあはせの色
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2008年06月01日

1066 絶好調「語る短歌史」〜無冠の帝王〜

 ダービー完敗。ディープスカイよ。アンタは強い。私が悪かった。謝ります。しかし、競馬に負けた日は短歌ができる。三首できた。そのうちの一首は、めちゃくちゃいい。競馬に感謝します。短歌つーものは、何かにつけ勝ったときには全然できないが、負けたときには本当によくできる。まったくもって、敗者の文学であるというのは確かだ。
 角川「短歌」6月号、めちゃめちゃ面白かった。岡井隆のインタビュー連載「語る短歌誌」が絶好調である。角川「短歌」様、これは単行本になるんでしょうね。いや、すべきである。これは、戦後短歌の貴重な記録である。今号のテーマは「俵万智の登場は何をもたらしたか」である。岡井の意見はひとことで言って、彼女の登場は「短歌はゼニになる」という誤解を世間に広めたということである。俵の成功は、岡井に言わせれば、環境と時代とキャラクターの一致という奇跡的な偶然に後押しされてのものだという。インタビュラーである小高賢の発言がすべてを物語っている。
小高〈歌人に対しては、フリークとしてのおもしろさがメディアには目につくのでしょうね。しかし、それを続けていくのは大変なことですよ。そういうなかで生きて行くということは……。〉
 マスメディアは、短歌というジャンルをまともな存在とは見ていない。小説のようにわかりやすくなく、俳句のように枯れていない、華道や茶道よりももっとマイナーな、変てこりんな文芸で変わり者の集団だと見ているはずだ。最後の「変わり者集団」というのは当たってるかもしれんが、俵をほめそやしたマスメディアの側に、短歌を肌身でわかっているジャーナリストなどまずいなかったであろう。俳句に比べて、短歌という表現形式はメディアから軽視されているであろう。俵万智をほめそやしたマスコミ人のうちの誰ひとりとして、本気で彼女の歌を、魂に響くものとして受け止めた者はいないであろう。もともと魂に響くような歌でないからしょうがないのだが、後に続く者がいないというのも、すでに時代も状況も変わってしまったところに、本質のないものが後継者を持てるはずがないからである。ただ、俺は、笹公人は評価する。彼は、SFを基調とした、サブカルチャーに内在するロマンを言語化する能力に優れている。彼は、短歌をその閉鎖性から解放しようと果敢な努力を続けている、開拓者だと思う。俵万智が、短歌を「バカでもできるもの」と誤解させ、短歌人口を増やしたはいいが質を落としたのと違い、笹はあくまで、自分のHPへの投稿者にも詩人の魂とレベルを求める志の高さがある。そして、岡井も触れているが、穂村弘はこの先どーするんだろうか。僕は、彼の歌を解釈する眼力には一目置いている。非常に洞察力があり表現も豊かだ。んが、なんで当人の作る歌がああなのだ。まあいいや。あと、斉藤斎藤にもひとこと言いたい。彼もうまくマスコミに取り上げられているが、これとても奇人変人珍獣のたぐいとして見られているだけだ。だいたい彼は、「短歌人」に所属していながら、ここ数か月というものまったく出詠していない。「短歌人」も、彼に対して甘いんじゃないか。歌会でコメントをこいてるからといって、結社誌に歌を出さないような同人なんぞなんの意味があるのだ。俺は結社誌に、これといった理由も見当たらないのに欠詠を続けるやつなどクソだと思っている。
 角川「短歌」に話を戻すと、「今気になる十二人の歌人」も面白かった。谷村はるか、花山周子、小島なおはまさに今注目すべき歌人たちだ。谷村に関して、松村正直氏がこう言っている。〈谷村の歌の魅力は溢れるまでの圧倒的なパワーと勢いである。それは時に危うさも感じさせながら、読者をぐいぐい引き込んでいく。決して荒削りということではなく、それが作者の選び取ったスタイルになっているのだ。〉谷村は、現在、無冠の帝王である。賞候補に推しながら無冠に終わらせた「短歌人」ならびに、「短歌研究」選考委員がバカだからだ。彼女は、「何を詠うか」という、短歌にとってもっとも重要なことを忘れない人である。私の提唱する「ストレート短歌」の概念にマッチングした歌人である。
 長くなったのでこの項続く。
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記