久々に、「塔」のバックナンバーを開く。多くの人が、結社を去って行ったんだなあとつくづく思った。僕の持っているのは2003年からだが、それからずっと休まず出詠し続けている人を僕は偉いと思う。一首選とかで取り上げられたりしない限り、作歌というのは暗闇に向かってボールを投げ続けるような営為である。なんの反応も返ってこないのに出詠し続けられるというのが、それが歌人としての精神力の証だと僕は思う。また、この歌人にこんな歴史があったのかと、気づかされたことも多かった。結社誌を読むということの楽しさは、歌人の歴史の重みに触れることでもあるのだ。たとえば、2003年6月号で僕が大赤丸をつけたのにこの歌がある。
コネ入社してきた小西と机とか動かしながら掃除機をかける 片山楓子
とてもユーモラスな歌で、思わず爆笑してしまった。ただ、この作者も、今は住職のもとに嫁いで、それなりのシビアな結婚生活の歌を作っている。結社誌を読むというのはこういうことだろう。詠草に表わされた作者の時の流れを、読み返すという作業によって追って行く、その感慨に醍醐味がある。しかしそれにしても、結社というのは人々が、どこからか来てはいずこともなく去っていく場所である。一定の厚みを維持しているので気がつかないかもしれないが、たとえ山ほど入会しても歌を続けるのはほんの一握り、おおかたは一度も出詠せずに終わり、いい歌を輩出していた人ですら、いつの間にか霧の彼方に消えていたりする。僕は、読み手という存在が、短歌にとって今ほど大事な時代はないと、バックナンバーを見ていてつくづく思った。熱心な読み手のいない結社誌なんて、何の意味もないと痛感したのだ。選者がホメる歌ばかり読むのはやめよう。自分自身の目で見つける、隠れた歌人の存在こそ大切なのだ。宝塚記念を見て、ライスシャワーや、ロックドウカンブ(おそらく予後不良)に思いをいたしつつ、結社的歌壇的な注目を浴びずとも優れた歌人を自ら選び、記憶に残したいと思った次第である。









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