2008年07月31日

1108 蜩(ひぐらし)

       蜩(ひぐらし) 黒田英雄

観光バス「黒船Aコース」老いびとの二人のみ乗せ何処より来ぬ

宿泊客はわれのみにして日曜の下田の蒼のまばゆかりけり

記念館に太地喜和子の舞台写真(しゃしん)なく死地の海(わたつみ)に海猫の啼く

散り散りて終には水漬く漁船(ふね)がもとしづけき港町の桜は

伊豆を撮り伊豆で果てたる映画人清水宏を知る人在るや

早撮りの清水が愛しし天城の景有りがたうさん≠ニつぶやき越える

『マダムと女房』映画が声を持つ頃に思想弾圧(だんあつ)あまねし民の声失す

決断の遅き人ほど芯は強し山宣偲ぶ「武器なき斗い」

赤玉のポートワインのポスターを見つつ思へり主義者たちの理想(ユメ)

山宣の治安維持法改悪の反対演説瀑布に聴こゆ

「国歌斉唱」起立せぬ人も苦しからむ何故に論れぬ「国歌改正」

我が生(よ)さへおぼつかぬゆゑ君が代に思ひ巡らす余裕あらざり

敗れたる戦の云ひ訳小賢しく自虐史観と叫ぶ卑しさ

愉しき哉!晴天(はれ)の日に思(も)ふ新国歌円舞曲(ワルツ)奏でよ「浜辺の歌」を!

濁世なる塵尽きるまで寝ねがたく躯を火照らす総懺悔の夜

雪の日の黒き日の丸無言のデモアプレゲールは寂(しづ)かに逝くべし

満鉄の金ボタンの馬鹿野郎(マテツノキボタンノパカヤロ)唄ひてわれは低体温(クール)に眠る

陶酔(エクスタシー)なんてこの世にありやしない荒木一郎は猥褻な男(ヤツ)

君のゆく道は希望へとつづく嘘フォークソングも流行歌(はやりうた)なり

アイリーングッドナイトアイリーンサワルワゴチセンミルハタダホイ!

雨の、アメノショポショポフルバンに伊丹十三の自死を肯ふ

豆満江に末期の精を放たれて蜩たちよ靖国に哭け
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2008年07月30日

1107 ヘタレの証

 松木秀氏から再々、歌集プロデュース問題についてコメントをいただいたので引き続き取り上げる。 僕が言いたいのは、主体である作者が他者の介入を許すのがよくない、ということではない。優れた文学作品が編集者のアドバイスによって生まれたなどの先例は僕も知っている。僕が嫌悪するのは、その作品や作者ではなく、「このオレ様が元締めなんだかんな」の意識が丸見えであるケースである。松木氏は、僕が、歌集成立に先達の手が加わること、そのものを悪く思っていると思っておられるかもしれない。僕は本来、本当なら歌集編纂には他人は介入すべきでないと思っているがそれはまた別な問題なので別に書く。松木氏は、ご自分の歌集が荻原裕幸氏のプロデュースであることを例にあげ、歌集プロデュースを悪しざまに言うべきでない(という意味だと思う)とおっしゃっているが、しかし、松木氏の歌集のどこに、「荻原裕幸プロデュース」と書いてあったり、宣伝されたりしておるのであるか。少なくとも僕は知らん。これは歌人としての荻原氏や氏のネームバリューを馬鹿にして言っているのではないが、加藤治郎プロデュース、と銘打ったときのそれと荻原氏のそれとでは根本的に社会的意味が違うのである。
 まずもって、歌集において、プロデューサー名を前面に押し出す、ということがそもそもそぐわない。なぜなら、人が短歌に求めるものは、他人の手の加わらない赤裸々な真情の吐露であって、そこに本人以外の決めたコンセプトなど見えたりすれば鑑賞の邪魔である。加藤氏は、なにか勘違いしとるのではないか。俺なんか、「加藤治郎プロデュース」と聞いただけで「あーまたあの手かいな」と思って、逆に食欲減退もはなはだしいし、実はそういう読者がかなりいると思う。これがもしもですな、岡部桂一郎プロデュース、あるいは浜田康敬プロデュースと銘打って若手歌人の歌集が出たら俺はびっくらこいて書店に走る。なぜなら、今例にあげた二人は、派閥を持たない孤高の歌人だからである。加藤治郎がプロデュースするなんて、つんくとその崇拝者で作ったモー娘。みたいな気色わるい組み合わせ以外考えられないではないか。だから、「加藤治郎プロデュース」と銘打っても、なんら読者へのインパクトや求心力や売りがないのである。「短歌研究」誌上の座談会で、新人賞受賞歴のあるとある若手女流歌人が「加藤先生」と加藤先生のことをお呼びになられておって、俺は「駄目だこいつは」と思ったのである。ちなみに、この座談会もじっつにくだらんかったが、誰か読んだ?
 角川「短歌」の企画する座談会は、対立によって読者に短歌の可能性を示唆するという面白さがあるが、今月の「短歌研究」のそれは、加藤王国を推し立てるためのマンセーなマスゲームと同様であると俺は断言する。つまらん雑誌だ。
 このたび創刊された「新彗星」は、そうしたマンセーなかたがたを満足させているだけでは伸びない。単なる内輪のコロニー受けに終わってしまい、歌壇や、歌人になんのインパクトももたらさないであろう。こう言ってはなんだが、最初に「玲瑯」を読んだときのうざーな感じに近い(ただし最近、玲瑯も、邦雄ちゃんのエピゴーネンを脱したバラエティに富んだ歌が見られるとフォローしておく)。加藤治郎氏は、塚本邦雄みたいな短歌カリスマを目指してるのかなあ。だとしたら、はっきり言って、「それは無理」。なぜかと言うと、格も教養も実力も文学者としての気品も、まったく及ばないどころかない等しいからである。だいたい歌壇は、加藤治郎の垂れ流してきた歌に対して、なんの批判も残酷な洗礼も加えていない、というのがまさにヘタレの証である。加藤短歌が嫌いなくせに、この日記を読んで陰で溜飲下げてるだけでなくて、おまえら書けよな、堂々と!私は、加藤治郎氏が、ここまで歌壇でのし上ってきた、それを許してきた、そんな歌壇に対して、激しい侮蔑の念をおぼえるものである。反省しる!(つづく)
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:52| Comment(4) | TrackBack(0) | 日記

2008年07月28日

1106 プロデューサーの使命とは

 最近、「短歌時評」を読んでいると、やたらと歌集の「プロデュース」という言葉が目につく。そのプロデューサーなるものが何者かというとまず加藤治郎、穂村弘。この二人が、プロデュースという言葉をどういう文脈で使っているか知らないが、俺の考えるプロデュースの定義というのはこうだ。
 まず、当たり前の話だが、歌集出版に当たって作者には一銭も身銭を切らせない。費用は出版社あるいは、プロデューサーが負担する。そして、プロデュースする場合の要は、売れる歌集を作る、ということである。決してそれは、「こげな若い歌人様をオレ様が後押ししてやってんのよ」というタイアップ行為ではないはずだ。後押しというのは、具体的に言って、アーティスト本人がゼニを出す必要はない、ということを言う。それが本来の意味でのプロデューサー制度だ。自分のプロデューサーとしての名前をひけびらかすために、コピー歌人を作る作業でもない。要するにプロデューサーというのは、「これはいい、売れる」思った素材を見つけ、プッシュし、世に出す仕事なのだ。加藤・穂村がどういうつもりでプロデューサーと称しているか知らないが、売名行為として、自分の派閥に有用な歌人をプッシュするのではなく、全く異質とも言える、売れると思ったアーティストを世に出すことに、プロデューサーの意義があるのだ。たとえば加藤がおそらく高く買い、プッシュもしているであろう「溝さらい」おっと間違えた、「人さらい」の笹井宏之にしたところが、加藤本人の自意識過剰短歌(たいした自意識でもねえくせに)の再生産であり、だいいち、プロデュースと銘打つには、あまりにもコマーシャル的に弱すぎる。ありていに言って買うのは彗星中の連中だろう。売れないものを出すのはプロデューサーとして失格である。芸能界で言えば、つんくとモー娘。みたいに売れたらいいのかというと、それは売れたらいいのではあるが、モー娘。からは、もしも短歌の世界であれば不可欠な独自性や強烈な個というものがあらかじめ取り除かれている。でもまあまだ売れたからまだいいよな。そういう意味では、実質佐々木幸綱のプッシュで世に出た「サラダ記念日」は、佐々木氏が自分とまったく異なる世界を世に送り出した、という点で、正しいプロデュース活動である。俺が編集者であったとしても、好き嫌いは別として、この歌集は売れると判断し、勝負に出たと思う。僕はそういう意味で、「プロデューサー」佐々木幸綱氏の、時代を見る目というものを今でも尊敬している。
 加藤、穂村よ、あんたら、プロデュースと偉そうに言ってるけど、そう銘打つほど売れる歌集出せんの?はなはだ疑問だ。加藤氏はむしろ、私の第一歌集「安輝素」をプロデュースしたほうが、よほど話題になって売れる可能性があるぜ(爆)。まあ、私の読者数から見て、5000部はいくだろうな。あまりのミスマッチに、世界は吉本の舞台となり、みんなひっくりかえって怖いもの見たさで買うのである。プロデューサーというのは、そういう、180度方向転換した視点が必要なのである。加藤や穂村の称する「プロデュース」からは、他の歌人を世に出してやりたい、という短歌への愛がそもそも感じられない。企画選考の、内実の伴わない、安っぽさだけが漂ってくる。加藤治郎は、塚本邦雄のように、崇拝者だけで周りを固めたいのだろうか。僕は、塚本氏はむしろ、多様な歌人と交わりたかったと思うが、あいにく耽美派のいく場所が「れいろー」(字が出ねえ)しかなかったので心ならずも祭り上げられ神格化されてしまったのだろうと思っているが、加藤は、生きながら神格化されたいという欲望がぎんぎんぎらぎらである。はっきり言って、塚本と加藤では格が違いすぎる。比較するも失礼である。とにかく、加藤、穂村プロデュース、という言葉には文学的純粋性がはなはだ欠けており、自分のコピー歌人を再生産することによって、権力の拡大をはかりたいという意図が見え見えである。加藤、穂村よ。佐々木幸綱氏を見習え。そして、やるんだったら俺の歌集をプロデュースしなさい。あまりの落差のすごさに売れまっせ。なんせ、プロデューサーというのは、売れることを第一に考えるべきポジションであるによって。

      今日の一首

行楽のあめのしづくは後楽園人工芝の針にすべるか 小池光
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:59| Comment(3) | TrackBack(0) | 日記

1105 明日なき暴走

 以前、新藤兼人監督の映画、「墨東綺譚」で、主人公永井荷風の孤独死とその死体がリアルに描かれていた。血を吐いて横たわる荷風の横には、店屋もののどんぶりばちが置かれていた。当時、バカな映画評論家が、「無残な死」と表していたが、僕はまったくそうは思わなかった。永井荷風のそれほど、理想的な生き方はないと思う。また、その死に様も見事だ。空のどんぶり、というのが孤独死のアクセサリーとなって、いたいたしい、というより、この野郎好き勝手に生きやがって、という羨望のシンボルとして僕には映った。
 これからは、一人暮らしの世帯が圧倒的に多くなるだろう。これは分かる。だって、俺だって、妻が先に逝けば一人暮らしになるのだ。その覚悟はすでにできている。都会での孤独死を不幸の象徴のように言うが、果たしてそうか。病室で、家族や医者の勝手な意向で管だらけにされ生きるも死ぬもかなわず、ただ呼吸させられる肉の塊とされた存在が人間と言えるか。その状態を嫌い、息子とも孫とも交流を断ち、倒れたら死ぬ覚悟で一人暮らしを選ぶ老人、いな、くたばりぞこないが主流となって行くだろう。79の男が69の女に惚れて、82の男と庖丁で決闘して相手をぶち殺す、なんてことは老人ホームですでに起きているそうだが、そんな話が老人ホームを離れ、日常の社会で起きるようになるだろう。無軌道な若者ならぬ無軌道な老人の「明日なき暴走」である。こっちのほうが、現実に明日がないだけに強い。ブルース・スプリングスティーンの「明日なき暴走」はまさに若者の心情の吐露だったが、近い将来それは、老人のそれになるのは間違いない(笑)。僕は、その結果到来するのは、面白い時代だと思っている。不良老人の増加だ。まさに、わたくしなどはその典型になるだろう。「ちょい悪オヤジ」ならぬ、「極悪じじい」が跳梁跋扈するのである。私は、二十年後三十年後まだ生きていれば、老人を糞味噌に詠った歌を「塔」「短歌人」(この二結社は生き延びていくだろう)に発表する所存である。若手歌人?んなもなあ、加藤治郎の「新彗星」なんぞに収められて、矮小な自己陶酔にひたっておるがよろしい。歌壇にも社会にもなんの影響力もない。今からは、老人の歌こそが面白くなっていくのである。

      今日の一首

百歳の父が危篤 状態から生き返った時の子らの表情 青木静子
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2008年07月26日

1104 森澤真理評論「長い老後のための短歌」を読んで

 「短歌人」8月号掲載の評論、「長い老後のための短歌」(森澤真理)が面白かった。森澤さんは、「日本における年間の自殺者が3万人」というデータと、「100歳以上も3万人」というデータを暗示的な符合と捕えているが、面白い視点だ。
 話が突然ドタバタの方面に行って恐縮だが、筒井康隆の比較的早期の作品に「アルファルファ作戦」というものがある。アルファルファ、というのは今でこそサラダ素材として一般的だが、当時はそのネーミングの面白さからまさか実在する野菜と思わなかったが、人間が100歳200歳生きるのが当たり前の社会になってからのドタバタを描いたものである。筒井康隆はこのテーマがよほど好きらしく、不良化し暇をもてあました老人たちの暴走を繰り返し小説に書いている。そして近年、筒井の懸念(?)が現実化しつつあるのは皆さんご存知の通りだ。
 それと同時に、医療や介護の現場では、医学的な意味でないとんでもない人権無視が行われている。つまり、老人を一個の人間として見ず、「おじいちゃん」「おばあちゃん」などと呼び、彼らに火炎瓶をほん投げたこともある熱血な精神があることなど想像もしない、目に見えない精神的虐待である。これは想像で言ってるんではなく、「ボケさせないために」と老人ホームで行われている「お遊戯」をなにかの番組でみて私は戦慄した。まさに幼稚園のお遊戯であり、あれはボケを促進して老人を排除しようという陰謀ではないかと思ってしまったくらいだ。
 老後を生きるとはまさに、現代においては地獄である。僕の知り合いに、母親を介護している人がいるが、便秘の母親の肛門に指を突っ込み、便をかき出すこともあるという。このお母さんは、頭ははっきりしているだけに、その心の地獄を思って慄然とする。僕はいっそ、そんな母親をだらだら生かし続けてるのは、年金をピンハネしたいからじゃないか?と邪推してしまうくらいである。僕が胃潰瘍で入院している時、リハビリ中、老人病棟をのぞいたりもしたが、ただ口を開け、管だらけのスパゲッティ状態のミイラが転がってるだけであった。こういうのを、平均寿命にカウントするのは欺瞞である。
 斎藤史のこの二首がいい。

老(おい)不気味 わがははそはが人間(ひと)以下のえたいの知れぬものとなりゆく 斎藤史
我を生みしはこの鳥骸のごときものかさればよ生(あ)れしことに涙す 同

 有名な歌らしいが、僕は初見だった。老いや介護を真摯に詠うというのはこういうことだと思う。ビスコンティの映画「ベニスに死す」に、主人公アッシェンバッハのシニカルな芸術仲間の言う台詞にこういうのがある。「君は老いた。老いほど不純なものはない」。そう、老いは疑いもなく醜悪なものであり、そこに価値を見出そうとしても欺瞞なだけである。われわれは醜悪の門から入って虫けらの死を迎えることを覚悟すべきだ。そうした時はじめて詩的真実が生まれる。それでなくても、長生きをすることになんの誇りも持てない時代がもう訪れているのだ。
 現歌壇においては、老いや介護の歌にはまだまだ綺麗ごとの歌が多すぎる。老いが重要なテーマになり、綺麗ごとを言っていられなくなってからが面白いと僕は思っている。そして、実は、若手歌人などどうでもいいのだ。中高年の歌人こそ大事にしなくてはいけないのだ。なぜなら、この逆ピラミッド型を形成するわが国の人口比率において、中高老年層の厚さは圧倒的であり、彼らを取り込むことすら大事なのである。子供が成長して親を養う、という構図が壊れ、親が職なし宿なしの子供を養う、という構造になっているらしいが、僕に言わせれば当たり前のことである。文句を言うな。
 「新彗星」? あんな自己陶酔閉鎖短歌は笑って読み過ごすべきであって、現代短歌には真の影響はまったくないだろう。「老いと死」、これこそが現代短歌の重要なテーマである。昔もそうだったが、昔は老いも死も早く来たからのテーマ性であり、今後は、無限に延長された生き地獄としてのテーマ性に変わっていくだろう。100近いどこぞの医者の耳ざわりのいいたわごとが売れているようだが、んなもなあ嘘である。俺が言うんだから間違いない。
 オマエら、綺麗ごとを詠うなよな。
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2008年07月24日

1103 「塔」7月号「陽の当たらない名歌選」2〜長寿とは地獄〜

 赤丸歌、池本欄、154首。小林欄、171首。三井欄若葉集、110首。計、435首。
 「塔」7月号、赤丸歌、総数941首。

      「塔」7月号「陽の当たらない名歌選」2

長寿とは地獄の事と広辞苑第七版にきっと載る筈 大鋸甚勇気

城跡の桜に吸われてゆく列をはずれて小さなメガネ屋に入る 宇梶晶子

帰るべき故郷(くに)あらざればバス停に案山子のごとく夕焼けを見る 関野裕之

人らみな刃物秘め持つ思いして夕べ吊革に身を硬くせり 坂下幸子

抱き合った確かさだけがリアルだった。今の僕には何も残らぬ 満吉敬太

抱きしめた姪っ子から陽の匂い 私は春を抱いているんだ 鈴木 聞

轢きそうになりて叫ぶを聞き居るや春立つ風に舞う燕(つばくらめ) 山下黎子
(「燕」の読みは私が恣意的につけたもので原典にはありません)

それぞれを持ちゐるドアのノブ握るてのひら持ちて旧友(とも)ら散りゆく 室谷香奈恵

「母さんのゆめは歌集を出すことです」八歳の子の日記に見たり 龍田裕子

張りつめた空気に風を送るのか 河野裕子が扇子をひらく 龍田裕子

十字路をしずかに曲がるばんそうこうみたいな色の神奈中のバス 上澄 眠

山桜吹雪の如く散りかかるわれに触れくるものの久しき 大畑敏子

聾唖とは差別無縁の言葉なり響きの重さ心して聞け 常願路哲満

    (子は漫画家)
「連載をつひに貰つた」子の電話夫にしづかに受話器を渡す 助野貴美子

団塊の夫婦の横で食事食む肩が重そう一人息子が 千種 満

死ぬことはこの花にもう会えぬこと枝垂れ桜の内に立ちつくす 畑 久美子

楽屋裏に白粉を落とすダンサーの思ひがけなく低き背の丈 本田光湖

先を行く君の頭の影を踏む 怒り鎮まるまでの時間 市 美穂

『独裁者』観つつ寝入ってしまいたる吾子は学校はどんな所か 大田 愛

娘からのプレゼントだよと言う嘘に気付きぬ夫の誕生日だと 数又みはる

俯して身構へ逝きし兵ならむ軍靴の底は空に対(むか)ひて 加藤傳治

大根をでえこんと言う祖母といた慎ましやかに朗らかな日々 吉川敬子

飛鳥山斜面に座せば花びらは箱弁当の空埋めてゆく 黒沢弘子

泥亀の首はどれほど伸びるらむ我慢我慢と首縮めゐて 進藤サダ子

帰りにもバスはここから出ますかと確かめて降りるネクタイのひと 永田 愛

東京は桜満開≠ヨ返信す猛吹雪のけふ辞令もらへりと 西内絹枝

映写機の孤光灯はぜ散っていた「文芸座」には夜明けが似合う 能登 鳶

満開の桜の土手を歩むとき女系家族の真ん中にゐる 尾崎知子

 今日の二首選。

長寿とは地獄の事と広辞苑第七版にきっと載る筈 大鋸甚勇気

 やっとこういう、まともなことを詠う歌が出てきたかと、大変満足である。昭和三十年代以降の、第一次テレビっ子世界が老境を迎えるときには、周りはもう老人だらけであろう。要するに私の世代だ。テレビのワイドショーでは、うめぼしばばあにマイクをつきつけ、「おいくつですか?」「ひゃふはひ(108)でふう」とか無理矢理言わせ、「んまあ長生きですねえ」と拍手したりしているが、俺が老人になる頃には、「100歳?いつまで生きるつもりだとっとと死ねボケ」というのが社会的コンセンサスとなるだろう。今だってみんなそう思っているだろうが、それが公言できる社会が来ると僕は思う。今だって、「老人は死ね」と言うに等しい政策がまかり通っているが、これがなかなか、政治家の望み通りに死なんのである。この歌の、「広辞苑第七版」というのが面白い。要するにああいう辞書というのは、編集が大変なので何年にいっぺんしか新版が出ないが、次の版が出るころにはそうしたディスとピアが到来しておるであろうと。現在のところ、まだまだ歌壇には高齢者に関して綺麗事の歌が多いが、今後はそうはいかんと思う。日本は、若者と老人が生きづらいという素晴らしい国だ。この歌は、そうした状況下に生まれるべくして生まれたシニカルな歌だと思う。

団塊の夫婦の横で食事食む肩が重そう一人息子が 千種 満

 これも、上の歌に呼応した歌である。今から、この老い人たちを、嫁のき手のないあるいは嫁ぎ先もない娘たちが見ていかなくてはいけない。延命治療の費用は莫大なものがある。僕は、もう治らない病だとわかれば殺してくれと医者に頼むだろう。日本の法律でそれが許されないのならば、それこそ法を改正すべきだ。いい歌だと思う。老いの歌は単純にはいかない。この2首には、考えさせるエネルギーがある。
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

1102 大いなる墓標

 今日また、東京の新名所を発見した。なんのことはない、近所のマクドナルドの喫煙コーナーである。僕は冷房のきいた場所で歌集を読むのを楽しみとしている。最近改装なったマックの3階席の窓際から外を見てうっとりした。あの、鈍色にそびえたつ「軍艦マンション」が、いつも見上げるばかりなのに、眼前に眺望されるのである。この、第二次大戦の負の遺産とも言える異常な建造物は、新宿という生きながら廃墟たる街の象徴としてそびえたっているのではないかと思った。なんせ、本物の軍艦乗りで死にぞこないの建築家が往時をしのんで設計したというのだから。真夏に見たら、靖国どころではない、それは銀灰色にそびえたつ、あまたの海底に今も溶けゆく英霊の怨念と嘲笑のみごとなモニュメントである。少なくとも、海で死んだ兵隊は靖国神社なんぞじゃなく軍艦マンションで同窓会をやるがよろしい。この辺りがいかにおしゃれなシティホテルを建て、副都心線を通そうが、しょせんは軍艦マンションと戸山団地、コリアンタウン(犬鍋の店あり)を有する、いい〜具合に瘴気に満ちたダウナーな場所であるという事実は動かせない。墓場のごとき建物はばんばん建つが、軍艦マンションの栄えある不吉さにはまったく及ばない。かえって、あの不気味さを強調する結果となっている。入居者はほとんどいないそうだが、あれを壊すというのはまず場所的にも無理だろう。軍艦マンションを見ずして東京を語るなかれ。新宿を語るなかれ。
 窓から下を見下ろすと、当然のようにたくさんの人が歩いているが、新宿の街に似合う服装は、よれよれのTシャツと色褪せたジーパンで歩くことだろう。私そのものである。新宿に、私の知り合いは誰一人としていない。それが幸せだ。そして毎日、軍艦マンションを見つめるのだ。飽きない。

酷熱に都市は黒ぐろ陽炎ひてただあてどなき象の行軍 黒田英雄
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2008年07月21日

1101 「新彗星」私こそが真の読者

 加藤治郎選歌欄・「彗星集」のメンバーにより、歌誌「新彗星」が刊行されたそうだ。僕は以前この日記で、「彗星集」は、「未来」という大きな傘の中に隠れているのではなく、堂々と独立して、みずからの主張を歌壇に向けて発信するがよいと言っていた。だってそうだろう、たとえば、「未来」の、大島史洋選歌欄「青羅集」や、稲葉峯子欄「夕麗」などに取り上げられる歌人や歌と、加藤とその配下に、共通の短歌観や短歌技法があるとはとても思えないのである。ヘテロ(多様性)という意味ではいいのかもしれないが、それにしても乖離がはなはだしすぎる。僕は、加藤系の一派が独立して本を出したことはいいことだと思う。この日記で、加藤批判をやっていてちょっと驚いたことがある。僕はたぶん、くそみそに攻撃を受けるだろうと思っていた。ところが、である。反応を見る限りでは、実は歌壇には加藤嫌いが相当いる。
 彗星集の連中は、もっとシビアな批判にさらされるべきだろう。自分たちが最先端で、歌壇の花と持ち上げられて、若者の歌のリーダーになってると思ったら大間違いで、本当はキミタチの歌をいいと思って読んでるのはキミタチ本人だけなのである。これは、新人賞選者、とくに「短歌研究」のそれに大いに問題がある。最近は、加藤系をヨイショするような座談会をやっているが、読む者にはなんのインパクトもない。だいたいこの雑誌は、誌面が古色蒼然としているくせに、やたらと軟弱で貧血で無内容な加藤系短歌を称揚するのである。いったい、どういう雑誌であるのか。
 「短歌研究」には、寺山修司や中城ふみ子を見出した、という自負があるのかしれんが、それはすべて当時の名物編集長中井英夫の独断専横の結果である。この雑誌は、中井の遺産で食ってきたようなもので、僕が短歌を始めてからこっちの誌面や新人賞選考過程を見る限りでは、すぐれた歌人を発見する機能において、この雑誌は存在価値を無くしていると言って過言ではない。加藤系を取り上げていかにも「私たちは若くてイキなんですよ」と気取る前に、そのドブネズミ色の表紙とだっせえ見出し、レイアウト、古臭い版組み、講談社の倉庫から借りてきた「世界の風景」をただ置いただけの写真、そういうとこからなんとかしたらどうだ。
 とにかく、俺に言わせれば、加藤系の歌というのは甘ったるい。だいたいボスの貴方自身が、「あなたの夢に入りたい」などと、70年代フォークの雑なコピーみたいな代物を短歌と称してぬけぬけと人前にさらしているのである。藤原龍一郎氏の言葉を借りれば、「俗情」以外の何者でもない。こういうフレーズを愛の言葉と思う女をバカ女という。ただ、じゃあ「彗星集」が隅から隅までダメかというとそんなことはない。びっくりするようないい歌もかなりある。とにかく、彼らは、批判にさらされなくてはダメだ。批判を受けてこそ、彼らの価値というものが浮き上がってくるだろう。ところが、歌壇もヘタレであるのである。内心加藤やその系統を嫌ってるくせに、なーんも公に言わないのである。もう、どうしようもないね。しょうがない、このブログで、孤軍奮闘するしかないのである。おまいら、反省しろよ。
 何度も言うが、歌壇は批判し合うことが大事だ。その切磋琢磨の中でこそ歌は磨かれるのであり、歌人の個性というものも浮かび上がってくるのであろう。ところでどなたか。この「新彗星」を送ってきなさい。歌壇は誰も言わないだろうけれど、私が批判してさしあげよう。
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:35| Comment(4) | TrackBack(0) | 日記

1100 「塔」7月号「読みをめぐって」を読んで〜気分で歌を詠むな。〜

 「塔」7月号特集「読みをめぐって」を興味深く読む。特集の主旨はわかるものの、僕には疑問が残った。それは、5首取り上げられているのだが、1首をのぞいて、あまりいいと思える歌がなかったからだ。もちろん、評者の言うことは興味深く読んだ。それでも「なんでわざわざこの5首なんだ?」という違和感はぬぐえない。面白いのは、まず大島史洋氏が歌を検察側告発とばかり批判してみせ、それに三人の評者が弁護側弁論のように猛反撃するという構図で、これでは大島氏、ありていに言ってバカみたいである。よって私は、検察側の証人として、大島検事官の後押しすべく、ある一首に徹底批判を加えたいと思う。

一生に一度ひらくという窓のむこう あなたは靴をそろえる 笹井宏之

 この歌から、素直に感銘を受ける人がいるとしたら、それは、気分のまま表現をだだ漏れさせることと、真情の吐露との区別のつかない、鑑賞に不自由な人である。上句と下句の断絶、そのこと自体はいい。それが絶妙なバランスをもって結びつくとき、ありえない連想が大きな感動を生むことはよくある。んが、掲出歌は、一見「断絶と連想」を詠い上げているように見せかけてどこにも飛躍がない。「断絶と連想」には、実は、逃れようのない括弧たる連想の筋道が読み取れるものであり、作者はむしろ歌に対する責任を重く負うことになるのに、この歌にはそんな覚悟も美意識も歌と心中してやるみたいな開き直りもなにひとつない。「一生にいちどひらくという窓」から、死や自殺を連想させる下句に飛躍させているつもりだろうがてんで飛躍になってない。しかも、そう言われたら作者は「別に死のことを詠ったわけじゃないですよーん」と逃げが打てるような作りである。「そこ想像におまかせしまーす」とかなんとか言ってな。しかし、どう想像を働かせようと沸いてくるのは陳腐なイメージばかりだし、そもそもこんな寝言に対して想像力を働かしてやる義理はこっちにない。一読してはいさよなら、な歌である。同じ抽象詠でも、僕の心に引っかかっているものにこういうのがある。

黄葉の散りて小暗し帽子ぬぐ兵士のように暮れゆく窓は 山下 泉

 この歌の解釈もいろいろありうるだろう。ただ、作者は、「帽子ぬぐ兵士のように」という独特な比喩を使うことにより、自分の感じたことをきちんと限定している。「想像におまかせ」などという逃げを打っていないのである。歌を詠むということは、解釈される以前に、みずからの中に具体的なイメージを持つということだ。その上で、どう解釈するかは読み手の自由である。笹井の掲出歌は、ひと山いくらのニューミュージックをだらだら流してるような陳腐さと、ありふれていることに開き直って気取った「気分」だけに乗って作ったものである。危機感めいたものを表現しているつもりかもしれないが、一読してその危機感は偽物である。だいたい、「靴をそろえる」から死を連想させようとするのが陳腐の極みであり、「んなつもりはありませんよお」とか当人がぬかすのであれば、それこそ逃げであり表現の怠慢である。
 笹井が、誰の影響を受けているかは一目瞭然、K藤J郎だろう。私が短歌をやり始めたころはこの手の歌が跋扈しておりしかも新人賞まで貰っていて、私は歌壇というものを心から軽蔑したものである。今後、このような歌に賞を与える選者がいたとすれば、俺はこの日記でその選者を地獄の底に叩き落とす所存である。さすがに最近は新人賞もようやくまともになってきた。僕は、短歌というのは「具体」であると思っている。三十一文字の世界に、どう具体を叩きこむかが勝負だ。それも、オリジナリティに満ちた具体をである。笹井みたいな、K藤系の気分の歌は絶対許さない。
 なお、笹井の歌にはこういうのもあるそうである。

つきつめてゆけばあなたがドアノブであることを認めざるをえない   笹井宏之

 しょ、諸君。本当にキミタチは、この歌をイイと思うのか!?気分を垂れ流しているだけでなーんにも描いていない、まさに、K藤系の連中が喜ぶような優秀歌であろう。こいつらは、俺にとって敵だ。なお、この歌のダメさ加減を知らしめるために、同じ「ノブ」ネタでの秀歌を引用したいと思う。

たくさんのノブが光れる夜の廊下ノブだったのだ君の寡黙は 河野裕子

 この2首を並べて、なおも笹井の歌がいいという人がいたら、頼むから短歌はやめてくれ。K藤系の皆さん、今後も私を怒らせてください。また、K藤系の歌をホメる歌人は、有名無名を問わず、ただじゃすまさんけんね♪
 なお、「塔」特集中、私が唯一いいと思ったのは次の歌である。

岩国の一膳飯屋の扇風器まわりておるかわれは行かぬを 岡部桂一郎
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:32| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

2008年07月19日

1099 爆!湯あがりの妻〜三十一文字の持つ引力〜

 短歌とは、本当に面白い文学だ。たかが三十一文字で、絶妙のドラマを作り出すのだ。今回は、面白さについて考えてみたい。

暮らすとは断ずることと思うとき裸でよぎる湯あがりの妻 荒津憲夫

 こんなに笑わせてもらった歌は久々である。この歌は凄い。まず、上句が非常に哲学的だ。作者は作者なりに、みずからの暮らしの思想というものを決意したのであろう。しかしその途端目の前を通過する、風呂上がりの思想もくそもない妻の裸という現実を見て、ハラホロヒレハレのクレージーキャッツ状態に陥ってしまったのである。哲学よりも、現実の肉体のほうが生々しく、身も蓋もないのである。裸でよぎる、という表現が絶妙だね。家庭では、年をとればとるほど、妻の力がどんどん強くなっていく。男の哲学など、木っ端微塵に粉砕されるのだ。よくも悪くも、これは日本の家族を象徴しているシーンだと思う。およそアメリカ映画やアメリカの小説で、まっぱだかで夫の目などなきがごときにどたどた歩く女性など見たためしがない。上句と下句の落差が物凄くて笑える歌だ。

痛いかもしれないけれどごめんねと川本千栄似の女医に言わるる 岡本幸緒

 読んだままの歌だが、これを歌の題材とした作者のセンスがすばらしい。確かに、川本千栄さんは白衣が似合いそうだし、上句の台詞がまた似合いそうな感じがするのである。川本千栄という名前を出したところに作者の瞬時のひらめきを感じる。僕には、面白い歌に思えた。物真似番組を見て笑ってるのと同じ心理だが、それは人間として自然な感情であり、それを歌に詠んだことが重要なのだと僕は思う。

折々に思い出すのは小六の恩師が書きし情緒のない子 新倉由美子

 ひでえ教師もいたもんである(笑)。俺は、「一人だけ特別扱いするわけにいかないからね」と、個性的な生徒を排除したうえでの平等を旨とする野郎など教師の名に値しないと思っている。ありていに言えば、大多数の畜群には畜群向けのあしらいをして、個性的な子はこっそり隅に呼んできちんと特別扱いをする、それが正しい教師である。「世界でたった一つの花」である人間は確かにいるがそれはきわめてまれな存在であり、まれな存在は特別扱いされる資格があるのである。この教師のぬかす「情緒」なるものは、どうせ世渡りのうまいガキが大人向けに捏造したいつわりの活発さとかそういうもので、てめえが理解できない感情世界を持った子供に対処できない無策無能な馬鹿教師の姿を、「恩師」という言葉の強烈な皮肉がくっきりと浮かび上がらせている。それにしても文部省は、「人を見る目が完全に欠落したやつ」を選んで採用しとるんではないだろうか。

つぎの世もいっしょだねなどしらふで言う夫にはひとりのさびしさ似合う 上條節子

 まさに、上條節炸裂の歌だ。上の句、気色わりいいいいいいいいいい!!!!俺、こんなことしらふはおろか、酔っ払って言ってもこんな男は信用しない。だいたいなー、「つぎの世」などを望む男は現世が幸せでないんである!この、夫に対する作者の距離感というものが、下句にばっちりこめられている。上條さんは、偽善的なものを厳然と拒否する作風を持った歌人である。自分の夫をここまで冷然とした目で見る観点もすごいが、しかしなんだってこんなしょーもない男と結婚したのであろうか!?もしもこのカップルが飲み屋で隣にいたら、俺は即座に女性に対して「こんなくっだらねえ男とは別れなさい!今別れろすぐ別れろ」と言うであろう。まさに、加藤治郎の歌に出てくる男の気色わるさである。

 面白い歌をピックアップしてきたので、最後にリアルな歌を紹介する。

田仕事の疲れ吐くごと呼吸する妻の蒲団が楕円に動く 郡山紀男

 これは、結句が素晴らしい。妻の呼吸が動かす蒲団のその動きが楕円だという。いかに、昼間の労働がきついかということを見事に表わしているし、それを見守る作者の、妻に対する愛情をつくづく感じる。上の歌の馬鹿亭主とはえらい違いである。郡山氏は地味な歌人だが、アララギの伝統というものをきちんと受け継いだいい歌を毎月発表されている。僕は、襟を正す思いで毎月読ませていただいております。

 今号は、「塔」には珍しく、ユーモラスな歌が多かった。選者が決して選ばないこれらの歌を、僕はピックアップしていきたいと思う。と、ほめちぎった後で、「塔」7月号、「特集・読みをめぐって」を読む。明日は久々に、私得意の批判大会をぶちかまそうと思う。
 「アメリカン・グラフィティ」のことを数日前日記に書いたが、日本経済新聞7月18日「春秋」欄でも取り上げられていた。さすが日経である。今、新聞は日経が一番面白い。
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2008年07月17日

1098 「塔」7月号、陽の当たらない名歌選その1

 今月赤丸歌。花山欄作品1、102首。栗木欄作品1、91首。真中欄、162首。吉川欄、151首。計、506首。

      「塔」7月号、陽の当たらない名歌選その1

暮らすとは断ずることと思うとき裸でよぎる湯あがりの妻 荒津憲夫

田仕事の疲れ吐くごと呼吸する妻の蒲団が楕円に動く 郡山紀男

アホのふりはアホには出来んとメモ残し子は今日も又バイトに精出す 小山美保子

みづからの腰を枕にねむるなりこの麒麟は長女かもしれぬ 佐竹永衣

この人といると何やらこの人の姉のようなる気になりてゆく 芦田美香

不思議なり振り込め詐欺の被害者のむすめいもうとおばは稀なり 尾崎智美

図書館の歌集にメモは挟まれて佐賀の住所と百合子という名 加藤都志惠

卒園歌「思ひ出のアルバム」は児じやなくて大方の母が泣き乍ら唄ふ 河内幸子

傍らに入れろ!入った!の大歓声聞きつつ読みゐる作歌のヒント 鈴木美代子

身長と傘の長さが釣り合わぬそんな疲れを夫は解さず 秋葉葉子

塔のある街に住みたしゆうぐれを美しくする尖塔が欲し 秋葉葉子

犬飼うに比すれば容易きことにして子の年金を払い続ける 小川康男

草木(そうもく)の名を知ることの何ならむ春闌くる日にしばし思ふも 溝川清久

ヒキガヘルを話題にしつつをかしみを言ひつついつしかかなしくなりぬ 後藤悦良

咲き満ちし花見に騒ぐ老どちの何を恐るる高く唄ひて 廣 鶴雄

つぎの世もいっしょだねなどしらふで言う夫にはひとりのさびしさ似合う 上條節子
 
うしろより人来る気配の重たさに振り向けばわが黒きかげなり 大内奈々

痛いかもしれないけれどごめんねと川本千栄似の女医に言わるる 岡本幸緒

肌ちかく寄れば微かに猫にほふけものの臭ひは獣のこころ 毛利さち子

内側から急須の注ぎ口の穴を見る どこにも続いていない暗さ 吉田淳美

花いちまい甲羅に貼りたる亀ふいに濠へ潜れば花のみの浮く 沼尻つた子

男とはこんなに元気に怒鳴りあうものなり事務長の乱がはじまる 石井久美子

いもうとの死を俳句では詠めませぬとめどなく湧く涙そのほか 石田和子

関ヶ原の戦からたかが四百年とある日気付けり皿洗ひつつ 高松恵美子

折々に思い出すのは小六の恩師が書きし情緒のない子 新倉由美子

ここまでも人は堕ちるか寝巻乱し四つん這ひにて彷徨(さまよ)ふ母は 松本多美男

渡り行くムラサキマダラ群れなせばもう美しいとは思えない蝶 渡辺久美子

善と悪の貌を知りたる二面石いずれと分かず風化の果てに 阪上民江

まっすぐに伸びてまっすぐ消えてゆく工場のサイレンに迷いなし 深尾和彦

早撮りの清水が愛しし天城の景有りがたうさん≠ニつぶやき越える 黒田英雄

 なお、最後の佳歌は、文法上のミスがありましたので、推敲して掲載いたしました。ちなみに、清水とは映画監督の清水宏のことである。
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2008年07月16日

1097 70年代のアメリカン・グラフィティ〜元祖フリーター〜

 最近の若者による、車の購買率や酒の消費量が減っているという。後者はともかく、前者は非常にまともなことだと思う。僕が学生だった1975年前後は、若者文化の主役と言えば車だった。田舎の友人も、大学のあった街の地元の友人も、自家用車を持っているのが当たり前だった。当時、ジョージ・ルーカスの「アメリカングラフィティ」がヒットしていた。これは、60年代の若者群像を描いた作品だったが、十年遅れて日本に来るんだなあ、とつくづく思ったものだ。僕自身は、父が運転中の事故で死んだという血統的恐怖から、自分では絶対運転すまいと思っている。免許を取れば親戚がくれるはずだったコスモスポーツ、友人が「千円払うから運転さしてくれ!」と言った気持ちがさっぱりわからん。どうやら、クルマ好きにとって、クルマというのは、個性や感情を兼ね備えた存在で、ひとつの生き方であり思想でもあるらしいのだが、どうでもええわ。つまり、僕の青春時代、若者文化を代表するものはクルマであったのだ。一方で若者は、「旅の重さ」とか「俺たちのなんとやら」とか、貧乏と、フォークソングみたいな旅立ちに憧れていた。ルンペン旅行なんてはやったもんな。つまり、駅のホームで新聞紙を敷いて寝るような旅である。俺もやった。マークUを運転しながらマルクスを語る友人もいたし、ナップザックひとつで南九州を一周してきた友人もいた。今考えたら、八十年代のバブルを笑えないような、高度成長期の能天気な青春像だった。
 今の若者はシビアな状況下に置かれている。それは、クルマがあったとしても、それによって征服される「外部」がもうどこにもないからである。ただ、僕のメンタリティは、七十年代の青年より、現代の若者のそれに近いと思っている。僕はある種、現代の若者の先駆けだったのではないかと自負している。引きこもり。私は小学校二年生まで引きこもっていた。また、大学時代から、就職とか結婚とか将来の設計とかいうことにてんで興味がなく、考えたこともなかった。元祖フリーター、ニートとは、俺のことじゃないのかな。そうした生き方が生じたのは昭和30年代生まれ以降だろう。そんなことを考えていたら、短歌をやるというのも、俺の宿命だったのかもしれないと、最近は思うのである。俺は若手歌人をよく批判するが、若手歌人の歌に期待もしているのだ。
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2008年07月14日

1096 「塔」陽の当たらない名歌選、上半期ベスト20

 恒例の、上半期ベストを発表する。これは、自分の歌を発表するのと同じくらいリキが入る。なぜなら、自分の人生観がそこに反映されるからだ。他の誰にもない、私だけの選歌集であり、自分の好きな歌が他の人のそれと一致するとむしろがっかりする。じっくり鑑賞していただきたい。

「塔」上半期「陽の当たらない名歌選」ベスト20

真向かへば追ひつめてしまふ母われに 電話を切りしのちの底冷え 澄田広枝

かうやつて貴方をぢつと見てゐると貴方が誰かわからなくなる 飯村みすず

田仕事を終へたる妻は鍬握るかたちに指を曲げて眠りぬ 郡山紀男

夕焼けをまはす少女の縄跳びのひらりひらりと堤をゆけり 田附昭二

磨ぎ汁を幾度もかえて思いおりわが子を橋より落とす瞬間 永田聖子

猫の土葬終えて病院に戻る夫 それが最後の仕事となりぬ 西藤光美

凩は龍笛となり過ぎゆかむけものも通るちちははの墓 小沢婦貴子

曲がったらすぐにわかるよ その道は干し大根のにおいがするから 高橋香澄

宴会場の汗にしめりし衿元を衝立の裏に回りてふきぬ 谷口かず子

てのひらは静かな夜に思い出すふるさとに老いて眠るタローを 松村正直

もう泣くな分かつたからと言ふ父の睫毛が不意に長く見えた日 澤村斉美

身長をシャクトリムシに測られた僕はもうすぐ死ぬのでしょうか 山上秋恵

気づかれぬように泣くとき痛くなる僧帽筋と知ってしまいぬ 加藤ちひろ

誰からも好かれる人に嫌われて夜の渋谷の沖へと向かう 高橋武司

あおぞらが憎悪に変わっていくまでをきっちりと革の手袋を嵌める 沢田麻佐子

病人と死人の歌ばかりだな「塔」伏せ眸を閉づホスピスの父 沼尻つた子

をちこちに屋根より落つる雪のおと手紙の前文長くなりゆく 山地あい子

のこぎりで八つに分けて処分されしダブルベッドはちちははのもの 尾崎知子

不忍の枯れ蓮の間(あい)通るとき確かめたきことひとつ聞きたり 黒沢弘子

食卓のトマトが鬼の心臓に見ゆると君に言ひてさびしき 苅谷君代

 僕は、肉体感覚のない歌は駄目だと思っている。「塔」には選歌欄評が多いが、私の選んだあまたの「肉体歌」をまったく無視しているあたり、本当に上から下まで読んどるのかと疑問に思っている。いや、そのために名歌選というのはあるのだな。名歌選を始めた理由の一つは、「いい歌が全然採られてねえ!」という怒りである。いや、「塔」に限らない。一線級の歌人かどうか知らないが、僕は、彼らの選歌というものが信用できない。だってつまんねえ歌ばっかり選ぶんだもんな!!!!!読者は、私が選ぶ歌こそ、才ある歌人と記憶に留めて間違いないのである。
 なお、短歌人上半期ベストは、来月発表します。
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:25| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

2008年07月12日

1095 私の東京観光案内

 つくづくと思うが、競馬で勝ちたいと思う人は私の予想のタテ目を徹底研究しなさい。今日のレースなんか、私のタテ目をだまって買えばうはうはの万馬券であります。私のタテ目に、万馬券が眠っている。

 「塔」7月号の特集、「東京ほっとすぽっと」が面白かった(ナゼ俺に原稿依頼が来ないのだ!?)。筆者それぞれに、その場所への愛着を感じ、歌も興味深く読んだ。俺が、東京観光案内の日程を三日組むならコースは決まっているね。
 1日め土曜日。まず、新宿西口公園散策ののち、熊野神社を抜け、十二社温泉の黒湯にたっぷりとつかっていただき、宴会場を借り切って飲めや歌えやのどんちゃん騒ぎ。閉店が早いので飲み過ぎの心配もない。
 2日め日曜日。後楽園ウインズへと引率し、競馬を存分に楽しんでいただく。すっからかんになったところで、神田の古本街を散策。まあ、私が用があるのはビデオ屋だが。
 3日め月曜日。世田谷文学館訪問。休館日だが私の権限(ないけど)で無理に開けさせる。そして、池を泳ぐ鯉を見たり、芦花公園内を散策ののち、吟行。そして最後に新宿に戻り、呪われた鈍色の軍艦マンションを仰ぎ見ていやーな気分になったところで東京を後にする。
 あ、そうだ。うちの近くの天神さまをお参りするのもいいかもしれないが、ここにはなんと、歌人なら忘れちゃいけない、落語で有名な大田道灌に山吹の枝を折って差し出したとゆうふざけたとんち女(「紅皿」というらしいが名前までふざけている)の墓、なるものが鎮座ましましている。十中十、ガセだろうけどな(笑)。ここをお参りして、解散。どこの天神さまかは秘密である。どんなヤバイやつが読んでるかわからんからな。張り込みをかけられて刺し殺されかねない(陶酔)。
 要は、俺が言いたいのは、東京というのは十二社温泉と後楽園ウインズ、世田谷文学館に軍艦マンション、それだけ見れば事足りるということだ。歌舞伎町散策、吟行もよいかもしれない。だって、短歌は都市を詠わなければ。浅草?六本木ヒルズ?けっ!下町と開発の街?んなもんどうでもええわ。

よそよそしい街並のなか求人誌渡してくれたサンタクロース 山上秋恵
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:48| Comment(3) | TrackBack(0) | 日記

2008年07月11日

1094 パンサーよ、古馬を蹴散らせ〜テレビ福島賞〜

 私は長州人なので、福島とはめちゃくちゃに相性が悪い。福島競馬で勝ったためしがない。本当に一度もない。白虎隊の呪いが悪いのであって、私の予想が悪いのではない。全て先祖の長州人が悪いのだ。ではなぜ、あえてこのレースをやるのかというと、その理由は、三歳乙女、エイシンパンサー嬢が出るからだ。このレースは、データでは三歳馬不調、一番人気ダメ、すべて彼女に当てはまる。んが、そういう悪条件を跳ね飛ばし、古馬相手に十分勝てると僕は思う。斤量52キロ、最高。前走の中京の1分08秒0での1着は見事である。このレースを、僕はたまたま見ていたが楽勝だった。このレースによって彼女の名前をしっかり記憶し、次に出るときには買おうと思っていたのだ。福島のちょい坂コースも合うし、明日はハイペースが予想されるが、それも彼女にとって有利に運ぶだろう。相手は、もろ男っぽい名前の、レットバトラーが有力だと思う。ただし、エイシンパンサーの馬体が減の場合は躊躇なくやめる。馬体増が必須条件だ。
 前日予想結論。馬連本線、7−13。以下は、オッズに照らして掛け金を決める。4−13、9−13、10−13、11−13、12−13、13−14、13−15、13−16。エイシンパンサーよ、われに福島初勝利を!中館くん、頼むよ!
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

1093 日本的陰湿と偽善〜タスポはファシズム〜

 タスポ制度導入の余波が、早くも露呈し始めている。人づてに聞いたことだが、未成年の息子にタスポを貸した父親が逮捕されるという事態まで起きているらしい。これは異常だ。親父が息子にタスポを貸したことがではない、こんな微罪でいちいち逮捕している警察が異常だと思うのである。ほかにやるこたいくらでもあるだろう。とてもいや〜〜〜な、暗い気分だ。これは、愛煙家に対するファシズムではないのか。嫌煙家の連中は、この親父にざまあ見ろとか思ってるかもしれないが、それは大間違いである。ファシズムというのは草の根から起こる。今は煙草だが、そのうち酒に波及し、ネットに波及し、ネットカフェに波及し、結社の自由集会の自由、オタクの自由にまで波及するだろう。だって、権力を持つ側は、なになにが害悪であるという理屈をいくらでも立てられるのである。
 今夜、わたくしはまたしてもタスポ関係の犯罪(笑)を発見した。以前、私がいつも買う自販機は、よく自分の前で人が買っていて待っていたものだが、タスポ導入以来まったくそういう人を見ない。ここのみならず、自販機で煙草を買っている人をほとんど見ない。つい先ほど、いつものようにこの自販機で、くやしまぎれに取得したタスポを使って千円札で煙草を買った。そして、釣銭を取ろうとして手を伸ばしたとき、目立たない場所にある張り紙を見つけた。それは手書きの小さなもので、「タバコをお世話します(以下住所)」とあった。ななななななな、なんぢゃこりわ。これでは、「女を世話します」「麻薬売ります」というのと一緒ではないか。たぶん、タスポを取得してなくてタバコが買えなくてイラついているやつに売りつけるということを思いついたやつがいるのである。だから言っただろうが(言ってないけど)。売春でもそうだが、締め付けをきつくすればするほど、裏商売が発生するのである。当局は、喫煙者を二重の意味で甘く見た。まず、カードを取得したり、それを活用したりするような知能の高いのが喫煙者にはあまりいないということがわからなかったこと。それと、喫煙者はオカミの言いなりにはならないということ。近年の、嫌煙ブームの偽善に、怒りと反発をどれだけ募らせてきたかに無自覚なまま、「こうすりゃカード申請するだろう」と甘く見た計算違いである。実際、僕の周囲の喫煙家も全員激怒して「誰が取得するか」とレジスタンスを決めこんでいる。彼らはたぶん、無意識のうちに、自分らを差別する自販機を崩壊に追い込むつもりなのだ。偉い! 筒井康隆のドタバタSF、「最後の喫煙者」の恐怖が現実のものとなってきた。
 再度言うが、「常識ある嫌煙家」のかたがた。人ごとと思うなよ。君たちは、愛煙家を迫害していい気分だろうが、わしらの生きていけない世界では、キミタチも生きていけないのだよ。だって、当局というのは、サロン×スじゃないがどこにだって難癖をつけるんである。6月3日の日記にタスポ関連の日記を書いたが、それは絵空事では終わらぬと僕は思っている。それにしても、タスポ制度というのは日本らしい。陰湿で、陰険なやり口だ。カード会社を儲けさせるためのことなのに、「青少年を喫煙の害から守る」などとほざいている。正に、日本の偽善と利権と現実無視と無能無策の凝り固まった愚策である。いっそアメリカみたいに、酒やタバコが買いたければいちいち身分証を出す、そのほうがわかりすくていさぎよい。日本という国のダメさ加減が、このタスポというカードに象徴されている。
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2008年07月09日

1092 夏の栄光〜ストレート短歌こそが短歌の真髄〜

 今月はいい歌が多かった。できるだけ多くコメントしたい。

雨の音に醒めておもほゆ濡れながら錆つく前の鉄の怒りを 田宮ちづ子

 いい視点の歌だ。鉄が怒るわけはないので、これは作者の感じた怒りを鉄に託して歌った喩の歌、と見るのが順当だろうが、それ以前に、作者は本当に無生物に感情移入しているように思える。濡れながら錆びつく前の、というフレーズが秀逸である。鉄はその場を動けないので、風雨にさらされたからといって抗議したり権利を主張したりもできない。まだ錆びていないのに、錆びることだけは決定事項なのである。これは人生の比喩になるだろう。普通の人はこういうことを歌にはしない。作者の感性の鋭さである。

あとふつか待てば完治のカサブタをいまはがしたりなにもない朝 藤原美絵

 かさぶたというのは、どうして、ものすごくはがしたくなるような構造と外見をしているのであろうか。子供の頃、ひざ小僧をすり剥いて、オキシフルと赤チンで泡だらけになった上にした包帯とガーゼを、治りかけのときにこっそり剥いでみるあの快感といったらなかった。見事なカサブタがとれるのは宝ものを掘り当てたような達成感のあるものであった。これは僕の想像だが、「癒し」「癒し」とやたらとうるさい割には、人間というのはひょっとして完治(何からかは知らないが)することなど望んでいないのではないだろうか。昔読んだ翻訳小説の中に、おばあちゃんが孫息子にこう言うシーンがあった。「傷跡のない女なんぞに惚れちゃいけないよ」。そのせいかどうか、僕はうっすらと白い傷跡などがある肌えに妙にむらむらとくることがある。関係ないかもしれんが。「なにもない朝」に対しての、作者の凛々しさに通じつものとして、分かる。

青年の面(おも)立ちのまま古りにける露座の大仏まなぶた薄く 佐山みはる

 僕は、野ざらしの仏様の顔が大好きだ。確かにその顔は若い。そして、その仏像が、雨風にさらされて古くなっていることに一種の感慨を覚える。この作者には以前、娘さんを亡くされたという歌があった。その、永遠に老いない娘への思いを大仏に託したのではないだろうか。結句が胸にじんと来る。

盛り上がる入道雲のてっぺんに川で溺れたタケシ君いる 天瀬裕梨絵

 一読して、伊藤俊也監督の実写版「風の又三郎」を思い出した。ラストで、転校生三郎の去ったあとの丘の上、子供たちが見上げる空に、風の又三郎を模したような雲が立つのである。
 四季のうちで、夏というのは一番印象的だ。夏に会った人や事件は、あとあとまで印象に残る。不思議だ。そして、夏というのは秋よりも切ない、別れの季節である。作者は、利根川で溺死したタケシ君のことを、夏の痛みとして詠んでいる。入道雲のてっぺんにタケシ君がいるという表現がすばらしい。彼女にとって、利根川は夏の栄光であるとともに、悲しみでもあるのだ。夏の栄光と言えば、名作「帰らざる日々」を思い出す。マラソンという競技を通して知り合った友との出会いと別れを描いた、青春映画の傑作である。演じたのは、江藤潤と永島敏行だった。僕は、毎年、泣くためにこの映画を見ている。作者も、タケシ君という、永遠の子供に、かの夏の栄光の残照を見るのであろう。なぜなら、死者というのは、時を止める役割をになっているからである。

古本街 日付は昭和三十年 松園の本についに出会った 上村駿介

 松園と言えば、昔朝日新聞の夕刊で連載していてそののちベストセラーになった宮尾登美子の「序の舞」の主人公である女流画家の上村松園しか思い浮かばないが、彼女とこの作者が同姓なのは偶然か?必然か?作者はなんと小学生である。普通、松園の絵に興味なんぞ持つとはとても思えない。ひょっとして親戚か?あるいは直系のひ孫かなんかか?と想像が暴走するのも仕方ないことだろう。それにしても、上村くんも小学生で、短歌をやってるのも驚きだが、松園の本なんぞ読んじゃったりして、おじさんはもうびっくりである。末恐ろしい歌人だ。ちなみに、昭和三十年は私の生まれた年である。

深更に鮨を食みつつ母怒る「未亡人」なる漢字は嫌い 砺波 湊

 「未亡人」という語感に、女盛りに奥さんたまりませんなあ、などと下品なことしか連想しない僕だったが、調べてみるとこの言葉は、「夫に殉死すべきなのにおめおめとまだ生きている女」という意味だそうで、なるほど失礼きわまりない!妻を殉死させるに価するような男などこの世に一人もいないことを僕は知っているので、いかに歴史の主役づらをしている男どもが小心ものの馬鹿揃いであるかこの歌を読んで深く共感する次第である。しかしこの鮨はどこで買って来たのだろう。

 以上、もっともっとコメントしたい歌はあるが疲れたのでやめる。「短歌人」にはいい歌が多い。いいか諸君、歌というものはストレートに詠め。ストレート短歌こそが、歌の真髄なのだ。僕は、名歌選秀歌選で、そういう歌を選んでいるつもりだ。技巧のみの歌、インテリのつぶやき、無責任短歌なぞクソ喰らえだ。ストレート短歌の意味を知りたいと思うなら、僕が日記にアップしている歌を読みたまえ。ストレート短歌こそ、難しいのである。
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2008年07月07日

1091 短歌人7月号会員欄秀歌選その37

 今月の赤丸歌、会員1欄パート1、175首。同欄パート2、85首。会員2欄パート1、181首。同欄パート2、130首。計571首。

     短歌人7月号会員欄秀歌選その37

あとふつか待てば完治のカサブタをいまはがしたりなにもない朝 藤原美絵

雨の音に醒めておもほゆ濡れながら錆つく前の鉄の怒りを 田宮ちづ子

とりあえず笑っていれば頭などでっかちでも良いみたいなキューピー 丸井まき

古本街 日付は昭和三十年 松園の本についに出会った 上村駿介

父(ちち)子あり新宿深夜内田吐夢飢餓海峡を封切りで見き 針谷哲純

牧夫らの四・〇の視力もて枯れし牧野の果てに何見る 早川清生

夜の更けに帯解く音の澄みながら喪衣(もぎぬ)の熱は手放すままに 佐藤あきら子

惰性から生まれた情の駆け引きに飽きて抱き合う新宿の夜 小玉春歌

ホームに立つ足は前後にずらすべしと都会の常識娘(こ)に教えらる 田端洋子

ごはん粒頬につくる人吉野家を出ずる先には良きことあらむ 佐藤渓冴

星見駅・星置駅と通過して星降るやうな駅に降りたり 田中 愛

働けと言うが如くに君臨すうっとうしいかな親指の豆 木村麻衣子

わがまへに鹿の二頭は立ちゐたりもの問ふごとくもの乞ふごとく 平田 侑

盛り上がる入道雲のてっぺんに川で溺れたタケシ君いる 天瀬裕梨絵

カラス一羽満開の花にいこひをりこころうごくも「桜にカラス」 田上起一郎

深更に鮨を食みつつ母怒る「未亡人」なる漢字は嫌い 砺波 湊

青年の面(おも)立ちのまま古りにける露座の大仏まなぶた薄く 佐山みはる

龍の眼にかがよふ朱(あけ)を見てしより少年は夏の底ひを動けず 関口博美

地下鉄で釣銭待てば背後より青年の手がつかみとりたり 竹市さだこ

口中の虫歯迄みせ笑ひゐる本当に嬉しい人間の顔 大畑敏子

髪型を佐藤ゆかり風にと言えば美容師鏡の吾をじっと見る 立花マリ子

四日間身元不明の死でありし友は冷えゐき業者の庫に 服部文子

「もう」なのか「まだ」なのか「とうとう」なのか 明日が来れば三十五歳 魚住めぐむ

人励ますことなき一生は物語りをフロッピーに記憶するのみ 阿部美佳

うまそうに煙草くゆらす男おり左右(さう)の岐かれの真中(まなか)に佇ちて 朝生風子

運動のため階段で五階まで。精神科患者の健脚を見よ 生野 壇

身長百六十二センチ レーニンもスターリンもメドベージェフも 越田慶子

村人を二百年見守りし鎮守の杉の倒れる音は悲喜のいずれぞ 本間甚太郎

ガス室に入りゆくまえに脱がされし靴をおもえり「極楽湯」口 会田美奈子

ゴリラのやうな川村毅あえかなる毛皮のマリーに扮しつつあはれ 花鳥 佰

心身にうすき翳りを持ち初めし女孫よ白がいま似合うふ時 中島敦子
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

1090 短歌は座の文学ではない

 僕が思っている以上に、短歌結社というところは出たり入ったりの激しいところのようだ。僕の見聞した例では、歌会に出席していやな思いをしてやめた、あるいは、周りにいやな思いをさせてやめた(笑)という話をよく聞く。僕はもちろん、歌会というものそれ自体は否定しないし、歌会によって伸びる人もいるだろう。が、歌会というのが根本的にそぐわない人もいるのだ。俺なんかは絶対そうである。まず、長時間テーブルに向かって、他人の歌をああだこうだ論評するなんて、俺には耐えられんことだ。俺は歌を直感で読む。要するに、好きか嫌いかだけだ。好きな歌は褒めるが、嫌いな歌にはまったく興味がない。嫌いな歌に論評を求められても、「興味ない」の一言で済ますし、それでもなんか言えといわれたらボロクソの全否定するであろう。そのため、居辛くなるということもあるかもしれない。もちろん、ケナシにも芸はあるが、その日初めて読んだ歌に対して咄嗟に技を繰り出すなんてことは俺にはできない。それでなくても、当ブログはホメてばっかりで、こう見えてもフラストレーションがたまっておるのだ。要は、「俺の好きな歌はこうだ」と決めている、我の強いやつは歌会に出ないがよろしいということだ。歌会のよさ、というのは、新たな視点や、異なる評価の基準を知ることにあるというが、俺はそんなもの欲しくないのである。俺には俺の基準しかないし、歌会に出たからといって、それは小揺るぎもしないであろう。
 俺がもし結社を辞めるとすれば、それは、結社誌がもはや読むに価しない、と自分自身で判断したときだろう。結社にいる、ということの基本は、自分の歌を発表する場所であり、他人の歌を読んで好きな歌をピックアップする、それだけの話だ。そして、面白い特集記事を読むこと。「塔」「短歌人」はその点でOKである。
 俺は、読者としてのエゴイズムでこの意見を言っている。特に「塔」なんか、結構注目していた歌人が、いつの間にかいなくなっているのだ。人間関係で退会したとすれば、それは残念なことだ。歌人は作品がすべて。僕は、短歌を「座の文学」とはまったく捉えていない。徹頭徹尾、孤独な文学であり、自分のための文学である。自分のためにだけ歌を作っている人、そういう人が僕はすぐにわかる。それこそが、真の歌人なのだ。
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2008年07月05日

1089 C調の持つ偉大さ〜岡井隆の魅力〜

 最近、短歌総合誌の連載が面白い。角川「短歌」の「語る短歌誌」も面白いが、「歌壇」の三枝昂之「あたらしい啄木」がめちゃくちゃいい。僕は、総合誌の熱心の読者とは言えないが、本阿弥書店はぜひこれを単行本化してほしい。少々高くても買う。あ、そうだ、同誌、河野裕子の「私の出会ったひとびと」も面白い。これもぜひ本にしちただきたい。作品論もいいが、歌人一人一人の私的個性が浮かび上がってくるような評伝がもっともっとたくさん著されるべきだと思うのである。なんのかんのと言っても、短歌の魅力を支えるのは、作者の私性なのである。テキスト主義なんぞクソ喰らえ。と僕が言うまでもなく、近頃そんなもの有り難がっているのはほんのひと握りの往生際の悪い連中であり、おおかたは、結局短歌という詩形の詩的悲劇性に回帰したいのは明らかである。
「語る短歌史」なんてもう、岡井隆のC調ぶり(純然たるホメ言葉である)が最高である。歌壇の植木等、と言って過言ではないだろう。植木はあれで、僧侶の息子でくそ真面目な人物で、キャラクターと自分との葛藤に悩んだらしいが、岡井は天然のC調(しつこく言うがホメ言葉である)であり、それが才能の才能たるゆえんだろう。天才、という言葉をあえて使わないのは、彼が、本人の感じ方はどうあれ、幸せ者だと思うからである。天才というのは宿命的に幸福ではありえない。だってよー、医者で、ゲバルトでたたきのめされもせず、前衛短歌の旗手で、おまけに(本人は災いだと思ってるかもしれんがふざけんな)女にモテモテで、逃避行した先でも、個人医院を開くか病院に勤めるかと苦悩し(その能天気さに俺は大爆笑した)、さらに、中央歌壇から戻ってこい戻ってこいと呼ばれ続け………どどどどど、どこが苦労じゃ(爆)。しかも、左巻き歌人で売ったくせにしれっとして宮中歌会の選者に就任する。諸君、これをC調を言わずになんと表現するのだ。三度めになるがこれはホメ言葉である。宮中歌会に関しては批判した歌人も多かったそうだが、俺は、「面白い人だなあ」と思った。数年前のフランス内閣には、アナーキストで知られた文学者がいて、しれっとして大臣をやっていた。しかも自分の主張は変えずにである。そういう偉大なるC調さこそが、創作者の図太さというものだろう。岡井という人は、精神が根本的に強いのだ。妹さんの自殺を題材に多く詠まれているが、その作品からは、ただ傷ついた肉親の感傷ではなく、それをネタとして消化し昇華してしまう歌人のふてぶてしさを感じた。
 短歌マラソンで舞台上の岡井氏を見たとき、僕は「ああこの人は100%役者だ」と思った。この人は、芝居の道に進んでも成功したと思う。いい男であり、声がめちゃくちゃいい。新劇俳優の高橋昌也を連想した。ちなみに高橋氏は、性に悶える若尾文子の夫役として「悶え」(映画です)に出演した人であり、奇遇なことに、医大中退である。今の軟弱な若手歌人は、岡井隆のふてぶてしさを見習うべきである。首尾一貫にこだわるような奴はすぐに、風の中のコーモリ傘みたいに折れてしまうのである。偉大なるC調歌人、それが岡井隆の本質である。
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2008年07月04日

1088 タスポ殺人事件、ってか?

 昨日の日記について補足。僕は、決して風俗嬢を見下しているわけではない。ただ、女優を目指す人間が、自分の肉体性をそんな所で消費してはいけないということである。歌舞伎町火事の被害者女性は、女優という職業をなめていたか、もしくは、本気で本当の女優(スターとは限らない)を目指していたとは思えないのである。僕は、死者を鞭打つべきでないとは思わない。

 今日、煙草を買おうとしたら、俺の前に買おうしたおっさんが、自販機の言う「タスポでタッチしてください」という台詞に対して、一生懸命手でタッチしているのである。「なんだよお」とつぶやきながら。見かねて俺が、「これは、カードがないと買えないんですよ」と教えてやったら、「ふざけんじゃねえよこの野郎!」と怒ってどっかへ行ってしまった。現在、喫煙者のタスポ普及率はわずか、四人の一人だそうだ。浸透しとらんなあ。近くのコンビニがたばこ販売許可をとってないので、俺は泣く泣く、厚生省に激怒しながらも他スポを申請し、先日手に入れた。
 これからコンビニが、なだれを売ってタバコ販売許可を得ようとするだろうな。実際、コンビニにおける売り上げが、タバコによる収入によって上がっていると経済ニュースで言っていた。ということは、おかしなことになる。政府は、未成年者に買わせないという建前と、タバコのみは絶対カードを入手せざるをえまいという皮算用でタスポなどという制度を導入したが、これでかえって自販機によるタバコ販売ががた落ちになるということではないか。となれば、このカードになんの意味があるのだ。そして、僕が怖いと思うのは、コンビニにおけるタバコの売り切れ、という自体も杞憂ではないということだ。夜中にタバコが吸いたくなったときの人間の渇望について僕はよく知っている。それは麻薬患者のそれと変わりない。例えば、作家の原田宗典は、夜中、タバコはあるがライターもマッチもないという事態に陥り、隣町の友達のとこまで歩いて火を借りに行ったそうである。
俺にもまったく同じ経験がある。タスポを貸す貸さないで殺人事件が起きてもおかしくないと俺は思う。なぜなら、それは麻薬であるからだ。「麻薬だからやめろと言うのだ」と、嫌煙家は言うかもしれないが、それは依存症の激しさも人間の精神構造も何も知らん者の言い草である。煙草の禁断症状たるものすさまじく、俺はかつて夜中にあばれて妻を泣かせたことがあるらしいがおぼえておらん。結局遠くのコンビニまで買いに行かせたらしいが。
 しかし、ふざけた制度を作ったものだ。青少年を煙草の害悪から守るだと?ふざけんな!それだったら、小売店でもタスポがなければ買えないようにするのが理屈ではないか。要するに、カード会社と政府の癒着であるに過ぎない。それも、一時的な儲けであり、長期的にはマイナスになるだろう。日本という国は、目先の利益ばかり追求し、全く合理性というものを持っていない。だから、税金の無駄遣いである、独立行政法人を潰せない。こいつらのやることなすこと、国民にとってのマイナスばかりである。日本は、偽善国家である。
 「オマエの言ってるのは麻薬患者の言い訳だ」というような意見並びにコメントは禁止いたします。
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2008年07月02日

1087 6月月間ランキング〜夢の押し売り〜

 ブログ開設1251日目。総アクセス数、939636、総訪問者数、167777人。

      6月月間ランキングベスト10

 1位  1日「絶好調『語る短歌史』〜無冠の帝王〜」2998
 2位  6日「『人妻集団暴行致死事件』」1811
 3位 26日「高瀬賞発表〜砺波湊さんについて〜」1694
 4位  3日「リタリンとタリバン」1415
 5位 19日「啄木と英雄〜俺はオレだ!〜」1401
 6位 29日「ライスシャワーとロックドウカンブ〜結社誌を読むということ。〜」1297
 7位 25日「老人の迷走」1296
 8位 23日「『塔』6月号『陽の当たらない名歌選』2〜カンオケのサイズ〜」1148
 9位  8日「1万円負ければ一首」1103
10位 21日「雨だザレマだ馬力勝負だ〜マーメイドS(GV)荒れるぞ〜」1193

 6月のアクセス数は、25482、訪問者数は、4112人でした。

 今、日本国内の文化財への落書きが多発しているらしい。文化財の橋や建物に「山田参上」とか書いたり、ヒドイ場合には掘り込んだりするのだそうだ。こういうことする連中は、このことに達成感を感じているらしい。こいつらには、たとえばヒッピーが国旗を焼くとか、そういう権威への反抗とかそういう志さえない。単なるバカである。殺してよろしい。
 某SM○Pの大ヒット曲、「世界に一つだけのなんとか」。反吐が出るような曲であり、コンビニでかかるたびに耳をおさえて逃げたものである。およそ、ヒット曲なるもの、イージーで無内容で無根拠な人生応援歌が多すぎる。バカどもが「そうか私(俺)は世界でひとつだけの花なんどうわ」とお星目になって、自分探しとか、ありもしない才能探しにはまりこむ原因の一端ではないのか。よいか。なべてものごとの90%はクズであるという法則があるが、残りの10%のうち、さらに10分の1の1%にしか、才能というものはない。なのに、メディアもマスコミも、夢を持て、明日を信じろ、オマエは唯一無二の存在だ、などとうるせえったらありゃしねえ。名もなく貧しく地味に生きること、それこそが今や稀有な、有意義な生き方なのである。そう思っていれば少なくとも、「誰も相手にしてくれんのなら誰でもいいからコロス」などという殺人事件は起きないであろう。誰も相手にしてくれないなら、誰にも相手にされない人生を粛々と生きるがよろしい。
 ところで、話はがらっと変わるようで変わらないが、うちの近所の歌舞伎町のビル、ありていに言って風俗ビルで数年前火事があり、客と風俗嬢が多数焼け死んだという事件があった。被害者のことは、気の毒だと思う。んがなー、賠償を求めてビル所有者の責任を問うていた被害者遺族が、その風俗嬢の娘さんのことをだな、「女優を目指してバイトしながら前向きに頑張っていた子だったのに」とコメントしているが、違うだろう!!!!!!オマエなー、女優を目指すはいいが、なんでそのためにちち丸出しでパンツ脱いで男の膝に乗っからなくてはならんのだ。女優をバカにしとるのか?コンビニでも、銀座のホステスでもいいではないか。たいていの女優志願者は実入りの悪いバイトでがんばっている。なんでこの娘さんは、そんな安直で払いのいいバイトをしてたのか。俺は、その時点で彼女の女優根性を信じない。二百歩譲って、プロデューサーやディレクターに枕営業をしてる女優、これはまだ許せる。こういうのはすでに女を捨ててるのである。んが、歌舞伎町で花びら大回転しながら研究所通い?俺はそんなのは、「がんばってる」の内に入るとは思わない。遺族も遺族だ。ビル所有者の責任は明らかだが、それにしたって俺だったら恥ずかしくて訴訟なんか起こせないだろう。ましてや、「がんばり屋さんでした」なんぞとコメントするとは、恥の感覚がどうにかなっとるのではないだろうか。すまん、俺は、死者だからといってすべて尊厳があるとは認めない。嫌いな奴が死んだら嫌いな奴が死んだと思うだけだし、売春婦が死んだら売春婦が死んだと思うだけである。女優を目指すやつが風俗なんぞに足を踏み入れてはダメである。なぜなら、役者というのは魂の芸術家であり、女優の魂というのはたやすく汚れやすいものだからだ。バイトで身を売るような女にまともな演技や歌や踊りができるとはとても思えない。
 とにかく、「夢を持て」という押し売りが多すぎる。名もなく、貧しく生きることが今は大事なのだ。人間の99%は凡人。そのことをよーく噛みしめて人は生きるべし。特別な人間は確かにいる。だが、それは本当に本当のひと握りでしかないのである。
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2008年07月01日

1086 冬のスピッツ

      冬のスピッツ 黒田英雄

剥きだしの敵意の視線浴びた日はちびた石鹸(シャボン)でかほを弄る

敵持てる幸を感じて食む鮭の辛さほどよくしやうゆはいらぬ

鈍色の軍艦マンションに見つめられ青信号待ちわれは立つてる

一ドルではなんにも購へぬTOKYOの百円ショップはけふも賑はふ

一ドルは一年なりと覚えたる時代のありき 三百六十五円!

ライスカレー水がとつても旨かつた銀のスプウンカップに立てて

『サンセット77(セブンセブン)』をみをはりて鬱は深しも明日は月曜

東京に聖火灯りしあの日からどの年もただ四桁の数字

わが町で最初に受話器持つ祖母の写れる地方紙母は誇りつ

鄙にては美(は)しきひとやも参観日和服着こなしひとり目立ちぬ

数人のをのこ記憶にあらはれてわが頭(かうべ)撫で葬列に消ゆ

山奥に佇つ一軒家に幸せの原風景あり 生家にあらず

紙芝居読んでくれたる美智子姉(ねえ)の声はやさしもかの日の雷雨(あめ)に

拐ふがに没陽は紅し泣き泣きての甃(いしみち)の頂跨ぎゆくとき

タケダタケダタケダタケダタケダタケダタケダターケーダーの昏き夕餉

いつとだに知れぬ幼日陰画(ネガ)として小倉の城は愴然と佇つ

逆上がりショートパンツ運動場(グランド)の本間千代子の白がふうはり

女学生涼しき襟元直(す)ぐな喉影だに落ちぬその歩みかな

原稿用紙におほきく本間千代子と書く泣きたくなるよなながあい夜に

愛し合うには早過ぎてと口遊む死んでしまふには遅すぎる俺

六十歳(ろくじふ)の本間千代子に信濃路で出遇へる気がした冬のスピッツ

杳き日の五輪の聖火の梯(かけはし)と顕ちたる女優(ひと)のあつき黒髪

奈良漬をぶぶ漬けで流し夕餉終ふ真闇の消えて久しきものかは
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記