2008年08月31日

1130 「暖風(かぜ)と北風(かぜ)」

        「流氓の歌」   黒田英雄

ひとしきりカーテン揺れてをりしこと京の暑熱のせいと笑ひき

ビッグマックを食めばソース零れ落ち腹が立つなりチュウトハンパに

ほんたうの事を話さぬこのひとは人差指でリズムとつてる

帽子(シャッポ)似合ふ歌人の微笑(ゑみ)に茫とわれ竹下景子の面影抱く

一期一会の歌人(ひと)見送れば新宿のゆふべの薄茶色に溶けゆく

陵墓(みささぎ)の閑けさなりや紀伊国屋詩歌売場に人影もなく

青色の百円ライター手から落ち霧笛は俺を決して呼ばない

エスカレーター深くふかあく下降してスタアのごとく暖風(かぜ)受けとめる

大江戸線新宿西口22時異国の言葉に癒されてをり

雷蔵も泉谷しげると化すならむスピード写真は手配者の貌

自販機にtaspo翳せばタバコ出で囚人のごと腰屈めとる

taspoにて求めしタバコ吸ひ込めば夕に滾らす千度の熱を

タスポより接触(タッチ)はかなく煙草屋のあの娘(こ)のゆびはすうつと引きぬ

久佐衛門坂を心気臭い中年男(オッサン)が「日経」掌にして降ってゆくぞ

流氓の歌$コ張りあげて歌へどもわれ突きあぐる北風(かぜ)がかき消す

重馬場に二タテをくらひ帰る舗道(みち)白き線(すぢ)ひき雨砕け散る

 注:雷蔵=市川雷蔵
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

1129 ハンディキャッパーを信ず〜新潟記念GV〜

 JRAのハンディキャッパーは優秀だと思う。ハンデ戦の場合、妙に背負わされている馬というのは要注意だ。それは、6番、バトルバニヤンのことである。準オープンを勝ったばかりの4歳馬なのに、56キロも背負わされているのである。たとえば、人気上位馬、マイネルキッツは、バニヤンより実績上位だと思うのだが55キロである。これが不思議だ。普通なら、バニヤンは54キロか、背負わせても55キロだろう。陣営が、重すぎるとカンカンに怒っている。そうだろうな。僕がハンデ判定をしたら、重くても55キロがとこだろう。この馬は強いと、キャッパーが判断したのである。たしかに、三走前の新潟大賞典は、2、3、4、5着馬とほとんど差はなかった。前走も、58キロを背負って着差なしの1着。しかも余力を感じさせた。にしてもだ。56キロは背負いすぎである。キャッパーは、よっぽどこいつは強いと判断したのであろう。よって、僕はこの馬を軸馬とする。彼は、重馬場もOK、展開も向きそうだ。相手本線はもちろん、3番ダンシングロウ。週の初めはこの馬を軸にしようと思っていたが、ハンデを見て気が変わった。穴は12番、タマモサポート。なんでこの馬が人気がないのか俺にはさっぱりわからん。そして、牝馬たちだろう。単勝1630円のバニヤンを軸でやるなら、当然、買い目は多くなる。明日は一攫千金を思い、ドキドキしそうだ。
 前日予想結論。馬連大本線、3−6。以下、オッズがつくので小刻みに買う。馬連4−6、6−7、6−8、6−10、6−11、6−12、6−15、6−16、そしてタテ目、3−12。普通に考えれば、バトルバニヤンの斤量は54キロだろう。この馬の実績を考えればそれが妥当だ。陣営がいかるのもわかる。僕は、この馬が強いと判断したハンディキャッパーの目を信じたい。
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2008年08月29日

1128 新人賞選者の資質

 「冬の火」(短歌研究新人賞受賞作)を再び熟読する。
 綾子ちゃんが悪いのではない。この程度のモンに、賞を与え顕彰する選考委員のダメさに涙が出るのである。たとえば、岡井隆がこうコメントしている。

〈音楽用語の細かいところはわからないが、一つ一つことばが詩として働いてゐる。特定のテーマはないが、一首一首がたのしめるのである。〉

 マジかよ。感性の違いとはいえ、俺には全然楽しめなかった。たとえばこういう一首がある。

運河から離れて暮らしているひとに忘れてほしいエチュードがある 田口綾子

 音楽用語として「エチュード」は、詩の中に置いたとき、ものっすごおおおおおおおおくうううううう、恥ずかしい言葉である。練習曲だよ、練習曲!?人生に修業の期間があるとして、それが恋愛がらみのそれだとして、いくらなんでもこげな陳腐な、俺でもわかるような言葉を持ってこないでほしい。単純に読めば、好きな男に昔の女を忘れて欲しいと言ってるのだろうが複雑に読んでもおんなじである。
 田口さん、あなたの歌は若い。新鮮だという意味ではなく、言葉を獲得したばかりの子供積み木を組み合わせて遊んでいる、そういう意味で若い。あえて言えば、修辞遊びであり、自分の肉体や因果と向き合い剥き出しにするという表現の地獄を持っていない。貴女が悪いのではなく、まさにこの程度のエチュードに、交響曲に匹敵するような賞を与えてしまった選者が悪い。これでは、将来有望な歌人をかえってつぶしてしまうだけである。選者どもよ、オマエらそのへんわかっとんのか!?おそらく、どうだっていいんであろう。
 ありていに言って、「短研」の選者たちは、ものを知らなすぎる。と言うとさぞかしいかるだろうが、本当に、ものを知らない。おそらく、文学や文学理論や古典への教養は、私が足もとにも及べないものであろう。ただ、彼らに決定的に欠けていて、無教養をさらけだしているのが、サブカルチャーに関してである。いったいに、最近の同誌の新人賞受賞者の中に、本当に自分の詠いたいことを詠って受賞した人が何人いるだろうか。たとえば、八木博信氏や野口あや子氏は、あきらかに本音と違う、いかにも審査員な受けそうな戦略を練ったとおぼしき連作で受賞している。なぜそれがわかるかと言うと、本音をさらした受賞後第一作において、がらりと作風が変わっているからである。野口あや子なんて、受賞作はカマトトだと思ったぞ。八木氏に至っては、もし受賞後の歌で応募していたら、間違いなく2首選止まりだったであろう。ここが問題なのだ。要は、詩人がオノレの魂をされけだした無遠慮ではちゃめちゃな歌を出したら受賞できないということなのだ。そんな新人賞になんの意味がある?要は、選考委員の傾向と対策が練られ、なめられ、受験対策か赤尾の豆単かというほどにマニュアル化してしまっているということだ。そんなジャンルに大型新人なんぞ出るわけがないであろう。俺は真面目に言っているのだが、今年の田口綾子ちゃんがかわいそうである。この程度で賞を与えてしまって、ここで成長が止まってしまったら、おまいら責任取るのか。僕は、選者の資質というものをつくづく思う。サブでないメインの文学馬鹿はダメ。サブカルや雑学のくだらん知識の多い人のほうが向いている。人生の三面記事をよーく知っている人間だ。俺は道浦母都子に失望した。ゲバルトだったくせに、やたらと権威に弱いのである。もっと自分の意見を言って戦わんかい。
 そういう意味で、今の新人賞に藤原龍一郎と島田修三の両氏は絶対に重要である。彼らであれば、バカな若手の戦略をすぐに見抜いて一蹴するであろう。それだけサブカルに詳しいであろうからだ。そこに、吉川宏志と松村正直を加えて論戦させる。そして、まあまあ穏当なところで、佐々木幸綱と栗木京子を加える。まさに、私が理想とする選者六人体制である。
 短歌研究新人賞は、おしなべてヒドイ(いいのもある)。八木博信や黒田雪子、奥田亡羊を輩出したことは奇蹟である。偶然かどうか知らんが、彼らの受賞年は全て佐々木幸綱が参加している。短研は、彼を選考委員として常駐させるべきである。彼のいない年の受賞作はホントにひどい。
 今回、石川不二子氏の論評が一番まともであったと僕は思う。僕が、最終選考に残った中から受賞者を選ぶとしたら、石川氏が推している原梓「図書館余聞」である。また、最終選考作品からなら、藤原泰子「夕闇に消えゆく」である。
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:01| Comment(7) | TrackBack(1) | 日記

2008年08月28日

1127 穂村弘「チャイムが違うような気がして」

 「短歌研究新人賞」の受賞作品を読む。断っておくが、俺は好きで読んでいるわけではない。妻が毎年性懲りもなく応募しては生き恥をさらしては買って来るのでつい読んでしまうのだ。正直、読みたくない。なぜなら、腹が立つからだ。
 受賞作は田口綾子「冬の火」。
 確かに、修辞はたくみで、語彙も多く、美意識もゆたかでうまい歌だなあ。でも、
 つつつつつつつつつつつ、つまんねえええええええええええ〜〜〜〜〜!!!
 何首か引用しよう。

すきなひとがいつでも怖い どの角を曲がってもチキンライスの匂い 田口綾子
あのひとの思想のようなさびしさで月の光がティンパニに降る

 学生街に常駐しているであろう作者の境遇をかんがみるに、チキンライスやティンパニは彼女の目に映った実景であろうと推測されるが、それを詠う本人の景の把握が実に浅薄なのである。いったいに若いお嬢さん(いや男もたいていは)の相聞歌に感じることであるが、キミタチ、本当にその「アナタ」や「キミ」を肉体で把握しとるのかね?昔だったら女子中学生が憧れのセンパイに抱いたようなイメージを、いい年してまだ引きずってるかのようである。その幻想の中には、そのセンパイはヒゲも生えなきゃ屁もこかず、もちろんコトが終わってから向いてごそごそ拭いたりしてない存在だ。中学生ならともかく、来年は大学を出ようという年になってかかる肉体感覚のない恋に恋するがごとき感性、僕に言わせれば相聞としては最低である。野口あや子(なぜかひらがなにすると一字違いだな)の受賞作と同じで、技巧に満ちたお子様ランチである。もっとほかにええのがおらんかったんかいいいいいいいいいいい!!!!! と、毎年思う。とにかく、今の新人賞の選考委員には、歌人の格(スケール)を選出するだけの才がない。減点法ばかりで、多少めちゃくちゃでも迫力のある歌人を発掘しようという視点が皆無である。特に、短歌研究新人賞においてそれが顕著である。今年の選考委員どもは、全員、来年は総とっかえをすべきである。いつまで、同じようなメンバーに選考をまかせとるのか。
 私の考えるベスト選考委員は以下の六人である。
 佐々木幸綱、松村正直、藤原龍一郎、島田修三、吉川宏志、栗木京子。
 この六人なら、相当意見が白熱してつかみあいの喧嘩になったりして楽しいことである。佐々木幸綱の参加していない年の短歌研究新人賞はロクなもんでない。
 受賞作についてもうひとこと。選評における岡井隆の、深遠なようで実はものすごく安直なコメントである。「フェルマータ」とか「ティンパニ」とか、シロートでもわかるような音楽用語が出てくるとこがいいみたいに言ってるが、神は細部に住むと言うてだな、専門用語つうのは平明な言葉の中にいきなり難しいのが混じるとこがいいのであり、「エチュード=練習曲」なんぞという比喩にもならん比喩を使うのは陳腐のきわみであり、作者よりなにより、そんなもん評価するほうがどうかしている。ひょっとして音痴なのか、岡井隆?僕はもう、岡井氏を新人賞選考委員から外していただきたい。なぜなら彼は、若手というものを異常に過大評価しており、ことさらにオーソドックスを排斥する傾向があるからである。この人は新人賞選考委員にはもういらん、というか、権威づけのつもりが、新人賞の権威をおとしめていることはなはだしい。
 ところで。
 穂村弘の、短歌研究賞受賞第一作「チャイムが違うような気がして」がめちゃくちゃよかった。最初、これが新人賞かと思って感心したらほむほむだったのでびっくらこいた。今までの彼の歌からは想像もできないくらい実在感、立体感がある。また、連作の流れもすばらしい。もともとオーソドックスに詠める人でありながら、賞という権威を手に入れるまで猫かぶっていやがりましたな。いや、この連作はドラマ性があって非常によろしい。ほむほむのことだから、どんな現代的な歌かと錯覚する人もおるであろうが、これは、昭和三十年代生まれの彼の原風景の歌であろう。原風景を詠うことが歌人にとって非常に大事なことであり、だいたい昭和37年生まれがそんなオシャレな世代なわけがなかろう。だから、それより上の世代でありながら、マガジンを足で鳴らしたりしてる加藤治郎は大ウソツキだと言っているのだ。くみとり便所と赤チンの世代のくせしやがって。穂村はこれから大化けするかもしれない。若ぶる必要がなくなって、やっと実力を堂々と出せるからだ。彼の歌の詠み、エッセイのよさから、こんな馬鹿な歌を詠むやつのはずがないと思っていたが、それはこの連作によって立証された。この連作は本当にいい。今月の短歌研究を買ったかた、立ち読みをするかたは、新人賞なんぞ無視していいから穂村の歌を読みなさい。何首か引用する。

解けてゆく飛行機雲よ新しい学級名簿に散らばった(呼) 穂村弘
夏休の登校日にはお母さんダイヤモンド指輪を嵌めて
一年生になったら一年生になったらと歌う子供の顔が老人
童貞と処女しかいない教室で磔にされてゆくアマガエル
魚肉ソーセージを包むビニールの端の金具を吐き捨てる夏

 以下、穂村のこの連作は一首たりと駄作がない。穂村弘は恐ろしいやつだと改めて認識した。彼の短歌の地力には相当なものがある。ならばなぜ今までバカのふりをしてきたのであろうか。名を上げ、一定の地位を手に入れるまで本音は吐かない、という戦略だったとしたら、歌壇がバカであり、彼はそのバカさを利用して自分の行きたいところに行くべく雌伏していたのであり、タイプとしては徳川家康というところか。とにかく、今回の連作を読んで穂村弘という歌人を見直した。これが、従来のファンを減らす結果となるとしたら、そんなファンはどんどん減るがよろしい。俺がいいと思った歌こそ、穂村弘が本来詠むべきだった秀歌なのである。ほむほむよ、これからは本当に詠いたいことを詠え。ファンに媚びるな。キミのすごい実力を、この俺が認めたのだから(なにえばっとんじゃ)。
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:53| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

2008年08月26日

1126 「在日化」する日本人〜大島渚〜

 今日もまた、大島渚監督の昭和35年制作「太陽の墓場」を見る。すごい迫力に満ちた映画で、鑑賞中煙草一本吸えなかった。この作品については、「太陽の墓場に通じる現代性」というタイトルで以前にも取り上げている。

http://hideo.269g.net/article/12153314.html

 この映画に描かれている明日なき難民たちは在日朝鮮人であり、被差別部落の人々だ。しかし僕は、これは現代の日本人そのものではないか、ということを上記の日記に書いた。今日、「週刊朝日」を立ち読みしてびっくりしたのだが、姜尚中氏が、「在日化する日本人」という表現で、現代の日本人の難民化を語っておられた。的を射ている。
 かつて日本人は護送戦艦型国家の中で、先祖伝来の日本国籍さえ持っていればそれ以外のかたがたとは大違いな保護が受けられていた。しかしいかんせん船長と船員がバカだもんだから、いったん船が沈みかけると船長以下責任ある連中が先に逃げてしまい、おおかたの国民、それもいまだ実績や信用を持たない若い人たちがまとめてイカダに取り残され、若いみそらでニートでフリーターで安時給でネット難民である。政府は少子化問題がどうのこうのと騒ぐわりに、田舎には産婦人科や小児科の一軒もなく、子育て支援と称してせいぜい月に1万か2万くれる程度のやる気のなさである。地方は電車は2時間しかとまらずバスは廃止ばかり、これでどうやって地方を振興し繁殖せえとゆうのだ。
 国家に保護されない国民が、「血と骨」に描かれたような、基本的人権も保障されない「在日化」にさらされるのは当然のことである。だが、強制連行されたにせよ自分からやって来たにせよ、日本人としての権利を持たず、バラックからのしあがってきた在日の人々にはパワーがあった。今、難民化している若者たちにはそれはない。日本の未来は、暗澹たるものである。
 今さらながら、大島渚という監督の才能のすばらしさに感服した。人間ははるかな過去から改革と粛清と抑圧と改革と粛清と抑圧を性懲りもなく繰り返してきた存在であり、夜明〜は近あい〜と思ってたら暗黒の到来だった、なんてのは普遍的なことであり、そのオーソドックスな人間ドラマを把握する力があの革命の時代において大島にはあった。バカな前衛左巻き評論家は、反体制っぽいムーブメントが起きるたびにはしゃいで「あーたらしいあーさがきたー」とラジオ体操よろしく大騒ぎするが、人間の本質をわかっていないので端から見ると痛いことこの上ない。なにが一番痛いかと言うと、本当に革命思想のことがわかっている味方から見て痛いのである。ビクトル・ユーゴーは革命後のロシアを批判してバカ文学者どもから総スカンをくってショックで寝こんだそうだ。大島には、ギリシャ悲劇やシェイクスピアをもカバーする、普遍的な人間観がある。「日本の夜と霧」、「太陽の墓場」の2作はまさに、それが如実に表れた名画であろう。大島作品は、今一度評価されるべきだ。みんな、「戦メリ」とか「新撰組」とかでわかったような顔してんじゃねえぞ!彼の作品は、初期、中期がめちゃくちゃいい。
 最低おさえておくべき作品。「愛と希望の街」(昭和35年)「青春残酷物語」(昭和35年)「太陽の墓場」(昭和35年)「日本の夜と霧」(昭和35年)「日本春歌考」(1967年)。これくらいは、知識人の素養として見ておいてもらいたい。
 つづく。
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:50| Comment(3) | TrackBack(0) | 日記

2008年08月25日

1125 「国歌改正」

 オリンピックネタで今日も書こう。私は何を隠そう、「国歌フェチ」である。国歌が大好きである。特に、メキシコ、アメリカ、イギリスのものが好きである。メキシコ国歌をなぜ好きになったとと言えば、プロボクシングが全盛のころ(ああ、ファイティング原田、藤猛)、やたら挑戦者にメキシコ人が多く、いやでもこのメロディを覚えてしまった。たけだけしくて、いかにもファイティングスピリットと誘ういい曲だなあ、と思った。あとアメリカ。アメリカといえば東京オリンピックだ。何度アメリカ国歌を聞かされたことか。この曲も、興奮させられてすごいかっこいい。イギリス、「ゴッドセイブザクイーン」。これも涙が出るほどいい曲だ。荘厳で、魂が浄化され、うっかりすると自分がスゴク偉い国の国民なんじゃないかと国民をして錯覚させる効果がある。名曲だ。
 しかして我が国の「君が代」はなんであるか。まるでハラキリをせまられるような、敗戦のリアリズムがぷんぷん匂ってきて陶酔できない。王家の繁栄を願っているという点ではイギリスも同じだが、日本はあいにく敗戦国である。それに、れっきとした日本国民である俺の真情に、天皇家なんぞというものが関係したことはただの一瞬もない。ただ、僕は天皇制そのものは否定しない。まず、皇室や王室の外交というのは国家にとって非常に大事なものだからだ。それから、これはミーハーだが、僕は雅子妃殿下の大ファンなのである。本当にこの人は好きだ。気品があって、スマートで、モダンである。最近、西尾幹二というバカ右翼評論家が、彼女のことをさんざん批判したという。てめえ殺すぞ。とは言わないが、右翼的な表現を借りれば、この野郎に関しては、直接行動(いい言葉だ)を加えたいくらいだ。まあ、俺の目の前にいたら有無を言わさずぶん殴るであろう。
 僕は、日本の国歌はつねづね、「浜辺の歌」にすべきだと思っている。

 あした浜辺を さまよえば
昔のことぞ 忍ばるる
風の音よ 雲のさまよ
寄する波も 貝の色も

 この歌こそ、日本人の平和を愛し、自然を愛する心情が凝縮された名歌ではないか。まさに国歌にふさわしい。これが駄目だというなら、私は「加藤隼戦闘隊」を推す。このメロディもすごく乗る。なに、好戦的?「君が代」あの、陰々滅々たる集団自決みたいな歌に比べれば純然たる戦闘ソングであるだけにリアリティがなくていい。とにかく「君が代」は、日本人がが戦争責任と敗戦の恥を今もさらす羞恥プレイのようでいやなのである。ドイツのようにとっとと国歌を変えず無反省をさらし、てめえだけがそれを国としての矜持のように思ってはたから見ればただのバカである。
 日本人が愛した日本国憲法を改訂すると言うのなら、国歌改正も同時に考えなくてはならないのではないか。それこそが、新生日本を象徴することだと思うのだ。

「国歌斉唱」起立せぬ人も苦しからむ何故に論(かた)れぬ「国歌改正」 黒田英雄
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:35| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

1124 女性の祭典オリンピック

 今日会った某知人が、怒ること怒ること。星野ジャパンの醜態にである。彼に言わせれば星野の采配はもう滅茶苦茶。トーナメント戦を戦う采配ではないと激怒していた。その知人は野球に非常に詳しい人である。彼が言うには、星野の采配には怒りというより呆れまくったという。それはともかく、参加した選手たちは、さぞかし深い傷を負っただろうなあ。ペナントを放り出してまで、プロである彼らがオリンピックに参加した甲斐がまったくなく、ただ疲労と、徒労感だけが残ったことであろう。特にホームラン王争いをしていた某選手など、痛恨のエラーでぼろくそ言われ、ホームラン王の記録を棒に(おそらく)ふり、貴重な1年をパーにするだろう。噂によると、「監督が星野じゃいやだ」と参加を拒否した選手がかなりいたという。野球すなわちベースボールを、もうオリンピックから外したほうがいい。これは日本チームが出るべきでないと言ってるのではなく、プロスポーツとして確立しているものである以上、参加基準がどうしてもあいまいになるし、選手にとってオリンピックに出るメリットが何もない。実際、アメリカなんて、メジャーは一人も参加してないし、アメリカ人なんて国内リーグがすべてなんでオリンピックの野球に自国選手が出てるかどうかなんでどうでもええのである。サッカーも、ワールドカップという一大イベントがあるんだから、わざわざオリンピックに出張してこなくてよろしい。テレビ東京なんて、競馬中継を潰してまで、誰も見んであろうサッカーの決勝戦を中継しくさってばかたれが。誰が見るか。
 今年のオリンピックは、ソフトボール、女子レスリング、女子バドミントン、女子重量上げ、女子走り高跳び、女子飛び込み、などがめちゃくちゃよかった。唯一、男子で見られたのがフェンシングの太田くんと水泳の北島くんである。僕はオリンピックというのは、実は女性スポーツ選手に脚光を浴びせるための祭典だと思っている。男はいいよ男はもう。男はほかの選手権で頑張ればいいのだ。ただ、女子は女子でもシンクロだけはひたすらどうでもいい。逆さまに泳いで足を出すなんておまえら、犬神家の殺人死体じゃねえんだから。誰がこんな、昔の江戸川乱歩映画の人魚女みたいな見世物競技を考案しやがった。どう見たって体に悪いぞ。
 僕は、スポーツは単純なものほどいいと思う。単純なものほど奥が深いのだ。提案したい。ぜひ、「綱引き」をオリンピック競技として採用していただきたい。五人制、十人制と人数別に分けて。これも、単純だがテクニックのいるスポーツである。そして、日本とインドしか参加せんだろうがカバディもぜひ。俺はあの「カバディカバディカバディ!」と連呼し続けなくてはいかんというアホなルールが渋くて大好き大好きなのである。
 テニスやゴルフがオリンピック競技でないように、金が稼げて国際大会が確立している競技はもうオリンピックからはずすがよろしい。野球、サッカー、これはもういらん。本当に、今回野球に参加したプロ選手たちは可哀想だ。ただ傷ついて疲労するために北京に行ったようなものだ。星野も、性格とはいえでかい口を叩きすぎたよなあ。素人の俺が見てもおかしな采配が多かった。次回から、野球をオリンピック競技から除外し、二度と復活させないでいただきたい。
 最後にひとこと。福原愛ちゃんも頑張りましたね。拍手を送ります。
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2008年08月23日

1123 お婆ァの犯罪

 以前、「塔」の池本一郎氏が老婆のことを媼(おうな)と表現することに違和感を感じると書かれていた。僕もまったく同感である。僕もやはり、この言葉はぴんと来ない。そこで考えた。お婆ァ、という表現がいいのではないだろうか。この言葉を知ったのはなみの亜子の短歌からだ。もちろん、これはこれで、親近感というニュアンスが入ってしまうし、当人は若いつもりだったらただの失礼だし、年齢を表わす言葉というのは本当に難しい。
 なんで老婆、もといお婆ァの話から始めたかと言うと、私が予期したよりもはるかに早く「お婆ァの通り魔が出た」からである。報道によれば、この79才のお婆ァは、全財産が6000円しかなかったので、「人を刺したら警察が『なんとかしてくれる』と思った」と供述しているそうである。「塔」8月号の歌で名歌選にも入れたものでこういうのがある。

杖をつき駆け込み来たる隣家の媼は居場所がないと嗚咽す 金原華恵子

 なんと痛ましく、二十一世紀のリアルを写し取った歌であろうか。家族の中で居場所のない老人というのはゴマンといるだろう。邪魔にされる無視されるいやがられるクサイと言われる、あげくの果ては物置みたいなとこで一人で食事をさせられる、どころか冗談でなく食事ももらえない(万引き老人をつかまえたら、嫁がごはんをくれないからだと言った例が本当にあるそうだ)。僕に言わせれば、この歌に詠われたお婆ァは、嫁をぶっ刺して刑務所で余生を送ったほうがはるかに幸せだろうし、それを実行に移す層が明らかに存在し始めているということだ。実際、刑務所の老人ホーム化というのが問題になっとるらしく、余生を地獄のような世間や家族とせめぎ合って過ごすより、刑務所という、三食健康食がいただけて規則正しい生活ができて病気になれば医者にも見てもらえる、万全な環境を選びたい老人や、ほかに生き方を知らない老犯罪者で刑務所は満員状態だそうである。そりゃ嫁にいびられ孫にバーにされるより、同年代、同境遇の友達もできるし、短歌だってあそこでは隆盛なので文芸雑誌の主宰をやるのだって夢ではない。冗談ぬきで、余生は刑務所で、という時代が来るのではないだろうか。
 昔は、地域社会というのが機能しており、さらにその中には「家」思想というものがあった。老人は、知恵ある存在であり、伝統の守護者であり地位も高かった。しかし現在、「家」思想は崩壊し、老人の知識は役に立たず、年金収入のあるミイラくらいにしか思ってもらえていない。これが、年金のない老人だったらどれだけ邪魔にされることか。今回の通り魔殺人未遂のお婆ァはこう考えたのであろう。「79で通り魔をやれば懲役十五年として、ちょうど刑務所内で安らかに死ぬことができる」と。諸君、これは笑いごとではないぞ。刑務所に入るというオドシが犯罪の抑止にならないという時代が来ている。それだけ娑婆の環境が老人にとってひどいことになっているということだ。人ごとではない。我々も今から老人になっていくのだ。言えることは、若者が老人を尊敬せず、老人が若者を希望しない世界において、異なる世代同士が共に暮らすことは、弱者が弱者を食うという地獄のジャングルでしかないということだ。
 これから、老人の作る短歌は面白くなってくる。僕に言わせればまだまだ老人の作る短歌には綺麗ごとが多すぎる。オマエら、孫が嫌いだろ?嫁をブチ殺し、味方もしてくれない息子になんぞ一銭も残すもんかいっそあのガキ禁治産者にしたろか、と思ってるだろ?そういうことを歌に詠まんかい。そういう心境を詠った、短歌研究新人賞受賞78歳、が出たほうが、馬鹿で甘ったるい若手の歌にくれてやるよりよっぽど衝撃性があると思う。ひょっとして、お婆ァのふりをしてお婆ァの悲惨を詠う若手歌人が出るかもしれない。
 笑い事ではない。日本は、経済的にも、精神的にも、とんでもない時代を迎えつつあるということである。歌人は、その現実を見据えなくてはならない。
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:45| Comment(0) | TrackBack(1) | 日記

2008年08月21日

1022 「塔」8月号「陽の当たらない名歌選」2〜レールとモディリアーニ〜

 今月は、名歌選1より、2のほうが断然よかった。こういう月も珍しい。何度も言って恐縮だが、読んで飽きない歌ばかりだ。じっくり鑑賞していただきたい。
 今月の赤丸歌、花山欄、158首。池本欄、154首。吉川欄作品1、159首。真中欄作品1、118首。計589首。「塔」8月号、赤丸歌総数、941首。

      「塔」8月号「陽の当たらない名歌選」2

いつもとは違う景色をながめてるレールの上の前向きな俺 西之原正明

くちびるにくはへて割りし割り箸の割れたる面に刺は生れたり 常盤義昌

国といふ文字とコンビを組まされて迷惑顔をするか家の字 吉田健一

モディリアーニの描きし女性の声帯はおそらく栗木京子と同じ 蓮尾みどり

もうこの世真平と姉は横を向く太い眉毛で柩の中に 高橋万里子

病み勝ちな人に飼はれておほかたはわが家に眠る隣りの猫は 中村春菜

「寮に行く」から「帰る」に変わるひと月め靴紐結ぶ背を見ておりぬ 中山惠子

あかんなあ母親似なんやこのたれ目 我が顔眺め息子が嘆く 中山惠子

曲線の多きボウルの内がわにわたしの顔は逆さまにうつる 永田 愛

見守られ手助け受けて街なかを夫はじめての車椅子に行く 平林明子

裏で鳴く野鳩の声はドス黒くかの日の父の声に似てゐる 山田勝代

柴田翔読みつつ君を待っていた巡礼橋の低き欄干 西川啓子

行き詰まる議論に目を閉じいる人のタバコを吸えない手が宙に浮く 坂本佳子

杖をつき駆け込み来たる隣家の媼は居場所がないと嗚咽す 金原華恵子

夫在らばこんな無謀はできないと言いつつファンドに手を出す友あり 高畑かづ子

貧乏は遺伝するかもと生徒につい言つてしまひそうで就職指導 古堅喜代子

子が借りしアパートに広く風の道ありたることに安心をせり 首藤よしえ

角度変えイチョウ若葉を撮るときにどの構図にも写る電線 畑 久美子

しかと生きいたるか二年半振りに遇いたる野良は距離置きて鳴く 池田幸子

久々に生家を訪へばかつて議員なりにし兄はただ籠るのみ 渡辺仁八

そんな事女のする事ではないと言われて今でもハモニカ吹けない 里田美恵子

川風は柳にひとしく吹いてゐるまだ灯しをり納庄表具店 久岡貴子

泣くことに疲れた身体に補えり午前零時の塩昆布茶漬け 岡本幸緒

組合費がもつたいないと言ひ出せるひとの眼鏡の幅の顔なり 朝井さとる

日に焼けし表紙は土色それだけで良き本と思ふ父の娘であり 出 奈津子

長き長きトンネルをゆくわがバスはうしろへ後へ走る心地す 大塚洋子

契るとは心をもらふ契約と沁みて思へり君逝きしのち かざまきみこ

雨あとの川みず増しぬ頭を上げて抗いながら蛇が流るる 本間温子

床を這う蟻を避けつつ髪を掃くそろそろ眼鏡の替え時らしい 松島良幸

できぬことを検討中と言い続け前任者はちゃんと栄転したらし 森尻理恵

 本文終わり。このうちの2首に対してコメントをさしあげたい。

いつもとは違う景色をながめてるレールの上の前向きな俺 西之原正明

 一見、若者のすがすがしい明日への希望を詠ったように見えるかもしれないが、とんでもない話である。一読して俺は、この歌の絶望の深さに絶望した。そもそも今時、「前向き」なんぞという言葉に絶望をかぎとらないほうがおかしいのである。だいたいレールの上で前向きってなんだ。乗せられて運ばれて行っとるだけではないか。もしも見える景色がいつもと違う(転勤だか転校だか、あるいは失職だか放浪だかしらんが)として、人ごみの中見たくもない進行方向を向かされているということに変わりはないのである。「いつもとは違う景色」という言葉が逆に、「どこに行っても違いはない」という究極の絶望を強調する役目をになっている。下句の、「レールの上の前向きな俺」という諧謔が痛々しい。西之原正明に、僕は注目している。今様の若者の直截なレジスタンス的な歌が詠める、稀有な若手歌人だ。
 ところで選歌後記欄でこの歌が取り上げられていたはいいがその評にびっくらこいた。歌の読みかたはいろいろあるんだなーと、つくづく思った次第である。

モディリアーニの描きし女性の声帯はおそらく栗木京子と同じ 蓮尾みどり

 栗木京子の声は、非常にハスキーで魅力的である。この歌の作者は、モディリアーニ描く女性の肖像から、栗木氏の声を想像したという。モディリアーニといえば、どんな相手でも馬みたいに顔を長く描く人、という印象があって、なんで彼の絵から栗木さんを連想したか不思議だったのだが、たまたま床に転がってた赤瀬川源平の絵の解説書を開いてみたら、死の二年前に描かれたという「おさげ髪の少女」という肖像が、本当に栗木さんによく似ててびっくりした。確かにこの少女は、栗木さんの声で話しかけてきそうだ。モディリアーニの絵と栗木京子、まったく考えたこともなかったが確かに言える。作者の視点はするどい。ひょっとしてこの作者は、同じ本を参照したのかもしれない。

 名歌選2は、コメントしたら面白くなるような歌がたくさんあった。しかし一応、名歌選1のほうにコメントを多くつけるという僕のルールがあるのでこのへんにする。理由は、くたびれるからだ(笑)。今月の名歌には、われながら秀歌が揃っていると思いますよ。前回、「塔」より「短歌人」の歌のほうがいいと書いたが、訂正する。
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1121 夫婦別姓

 8月19日の日記のタイトルを(今は修正したが)、平成18年「短歌人」上半期うんぬんと書いてしまった。2008年と平成18をごっちゃにしてしまったのである。俺は言いたい。元号などという不合理なものはもう廃止せよ!めんどくさくてしょうがない。私の感覚では元号は東京オリンピックの昭和39年で終わっている。あとはひたすら西暦の世界である。だって、昭和50年といってもなーんも連想しないが、1975年と言われれた瞬間に、あざやかにその時代が目に浮かぶのである。もう、元号なんてものには、時代を映す鏡としての力はないのだ。俺は実は、昭和が何年まであったか知らんし、平成だからなんだっつーのだ。明治大正昭和までならともかく、「寛永」とか「白雉」とか言われてなんかイメージできまつか、みなさん?ちなみに平成の次は「巌流」がいいね(笑)。なぜなら、日本はどんどん厳しい時代になって行くからだ。いずれにせよ、元号とは不合理の極み、廃止すべきである。

 また、くだらんといえば、なんで日本政府はいつまでたっても夫婦別姓制度を採用せんのだ。法律上は「どっちかに合わせる」だが、ほとんどは女性が男性の姓に合わせている。彼女たちは、なんの抵抗もないのだろうか。俺が女だったら我慢できない。人格の否定である。俺の妻も、俺の名字になってしまったわけだが、どうもぴんとこない。俺は、妻の旧姓のほうがいまだに好きだ。だいたい、旧姓、と言われることになんの抵抗も抱かないのだろうか。だいたい日本というのは、戸籍とハンコに異常にこだわる国である。なにかと言えば戸籍謄本とハンコ、である。そんなに、どこで生まれて引っ越してくっついて離れてなんのなにさまであるか、なんてことが大事か!?だいたい、家制度なんて崩壊同然なのだから、んなもんに頼っていたらいずれ国家の崩壊を招くであろう。日本はこれから、どんどん移民を受け入れ、帰化や永住をしていただかざるを得なくなってくるだろう。なぜならそうしなければ労働人口が確保できなくなるからだ。国家の存続を考えるときは、徹底してリアリストであらねばならない。外国人排斥だの、純血主義(だいたい日本人のどこが純血か)だののゴタクは、真の憂国の徒が言うことではない。日本という国は、本当に厳しい局面を迎えている。大きな発想の転換を起こさない限り、間違いなく崩壊していくであろう。亡国の危機に瀕したとき、必ず出てくるのが旧道徳の復興などの逆行主義だが、こいつらは問題外なので無視する。
 せめてなあ、選択制夫婦別姓くらいとっとと法制化しろよ。同性結婚も、あるいは事実婚カップルやシングルマザー、シングルファーザーへの優遇ももちろんの話である。外国ファンドもどんどん参加させるがよい。夢物語にすぎないって?とんでもない、俺は徹底したエゴイストでありリアリストである。これはもう、将来現実のものとなって行かざるを得ないと断言して過言ではない。
 ただ、日本猫だけは大事にしましょう。だって日本猫は、みみ太を始めとしてほんとに可愛いんだもん。みみ太は清少納言も愛でたという、由緒正しい平安白黒猫の末裔なのである。犬とみまごうほどの人なつこさである。きっと、紫式部が執筆中も膝に乗って、おとなしくしてたであろう。これがアメショーとかだったら源氏物語はばりばりに引き裂かれて後世に残らなかったと思う
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2008年08月19日

1120 平成20年「短歌人」上半期ベスト23

 歌は、ストレート短歌でなくてはならないとつくづく思う。つまり、歌というのは、題材が90%であり、残りの10%がテクニックなのである。何を詠うか、その感性こそが歌人の才の90%なのである。「短歌人」上半期のベストをここに挙げる。私の短歌的マニフェストにそった歌だと自負している。じっくり鑑賞していただきたい。

      「短歌人」2008年上半期ベスト23

五十年打ちても飽かぬ我が父は病み伏してなほ博打を語る 内藤健治

部屋ぬちをゆきて戻りて黒猫は遺影の主の前に寝そべる 青木ルリ子

感情の贅肉削がれてうつくしい老女を風の斎場に見ぬ 御厨節子

のりこえるものがまだある春までに吹雪の夜はじっとしており 北島裕子

「生かされる」謙虚にみえて傲慢で手鎖のような言葉つぶやく 生野 壇

落書を白で消したるその白がさらに異様な落書に見ゆ 斎藤 寛

肩に重い休み終わると六年生こんなぼくにも責任がある 上村駿介

眉ひいて今日一日をと立ち上がる 昨日も小さな出会いがあった 鎌田ヒロ

ゐてもゐなくてもゐてもゐなくてもゐてもゐな 浪の響きを聞いてはいけない 川井怜子

彼(か)の声に聞き憶えなしと耳ゆるめ家猫は野良に深入りをせず 高島 藍

ふと君の耳のかたちを思うかな卓に置かれし眼鏡のつるに 佐山みはる

秘め事を打ちあけたくなるながながと小便つづく象を前にし 後藤祐子

華やげる新年歌会昨日終へて明日は予約の入院となる 村瀬直躬

手紙書く右手(めて)の内側ほの暗く汗ばむあたりにゐる恋ごころ 近藤かすみ

寝たきりの娘の頭に敷くゴミ袋ありて叶へりシャンプー香る 辻田洋美

「この雪の白さを君に送ります」幾度撮りても白の持つ闇 三島麻亜子

逃げ惑ふわれの眼に映りしは空襲のなか燃ゆる火葬場 中山邦子

休日のバイキングでは不器用な家族の方が幸せに見える 丸井まき

ゆっくりと葉の色づくように二人して歩ける人と終に逢わざり 阿部美佳

親子丼その残酷をよろこびてはじめてその名つけし人はや 松野欣幸

棺桶を引きずり歩く「フランコネロ」ああ哲学が土煙を吐く 山本照子

まろやかに大鋸屑香る製材所隠れて鬼を待ちし日とおく 後藤祐子

「みずほ台〜柳瀬川間」人の死んだ駅の名前はいつもやさしい 砺波 湊

 「短歌人」は、直截的な歌が多くて僕は好きだ。「塔」なんか、綺麗ごとの歌が多いもんなあ。うんざりする。ただ、不思議なことに、結社誌の読後感としては、「塔」のほうが一段上なのだ。不思議なことである。おそらく「塔」は、雑誌としてのコンセプトが意思的なのであろう。そのぶん「短歌人」は、サークル誌に近いテイストがあって、いい歌が多いわりに印象が散漫なのである。僕が「塔」を二年で退会しようと思っていたのにいまだに居座っているのは、そうした本としてのコンセプトがしっかりしているからだろう。歌風は断然、「短歌人」のほうが好きである。
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2008年08月18日

1119 水照(みで)り

 今日は、猛暑の中休みみたいな涼しい一日だった。体が癒される。考えてみれば、俺はもう半世紀を生きた。俺だけじゃないと思うが、大半の人の人生は、「これしちゃダメ、あれしちゃダメ、あれするなこれするなアクビをするな屁もこくな」などの、理解不能の制約の中にあるわけであるが、今や、一世紀を生きることぐらい当たり前の時代が来ている。しかし、それは決して幸せではない。老後の地獄という試練を与えられているのだ。内臓ぼろぼろのわたくしが、あと何年生きるかは神のみぞ知る、である。その中で、偶然短歌という韻律を知った。
 僕は、この悲しき玩具を手に入れたことを、最高の幸せだと思う。この玩具だけは、もう人からどうしろだのこうしろだの、センセイがどうしたの、結社がこうで組織がああで運営がどうたらで大会がああだとか、そんなことからは全く関係なく遊ばせていただく。もう、制限されるのにはうんざりだ。短歌というのは、確かに日記的なものがある。刹那刹那思ったことを韻律にするという、この上もなく愛おしい文学だ。もう、通りいっぺんの写実短歌や、自己愛撫にすぎない、肉体感覚も社会性も持たない歌が認められるほど、ヤワな時代ではないのだ。いつ、ホームレスになるか知れないほど厳しい時代を迎えている。だからこそ、この短歌という韻律は、悲痛な傷みと、己を晒す武器となるのだ。
 もっと、歌人には個性を持ってもらいたい。何を詠いたいのか、自分をどうアピールしたいのか、それがわからない歌人が多すぎる。それ以前に、文学に自己アピールが必要だということがわからん連中が大部分である。この場合の自己アピールというのは、歌手のプロダクションが大枚かけてやるキャンペーンではなくて、自分の個性を把握するということである。それはたとえば怒りでもいい。そう、今の短歌には、怒りというモチーフがなさすぎるのだ。そして、歌人に必要なのは常に批判精神である。結社の上層部の、それも今様に媚びた腰の引けた評価に受けようとして歌を作るのは、徒労であるのでやめたほうがいい。何度も言うが、歌は自分を喜ばせるために作るものだ。受けたい気持ちはわかるが、自分のために読んでいる歌には読者をつかむ力があり、そのほうが結果的に受けることになる。僕は、結社誌の膨大な歌の中から、そんな歌人の歌を直感的に選んでいるという自負がある。「塔」8月号の座談会「結社とのつきあい方」において高島裕氏が「簡単に言っちまでば、ヨイショするやつがたくさんいてうんざりする」と発言しているが、そういう奴らっていったい、誰のために歌を作っているのだろう。センセイを喜ばすためか。バカかオマエら。僕は、短歌という文学に、センセイなどという存在はまったく必要ないと思う。「短歌研究新人賞」応募用紙には「師系を書け」という欄があって毎年あきれるが、これぞアナクロニズムの極致であり、まったくバカな雑誌である。現代短歌において師系などというのは無用の長物である。歌ぐらいは、自由にやらせていただきたい。少なくともわたくしは、誰にも似ていない歌を作っているつもりであり、人の作品を読んで影響されつつも、自由に短歌を作っていきたいと思っているのである。

      今日の一首

そこはもう川の半ばと告げられてふりかへるとき顔は水照(みで)りす 永田和宏
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2008年08月16日

1118 結社に所属しても一人

 今日はテレビ漬けだった。競馬中継をはさんで、オリンピックの女子レスリングに熱中、疲れた。こんなにオリンピックを見たのは東京オリンピック以来だ。ホントに女子レスリングって見てて面白い。

 「塔」8月号「結社とのつきあい方」をもう一度熟読する。高島裕、吉岡太朗の両氏は、「歌は一人でやるべきだから、結社に所属しない同人誌を作った」と言っておられる。気持ちはわかるが、歌作というのは、結社に所属していようがしていまいが、一人の作業であると僕は思う。僕が一番軽蔑するタイプの歌人というのは、選者が選歌後記で選んだ歌や、いい場所に掲載されている歌ばっかり詠んでそれがいいと思い込み、他の歌を読んで鑑賞する努力をしない、という輩である。そもそも選歌とはなんぞや。確かに、一流歌人はいい歌をあまた詠んでいらっしゃいます。しかし、これと選歌とは別問題だ。選歌というのは、100%、選者の人生観が反映されるものである。その選者の選んだ歌が、石部金吉金兜みたいな色気もそっけもない歌ばかりだとしたら、選んだ当人もそういう奴だということである。逆に、いくらエッセイで真面目なことを言っていても(女流にままある)、色っぽくて淫靡な歌を多く採る人にはそういう要素があると、否定してもムダである。俺の目はごまかせない。それでいいのだ。
 歌をやり始めて五年以上たった人なら、センセイのご意見など仰がず、自分の好みでいい歌を選べるはずだ。また、自分の目で選んで、いい歌人をピックアップすべきだ。それが結社の繁栄にもつながるはずだ。「心の花」なんて、僕は文学館で読むが、山ほどある石の中にたくさんの玉が光ってるのに、選歌欄ではだーれも取り上げてねえでやんの。名歌選をやってやりたいとこだが、余計なお世話にも程があるのでやめとく。
 僕は、歌人たるもの、ブログ日記を書くなら、僕のやっているような名歌選、秀歌選をやるべきだと思っている。それは、強烈な自己アピールとなるであろう。僕以外で自結社の選歌をやっているのは伊波虎英くらいしか目につかない。オマエら、ホントに結社のセンセイのとってる歌ばかりがいいと思ってんの? まさかそうではないと思うが、ネットという公の場で、センセイの選をもれた歌をホメることが結果的にセンセイを貶すことになるのでは、という余計な気を回しているのでは、と勘ぐりたくもなる。もしこの勘ぐりが当たっているとすれば、真の意味での結社の隆盛はないだろう。ただ、僕は、そう言いつつ、他人の選を受けるというのは大事なことだと思っている。私の歌を真面目に読んでくれる人(第一読者)の選歌は貴重である。僕は一生、選を受ける立場でいたいと思う。だから、結社内出世して昇欄して、選ぬきで全部載るようになったらオシマイだと思っている。矛盾するようだが、それが結社に入るということの歌人の楽しみではないか。
 歌人同士の親睦の場が主として歌会である、というのも、僕に言わせればおかしな話だ。僕は、個人的に僕に会いたいという人がいればいつでも出かけていく所存であるし、そこから新しいつながりができるかもしれない。だが歌会は御免こうむる。歌会というのは、僕からすれば、結社の政治的つながりの確認のための覇権活動の一環であるとしか思えない。歌の上達がどうの、他人の批評に触れてこうのなんぞというのは、断言してもいい、「嘘の皮」である。歌が上達したかったら結社誌を読みこんで、歌誌や歌書や歌評をたくさん読む、他に何もない。歌仲間に会って、わいわい歌談義をして飲んで騒ぐのが楽しい、そう公言してるぶんにはおおいによろしいと思うが、「歌の上達と研鑚のため」なんぞという嘘をこいてはいけない。
 歌仙となりたければ、山にこもれ海に沈め。しこうして、歌書を読め。それ以外にはないのである。私は結社に所属しているが、常に一人である。
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:47| Comment(4) | TrackBack(0) | 日記

2008年08月15日

1117 太田雄貴は偉大!〜ブックメーカー制夢のまた夢〜

 今日、家に帰ったら、女房がオリンピックの男子バレー「日本×中国」に声援を送っておった。俺はおよそ、スポーツの中でも特に、バレーボールにまったくもって興味がない。あれは、アメリカ人が室内遊戯として考案したものであり、まりつきであってスポーツと呼べるようなものではないのだ。現に、創始者たるアメリカがまったく力を入れていないではないか。だいたい、男子バレーなんて見ていて気色のわるいことおびただしい。だいたいなんだってあいつらは、点が入ったといっては抱き合い、サーブが決まったといっては抱き合い、相手がボールをアウトしたといっては抱き合っておるのだ。俺がメンバーだったらおぞ気を振るって逃げ出すであろう。男が団子になって抱き合うなんぞ気色わるいの極致である。バレーとは、女子のほうが似合う競技であろう。
 オリンピックは、バドミントンがめちゃくちゃ面白かった。これも、女子のほうが似合う競技だ。負けちゃったけど、シオタ選手、可愛いかった。それと、びっくらこいたのはフェンシング。男子フルーレで日本が堂々の銀メダルである。これは凄い快挙だ。フェンシングは前と後ろにしか動いてはいけない競技であり、場合によっては足を骨折するほどの過酷なスポーツである。この西洋剣術で日本人がメダルを取れる日が来るなんて、夢にも思わなかった。テレビ中継ねえなあ。汗くさくてむさっくるしいデブともっこりの柔道や体操ばっか映しくさって。俺は、日本がメダルをいくつ獲ったかなんてどうでもいいのである。たとえば、私をバレーボールに熱中させたければ、ギャンブル制度を導入するがよろしい。
 イギリスそのほか、ブックメーカー制度を公認している国がうらやましい。オリンピックに限らず、スポーツにはおしなべてギャンブルの要素がなくては面白くない。たとえば平泳ぎの北島なんて、単勝110円。しかし、フェンシングは大穴である。相当なブックメーカーが首をつったのではないか。このたび銀をとった太田雄貴選手の複勝は3000円台の大穴だろう。馬連ならぬ国連なら、万国券は間違いない。俺は英国のブックメーカーに前売り人気を聞けるものなら聞いてみたい。
 日本のテレビがスポーツを中継するときのきっしょく悪い決まり文句はこうだ。「感動をありがとう」。おげげげげげげ。日本では、ブックメーカーなんぞ成立しづらいだろうなあ。なぜなら、それはありていに言ってノミ行為であり、それを制度化し、自己責任のもとで各々が愉しむものであるので、精神の自立した、損をこいてもこかれてもへこたれないような自己を確立した者でないと楽しめないからである。ギャンブルやあるいは煙草などの嗜好品で個人が身を滅ぼそうがどうしようが個人の生き方の問題である、という近代的自我の確立をおこたっておきながら、イラクで善意の青年たちが人質になれば、「勝手に人助けなんてスカしたことやろうとしやがって首切られようがどうしようが自己責任だ」とオノレらの国際感覚のなさをタナに上げて弱いものいじめのリンチに走った日本人たちの醜悪さを、俺はいまだに鮮烈におぼえている。オマエら勝手に、メダルの数を喜んでおるがいい。俺は、あんなかわらせんべいみたいなメダルや日の丸ふんどしより、いい勝負を見、いい勝負のためにゼニを賭けたい。アンタらは勝手に、「感動をありがとう」と通りいっぺんのごたくを吐いて感動したつもりでおればいいのだ。
 なにはともあれ今大会、フェンシングの太田雄貴。アンタが一番偉い!これは、かつて柔道でヘーシンクが金メダルを獲ったのと同じ、お家芸だと思って安穏としていた連中に対する衝撃である。日本のマスコミはレベルが低い。ここまでの太田くんの苦労を特集記事にすべきだ。柔道やら体操やらなんてもういいよ!
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:34| Comment(0) | TrackBack(2) | 日記

2008年08月13日

1116 父の巻き煙草

「自転車を欲しい」と誰もいない海にもぐり栄螺に云っていた夏 能登 鳶

 自転車というのは、今でこそ、1万円でおつりが来て駅前にあふれ返ったりする使い捨て商品しかないが、作者にしてみれば貴重な、夢の乗り物であったろう。僕も、自転車を買ってもらったとき、誇らしく思ったものだ(クラスのマドンナと同じ自転車で、私の愛機はなんと、女の子用だったのだ)。それはともかく、この、一見シュールな歌にこめられた作者の願望というものが痛いほどわかる。海にもぐり、サザエに向かってしか、自転車が欲しいことを言えない作者。おそらく、親にねだったりできない環境だったのだろう。下句が滅茶苦茶いい。鬱屈した願望というものが、見事に凝縮している。

雨の日の渡り廊下はひんやりと脚を掴まえ無口にさせる 佐藤浩子

 ひんやりと脚を掴まえという表現が抜群である。学校の渡り廊下というのは考えてみれば他のどこにもない特殊な空間で、なぜかと言うと校舎を移動したいんならべつに地面を歩いてったっていいのに、わざわざ地面に廊下を作ってさらに屋根までつけている、外とも中とも廊下とも橋ともつかない奇妙な場所である。社会人になってからこんなところを歩く機会はなく、あるとしたら渋谷のパルコや新宿の高島屋の連結通路だろうがあっちは、別な短歌的興趣はあるがこの場合の抒情性と無縁であること論を待たない。学校にはいろんなお化けや伝説が発生するが、それは日常そのものでありながら、「卒業したら二度と体験できない」という非日常がどっぷりと居座っているからである。だいたい社会人の世界であれば、「こんな吹きっさらしを歩かせるつもりか」と福利厚生的に問題視されるであろう。生徒であるということへの抑圧と、学校のかもし出す怪談的雰囲気と、渡り廊下という神さびた場所が呼応しあった秀歌である。

三十分と我慢できずにメール打ち居眠り始める保護者のSは 坂崎由明

 教師の立場から、父兄のバカさ加減を詠った連作5首の中の一首。親になる資格もないような親が多い。そしてこのバカどもは、バカだけに繁殖力だけは旺盛で、すぐにぽこぽこ繁殖する。避妊という技術や知識すらこのバカどもの頭にはないのであろう。マルクスの「共産党宣言」の中に、リアリティある論は次の一つだけだ。つまり、国家が子供を管理し、教育せよということ。たとえば、このバカ親どもが育児放棄した子供を国家が管理するというのは、十分ありえることである。ただこのバカどもは育児放棄すらせず、手元に置いて虐待して殺すのである。トンビが鷹を生むという言葉はすでに死語であり、貧民窟からは天才が出ない、という真の意味での絶望社会がすでに到来している。坂崎氏の5首から、ゴミな教師も多いがゴミな父兄も多いということがよくわかった。教師も大変である。一番気の毒なのは子供である。バカな両親から生まれて本のひとつも読ませてもらえず、幼児期に叩きこまれたバカのままで長い一生を、読む楽しみも見る楽しみも知る楽しみも何ひとつ知らずに生きていくのである。

赤ちゃんはもう産まないでね」甘口のカレー食べつつ長男が言う 中村明美

 これはほほえましい歌だ。甘口のカレーというのがいい。要するにこの「お兄ちゃん」は、母親の世話と愛情が、一時的に生まれたばかりの赤ちゃんに移ってしまったことに素朴に嫉妬しているのである。可愛い。この歌なんぞまさに、松竹蒲田系「塔」短歌の象徴的な歌である。子と母親の良好な関係を詠ったものが「塔」には多い。だから松竹蒲田系とこれを呼ぶ。ほほえましいが、もっと違った視点の歌も読みたい。

配給の菓子に並びし幼き日父の煙草は家族で巻きし 安川良子

 向田邦子「父の詫び状」、あのドラマの世界を彷彿とさせる。お菓子でさえ、配給で貰っていたという切迫した時代、父親の煙草は、ほかの家族がせっせと巻いてやっていたのだという。現在、父親というのにまったく権威がないだけにこの光景には郷愁をおぼえる。そもそも日本の父親というのは、西洋のそれとは違って、仕事はできても銃を持って一家を守ったり経済的危機にしゃんと立ち向かう、なんてことはせず、仕事では専門家だけどそれ以外のことは子供も同然下手すると子供以下、という存在であった。妻=母親と、彼女の薫陶を受けた子供たちの思いやりの傘の下でそうと気付かずぬくぬくと生かしてもらっている、それが日本の父親の典型像である。なので企業戦士というモデルが成立したとき、本来の日本的なもろさや、妻や子供への甘えを剥奪され、日本男児はぼろぼろと壊れて行ったのではないか。僕はアメリカ的な荒野をひとり行くような男性像もかっこいいと思うが、日本人の男が妻や母や姉や妹や娘に依存しない自立的存在になったらそれはそれで気色が悪いと思う。まあ、絶対ならないのはわかっているが、女性のほうが役割を放棄しているので、現在男という男は全員難民状態である(あくまで、時代の変化であり女性に昔のポジションに戻れと言っているのではない)。この歌は、父親を知らない僕にとっては、まぶしいばかりの輝きを持った歌であり、また、終戦間近の、厳しくも幸福であった家族像というものを彷彿とさせる、まさに、向田邦子の世界である。

 今日は、できるだけ多くコメントしたいと思ったが5首で疲れた。歌のコメントを書くというのは本当に疲れる。しょくん、私の採った歌を、それぞれじっくり鑑賞してください。
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:13| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

1115 「塔」8月号「陽の当たらない名歌選」1

 今月の赤丸歌。黒住欄若葉集67首。三井欄136首。栗木欄149首。計352首。

      「塔」8月号「陽の当たらない名歌選」1

雨の日の渡り廊下はひんやりと脚をまえ無口にさせる 佐藤浩子

苗を買う小学二年生にとり巻かれ市のお婆はお釣りにまごつく 丸山隆子

配給の菓子に並びし幼き日父の煙草は家族で巻きし 安川良子

正の数しかないこどもの算数のように理想を積みあげるひと 保村たまき

尾を立てて前ゆく犬の肛門は春日のなかになんと明るい 浜崎純江

トイレには世界地図が貼ってあるいつでもここにある喜望峰 相原かろ

なげ出した脚をすべってゆく光 風は輪郭もたぬ思い出 秋津 霧

パン屑を一列に曳く蟻の群れ引き返すものも幾匹かあり 総田正巳

「自転車を欲しい」と誰もいない海にもぐり栄螺に云っていた夏 能登 鳶

老人に似合う服なく顔のなき若きマネキン直立しおり 村上次郎

廃棄物満載にしてトラックは走る荷台に扇風機回る 八鍬友広

劇場の脇の大道具搬入口かすか柝の音の聞こゆるところ 真隅素子

肺ガンと診断されしその後は一首も歌を作らざる母 小山美保子

食堂もなめこの販売所もあった限界超えし中津集落 木島良子

どれだけの人が手に取り読むだらう雑誌に吾子のマンガ載りたる 助野貴美子

赤ちゃんはもう産まないでね」甘口のカレー食べつつ長男が言う 中村明美

前をゆく友の背曲るを淋しめるわれのそびらを誰か見てゐむ 進士 歩

つれづれに昭和の恋歌聴きおれば「ダイヤル回す」歌詞の多かり 多 昭彦

「蒲公英の絮になる人募集中」養老院に掲示してあり 大鋸甚勇

ホテルより出ずれば雨の降り始む「帰さぬ」などと言われてみたし 白石瑞紀

髪ぬけて爪はがれ落つ無残をも受け入れ若葉の季節となりぬ 隈元榮子

認知症の叔母は折紙折る指に涙拭きおりわれの去り際 飯塚律子

若き日にまばゆく見上げし女(ひと)の現在(いま)年金の多寡語りて盡きず 児島良一

三十分と我慢できずにメール打ち居眠り始める保護者のSは 坂崎由明

病んだ子を残し仕事にむかふわれ沈丁花の香も淋しくかおる 鈴木麻衣子

桐の花嫁ぎゆく日の庭にありき風に揺れいる点景として 炭 陽子

雨に色なき幸いを友と言う楓並木の青きわだちて 谷口かず子

酔う友をベッドに横たへあらはなる太腿ほしいまま二十代 本田光湖

唇は紅いルージュで炎立つ病は現実マケテハナラナイ 山吹 優

相談をされておりしが途中から叱られている気分になりつ 橋本せい子

 今号もいい歌が多かった。明日はできるだけ、多くの歌にコメントしたいと思う。なお、名歌選2は、ちょっと間隔を置いて発表します。
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2008年08月11日

1114 山梨交通よ、ぐわんばれ!〜ああ韮崎市〜

池田直樹様のコメントに書き込みエラーが出るのでこちらに書きます。

>池田様
 てててててて、天才や。信 じらんね。歌は、多く作れば作るほどいいと思います。凄 い!!単純計 算で年460首、一日約1・3首という計 算ですね。欠詠者たちよ!彼を見習え!月10首が作れないなんてそんなバカ なことはないぞ!

以下本文。
 今年もまた、山梨県は増富温泉「津金楼」へ行く。もうこれで何度目だろうか。ここのお湯は本当にいい。肉体がからめとられてしまうのだ。その温泉のお湯のよさを知るためには、最低、合計3時間の入浴が必要である。いい湯というのは、体を犯されているという感覚がいいのである。ここの湯に、まさに私は犯されている。あの、泥水のような黄濁色の湯が、私の体をほぐしているのだ。わずか数分で浴場を出て行くバカなやつがいる。湯と戯れることができるというのも、これも才能だ。いい湯というのは、その中で眠ることができる。私はいずれ、冷泉で熟睡してそのまま沈んで溺死するかもしれない。増富温泉津金楼の湯は、全国1だと僕は断言する。

 ところで、増富温泉に行くには中央線韮崎駅で下りてそこからバスである。何度も行けばどうしても、韮崎という場所に愛着がわく。今年は驚いた。バスから見る家々の半分がすでに廃屋となっているのだ。そして、駅前にはただひとつ、小じんまりとしたショッピングセンタービル(3階建て)が建っているのみである。これは昔、イト―ヨーカドーだったのがいつの間にか名前が変わってしまった。帰り、電車までの時間をつぶすためここに入ってさらに驚いた。二階に上がったとき、フロア半分を占領した、空漠たるスペースに茫然となった。休憩せよとでも言うのだろうか、ベンチが二つ置かれている。奥の紅白幕の向こうもがらんとした空間である。そして3階は、食堂以外が全部100円ショップのダイソーに占領されていた。なおかつ、100円ショップにも食堂にも、ほとんど客がおらんのである。また、韮崎駅周辺の商店街はいわゆるシャッター街、閉鎖された店舗が延々と続き、人通りなど全くないのである。この「全く」というのは比喩でも暗喩でも誇張表現でもなんでもなくて、本当〜〜〜〜〜に人間はおろか、猫の子いっぴき歩いてないのである!増富温泉まで運んでくれる山梨交通バスもいったいいつまで保ってくれるものか。韮崎に数年間通っていて、「地方の疲弊」というものをつくづく痛感し、ぞっとした。帰りのバスの運転手はバスガイドみたいな男で、「韮崎小学校児童十人未満」と自嘲的にガイドしてくれたが、笑い事ではないかもしれない。
 今、高齢者は都市部に転居する人が多いのだという。当たり前だ。妻の郷里の松本近郊なんぞ、バスが片端から廃線になって、車がなければ1日もまったく生活できないという環境である。これはおかしい。たとえば富山県は、カラフルな路面電車を復活させて成功しているという。地方自治体に、地元の人の足である公共の交通機関を存続させるよう知恵をしぼれ、というのは酷であろうか。僕は、韮崎市の光景を見て、四十年以上前に書かれたサム・シェパードの戯曲「4Hクラブ」の中で描かれる、地方都市の崩壊を思った。韮崎市も、この調子ではいつまで保つかなあ。ただ、今年行ってみたらなんと、駅に待合室ができていた。これはいいことである。とにかくこの駅は、夏は日ざらし冬は吹きっさらしで、俺はこの日記で待合室を作れと文句を言ったぐらいだ。いずれにせよ、山梨交通、がんばってちょうだい。超赤字だとは思うが、アナタがいなければ俺は増富温泉に行けないのである。タクシー?冗談じゃない。いくらかかると思っておるのだ。
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2008年08月10日

1113 「読む」ことと「出詠」

 「塔」8月号特集、「結社とのつきあい方」を読む。
 僕は、結社とのつきあい、というのに定義はないと思う。それぞれが、できるだけ長く居心地よく、結社活動を続けていく方法を模索すればいいのである。ただ僕は、自分が昇欄しないという理由で結社をやめるという人の気持ちはよくわからない。もちろん、数か月いて、自分の歌が選歌評にもまったく取り上げられず、ここは自分の歌風に合わない、だからやめる、というのはわかる。ただ、「六年も七年もいるのにちっとも上に上がれないからやめる」という人の気持ちは僕にはわからない。なぜなら、それだけの期間いたということは、ここは自分に合うと思えたからであろう。僕は基本的に結社誌というものは、第一に「読み」だと思っている。そうでなければ、確かに、昇欄できないといって悲観してやめてしまうのもわからなくもない。
 実は僕は、「塔」は二年くらいいて退会しようと思っていた。当時、自分の歌に足りなかった韻律の美しい流れの感覚をつかめばもうおさらばと思っていたのである。もちろん今現在、その感覚を掴みおおせたとは言わないが、当時よりはましなはずである。僕が「塔」を退会しないのは、結社誌を読み始めたところ、気になる歌人というのに相当数出会い、その人の歌を読み続けたいと思ったからである。結社に入る第一義を「読む」ということにおけば、そうそう簡単に辞めようとは思わない。それが当たり前ではないか。
 その意味では、「塔」において、誰からも一度も取り上げられていないのに、毎月欠詠することなく投稿を続けておられる会員がいらっしゃる。そのかたの名前を僕は自然におぼえ、毎月、楽しみに読んでいる。僕はこの人のことを偉いと思う。普通ならめげるところである。僕は、持続も才能のうちだと思っている。だから、「塔」は、10年間、欠詠なく、上限の十首を送り続けた人(作品2)は、無条件で作品1欄に昇欄させるべきだと思っている。苦しまぎれの2首や9首じゃだめ。ちゃんと10首、全部埋めなくてはだめ。僕も、欠詠なしに頑張ろうと思っているが、正直自信がない。病気になるかもしれない。出詠には、運も必要なのだ。僕は現在、「塔」「短歌人」に合計二十首を出詠している。月10首はできても、二十首はけっこうキツイよ。ただ、欠詠は絶対いやだという気持ちで作っているのだ。だってさ、自分の歌が載ってない結社誌が送られてくる、これ以上の屈辱はないだろう。だから俺は、無理にひねりだしてでも、毎月10首ずつを2結社に送っているのである。それはすでに習慣と化している。
 苦言を呈せば、「塔」「短歌人」とも、欠詠者が多すぎる。特に、俺がいいなと思って注目していた歌人がこれといった理由もないのに欠詠したときはどたまに来る。また、偉そうなことをほざいていて「どうせ長続きしねえだろうな」と思ったやつが欠詠してそのまんまだったりすると、「やっぱりな」と思いほくそえむ。俺は自分の、人を見る目には自負がある。結社に入会する人全員に言いたい。結社入りするということは、よほどの事情がない限り、短歌を作り続けると宣言する文学の地獄を受け入れるという決意表明なのではないか。その覚悟がないなら、安直に結社入りなどしないでいただきたい。「結社」だぜ。今どき滅多にない強い言葉ではないか。俺から見て、まことにイージーに欠詠する人が多すぎる。いい歌だけを載せたい、などと言うやつがいるが、おまえふざけんなよ。駄作でもなんでも無理矢理ひねり出して選を仰ぐのだ。そこに未来の名歌が隠れているかもしれない。よくあることである。そして、俺のように、「ああこの人は相当な苦闘ののちに今月は出したな」とわかる読者もいるのである。それからなー、結社誌のどの欄に載ってようと別にかまわんではないか。選者が取り上げたくだらん歌もあまたあるし、その他大勢の中にもいい歌は山ほどある。
 要するに、毎月出詠を欠かさない歌人の歌には、必ず追っかけの読者がいるということである。少なくとも俺はそうだ。結社活動の基本は、結社誌を読むことと、出詠することである。各結社は、歌会の充実に血道を上げてるらしいが、そんなこたあどうだっていいのである。とにかく、結社所属の歌人よ。欠詠だけはやめなさい。それじゃあ名前を記憶してももらえんぜ。結社入りするからには、歌人よ、欠詠はしないという覚悟を持て。
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2008年08月07日

1112 茂吉と運命走〜惜しい一首〜

間口狭き刃物屋に並ぶ庖丁の刃渡りは奥へ行くほど長し 吉岡 馨

 ぞくぞくする歌だ。まず、初句の、「間口狭き」という表現が抜群にいい。たぶん、鰻の寝床みたいな刃物屋さんなのであろう。庖丁の刃渡りが、店の奥に行くほど長いという。どんな店でもそうだろうが、専門職向けの商品となると、奥のほうに置いてあるものである。それは確かなのだが、この歌の場合単純な事実と見えるものを詠いつつ、人間が本来持っている殺意に似た鋭い感覚が、暗く狭くなるほどに研ぎ澄まされていくことの喩になっている。このクソ暑い夏に、ひんやりとした感触のある秀歌である。

植物になりたいひとで群れている 水洗便所に水音たてて 山本照子

 トイレにおける「音消し」というのはいったいいつ誰が始めたのであるか。女性は、男はやらんと思ってるだろうがどっこい男もけっこうやるし、男女兼用のとこに入ったりするとあれはなんですか?「音姫」とかいう面妖なものが壁にとりつけてあって、ためしに押してみると、水洗の音とはてんで似てないのである。関係各社は要研究。いやそういうことではなく、食べることは天然自然で当たり前であり、出すのも同じことである。うちのみみ太(猫)のトイレは食事の皿のすぐ隣である。よく食いかつ出すのであり、そこにはなんの恥じらいもない。こう書いてきてちょっと慄然としたが、出すどころか入れること、つまり食べることすらやらないふりを決めこみたい女性というのが数多くいることに気がついた。うっかりなんかの漫画で読んでしまったのだが、「あたしって食べることって苦手だし」と言ってる女が出てきた。そんなに植物になりたいのならとっととそのへんの桜の木の下で即身仏になるがよろしい。僕は、食欲の旺盛でない女といてもつまらんだけである。女ども、本当はよく食うくせによ。

晩年は幸せですと占われ最晩年の今を思えり 下館えみ子

 なるほど、この歌も、後期高齢者差別社会を象徴する歌だと思った。普通、晩年と言って思いつくのは70代80代だろう。ところが、そんなもん青二才でしかない、90代、100代という「最晩年」が待ち構えているのである。老後はちっとも穏やかではないのだ。後期高齢者差別社会を詠った歌は多くあるがどれも陳腐だ。こういう、諦観に満ちた、事実に即した歌をもっと読みたいものだ。

人生は運と言ひ切る十歳児 明日のほたるに逢いにゆかうか 佐和美子

 諦観と言えば、この十歳児の諦観の凄さはすごい。少なくとも、僕が小学生のとき、こんなこと言うガキはまずいなかった。その当時、人生とは努力や勉強でいかようにも開けていくものであった。しかし今や、人生は運だと言い切る十歳児がいるという。僕は驚きと、羨望の思いをぬぐえない。なぜなら、彼ないし彼女の発見は事実だからである。僕は大人としての責任をもって断言するが人生は運である。努力だ勉強だとじたばたしても無駄である。しかしくそおやじとなった今だからそう言えるのであって、この十歳児の歌には驚いた。

夫にはしたくないねと茂吉をば小島ゆかりは一刀のもと 荘司竹彦

 俺は斎藤茂吉という、偉大な歌人が大嫌いである!いくらいい歌を作ろうとも、その人間性が嫌いであれば俺は読む気がしない。茂吉は、たまたま勉強ができた田舎もんが養子になって斎藤姓をもらってそこの娘と好きでもない結婚をしておいて医局に勤めてからはインターンを引きつれて女郎買いをして奥さんが他の男とダンスをしたくらいですねまくって怒りくるっておまけにオノレは浮気をして娼婦や浮気相手の歌を読むというど鬼畜である。オマエの好きな啄木も似たようなもんではないか、という意見もあろうが、啄木には、傷ついたシティボーイの洗練があり、茂吉はどこまで行ってもイナカモンのねたみそねみヒガみがはらわたの底までしみついておるのである。まったくもって、私の大嫌いなタイプであって、どれくらい嫌いかというと豊臣秀吉と同じくらい嫌いである。田舎もんのど助平のエテ公が。茂吉の歌なんぞまともに読む気がするかぼけ。その意味で、この歌は、茂吉を題材としながら、小島ゆかりの女性性を際立たせている秀歌である。そうだよ茂吉、てめえなんぞただの下品など田舎もんの秀才で、女にはもてないのである。

運命走三度もやってまほちゃんと全部コンビで運命感じる 上村駿介

 僕は、いまどきの小学校の内情など知らんが「運命走」とはいったいなんであるのか。昔、「差別になるから」と言って、運動会の競技に順位をつけない、などという話があって、てっきり冗談か、すぐに止むものと思ってたら、どうも冗談ではなかったらしい。さっぱりわからんので検索をかけてみたら――パン食い競争とか借り物競争とか、足が早ければ勝てると限らない競技を総合して運命走と呼んでいるらしい。きっしょくの悪いネーミングだ。つまり、実力じゃないから、悪く思うなということか。要するにこういうネーミングをする大人どもの、表面だけの平等主義が日本の悲劇と言えるのである。上村くんには今後も、中学、高校と、をぢさんの知らないことを詠んでいってほしいと思う。まほちゃんによろしく。

最後に、惜しい一首。

夕暮れの土手に忘れてきた日傘 実らなかった恋の思い出 鎌田ヒロ

 これは、上句の表現があまりにも素晴らしいので採らせていただいたが、下句が、あんたねえ〜〜〜。んなこと言わんでもわかるがなあ〜〜〜。たぶん、上句で完結してしまったのだろうが、下句はいろいろ考えられる。

夕暮れの土手に忘れてきた日傘 レエス似合った最後の夏の

 作者に失礼かもしれないが、上句の素晴らしさに対して下句があんまりといえばあんまりだから、つい改作してしまった。実に残念な歌であった。
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:04| Comment(3) | TrackBack(0) | 日記

2008年08月06日

1111 短歌人8月号、会員欄秀歌選その38

 暑いと言うより、痛い夏が続いている。本当に、夏と言うより、惨い熱と言うべき季節だ。西日本は特に凄いな。もう、暑すぎて米がとれなくなるのではないかと言われている。暑中お見舞いという言葉が、本当にふさわしい。わたくしのブログを読んでくださっている全国の皆様、頑張って夏を乗り切って行きましょう。

 今月の赤丸歌。会員1欄パート1、174首。同パート2、114首。会員2欄パート1、108首。同パート2、135首。計、531首。

     「短歌人」8月号会員欄秀歌選その38

間口狭き刃物屋に並ぶ庖丁の刃渡りは奥へ行くほど長し 吉岡 馨

植物になりたいひとで群れている 水洗便所に水音たてて 山本照子

晩年は幸せですと占われ最晩年の今を思えり 下館えみ子

直前がもつとも美味いといふ納豆つくづくと視るその腐るまへ 田中曄子

「冷(つめた)川」に沿うて歩める中程の「しあわせ橋」を渡ればケーキ屋 高木律子

運命走三度もやってまほちゃんと全部コンビで運命感じる 上村駿介

断絶とか断念、断食「断」の字の強さ見てをり何を断つわれ 三島麻亜子

姉ぶって嫌がる弟おぶいたる駄菓子屋までの距離をおもえり 後藤祐子

夕暮れの土手に忘れてきた日傘 実らなかった恋の思い出 鎌田ヒロ

遊女らのはかなき願ひいまに込め「しばり地蔵」はしばられてをり 荘司竹彦

夫にはしたくないねと茂吉をば小島ゆかりは一刀のもと 荘司竹彦

草を刈るそばをあわててくちなはの逃げ込む先の草も刈る草 高橋とみ子

無言のまま熊本ラーメンすすりおり 底見えしまですすりてしまえり 蜂須賀裕子

過ちはやまあぢさゐを買ひしこと里にありてはうつくしからず 八木明子

形見分けの上着のポケット六箇所じゃら二百四十万円つるり出で来る 川井怜子

アスパラガスの袋に記す〈島田フヨ〉生産者とあり年齢(とし)を想へり 森脇せい子

いやともいえず髪染め呉れし二十年裸電球灯る真下で 栗林菊枝

ふかぶかと椅子に沈みて出番待つ老優のごとし検査室前 越田慶子

「今度会いましょう」が「いつ会いましょう」に変わる時会話の中のかくし味 阿部美佳

石崖に長々と這ふ青大将見ぬふりしつつ目の隅で見る 大西史子

寝違へた背中が夢を覚えてた驢馬のごときを背負ってゐたが 田宮ちづ子

遁走の叔父三郎は叩かれて狂いて帰され三年生きしと 久保寛容

テレビの音声(おと)消せば澄む声ホトトギス 大河ドラマが歴史なものか 久保寛容

人生は運と言い切る十歳児 明日のほたるに逢いにゆかうか 佐和美子
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2008年08月04日

1110 7月月間ランキング〜腋毛は遠くなりにけり〜

 ブログ開設1282日目。総アクセス数968209。総訪問者数171490人。

      7月月間ランキングベスト10
 
 1位 14日「『塔』陽の当たらない名歌選上半期ベスト20」1819
 2位  9日「夏の栄光〜ストレート短歌こそ短歌の真髄〜」1686
 3位 21日「『新彗星』私こそが真の読者」1522
 4位 28日「プロデューサーの使命とは」1469
 5位  3日「タスポ殺人事件ってか?」1428
 6位 30日「ヘタレの証」1367
 7位  2日「6月月間ランキング〜夢の押し売り〜」1366
 8位 17日「『塔』7月号『陽の当たらない名歌選』1」1323
 9位 23日「大いなる墓標」1261
10位 26日「森澤真理『長い老後のための短歌』を読んで」1202

 7月の月間アクセス数は28573、訪問者数は3713人でした。

 私の、お宝ピンク映画ビデオといえばつぎの二本だ。
まず、「ブルーフィルムの女」(1969年国際放映、向井寛監督)。
これは、知る人ぞ知るピンク映画の傑作中の傑作である。なんせ戦前、松竹蒲田の若大将、いな、若大将の前身たる「若旦那」シリーズで大スターの地位を確立した藤井貢が、年経てつるっぱげの怪優となり、脳梅毒の息子にケツを掘られるという言語道断の名シーンが炸裂するのである。なお藤井貢は、脇役好き怪優好きバカ映画好きのオタクに人気があるらしいが、ちみたち、この人は戦前、松竹蒲田の二枚目俳優であり、現役エリート大学生俳優の草分けだったことをよっく認識したまえ。
しかし本日の主題はそれではなく、もう一本のピンク映画の傑作である。
「生首情痴事件」(1967年大蔵映画、小川欣也監督)。
 俺もよくまあ、大金はたいてこんなビデオ買うもんである。今日のテーマはこの映画における「えろす」である。
この作品において、ヒロイン火鳥こづえ(役名ではなく役者名である)に驚いた。何に驚いたかというと、セックスシーンでハダカになった彼女の脇の下に、腋毛がぼーぼーと生えていたことにである!これが実にエロチックなのである。演出は、この腋毛をアップで映すのだが、俺は一瞬「ままままままさかアソコのどアップ!?」と錯覚したが、それが演出意図だったのであろう。思い起こせはこの映画の制作された昭和42年、俺は小学校6年生だった。この当時、ノースリーブで歩きまわるにしても、女性は皆、腋毛を生やしていたと記憶する。うちの母親も、ぼーぼーに生やしつつももてもてだったしな。いつから、女性は、水着やノースリーブのとき、腋毛を処理したり、あまつさえ、永久脱毛なんてするようになったのだろうか?もったいないことである。エロスの消滅である。
ムダ毛の処理、などとひと口に言うが、女性も野郎どもと同じ動物である以上は腕毛や足毛や背中毛や尻毛や股毛があるに決まっておるのであって、事実、うっかりしとったんであろう、前はつるつるだが背中が毛だらけというタンクトップ姿の娘さんをバスの中で見てのけぞったことがある。女に生まれなくてよかったと思うのはこういうときだ。想像するに、女性はその生活時間の3分の1がとこを毛抜きや毛剃りで費やしておるのではないか?だが、僕のようなもののわかった男はキミたちがいかに毛深いかちゃんと知っておるのだからして、気にすることはないのである。
そもそも毛の処理、というのは素人の娘さんや高貴な女性はやらんものである。ドテの毛(下品ですまん)をきれいにデルタ型にしたり、ワキをそったり、眉毛をととのえたり、あれは全部娼婦が始めたことで、育ちのいいお嬢さんはそんなことはせんのである。「毛の処理もしないなんて女捨ててるうー」とぬかす女性たちは、自分らを娼婦におとしめていることに気がつかないのである。徳川将軍なんとかかんとかは、皇室から輿入れしてきた正室がまったく顔をあたってなくて顔毛がぼーぼーだったのにたまげて初夜から不能に陥ったそうであるがまったく軟弱なことである。さらに、洋画好きならご存じと思うがビスコンティの遺作「イノセント」で、主人公のロクデナシの貴族のおっさんの奥さんがぼーぼー、愛人はつるつる、という細かい演出もある。最近は素人のお嬢さんが陰毛をハート型に刈ってもらう店などあるそうであるが、逆に亭主や彼氏はインポになるだけだ。
「生首情痴事件」を見て、腋毛のエロスに僕は目覚めた。だいたい、毛というのはエロスの象徴である。そして、エロスの本質は素人くささである。剃ったり刈ったり脱毛したりハート型にしたりなんて、家ん中に娼婦がいるのと同じでしらけることおびただしい。実際、毛の処理の歴史と、素人と玄人の区別のつかなさとの間には関連性があることは脳内研究所の調査で明らかである。腋毛の復活こそが、エロスの復権につながると私は信念を持って断言する。「ブルーフィルムの女」「生首情痴事件」を見ずば死ねるか!と男性諸氏を鼓舞したく思う次第である。もちろん二本とも絶版ビデオだけどね。けけけけけけけ。見ていいのは私だけ。

      今日の一首

よごれても枝をはなれぬ白梅(はくばい)の意地もまたよし散るまでは花 蒔田さくら子
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2008年08月03日

無題

 酷暑の中、汗みどろでオッズ場に行くも、結局1番人気で決まりか。まあいいや、久々の的中に祝杯をあげよう。それにしても、レインダンスはもう駄目かもしれないな。とにかく暑いぜ、暑い〜〜〜〜〜!!
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

1109 私のタテ目を研究せよ〜小倉記念GV真夏のハンデ戦〜

 競馬は、5月10日の京都新聞杯以来勝ってない。競馬の神様よ、そろそろ真面目な馬券者、このわたくしに勝利を下さってもいいのではないか。と私は本気で思う。
 小倉記念、いいメンバーが揃った。注目馬は、ズバリこの2頭だ。10番ダイシングロウ、6番レインダンス。明日は、高速決着が予想される。タイムから言えば、ダイシングロウが有力だろう。この馬は、準オープンを勝って初めての重賞挑戦。そのわりに、ハンディキャっパーは56キロという過酷な斤量を化している。普通なら54キロ、ないしは55キロだろう。それほど、ハンディキャっパーはこの馬を高く評価しているということだ。陣営は「重すぎる」と怒っている。もう一頭のレインダンス。あの名馬ウオッカを抑えての秋華賞二着は、決してフロックではないと僕は思っている。近走不振が続いているが、この少女は夏が大好き。一変があっても不思議ではない。人気上位のドリームジャーニー、サンレイジャスパーは、僕としては軽視、あくまで押さえ。さあ、ダイシンとレインのどちらを軸にするか、これは悩む。一応、今日はダイシングロウとしよう。明日の馬体重発表がすべてである。穴は、13番、カネトシリベルテ、1番ワンモアチャッターあたりがくさい。
 前日予想結論。馬連ど本線、6−10。穴、10−13、1−10。以下、3−10、5−10、7−10、10−14、10−15。三連複、1−6−10、6−10−13。あくまでこれは前日予想。パドック次第では、6−10から三連複勝負でいくかもしれない。最近私の予想は、ことごとく対抗馬が来ている。そして、私の上げた穴馬も来ている。そして、私の、連予想だけが当たらない。諸君、私のタテ目を徹底的に研究したまえ。だって、前回のテレビュー福島賞、対抗のレットバトラーが見事一着。私の上げたヒモから、この馬を軸として買ったら、簡単に万馬券が手に入ったことだろう。人の予想のタテ目って、結構当たるぜ。
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記