2008年04月03日

1024 歌人の冥福

 「短歌人」4月号に、こういう面白い歌があった。

(いずれ来る自分の葬儀の日のために)
一回も会ったことない人にまで冥福を祈られても困る 生沼義朗

 あのヲイヌマくんの新作である。僕は、自分の葬儀なんてどうでもいいと思っているが、ヲイヌマくんたら、あの若さでもう自分のお葬式のことを想像なさっているらしい。まあ、著名歌人となり、山ほどの菊の花に囲まれてるっていう想像なんだろうな。俺にはその発想が信じられないよ。
 僕は最近、会ったこともない歌人の訃報に触れた。大変なショックだった。そして、心から冥福を祈っている。ここで思うのは、その人を知ってから死なれるか、その逆か、ということなのである。たとえば、僕には、生前一度でいいからお会いしたかったという役者がごまんといる。たとえば伊藤雄之助、平田昭彦ほか多数。俳優というのは肉体表現者だ。心の中で、「俺はこんな人間じゃない」と思っていても、持って生まれたキャラに応じて、求められるままに演じ続ける人生の娼婦、それが役者である。なので、本人とお会いして、役のイメージと全然違った人だったとして、それはかえって面白い。要するに、役者というのは「他者」を演じる肉体芸術なのである。
 ここで、「短歌もおんなしや!」と言う人がおろうが、ぜんぜん違うのである。短歌は肉体ではない、文章で表現する芸術である。その芸術の本質は自らを晒すことにある。もてないくせに恋愛幻想めろめろの歌を詠ったり、メタボ野郎のくせに白馬の騎士みたいな歌を詠ったりしてはいけないのである。要は、

「歌人その人は自作の歌のイメージを裏切ってはいけない」

 ということである。なに暴論?あのな、もしも歌人Aが、「いやああれは歌は歌ですし僕自身とは別もんですよ」などと目の前でぬかしたら俺は問答無用でぶん殴る。詩における言葉というのは、ちょっと慣れてくれば、それなりの効果を作り上げることができるものである。とくに、短歌においてはそれは顕著であり、「それっぽい」だけの短歌の横行を見るに、それは明らかであろう。だからといって、僕は塚本邦雄のようなお耽美詠、葛原妙子のようなお抽象詠を否定しているわけではぜんぜんない。なぜならそこには、彼らのどうしようもない個性というものが傷のようににじみ出ているからだ。塚本の山川洋品店はじめ一連の一見おふざけみたいな歌には、吉本でもやっていけそうな塚本の個性がにじみ出ている(実際塚本氏は、新しいビルを見ると「すぐ誰か飛び降りまっせ」などとぬかすようなユーモラス、というよりシャレの超きつい人だったらしい)。
 短歌は、演劇と違い、三十一文字で自らをさらけ出す文学だと僕は思っている。だから、生前お会いしたしないに関わらずその死はショックなのである。なぜなら、歌人の死はその歌の死と同義であるからだ。物故歌人に対して、「生前一度もお会いしなかったことが悔やまれる」などという文章をときどき見るが、そのような感慨は僕にはまったくない。歌人はすなわち歌である。本人に会ったところで、その作品にまさる何かがその実存から得られるとは思えない。よって、掲出したヲイヌマくんの歌を、歌人の死としての自分の死を同一視したものならば、詩人にしては俗物もいいところだと思うし、俗人として詠ったのであれば、数々の先行作品にかなわないと思うし、何よりかにより、最近死についてよく述べている、俺に対する皮肉を感じて噴飯ものである。歌人は表現で勝負する芸術家だ。その歌がその歌人の実存であり精神であり肉体である。である以上、生前会ったことがあるかないかなんぞは問題ではない。僕は、そういう本物の歌人の歌を探し続けているのだ。だから、津波なつさんの死はショックだったのだ。

      今日の一首

気化しゆくごとき残生曝(さ)れながらまどろむごとき歳月の嵩 永田典子
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:29| Comment(0) | TrackBack(1) | 日記
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K0h6CAicディープすぎw
Excerpt: K0h6CAic喉の奥まで咥えられるってあんなに気持ちいいんすねwwてか、反り具合がいいからって+2○○○○してくれたよ。。イミフなんすけどwwwww( ´,_ゝ`)プッhttp://web-cafe
Weblog: K0h6CAicハメ次郎
Tracked: 2008-04-05 17:39