空襲下古墳にしゃがみし少女吾(あ)に濡れ手拭をくれし人あり 中山邦子
この歌は、実に痛々しい。読者は、二句めをどう読むだろうか。しゃがむ、という行動、単純に読めば、爆弾を避けて身を縮めている行為ととれるだろう。だが、僕は別な想像をしてしまう。空襲に見舞われた防空頭巾の少女は、そんな戦火のさなかでも襲ってくる尿意に耐えかねて、木や茂みなど目隠しの多い古墳という場所で切羽つまって用足しをしたのではなかろうか。女性が「しゃがみこむ」という動作には、それくらい特殊な印象がある。濡れた手拭をくれた人、というのは、拭くための紙の代わりとしてそれをくれたのではないだろうか。ここで思い出すのは、シチュエーションは異なるが「ひめゆり部隊」のエピソードである。穴ぐらに潜んで水も食料もなくなった少女たちに先生はとうとう、「手拭をおしっこで濡らしてそれを吸いなさい」とアドバイスしたそうである。実際にそれを口にした女性の手記を読んだことがある。それ以来、手拭と戦火と乙女とおしっこ、というものが僕の中で強烈に結び合わされてしまった。古墳、というのも悲しいが、これは、単なる体験歌ではない、戦争という日常の悲惨さを鮮やかに掬い取った見事な反戦歌である。
ゐてもゐなくてもゐてもゐなくてもゐてもゐな 浪の響きを聞いてはいけない 川井怜子
波の音というのは、聴いていて実に心地良い。一定のリズムを刻むその自然音は心を鎮めるものだが、しかしだんだん、自分がこのまま無に還ってもいいのではという危険な誘惑をも感じさせる。いてもいなくてもいいんならいればよさそうなものであるが、やっかいなのは、死に至る病というのはしばしば、悲惨のきわみではなく、きわめて甘美な姿をとってやってくる、ということである。「いてもいなくてもいい」というのは友人や近親者やあまつさえ社会にとってのそれではない。大自然、大宇宙にとってはあらゆる存在がそうである。そうした認識に立つとき、いてもいなくても、というフレーズは全存在との融合を感じさせて実に誘惑的であり、あとの始末なんぞどうでもよろしい(どうせ百年たてば同じ土の中)という気分にさせてくれる。電車が停まるのが迷惑だから飛び込み自殺はやめろ、という人でなしの僕ではあるが、この歌のように恍惚と無化された果ての死はうべなわないでもない。いてもいなくてもいい、というのは、決してやけっぱちや自己憐憫からくるフレーズではないのである。考えてみれば、これは宗教というものの到達すべき究極のかたちではないだろうか。
きりぎしに砕ける波を愛しめば死より遅れて生きいるわれら 田中雅子
僕の愛唱歌であるこの歌と共通するものがあるだろう。秀歌である。
ふと君の耳のかたちを思うかな卓に置かれし眼鏡のつるに 佐山みはる
たとえば、ジョン・レノンや、岸上大作の遺品をどれでもいいからやる、と言われたら、僕は即座に眼鏡を所望する。なぜなら、眼鏡というのは、人の顔の一部でありながら肉体ではなく、視力を補助する道具でありながら、その視力の弱さではなく逆に知性と人格の強度を感じさせるという稀有な装置だからだ。眼鏡をかけた人物を漫画に描こうとしたら、ほとんど眼鏡と鼻だけで足りるというくらい特徴的なパーツであり、世の中には眼鏡をかけた異性しか好きになれないという変態も多いという。だから僕の、「眼鏡から連想される人体のパーツは何か」というと、即、鼻なのである。しかし、この歌は耳のかたちだと詠っている。これが僕には意外だった。作者は、亡くなったご子息のことを詠っている。眼鏡と鼻を結びつけるのは、あかの他人同士である異性の視点であり、この作者が眼鏡から耳を連想するのは、正面きって向かい合うにはあまりにも近すぎ照れくさいので横からの視点からしか持ちえない、母と娘という関係に特有な反応かもしれない。面白い歌だ。
しんなりと着物が身体に馴染来る 締め付けぬよう解き良きよう 中川厚子
「よいではないか。よいではないか。げひひひひひひ」「あ〜れ〜ご無体な〜〜〜」。おっさん丸出しの連想を誘う傑作である。下句が、簡潔にしてエロチックである。まさに、その通りだろう。締め付けぬよう解き良きよう。これ以上なんの表現がある。デートではなく、着物を着たときのなんとも重厚かつすかすかな感じ(あれだけ何枚も着て何本も締めてるくせにパンツもブラジャーもしてないのですぞ!)、衣が身体に触れるエロチックな感覚を表現した珍しい歌である。
私の秀歌選、名歌選を、馬鹿にして読んでいる奴もいるかもしれないが、そういう連中は歌を読む感性が足りないのだ。私の選歌は絶対である。









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