2008年06月12日

1074 「ポピュラリティの行方」

 角川「短歌」6月号の歌壇時評で、加藤治郎が先月に続いて興味深い文章を書いている。「ポピュラリティの行方」と題されている。歌人にとって、「ポピュラリティ」とは何だろうか。かつてはそれしかなかった、歌壇の中でのみ歌集や短歌の読み手と買い手が流通するという金魚鉢みたいな閉塞感に耐えられず、インターネットでの発表や、そもそも歌壇の存在すら知らない歌人たちが台頭してきたのではなからおうか。加藤の言うように、「売れる」というのは一攫千金ではなく、みずから読者のターゲットを絞って、アプローチする姿勢を持つということである。僕もよく、「売れなきゃダメだ」と言っているが、これは大ヒットを出せという意味ではなく、固定読者をもたなければ駄目だという意味である。加藤は、その成功例として、笹公人を挙げている。僕も同感である。笹は、短歌という表現形式の、若い感性にとっての有効性を懸命にアピールし、歌壇人口を増やそうという意思が明白である。つまり、自分が好きな形式であり生きた表現だと思うから、歌壇的にどうのというより以前に、多くの人をひっぱりこみたいという情熱を純粋に持っているのである。それがあざとく見える場合もあろうが、笹の場合は短歌的実力があるのでいやみえにならない。笹の短歌の実力も見ずに、出たがりとか言ったり師匠に失礼だとか言ったりするのは、全員嫉妬深い茶坊主なので無視してよろしい。
 だいたい、表現者たる歌人本人が、自己イメージを構築したり、ファンにアプローチする姿勢を見せることのどこがいかんのであるか。たとえば、風俗勤めや、自殺未遂経験や、アル中経験や、虐待経験を売りにする歌人、これはたいへんOKだと僕は思う。と言うか、」そんな強烈な経験がありながら、宣伝しなかったり、いわんや歌に詠まないような歌人は生きたまま死んでるようなものである。そういう現実を無化するためにふわふわ短歌で相対化してます、てな感じの歌人もいるが、無駄な努力である。
 僕は名歌選、秀歌選を毎月やっているが、歌とその作者のイメージが即座に浮かぶような人はほんの数名しかいない。おおかたの詠み手は記憶に残らないのである。あたりさわりのない「いい歌」を詠んでおれば、世間的には誰も知らん選者に認められたり、巻頭に持ってこられたりするかもしれんが、そんなのは結社内だけの優越感であり、一般読者の獲得とはなんの関係もない。啄木の歌が蟹工船よろしく今もって受けるのは、その私怨のかもしだすぎとぎと感と、ポピュラーな詩情が見事にマッチングしているからである。駅前の現代美術の彫刻みたいな丸太ん棒もどきの短歌をありがたがるアホが多いが、短歌はどこまでいっても、作者その人と密着した俗で艶歌調(えんがちょ)な文芸である。純粋芸術みたいなのを短歌で志向しようなどというもくろみは自殺行為である。歌人は、ポピュラリティを持つためにもっと努力すべきだ。その点、加藤治郎の戦略は正しい。正しいがしかし、女子供をターゲットにしたその作風を俺が嫌いなだけの話で、言ってることは間違ってない。俺は、自分で始める前は、短歌ブログはもっと面白い日記があふれていると思っていたが、実際に検索などかけてみると「こいつらバカか」と思うほどつまんねえ。なんでもっと、キミタチは、ブログであざとく活動しないのか。僕は、かつて「珍獣」と嘲笑されたが、おまいらなあ、短歌をやっとる時点で、世間から見りゃ俺もオマエも珍獣なんだよ。同じ珍獣同士、吠えんかい。さも自分が世間の荒波に耐えられないたったひとつの花みたいにしおらしくしくさって。どうせ短歌なんて表現手段を持ってしまった珍獣なのだ、大御所に噛みついたり何の罪もない人に噛みついたり、大いに世間のど顰蹙を買うようなこととして文名を高めようではないか。「そんなのは文名ではない」と言う人は、文学の歴史がスキャンダルの歴史であることを知らないおめでたい人である。ともあれ、先月今月と加藤治郎の時評はたいへんよろしい。こんな面白い短歌時評は初めてである。加藤氏にはどんどん、こうしたシステマティックな問題を取り上げていただきたい。それとなー、現在、短歌ブログが俺のひとり勝ちであるのは、全然よろしくない。俺に対抗するポピュラリティを持ったブログの出現を待つものである。啄木が今生きてたら、さぞかし熱心にブログをやって、四方八方ケンカを売りまくっていたことであろう。
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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