厳しい医療現場を詠い続ける作者は、たぶん新米の医師なのだろう。その歌には、毎月心惹かれる。まず初句と二句が興味深い。「気づかれぬように泣く」と始まれば、人は普通道ならぬ恋の相手が死んだのかと思うところだが、医師が、感情をあらわにすべきでない場で悲しみをこらえていると解釈すればシビアな歌となる。僧帽筋、という専門用語が効いている。なんだかわからんので辞書でひいたら、こめかみあたりの筋肉のことだという。顔を上げて、涙を我慢しているとき、確かにそのあたりが痛くなってくる。それを専門用語で表現したのがこの作者らしいところだ。そして、医学用語というのは、実はかなり詩的にできている。「三半規管」はエロチックだし、「ランゲルハンス島」はダダイズムだ。結句の「知ってしまいぬ」はまさに、読者の感想でもある。注目すべき歌人だ。
あえかなる師への憧れ「朝霧」とうドラマをラジオで聞きしそのころ 児島良一
この作者は、ラジオドラマを歌に詠み込むことによって、僕の印象に残り続けている人である。おそらくこの「朝霧」というラジオドラマの放送は、戦後間もないころだろうと想像する。かの「君の名は」なんて、放送時間には銭湯がカラになったという伝説を持つくらいだ。僕も、小学六年生くらいまではラジオドラマを聴いていた。灯ともし頃の、なんとも切なくなる時間に聴いたドラマは印象に残っている。「朝霧」というタイトルと、「あえかなる師へのあこがれ」というフレーズがマッチングしている。ところでこの「師」というのは、女教師だろうか、それとも短歌の師匠だろうか。あるいは男性かもしれない。いずれにせよ、その時代への郷愁を感じさせるいい歌だ。僕の勘だが、作者は成瀬巳喜男のファンだと思う。
春昼に降りこぼれくる光あり君の喉の水飲む音す 古賀公子
作者には、亡き夫のことを詠う歌が多い。下句が素晴らしい。普通故人のおもかげとして偲ばれるのは顔かたちとか、眼鏡が置いてあるとか車椅子が置いてあるとか、即物的なところに行きやすいのだが、「肉体のたてる音」を死者を思うよすがにしているところが独創的である。上句が生命感に溢れてる。それだけに、亡き夫がかつて、元気よくごくごくと水を飲み干していた音が彷彿とするという状況がいたましい。作者は看護士である。やはり、このような職業性が、こうした視点を生むのであろうか。印象深い。
一生(ひとよ)かけローン払はむこの家のベッドに夫が近づける音 助野貴美子
下句がいい。これが夫婦生活というものだろう。そして上句に、経済的な悲愴な決意をこめている。だから、「ローン払はむ」という言葉が生きてくるのだ。この歌のよさは、ローンという経済用語と、ベッドというもろに性的な意味を持つ単語を並立させることによって、夫婦という最小の生活単位の持つエロスに、冷徹な経済原理と戦いぬく力を与えているのだ。
最後に問題作を一首。
私が歌会へ行く日は庖丁を研ぐ日と夫は決めているらし 枡田玲子
この歌は、家族の中で自分が歌人、それもアマチュアであるという疎外感を抱いている人ならではの歌だろう。女房がたまの日曜日にひるめしも作らずに(←想像)歌会へ出かけていくの尻目に、夫は人食いばばあよろしく庖丁を研いでいるという。たぶんこのダンナも、奥さんが友達と旅行へ行くとか、親戚の法事に行くとか言うのなら笑って送り出してくれるだろうが、女房が歌会に行ってオレのひるめしが出ない、というのはものすごくはらがたつのである。旅行も遊びだが、歌会というのはなぜか、オレをほったらかして勝手に遊びくさって、という感じがすごくするのであろう。たとえば俺も歌人のはしくれだが、歌会なんてどうでもいいと思っている。しかし、妻は歌会が大好きで、朝から俺とみみ太の世話もほったらかしでるんるんと出かけて行く。なんか知らんが腹が立つのである。夫婦で同じ結社に入る人の気持ちも、この歌を読めばわからんでもない。なんか歌会、というのに出かけられると、ほったらかされ気分が激しく増大するのである。歌をやっている俺ですらそうなんだから、ましてや、歌をやってない作者のダンナは猛烈にイライラしていると思う。庖丁を研ぐ、というのがおかしくもシビアだ。家族の中でただ一人、短歌をやっている、というのはこれは大変だろう。俺んちなんか夫婦で歌をやってるくせに歌に関しては仲が悪いというかなんというか、お互いの歌を罵りあっているのである。俺は妻に、加藤治郎の彗星集に入れと勧めている。彼女の資質に合っていると思うからだ。しかし妻は「冗談じゃねえ」と言ってセンヌキで額を割りにくる。このように、家庭と歌人というのは、波乱を巻き起こす関係にあるのだ。
歌人という表現者には、独自の身体感覚が必要だと思う。一人の歌人の歌を追っかけで読み続けるというのは、読者の楽しみである。身体感覚、すなわち、本人の肉体性の個性の感じられない歌人にはまったく興味が持てないし名前もおぼえられない。まあ逆に、加藤治郎みたいに、あまりにもイヤすぎて記憶に残ってしまい、つい歌集まで買って熟読しちゃったりする歌人もいるが、そこまで強烈なのも逆に稀である。個性=身体感覚である。身体感覚そのものを捨象することがイマドキの文学として正しい、みたいに思ってヘタレなたわごとを短歌と称して垂れ流す手合いがあまりにも多いが、キサマらはいったいなにがやりたいのだ?この地上から、汗もかけばクソもする肉体を消し去りたいのか?だったらためしにカスミでも食って修業してみなさい、三日目にハエが目鼻にたかり、恥垢がたまってそのイカくささに猫が舐めにくるであろう。歌人とはそういう存在なのだ、とことん血と肉でできているのである。
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