2008年06月25日

1082 老人の迷走

 77歳の祖父が、一家を惨殺するという事件が起こった。被害者は気の毒だが、僕は、「ああ、起こるべくして起きた事件だな」と思った。動機がわからんというが、動機なんぞシンプルきわまりない。要は、この老人のたまりにたまった憎悪であろう。家族から浴びせられる日常のなにげない言葉、プチ虐待に、この男は何十年と傷ついていたのだ。たとえば、離れに住むこのじいさんのところへ、嫁は自分の子供に対して近寄るなと命じていたという。これだけでもどういう状態だったか想像がつくではないか。以前この日記でも書いたが、バイト先の女の子が、「うちにゾンビみたいなババアがいて、全員でシカトしてやってるんだー」と自慢げに話していた。これが80年代の話である。はっきり言おう。現代において、三世代同居なんつーのはもう無理の皮である。昔の日本で、嫁姑の確執は永遠の課題などと言われつつもこの手の事件がクローズアップされなかったのは、「家」意識が根強く、子供や孫は自己の存続の手段として認識されていたからだろう。「墓を守る」なんぞという、僕にとっては意味不明の言葉が有効であった時代のことである。子や孫も、連綿たる(なんだかよくわからん)ものの末端としての自己認識をきっぱり切り捨てることができず、そういうのが中上健次とか寺山修司とか、土俗的なとこに吸収されていってしまう人間の恐怖や恍惚につながっていたのだろうが諸君、驚くなかれ、「どれだけ振り捨てようとしてもつきまとう地縁血縁」というものが、実はいつの間にかきれいさっぱり消滅していたのである。寺山も地獄(恐山か?)で苦笑していることだろう。要は、自己の存続のためにこらえていられた怒りや憎しみが、もはや、こらえる根拠をなくしてしまったということだ。人が家族を殺さずにすんでいるのは、それが自己愛を継承してくれる相手だと思える間だけである。それが崩壊すれば子供が親を殺しじじいが一家を皆殺しにするのは理の当然である。だからといって、僕は現代を悪い時代だとは全然思わない。戦前の家族制度なんぞ、おぞましいの一言である。こういう事件が起きるのは、家族幻想が中途半端に残っていて、老人を孫子と同居させるなどという虐待が公然と行われていることに原因がある。
 老人たるもの、独居老人が当たり前である。アメリカみたいにな。なぜなら、DNAを共有してるだけで世代がまったく違う同士が同居していたら、憎悪と排斥といじめが生じるのは水に水素が含まれるがごとく常識である。家族であること、親子であること、古い共同体に属していること、それから完全に自立しない限り、このような家庭内殺人というのは起こり続けるであろう。とは言うものの、人間は自己愛の動物であり、自己の存続を願うものである。それがかつては家名であり血筋であった。人はその中に価値観を埋没させ、エンドレステープみたいに延々と鳴り続けることを確信して生き、家族を殺したりもしないでぬけぬけと生きて畳の上で死んだ。断っておきたいが僕はそんな時代を良いとも懐かしいとも復活させるべきだとも思わない。ただおぞましく、気持ちが悪いだけである。
 人間は自己愛の存続を望むものだし、僕だとて例外ではない。だが、なぜそれが「家族」や「血縁」や「DNA」でなくてはならんのだ? ぶっちゃけた話、誰かとつながりたいなら短歌でも俳句でもその他の同人誌でもなんでもいい、趣味でつながるほうがよっぽど確かだし長持ちするではないか。少なくとも「自分」を認識してくれる人が百人から手に入るし、こちらは作品を発表する以外なんの努力もしないでいいのである。確証はないが、凶刃を振るうようなタイプのまず90%は自己表現の能力に乏しい人であろう。思いを綴ることができないから、子や孫が自己を保証してくれないと気づいたときにすべてを破壊にかかるのである。
 自己表現の手段を持たないまま生きてきた人が老いると悲劇である。もう、老人だからといって尊敬はされない。そして、人は生きてきた通りに終わるしかないのであり、くだらない大人はくだらない中年になり、くだらない老人になるしかないのである。青年時代や壮年時代に、本や文学や映画を、なんの役にも立たないものと軽蔑して過ごしたやつは多くの場合しっぺ返しをくう。
 みなさんは、日本軍のヒサンな玉砕などを扱った映画や文学を御存知であろうが、あのような局面で、たとえば学徒動員されたり、内地では学者だったりした人は真先にへばるとお思いであろう。ところが、実際は違うんである。食いもんも何もなくなり、洞窟の中で仲間の肉を食うしかなく明日はバンザイ突撃、なんて場面になって、最後まで生きる希望と正気を失わなかったのが、むしろこの手のインテリで、一見タフそうに見える肉体自慢の(インテリを殴ってたような)連中は、状況が悪化するにつれて次々と発狂したり伝染病に負けたりしていったそうだ。それを分析してある人が言っているが、本当に困難に直面したとき、「観念」というのはものすごい力を持つのである。教養のない人間が絶望したらただ絶望するだけだが、教養は、それを詩にすることができる。詩、というものが、辛いとき苦しいとき、どれだけ自己を相対化し澄明にしてくれるか、この日記をお読みのかたがたなら御存知のはずである。しょせん頭でこねくりまわしたことではないかケッ、と言うかもしれないが、食い物がなくて言葉しかなければ、頭でこねくりまわす内容がどれだけ豊かであるかで人間の運命は決まる。
 自己表現手段を持たない老人、あるいは若僧の悲劇は、これからも続くであろう。家族以外によりどころのないような無教養な人間がもたれあいのためだけに家族を持つならば、「殺るか殺られるか」という緊張の日々を覚悟すべきである。そして、そういう時代を、俺は悪いとは思わない。
 つづく。
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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