彗星集の連中は、もっとシビアな批判にさらされるべきだろう。自分たちが最先端で、歌壇の花と持ち上げられて、若者の歌のリーダーになってると思ったら大間違いで、本当はキミタチの歌をいいと思って読んでるのはキミタチ本人だけなのである。これは、新人賞選者、とくに「短歌研究」のそれに大いに問題がある。最近は、加藤系をヨイショするような座談会をやっているが、読む者にはなんのインパクトもない。だいたいこの雑誌は、誌面が古色蒼然としているくせに、やたらと軟弱で貧血で無内容な加藤系短歌を称揚するのである。いったい、どういう雑誌であるのか。
「短歌研究」には、寺山修司や中城ふみ子を見出した、という自負があるのかしれんが、それはすべて当時の名物編集長中井英夫の独断専横の結果である。この雑誌は、中井の遺産で食ってきたようなもので、僕が短歌を始めてからこっちの誌面や新人賞選考過程を見る限りでは、すぐれた歌人を発見する機能において、この雑誌は存在価値を無くしていると言って過言ではない。加藤系を取り上げていかにも「私たちは若くてイキなんですよ」と気取る前に、そのドブネズミ色の表紙とだっせえ見出し、レイアウト、古臭い版組み、講談社の倉庫から借りてきた「世界の風景」をただ置いただけの写真、そういうとこからなんとかしたらどうだ。
とにかく、俺に言わせれば、加藤系の歌というのは甘ったるい。だいたいボスの貴方自身が、「あなたの夢に入りたい」などと、70年代フォークの雑なコピーみたいな代物を短歌と称してぬけぬけと人前にさらしているのである。藤原龍一郎氏の言葉を借りれば、「俗情」以外の何者でもない。こういうフレーズを愛の言葉と思う女をバカ女という。ただ、じゃあ「彗星集」が隅から隅までダメかというとそんなことはない。びっくりするようないい歌もかなりある。とにかく、彼らは、批判にさらされなくてはダメだ。批判を受けてこそ、彼らの価値というものが浮き上がってくるだろう。ところが、歌壇もヘタレであるのである。内心加藤やその系統を嫌ってるくせに、なーんも公に言わないのである。もう、どうしようもないね。しょうがない、このブログで、孤軍奮闘するしかないのである。おまいら、反省しろよ。
何度も言うが、歌壇は批判し合うことが大事だ。その切磋琢磨の中でこそ歌は磨かれるのであり、歌人の個性というものも浮かび上がってくるのであろう。ところでどなたか。この「新彗星」を送ってきなさい。歌壇は誰も言わないだろうけれど、私が批判してさしあげよう。
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ま昼間にひたひたと足音を立てて俺の中にいる夜歩く人
街灯の下をゆくときひょっこりと現れ俺を置いてゆく俺
四つ角の灯りの下で複数の無言で俺に従う俺ども
傘をうつ雨粒のうちの二割ほどに殺気を感じて歩みを止める
やさしさが置き忘れられている夜 公衆トイレの明かりが洩れてて
コメントありがとうございます。
んが、何が悲しくて僕が身銭を切ってんなもん買わなくちゃいかんのですか。僕は、堂々と言いますが、タダでくれと言っているのです。なぜなら、この本の批判を読みたい人が世にはごまんといるからです。それを書いてあげようと言うのだから、僕はそれをタダでもらう権利があるわけです。