まずもって、歌集において、プロデューサー名を前面に押し出す、ということがそもそもそぐわない。なぜなら、人が短歌に求めるものは、他人の手の加わらない赤裸々な真情の吐露であって、そこに本人以外の決めたコンセプトなど見えたりすれば鑑賞の邪魔である。加藤氏は、なにか勘違いしとるのではないか。俺なんか、「加藤治郎プロデュース」と聞いただけで「あーまたあの手かいな」と思って、逆に食欲減退もはなはだしいし、実はそういう読者がかなりいると思う。これがもしもですな、岡部桂一郎プロデュース、あるいは浜田康敬プロデュースと銘打って若手歌人の歌集が出たら俺はびっくらこいて書店に走る。なぜなら、今例にあげた二人は、派閥を持たない孤高の歌人だからである。加藤治郎がプロデュースするなんて、つんくとその崇拝者で作ったモー娘。みたいな気色わるい組み合わせ以外考えられないではないか。だから、「加藤治郎プロデュース」と銘打っても、なんら読者へのインパクトや求心力や売りがないのである。「短歌研究」誌上の座談会で、新人賞受賞歴のあるとある若手女流歌人が「加藤先生」と加藤先生のことをお呼びになられておって、俺は「駄目だこいつは」と思ったのである。ちなみに、この座談会もじっつにくだらんかったが、誰か読んだ?
角川「短歌」の企画する座談会は、対立によって読者に短歌の可能性を示唆するという面白さがあるが、今月の「短歌研究」のそれは、加藤王国を推し立てるためのマンセーなマスゲームと同様であると俺は断言する。つまらん雑誌だ。
このたび創刊された「新彗星」は、そうしたマンセーなかたがたを満足させているだけでは伸びない。単なる内輪のコロニー受けに終わってしまい、歌壇や、歌人になんのインパクトももたらさないであろう。こう言ってはなんだが、最初に「玲瑯」を読んだときのうざーな感じに近い(ただし最近、玲瑯も、邦雄ちゃんのエピゴーネンを脱したバラエティに富んだ歌が見られるとフォローしておく)。加藤治郎氏は、塚本邦雄みたいな短歌カリスマを目指してるのかなあ。だとしたら、はっきり言って、「それは無理」。なぜかと言うと、格も教養も実力も文学者としての気品も、まったく及ばないどころかない等しいからである。だいたい歌壇は、加藤治郎の垂れ流してきた歌に対して、なんの批判も残酷な洗礼も加えていない、というのがまさにヘタレの証である。加藤短歌が嫌いなくせに、この日記を読んで陰で溜飲下げてるだけでなくて、おまえら書けよな、堂々と!私は、加藤治郎氏が、ここまで歌壇でのし上ってきた、それを許してきた、そんな歌壇に対して、激しい侮蔑の念をおぼえるものである。反省しる!(つづく)
![Powered by 269g[ブログ・ジー]](http://269g.jp/img/269g.gif)
コメントありがとうございます。僕は、歌集というものは、値段をつけている以上売れなくてはダメだと思います。今の、自費出版というシステムにあぐらをかいた歌集出版社のありように僕は腹を立てています。だから、加藤氏の活動の主旨もよくわかります。ただ、彼の言うプロデュースというのは、ご意見のとおり、矮小で、ますなにより加藤王国建設のための布石と見えてしまうのです。とにかく彼は、もっと批判されなくては伸びませんよ。「彗星集」にもいい歌人はいますが、このままでは加藤調にまみれ、腐ってしまうでしょう。だから私に、「新彗星」を誰か送れと言っているのです。誰かが批判しなくてはいけないのだから。(身銭を切る気はない)
問題は、加藤センセのプロデュースによって、歌人本来の個性やら才能が潰されていく新人もいると想像される。
追記、
「玲瑯×」は「玲瓏」です、たぶん。
字の間違いは確かにその通りです、すいません。とはいうものの、修正するにあ まりにも字がめんどいのでこの次からということで。
僕は、師弟関係という言葉がそもそもピンときません。もちろん、いろんな歌から影響を受けて短歌は作られるものでしょうが、最終的には孤独な作業であり、自分ひとりでやる文学だと思います。プロデュースというのなら、自分の配下ではなく、全然違った人を取り上げることが斬新なんではないでしょうか。なんか、歌壇に、プロデューサー制って似合わないよなあ。