2009年01月05日

1214 ギャンブル=短歌=無頼

 二頭のアドマイヤは、粉々に砕け散った。昨年のJC、有馬記念で、とんでもない穴馬に足元をすくわれ、俺の馬を見る目は落ちている。今日の馬連は4000円台だったが、安い。8000円はついていい。難しい馬券が続く。それにしても、京都金杯に負けたのはこたえた。当分私は放牧に入ります。ペーパー馬券でもう一度修業し直したいと思う。俺、今年、競馬一勝できるのかなあ。不安だ。
 オッズ場って面白いなあ。みんな不機嫌な疲れた顔でたむろしている。多分、誰も勝っていないだろう。どうしてオッズ場で寝る人が多いんだろうか。今日も、若いサラリーマン風の男が、俺が帰るときになっても延々とぐうすか寝ていた。ウインズの喫煙コーナーでも、寝ている人がいた。彼は、一瞬、京都金杯の馬券を眺めていた。俺は隣にいたのでちらっと見たのだが、アドマイヤオーラ頭の三連単10点、しかも2000円ずつである。つまり2万円が紙くずとなったというわけだ。僕は、メインレースを終えてがっくりし喫煙所へ行ったが、驚いたことに彼はまだ両手を組んで寝ていたのである。最終レースが終わるまで、おれはぐったりして喫煙所にいた。あるおっさんが、「取った取った!」とか言いながら画面を見て、「なんだ1着1番かよ。あーまた外れた」と言ってたのがおかしかった。いったい競馬をやる者の心理というのはなんだろうか。喫煙所の中ではほとんど声はない。ただ、ため息と共にふかすタバコの煙ばかりだ。彼らは負けているが、堂々としている。ギャンブルの持つ魅力は、負けても負けても負けても続けるところにあり、これはまるで、出しても出しても無駄なのにオナニーを続けるサルと同じである。つまりそれだけ、ギャンブルは勝つにしろ負けるにしろ、射精の快感に似ているのであって、この遊びをやるのが女性より男性のほうが圧倒的に多いというのもわかるというものである。賭けに負けるという感覚は決して悪くはない。なぜなら、鉄火場においては王様もコジキもまったく同じ条件下におかれるからだ。僕は以前、馬連で8連勝したことがある。このときほど、つまらなかったことはなかった。勝ってること自体に、「俺はいったい何をやってるんだ」と思った。これは本当のことである。負けているからこそ、人生を知り、真剣になっていくのだと俺は思う。
 うちに帰ってバタンキュー。しかし、これからがすごい。「短歌人」に送る歌ができなかったのだが、あっという間に10首できた。競馬で負けたときには、ほんとに歌ができる(笑)。どうしてかといつも考えるのだが、多分そのときに、めちゃくちゃ孤独感と敗北感を感じているからだろう。その精神のよりどころとなるのが、五七五七七の韻律なのであると、僕は決定的に思うのだ。石田比呂志の、「一万負ければ一首」というのは名言である。短歌というのは、ロクデナシの文学であり、無頼の文学であると僕は思う。今は、ネクタイを締めたせせこましい歌人野郎か、歌で有名になってやろうと思っている小賢しい若手男性歌人で溢れている。無頼!これこそ、歌人にとって必要条件なのだ。現在は、女性のほうに無頼を感じる人が多い。言っとくがなあ、歌をやるということはとても恥ずかしいことなのだ。私は歌人です、なんて、俺はとてもこっ恥ずかしくて言えない。短歌というのは、有名にあるための文学手段ではなく、ある意味、自分を見つめ自分を追い詰めるという恐ろしい韻律なのだ。俺はこれから先も、自分が歌人だということを隠し通して生きていきたいと思う。
ニックネーム 茶トラのみんく at 23:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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