2006年12月20日

656 詩的緊張

 僕は、結社誌を読むとき、いつもシナリオを読む気持ちでいる。韻律のシナリオだ。だから、すべての歌を読むことが苦痛ではない。脚本を、1ページ1ページめくるようにすべり読みし、いい言葉をピックアップチェックしているのだ。「塔」「短歌人」とも、赤丸チェックに費やす時間はめちゃくちゃ早い。もう、すべて直感である。ただ、赤丸歌をもう一度読み返す場合は、さすがに少しは時間をかける。少しは、である。選歌欄はたくさんあったほうがいい。ピックアップする歌なんて、人によって全然異なるからだ。柴田悟郎氏からコメントをいただいたが、だからといって、コメントを続けるのではない。ぜひ取り上げておきたい歌があったからだ。短評を書くというのは疲れる作業だ。すらすら書いているように思われるかもしれないが、相当考えて書いたり消したりしているのである。短歌を読んで受けた感動を伝えるのは難しい。映画評のほうがはるかに簡単である。

 二日目のコメント欄では問題歌を取り上げさせていただく。

他に意味はあらぬごとくに「お迎え」といえばすなわち保育園へゆく 秋場葉子

 一読、意味深な歌である。いろんな取りかたがあるだろう。たとえば、頻発する幼児がらみの残酷な事件をイメージしての「お迎え」。または、母親が子供を見るときに抱くなんともあやうい気持ち。
 元来子供とはぽんぽん死ぬものであった。知人の父親は8人兄弟だが実は11人兄弟であって3人は生まれてすぐ死んだのだそうだ。そうは簡単に死ななくなってもなお、子供というのにはまだこの世界になじみきっていないというか、なんか異界のものに手を引かれてどっか行ってしまいそうな感じがある。そして子供本人にも、その異界への親和性がある。誤解をおそれずに言えば、ミ×ザキくんのようなやさしげな殺人鬼に、しばしば子供がその手を取らせてしまうのは、死の側から迎えにくるものにそれと知らず憧れを残しているからではないのか。もはや病気がその役目をになえなくなった今日、「大きなおともだち」たち、大人になれない青年たちが、かつての死神の役をまとってやってくる。それは絵的にうつくしくさえある。短歌というのはすごい文学だと思う。こんな短い器の中に、この歌のように、現代の抱える犯罪の病理と、民話的な郷愁を同居させてしまうのだから。だって民話や童話って、ベースは子供がとられてしまう話だものなあ。僕がその点最も怖かったのが「安寿と寿子王」だった。東映動画で見たときとても怖くて悲しかった。この歌には、どこかそのときのイメージを喚起させるものがある。今月号の問題歌と言っていいだろう。また別な読みをすれば、作者の身近に、あまりさきの長くない老人がおり、その近い死を「お迎え」と呼びならわし、それが、わが子を迎えに行くための「お迎え」という言葉と重なって詩的緊張をかもし出しているのかもしれない。
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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