旅に来て旅より戻りし人に会い旅の話を聞きいる夕べ 堀越貴乃
後ろ姿点となるまで見送りしのち今日までを長く歩いた 同
この作者について、何も存じ上げないが、独特なドラマのタッチを持った人だと思う。掲出歌一首め、ありそうでなかなかない歌で、余韻がある。二首めも、別れのドラマに、後日談の深みを加えた二重構造になっている。この作者は、ドラマチズムというものを頭ではなく、肌で理解しているようだ。この独特な身体感覚というものは、特筆すべきものだろう。各結社には、こういう優れた歌人がたくさんいるんだろうなあ。名前を、しっかり記憶させていただいた。帰途、これも楽しみだが、パン屋さんに寄る。ここのトーストとコーヒーがうまいのだ。何度行っても店名がおぼえられない。カタカナだからだ。ここで、買ったばかりの栗木京子「けむり水晶」を読む。適当に切り上げて帰ろうと思ったが、この歌集の出来がすこぶる良い。引き込まれてしまい、全部読んでしまった。ぼぼぼぼ、凡歌がない!!!!帰るころ外は真っ暗、こんなに集中して読める歌集は最近では珍しい。たいてい、途中で疲れて「今日はこのぐらい」で終わっちゃうのだが。おかげで帰宅時間が遅れた。この歌集については、二読したときにここで紹介したいと思います。
妻が角川「短歌」1月号を買ってきた。冒頭エッセイが栗木さんである。読んでみて、意外だなあと思った。栗木さんは、自分のプライバシーをあまり歌わないし、語らない人だと思っていた。なので、このエッセイで語られているような、ひとり旅が好きだという側面は考えてもみなかった。一人でディズニーランドに行くのだ。驚いちゃうよ。このエッセイを読んで、また「けむり水晶」を再読したら、味わい深いものになるかもしれない。魅力的な歌人だ。
同じく角川「短歌」の、「新春討論 今、短歌について思うこと」をざっと読む。ちょっと気になることがあった。笹公人の、塚本邦雄の有名な言葉「幻を見る以外に短歌になんの使命があろうか」をひいての作歌方針に、奥田亡羊氏が疑義を呈している。端的に言えば、報道の現場に身を置いている奥田氏にしてみれば、オウムや9・11などの現実は妄想を超えているというのだ。
僕はこの人の、短歌研究新人賞受賞作を高く評価するが、この創作と現実との関わりへの発言は、言わせてもらえば甘い。さらに言わせてもらえば噴飯ものである。オウムも9・11も、被害の規模とまさかそんな野暮で直截なこと本気でする奴がいるなんてということへの驚きと悲嘆はあるが、妄想やフィクションの敗北じゃねえだろう。フィクションの見地でいえば、どっちもものすごく使いふるされた、すでに小説家が飽き飽きして見向きもしなくなったテーマ、根っからの妄想家だったら「まだそんなことやってんのか」とあきれるほど陳腐な思想であり行動である。詩人が、いくら実行に移すやつが実在したからってそこで妄想の負けを宣言するこたあないだろう。「へっ、もっともっと壮大で美的なものをいくらでも俺は作り出せるぜ」とうそぶくべきなのだ。テロリストよりももっとあまたの死体と瓦礫を詩人は乗り越えてゆける。それでは何も解決しないではないかと言うかもしれないが、解決するのは詩人の仕事ではない。現実の事件なんぞ、フィクションの陳腐で劣化したコピーにすぎない。これは、日本国の劣化、個人の劣化、老人の劣化、職業人たちの劣化、の劣化の連鎖反応が引き起こした、想像力の欠如の結果なのだ。フィクションの側が、これしきのことで負けたなんて言っちゃあいけないだろう。僕は、私性というものを重視した短歌を作る。が、それはあくまで虚実の皮膜のなかで編み出されるものだ。演出された自己こそが本当の自己なのだ。嘘っぱちという意味ではない。このへんの綱わたりが面白いところで、だからこそ、読者のドラマチズムと作者のそれが共鳴しあい、鑑賞を豊かにするのだ。言っておくが、寺山修司の受け売りではない。僕は僕の戦略と抒情で歌を作っている。ちょっと、奥田さんの発言には、フィクションの奥深さに慣れていない人の脆弱さを感じた。短歌というのは、もっともっと複雑怪奇な深遠さを孕んだ、スリリングなジャンルであると僕は思う。
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現実は、フィクションに必ず負けているのです。現実のほうがよほど怖いなどとほざいてる連中は想像力が足りないだけです。少なくとも、創作者が言うことではありません。現実が、やっと、三流のフィクションに追いついてきただけの話です。それだけ、現実が劣化しているのです。