弁理士の合格通知みせる順わたし、夏子、小丸とそれだけ 柴 純子
なんとも微笑ましい歌だ。弁理士の免許を取ったのはいったい誰だろうか。ご亭主なのかあるいはこの家には、純子夏子の親子以外に成員がいるのだろうか。カメラはまず「わたし」を映し、娘の夏子を映し、そして可笑しいのは、愛犬の小丸を映すのである。結句で「それだけ」と言っているが、その規模の小ささが家族のつながりの暖かさを強く感じさせる。小丸、という固有名詞がすばらしい。僕の想像のなかに浮かぶ小丸は柴犬である。賢そうな顔をした。まるで、歌を作るために小丸と命名したような気さえしてくる。私の愛猫みみ太といい勝負である。柴作品に、さらなる小丸くんの登場を期待する。
契約がとれたと明かすおとなしい息子のメールを二度三度読む 今岡悦子
この歌も、一読単純な作品だが、ちゃんと歌が運動している。母親は、息子のことをとてもおとなしい、消極的な人間だと思っているのだろう。そんな息子が、社会人となり、社員としてちゃんと契約を取ってきたと、母親にメールしてきた。その喜びを詠っている。これも結句が素晴らしい。たとえば、何度も読む、とか三回読む、とかではつまらないし、運動につながらない。二度三度という表現が、この歌を進行形にしているのだ。そこに、この母の愛情というものが、静止画ではなく、リアルに浮かんでくる。僕は、こういう歌はいいと思う。
竹の花咲く怪談を読みくれし祖母ながく長く間をとりつつ 山下裕美
「竹の花咲く怪談」というのがどういうものなのかちょっとわからないが、これも下句が素晴らしい。間をたっぷりとって怪談話をするという表現に、単に過去の思い出ではなく、今でもまざまざと蘇ってくる怖さを郷愁とともに詠っているのだ。読み手にも、その祖母の語り口というものが俄然浮かんでくるではないか。こういう余韻を読者に与えるのが短歌の素晴らしさなのだ。
自信なき人は頷きつつ喋る会議のさなかに気づきたること 井上良子
短歌は、発見の文学でもあろう。この歌を読んで僕は思わず頷いた。僕の上司は「責任」というものを非常に怖がる人で、僕の意見に対して「あ、それもいいんじゃない」とまさに、うなずきつつ喋るのだ。僕は、それを黙認ととって勝手に行動している。上司にしてみれば、なにか問題が起これば、「自分が認めたわけじゃない」と逃げ道を作っているつもりだろう。上句は真理である。自分のことを考えても、自信のないときは確かに、うなずきつつ喋っている。作者は、緊張感のある会議のさなか、それに気づいたという。そこにこの歌のドラマがあり、運動があるのだ。
夕暮れに似たる気配に歩のゆるむ古墳の影に入りたるらし 千田智子
「夕暮れに似た」であって「夕暮れ」ではない。しかも、古墳の影に「入りたるらし」である。作者は夕暮れではないどこかの時間(影ができるところを見ると昼間であろうが)、周囲に目をやることもなくひたすらに歩いているのである。そこに、夕暮れに似た気配を感じて思わず歩をゆるめる。だがそれにはまだだいぶ時間がある。自分の落ちかかり夕暮れを思わせるこの影はおそらく古墳のものだ。実際は違うかもしれないが、作者は古墳という古代の墓の影にいっとき飲まれた自分を想像して思いがけず安らかな気持ちを味わっているのだろう。歩がゆるむまでの歩みと、それがある気配に気づいて減速するところまでをリアルに想像させることに成功している。僕は、この歌もまたストレート短歌であると言いたい。
小高賢氏「現代短歌の鑑賞」を読んで僕はあきれかえったものである。一流歌人の作品なるもののほとんどが、言葉遊びに堕している。修辞はたくみだが、描かれている画は静止したままでなんの余韻もない。少なくとも、一般人はこんなものは読まんだろう。僕は、加藤治郎の修辞重視の歌論を唾棄する。歌に修辞は必要だが、過剰なそれは白けるばかりである。要するに、「作リマシタ」と感じさせるだけですでに失敗なのである。上手い歌は、上手いなあと思うだけで、余韻がない。読者に上手さを悟らせた時点で失敗なのである。感動の95%は技巧だという。これは正解だが、技巧を感じさせないための残り5%がたいていの歌人には欠けている。だから僕は、何度も言うのだ、現代短歌というのは、90%がインテリゲンチャの言葉遊びであると。僕は、あくまで、簡略な措辞によるストレート短歌を目指したいと思う。それが、短歌という文学が、今後生き延びていくうえでの指標となるであろう。
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自信なき人は頷きつつ喋る会議のさなかに気づきたること 井上良子
この発見の歌はいいですね。
私信でも歌のことなど送信しましたので、よかったら見て下さい。
以前、黒田さんが書いていたように、幾つもの章に分けていたり、また、収斂に欠けた歌集がこの頃増えたような気がします。短歌とは、「歌」と書く訳ですから、リズムがなくてはいけません。黒田さんのいう韻律を僕も重視します。
メール拝読しました。返信しましたのでお読みください。現今の歌集の章の多さには本当にうんざりしています。まったく邪魔です。なんで歌集にこんなに章が多いのか、いくら訊いてもだれも教えてくれません。雑誌に掲載したものをそのままよせ集めて、一冊としての構成もないまま読まされてはこちらがたまったもんじゃありません。歌集にするときはもう一度構成をやり直し7章以内にまとめるべきでしょう。オマエら、啄木の「一握の砂」を読め!なに、とっくに読んでるだと?じゃあなにも学んでいないってことだな。結局、いつも僕が帰っていくのは啄木である。「一握の砂」は、何十年たとうと読み継がれる名歌集だろう。
『一握の砂』のような歌集はこの先、なかなか出版されないでしょう。
構成をやり直すよう指示する人はいる筈だと思いますが。
一冊、歌集を出したら、もう歌人になったつもりの人も増えました。
私信、届いてないんですよ。
遅いのかもしれないですね。