手の甲にもう一つの手が貼りつくを剥がさむとして声上げて醒む 花山多佳子
これは、他者というものの気持ちのわるさを詠ったものだと思う。夢のなかでべつな人体にまとわりつかれてどうにも不愉快だった経験は誰しもあるのではないだろうか。夢のなかでの自由のきかなさが絶望感へとつながる、なんともやりきれない夢だ。夢という私的な場所に現れた得体のしれない不快な肉の感覚。それが端的に詠われており、平易に解釈できる内容だ。ところがこの歌を、「短歌研究」一月号「短歌季評」の対談において、出席者佐佐木幸綱がこう評している。
>佐佐木 こういう歌は普通は恋愛の歌っぽくなるんだけど、この人はあんまり恋愛っぽくならないね。最近の女性は、五十代でも、恋する女性の歌を作るけど、花山さんはしっかりお母さんとか(笑)
また、この歌における「もう一つの手」のことを、「普通だと男の手かと思う」とも言っている。僕に言わせれば、まったく読めていない発言としか思えない。
まず、歌人花山多佳子の全体像(佐佐木がそれに不案内ということはまず考えられないが、もしそうだとしたら不勉強である)のどこに、母性や女性性があるというのか。たとえばこれが河野裕子や栗木京子ならわかる。花山多佳子という歌人は、そもそも女性が押しつけられがちなジェンダーの網から奇跡のごとく自由、悪く言えば母性もへったくれもない歌人である。松村正直は、佐佐木の季評に対して、「歌を読む姿勢がなってない」と言っている。これはかなりお行儀のいい言い方であり、俺はお行儀がわるいのではっきり言う。佐佐木幸綱よ。歌人その人の資質をまったく見ることなしに、印象だけで勝手なことをほざくな。男歌の旗手と呼ばれ、雄渾な男性性を輝くばかりの表現力で詠ってきた佐佐木先生は、あいにく、女性というものをどうしても母とか妻とかでなければ処女とか娼婦とかいった役割でしかとらえられず、恋愛や家庭や母性とぜんぜん関係ないとこで存在するものがたまたま女性である、ということに対して、像が結べないのではないか。貴方のこの季評を読めば、口には出さねど、女性というものをワンパターンで旧態依然なとらえかたしかしていないのだな、と思わざるを得ない。た××ま×みたいな、表面的な女性性だだ漏れ(お母さんにもなったしな、ケッ!)な歌人は大好きでも、花山多佳子のようなシニカルさは理解できまい。僕は、「短歌研究」の作品季評という、3人がかりでの対談形式での短歌評というものをまず読まない。「短歌研究新人賞」も、茶飲み話まるだしの生ぬるい決定選考会の対談はかったるいし、ろくに候補作を読んどらんのではないかと目を疑いたくなるような発言もしょっちゅうである。勝手な推察だが、松村はこの対談形式の歌集評というものが持つ、だらけたなあなあな雰囲気にも苛立ちを感じ、それが角川「短歌」三月号「歌壇時評」における佐佐木批判へとつながったのではないか。
その松村の歌壇時評に対する佐佐木の反論、角川「短歌」最新4月号「批評と礼節」の中には暴論が見られる。佐佐木の知人なる人物がこうおっしゃられたそうだ。
>「この松村という人には、結社派閥的な思い込みがあるのかもしれないね」
俺は激怒した。こいつは佐佐木に殿ご注進と松村の時評を言いつけたやつでもあるらしいが、どこのどいつだ名を明かせ佐佐木コラ。自結社の歌人が不当に評されていると思ったとき、援護射撃をするのは結社仲間として当たり前であり、それのどこが結社派閥的な思い込みだというのか。そんなことを言えば結社というのはそもそもが派閥であり、自結社の歌人をほめたり擁護したりすれば全部派閥的な思い込みということになってしまうではないか。また佐佐木は、「なにか発言したいのであれば『塔』以外の作品を例に発言すべきだ」と書いていて、もうどこが滅茶苦茶か言う気もうせるくらい滅茶苦茶である。語るに落ちるとはこのことだ。
当ブログは、普段かなり批判的なことを言っているが、それでも僕は読者というものを意識し、(そうは見えないだろうがそこが技である)冷静に計算してやっているのである。ところが、佐佐木幸綱のような一流歌人ともあろうおかたが、感情をまるだしにしてこれ以外にも暴論をいくつかかましているのだが、いちいち取り上げるのも馬鹿馬鹿しい。一線級歌人の理性というのはこの程度のものなのか。要するに、松村が三まわり近くも下の若手歌人であり、その若造にタメ口で批判を受けたことが我慢ならなかったのだと邪推されても仕方がない。タイトルに「礼節」とあるのが笑わせる。批評における礼節をわきまえていい年齢なのは佐佐木さん、貴方のほうであり、松村ほどの若さにしては、まだ生意気が足りないくらいに僕は思っている。
佐佐木に対して、松村の再反論を掲載することを角川「短歌」に対し、この場で要求する。いろいろ噂に聞くが、一線級歌人と言われている連中ほど、ちょっと批判されただけでヒステリックにわめき、理性を欠いたことを言いちらかすというのは、どうやら事実らしいと今回のことでつくづく感じた。これに関してはもう少し書いていきたい。佐佐木の反論を読んで思ったが、当「安輝素日記」の罵倒文のほうが冷静かつ理性的であり品がある。諸君もそう思われるであろう(笑)。
今日のMYビデオ
「地獄」(昭和35年新東宝、中川信夫、美術・黒沢治安)天知茂、三ツ矢歌子、沼田曜一、中村虎彦、大友純、宮田文子、嵐寛寿郎
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黒田さん。表記は「佐佐木」が正しい。
さて、小生も『短歌』四月号を読んだが、正直言って唖然とした。氏の松村正直氏へのもの言いがあまりに下品だからである。「正直」云々。「お前」という表現etc. まるで逆上した権力者のようではないか。礼節を言うなら、数多の『短歌』読者を不快にさせないという、礼節もあるだろう。あんな文章を読んで嫌な思いをしない人は少ないだろうよ。あーあ、こんな男だったのか、という思いである。
今回の論争のポイントについては、大辻隆弘氏が青磁社の「週間時評」に書いているようなことだと思う。一つだけ言わせてもらえば、佐佐木氏は「嘘」という批評語について、正岡子規を持ち出して正当化や権威付けするのは止めた方がいい。
「虚構」や「フィクション」というタームがなかった明治期の発言を持ち出してどうする。「嘘」という日常語の「生(なま)」が批評にそぐわないからこそ、現代では「虚構」や「フィクション」を使うのだ。そんなことは、佐佐木氏は百も承知のはず。にもかかわらず、あえて批評の際に「嘘」を使うからには、なにかしらの悪意がある、と松村氏に思われても仕方がないではないか。違いますか?
いずれにしろ、この問題に関する佐佐木氏の文章は、代表的歌人といわれる人にしては、あまりに下品で、『短歌』読者に対して礼節を欠いている。猛省すべきだ。
でも、あーあ、これで無名な歌人と若者をそっくり敵に回したような…
ご指摘ありがとうございます、たびたびで面目ない。あとで表記を直しておきます。それはさておき、佐々木もとい佐佐木幸綱の文章はご意見のとおりみっともなく、男を下げたと僕は思います。
>ふゆの様
もし機会があれば読んでみてください。是非はともかく、短歌論争的に真摯な野次馬としてものすごく面白いです。
松村さんが書かれた歌壇時評を読んだ時、歌壇って、こういうことをかける公正な場所なのだと思った少し嬉しくなりました。
で、角川短歌での反論。と言うか、ごり押しと言うか…
哀しい。