2007年04月19日

758 多様な肉体感覚

 短歌には、作者独自の肉体感覚というものがあってほしい。それは、手がどうの足がこうのではない。その人の生理と結びついた世界の把握の方法だ。この肉体感覚のない歌というのは非常に希薄で魅力が乏しく、読み手を惹き付ける引力に欠けると僕は思う。

この病室に妻逝きすでに九年経しドアの取っ手に手触れて帰る 相沢大也

 これはいい歌だ。妻が死んで九年経った今も、その息を引き取った病室に作者の思いはとどまっているのだ。僕のイメージだが、作者はドアのノブを握りしめているのではなく、歩きながらそっと手を伸ばし触れて通り過ぎて行ったのだろう。そうやって悲しみを昇華させているのではないか。結句がいい。ドアの取っ手を「握りて」とか「掴みて」では全然ダメだ。手でそっと触れて終わらせたところに、かえって深い悲しみが滲み出ている。ドアのノブにそれを凝縮させたところが素晴らしい。このような肉体感覚の表現は、あるようでいてないのではないか。

手を振れど気付かれざるに下がりゆく右手はしばし髪に触れおり 永田 紅

 これも、手の動きというものを鮮やかに表現している。手を振った相手は恋人だと僕は解釈する。つまりこれは、相聞歌として鑑賞した。人ごみの中に見つけた相手に手を振る、なのに気付いてもらえない、これはなかなか行き場のない、さみしい気持ちである。周りに人がいたりするとさらに恥ずかしい。猫はなにか失敗したり、ばつの悪い思いをしたりするとさかんに身づくろいをするが、そうすることで自分を慰撫し傷ついた心を修理しているのだろう。髪、というなめらかでエロチックな装置に手を置くことで、作者は破片となった世界の回復を待っている。作者の、髪を撫でる手の動きが目に浮かんできて、エロスを感じる。短歌は刹那を詠う詩型だと、つくづく思うのだ。

十歳も若き女性への入浴介助チェア―に座しし腰の艶く 村木幸子

 これはある意味、問題歌だと思う。まず、どういうシチュエーションなのか。介助を受けているのは作者より十も若い女性だという。作者の年齢はわからないが、人の介護をしているということはまだまだ足腰頑健な年齢であると見ていいだろう。それより十も若いということは、老人介護でないことは確かだ。なんらかの障害か事故で、体が不自由なかたとの光景だろう。これは、女性が女性の肉体を見て詠っている作品である。そこが強烈な印象を残すのだ。下句の、「チェア―に座しし腰の艶く」というのが色々な思いを喚起させる。最近ようやく少しだけ陽が当たりかけてきたが、障害者の性(性行為、というだけの意味でなくその存在性全体)はこれまでないも同然であった。しかし障害があろうがなかろうが肉体は成熟し、性欲も発現するし肌はつやめいてくるだろう。介護の現場には、車椅子の人をソープランドに連れていってあげたり、または障害者を対象に絞った出張風俗も存在するという。それと逆行するように、障害者に性などないとか、いっそ手術してとってしまえというひどい意見もまだまだ主流であるらしい。この歌は、障害と性というデリケートな、どう表現してもだれかを傷つけそうな題材を、作者当人が感じた女性性の耀きというポエジーでくるむことに成功している。これについては言いたいことがものすごくあるのだが長くなるので泣く泣く割愛するのである。おヒマなかたは、「スカヤグリーグ」というかなり前の小説をアマゾンか古本屋で探してご参照ください。この歌で介護されている女性には、性体験の現実はないように思える。だからこそ、結句の「艶く」に、生きられることのない女性性への同性の悲しみを感じるのだ。こんな視点の歌を読んだのは初めてで、驚いている。問題歌である。このテーマは、ある意味短歌にとって金脈であると僕は思う。
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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