2007年04月20日

759 強固な「われ」の復権を〜「現代短歌最前線」新響十人のくだらなさ

 「現代短歌最前線・新響十人」なる本を読む。「新響十人」とあるが、北めい社(字が出ない)は、いったいどういう基準でこの十人を選び出したのか。もっと魅力的で実感的な歌を歌う若手歌人がいくらでもいると思うよ、俺は。もとから注目している何人かを除いて、ことごとく前衛短歌のなれの果ての修辞遊びだとしか思えない。生活実感というものがゼロである。こいつら、いったいどんな生活を送っているのか。メシくってへをこいてクソをしてセックスする同じ人間とはとおっても思えないような、絢爛豪華な修辞のかずかずをあやつってくれている。小さなコロニーの中でなければ共有され得ないようなひじょーにつまらない矮小な感情を、さもさあ私繊細で敏感でしょう、とでも言いたげに恥ずかしげもなく提示している。大きな世界との接点は皆無で、そんなもの最初から排除しておると言いたいのだろうが、なに、そううそぶける自己の環境の貧血的貧しさに気がつかないだけである。この情念の細さは、短歌には全く不要である。このような連中を短歌界のホープに選びだした北めい社(字が出ない)というのも大した出版社である。
 歌と一緒に評論が収録されているのだが、黒瀬珂瀾(しかし出にくい字だ)の評論はまったく意味不明である。まあようも言葉をこねくり回して理屈のないとこに理屈をつけるものである。理屈と膏薬はどこにでもつくというが、膏薬がつかないようなとこにまで無理矢理はりつけているとしか見えない。もうちょっと、読み手というものを意識して書けよな。とても真面目にとりくんで読もうとは思えない文章である。つまりこういうことか。ハムレットのように、あるいは唐十郎の戯曲の人物たちのように、世界と乱痴気騒ぎを演じたあげく自分も周りもドラマの渦に巻き込んで散華してしまうような自己のありようなんてもんはとっくのとんまに無効であり鳥肌が立つような自我のわななきなんぞ現代の短歌にはお呼びでないというのか。馬鹿ぬかせ。お呼びでないのは、むしろドラマを排除しようとする、その気取った低血圧な態度である。自己と世界の格闘が無効?そう思うのであればそもそも文学の現場から撤退するがいい。桐一葉落ちるにもストーリーを感じることのない自分を、世界との関係性で変容しているわれとかなんとかだまって自己陶酔しておれ。人に読ませようとするな。世界は「われ」ごときで変容しないし「われ」の方だって同様である。両者の間には果てなき闘争のドラマがあり、それが無化されたかに見えるんだったらいっぺん視力の検査に行きたまえ。これほど自明なものがなぜ見えないというのか。フランスのインチキ野郎の前世紀最大のサギであるポストモダンという妄説に今頃になってしがみついている。黒瀬さん、あなたと師匠の春日井建との違いを申し上げよう。春日井氏の歌はとにかく艶っぽく、その官能に普遍性がある。僕の好みではないがやはり強烈に惹きつけられる。あなたの歌は、官能に踏みこもうとして、官能になにより肝心な、自分と相手への多情多恨がない。痴情の縺れがない。春日井氏にはゆるぎなく代替のきかない強烈な「われ」がある。貴方の歌にはそれがない。自分はそれを離れたところから出発しているのだと言うのならそもそも文学をやる意味がどこにありますか。文学とは私怨の結晶である。これのない短歌など、単なる言葉遊びであると俺ははっきり断言する。
 黒瀬氏は、世界というのは、関係性あるいは関係性の欠如しだいでいくらでも変容していくあやふやな物だと思っているように見える。実に甘ったるい見方である。世界というのは、生半可な夢想家が、いくらおれとの関係性次第だと思いたがってもどっこい、そうはいかない強固さを持っている。本当の夢想家、幻想者というのは、世界のどうにもこうにもゆるぎない強固さを骨身に沁みて知っている。なおかつそれに抗おうとする自我のあがきこそ貴重であり、この戦いは決して終わらず、古くなることもない。黒瀬氏の論はまったくの空論で、目の前で実際に撃ち合いが行われているのにまだ戦争など存在しないと言いたがる学者のおめでたさ。蝶になった夢を見た哲学者は決して哲学者になった夢を見た蝶ではない。夢のなかでトイレに行きたくなればすぐわかるだろう。
 今、歌壇に必要なのは、強固な「われ」の復権である。黒瀬や加藤治郎のごとき、修辞遊びに徹する時代こそすでに終わっている。僕からすれば、雑音であり、これらを持ち上げる歌壇ジャーナリズムというものも消えていただきたい。今、歌壇に求めれらているのは啄木的私性の戦いである。短歌は、啄木に還るべきであると、僕は真剣に思っているのである。いずれにせよ読者諸君、この「新響十人」、わざわざ買って読むほどのことはない(買うやつもおらんと思うけど)。松村正直、笹公人はこの顔ぶれのなかでは例外的に際立っているが、読みたければ彼らの歌集を買ったほうがよほどためになる。あと永田紅、生沼義朗もまあまあ。あとはいらん。
ニックネーム 茶トラのみんく at 22:34| Comment(13) | TrackBack(0) | 日記
この記事へのコメント
「われ」の復権は、ポストモダンが失墜したというよりは、ポストモダンな状態が徹底化したとき(つまり現在もしくは近未来)にあらわれてくるものだと考えます。ポストモダンとポストモダニズムは区別すべきです。後者は「一時期流行した考え方」を指し、前者は現在にいたるまで流れている大きな潮流を指します。

現在でも「われ」とか「紛争」というような「大きな物語」はたくさん生産されていますが、「何が何でもその物語を全員が共有しなければいけない」という共有化圧力が無くなったというのはやはり大きいと思います。つまり「われ」に徹底して短歌を作っても言葉遊びをやっても「そうでなくてはいけない」というものが無くなったということです(どれを選んでも表現者の自由、ということです)。

すみませんこれ以上頭がまわりません。
Posted by 松木 秀 at 2007年04月20日 23:19
黒田よ嘆くな!
今は雑多の短歌界だ。
くだらんものもそのひとつ。だから、泣くな。
だいたいにおいて新響十人て若く歌は未熟者。
松村、紅、笹、はそう、生沼はましかもしれん。
からんも未熟。
だが、黒田、彼らよりお前の方が未熟。
しっかりましな歌つくる歌人になれ。
下手な歌つくっていて吠えてもどうにもならんぞ。
Posted by ごんぞ at 2007年04月21日 08:10
「下手な歌つくっていて吠えてもどうにもならんぞ」

それはないだろう。匿名で他人の歌を貶めるのはみっともないぞ。それに、優れた小説家自身しか文芸評論できないと、言っているようなものだ。歌作と評論とは別物。作らないからこそ見えるものは、あり得る(黒田氏は作っているが)。
「ポストモダン」の思想家たちに問題があるのではないだろう。構造主義の批判的継承ののなかで、フーコーもドゥルーズもデリダもみな、世界に明確に関わってきた。安直な進歩思想や傲慢な「ヒューマニズム」を暴きたて、西洋中心や男根中心に異を唱えた、彼らの功績は素直に認めるべきだろう。
問題は、日本のインチキゲンチャどもが、「大きな物語の終焉」や「中心不在」を捻じ曲げていることなのだ。彼らはいまだに「ポストモダン」を風俗化して気取っている。世界をナメているだけの連中なのだ(事実はその逆なのだが)。
要するに相対主義というニヒリズムなのだ。彼らの場合、ものごとを相対化してそこで終わってしまうから、世界はおろか自分も信じられないなどと言いつつ、結局は自分しか信じていないという、愚かな連中なのだ。
だから、彼らの(例えば、黒瀬何某の)歌は、ただ浮遊していて、自己満足あるいはその裏側としての自虐にどっぷりと浸っている。つまり、社会性を著しく欠くのはもとより、他者(自分の分身のことではない)というものも読み手には見えず、他者らしき者が作中にあっても、ほとんど人格が無い。この点、まったく黒田さんの指摘の通りである。
さらにどうしようもないのは、この世の中に、「無色透明の立場」があると思い込んでいるらしいこと。世界における自分の立ち位置は、悲しいまでにマークされているのに、彼らには見えない。典型的な上澄みのインチキゲンチャたちである。
黒田さんどんどん吠えよ。いきなり石川啄木に行くかなあ、という気はするが、世の上澄みのような、インチキ野郎たちは、キッチリと論破すべし。空疎な歌もどきを批判することは、大切なことだ。
Posted by 佐藤和樹 at 2007年04月21日 18:46
>ごんぞ様
 下手な歌で大きに悪うごぜえました。ただ、俺は自分にしか作れない歌を作っている。下手は承知。上手い歌って、ナニ?だいたい想像はつくけどね。順列組み合わせで誰でも作れるような。頭でね。くだらんだけだ。
>松木様、佐藤様
 ご意見ありがとうございました。この十人を選んだ基準というものが知りたいです。若手歌人でいいのがもっとたくさんいるよ。角川「短歌」の「結社の有力歌人」という特集で載っていた「まひる野」の二人の若手女流歌人の歌はよかったなあ。「塔」や「短歌人」にだってたくさんいる。この十人のなかの大多数は、上手いのは理解できるがただそれだけで、歌人としての魅力に全くとぼしい。歌集なんぞ買う気もしない。「あーそうですか」とスルーするだけである。
Posted by ひでお at 2007年04月21日 21:20
買ったがいいか買わぬがいいか、最近本屋へ行って手にとって見ることの出来なさそうなものは買わないことにしている。図書館で事足りる。
Posted by ふゆのゆふ at 2007年04月22日 17:37
順列組み合わせで上手な歌作って見せてくれ。
Posted by 源重方 at 2007年04月23日 21:25
>順列組み合わせで上手な歌

 そんなのいくらでもあるだろう。今ふうの歌を作ってみせろというなら作ってやるぜ。そんなくだらんことをやらせといて、まさかタダとは言わんだろうな?いくら出す?5首50万で手を打とうじゃないか。
Posted by at 2007年04月23日 23:04
>順列組み合わせで上手な歌
 そんなのいくらだってできるだろう。作れというなら今すぐやってみせてやるが、まさかタダとは言わんだろうな?いくら出す?5首で50万て手を打ってやるがどうだ?
Posted by ひでお at 2007年04月23日 23:06
>この十人を選んだ基準というものが知りたいです。

結果としてこの十人になってしまった、というのが私の察するところです。打診したが断られたというケースは多分にあるでしょう。
ちなみに、4月28日に北溟社主催で『現代短歌最前線新響十人』刊行記念シンポジウムが開催されるそうですから、その辺のところを探ってみてはいかがですか。
ご存じのとおり、当該書籍を編集された山下雅人氏は「短歌人」に所属する<仲間>です。何か情報が得られるかもしれません。
Posted by 村田 馨 at 2007年04月24日 03:57
>村田様
 コメントありがとうございます。村田さん、僕もそうじゃないかと薄々思いながらも言うのをはばかっていたことを言ってくださいましたね。嬉しいです。ところで山下氏は「短歌人」のかたなんですか?所属されていたことは知っていましたが、ここ最近まるで出詠がないので、やめたとばかり思っていました。山下氏の歌は知っていますが、あれほどの人がどうしてこのような本に関わってしまったのか、それが不思議です。というか、納得できません。
 今後とも村田さんの貴重なご意見をお待ちしております。
Posted by ひでお at 2007年04月24日 21:41
ポストモダニズムの打ち出した命題は「問題解決装置としての〈大きな物語〉は喪われた、だが問題は依然として現存する。」だと思うのですが、どうやら我が国では「だが」以降がないことにされて〈大きな物語の喪失〉のみが声高に叫ばれてる感がありますね。
「おとななんてこわくないやい」と子供が嘯いているみたいなもんですが、じゃ、おまえはどうやって問題解決するんだ?という話になったときには「ぼく知ーらない」と逃げるか、「ほんとはこんなの嘘だけどさ」といいながら「おとなごっこ」するしかないんですよね。
Posted by 今小路朋彦 at 2007年04月25日 12:59
今小路さん。
よくわかります。でも、ものごとを相対化してそこで終わってしまう連中よりは、はるかにマシではないでしょうか。彼らは居心地のよい「中和世界」から抜け出し得ないのですから。
ここらあたりのことについては、仲正昌樹がいつも面白いことを言っています。また内田樹も折に触れ、発言しています。
この二人は、「相対主義」に陥っていない、数少ない日本のポストモダニスト、のように思えます。一般人にも解かるように、「脱構築」や「他者」について説き進めてくれてもいます。
いちばんたちが悪いのは、短歌の評論などに、ポストモダニズムのそれらしき言葉だけを持ち込む連中。例えば大辻隆弘。読んでいて、無理筋だなあ、と思ってしまいます。言葉を使うのならば、もっと勉強してほしいものです。
 
Posted by 佐藤 at 2007年04月25日 15:40
>今小路様、佐藤様
 コメントありがとうございます。ポストモダンとポストモダニズムは違うというご意見もありましたが、おそらく今から勉強しても違いがよくわからんと思います。演劇にたとえれば、新派と新劇の違いみたいなものかな。いずれにせよ、短歌でポスモダンを標榜する連中は甘えきっています。なんで理論で短歌をやらなきゃあかんのだ。理論が生かされてさえいれば自分の歌は許されると思う甘ったれた連中なのでしょう。またその手の「ホープ」が出てきたら叩きのめしてやろうと、手ぐすね引いて待っています。
 しかし、河野麻沙希はどこに行ったんだろう。
Posted by ひでお at 2007年04月26日 21:25
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