藤沢周平「白き瓶」を読了する。実に面白い。「アララギ」初期の頃の長塚節、伊藤左千夫はじめ、短歌黎明期の人間模様が見事に描かれている。僕が感心するのは、長塚にせよ伊藤にせよ、病苦、借金苦等、他人から見れば「よく文学なんぞやっとりますな」と言われるくらい悲愴な境遇のなかで短歌に打ち込んでいるということである。ただ、僕の経験から言えば、これは少しも不思議なことではない。僕も、最近、金銭にまつわる大変なトラブルを抱え、忙しい毎日だ。しかし、不思議なことに、そのような苦悩のなかで短歌はどんどん湧き上がってくるし、また、「塔」「短歌人」の結社誌を読むことで精神の均衡を保っているのである。短歌とは、そういう文学なのではないか。平穏な日々のなかで原稿用紙を睨んでいたって歌はできない。実際、僕が歌ができるのは、激怒したとき、失意のとき、仕事中のトラブルのとき、そういう時に僕は短歌を殴り書いている。僕は、推敲というものを全然しない。推敲するのは、自分の作品が結社誌に載ってからだ。活字になって、どうも居心地が悪い歌だなあと思ったときに初めて推敲する。だから、僕の短歌は、すべて激情の赴くままに殴り書いた短歌だ。それが真の生活詠というものだろう。ただ、旅の歌だけは違う。僕は旅に出たときだけは、アララギ的方法というものを強く意識する。僕は、佐藤佐太郎の大ファンである。旅行に行くと、僕の頭佐太郎モードに切り替わり、時間をかけて作歌する。そのなかから、五首ピックアップさせていただく。
真昼間も暗き安曇野粉雪(ゆき)降りて宿に着く頃ささら風巻けり 黒田英雄
湯治場の茶店に甘酒飲む客の口重くして晦日は暮るる
行く車あらぬ峠の曲線にともしび泛かぶ真暗き山の夜
朝風呂の長方形に陽は射してとどのようにぞ浮びて欠伸す
源泉に翁が三人(みたり)目を閉ぢて修行するがに微動だにせず
これらの歌は、相当時間をかけて作った。これも、「塔」に入った影響だろう。「アララギ」短歌というのは無視できない。佐太郎をはじめとしていい歌がたくさんある。ただ、旅の歌以外の俺の歌はほとんどなぐり書きである。歌というのは、それでいいと思う。思ったことを直感的に把握し、それを韻律に叩きつける、それが歌というものだ。俺は、自分の歌をストレート短歌といったが今日はもう変えたい。俺の歌は、殴り書き短歌である。
今日の六首
増してゆく癌細胞は脳侵し苦しみさへも叔父に与へず 南條暁美
前髪を切りし断片が目に入るを取りてやれども痛がりもせず
わが遺産いかにするかと叔父は問ふ全てなくししことを忘れて
渡されし叔父の時計を握りしむ眼みひらき夜半逝き給ふ
この部屋の布団、本、鍋不用にてトラック二台に積みて廃棄す
人に要るものは一体何ならむ空つぽの部屋に我一人ゐる
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そんなことでいちいち血圧をあげるのは体に悪いぜ!
黒田さんだってやられたらやり返すでしょう。
普通はやられる前にはやりませんから、「やられたらやり返しますよ」これはヤクザじゃなくても単純な人ならやりかねない行為とみなした方がいいと思いますが。
ご指摘のかずかずに対しての答えはすでに何度となく日記中で述べておりますので、いちいち詳しく答える必要を感じません。なお、似たような内容のことしか書けない場合は、退屈ですので削除させていただきます。僕は誹謗中傷の類いは一つもやっておりません。すべて冷静な批判です。ただの罵詈雑言なら、ここまでこのブログは読まれていないと思います。1日1000以上というのはちょっと多すぎると自分で思うくらいです。貴方がたには逆立ちしても真似できますまい。悪口だからアクセスが増えるというものではありませんよ。ともあれ、皆様その怒りをばねに作歌にはげんでください。こんなところで時間をつぶさないでね。いやならアクセスしなければよろしい。
負けないで下さいよ。いつ頃からか楽しく読んでいますから。お世辞なんて必要ないですからね。
自分の思った通りに書けばよろしいんじゃない?
この程度の暴言なんて屁でもないですよ。むしろ、甘くて個性がなくてまったくなまぬるくなんのキックもない。僕はいつも、失笑しながら読んでいます。歌人というのは非常に打たれ弱いようですが、芝居の世界における罵倒に比べたらあくびが出ます。今後ともよろしく。