藤沢周平「白き瓶」のことに昨日の日記で触れた。長塚節は、政治好きの親父の借金のせいで、家業が傾き生涯苦労し、そして自らは、結核という不治の病をわずらいながら異常なほどのバイタリティーで日本中を旅して回っている。伊藤左千夫は、無計画にぼこぼこぼこぼこ八人も九人も子供を作り、同じく借金を重ね、そのあいまに若い娘っ子への相聞歌なんぞ作っている。長塚と伊藤の関係が面白い。伊藤の、傲慢で独裁的な性格に、嫌気がさしながらも長塚は彼から離れることができない。それは、その粗野な伊藤が時おり見せる的確な批評眼を評価するがゆえに離れられないのだ。いろんな意味で、深読みのできる関係である。そういう、シビアな状況の中でも、彼らは一銭にもならないどころか持ち出しで結社誌を出し続けしかも短歌に命を張っているのである。僕は、短歌とは畢竟こうした文学なのだろうと思っている。
さる事情から、僕の銀行預金から壱千百八拾万という大金が消えた。他人から見れば、「アンタそんな状況でよく短歌なんぞやっていますね」と言われるだろう。事実、僕はそんなシビアな中でも歌を作り、「塔」「短歌人」の秀歌選名歌選をやり、この日記もまめに書いているのだ。逆に言えば、短歌をやっているからこそ、なんとか冷静を保てるのであり、そうでなかったら半狂乱になっているだろう。短歌というのは、人を妙に冷静にさせる力がある。だから、長塚、伊藤の気持ちがなんとなく理解できるのである。どんなひどい目にあっても何かしら歌の題材になるのではないか、といういい意味での逞しさが常に心の底に居座って、結果的に狂うことから防いでくれているのである。短歌とは、そういう力を持っている。
なぜか今、佐藤佐太郎の歌が心にしみる。アララギ短歌恐るべしである。僕は、藤原龍一郎と佐太郎を足して、僕の視点を加味した歌を作れないかと真剣に思っている。藤原氏と、佐太郎の共通点はちゃんとある。ともに都市を詠んでおり、また、無骨さもこの二人には共通している。アララギなんぞ、歌を始めた頃は無視していたが、やはりその伝統の重みは凄いと思う。アララギを加味しながらも僕は僕の歌を作っていきたいと思う。
今日の六首
とりかへしつかぬ時間を負ふ一人ミルクのなかの苺をつぶす 佐藤佐太郎
すさまじきものとかつては思ひしが独笑(ひとりわらひ)をみづからゆるす
天井にとまれる夜の蝿いくつ休息のかたちゆゑに憎まず
悲しみをしづめゐるとき蝿のとぶ短き音も身にしみて聞く
舗道にはいたく亀裂があるかなと寒あけごろのゆふべ帰路(かへりぢ)
わたくしの心みだれて生けるもの死にたるもののけぢめさへなし
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