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「塔」誌に掲載された作品からさらに僕がピックアップした歌を改めて読み返し、体が熱くなり、おののきを止められなかった。そのとき日記にも書いたが、とにかく彼女はスケールの大きな歌人である。その存在そのものが「うた」たり得ている、稀有な表現者なのである。新人賞を狙って、流行語に弱いジジババ審査員をたぶらかす(「短歌研究新人賞」のことだよ!)、カマトトぶった詠いかたしかできないせこい連中とは雲泥の差である。いや、新人賞だのなんだのから、遠くへだたった血を吐くような内実があるからこそ、彼女の歌は短歌たりえているのである。いいか、俺は、低血圧で脳死したような若手歌人なんぞにこれ以上出てきてほしくはないのだ。だから有友は、俺にとって女神なのだ。べつに彼女当人に会いたいとかどうこうしたいとか、そういうことを言っているのではない。とにかく彼女の歌が読みたいのだ。たとえ凡歌でもいい。僕は、有友紗也香という歌人に惚れたのであり、その人から発せられる言葉は、なんであれ甘露なのだということなのだ。「歌人の魅力」とは畢竟こういうものを言う。その人個人に強烈な魅力がある、ということが重要なのだ。河野裕子氏などはその典型である。
有友紗也香は、僕に映画「天使のはらわた」シリーズの普遍的ヒロイン「名美」を連想させる。「天使のはらわた〜赤い陰画」で、ブルーフィルムに映った名美に命がけで惚れる蟹江敬三演じる「村木」の思いがよーく解るのである。僕も紗也香のためなら彼女の「村木」となり、疲弊して地の果てに斃れようとも悔いはない。それは、彼女の短歌の世界に溺れ、それを普遍化するために人生を捧げるという意味である。有友紗也香という女性は、歌を詠うために生まれてきたような女(ひと)だ。それは、俗世での幸福とは切り離された人生かもしれないが、それが、短歌の神が指名したものの運命である。その神はあまりにも惜しみなく奪う。「サラダ記念日」ごときに刺激され、「これが短歌というものならアタシだって歌人だわ」程度の認識で短歌もどきを始めた連中には、有友紗也香の世界は「クラ〜イ、オモ〜イ、ふる〜い」としか映らないだろう。馬鹿どもが。
去年の6月ごろに比べて、当ブログのアクセス数ははっきり言って倍に増えている。しかし、日記の内容は、この当時のほうが現在よりわれながら面白かったと読みかえしてみて思う。ぜひ、この日記を読んだかたがたは、上記アドレスをクリックして、有友紗也香の世界に触れてほしいと切に願う次第である。今夜は眠れそうもない。
ところで、そもそもなんで紗也香タンが「塔」に入会したのか、そのへんがよくわからない。僕は、あえて彼女が入るとすれば「短歌人」のほうがよかったのに、とつくづく思うのである。選者は藤原さんか西王さんがいいだろう。彼女の情念と凄艶は、「短歌人」のアナーキズムにこそふさわしい。
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ありがとうございます。紹介したかいがあります。「サラダ記念日」、あんなものはクソです。「サラダ記念日」というよりも、「さなだ(虫)記念日」と言うべきでしょう。あれはまさに歌壇のクソでありクソなればこそ寄生虫を多く発生させました。歌や文学にとってなんのメリットもありません。あれで歌を始めた馬鹿どもは歌壇のさなだ虫、にも劣るぎょう虫だと僕は思います。現状賛美だけに満ち満ちた、文学性のかけらもないクソ歌集です。同じ作者の最近歌集「プーさんの鼻」も同様に、自分の境涯に対する批判性のなさ、文学的視点のなさが相変わらず気色がわるく、詩人の魂がもとからないことを露呈しています。ただしなぜか、俵万智の好きな歌と僕の好きな歌がしばしば一致するのが不思議です。これは、万智ちゃんは少なくとも読むほうの才能はあるということでしょう。加藤治郎も同様、詠むほうはすっとこどっこいですが読むほうには才能を感じます。