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「黒の超特急」(昭和39年、大映、増村保造、原作・梶原季之、脚本・白坂依志夫+増村保造、音楽・山内正)田宮二郎、藤由紀子、加東大介、船越英二、石黒達也
増村保造は、高度成長期における日本の、歪(ひず)みとも言える人間の業の厭らしさと凄まじさを強烈に罵倒し、かつ魅力的に描いた作家だ。その代表とも言えるのが、この大映「黒」シリーズである。「黒の試走車(テストカー)」では、スポーツカーをめぐる産業スパイの攻防を描き、この「黒の超特急」では、まさに時代の象徴とも言える新幹線公団の汚職と暗躍を描いている。岡山の一介の不動産屋である田宮二郎が、土地ころがしで富を得ようとする汚職議員の陰謀にひとり立ち向かう話である。と言えばカッコいいが、実は田宮演じる男からして、金欲しさに、つかんだ証拠をネタに議員や関係者に脅しをかけてまわるというどうしようもない野郎である。要するにこの映画は90分間延々と、脅しと恐喝と陰謀と恫喝の繰り返しで成り立っているのだ。これが実に面白い。人間の身も蓋もない欲望を露悪的かつ痛快に描くというピカレスクの魅力に満ちている。シェイクスピアの「リチャード三世」にも比肩しうるえぐさである。そして、女に騙されて、それをネタに恐喝される唯一の善人を演じるのはやっぱり船越英二なのである。
増村は、このような人間の悪を容赦なく暴きたてつつ、その魅力に強く惹かれていたのではないだろうか。目的のためには手段を選ばない、「黒の試走車」の高松英郎、そしてこの作品の、とにかく金カネ金の加東大介が強烈な魅力を湛えているのは、芸術に関わるものとしての増村の、そこに一概に否定しえない人間の真実を見出し、描ききることへの使命感にも似たのがありはしなかったか。その作家性ゆえに、両「黒」シリーズ映画において、田宮二郎が良心の声に最後は従うという展開が、弱く感じられるのである。しかし、当時のプログラムピクチャーとしては仕方のないところだったろう。
ふゆのゆふさんから、「日本沈没」を学校映画で観せられてトラウマを負ったというコメントをいただいたことがある。しかし、「日本沈没」くらいでは甘いのである。今の20代30代の人が日本映画の旧作、例を挙げれば、陸軍内務班の私刑と乱脈さを描いた山本薩夫の「真空地帯」や、日本の重層的差別構造を描いた熊井啓の「地の群れ」を見たらどれだけのトラウマを負うであろうか。とくに後者は、タイトルバックからして、飢えたネズミの群れが生きたニワトリに遅いかかり食い殺すというシーンを延々と映し、それにクレジットをかぶせている。ニワトリは言語を絶する苦痛のなかで無数のネズミたちに食いちぎられ、惨死するのだ。熊井が、「これが差別の構造なのだ」と言いたいということはわかるがこれはやりすぎだと思う。いわゆる社会派、左巻き人権派であるはずの監督のほうがやることがめちゃくちゃであり、浦山桐郎の「非行少女」においては、ニワトリ小屋に火をつけ、あまたのニワトリどもをリアル焼き殺すのである。しりに火のついたニワトリが絶叫しつつ走り回り、絶命してばたっと倒れ、そしてまだ火が燃えている。彼らは、みずからの主張をこめた映像を作り出すためなら、動物の生命なんぞただの材料だくらいにしか思っていない。だから、正義漢というのは始末に負えないのだ。しかし、たしかにそれだけに作品はよかった。それにしてもねえ〜。現在の若者が、過去の邦画の社会派作品を見たら、小林よしのりあたりがかます日本人礼賛などに、とうてい同調はできないはずである。過去にまったく学ばないからあんな軽薄なアジテーションに騙されるのだ。ふゆのさん、「日本沈没」では甘いですよ。日本映画のリアリズムというのは凄い。今は観る機会もないが、若者に観せれば、確実にトラウマとなることでしょう。
まあ、日常いろいろあるけど、短歌を知ったのはいいことだった。こういう、人間の嫌らしさとか、社会のひずみの悲しさとかを感じたときほど、短歌を読んでほっとする。短歌とは、現実のプラグマティズムに疲弊した心を癒す韻律なのではなかろうか。
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人間の娯楽?のためににわとりがたくさん生焼けになるとは、なんか怒りがわいてきますが後でちゃんと焼いて食べてくれ、とちょっとずれたこと思う次第でした。