2007年06月27日

816 センチメンタリズム

捕獲さるる度に誰かが引取りて四丁目にゐた「あか」といふ犬 酒井久美子

 ふゆのゆふ氏から、この歌がらみで犬の思い出を語ったコメントを頂戴した。この歌は、何度読んでも飽きない。僕は、「原っぱ原理主義者」ではない。それはどのようなものかというと、原っぱでガキ大将に率いられてみんながひざ小僧をすり剥かせながら遊んでいた時代がいちばんいいのだとする歴史観だ。冗談じゃない、当時だって子供には子供の悩み苦しみがあり、近代化はなすすべもなく、ガキ大将への信頼とか人望とかの裏に差別や憎しみがあるのはみんな承知していた。公害が蔓延し、先祖代々の土地は買収され、三種の神器などというけちくさいもので庶民はけちくさい喜びを味わっていた。そんな時代なのである。にもかかわらず、いやそれゆえにいっそう、この歌には心を打たれる。あの、昭和37、8年ごろの光景を、皆、スタンダードのように語るが、実はほんの一瞬の過渡期のものでしかなかった。もちろん当時の人々はだれもそれを認識していなかった。僕は、昭和39年を境目に日本は変わったと思っている。ここから完全に、西暦が似つかわしい時代へと以降したのだ。はっきり言って、これ以降元号を使い続けることに僕は意味がないと思っている。それにしてもこの歌を読んで、こうまで胸がきゅんとなるのはなぜだろう。「あか」という名前の犬の存在がいい。この三十一文字のなかに時代の哀愁が凝縮されている。二度と帰らない、貴重だとも知らないまま失われてしまった時間を詠っているからである。なに?単なるセンチメンタリズムではないかですと?センチメンタリズム、大いに結構である。それなくして、どうして短歌が短歌たりえようか。歌で泣け。歌で思い出を語れ。歌で、二度と還らない刹那を繋ぎ止めろ。基本的に、これが短歌という文学の使命である。
 昔は、ペットなんて単純な名前をつけたものだ。私の子供時代唯一の友達だった三毛猫の名前はミケだった。隣の虎猫はトラだった。まあそれはいいとして、最近の馬鹿親どものネーミングセンスには笑っちゃうよな。アリサとエリカとか、果てはアンヌとかランランとか。こういうのは普通、源氏名かAVである。まあこれも、時代と言えば時代だろう。心貧しき時代である。「塔」には、いい名前の歌人がたくさんいる。佐藤南壬子。すごいセンスを感じる。あと何度も取り上げて恐縮だが、河野裕子、栗木京子という名前もシンプルだがすごくいい。僕は、「子」のつく名前が好きだ。だいたい、僕の祖母の世代では庶民で「子」なんかつける家はめったになく、そもそも「子」は貴族の女性の占有だったという。いまや、「子」のつく名前はシブい、といえるだろう。男の名前も、「雄大」とか「星也」とか、親の頭を検査したくなるような名前のオンパレードである。ちなみに、私の名前は黒田英雄。これも凄い名前である。これは、もちろん、私の記憶にない父がつけてくれた名前であるらしい。私を英雄(えいゆう)にしたかったのであろう。現実との格差にあきれるばかりだが、それでも雄大だのなんだのよりは、まだ昔からある名前であるぶん親のセンスはましである。

娘(こ)は母に息子は父に似るといふ父親(おや)知らずのわれに似るものはなし 黒田英雄

 父なる人物は、私の幼いときに、運転していた車を正面衝突させて昇天してしまった。彼に関する記憶は全くない。この歌の「似る」というのは顔ではなく性格のことを言っているのは言うまでもない。
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:12| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記
この記事へのコメント
昭和39年を境に日本は変わった、というのは私も感じていることでって、お前生まれてねえだろうと突っ込みいれたくなりますが、実証できないけれど感じてます。
ちなみにポリオが減って脳性まひが増えるのもこの年に生まれた人からだな、たぶん。

あとは私のHPで。
Posted by ふゆのゆふ at 2007年06月27日 08:50
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