2007年07月21日

835 見たままを詠う衝撃

卒寿にて襁褓換えるを拒みいる母は赤線に売らるるを恐れ 中尾純子

 衝撃的な歌だ。下句が凄い。呆けた母親を詠った歌はたくさんある。しかし、オムツを換えるときに、この母親は赤線に売られることを恐れて拒絶するという。こんな歌がかつてあっただろうか。卒寿というからには、1917年生まれだろう。この母親の娘時代は、1932年のあたりということになる。日本が大陸に侵略国家満州を作り、分不相応な軍事費を持ったため国民が窮乏し果てた時代である。まさに「暗い谷間の青春」であったろう。226事件を描いた「叛乱」の中で、香川京子のこんな台詞がある。「私の村で身売りしない娘なんていないわ」。実際、村役場に身売りの斡旋係がいたぐらいだ。ひどい時代である。オムツを換えるのを赤線に売られると勘違いして拒絶するのは、おそらく公娼制度のもとでは、うら若い娘が恥辱の検査を受けさせられる、ということがあったのではないか。女性には人権のかけらもなく、売れるものはひとつきり、しかも男社会はそれに向かった「女はいいよな、体を売ることができるから」などと無神経極まりない言葉を浴びせかけるのだ(未だにそういう馬鹿は多くいるが)。この母は、かろうじて売り飛ばされることをまぬかれたのだろう。しかし、友達の中にはそういう人たちが多くいたのだろう。その恐怖がずっと、この女性の心の奥深く巣食っていたのだ。それが、呆けたときになって初めて言葉になって出たのだろう。なんとも痛ましい歌だ。この母は、どんな言葉でオムツを拒んだのか。「赤線に売らんといてー、売らんといてー」と泣きじゃくったのだろうか。短歌というのは、凄い文学だと思う。たった三十一音で、日本の恥部を暴くこともできるのだ。これは物凄い歌である。

悲鳴にも似た音をたて抵当に入りし向つ家こはされゆきぬ 水口秋桜

 今度は、上句が衝撃的な歌である。家というものは、いのちを持っている。人の住まない家が腐っていくのがその証拠だ。そして、家というのは住む者の個性によって、さまざまに面貌を変える。そんな家の一軒が、抵当に入って壊されていくさまをそのまま詠っている。そのまま詠っているからこその名歌である。悲鳴、という言葉に、家と同様に打ち壊された家族の悲痛がにじみ出ている。これも、単純な歌だがそうそう作れるものではない。痛ましい絵の浮んでくる名歌である。

妻を亡くしし人十日経て出でて来ぬ許されし休暇は十日であれば 荒井直子

 これも、見たままの歌であるが感慨深い。妻に死なれるという、天地が崩壊するような出来事に対しても会社というのは規定通りの休暇をしか与えず、人の死もそれがもたらした喪失と悲しみも、生者たちが黙々と回す歯車のなかに巻きとられ、挽きつぶされていく。「それでも人生は続く」と言えば聞こえはいいが、存分に悲しむ時間さえ与えられないこの社会では、人生を真に生きることも許されていない。良く生きるものは歯車にとっては邪魔者でしかないからだ。それにしても、なんという荒涼たる光景であろうか。

その昔こころ病む人住んでをり「天文学者」と皆に好かれし 古賀公子

 これも単純な歌だが、実に味わい深い作品だ。そしてやはり、ある種の痛ましさを感じる。その人は、心を病んでいたという。しかし、周りからは「天文学者」と呼ばれていたという。その人は日常生活の知恵がまるでないくせに、星の名前にだけは詳しい人、あるいはべつな惑星を故郷と認識しているような人であったろう。ごくたまに通行人を刺したりするのがいるせいで、「狂う」ということがつねに凶暴性を伴うように思われているが、実は精神病者のほとんどはおとなしい、悲しくなるほど優しい人々である。「正常な」人間どものほうがよほど始末が悪い。下品な弱肉強食の論理と世間知に従えない者が狂人の烙印を押され、社会から脱落し「星を見る人」となってありえない故郷へ帰る日を待ち続ける。そして、このような人がまだ居場所を与えられ、皆に好かれていたのは「その昔」なのである。無用者が、人間関係の潤滑油となって皆に笑顔と話題を提供していた(同時に、「あの人はクルクルパーだから」と公言するのが許された)時代がかつてあった。彼らが居場所を失ったときにはびこるのは、汚い水だけにわくボウフラみたいな連中ばかりである。無用の人がそれでも穏やかに生きることのできた時代へのノスタルジーと喪失の痛みがこの一首にこめられている。

 現在の短歌は、僕に言わせれば、修辞まみれの言葉遊びだ。どうでもいいことを飾った言葉で体裁つけてるようなのばかりである。だから歌に力がないのだ。見たままを詠う、というのは大変難しい作業だ。作者の視点のセンスというものが問われるからである。僕は、歌というのは畢竟、どのような視点で詠うか、である。数ある短歌入門書を読むより、結社誌を読み込むこと、それが、歌の上達に繋がると僕は確信している。
ニックネーム 茶トラのみんく at 00:44| Comment(4) | TrackBack(0) | 日記
この記事へのコメント
そんなに修辞がお嫌いですか。音楽にクレッシェンドをつけるように短歌にも修辞は少し入りますが、それも否定されますか?
整理整頓も必要だし。
事実が真実だとは限りません。
Posted by ふゆのゆふ at 2007年07月22日 00:02
>ふゆのさん

黒田さんのフォローをするわけでもないですが、黒田さんが嫌いなのは「修辞のための修辞」や「必然性の無い過剰な修辞」であって、スパイスとしての修辞は、それが浮いてしまわない限り許容していると思われるのですがいかがでしょうか。
Posted by 松木 秀 at 2007年07月22日 17:35
松木さん、ありがとう、OKです。
Posted by ふゆのゆふ at 2007年07月22日 17:40
お久しぶりです。
この4首の選択とコメント、すべて納得しました。
ぼくもいずれこんな<見たまま>を詠えるようになりたいと、切に思います。
ありがとうございました。

Posted by 髭彦 at 2007年07月26日 23:28
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