2007年07月23日

837 見たままを詠ふとは。

 ふゆの様からコメントで、「事実が真実とは限らない」(大意)という意見をちょうだいしたことは昨日書いたが、これについてもう少し補足したい。
 僕は「見たままをシンプルに詠え」と常々言っている。「見る」とはなにか。それは、詩人の魂(この場合の「詩人」というのは、わかめみたいな髪型をして阿片吸ったり色恋のための色恋にうつつをぬかしてる無産者どものことをいうのではない)が、ありきたりの光景の背後に見出す、ありきたりでない把握のことだ。ありきたりよりももっと深く本質的な、日常にひそむ普遍的な、おそるべき真実とも言うべき戦慄的ななにかだ。およそアララギ派につらなるつもりの歌が凡歌からなるボタ山の様相を呈しているのは、庭の花が咲いたとか孫が可愛いとか、「どうでもええんじゃんなもなあ!」と叫びたくなるような歌が大部分だからで、そういうのを僕は「幼稚園の壁のお絵かき」とか「便所のカレンダー」とか呼んでいる。なんですと?「カレンダーはともかく幼稚園の絵はピカソ的な天才性があっていいではないですか」ですと?あなたねえ、それは「幼児=天才」という幻想に支配されているからそう思うのであって、幼児のらくがきはどこまでいっても幼児のらくがきである。真の写実詠というのは、あえて言えばまともな、自分を大切にするような精神状態では見抜けないものを見抜いたあげくのものを言う。認識せずにいれば幸せだったものを認識してしまう、詩という病が詠み手を侵し、感染させたときに現れる暗く光る真実だ。僕の選んだ写実詠を見てみるがいい。もしも親戚の集まりでこんなこと口にしたらど顰蹙を買うのは間違いない、しかし、事実としか言いようのない情景ばかりではないか。目に映る事実を突き抜けたところにある事実を詠う。僕はそれをもって、素直に詠う、と呼んでいるのである。それが魂のスクリーンに映ってしまうとき、人は初めて、詩人という名の輝かしき不幸せを手に入れる。
 そして、歌とは常にアクション(動き)を内在させていなければ駄目だ。僕はそれをドラマ性と呼んでいる。

 ちる花はかずかぎりなしことごとく光をひきて谷にゆくかも 上田三四二

 名歌の世評の高いこの歌だが、僕には評価できない。もちろん、作者の、世のよしなしごとから遠くへだたったところで詠いたい、という気持ちはわかる。ただ、この歌は、到達点は高いが、アクションがない。これは、絵にたとえれば名画ではあろうがあくまで静止画であって、映像ではない。花がかずかぎりなく落ちていくさまが見えてこないのだ。三四二の罪ではないとはいえ、この境地があまりにも気持ちがよさそうなため、これが短歌の到達点だと勘違いされ、やたらと静止画、静物画を目指したような歌ばかり目につくのである。短歌とはそういうものではない。アクション、動画でなくては、なんの価値があるのだろうか!

 夕明(ゆふあかり)ながき浜よりかへり来る家間(いへあひ)のみちは寒くなりたり 佐藤佐太郎

 この歌は、何百回読み返しても飽きない歌だ。上句と下句の対照がいい。夕焼けが徐々に色を変え、おとろえ闇に溶けていくその行程が、作中主体が浜を歩いて帰ってくる時間にそのまま重なり、光と温度の移り変わりがこのたった三十二音(字余り一つ)に凝縮され、読むものにその光景の寂しさと抒情をたっぷり追体験させてくれる。眼目は、「家間の道」という表現だ。いかにも、海に沿って並ぶ貧しい小さな家の立ち並ぶ村落の寒々しい空気が身に迫ってくるようなリアリズム。単純なフレーズだが、作者は、見たものと感じたものを同時に描写するために相当に言葉を吟味したことだろう。難しい、分からない言葉や、ひねった表現は一つもない。「こんなの俺でも作れる」と思うやつはたちまち撃沈するであろう。そしてこの歌には、作中主体の動き(アクション)が見事に表現されている。名歌中の名歌だと僕は思う。
 作者、佐太郎は、結核の療養中だったらしいが、そのような背景を知らずとも、作者の心の凄愴さというものが伝わってくるであろう。誤解を恐れずに言えば、佐藤佐太郎こそ、僕の理想とするストレート短歌に最も近い歌人である。師匠の茂吉から離れて独自の作風を確立した佐太郎は、まさしくオリジナリティに溢れつつも、無骨で写実な、アララギの本道をいった歌人であろうと思う。スタイルは違うが、僕はここに、実は藤原龍一郎との接点を感じてしまうのである。いい意味で、二人とも無骨さとシティボーイの要素を併せ持ち、その魂は純粋であり、そのことへの照れがある。
 要は、歌は視点である。当たり前のことであるが、くだらねえ視点もまた視点のうちに入る、という甘やかしが歌壇にはびこっておるのではないか。僕は、僕の短歌的視点を主張するためにも、名歌選、秀歌選を続けていきたいと思う。それは、自分の歌をアピールする以上に、自らの短歌的マニフェストを明確にする手段であると思うからである。

    今日のMYビデオ
「母娘監禁 牝(めす)」(1987年にっかつ、斉藤水丸、原作西村望、脚本荒井晴彦イメージソング荒井由美「ひこうき雲」たぶん無許可)前川麻子、加藤善博、河原さぶ、吉川遊士、上田耕一
ニックネーム 茶トラのみんく at 21:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのTrackBack URL
http://269g.jp/tb/4667661