文学とは「外れ」を描写するものであるが、その「外れ」が普遍に収斂していなくては結局は読むに耐えない。このへん誤解していて、やれ浮気をしただ麻薬をやっただと書けた文学になると思ってる手合いが(まさかと思うかもしれないが)ごまんといるが、真実というのは残酷で衝撃的である反面、ものすごく陳腐であきれるほど常識的なものでもあるのだ。たとえば、「人間は優しくて思いやりのあるのが一番」とか、「戦争はよくない」とか、「モラルを守ったほうが結局は自分のためになる」とか。1000人をくだらない相手と共演したというAV女優が、「好きな人と正常位でするのがいちばん気持ちがいい」と言ったそうである。この平凡さが真実の苛酷さであるだろう。「好きな人」を一生の間に見つけられるやつは稀である。
真実が陳腐なものだとして、それを短歌に反映させるとき、その言葉の選びが陳腐であっていいわけではない。「孫がかわいい」からといって、他人から見ればいもむし同然な薄汚い餓鬼が這っただの立っただの言って感動が呼べるわけがない。
捕獲さるる度に誰かが引き取りて四丁目にゐた「あか」といふ犬 酒井久美子
この歌は、平凡な内容を、平凡な言葉だけで非凡に表現した、秀歌中の秀歌である。共同体へのノスタルジーとそれへの賛嘆の念、文明が進んだがゆえの野犬狩りと、それゆえに存在しえた人々のやさしさが、ここまでストレートに、優しさと酷薄さをこめて詠われうることが驚きである。僕は、これこそ21世紀に残すべき秀歌だとまじに思う。「孫がかわいい」も結構だ。「家族が大切」も結構だ。なぜならそれは真実だからである。しかし、それを短歌なり、ほかの表現なりに反映させ、人の共感を得るためには、人生を知ってしまったがゆえの痛みをもそこに込めなくてはならない。基本的には、オマエの孫、オマエの家族なんぞだれも興味がないし、「ああまたか」と思うだけである。それは、陳腐な感情に溺れてはやってられない人間のシニカルさの鎧だろう。それを突き破るためには、アイロニーという槍が不可欠なのだ。短歌というのは、シニカルさの鎧を突き破るのにもっとも適した文学である。この僕がたとえば、子や妻を亡くした歌に胸ふたがれるというのはただごとではない。新聞の投書欄とかで読めば、「オマエの家族のことなんぞどうでもよろしい」としか思わないのに。
とにかく、甘ったるい歌が多すぎる。自分をアイロニカルに見る視点が欠けているのだ。酒井さんの歌がせつないのは、結局は誰も、この「あか」の保護者たることを本当には引き受けなかった、結局は保健所と近代化をすすめる国家の、庶民レベルでの加担者であったことへの自覚と痛みが感じられるからだ。もしもこの内容をいま散文で発表したら、「どうしてその犬をちゃんと保護して予防注射を受けさせて誰はばかることない飼い犬にしなかったのだ」という近代的で文明的な非難が浴びせられることであろう。しかし、そのようなお利口でくそ面白くもない正論にもまさる詩の力、それが不思議なことに三十一音という短い詩形のなかにあるのだ。僕は、この酒井さんの歌を何度読んでも飽きることはない。
短歌とは、素晴らしい文学だ。文学はすばらしいが、それにひきかえ、それを担うべき歌人は………。
![Powered by 269g[ブログ・ジー]](http://269g.jp/img/269g.gif)