佐佐木幸綱の選評が一番面白い。表題の「六千万個」を、少子化を続ける日本の22世紀の人口のことだと解釈しており、僕も最初からそれを直感していた。また、佐佐木の言う「独自の暗さを持つ視点」という感想にも大いに賛成した。が、「戦国自衛隊」という発言にまずずっこけ、僕が選歌したうちの一首「すぐ花を殺す左手 君なんて元からいないと先生は言う」をバルタン星人と解釈するに至って、俺は「ちゅどーん」と諸星あたるのごとく爆発してしまった。作者本人の作歌意図を正確に言うことはできないが、俺はこの「花」というのは、タイムトラベルを誘発する香りとして名高いラベンダーのこと、少なくとも、「時をかける少女」によって種を蒔かれたあるイメージの結実であると思いたい。と同時に、この連作に通底する、パラレルワールドの要素も盛り込まれている。たとえば、こういう歌もある。
友はもう友にはあらず公園のベンチの下に割れた鳩笛 吉岡太朗
「どこがSFじゃい」と思う向きもあろうが(あえてSFの文脈で解釈する必要はない、という意見は正しくない。意図しているかいないかはともかく、この連作にはSFが骨の髄まで沁みとおっている)、僕はこの情景に潜むSFな抒情がはっきりと見える。もう作者そのものと言っていいほど見える。この連作が持つ大きなモチーフが「音」である。表題作にしてからが「風鈴」である。音とは振動であり、リズムであり、何より耳と心に心地よくまたかなしいものである。世界というものが実体ではなく、空気が震えて音になるがごときある種の振動であるということは、科学的に合ってるかどうかはともかくすでに実感である。もしも世界のあり様に干渉できるような音楽を奏でることのできる楽器(この場合は牧歌的である呪術的でもある「鳩笛」だ)があったとして、おそらくは一度しか吹くことのかなわないそれは、友が友でなくなる世界を生み出してそのまま割れて転がるであろう。余談だが、悪名高いかの「オウム」は鸚鵡ではなく、「世界を生み出した音」の意味である。音=世界という考えは古い哲学のなかにもあるのである。吉岡のイメージのなかに、「音」というものを悲しみの器として昇華させる要素があったのではないか。これを僕は、「既視感がある」「陳腐だ」と言ったが、考えてみればそれを韻律にするというのは確かに才能である。妙な話だが、選評のとんちんかんさを読んで、逆にこれがいい作品にえてきた。なんのこっちゃ。高野公彦の、「虚無的な明るさ」などという選評は論外である。
佐佐木幸綱という歌人は、実に面白い。彼はありていに言って、体育会系70%くらいな人物だろう。長嶋茂雄と一緒で、論理的にものを言おうとするととんちんかんだが、肝心の選手もとい歌人を選び出す選球眼は動物的カンを働かせて大したものである。なぜなら、「短歌研究新人賞」は不思議なことに、佐佐木が選考委員に加わった年の受賞作はいいからである。長嶋茂雄的動物くんな要素が、場の雰囲気を読み取ってなあなあな結論で収まることを良しとせず、いやおうなく本気な討論へと持っていかれてしまうのではと想像する。
吉岡太朗の新人賞受賞に僕はエールを送る。このタイトル「六千万個の風鈴」のセンスは実にいい。なんともいえない、悲しみの音が響きあうフレーズである。昨日の意見は撤回する。実に有望な歌人の出現であると申しそえておこう。


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