いい歌だ。一読して、1969年制作の出目昌伸監督「俺たちの荒野」を思い出した。この映画に東京タワーは出てこないが、青春の痛みと挫折、という点で、この歌と共通するものがある。東京タワーに登ったことは一度だけある。もちろんエレベーターである。今はどうだか知らんが、あそこのエレベーターというのは素通しで外の鉄骨格が丸見えであり、それは近代的なような寒々しいような、最先端のような人類滅亡後のような、なんとも異次元的なものとして映ったが、そう感じるのは僕だけだろうか。毎週毎週怪獣に折っぺしょられたり、「三丁目の夕日」のエンディングを飾ったりする東京タワーは、ビルでもなく塔でもない、骨組みだけの不思議なモニュメントだ。そこを階段で昇るというのは一種破滅的な行為である。鉄骨のザルが囲むだけの狭い空間の外にあるのは無限の自由と永遠の死だ。青春の不安定て末期的な光景によく似合う。考えてみれば、若さというのはどうしてああも行き止まりで行き詰まりな感じを当事者に抱かせるのだろう。希望に満ちた若者、なんぞ本当にもしいたらさぞかし気色がわるいと思う。この歌の作者の掲載作品の残り5首も実にいい。まさに、映画のワンカットを取り上げたような、青春の持つ憤りを韻律に思いきり叩き込んだエネルギーに満ちている。僕は、青春歌とはこういうものを言うのだと思う。「短歌人」は、いい新入会員を得た。これからもこの作者に注目していく。これだから結社誌を読むのはやめられない。
えんそくでせなかのあせがハートがた はずかしいけどじぶんもわらう 上村駿介(11歳)
作者は11歳。僕は、少なくともあと九年は彼の歌を読めることだろう。彼が、どういうふうに青春の日々を詠うか、読者として楽しみだ。この歌は、ハート型の汗、という表現が実にいい。ありそうでない。こんな表現を読んだことがない。同級生から、「おまえ汗がハート型になってるぜ」とからかわれたのだろうが、それを歌にするというセンスが素晴らしく、また初々しい。また、11歳にしてひらがなを多用している。「遠足」や「汗」が書けない年齢ではないが、この場合はひらがなのほうが効果的であり、そこに詩的戦略を感じる。意識的にひらがなでまとめたとしたら相当なセンスの持ち主である。上村くん、欠詠することなく作歌に励んでください。をぢさんは、毎月楽しみに君の作品を読ませていただきます。「短歌人」は俄然面白くなった。
親日ならず親日本語であるといふ黄雲芝台湾句会率ゐて 野上佳図子
日本人は、英語の読み書き喋りはてんでダメなくせにどうしてああも英語のポップスが好きなのであるか。その99%は意味もわからんで「いい歌だ」なんて言ってるわけであるが、子宮にいるときから英語のリズムとメロディーに慣れ親しんでいて、好むと好まざるとにかかわらずそれが魂の音楽になってしまっているのだろう。こういう若者たちだって気持ちでは反米嫌米だったりするから面白い。僕もそうだが、もはや和音階や民謡の世界など逆に見知らぬ世界の、非常に奇妙で馴染めないそれである。
教科書に載っていた「最後の授業」ではないが、幼いころから日本語を習わせられ、それを母語とすることを強制された人々がいる。言わずと知れた旧亜細亜植民地である。その中でも台湾は、珍しく日本軍がさほどの蛮行をおこなわなかった場所で、戦後も日本文化全面禁止などの措置が取られず、日本人が今行っても気まずい思いをせずにすむ場所として、かのゴーマニズム漫画家にも褒められるくらいであるが、この歌はそのような脳天気に冷水をぶっかける。台湾には今でも日本語で俳句や短歌を作る会が存在し、これもそのような情景を詠ったものだが、いったい、「詩」という、魂のかなでるメロディを強制された言語で作ったほうが心親しむ、というのは途方もなく悲惨なことではないのか。侵略とは武器と流血だけでするものではない。ソフトな、本人が選びようもない幼い時期の刷り込み、という形でもなされるものなのだ。台湾における、日本の小説や漫画の翻訳はアジアでも群を抜いて優秀だと言われるが、それがどれだけ忌まわしい精神的侵略、誰も文句がつけられないがゆえにたちの悪いことであるか、それを思わせて戦慄を呼ぶ一首である。自分たちは恨まれていない、などと思ってはいけないのだ。
「短歌人」には、注目すべき新入会員が相当いる。意識的に彼らの歌を取り上げていこうかなとも思っている。とにかく、「会員2」欄が面白い。短歌は、ストレートであるべし。もって回った修辞など使うな。ストレート。これこそ短歌の命である。「短歌人」は、すこぶる面白くなりつつある。
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