また、候補作に「心の花」所属の、藤島秀憲氏があがっておられる。ペーソスあふれるタッチの短歌を作られる、僕の好きな歌人である。また、「塔」誌上で毎月お目にかかる荒井直子氏の「紙の柩」が入選している。これも喜ばしい限りだ。そして、15歳の高校生、野口あや子氏の「セロファンの鞄」という連作にも、僕は好感を持った。と、ここまでは、今年の短研新人賞がいいことづくめのような印象を語っているが、クレームをつけたい。
この賞の存在を知って4年目だが、年を経るごとにフラストレーションがたまる。意味のない、6人という多人数の選者。論戦のない、作品解説に終始する、選評に名を借りた座談会のつまらなさ。その座談会を無難に済ませるために個性を排除したとしか思えない、バラエティに欠ける最終選考通過作品群。はっきり言って、清水篤「機械室」以外は、毎年のおなじみの傾向の候補作群で、新鮮味がまったくない。これは、大半の選者がいっこうに入れ替わらないということからくる弊害だろう。今年は穂村弘氏が加わったが、焼け石に水である。もっと若手を選者に採用すべきだ!だいたいが高野公彦がここと角川短歌の選者、どっちも兼ねてるとはどーゆーこっちゃ!そんなに人材不足なのか!そんなことはないでせう。選者にふさわしい歌人を僕はたちどころに10人は挙げられる。ナンカ事情デモアルンデスカ?知ってる人がおられたらこっそり教えてくださいよ匿名で。
一番のフラストレーションについて言いたい。僕は、このお祭に3年間参加し、神輿をかついでいるが、どうにも我慢できないことがある。それは、最初にふるいにかけられ最終的に候補作が決まる過程に於いて、選者が匿名の存在であるということだ。いいですか。一人の選者がですよ、選考通過作品を抽出するまでに、候補作のうちの6分の1を、全落ち・2首どまり・佳作5首・そして最終選考通過にふるい分けるのである。他の選者が目にするのは、他の五人が最終候補に残した作品のみで、最初に5首以下に落とされた作品群はほかの選者の目にふれることはない。これはベラボーな話である。賞というのは運不運が確かにあるが、この賞の場合は、最初に当たった選者が誰であるかによって、全て決まってしまうのだ。要するに、運の割合が50パーセントと言ってもいい。この選考方式には大いに問題がある。2首止まりだったある作品は、もし他の選者に当たっていれば最終選考に残った、ということも有り得るのだ。そこまでひとりひとりの選者に権限を持たせるのであれば、当然、5首選、2首選は、誰の選であるかをはっきり明記すべきだろう。それによって応募者が納得することもあるだろうし、選者もまたその資質を批評にさらすということにもなり、新人賞全体が、密度の濃い、面白い読み物となるだろう。僕に言わせれば、選者どもは卑怯だ。自分が落とした相手に対して名を明かさないじゃないか。まったく卑怯だ。これは、短歌研究社も肝に銘じたほうがいい。すでにこの選考方式は金属疲労を起こしている。それが応募者の総数に現れているではないか。年々減っている。今年はやっと501。来年は500を切るだろう。僕は、もう来年は応募しない。このままの選考方式であれば、皆にボイコットを勧めたい。選考過程において、当否を決めた人物を応募者が知ることができないというのは不当であり、選者の怯懦の証と言ってもさしつかえあるまい。
僕たちは、選者のセンセイがたに平伏しているだけではなく、彼らがいったいどんな歌を選んでいるかということに注目し、彼らを批評する態度を持つべきなのだ。僕は、一流の歌人が一流の選者だという保障は何もないとマジで思っている。僕がこういうことを言っているのは、無意味だとあざ笑う人がいるかもしれないが、ボディブローのように、奴らに食らわせたいと思うのだ。当ブログの訪問者数を馬鹿にしてはいけない。「短歌研究新人賞」、このままでは危ない。


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だかわからないという意味では(これについて
かつて岡井隆氏が文句を言っていました)同じ
ですよね。これは歌壇賞や短歌現代新人賞もそう
ですが。もっともこれは「編集部選」ということ
で編集部が責任を取っているからいいのでしょうか。